春は、まだ本気を出していなかった。
光だけがやわらかく、空気はすこし冷たくて、指先に冬の名残がひっそり居座っていた。校門の鉄は朝日を鈍く反射し、グラウンドの土は乾いて粉を吹き、踏めば白い塵がふわりと舞い上がる。
その土の上を、二つの影が音もなく伸びたり縮んだりしていた。弟の颯真と、幼馴染の茜だ。颯真は背筋をまっすぐに、肘を小さくたたみ、無駄のないフォームで地面を切り分ける。茜は半歩後ろ。息を合わせようとすると笑ってしまう癖が抜けないのか、口元がたまにほどけて、頬に貼りついた髪を指で払う。
フェンスの外に、兄の悠真が立っていた。黒い網目越しに見る世界はいつもより遠く、別の季節に隔てられているように感じられた。近いのに、触れられない。自分だけが画面の外側にいるみたいだ、と悠真は思う。
「俺は日本一になる。茜、約束な」
颯真が走りながら言う。風にほどけた声は、それでも真っすぐ届く。茜は顔を赤くして、うなずいた。言葉はないけれど、うなずきの中に全部が入っている。
ペースを緩めた颯真が、フェンスのこちらへ寄ってきた。
「兄ちゃん、見てただろ。なあ、もし俺がいなくなったらさ、茜のこと頼むよ」
冗談めかした笑い方だった。いつもそう言って空気を軽くするのが颯真の癖だ。悠真は苦笑で返す。冗談に違いない。けれど、耳の奥にだけ妙に残った。
茜は二人を交互に見つめ、額の汗を手の甲で拭った。
「朝の光、今日はきれいだね」
誰にというわけでもない。頬の赤みは走ったせいばかりではなさそうだった。
入学式の前日。校舎の窓ガラスは磨かれて、まだ使われていない教室の机は木の匂いを濃く漂わせている。新しいクラス名簿の紙はつやつやして、そこに三人の名前が並ぶはずだった。
悠真はフェンスから手を離した。網の感触が指に残る。そこに残った痕は、この朝の輪郭のように、しばらく消えなかった。
*
午後になると風が変わった。西から乾いた空気が押し寄せ、グラウンドの白い塵をさらに軽くした。颯真は練習を切り上げ、茜と一緒に校門の外へ出る。ふたりの会話は他愛ない。ジュースは何味がよかったとか、坂上先生(新しい陸上部顧問)の走りの見本がやたら本格的だったとか。
歩幅が合うのは、長く隣り合ってきた証拠だ。茜は時々うつむき、くつ先で電柱の影を踏んでいく。影は踏まれても、形を崩さずに伸びたままだった。
「茜、俺、ほんとに都大路行くからさ」
「うん、知ってる」
「それで、卒業のときには――」
言葉は途中でほどけた。茜が笑って、代わりにまっすぐ言う。
「知ってるよ。颯真の言うこと、大体知ってる」
あたりまえを確かめるような会話。そのあたりまえは誰もが永遠だと思う。永遠のつもりでポケットに入れておいて、取り出そうとしたら落としてる、そんな種類のあたりまえ。
夕方、雲がうっすらと厚みを増し、街の色が一段階落ち着いた。颯真は「ちょっと寄り道してくる」と言って、茜と別れた。帰りが遅くなるほどの寄り道ではないはずだ。今日までずっとそうだったように、今日もそうだろう。悠真も母も、そう思っていた。
*
夜になって、電話が鳴った。
音は、いつもと同じ音のはずなのに、聞いたことのない音に聞こえた。受話器を取る母の指が震えて、言葉が途中で途切れた。たくさんの言葉が一度に押し寄せてきて、どれもちゃんと聞き取れない。人は本当に大切なことを告げられると、意味より先に音で殴られるのかもしれない。
病院の廊下は白く明るく、やけに長かった。靴音が吸い込まれて、遠さだけが増幅される。
処置室の前で待つ時間は、時計の針が嘘をついているようで、数字の進みが頼りにならなかった。
やがて扉が開いて、白衣の人が首を横に振った。
世界から音が消える。誰かが悲鳴を上げている。自分ではない誰か。けれど、胸の中央で何かが裂ける感覚だけは自分のものだった。
颯真は、帰らなかった。
*
通夜の夜は、たくさんの花がひらいていた。花びらの外側はまだ冷たいのに、中央は少しだけあたたかい色をしていた。
棺の中で眠る颯真は、いつもと同じ顔だった。練習帰りに寝落ちしたときと似ている。違うのは、どれだけ呼びかけても呼吸の上下が見えないこと。胸の布は、春の空気にぴくりとも揺れない。
茜は、颯真の練習用の襷を握りしめていた。薄い布地は汗の匂いをほんの少し含んでいる。何度も洗われた跡があり、布目のところどころがささくれていた。
手を離せる気がしなかった。離した瞬間、ひとの輪郭は写真になってしまう。茜はそれが怖かった。襷を握っていれば、ちゃんとここに続いていると信じられる。指がしびれても、握り続けた。
焼香の煙は、細い糸みたいに天井へ伸びていく。目にしみて涙が出る人が多かったけれど、悠真は泣けなかった。泣き方を体が忘れたみたいだった。
胸の奥に空洞ができて、そこへ音が吸い込まれていく。だれかが「無理しないで」と言い、だれかが「えらい子だった」と言い、だれかが「惜しい」と言う。言葉はどれも正しくて、どれも触れないところを通り過ぎていく。
帰り道、夜風が二人を追い抜いた。街灯の傘に虫が当たる音が小さく響く。
「走るのが、怖いの」
茜がぽつりとこぼす。「颯真と一緒に走るとね、速すぎて、世界が見えなくなるの。景色が線になって、風が壁みたいに押してくる。あの背中を、もう追いかけられない」
悠真は返す言葉を持たなかった。
慰めは嘘になってしまう。励ましは、なぐさめの形をした命令に見える瞬間がある。言えば言うほど遠ざかるものがある。言わないほうが、近づける瞬間もある。
だから、ただ隣を歩いた。靴底でアスファルトを確かめるみたいに、ことばの代わりに歩幅を合わせた。
*
夜が深くなるほど眠れなくなった。天井は同じ色のまま、時計の秒針だけが真面目に働いている。目をつぶると、フェンスの網目がまぶたの裏に浮かび、朝の光と、二つの影と、茜のうなずきがそこに貼りつく。
あの冗談めいたひと言が、耳の奥で繰り返される。――兄ちゃん、もし俺がいなくなったらさ、茜のこと頼むよ。
よくある軽口。笑って流せばよかった。流した。なのに、残った。
悠真はずっと、自分は「何者でもない」と思ってきた。勉強も運動も、淡い灰色の中ほどで止まって、誰かのすぐ下にいる。弟の背中はいつも遠く、追いかけようとも思わなかった。追いかければ差が、目に見えるかたちで測られてしまうから。
けれど今、測られたい、と思った。測られたところでどうにもならないとわかっていても、測られなければ始まらないものがある、とも思った。
枕元に、古いスポーツ雑誌が積んである。颯真が付録のトレーニング記事だけ切り取って持っていった残り。ページの角が折れている箇所に、細いペン跡があった。
『呼吸は、1と2で。吸って、吐いて、吐く』
書いたのは、たぶん颯真だ。夜中の静けさに、その文字だけが息をしているように見えた。
*
翌朝、まだ誰もいない校庭に、悠真は立っていた。ジャージの裾が足首で冷たく、吐く息が白い。
見よう見まねで軽くストレッチをし、膝を持ち上げ、肩を回す。準備をするふりをしているうちに、時間が少し動いた。
フェンスの影が長く伸びて、土の上に斜めの線を幾本も引く。その線を一本、また一本とまたいで、悠真は前へ出た。
最初の一歩は、驚くほど重かった。
二歩目で脛が張り、三歩目で足首が不機嫌になり、十歩目で肺が火照る。トラックの白線は、思っていたより遠く、思っていたより低く、思っていたより冷たい。
二百メートルで喉がひゅうと鳴った。三百メートルで視界が少し狭くなった。四百メートルを越えるころ、胸の中央がつかまれるみたいに締まって、呼吸が途切れた。
立ち止まる。
目の奥が熱くなる。涙は、いつもと違う場所から出てくる感じがした。苦しさに溶けて、汗といっしょに頬を伝う。
悔しさもあった。悔しさは、自分がまだ何かを欲しがっている証拠で、それが少しだけ救いになった。
ベンチの上に誰かが置いていった古い給水ボトルがあり、キャップのまわりに白い粉がこびり付いている。あれも汗のあと、塩のあと。人の努力は、目に見えないところで結晶になるのだ、とどうでもいいことを考える。
遠くでカラスが鳴き、近くで雀が鳴く。グラウンドは朝の音で満ちているのに、自分の呼吸だけがぎこちない。音の仲間に入れてもらえていない。
それでも、もう一歩、と思う。
もう一歩を出す理由は、立派でなくていい。立派でないほうが、長く続くこともある。
息を吸って、吐いて、吐く。ペン跡の文字を頭の中でなぞる。
足を前へ送る。体がわずかに前傾する。土が指先で柔らかく砕ける。音が少し、仲間に混ざる。
*
校舎の陰が短くなって、光が強くなる。フェンスの影は先ほどより薄くなり、線の形が曖昧になる。
悠真は、もう一周を始めた。さっきより遅いかもしれない。遅いという自覚が、なぜか少しだけ心を軽くした。速くはないが、止まっていない。止まっていないことは、速さに換算できない価値を持つ。
半周を過ぎたところで、校門の方から小さな足音が近づいてきた。茜だった。白い息を吐きながら、手に小さな紙袋を持っている。中にはコンビニのおにぎりが二つ、塩と鮭。
茜はフェンスの内側には入らず、外側で立ち止まった。網目越しに視線が合う。
「おはよう」
それだけ言って、紙袋をフェンスの上から差し出した。
「あとで食べて。走ったら、ちゃんと食べるの」
悠真は、走りながらうなずいた。うまくうなずけたかどうか自信はない。呼吸の音にまぎれて、自分の声が聞こえない。
茜はフェンスの外をゆっくり歩き、悠真が通過するたび、小さく手を叩いた。テンポは一定ではない。けれど、その不器用な手拍子は、さっきより少しだけ呼吸のリズムに近かった。
茜の首から、細いストラップがのぞく。そこには小さな布が結ばれていた。颯真の襷の一部だ。古くなって薄くなり、色は柔らかい青に抜けている。
彼女が手を叩くたび、布の端が小さく揺れた。揺れるたびに、薄い光を吸い込み、また吐き出した。
*
三周目の終わりで、脚が動かなくなった。呼吸より先に、脚のほうが先に音を上げることがある。筋肉の繊維一本一本に、小さな拒否の文字が書き込まれている感じ。
ベンチに腰を下ろすと、世界が少し揺れた。茜がフェンス越しにペットボトルを渡す。冷たい水が喉を通ると、体の内側の地図がほんの少し書き換わる。
「歩いてもいいよ」
茜が言う。「走るの、怖かったら」
「怖いよ」
悠真は正直に答えた。
「でも、歩く癖がつくのが、もっと怖い」
茜は少しだけ笑った。その笑いは、同意の形をしていた。
「颯真、言ってた。『歩くと冬に出る』って」
「……知ってる」
知っていた。聞いたことがある。意味も、少しわかる気がする。冬は本番の季節だ。秋までの小さな怠さは、冬に大きくなる。歩く一歩は、後で走り何歩分にもなる。
沈黙があって、茜がぽつりと続ける。
「私ね、走るのが怖いって言ったけど――たぶん、怖いのは、置いていかれることだった。颯真の速度が速すぎて、景色が線になって、私が点になって、離れていくのが怖かった。いまは、線が少し太い。点が少し大きい。……だから、見える」
見える、と茜は言った。
見えるものがあるとき、人は少しだけ強くなる。強さは形に残らないけれど、呼吸の質感に残る。
悠真は立ち上がった。足の裏で土を踏み、腰の位置をすこしだけ高くする。腕を前に引き、手のひらを柔らかく開く。
「もう一周、行く」
言葉は小さかったが、行く先ははっきりしていた。
茜が手を叩く。リズムはさっきより合う。音がまとまる。心拍がまだ走りの仲間に入れてはくれないけれど、近づく兆しはある。
*
グラウンドの外周の白線が、朝の光を受けて薄く光る。四周目の直線に入ると、風が真正面から当たってきた。短い草が一斉に同じ方向になびく。
風は壁にも、手にもなる。押し返す壁にも、体を前に送る手にも。どちらとして使うかは、ほんの少しの姿勢で変わる。
悠真は体を半歩だけ前に傾けた。腕を大きく振るのではなく、肩の根元から小さく動かす。靴底が土を離れる瞬間に、指先で見えない糸をつまむように意識する。
息が、少しだけ深くなった。
吸って、吐いて、吐く。ペン跡の文字が、体に移る。
フェンスの影が足首を撫でていく。撫でられても、足は止まらない。撫でられたのは、影ではなく昨日の自分かもしれない。
四周目のコーナーで、ふと、笑い声が聞こえた気がした。
聞こえるはずはないのに、確かにそこにあった種類の笑い声。
振り向けば消えてしまうから、振り向かない。前だけを見る。音は前にある。前にある音だけが、自分を引っ張る。
やっとの思いで白線をまたぐ。腕時計を見るほど余裕はない。けれど、さっきより少しだけ長く走れたことが、体のどこかでわかる。
肺の奥で火が静かに燃え、脚の筋肉がざわざわと不満を言い、心臓がそれでも働きをやめない。生きている、という言葉の意味が、すこしだけ具体的になった。
*
ベンチに戻ると、茜が紙袋を押しつけてきた。
「食べて。塩のほう」
命令のかたちをした優しさ。悠真は従う。海苔の香りが鼻に入る。米の甘さが、舌の上で遅れてやってくる。
咀嚼するたび、体の地図がまた書き換わる。食べることは、走ることの前提だ。そんな当たり前を、今日初めて自分の言葉として受け取れた。
茜は首のストラップに触れ、結び目を確かめるように指で押した。
「これ、ね。少し切ったの。ほんとは切っちゃいけないんだろうけど。重くなりすぎると持っていられないから。軽くして、持っている」
言葉は淡々としていた。淡々とした言葉のほうが、ずっと強いときがある。
悠真は、深く息を吸った。
「俺さ、たぶん、才能とかない。けど、歩かないでいられるかどうかは、俺が決められる。歩かないでいたら、いつか冬に、何かになれるかもしれない」
「なるよ」
茜は即答した。
「ならなくても、続けてる人は、続けてるということで誰かを支えてる。……たぶん、私がそう」
彼女の目は少し潤んでいるのに、まっすぐだった。
悠真はうなずいた。うなずくという行為は、走ることに似ている。小さいけれど前へ進む方向の動きだ。
*
朝のチャイムが鳴った。鳥の声よりも少し人工的で、少しだけ遅れて空へ広がる。校舎の窓に人影が動き、机がこすれる音が遠くから寄せる波みたいに届く。
日常が始まる音だった。日常は、ひとの死で止まらない。止まらないでいることが、残された者の残酷さであり、やさしさでもある。
悠真は、もう一度だけ、トラックを一周走った。歩きたいという誘惑は、コーナーごとに来た。来るたびに、腕を振り、足を出し、前を見た。
ゴールもタイムもない一周。けれど、終わりに白線をまたぐとき、胸の奥で何かが小さく鳴った。鐘の音に似ているが、鐘ではない。喉の奥の骨が鳴らす、個人的な音。
それは、始まったことを告げる音だった。
*
家に戻ると、玄関の下駄箱の上に、颯真のランニングシューズが置かれていた。泥のあとが乾き、紐は片方だけ解けかけている。母が何度も触っては置き、置いては触ったのだろう。紐の先が柔らかくなっていた。
リビングのテーブルには、お線香と小さな花。写真立ての中の笑顔は、昨日の続きに見えるのに、もう続きではない。
悠真は、引き出しからノートを取り出した。颯真が残した練習ノート。角が擦り切れ、表紙の角は白い。開けば小さな文字がびっしり並んでいて、ところどころに汗のしみがある。
『呼吸が合うと、世界が少し遅く見える』
そう書かれていた。今日、自分が見た世界は、たしかにほんの少しだけ遅かった。遅い世界は、怖くない。怖くない世界では、誰かの手を見失わずにいられる。
ペンを握る。自分の字で、今日のことを書いた。
『一周で止まった。泣いた。もう一周した。おにぎりを食べた。歩かなかった』
短い文章。けれど、短い文章は嘘がつきにくい。
ページの端を折り、日付を書き入れる。日付は、時間がちゃんと進んでいる証拠だ。進むことが怖い。けれど、怖いほうが、いまはいい。
窓を開けると、春の匂いが入ってきた。まだ冷たい。けれど、冷たさの端に、柔らかい何かが混ざっている。
悠真は、肩で息をしながら空を見た。雲は薄く、ところどころに青がのぞく。青は、颯真の襷の色にどこか似ていた。
――償うために、走ろう。
自分の中で、誰にも聞こえない声がはっきり形を持つ。償いは、誰に対してか。弟にか。茜にか。自分自身にか。答えはまだわからない。けれど、足を前に出すときだけ、少しわかる気がする。
机の端に、茜からもらった紙袋が置かれている。もうひとつのおにぎりは鮭だ。昼に食べよう。食べることは、走ることの一部だ。
襷の切れ端のことを思い出す。軽くして持っていく、という言葉。軽くするのは、忘れるためではない。遠くへ運ぶためだ。
窓の外で、小さな子どもが走る足音がした。ばたばたと、リズムは不揃い。けれど、楽しそうだった。
世界は、走る音で満ちている。
その中に、悠真の呼吸も、少しずつ混ざっていく。
春は、まだ本気を出していない。
けれど、誰かの本気はもう始まっている。
フェンスの影は、昼の光で薄くなり、見えなくなった。網目が消えても、境界はもう、必要ないのかもしれない。
悠真は靴紐を結び直し、もう一度だけ、白線の上に立つ。
吸って、吐いて、吐く。
春の途切れた呼吸は、少しだけ、つながった。
光だけがやわらかく、空気はすこし冷たくて、指先に冬の名残がひっそり居座っていた。校門の鉄は朝日を鈍く反射し、グラウンドの土は乾いて粉を吹き、踏めば白い塵がふわりと舞い上がる。
その土の上を、二つの影が音もなく伸びたり縮んだりしていた。弟の颯真と、幼馴染の茜だ。颯真は背筋をまっすぐに、肘を小さくたたみ、無駄のないフォームで地面を切り分ける。茜は半歩後ろ。息を合わせようとすると笑ってしまう癖が抜けないのか、口元がたまにほどけて、頬に貼りついた髪を指で払う。
フェンスの外に、兄の悠真が立っていた。黒い網目越しに見る世界はいつもより遠く、別の季節に隔てられているように感じられた。近いのに、触れられない。自分だけが画面の外側にいるみたいだ、と悠真は思う。
「俺は日本一になる。茜、約束な」
颯真が走りながら言う。風にほどけた声は、それでも真っすぐ届く。茜は顔を赤くして、うなずいた。言葉はないけれど、うなずきの中に全部が入っている。
ペースを緩めた颯真が、フェンスのこちらへ寄ってきた。
「兄ちゃん、見てただろ。なあ、もし俺がいなくなったらさ、茜のこと頼むよ」
冗談めかした笑い方だった。いつもそう言って空気を軽くするのが颯真の癖だ。悠真は苦笑で返す。冗談に違いない。けれど、耳の奥にだけ妙に残った。
茜は二人を交互に見つめ、額の汗を手の甲で拭った。
「朝の光、今日はきれいだね」
誰にというわけでもない。頬の赤みは走ったせいばかりではなさそうだった。
入学式の前日。校舎の窓ガラスは磨かれて、まだ使われていない教室の机は木の匂いを濃く漂わせている。新しいクラス名簿の紙はつやつやして、そこに三人の名前が並ぶはずだった。
悠真はフェンスから手を離した。網の感触が指に残る。そこに残った痕は、この朝の輪郭のように、しばらく消えなかった。
*
午後になると風が変わった。西から乾いた空気が押し寄せ、グラウンドの白い塵をさらに軽くした。颯真は練習を切り上げ、茜と一緒に校門の外へ出る。ふたりの会話は他愛ない。ジュースは何味がよかったとか、坂上先生(新しい陸上部顧問)の走りの見本がやたら本格的だったとか。
歩幅が合うのは、長く隣り合ってきた証拠だ。茜は時々うつむき、くつ先で電柱の影を踏んでいく。影は踏まれても、形を崩さずに伸びたままだった。
「茜、俺、ほんとに都大路行くからさ」
「うん、知ってる」
「それで、卒業のときには――」
言葉は途中でほどけた。茜が笑って、代わりにまっすぐ言う。
「知ってるよ。颯真の言うこと、大体知ってる」
あたりまえを確かめるような会話。そのあたりまえは誰もが永遠だと思う。永遠のつもりでポケットに入れておいて、取り出そうとしたら落としてる、そんな種類のあたりまえ。
夕方、雲がうっすらと厚みを増し、街の色が一段階落ち着いた。颯真は「ちょっと寄り道してくる」と言って、茜と別れた。帰りが遅くなるほどの寄り道ではないはずだ。今日までずっとそうだったように、今日もそうだろう。悠真も母も、そう思っていた。
*
夜になって、電話が鳴った。
音は、いつもと同じ音のはずなのに、聞いたことのない音に聞こえた。受話器を取る母の指が震えて、言葉が途中で途切れた。たくさんの言葉が一度に押し寄せてきて、どれもちゃんと聞き取れない。人は本当に大切なことを告げられると、意味より先に音で殴られるのかもしれない。
病院の廊下は白く明るく、やけに長かった。靴音が吸い込まれて、遠さだけが増幅される。
処置室の前で待つ時間は、時計の針が嘘をついているようで、数字の進みが頼りにならなかった。
やがて扉が開いて、白衣の人が首を横に振った。
世界から音が消える。誰かが悲鳴を上げている。自分ではない誰か。けれど、胸の中央で何かが裂ける感覚だけは自分のものだった。
颯真は、帰らなかった。
*
通夜の夜は、たくさんの花がひらいていた。花びらの外側はまだ冷たいのに、中央は少しだけあたたかい色をしていた。
棺の中で眠る颯真は、いつもと同じ顔だった。練習帰りに寝落ちしたときと似ている。違うのは、どれだけ呼びかけても呼吸の上下が見えないこと。胸の布は、春の空気にぴくりとも揺れない。
茜は、颯真の練習用の襷を握りしめていた。薄い布地は汗の匂いをほんの少し含んでいる。何度も洗われた跡があり、布目のところどころがささくれていた。
手を離せる気がしなかった。離した瞬間、ひとの輪郭は写真になってしまう。茜はそれが怖かった。襷を握っていれば、ちゃんとここに続いていると信じられる。指がしびれても、握り続けた。
焼香の煙は、細い糸みたいに天井へ伸びていく。目にしみて涙が出る人が多かったけれど、悠真は泣けなかった。泣き方を体が忘れたみたいだった。
胸の奥に空洞ができて、そこへ音が吸い込まれていく。だれかが「無理しないで」と言い、だれかが「えらい子だった」と言い、だれかが「惜しい」と言う。言葉はどれも正しくて、どれも触れないところを通り過ぎていく。
帰り道、夜風が二人を追い抜いた。街灯の傘に虫が当たる音が小さく響く。
「走るのが、怖いの」
茜がぽつりとこぼす。「颯真と一緒に走るとね、速すぎて、世界が見えなくなるの。景色が線になって、風が壁みたいに押してくる。あの背中を、もう追いかけられない」
悠真は返す言葉を持たなかった。
慰めは嘘になってしまう。励ましは、なぐさめの形をした命令に見える瞬間がある。言えば言うほど遠ざかるものがある。言わないほうが、近づける瞬間もある。
だから、ただ隣を歩いた。靴底でアスファルトを確かめるみたいに、ことばの代わりに歩幅を合わせた。
*
夜が深くなるほど眠れなくなった。天井は同じ色のまま、時計の秒針だけが真面目に働いている。目をつぶると、フェンスの網目がまぶたの裏に浮かび、朝の光と、二つの影と、茜のうなずきがそこに貼りつく。
あの冗談めいたひと言が、耳の奥で繰り返される。――兄ちゃん、もし俺がいなくなったらさ、茜のこと頼むよ。
よくある軽口。笑って流せばよかった。流した。なのに、残った。
悠真はずっと、自分は「何者でもない」と思ってきた。勉強も運動も、淡い灰色の中ほどで止まって、誰かのすぐ下にいる。弟の背中はいつも遠く、追いかけようとも思わなかった。追いかければ差が、目に見えるかたちで測られてしまうから。
けれど今、測られたい、と思った。測られたところでどうにもならないとわかっていても、測られなければ始まらないものがある、とも思った。
枕元に、古いスポーツ雑誌が積んである。颯真が付録のトレーニング記事だけ切り取って持っていった残り。ページの角が折れている箇所に、細いペン跡があった。
『呼吸は、1と2で。吸って、吐いて、吐く』
書いたのは、たぶん颯真だ。夜中の静けさに、その文字だけが息をしているように見えた。
*
翌朝、まだ誰もいない校庭に、悠真は立っていた。ジャージの裾が足首で冷たく、吐く息が白い。
見よう見まねで軽くストレッチをし、膝を持ち上げ、肩を回す。準備をするふりをしているうちに、時間が少し動いた。
フェンスの影が長く伸びて、土の上に斜めの線を幾本も引く。その線を一本、また一本とまたいで、悠真は前へ出た。
最初の一歩は、驚くほど重かった。
二歩目で脛が張り、三歩目で足首が不機嫌になり、十歩目で肺が火照る。トラックの白線は、思っていたより遠く、思っていたより低く、思っていたより冷たい。
二百メートルで喉がひゅうと鳴った。三百メートルで視界が少し狭くなった。四百メートルを越えるころ、胸の中央がつかまれるみたいに締まって、呼吸が途切れた。
立ち止まる。
目の奥が熱くなる。涙は、いつもと違う場所から出てくる感じがした。苦しさに溶けて、汗といっしょに頬を伝う。
悔しさもあった。悔しさは、自分がまだ何かを欲しがっている証拠で、それが少しだけ救いになった。
ベンチの上に誰かが置いていった古い給水ボトルがあり、キャップのまわりに白い粉がこびり付いている。あれも汗のあと、塩のあと。人の努力は、目に見えないところで結晶になるのだ、とどうでもいいことを考える。
遠くでカラスが鳴き、近くで雀が鳴く。グラウンドは朝の音で満ちているのに、自分の呼吸だけがぎこちない。音の仲間に入れてもらえていない。
それでも、もう一歩、と思う。
もう一歩を出す理由は、立派でなくていい。立派でないほうが、長く続くこともある。
息を吸って、吐いて、吐く。ペン跡の文字を頭の中でなぞる。
足を前へ送る。体がわずかに前傾する。土が指先で柔らかく砕ける。音が少し、仲間に混ざる。
*
校舎の陰が短くなって、光が強くなる。フェンスの影は先ほどより薄くなり、線の形が曖昧になる。
悠真は、もう一周を始めた。さっきより遅いかもしれない。遅いという自覚が、なぜか少しだけ心を軽くした。速くはないが、止まっていない。止まっていないことは、速さに換算できない価値を持つ。
半周を過ぎたところで、校門の方から小さな足音が近づいてきた。茜だった。白い息を吐きながら、手に小さな紙袋を持っている。中にはコンビニのおにぎりが二つ、塩と鮭。
茜はフェンスの内側には入らず、外側で立ち止まった。網目越しに視線が合う。
「おはよう」
それだけ言って、紙袋をフェンスの上から差し出した。
「あとで食べて。走ったら、ちゃんと食べるの」
悠真は、走りながらうなずいた。うまくうなずけたかどうか自信はない。呼吸の音にまぎれて、自分の声が聞こえない。
茜はフェンスの外をゆっくり歩き、悠真が通過するたび、小さく手を叩いた。テンポは一定ではない。けれど、その不器用な手拍子は、さっきより少しだけ呼吸のリズムに近かった。
茜の首から、細いストラップがのぞく。そこには小さな布が結ばれていた。颯真の襷の一部だ。古くなって薄くなり、色は柔らかい青に抜けている。
彼女が手を叩くたび、布の端が小さく揺れた。揺れるたびに、薄い光を吸い込み、また吐き出した。
*
三周目の終わりで、脚が動かなくなった。呼吸より先に、脚のほうが先に音を上げることがある。筋肉の繊維一本一本に、小さな拒否の文字が書き込まれている感じ。
ベンチに腰を下ろすと、世界が少し揺れた。茜がフェンス越しにペットボトルを渡す。冷たい水が喉を通ると、体の内側の地図がほんの少し書き換わる。
「歩いてもいいよ」
茜が言う。「走るの、怖かったら」
「怖いよ」
悠真は正直に答えた。
「でも、歩く癖がつくのが、もっと怖い」
茜は少しだけ笑った。その笑いは、同意の形をしていた。
「颯真、言ってた。『歩くと冬に出る』って」
「……知ってる」
知っていた。聞いたことがある。意味も、少しわかる気がする。冬は本番の季節だ。秋までの小さな怠さは、冬に大きくなる。歩く一歩は、後で走り何歩分にもなる。
沈黙があって、茜がぽつりと続ける。
「私ね、走るのが怖いって言ったけど――たぶん、怖いのは、置いていかれることだった。颯真の速度が速すぎて、景色が線になって、私が点になって、離れていくのが怖かった。いまは、線が少し太い。点が少し大きい。……だから、見える」
見える、と茜は言った。
見えるものがあるとき、人は少しだけ強くなる。強さは形に残らないけれど、呼吸の質感に残る。
悠真は立ち上がった。足の裏で土を踏み、腰の位置をすこしだけ高くする。腕を前に引き、手のひらを柔らかく開く。
「もう一周、行く」
言葉は小さかったが、行く先ははっきりしていた。
茜が手を叩く。リズムはさっきより合う。音がまとまる。心拍がまだ走りの仲間に入れてはくれないけれど、近づく兆しはある。
*
グラウンドの外周の白線が、朝の光を受けて薄く光る。四周目の直線に入ると、風が真正面から当たってきた。短い草が一斉に同じ方向になびく。
風は壁にも、手にもなる。押し返す壁にも、体を前に送る手にも。どちらとして使うかは、ほんの少しの姿勢で変わる。
悠真は体を半歩だけ前に傾けた。腕を大きく振るのではなく、肩の根元から小さく動かす。靴底が土を離れる瞬間に、指先で見えない糸をつまむように意識する。
息が、少しだけ深くなった。
吸って、吐いて、吐く。ペン跡の文字が、体に移る。
フェンスの影が足首を撫でていく。撫でられても、足は止まらない。撫でられたのは、影ではなく昨日の自分かもしれない。
四周目のコーナーで、ふと、笑い声が聞こえた気がした。
聞こえるはずはないのに、確かにそこにあった種類の笑い声。
振り向けば消えてしまうから、振り向かない。前だけを見る。音は前にある。前にある音だけが、自分を引っ張る。
やっとの思いで白線をまたぐ。腕時計を見るほど余裕はない。けれど、さっきより少しだけ長く走れたことが、体のどこかでわかる。
肺の奥で火が静かに燃え、脚の筋肉がざわざわと不満を言い、心臓がそれでも働きをやめない。生きている、という言葉の意味が、すこしだけ具体的になった。
*
ベンチに戻ると、茜が紙袋を押しつけてきた。
「食べて。塩のほう」
命令のかたちをした優しさ。悠真は従う。海苔の香りが鼻に入る。米の甘さが、舌の上で遅れてやってくる。
咀嚼するたび、体の地図がまた書き換わる。食べることは、走ることの前提だ。そんな当たり前を、今日初めて自分の言葉として受け取れた。
茜は首のストラップに触れ、結び目を確かめるように指で押した。
「これ、ね。少し切ったの。ほんとは切っちゃいけないんだろうけど。重くなりすぎると持っていられないから。軽くして、持っている」
言葉は淡々としていた。淡々とした言葉のほうが、ずっと強いときがある。
悠真は、深く息を吸った。
「俺さ、たぶん、才能とかない。けど、歩かないでいられるかどうかは、俺が決められる。歩かないでいたら、いつか冬に、何かになれるかもしれない」
「なるよ」
茜は即答した。
「ならなくても、続けてる人は、続けてるということで誰かを支えてる。……たぶん、私がそう」
彼女の目は少し潤んでいるのに、まっすぐだった。
悠真はうなずいた。うなずくという行為は、走ることに似ている。小さいけれど前へ進む方向の動きだ。
*
朝のチャイムが鳴った。鳥の声よりも少し人工的で、少しだけ遅れて空へ広がる。校舎の窓に人影が動き、机がこすれる音が遠くから寄せる波みたいに届く。
日常が始まる音だった。日常は、ひとの死で止まらない。止まらないでいることが、残された者の残酷さであり、やさしさでもある。
悠真は、もう一度だけ、トラックを一周走った。歩きたいという誘惑は、コーナーごとに来た。来るたびに、腕を振り、足を出し、前を見た。
ゴールもタイムもない一周。けれど、終わりに白線をまたぐとき、胸の奥で何かが小さく鳴った。鐘の音に似ているが、鐘ではない。喉の奥の骨が鳴らす、個人的な音。
それは、始まったことを告げる音だった。
*
家に戻ると、玄関の下駄箱の上に、颯真のランニングシューズが置かれていた。泥のあとが乾き、紐は片方だけ解けかけている。母が何度も触っては置き、置いては触ったのだろう。紐の先が柔らかくなっていた。
リビングのテーブルには、お線香と小さな花。写真立ての中の笑顔は、昨日の続きに見えるのに、もう続きではない。
悠真は、引き出しからノートを取り出した。颯真が残した練習ノート。角が擦り切れ、表紙の角は白い。開けば小さな文字がびっしり並んでいて、ところどころに汗のしみがある。
『呼吸が合うと、世界が少し遅く見える』
そう書かれていた。今日、自分が見た世界は、たしかにほんの少しだけ遅かった。遅い世界は、怖くない。怖くない世界では、誰かの手を見失わずにいられる。
ペンを握る。自分の字で、今日のことを書いた。
『一周で止まった。泣いた。もう一周した。おにぎりを食べた。歩かなかった』
短い文章。けれど、短い文章は嘘がつきにくい。
ページの端を折り、日付を書き入れる。日付は、時間がちゃんと進んでいる証拠だ。進むことが怖い。けれど、怖いほうが、いまはいい。
窓を開けると、春の匂いが入ってきた。まだ冷たい。けれど、冷たさの端に、柔らかい何かが混ざっている。
悠真は、肩で息をしながら空を見た。雲は薄く、ところどころに青がのぞく。青は、颯真の襷の色にどこか似ていた。
――償うために、走ろう。
自分の中で、誰にも聞こえない声がはっきり形を持つ。償いは、誰に対してか。弟にか。茜にか。自分自身にか。答えはまだわからない。けれど、足を前に出すときだけ、少しわかる気がする。
机の端に、茜からもらった紙袋が置かれている。もうひとつのおにぎりは鮭だ。昼に食べよう。食べることは、走ることの一部だ。
襷の切れ端のことを思い出す。軽くして持っていく、という言葉。軽くするのは、忘れるためではない。遠くへ運ぶためだ。
窓の外で、小さな子どもが走る足音がした。ばたばたと、リズムは不揃い。けれど、楽しそうだった。
世界は、走る音で満ちている。
その中に、悠真の呼吸も、少しずつ混ざっていく。
春は、まだ本気を出していない。
けれど、誰かの本気はもう始まっている。
フェンスの影は、昼の光で薄くなり、見えなくなった。網目が消えても、境界はもう、必要ないのかもしれない。
悠真は靴紐を結び直し、もう一度だけ、白線の上に立つ。
吸って、吐いて、吐く。
春の途切れた呼吸は、少しだけ、つながった。



