朝、競技場に降りる風は、どこか遠い川の匂いを運んでいた。秋の終わり、冬の手前。スタンドの旗は斜めに張り、トラックのゴムは冷えて硬く、白線は刃物のように細かった。県大会の駅伝。空は薄い青。雲は高く、日差しは弱い。肌に触れる寒さは、数字に置き換えればたいしたことはないのに、胸の奥の空洞を先に冷やす。
ホワイトボードの上で、坂上の字が黒く並んだ。
一区:宮内/二区:千五の一年/三区:三千障害組/四区:ロード巧者の二年/五区:及川/アンカー:高岡
右端には小さく「風 北北東 3m/気温 10℃/湿度 低」。遥が書いた数字は、朝の空気の輪郭を忠実に写す。
宮内は肩の高さを一度だけ確かめ、紐の余りを親指で揃えた。高岡は足首のテープを薄く巻き直し、可動域を目でなぞる。動かしすぎない、でも止めない。その線を知っている目だ。
茜は、首からカメラと小さなレコーダー。ストラップには相変わらず薄い青の布切れ――颯真の襷の一部。布は冬の光で少し色を失い、風に揺れて結び目だけがひときわ濃く見える。
「走るのはお前らだが、襷はチームで持つ」
坂上は短く言い、キャップの庇を指先で押した。「忘れるな。最後に立っているやつが強い」
号砲は乾いた音で朝の空を割った。一区の選手たちが一斉に飛び出し、ロードに色が走る。宮内はいつもどおり、最初の百で行かない。肩の余白を確認し、風の向きを脇腹で測る。だが一回目のコーナー、集団の中で小さな接触があった。外から寄った肘をかわしそこねた選手がつまずき、二人が連鎖で転ぶ。
白い息が揺れ、スパイクが空を蹴り、襷が一瞬宙に浮いた。
宮内は辛うじて回避したが、ペースが崩れ、位置は下がる。坂上は肩を動かさない。視線がほんの少しだけ鋭くなる。遥は時計を見ながら短く息を吐く。
「落ちる。……でも、戻せる」
茜が自分に言い聞かせるように呟き、レコーダーの風防に手を添えた。録るのは悲鳴ではない。今日の音だ。
二区。一年は緊張で腕が広がり、最初の直線で風に肩を持っていかれた。ラップは計画より一秒、二秒と遅れる。スタンドの温度が下がる。だが、崩れない。崩れないということは、次に渡せるということだ。
三区。三千障害組は水濠の読みで勝負する選手だが、ロードでも跳び方の勘が活きる。起伏の小さな上りを、跳ねず、沈まずに越える技術。少しだけ順位が戻るが、まだ追う形。
四区の二年は器用だ。器用な人間に必要なのは、勇気ではなく我慢だ。彼は我慢した。前半を抑え、後半で風の背を選び、細く二人拾う。
そして、五区。及川悠真。
襷が手に入る瞬間、紙のように軽く、石のように重い。その二重の重さを、今年の春から何度も持ち替えてきた。手のひらが勝手にその重さの居場所を探す。
スタートの一歩で、風向きがはっきり分かった。正面からではない。斜め。頬の左側に浅く当たり、コーナーごとに当たりどころがずれる。
――風の抜け道を探せ。
耳の奥のメトロノームは百八十。拍に足を載せる。それだけでは足りない。風は拍より気まぐれだ。
左の家並みが切れる角で、風が緩む。そこへ合わせて腕を二センチだけ速く、足は勝手に追う。次の直線、街路樹が作る影の帯で、風が少し強くなる。腹圧を一段、壁にして受ける。受けると、過ぎる。
先行の背中が三つ、ばらけて見えた。間隔は等間ではない。等間ではないときは、近いものから狙わない。音の薄いものから、拾う。
一人目。肩が大きい。呼吸が上擦っている。抜くというより、重力の通り道に自分を入れるだけで、並び、前へ出る。
二人目。下りの入りで右足の音が強い。右に荷重が偏っている選手は、風の変化に弱い。斜めの風が一瞬だけ背に回ったところで、腕を細く速くし、横に並ぶ。相手の肩がわずかに揺れ、呼吸が乱れる。ここで行かないと、風の向きが戻る。行く。
三人目。ここが遠い。遠い距離は、数字を使う。コーナーから直線までの百二十を、三分割。四十ごとの小さな押し。押すたび、押し返しが弱くなる感覚。
茜の手拍子がロードの角から薄く届く。パン、パン。拍と拍のあいだに空気が残る音。残る空気に呼吸を置く。
――抜いた。
順位が、数字の上でしか見えないところから、肉眼で見えるところに戻ってきた。
沿道の声が意味を持ち始める。さっきまで粒だった音が、言葉に近づく。「追え」「そのまま」「肩!」。どれも正しい。だが、どれも遅い。自分の体の言葉のほうが、半拍速い。
「肩!」と聞こえた瞬間には、もう肩を落としている。
「追え」と聞こえた瞬間には、追った余韻を整えている。
体で先に訳す。その繰り返しが、今日の五区の仕事だ。
五区の終わりは、細い橋だ。橋は風の通路で、強く、冷たい。ここで力むと、最後の直線が長くなる。力まずに、骨盤を前へ、視線は五メートル。吸って、吐いて、吐く。吐き切る前に、次の吸いを迎えにいく。
坂上の声が、橋の出口で落ちる。
「拍に、乗れ!」
乗る。
手に汗が戻る。脳が遅れて「ここだ」と言う。
襷を、次へ。
指先に、重さがちゃんと残っていた。残った重さは、空ではない。
アンカー。高岡はテープの白のことだけ考えていたはずだ。足首の違和感はゼロではない。けれど、ゼロでない違和感と走る方法を、この一年で体に叩き込んだ。下りに入るたび、可動域の端を一ミリだけ使わない。安全のためではない。最後まで速いままのために。
ラスト一キロ。ふくらはぎが痙攣の手前で震え、脳が「止まれ」と言う。そこに、三年春のジョグの音が戻る。百八十の拍。鳴らしてきた朝の数だけ、揺れの幅が小さくなる。
――テープ。
音が一度だけ消え、白が切れ、空気が戻る。
坂上は拳を握らなかった。握らないかわりに、口の端だけを一ミリ上げた。宮内は呼吸を整え、目を閉じて一度だけ深くうなずく。遥は時計を止めて、数字を二度見し、「取った」と短く言った。
総合で、都大路の切符。
スタンドの色が、いっせいに明るくなる。旗が高く揺れ、歓声の粒が冬の手前の空へ上がっていく。
茜は、その場で膝をついた。
カメラを胸に抱え、肩を震わせ、堰を切ったように泣いた。
泣く、という動詞が、これほど正確で、これほど軽くなかったのは久しぶりだった。彼女は頬を濡らしながら、レコーダーの停止ボタンを押すのを忘れ、泣き声と風の音と拍手と、遠くの拡声器のハウリングがすべて重なった音を録り続けた。
「やっと、行ける」
誰に言うでもなく零れた言葉は、布の結び目に吸い込まれていく。
歓喜の輪ができる。肩が組まれ、声が上がる。だが、輪の少し外で、悠真は空を見上げた。
空は薄く、雲は高い。
「颯真、見えるか」
返事はない。ないのに、胸の奥で何かが確かに頷いた。答えではない。反応でもない。居場所の確認みたいな頷き。
胸は満ちた。勝ち負けではない、満ち方。足りなかった部分に水が入るのではなく、空白の形のまま、光だけが満ちる。
テントに戻ると、ホワイトボードの「ロードマップ」の下に、新しい紙が貼られた。
「都大路・区間配置案(暫定)」
坂上の字は変わらず硬い。
一区:宮内(削り)/二区:一年(経験)/三区:障害組(粘り)/四区:二年(技巧)/五区:及川(山を越える)/アンカー:高岡(切る)
括弧の言葉は簡潔で、逃げ道がない。
五区の横の**「山を越える」の文字は、黒い。黒いのに、まだ湿っているように見えた。乾く前に、胸の奥で読み直す。
――山を越える。
彼の脚は、今年の夏の山で歩かなかった**。秋の風で間を拾い、冬の手前で熱を持った。そのすべてが、五区の二文字に畳み込まれている。畳み込まれた重さは、肩に正しく乗る。
発表のあと、坂上はみんなを一列に並ばせた。
「これは、約束じゃない。宣言だ」
春に言った言葉と同じだが、声の温度が違う。冬の前の温度。凍る前に火を強める温度。
「崩れたら直せ。直らなければ、構成を変える。だが、方向は変えない。――宮内、スタートで風を読む。二で無理をさせるな。三で遅れを最小。四で風の背。五、及川」
「はい」
「風の抜け道で、道を作れ。山の入口で恐れず、出口で欲張るな。拍で運べ。拍を、チームに渡せ」
短い指示が、杭のように胸に刺さり、そこから細いロープが先の白線へ伸びる。
解散のあと、ベンチで息を整えると、茜が隣に腰を下ろした。目の縁は赤いが、もう泣いてはいない。カメラの背面には、さっきのゴールの写真。テープが切れる瞬間の、白い線のほつれ。
「録れた?」
悠真が問う。
「録れた。風の音も、靴の音も、泣き声も。……今日の音」
彼女はそう言い、首のストラップの布切れを指でつまんだ。「これ、やっと、軽くなった」
「軽く?」
「うん。預かってる感じが、少し減った。持ってるに近い」
言葉の選び方が、去年の夏と違う。違いは救いだ。救いは、肩に乗る。
夕方。競技場の影が長くなり、風は冷えを増す。
坂上は誰もいなくなったホワイトボードの前で、黒のペン先を指で回し、五区の横に小さく**「風=友」**と書き足した。
友、と書かれても、風は応えない。応えないものに、こちらが合わせる。それが、今日わかった。
夜。部室で缶ココアを温め直し、宮内が一本、悠真に渡した。
「熱いから、すぐ飲むな」
去年の冬と同じ言葉。缶の温度は去年より少しだけ高い気がした。
「流れ、作ったな」
宮内は正面を見たまま言い、続けた。「最初、落ちた。二で耐えて、三で繋いで、四で我慢。五で風を掴んだ。六で切った。……六は高岡だけど」
短い冗談に、二人は少し笑った。笑いの温度で、手の中の缶がまた温かくなる。
遥が集計表を持って現れ、「心拍、ラストだけ一九二。出し切ってる。歩かないが効いてる」と言い、茜は「補食、在庫、明日買い足す」とメモ帳に走り書きする。日常がすぐに戻ってくる。戻ってくる日常が、今日の特別を保証する。
夜道。校門を出ると、風の向きが、朝と違った。
頬の右側に浅く当たり、角を曲がるたびに背に回り、また抜ける。
――風の向きが変わる。
負けているときに向かい風、勝ちに行くときは追い風、という単純な話ではない。走る側が、風の意味を変える。抜け道を見つけさえすれば、向かい風は、拍を濃くする材料になる。
悠真は歩幅を少し狭め、耳の奥で百八十の拍を整えた。拍に足を載せる。載せながら、風の背を探す。
空は薄い。雲は高い。星は少ない。
まぶたの裏に、白い線が一本。線は遠くない。今日より、また一歩、近い。
家に戻り、ノートを開く。
『県大会 五区 風=斜め 抜け道→角・家並み切れ目・橋前後 3抜き 拍=効く 襷=重さ二重(軽/重) テープ=切れる音薄』
書いて、ふと手が止まる。欄外に、短い言葉。
『見えるか、颯真』
そして、もうひとつ。
『今年、都大路へ。五区=山を越える』
鉛筆の線は薄いが、迷いはなかった。
灯りを消す。窓の外で、風が小さく鳴る。
風は応えない。応えないのに、確かにそこにいる。
ならば――合わせる。
合わせて、運ぶ。
襷は、過去の重さで肩に載り、未来の形で前へ進む。
今日、風の向きは変わった。
変えたのは、たぶん、走った者たちの、拍だった。
ホワイトボードの上で、坂上の字が黒く並んだ。
一区:宮内/二区:千五の一年/三区:三千障害組/四区:ロード巧者の二年/五区:及川/アンカー:高岡
右端には小さく「風 北北東 3m/気温 10℃/湿度 低」。遥が書いた数字は、朝の空気の輪郭を忠実に写す。
宮内は肩の高さを一度だけ確かめ、紐の余りを親指で揃えた。高岡は足首のテープを薄く巻き直し、可動域を目でなぞる。動かしすぎない、でも止めない。その線を知っている目だ。
茜は、首からカメラと小さなレコーダー。ストラップには相変わらず薄い青の布切れ――颯真の襷の一部。布は冬の光で少し色を失い、風に揺れて結び目だけがひときわ濃く見える。
「走るのはお前らだが、襷はチームで持つ」
坂上は短く言い、キャップの庇を指先で押した。「忘れるな。最後に立っているやつが強い」
号砲は乾いた音で朝の空を割った。一区の選手たちが一斉に飛び出し、ロードに色が走る。宮内はいつもどおり、最初の百で行かない。肩の余白を確認し、風の向きを脇腹で測る。だが一回目のコーナー、集団の中で小さな接触があった。外から寄った肘をかわしそこねた選手がつまずき、二人が連鎖で転ぶ。
白い息が揺れ、スパイクが空を蹴り、襷が一瞬宙に浮いた。
宮内は辛うじて回避したが、ペースが崩れ、位置は下がる。坂上は肩を動かさない。視線がほんの少しだけ鋭くなる。遥は時計を見ながら短く息を吐く。
「落ちる。……でも、戻せる」
茜が自分に言い聞かせるように呟き、レコーダーの風防に手を添えた。録るのは悲鳴ではない。今日の音だ。
二区。一年は緊張で腕が広がり、最初の直線で風に肩を持っていかれた。ラップは計画より一秒、二秒と遅れる。スタンドの温度が下がる。だが、崩れない。崩れないということは、次に渡せるということだ。
三区。三千障害組は水濠の読みで勝負する選手だが、ロードでも跳び方の勘が活きる。起伏の小さな上りを、跳ねず、沈まずに越える技術。少しだけ順位が戻るが、まだ追う形。
四区の二年は器用だ。器用な人間に必要なのは、勇気ではなく我慢だ。彼は我慢した。前半を抑え、後半で風の背を選び、細く二人拾う。
そして、五区。及川悠真。
襷が手に入る瞬間、紙のように軽く、石のように重い。その二重の重さを、今年の春から何度も持ち替えてきた。手のひらが勝手にその重さの居場所を探す。
スタートの一歩で、風向きがはっきり分かった。正面からではない。斜め。頬の左側に浅く当たり、コーナーごとに当たりどころがずれる。
――風の抜け道を探せ。
耳の奥のメトロノームは百八十。拍に足を載せる。それだけでは足りない。風は拍より気まぐれだ。
左の家並みが切れる角で、風が緩む。そこへ合わせて腕を二センチだけ速く、足は勝手に追う。次の直線、街路樹が作る影の帯で、風が少し強くなる。腹圧を一段、壁にして受ける。受けると、過ぎる。
先行の背中が三つ、ばらけて見えた。間隔は等間ではない。等間ではないときは、近いものから狙わない。音の薄いものから、拾う。
一人目。肩が大きい。呼吸が上擦っている。抜くというより、重力の通り道に自分を入れるだけで、並び、前へ出る。
二人目。下りの入りで右足の音が強い。右に荷重が偏っている選手は、風の変化に弱い。斜めの風が一瞬だけ背に回ったところで、腕を細く速くし、横に並ぶ。相手の肩がわずかに揺れ、呼吸が乱れる。ここで行かないと、風の向きが戻る。行く。
三人目。ここが遠い。遠い距離は、数字を使う。コーナーから直線までの百二十を、三分割。四十ごとの小さな押し。押すたび、押し返しが弱くなる感覚。
茜の手拍子がロードの角から薄く届く。パン、パン。拍と拍のあいだに空気が残る音。残る空気に呼吸を置く。
――抜いた。
順位が、数字の上でしか見えないところから、肉眼で見えるところに戻ってきた。
沿道の声が意味を持ち始める。さっきまで粒だった音が、言葉に近づく。「追え」「そのまま」「肩!」。どれも正しい。だが、どれも遅い。自分の体の言葉のほうが、半拍速い。
「肩!」と聞こえた瞬間には、もう肩を落としている。
「追え」と聞こえた瞬間には、追った余韻を整えている。
体で先に訳す。その繰り返しが、今日の五区の仕事だ。
五区の終わりは、細い橋だ。橋は風の通路で、強く、冷たい。ここで力むと、最後の直線が長くなる。力まずに、骨盤を前へ、視線は五メートル。吸って、吐いて、吐く。吐き切る前に、次の吸いを迎えにいく。
坂上の声が、橋の出口で落ちる。
「拍に、乗れ!」
乗る。
手に汗が戻る。脳が遅れて「ここだ」と言う。
襷を、次へ。
指先に、重さがちゃんと残っていた。残った重さは、空ではない。
アンカー。高岡はテープの白のことだけ考えていたはずだ。足首の違和感はゼロではない。けれど、ゼロでない違和感と走る方法を、この一年で体に叩き込んだ。下りに入るたび、可動域の端を一ミリだけ使わない。安全のためではない。最後まで速いままのために。
ラスト一キロ。ふくらはぎが痙攣の手前で震え、脳が「止まれ」と言う。そこに、三年春のジョグの音が戻る。百八十の拍。鳴らしてきた朝の数だけ、揺れの幅が小さくなる。
――テープ。
音が一度だけ消え、白が切れ、空気が戻る。
坂上は拳を握らなかった。握らないかわりに、口の端だけを一ミリ上げた。宮内は呼吸を整え、目を閉じて一度だけ深くうなずく。遥は時計を止めて、数字を二度見し、「取った」と短く言った。
総合で、都大路の切符。
スタンドの色が、いっせいに明るくなる。旗が高く揺れ、歓声の粒が冬の手前の空へ上がっていく。
茜は、その場で膝をついた。
カメラを胸に抱え、肩を震わせ、堰を切ったように泣いた。
泣く、という動詞が、これほど正確で、これほど軽くなかったのは久しぶりだった。彼女は頬を濡らしながら、レコーダーの停止ボタンを押すのを忘れ、泣き声と風の音と拍手と、遠くの拡声器のハウリングがすべて重なった音を録り続けた。
「やっと、行ける」
誰に言うでもなく零れた言葉は、布の結び目に吸い込まれていく。
歓喜の輪ができる。肩が組まれ、声が上がる。だが、輪の少し外で、悠真は空を見上げた。
空は薄く、雲は高い。
「颯真、見えるか」
返事はない。ないのに、胸の奥で何かが確かに頷いた。答えではない。反応でもない。居場所の確認みたいな頷き。
胸は満ちた。勝ち負けではない、満ち方。足りなかった部分に水が入るのではなく、空白の形のまま、光だけが満ちる。
テントに戻ると、ホワイトボードの「ロードマップ」の下に、新しい紙が貼られた。
「都大路・区間配置案(暫定)」
坂上の字は変わらず硬い。
一区:宮内(削り)/二区:一年(経験)/三区:障害組(粘り)/四区:二年(技巧)/五区:及川(山を越える)/アンカー:高岡(切る)
括弧の言葉は簡潔で、逃げ道がない。
五区の横の**「山を越える」の文字は、黒い。黒いのに、まだ湿っているように見えた。乾く前に、胸の奥で読み直す。
――山を越える。
彼の脚は、今年の夏の山で歩かなかった**。秋の風で間を拾い、冬の手前で熱を持った。そのすべてが、五区の二文字に畳み込まれている。畳み込まれた重さは、肩に正しく乗る。
発表のあと、坂上はみんなを一列に並ばせた。
「これは、約束じゃない。宣言だ」
春に言った言葉と同じだが、声の温度が違う。冬の前の温度。凍る前に火を強める温度。
「崩れたら直せ。直らなければ、構成を変える。だが、方向は変えない。――宮内、スタートで風を読む。二で無理をさせるな。三で遅れを最小。四で風の背。五、及川」
「はい」
「風の抜け道で、道を作れ。山の入口で恐れず、出口で欲張るな。拍で運べ。拍を、チームに渡せ」
短い指示が、杭のように胸に刺さり、そこから細いロープが先の白線へ伸びる。
解散のあと、ベンチで息を整えると、茜が隣に腰を下ろした。目の縁は赤いが、もう泣いてはいない。カメラの背面には、さっきのゴールの写真。テープが切れる瞬間の、白い線のほつれ。
「録れた?」
悠真が問う。
「録れた。風の音も、靴の音も、泣き声も。……今日の音」
彼女はそう言い、首のストラップの布切れを指でつまんだ。「これ、やっと、軽くなった」
「軽く?」
「うん。預かってる感じが、少し減った。持ってるに近い」
言葉の選び方が、去年の夏と違う。違いは救いだ。救いは、肩に乗る。
夕方。競技場の影が長くなり、風は冷えを増す。
坂上は誰もいなくなったホワイトボードの前で、黒のペン先を指で回し、五区の横に小さく**「風=友」**と書き足した。
友、と書かれても、風は応えない。応えないものに、こちらが合わせる。それが、今日わかった。
夜。部室で缶ココアを温め直し、宮内が一本、悠真に渡した。
「熱いから、すぐ飲むな」
去年の冬と同じ言葉。缶の温度は去年より少しだけ高い気がした。
「流れ、作ったな」
宮内は正面を見たまま言い、続けた。「最初、落ちた。二で耐えて、三で繋いで、四で我慢。五で風を掴んだ。六で切った。……六は高岡だけど」
短い冗談に、二人は少し笑った。笑いの温度で、手の中の缶がまた温かくなる。
遥が集計表を持って現れ、「心拍、ラストだけ一九二。出し切ってる。歩かないが効いてる」と言い、茜は「補食、在庫、明日買い足す」とメモ帳に走り書きする。日常がすぐに戻ってくる。戻ってくる日常が、今日の特別を保証する。
夜道。校門を出ると、風の向きが、朝と違った。
頬の右側に浅く当たり、角を曲がるたびに背に回り、また抜ける。
――風の向きが変わる。
負けているときに向かい風、勝ちに行くときは追い風、という単純な話ではない。走る側が、風の意味を変える。抜け道を見つけさえすれば、向かい風は、拍を濃くする材料になる。
悠真は歩幅を少し狭め、耳の奥で百八十の拍を整えた。拍に足を載せる。載せながら、風の背を探す。
空は薄い。雲は高い。星は少ない。
まぶたの裏に、白い線が一本。線は遠くない。今日より、また一歩、近い。
家に戻り、ノートを開く。
『県大会 五区 風=斜め 抜け道→角・家並み切れ目・橋前後 3抜き 拍=効く 襷=重さ二重(軽/重) テープ=切れる音薄』
書いて、ふと手が止まる。欄外に、短い言葉。
『見えるか、颯真』
そして、もうひとつ。
『今年、都大路へ。五区=山を越える』
鉛筆の線は薄いが、迷いはなかった。
灯りを消す。窓の外で、風が小さく鳴る。
風は応えない。応えないのに、確かにそこにいる。
ならば――合わせる。
合わせて、運ぶ。
襷は、過去の重さで肩に載り、未来の形で前へ進む。
今日、風の向きは変わった。
変えたのは、たぶん、走った者たちの、拍だった。



