君のいない夏を、君と歩く

 夜の静けさは、紙の上を歩く音まで聞こえそうなくらい薄かった。
 机の上に置いた〈日記帳〉は、スタンドライトの小さな光を吸って、深い影をつくる。表紙は柔らかくなっていて、角はすり減り、指先を滑らせると布のような手触りがあった。そこに触れているだけで、陸の温度が、ほんの名残だけど、確かに指に移ってくる気がした。

 ——開きたい。
 ——でも、開いた瞬間に、何かが終わってしまう。

 指は表紙の端をつまんだまま震え、爪の白い半月が濃くなる。スタンドの光は、日記帳の縁に細い銀色の線を置いて、そこから先は闇の層に落ちていく。ページの向こうに待っているものが、未来ではなく過去だと思うほど、喉が狭くなる。

 そのとき、スマホが机の上で小さく震えた。
 〈今、外に出られる?〉——空から。

 胸の真ん中が、ひと呼吸ぶんだけ軽くなる。私は日記帳を抱え、音を立てないように部屋を出た。廊下の木目は薄い月光で白く、母の寝息が遠い波のように行き来している。玄関の鍵を回す音が夜に触れないよう、息を止めて外へ出た。

 外は蒸して、夏の夜の匂いが濃かった。蝉は黙り、代わりに虫の音が低く長く続く。アスファルトの上に夜露が薄く光り、信号の青が濃く見える。私は河川敷へ向かい、土手の階段を一段ずつ下りた。

 空は先に来ていた。制服のままで、手には小さな懐中電灯。光の輪が草の穂先を点で拾い、風にあわせて揺れる。
 「一緒に読むって、言ってただろ」
 強がるみたいな声だった。でも、耳の奥に触れるところが柔らかい。不安がそのまま呼吸に混じっている。

 私はうなずき、草の上に膝をついた。空が懐中電灯をページの横から照らす。光はまっすぐで、紙の繊維が小さな地図みたいに浮き上がった。

 表紙を開く。最初のページに、陸の癖のある字があった。丸く、ところどころでペン先が止まる。数字の四は、やっぱり三角で閉じられている。

 〈もしもこの日記が結衣の手に渡っているなら、僕はもうこの世にいないだろう〉

 文字が目に入った瞬間、視界が滲んだ。懐中電灯の光が小さく揺れ、川面の光と混ざる。隣で空が息を飲む音がして、その音自体がやわらかい刃になって胸に触れた。

 ページをめくる。紙のこすれる音が、夜の深いところへ吸い込まれる。
 〈自分が病気だとわかったのは、去年の春だ〉
 〈誰にも言わなかった。父にも、空にも、結衣にも〉
 〈結衣には、とくに言えなかった。伝えたら泣かせてしまうと、思った〉
 〈泣く顔を見たくなかった。泣く声を、僕のせいにしたくなかった〉

 光るものが、ぽたり、と紙の上に落ちる前に、空の手がそっとハンカチを差し入れた。私は「あ……」と小さく息をのむ。空の指は、少しだけ震えていた。

 〈僕は結衣に「ありがとう」を言えないまま終わるかもしれない〉
 〈でも、泣かないでほしい〉
 〈一年後、この場所で待ってる〉

 その行が、胸の奥でたしかな音を立てた。——この一文は、手紙と同じ。けれど、ここにある「泣かないでほしい」は、手紙にはなかった。ページの上の陸は、私の知らない陸だった。私が知っている陸の目と笑い方を持ちながら、私から隠れていた時間の陸。

 「兄ちゃん……」
 空が、ほとんど声にならない声で言った。その響きに、遠くの誰かが灯すポーチライトの黄色が混じって聞こえた。私は唇をかみ、次のページへ指を送る。

 〈病気は長くは続かない種類だと言われた。だから、その短い時間をどう使えばいいか、ずっと考えた〉
 〈結衣に泣いてほしくない、というのはワガママだ。泣くのは生きている証拠だから〉
 〈だから、泣いたあとに、歩き出せるようにしておきたい〉
 〈僕がいなくなったあとの結衣に、僕以外の誰かの声が届くように〉

 光がまた揺れた。風が川の幅をなで、虫の音が厚みを増す。私は、小さく首を振ることしかできない。
 「ずるい」
 いつの間にか口からもれていた。
 「……ずるいよ、陸。そんなふうに先回りして、勝手に未来を用意して」

 空は黙っていた。黙ったまま、息の深さだけで、同じところに立っていると教えてくれた。

 〈空へ〉
 次のページの最初の二文字に、私も空も同時に視線を止めた。
 〈空、君は僕のことを写真でしか知らないと、何度も思った〉
 〈それは僕のせいだ。会いに行かなかったからだ〉
 〈君が僕に似ていると言われるたびに、君の輪郭が薄くなるなら、ごめん〉
 〈君は君だ。僕の代わりじゃない〉
 〈君が君の速度で、君の呼吸で、結衣の言葉を受け取ってくれたら、それがいちばんいい〉
 〈そして、もしできるなら——〉
 〈結衣を頼む〉

 空が短く息を呑んだ。懐中電灯の光が、ほんの一瞬だけ草の方へ外れ、すぐに戻る。
 「……兄ちゃん、全部、わかってたんだね」
 かすれた声。
 「僕たちが、どう泣くかまで」

 私は耐えきれず、顔を両手で覆った。指の間から、熱がこぼれる。嗚咽は思ったより大きくて、夜の広い背中にすぐ吸われていった。
 「置いていった、くせに」
 空が言った。唇のかたちだけ、子どもみたいに震える。
 「置いていった、って思ってたけど……守ってたんだ、たぶん。僕らの歩き方まで」

 「置いていったんじゃない……守ってくれたんだよ」
 言葉が声になった瞬間、胸の堰が壊れた。涙は勢いを増し、頬と顎を熱で伝って落ちる。私は日記帳を胸に抱きしめた。紙の角が胸骨に当たり、痛い。その痛みは、ここに存在している証拠だった。

 〈結衣へ〉
 ページの上で、陸の字が私の名前を呼ぶ。
 〈君は、泣くことができる人だ。泣かないように頑張るより、泣ける強さを信じている〉
 〈君の泣き方は、僕の好きな海に似ている。満ちて、引いて、また満ちる〉
 〈満ちたあとに残る貝殻みたいに、君の言葉はきっと、誰かのポケットに残る〉
 〈それから、僕は「ありがとう」を何度も忘れそうになるから、いま書く〉
 〈ありがとう。君が僕の隣にいてくれたこと。僕の話を最後まで聞いてくれたこと。君の失敗を笑って、僕の失敗をもっと笑ってくれたこと〉
 〈君が未来へ行くとき、僕は君の背中を押せるだろうか〉
 〈もし押せなかったら、風になって君の髪を動かす〉

 文字を追うたびに、記憶の灯りが次々と点った。アイスを割りそこねて笑った夏。焼きそばスープと呼ぶしかなかった文化祭。冬の帰り道、缶コーヒーの熱さを陸の手に押しつけた夜。全部が「いま読み上げられている私の名前」と糸で結び直される。

 「陸……会いたいよ」
 声は夜の背中を渡って、川風に運ばれていく。星のない黒の上空で、きっとすぐさま見えないところへ散っていく。それでも、言わずにはいられなかった。

 空は私の肩にそっと手を置いた。指が震えて、体温が、皮膚の下で不器用に混ざる。
 「結衣」
 名前だけ呼ばれて、私はまた泣いた。名前は、涙腺のどこかを確実に押すスイッチだ。

 ページの隅に、あの日と同じ地図が描いてあった。赤い×印は薄れていて、指でなぞると、指先がわずかに赤を拾った。
 〈一年後、この場所で待ってる〉
 その下に、小さな字で、さらに一行。
 〈君が来られなかったら、それでもいい。来られる日が来ると、僕は信じてる〉

 ——信じられている。
 人に信じられることは、時々苦しい。信頼は、重さを伴って胸に乗る。けれどその重さは、背筋を少し伸ばさせる種類の重さだった。

 最後のページは、驚くほど短かった。
 〈結衣、空。僕は、君たちが笑っている未来を信じている〉
 それだけ。言い切りで終わる文字は、夜の端にしっかり結び目をつくった。

 読み終えた瞬間、私は日記帳を胸に抱いて、声を上げて泣いた。涙は草を濡らし、懐中電灯の光の点で小さく光った。空も隣で泣いていた。兄を知らないまま憧れ続け、ようやく心の一部に触れた——その痛みと、受け取ってしまった願いの重さに、肩がわずかに揺れている。

 泣きながら、私はふと思う。
 ——この夜は、たぶん、ここで終わらない。
 泣く前の自分と、泣いたあとの自分は、同じ体温で続いている。泣き切った先に残る空白に、言葉がひとつ置けるかもしれない。陸が残した余白。私たちが書く余白。

 「空」
 私は涙を拭いながら呼んだ。
 「……ありがとう。来てくれて。いっしょに読んでくれて」
 空は首を横に振る。
 「僕こそ。君がいてくれたから、開けた」
 「開けたけど、閉じたね」
 「うん。今夜は、閉じる夜でいいと思う」

 懐中電灯の光を落とすと、世界はすぐに暗くなった。暗闇は怖いけれど、音がよく聞こえる。川のせせらぎ、虫の音、遠くの車のタイヤが橋を渡るときの振動。私たちの呼吸。
 「……陸の『また』、聞こえた気がする」
 私が言うと、空は目を閉じたまま頷いた。
 「僕も。『また』って、言い方だけ置いて、いなくなるの、兄ちゃんっぽい」

 「ずるいよね」
 「うん。ずるい。でも、ずるいの好きだろ?」
 「好き」
 笑いながら、また少し泣いた。

 やがて、風が向きを変え、肌に触れる湿度が少しだけ下がった。泣いたあとの皮膚は敏感で、夜気のわずかな変化も拾う。私は日記帳を丁寧に閉じ、表紙を撫でた。
 「空。……これ、しばらく、私が持ってていい?」
 「当たり前だよ。君の名前で始まって、君の名前で結ばれてる本だ」
 「でも、時々、いっしょに読んで」
 「うん。ページをめくらない日も、いっしょに持ってよう」

 立ち上がると、草の湿りが膝に残った。空は懐中電灯を消し、スマホの画面で時間を確認する。日付の境目は、もうすぐそこにある。
 「送るよ」
 空が言い、私たちは土手をゆっくり上った。夜目に慣れた足は、昼よりも確かに地面を選ぶ。階段の最後の一段で、私はふと振り返った。闇の中に、川は気配だけで流れている。声にはしない「また」を、私は夜に預けた。

 帰り道、空は多くを話さなかった。並ぶ沈黙は、さっきより軽い。二人で持つにはちょうどいい重さ。家の角を曲がるところで、空が立ち止まり、息を整えて言った。
 「結衣」
 「うん」
 「明日の朝、少しだけ走る。……君の『泣いたあとの歩き方』、僕、並べると思う」
 心臓が、静かに高く跳ねた。
 「私、走るの苦手だけど」
 「知ってる。ゆっくりでいい。置いていかないよ」
 「置いていかない、って言葉、信じるから」
 「信じて」

 玄関の前で別れた。ドアを閉める直前、空が小さく手を上げる。声にしない「また」が、もう一度、夜に混ざった。

 部屋に戻ると、スタンドライトの光が前より暖かく見えた。日記帳を机に置き、イスに座る。深く息を吸い、ゆっくり吐く。胸の中で、何かが微かに揺れる。——陸を失った痛みの奥で、かすかな温もりが灯る。種火みたいに小さい。掌で守れるくらい小さい。でも、確かにそこにある。

 私はペンを出し、日記帳とは別の真っ白な紙を一枚、机に置いた。書き出しの言葉を迷って、何度かペン先が宙で止まる。やがて、一行だけ書いた。
 〈泣いたあとに、歩く〉
 紙は、静かにそれを受け取った。

 窓の外が、藍から薄い灰へ少しずつほどけていく。夜の端に朝が縫い付けられる。遠くで新聞配達のバイクが一度だけ通り過ぎた。私はスタンドを消し、ベッドに横たわった。日記帳は胸の上ではなく、枕元に置く。手を伸ばせば触れられる距離。触れなくても、そこにある距離。

 目を閉じると、陸の字が瞼の裏に浮かぶ。空の「兄ちゃん」という呼び方も、同じ場所で微かに光る。二つの光は喧嘩しない。交互に明滅して、やがて重なり、また離れる。私はそのリズムに合わせて呼吸した。

 ——結衣、空。僕は、君たちが笑っている未来を信じている。

 最後の一文が、眠りの手前でくっきりと読めた。私はその文の端をそっと折り目のように心に挟み、「おやすみ」と小さく言った。返事はない。けれど、風がカーテンを揺らし、髪に触れていった。押されたのか、撫でられたのか、判断のつかないやさしさで。

 目覚めるころ、胸の中の種火は、消えていなかった。むしろ、ほんの少しだけ赤くなっている。私はそれを胸の中央に持ち直し、起き上がる。今日もきっと、川へ行く。そして、ゆっくり走る。泣いたあとに、歩く。歩きながら、少しだけ笑う。
 窓の向こうに、薄い朝焼け。私は小声で言ってみる。
 「——また」
 その音は、静かに部屋の空気に溶け、私の背中をやわらかく押した。