京都の朝は、音をきっぱり分ける。
 まだ陽が浅い時間、吐く息の白がすぐ解け、解けた白だけが耳の奥に冷たさの記憶を残す。スタート地点の空気は澄みすぎていて、冷たいガラスを肺に流し込むみたいに形を持っている。沿道の声は、遠くから波のように寄せては返し、寄せては返す。波頭は拍手で、うねりは名前で、砕ける泡は見知らぬ人たちの「がんばれ」だ。

 テントの内側には、いつもの匂いが薄く漂っていた。テーピングの糊、温めたスポドリ、アルコール綿。見慣れた匂いが、見慣れない舞台に橋を架ける。
 ホワイトボードには坂上の字で、区間が黒く並ぶ。
 一区:宮内/二区:一年/三区:障害組/四区:二年/五区:及川/アンカー:高岡
 右端に小さく、遥の字で「風 北西 2m/気温 4℃」。数字は寒さを正しく言葉にする。

 坂上はキャップの庇を指先で整え、短く言った。
「ここは、宣言の場所だ。言った方向に、足で線を引く。崩れたら、直す。直らなければ、持ち直す。最後に立っていろ」
 言葉は少ない。少ないけれど、逃げ場はない。逃げ場がないとき、人は前にしか行けない。

 茜はフェンスの外ではなく、今日はコースの角で待つ。首から下げたカメラのストラップには、薄い青の布――颯真の襷の一部――が結ばれている。冬の光でさらに淡く見え、結び目だけが濃い。胸元には小さなレコーダー。風切りのスポンジが白い息を飲みこんでは、そうっと吐き返す。
 彼女は朝のテーブルで配った補食チェック表に「摂取OK」を小さく二重丸で付け、悠真の顔色を、光に翳すみたいに確かめた。
「指、冷たい?」
「大丈夫。拍で温まる」
「じゃあ、行って。音、録るから」

 一区の銃声が、京都の冬空を硬く割った。宮内は最初の百で行かない。肩の余白を確認し、風の角度を頬で測り、群れに飲み込まれないリズムを選ぶ。沿道の旗が同じ角度で震え、白い線の上に同じ影が落ちる。順位は予定どおり。差は作らないが、差を広げもしない。
 二区は一年。緊張で腕が広がりかけたが、春に聞いた「凡人の手順」を思い出したのか、二百で畳み直した。拍が戻る。ラップは計画よりほんの半拍だけ重い。それでも、崩れない。崩れないということは、襷の温度を保つということだ。
 三区の障害組は、ロードでも跳躍を忘れない。足の置きどころに敏感な人間は、起伏の気配に強い。細く整えて、差を小さく詰めてくる。
 四区の二年は器用だ。器用な走りは冬の光をよく反射する。上げどころを間違えず、風の背を拾い、襷を及川悠真へ。

 襷が手に入った瞬間、重さは二重になった。紙みたいに軽いのに、石みたいに重い。手のひらは一年かけて、その矛盾の居場所を覚えた。
 最初の十歩は、抑える。抑える、という言葉は弱く聞こえるが、冬のロードでは攻めの動詞だ。肩は下げすぎない、だけど上げない。骨盤を前に滑らせ、**“ゆるい前傾”**を作る。上体を倒すのではなく、重心の影が一歩先に落ちる角度。脚は、前に放る。蹴るのではなく、置く。置けば、地面のほうが少しだけこちらへ寄ってくる。

 耳の奥では百八十の拍。茜の手拍子じゃなくても、もう鳴る。鳴らない朝は、増やしてきた。
 序盤は抑える。呼吸は吸って、吐いて、吐く。吐き切る前に次の吸いを迎えにいく。「迎えにいく」という言葉のほうが、冬には強い。
 沿道の声はすでに言葉になっている。「及川!」「五区!」「押せ!」。どれも正しく、どれも遅い。遅さを責めない。体内の翻訳機のほうが半拍早いからだ。

 コースは大きく曲がり、風向きが一度変わった。正面ではない。斜め。
 ――抜け道。
 去年の県大会で拾った技術が、冬の京都でも通用するかどうか。角、家並みの切れ目、建物の影。風には背骨があって、その隙間に体を差し込める場所がある。
 角で腕を細く速く。直線で腹圧を一段強く。視線は五メートル。足は勝手に追う。追うのに、欲張らない。ゆるい前傾を守る。守る、という動詞はときに攻めより強い。

 中盤、目の前の列がばらけて、背中が三つ、四つ、点になる。近い順から行かない。音の薄い背中を拾う。
 一人目、肩の上下が大きい。吸う音が荒い。ラストではない中盤で荒い呼吸は、風に弱い。横に並び、拍を外さず、前へ滑る。抜くときは抜いた感触を体に入れすぎない。入れすぎると、抜かれやすくなる。
 二人目、下りで右足の音が強い。可動域の端で走る音。端は冬に凍る。こちらは端の一ミリ内側を使う。差は自然に小さくなり、重なり、ほどける。
 三人目、遠い。遠さに手を伸ばすと、腕が大きくなり、拍がほどける。遠さは分解して詰める。角から直線までを短冊に割り、短冊ごとに軽く押す。押すたびに、押し返しが弱くなっていくのを腹圧の壁で受ける。

 遥のラップ読みは届かない距離だが、数字の並びは頭の中で自動再生される。3’40前後。冬のロードの響きは、トラックより低く深い。靴底が地面の粒を拾い、粒が足首へ、膝へ、骨盤へと波紋で届く。波紋は強くない。強くないのに、確かだ。

 観光地の角を過ぎると、沿道の声が一段上がった。見知らぬ町の、見知らぬ人の「いけ」が胸の奥で燃料になる。燃える温度は高くない。高くしない。高くすると、終盤が持たない。
 ゆるい前傾。脚は前に放る。放った脚の先で、地面がこちらへ二センチ寄ってくる――そんな錯覚の持続。錯覚でいい。冬は、錯覚を支えにして走る。

 ラスト二キロの標識。喉の奥の白い砂が増える。腕が少しだけ太くなる。
 ――守れ。
 声は自分の内側から出た。守るものは一つ。角度だ。勢いじゃない。角度が崩れた瞬間、冬の空はすぐ遠くなる。
 橋に差しかかる。風が通り道を主張する。反射で上体が起きかけ、肩が上がりかける。肘を畳む。肩甲骨を二センチ後ろ。腹圧。呼吸、細く、長く。
 橋を抜けた先で、前の背中が一枚、近くなった。距離はまだある。あるが、指で触れられるくらいの錯覚の距離。錯覚でいい。冬は、錯覚を現実にするには一押し足りない季節だ。その一押しを、拍に預ける。

 ラスト一キロ。
 沿道の声は、もう意味を持たない。音の層だけが押してくる。靴音、旗の擦れる音、マフラーが風を切る低い音、茜のレコーダーが空気を吸う音――それらが混ざらず、縦に重なる。
 前の背中に、手が届く。
 届いた瞬間、胸の奥で――誰かが笑う音がした。
 颯真の笑いに似ている、と思った。似ているだけで、同じではない。
 似ていて、違う。違いが、今日の救いだ。
 抜く。
 抜きざま、頬の横を風が切る。ゆるい前傾の角度を保ち、脚を前に放り続ける。欲張らない。抜き直しに備えて、呼吸を細く長く。
 遠くで、坂上の声が薄く落ちる。
「拍に、乗れ!」
 乗った。
 胸の中の砂が、細かいまま流れ出す。砂の流れは痛いが、痛みは線になった。線は、最後の直線まで続く。

 襷は、白い線の向こうへ渡った。
 高岡が受け取る。足首の白いテープは薄く、冬の光がすこし跳ねる。
 彼は、切った。
 ラストの三百、痙攣の手前で脚が震え、倒れる予感を背中に背負ったまま、テープを切った。
 切れた瞬間、音が一度消え、次の瞬間、拍手と風と隊列の足音が一気に戻る。高岡の体は前のめりに倒れ――宮内が抱き起こした。遥が額に手を当て、茜がカメラのファインダーを覗きながら、泣いた。
 順位は、目標にわずか届かなかった。
 達成と未達が薄い紙一枚で重なり、指で触れるとすぐ破れそうな透明な境目が、そこにあった。
 それでも、笑った。泣きながら、笑った。泣き笑いの温度は、冬の京都でいちばんやさしい温度だった。

 歓喜の輪の少し外で、悠真は空を見上げた。
 薄い青。高い雲。光は冷たいのに、胸の奥の火は消えない。
 「颯真、見えるか」
 返事は、ない。
 ないのに、胸は満ちた。足りない部分に何かが入り込む種類の満ち方ではない。空白の輪郭をそのまま残したまま、そこに光だけが集まってくる満ち方。
 茜はシャッターを切り続け、指の動作は一定で、瞼は少し赤い。
「颯真、ここまで連れてきてくれてありがとう」
 ファインダーから目を離さず、彼女は言った。「でも、ここからは悠真の物語」
 言葉は冬の光に乗って、結び目に吸い込まれる。布はもう、預かり物の重さでは揺れない。

 テントに戻ると、坂上は誰よりも遅れて入ってきた。キャップの庇はまっすぐで、目だけがほんの少し柔らかい。
「よく走った」
 短い評価のあと、ボードの端に小さくペンを走らせる。
 「都大路 完了 ――次」
 その下に、**「冬→箱根」**とただ一語。
 全員の視線が自然に集まる。まだ遠いと思っていた言葉が、急に手の届く棚に置かれた感じ。棚は高いが、脚立はある。脚立の名前は、朝と補食と睡眠と、歩かないこと。

 帰りのバス。窓は薄く曇り、指であけた小さな円から、京都の冬の光が滑っていく。白い呼気が天井で薄く拡散し、誰かの笑い声が布の座席に吸い込まれ、眠りの手前で静かになる。
 坂上が通路を歩き、最後尾の席で立ち止まった。
「及川」
「はい」
「お前は次の冬、箱根を目指せ」
 言葉は硬くなく、やわらかくもない。ただ、方向だった。
 視界が、開ける。
 冬の先に、もうひとつの冬が見えた。その冬は、今日より厳しく、今日より広い。だが、怖さは数にできる。刻める。
「はい」
 短い返事が、湯気みたいに空に上がって、すぐ消える。消えるのに、残る。

 眠りと起きているあいだの薄い縁で、悠真は指の腹にまだ襷の布の手触りを感じていた。薄い。強い。布目のささくれが、皮膚の上でごく小さな地図になっている。その地図は、今日の京都で終わらず、次の冬の箱根へ伸びていく。
 宮内は窓の外を見て、微笑むでもなく、口元だけ柔らかくした。高岡はアイシングパックを足首に当て、目を閉じて呼吸を揃える。遥はクーラーボックスの在庫をチェックし、茜はレコーダーのデータ名に「都大路・冬の光」と打ち込んだ。
 それぞれの手の中に、今日の音が保存される。靴底が冬の空気を切る音、旗の擦れる音、泣き笑いの声、テープが軽く切れる薄い音――全部。

 夜、学校へ戻ると、部室の蛍光灯は少し黄ばんだ光で、床のゴムが小さく軋む。ホワイトボードの「ロードマップ」は、もう役目を終えつつある顔をしていた。
 坂上は黒いペンで、下段の右に新しい矢印を引く。
 都大路 →(次の冬)箱根
 矢印は細い。細いが、方向を持つ。細い線が集まれば、やがて太くなる。太くするのは、明日の朝の拍と、夜の睡眠と、補食のオレンジ一切れだ。派手じゃないほうが、冬に強い。

 寮の部屋。机の上。ノート。
 『都大路 五区 序盤抑→中盤ゆるい前傾/脚=前へ放る 最後1km=音重なる “誰かの笑い”聴こえる 抜き テープ=高岡(痙攣寸前) 順位=目標に少し届かず でも、笑って泣く』
 欄外に、細い字で書き足す。
 『ここからは、俺の物語』
 もう一行、さらに小さく。
 『次の冬、箱根へ』
 鉛筆の線は薄いが、迷っていない。薄い線は、明日の拍で濃くなる。

 灯りを落とす。
 遠くで、踏切が二度鳴った。カン、カン。
 去年の夏、あの音の下で立ち尽くした自分に、今なら伝えられる。
 ――歩かない。食べる。寝る。諦めない。拍で運ぶ。風の抜け道を探せ。
 まぶたの裏に、白い線が一本。
 線は遠くない。今日より、確実に近い。
 冬の光は冷たいが、火は消えない。
 火を消さずに、次の冬へ。
 襷は、過去の重さで肩に載り、未来の形で前へ進む。
 都大路は終わりではなかった。
 ここが、次のスタートラインだった。