朝の光は、鏡の中だけ薄く遅れて届く。
洗面台の前に立ったまま、私は腫れた目を見つめた。昨夜、空といっしょに読んだ陸の日記。紙の繊維に染みこんだ文字はまだ胸の奥で湿っていて、**〈君たちが笑っている未来を信じている〉**という一行が、やさしさの顔をした重しみたいに心の真ん中に座り込んでいる。願いであり、お守りであり、そして少しだけ残酷な呪い——笑わなければ裏切るように、笑えば置いていくように——そんな両方の刃で私を挟んでくる。
制服の襟を直しても、目の赤みは隠れなかった。コンシーラーの上から指先で軽く叩く。指の腹に乗る温度が、鏡越しに自分の体温とずれる。私は深く息を吸い、吐いた。吐き切るたび、胸の中の重さは形を変えるだけで、消えはしない。
教室は、週明けのざわめきを丸ごと受けとめていた。机の脚が床を擦る音、消しゴムの粉の匂い、誰かの笑い声。そのすべてから半歩ずつ遅れて私は座る。授業が始まり、黒板にチョークが走る。ノートを開いても、ペン先が紙に触れたまま前へ進めない。先生に当てられて名前を呼ばれても、答えが喉の手前でほどける。廊下の風鈴の音みたいに小さく、私の名前が教室の空気に揺れた。
「大丈夫?」
昼休み、美月がパンの袋をくしゃりと鳴らして隣に座った。彼女の指の白い関節がいつもよりよく見える。
「……ただ眠いだけ」
本当は眠れていない。陸と空、二人の姿が夢の中で重なって、何度も目が覚めた。美月は袋を小さく畳んで、こちらの顔を覗き込む。
「眠い顔じゃないけどな」
私は笑って見せる。笑いは形だけで、重心は別の場所にある。美月はそれ以上は何も言わなかった。パンの香りの向こうで、昼の光が机の端をやわらかく洗っていく。
放課後。足は自然と河川敷の方向へ向かう。体が覚えてしまった道だ。土手の階段を下りるたび、草の匂いが濃くなり、川の音が近づく。
空がいた。制服のまま草の上に座り、膝を立てて空を見上げている。呼ぶ前に、彼は気づいて振り返った。
「君も来ると思ってた」
照れたような、でもまっすぐな笑顔。陸と同じ瞳の色。けれど、笑い方は違う。陸が「次」を含んだ笑い方をする人なら、空は「いま」をそのまま差し出す人。胸の奥が、温かさと痛みで同時に脈打った。
並んで川沿いを歩いた。話題は軽く、どこにも棘がない。好きな食べ物——私は塩むすび、空はカレー。嫌いな教科——私は世界史、空は古典。将来の夢——私はまだ白紙、空は“走り続ける仕事”。陸とはしなかった話ばかりで、つい笑いがこぼれる。空も笑う。二人で笑うと、空気がやわらかくなる。胸の奥の硬いところに、お湯が注がれるみたいにじんわりと溶けていく。
その瞬間、胸に細い刃が走った。
——笑ってはいけない。
——楽しんではいけない。
——陸を失ったばかりなのに、弟と笑っている自分は最低だ。
足が止まる。笑いの余韻が喉の奥で凍り、息がうまく戻ってこない。
「どうした?」
空が覗き込む。彼の瞳に映る自分の顔が、余計に苦しくさせた。私は視線を落として、草の先を見た。
「……私、陸を裏切ってる気がする」
声は震え、涙が自分の意思と無関係に頬を伝う。
空は驚いたように目を見開き、少し俯いた。
「僕だって同じだよ」
風が一度、それだけの言葉を運ぶ。
「兄ちゃんが残した手紙で出会ったのに、君と話してると……兄ちゃんじゃなくて、君のことを考えてしまう」
胸の真ん中が、今度は別の意味で裂けそうになる。陸への想いと、いま目の前にいる空への想い。二つの感情がぶつかり合い、火花みたいな痛みが瞬く。私は唇を噛んだ。
「でも……」空は続ける。「兄ちゃんは僕たちに、未来を生きてほしいって願ってた。君が笑うのを、きっと望んでた」
「分かってる。……でも、怖いの。陸を忘れてしまいそうで」
口から出た瞬間、自分の言葉の幼さに少し傷つく。忘れるはずがないのに。忘れたくないから、余計に怖い。
空はためらいながら、私の手にそっと触れた。手のひらに温度が移る。違う。陸の手とは違う。指の長さ、握る強さ、呼吸に合わせて力を抜くタイミング。全部違うのに、涙は止まらない。
「忘れないよ」
空の声は震えていた。でも、芯はまっすぐだった。
「忘れるんじゃなくて、抱えて生きていくんだ。重い日は二人で持てばいい。君が半分、僕が半分。……いや、君が七割持つ日もあるし、僕が八割持つ日もある。そうやって、やりくりしよう」
私は嗚咽まじりに笑ってしまう。
「計算、合ってない」
「だろ?」
空も笑って、指先だけ握り直した。笑いと涙が、あっけなく隣り合う。川面に風が走り、陽の色をひと刷毛だけ濃くする。
歩き出す。沈黙に、昼の名残りと夕方の気配が混じる。土手の斜面の小さな穴から、虫がひょいと頭を出し、また消えた。私は深呼吸をして、言葉をさがす。
「空、あの……日記の最後の一文、ね」
〈君たちが笑っている未来を信じている〉。
「私、あれを読むと、笑わなきゃって焦る。でも、笑うと罪悪感が襲ってくる。どうしたらいいのか、分からない」
空は少し考え、靴のつま先で砂利を押した。
「“笑う”って、たぶん一種類じゃない。兄ちゃんの言ってる“笑う未来”は、ずっと口角が上がってる物語じゃなくて、泣いた日のあとに一回、偶然こぼれるやつとか、誰かの下手な冗談で仕方なく出るやつとか、走り終わった直後に酸素と混ざって出るやつとか、そういう、ばらばらの笑いの総称だと思う。……だから、罪悪感が来るなら、その笑いは“生きてる”ってことの証拠なんじゃないかな」
「生きてる証拠」
私はその言葉を胸の中の棚に置いた。手触りはまだ確かじゃないけれど、たしかに置ける形をしている。
橋の下の影に入ると、夏の熱が少しやわらいだ。鉄の匂い、冷たい空気、遠くで子どもが自転車のベルを鳴らす音。私たちは影を抜け、また光に出る。
「美月がね、私の顔を見て『怖い夢ばかり見てる顔』って言った」
「正しい」
「正しいのか」
「僕も昨夜、夢を見た。兄ちゃんが走ってて、僕も隣で走ってるんだけど、靴紐がほどけて、結び直して顔を上げたら、兄ちゃんの背中が二つに増えてた。片方は兄ちゃん、片方は……たぶん僕で、でも、君がそのどっちも見失わないように、二人でわざと同じ速度で走ってた」
「へんな夢」
「ね。へんな夢」
空は笑い、耳の後ろの汗を手の甲で拭った。その仕草が、見慣れていくことへの罪悪感をまた呼び、同時に救われることへの安堵も呼ぶ。相反するものが同じドアから出入りして、胸の中の廊下で肩をぶつけ合う。
ふいに、風向きが変わった。土手の上からカレーの匂いが降りてきて、私は小さく笑った。
「カレー、好きって言ってたね」
「うん。よく覚えてる」
「じゃあ、今日の“笑う”は、カレーに免じて許す」
「許された」
空は両手を挙げて見せる。大げさな仕草が、陸のそれとは違う角度で胸を温める。
歩き疲れて、斜面に座った。空は草の穂を一本ちぎり、指先でやさしくほどく。私はスカートの裾を整え、息を整える。
「空、さっきの『抱えて生きる』って、どうやって?」
「うーん。僕は、走るみたいに考える。重い日は、呼吸を小さく刻む。軽い日は、大きく吸って、大きく吐く。誰かと並ぶ日は、その人の呼吸に合わせる。……君といるときは、たぶん、君の呼吸に合わせたい」
「むずかしい」
「むずかしい。でも、練習する」
練習、という言葉が頼もしい。練習を重ねる未来は、失敗を前提にしているから、やさしい。私は空を見た。
「ねえ、空。私、いつか笑ってる写真を撮られるのが怖かった。写真って、笑ってる瞬間しか写らないから。泣いてる時間も、黙ってる時間も、まるごと裏切る気がして。でも……」
言葉を探す。
「今日、君と笑ったのは、泣いてる私を裏切ってないかもしれない。泣いたことをなくさない笑いが、たぶん、ある」
空は黙って頷いた。頷き方が、以前よりゆっくりで、深い。
「あるよ、きっと」
「……うん」
夕暮れが川を薄く染め始める。土手の影が長く伸び、虫の声がひとつ増え、またひとつ増える。私たちは立ち上がり、同じ速度で歩いた。罪悪感は消えない。消えないまま、持ち方を少しずつ覚える。持ち手を増やす。両手で持つ日もあれば、誰かに持ってもらう日もある。そんなふうにして、重さは重さのまま、運ばれていく。
家の角で別れるとき、空がポケットから何かを出した。飴玉だった。包み紙が薄い水色で、角だけきらりと光る。
「甘いもの、罪悪感を一瞬溶かす効能があるらしい」
「誰調べ」
「僕調べ」
私は笑って受け取った。包みを開け、口に放る。やさしい甘さが舌に広がる。涙がまたにじむ。
「……ありがとう」
「またね」
「また」
言ってから、喉の奥でその音の形を確かめる。陸の「また」と、空の「また」。どちらも同じ音で、違うものを連れてくる。
夜。ベッドに横たわると、涙が勝手にあふれた。罪悪感と安堵が、交互にやってくる。陸を想いながら、空を求めてしまう。矛盾の綱引きに身体ごと引き裂かれそうになり、私は枕に顔を埋めて声を殺した。泣くと、耳の奥が静かになる。呼吸の音がはっきりして、自分がいまここにいることだけが残る。
目を閉じると、夢がやってくる。陸が笑顔で手を振る。その背後に、空が立っている。二人の影が重なり、やがて離れ、また重なる。遠くで花火の小さな音がした。二人は同時に唇を動かす。
——生きろ。
その言葉の押し方が違った。陸の「生きろ」は、背中を軽く押す風。空の「生きろ」は、隣で呼吸のリズムを合わせる音。二つが重なって、胸の奥に小さな灯りがともる。
はっと目を覚ます。枕は濡れていた。窓の外はまだ深い紺で、街灯の光がカーテンの隙間から帯になって差し込む。私は仰向けのまま、天井の角を見つめた。
——忘れない。抱えて生きる。
呟くと、言葉は部屋の空気の温度に馴染んで、ゆっくりと沈んだ。胸の真ん中の重さは、消えない。でも、持ち直せる。持ち直すたび、手のひらに小さな茹でこぼしみたいな罪悪感が残って、それもまた私のものになる。
寝返りを打つ。枕元には、閉じたままの日記帳。表紙の角に指を添え、そっと撫でる。開かない夜があっていい。開かないで眠る夜が、きっと“笑う未来”のどこかに繋がっている。そう思えるだけで、目の裏の暗がりが少しだけやわらいだ。
「おやすみ、陸」
「おやすみ、空」
声に出す。どちらにも、きちんと届く。蝉のいない夏の夜、虫の音が静かに背中を支える。私はその音の上に身体を横たえ、ゆっくり呼吸を揃えた。
罪悪感はまだここにいる。けれど、隣に置けた。明日の朝、鏡の中の自分に「大丈夫」とは言えないかもしれない。でも、「だいじょうぶになっていく途中だよ」とは言える気がした。
目を閉じる。暗闇の奥で、二つの「また」が、順番に灯っては消えた。私はその明滅に合わせて、眠りへ降りていった。
洗面台の前に立ったまま、私は腫れた目を見つめた。昨夜、空といっしょに読んだ陸の日記。紙の繊維に染みこんだ文字はまだ胸の奥で湿っていて、**〈君たちが笑っている未来を信じている〉**という一行が、やさしさの顔をした重しみたいに心の真ん中に座り込んでいる。願いであり、お守りであり、そして少しだけ残酷な呪い——笑わなければ裏切るように、笑えば置いていくように——そんな両方の刃で私を挟んでくる。
制服の襟を直しても、目の赤みは隠れなかった。コンシーラーの上から指先で軽く叩く。指の腹に乗る温度が、鏡越しに自分の体温とずれる。私は深く息を吸い、吐いた。吐き切るたび、胸の中の重さは形を変えるだけで、消えはしない。
教室は、週明けのざわめきを丸ごと受けとめていた。机の脚が床を擦る音、消しゴムの粉の匂い、誰かの笑い声。そのすべてから半歩ずつ遅れて私は座る。授業が始まり、黒板にチョークが走る。ノートを開いても、ペン先が紙に触れたまま前へ進めない。先生に当てられて名前を呼ばれても、答えが喉の手前でほどける。廊下の風鈴の音みたいに小さく、私の名前が教室の空気に揺れた。
「大丈夫?」
昼休み、美月がパンの袋をくしゃりと鳴らして隣に座った。彼女の指の白い関節がいつもよりよく見える。
「……ただ眠いだけ」
本当は眠れていない。陸と空、二人の姿が夢の中で重なって、何度も目が覚めた。美月は袋を小さく畳んで、こちらの顔を覗き込む。
「眠い顔じゃないけどな」
私は笑って見せる。笑いは形だけで、重心は別の場所にある。美月はそれ以上は何も言わなかった。パンの香りの向こうで、昼の光が机の端をやわらかく洗っていく。
放課後。足は自然と河川敷の方向へ向かう。体が覚えてしまった道だ。土手の階段を下りるたび、草の匂いが濃くなり、川の音が近づく。
空がいた。制服のまま草の上に座り、膝を立てて空を見上げている。呼ぶ前に、彼は気づいて振り返った。
「君も来ると思ってた」
照れたような、でもまっすぐな笑顔。陸と同じ瞳の色。けれど、笑い方は違う。陸が「次」を含んだ笑い方をする人なら、空は「いま」をそのまま差し出す人。胸の奥が、温かさと痛みで同時に脈打った。
並んで川沿いを歩いた。話題は軽く、どこにも棘がない。好きな食べ物——私は塩むすび、空はカレー。嫌いな教科——私は世界史、空は古典。将来の夢——私はまだ白紙、空は“走り続ける仕事”。陸とはしなかった話ばかりで、つい笑いがこぼれる。空も笑う。二人で笑うと、空気がやわらかくなる。胸の奥の硬いところに、お湯が注がれるみたいにじんわりと溶けていく。
その瞬間、胸に細い刃が走った。
——笑ってはいけない。
——楽しんではいけない。
——陸を失ったばかりなのに、弟と笑っている自分は最低だ。
足が止まる。笑いの余韻が喉の奥で凍り、息がうまく戻ってこない。
「どうした?」
空が覗き込む。彼の瞳に映る自分の顔が、余計に苦しくさせた。私は視線を落として、草の先を見た。
「……私、陸を裏切ってる気がする」
声は震え、涙が自分の意思と無関係に頬を伝う。
空は驚いたように目を見開き、少し俯いた。
「僕だって同じだよ」
風が一度、それだけの言葉を運ぶ。
「兄ちゃんが残した手紙で出会ったのに、君と話してると……兄ちゃんじゃなくて、君のことを考えてしまう」
胸の真ん中が、今度は別の意味で裂けそうになる。陸への想いと、いま目の前にいる空への想い。二つの感情がぶつかり合い、火花みたいな痛みが瞬く。私は唇を噛んだ。
「でも……」空は続ける。「兄ちゃんは僕たちに、未来を生きてほしいって願ってた。君が笑うのを、きっと望んでた」
「分かってる。……でも、怖いの。陸を忘れてしまいそうで」
口から出た瞬間、自分の言葉の幼さに少し傷つく。忘れるはずがないのに。忘れたくないから、余計に怖い。
空はためらいながら、私の手にそっと触れた。手のひらに温度が移る。違う。陸の手とは違う。指の長さ、握る強さ、呼吸に合わせて力を抜くタイミング。全部違うのに、涙は止まらない。
「忘れないよ」
空の声は震えていた。でも、芯はまっすぐだった。
「忘れるんじゃなくて、抱えて生きていくんだ。重い日は二人で持てばいい。君が半分、僕が半分。……いや、君が七割持つ日もあるし、僕が八割持つ日もある。そうやって、やりくりしよう」
私は嗚咽まじりに笑ってしまう。
「計算、合ってない」
「だろ?」
空も笑って、指先だけ握り直した。笑いと涙が、あっけなく隣り合う。川面に風が走り、陽の色をひと刷毛だけ濃くする。
歩き出す。沈黙に、昼の名残りと夕方の気配が混じる。土手の斜面の小さな穴から、虫がひょいと頭を出し、また消えた。私は深呼吸をして、言葉をさがす。
「空、あの……日記の最後の一文、ね」
〈君たちが笑っている未来を信じている〉。
「私、あれを読むと、笑わなきゃって焦る。でも、笑うと罪悪感が襲ってくる。どうしたらいいのか、分からない」
空は少し考え、靴のつま先で砂利を押した。
「“笑う”って、たぶん一種類じゃない。兄ちゃんの言ってる“笑う未来”は、ずっと口角が上がってる物語じゃなくて、泣いた日のあとに一回、偶然こぼれるやつとか、誰かの下手な冗談で仕方なく出るやつとか、走り終わった直後に酸素と混ざって出るやつとか、そういう、ばらばらの笑いの総称だと思う。……だから、罪悪感が来るなら、その笑いは“生きてる”ってことの証拠なんじゃないかな」
「生きてる証拠」
私はその言葉を胸の中の棚に置いた。手触りはまだ確かじゃないけれど、たしかに置ける形をしている。
橋の下の影に入ると、夏の熱が少しやわらいだ。鉄の匂い、冷たい空気、遠くで子どもが自転車のベルを鳴らす音。私たちは影を抜け、また光に出る。
「美月がね、私の顔を見て『怖い夢ばかり見てる顔』って言った」
「正しい」
「正しいのか」
「僕も昨夜、夢を見た。兄ちゃんが走ってて、僕も隣で走ってるんだけど、靴紐がほどけて、結び直して顔を上げたら、兄ちゃんの背中が二つに増えてた。片方は兄ちゃん、片方は……たぶん僕で、でも、君がそのどっちも見失わないように、二人でわざと同じ速度で走ってた」
「へんな夢」
「ね。へんな夢」
空は笑い、耳の後ろの汗を手の甲で拭った。その仕草が、見慣れていくことへの罪悪感をまた呼び、同時に救われることへの安堵も呼ぶ。相反するものが同じドアから出入りして、胸の中の廊下で肩をぶつけ合う。
ふいに、風向きが変わった。土手の上からカレーの匂いが降りてきて、私は小さく笑った。
「カレー、好きって言ってたね」
「うん。よく覚えてる」
「じゃあ、今日の“笑う”は、カレーに免じて許す」
「許された」
空は両手を挙げて見せる。大げさな仕草が、陸のそれとは違う角度で胸を温める。
歩き疲れて、斜面に座った。空は草の穂を一本ちぎり、指先でやさしくほどく。私はスカートの裾を整え、息を整える。
「空、さっきの『抱えて生きる』って、どうやって?」
「うーん。僕は、走るみたいに考える。重い日は、呼吸を小さく刻む。軽い日は、大きく吸って、大きく吐く。誰かと並ぶ日は、その人の呼吸に合わせる。……君といるときは、たぶん、君の呼吸に合わせたい」
「むずかしい」
「むずかしい。でも、練習する」
練習、という言葉が頼もしい。練習を重ねる未来は、失敗を前提にしているから、やさしい。私は空を見た。
「ねえ、空。私、いつか笑ってる写真を撮られるのが怖かった。写真って、笑ってる瞬間しか写らないから。泣いてる時間も、黙ってる時間も、まるごと裏切る気がして。でも……」
言葉を探す。
「今日、君と笑ったのは、泣いてる私を裏切ってないかもしれない。泣いたことをなくさない笑いが、たぶん、ある」
空は黙って頷いた。頷き方が、以前よりゆっくりで、深い。
「あるよ、きっと」
「……うん」
夕暮れが川を薄く染め始める。土手の影が長く伸び、虫の声がひとつ増え、またひとつ増える。私たちは立ち上がり、同じ速度で歩いた。罪悪感は消えない。消えないまま、持ち方を少しずつ覚える。持ち手を増やす。両手で持つ日もあれば、誰かに持ってもらう日もある。そんなふうにして、重さは重さのまま、運ばれていく。
家の角で別れるとき、空がポケットから何かを出した。飴玉だった。包み紙が薄い水色で、角だけきらりと光る。
「甘いもの、罪悪感を一瞬溶かす効能があるらしい」
「誰調べ」
「僕調べ」
私は笑って受け取った。包みを開け、口に放る。やさしい甘さが舌に広がる。涙がまたにじむ。
「……ありがとう」
「またね」
「また」
言ってから、喉の奥でその音の形を確かめる。陸の「また」と、空の「また」。どちらも同じ音で、違うものを連れてくる。
夜。ベッドに横たわると、涙が勝手にあふれた。罪悪感と安堵が、交互にやってくる。陸を想いながら、空を求めてしまう。矛盾の綱引きに身体ごと引き裂かれそうになり、私は枕に顔を埋めて声を殺した。泣くと、耳の奥が静かになる。呼吸の音がはっきりして、自分がいまここにいることだけが残る。
目を閉じると、夢がやってくる。陸が笑顔で手を振る。その背後に、空が立っている。二人の影が重なり、やがて離れ、また重なる。遠くで花火の小さな音がした。二人は同時に唇を動かす。
——生きろ。
その言葉の押し方が違った。陸の「生きろ」は、背中を軽く押す風。空の「生きろ」は、隣で呼吸のリズムを合わせる音。二つが重なって、胸の奥に小さな灯りがともる。
はっと目を覚ます。枕は濡れていた。窓の外はまだ深い紺で、街灯の光がカーテンの隙間から帯になって差し込む。私は仰向けのまま、天井の角を見つめた。
——忘れない。抱えて生きる。
呟くと、言葉は部屋の空気の温度に馴染んで、ゆっくりと沈んだ。胸の真ん中の重さは、消えない。でも、持ち直せる。持ち直すたび、手のひらに小さな茹でこぼしみたいな罪悪感が残って、それもまた私のものになる。
寝返りを打つ。枕元には、閉じたままの日記帳。表紙の角に指を添え、そっと撫でる。開かない夜があっていい。開かないで眠る夜が、きっと“笑う未来”のどこかに繋がっている。そう思えるだけで、目の裏の暗がりが少しだけやわらいだ。
「おやすみ、陸」
「おやすみ、空」
声に出す。どちらにも、きちんと届く。蝉のいない夏の夜、虫の音が静かに背中を支える。私はその音の上に身体を横たえ、ゆっくり呼吸を揃えた。
罪悪感はまだここにいる。けれど、隣に置けた。明日の朝、鏡の中の自分に「大丈夫」とは言えないかもしれない。でも、「だいじょうぶになっていく途中だよ」とは言える気がした。
目を閉じる。暗闇の奥で、二つの「また」が、順番に灯っては消えた。私はその明滅に合わせて、眠りへ降りていった。



