夜の静けさは、紙の上を歩く音まで聞こえそうなくらい薄かった。
机の上に置いた〈日記帳〉は、スタンドライトの小さな光を吸って、深い影をつくる。表紙は柔らかくなっていて、角はすり減り、指先を滑らせると布のような手触りがあった。そこに触れているだけで、陸の温度が、ほんの名残だけど、確かに指に移ってくる気がした。
——開きたい。
——でも、開いた瞬間に、何かが終わってしまう。
指は表紙の端をつまんだまま震え、爪の白い半月が濃くなる。スタンドの光は、日記帳の縁に細い銀色の線を置いて、そこから先は闇の層に落ちていく。ページの向こうに待っているものが、未来ではなく過去だと思うほど、喉が狭くなる。
そのとき、スマホが机の上で小さく震えた。
〈今、外に出られる?〉——空から。
胸の真ん中が、ひと呼吸ぶんだけ軽くなる。私は日記帳を抱え、音を立てないように部屋を出た。廊下の木目は薄い月光で白く、母の寝息が遠い波のように行き来している。玄関の鍵を回す音が夜に触れないよう、息を止めて外へ出た。
外は蒸して、夏の夜の匂いが濃かった。蝉は黙り、代わりに虫の音が低く長く続く。アスファルトの上に夜露が薄く光り、信号の青が濃く見える。私は河川敷へ向かい、土手の階段を一段ずつ下りた。
空は先に来ていた。制服のままで、手には小さな懐中電灯。光の輪が草の穂先を点で拾い、風にあわせて揺れる。
「一緒に読むって、言ってただろ」
強がるみたいな声だった。でも、耳の奥に触れるところが柔らかい。不安がそのまま呼吸に混じっている。
私はうなずき、草の上に膝をついた。空が懐中電灯をページの横から照らす。光はまっすぐで、紙の繊維が小さな地図みたいに浮き上がった。
表紙を開く。最初のページに、陸の癖のある字があった。丸く、ところどころでペン先が止まる。数字の四は、やっぱり三角で閉じられている。
〈もしもこの日記が結衣の手に渡っているなら、僕はもうこの世にいないだろう〉
文字が目に入った瞬間、視界が滲んだ。懐中電灯の光が小さく揺れ、川面の光と混ざる。隣で空が息を飲む音がして、その音自体がやわらかい刃になって胸に触れた。
ページをめくる。紙のこすれる音が、夜の深いところへ吸い込まれる。
〈自分が病気だとわかったのは、去年の春だ〉
〈誰にも言わなかった。父にも、空にも、結衣にも〉
〈結衣には、とくに言えなかった。伝えたら泣かせてしまうと、思った〉
〈泣く顔を見たくなかった。泣く声を、僕のせいにしたくなかった〉
光るものが、ぽたり、と紙の上に落ちる前に、空の手がそっとハンカチを差し入れた。私は「あ……」と小さく息をのむ。空の指は、少しだけ震えていた。
〈僕は結衣に「ありがとう」を言えないまま終わるかもしれない〉
〈でも、泣かないでほしい〉
〈一年後、この場所で待ってる〉
その行が、胸の奥でたしかな音を立てた。——この一文は、手紙と同じ。けれど、ここにある「泣かないでほしい」は、手紙にはなかった。ページの上の陸は、私の知らない陸だった。私が知っている陸の目と笑い方を持ちながら、私から隠れていた時間の陸。
「兄ちゃん……」
空が、ほとんど声にならない声で言った。その響きに、遠くの誰かが灯すポーチライトの黄色が混じって聞こえた。私は唇をかみ、次のページへ指を送る。
〈病気は長くは続かない種類だと言われた。だから、その短い時間をどう使えばいいか、ずっと考えた〉
〈結衣に泣いてほしくない、というのはワガママだ。泣くのは生きている証拠だから〉
〈だから、泣いたあとに、歩き出せるようにしておきたい〉
〈僕がいなくなったあとの結衣に、僕以外の誰かの声が届くように〉
光がまた揺れた。風が川の幅をなで、虫の音が厚みを増す。私は、小さく首を振ることしかできない。
「ずるい」
いつの間にか口からもれていた。
「……ずるいよ、陸。そんなふうに先回りして、勝手に未来を用意して」
空は黙っていた。黙ったまま、息の深さだけで、同じところに立っていると教えてくれた。
〈空へ〉
次のページの最初の二文字に、私も空も同時に視線を止めた。
〈空、君は僕のことを写真でしか知らないと、何度も思った〉
〈それは僕のせいだ。会いに行かなかったからだ〉
〈君が僕に似ていると言われるたびに、君の輪郭が薄くなるなら、ごめん〉
〈君は君だ。僕の代わりじゃない〉
〈君が君の速度で、君の呼吸で、結衣の言葉を受け取ってくれたら、それがいちばんいい〉
〈そして、もしできるなら——〉
〈結衣を頼む〉
空が短く息を呑んだ。懐中電灯の光が、ほんの一瞬だけ草の方へ外れ、すぐに戻る。
「……兄ちゃん、全部、わかってたんだね」
かすれた声。
「僕たちが、どう泣くかまで」
私は耐えきれず、顔を両手で覆った。指の間から、熱がこぼれる。嗚咽は思ったより大きくて、夜の広い背中にすぐ吸われていった。
「置いていった、くせに」
空が言った。唇のかたちだけ、子どもみたいに震える。
「置いていった、って思ってたけど……守ってたんだ、たぶん。僕らの歩き方まで」
「置いていったんじゃない……守ってくれたんだよ」
言葉が声になった瞬間、胸の堰が壊れた。涙は勢いを増し、頬と顎を熱で伝って落ちる。私は日記帳を胸に抱きしめた。紙の角が胸骨に当たり、痛い。その痛みは、ここに存在している証拠だった。
〈結衣へ〉
ページの上で、陸の字が私の名前を呼ぶ。
〈君は、泣くことができる人だ。泣かないように頑張るより、泣ける強さを信じている〉
〈君の泣き方は、僕の好きな海に似ている。満ちて、引いて、また満ちる〉
〈満ちたあとに残る貝殻みたいに、君の言葉はきっと、誰かのポケットに残る〉
〈それから、僕は「ありがとう」を何度も忘れそうになるから、いま書く〉
〈ありがとう。君が僕の隣にいてくれたこと。僕の話を最後まで聞いてくれたこと。君の失敗を笑って、僕の失敗をもっと笑ってくれたこと〉
〈君が未来へ行くとき、僕は君の背中を押せるだろうか〉
〈もし押せなかったら、風になって君の髪を動かす〉
文字を追うたびに、記憶の灯りが次々と点った。アイスを割りそこねて笑った夏。焼きそばスープと呼ぶしかなかった文化祭。冬の帰り道、缶コーヒーの熱さを陸の手に押しつけた夜。全部が「いま読み上げられている私の名前」と糸で結び直される。
「陸……会いたいよ」
声は夜の背中を渡って、川風に運ばれていく。星のない黒の上空で、きっとすぐさま見えないところへ散っていく。それでも、言わずにはいられなかった。
空は私の肩にそっと手を置いた。指が震えて、体温が、皮膚の下で不器用に混ざる。
「結衣」
名前だけ呼ばれて、私はまた泣いた。名前は、涙腺のどこかを確実に押すスイッチだ。
ページの隅に、あの日と同じ地図が描いてあった。赤い×印は薄れていて、指でなぞると、指先がわずかに赤を拾った。
〈一年後、この場所で待ってる〉
その下に、小さな字で、さらに一行。
〈君が来られなかったら、それでもいい。来られる日が来ると、僕は信じてる〉
——信じられている。
人に信じられることは、時々苦しい。信頼は、重さを伴って胸に乗る。けれどその重さは、背筋を少し伸ばさせる種類の重さだった。
最後のページは、驚くほど短かった。
〈結衣、空。僕は、君たちが笑っている未来を信じている〉
それだけ。言い切りで終わる文字は、夜の端にしっかり結び目をつくった。
読み終えた瞬間、私は日記帳を胸に抱いて、声を上げて泣いた。涙は草を濡らし、懐中電灯の光の点で小さく光った。空も隣で泣いていた。兄を知らないまま憧れ続け、ようやく心の一部に触れた——その痛みと、受け取ってしまった願いの重さに、肩がわずかに揺れている。
泣きながら、私はふと思う。
——この夜は、たぶん、ここで終わらない。
泣く前の自分と、泣いたあとの自分は、同じ体温で続いている。泣き切った先に残る空白に、言葉がひとつ置けるかもしれない。陸が残した余白。私たちが書く余白。
「空」
私は涙を拭いながら呼んだ。
「……ありがとう。来てくれて。いっしょに読んでくれて」
空は首を横に振る。
「僕こそ。君がいてくれたから、開けた」
「開けたけど、閉じたね」
「うん。今夜は、閉じる夜でいいと思う」
懐中電灯の光を落とすと、世界はすぐに暗くなった。暗闇は怖いけれど、音がよく聞こえる。川のせせらぎ、虫の音、遠くの車のタイヤが橋を渡るときの振動。私たちの呼吸。
「……陸の『また』、聞こえた気がする」
私が言うと、空は目を閉じたまま頷いた。
「僕も。『また』って、言い方だけ置いて、いなくなるの、兄ちゃんっぽい」
「ずるいよね」
「うん。ずるい。でも、ずるいの好きだろ?」
「好き」
笑いながら、また少し泣いた。
やがて、風が向きを変え、肌に触れる湿度が少しだけ下がった。泣いたあとの皮膚は敏感で、夜気のわずかな変化も拾う。私は日記帳を丁寧に閉じ、表紙を撫でた。
「空。……これ、しばらく、私が持ってていい?」
「当たり前だよ。君の名前で始まって、君の名前で結ばれてる本だ」
「でも、時々、いっしょに読んで」
「うん。ページをめくらない日も、いっしょに持ってよう」
立ち上がると、草の湿りが膝に残った。空は懐中電灯を消し、スマホの画面で時間を確認する。日付の境目は、もうすぐそこにある。
「送るよ」
空が言い、私たちは土手をゆっくり上った。夜目に慣れた足は、昼よりも確かに地面を選ぶ。階段の最後の一段で、私はふと振り返った。闇の中に、川は気配だけで流れている。声にはしない「また」を、私は夜に預けた。
帰り道、空は多くを話さなかった。並ぶ沈黙は、さっきより軽い。二人で持つにはちょうどいい重さ。家の角を曲がるところで、空が立ち止まり、息を整えて言った。
「結衣」
「うん」
「明日の朝、少しだけ走る。……君の『泣いたあとの歩き方』、僕、並べると思う」
心臓が、静かに高く跳ねた。
「私、走るの苦手だけど」
「知ってる。ゆっくりでいい。置いていかないよ」
「置いていかない、って言葉、信じるから」
「信じて」
玄関の前で別れた。ドアを閉める直前、空が小さく手を上げる。声にしない「また」が、もう一度、夜に混ざった。
部屋に戻ると、スタンドライトの光が前より暖かく見えた。日記帳を机に置き、イスに座る。深く息を吸い、ゆっくり吐く。胸の中で、何かが微かに揺れる。——陸を失った痛みの奥で、かすかな温もりが灯る。種火みたいに小さい。掌で守れるくらい小さい。でも、確かにそこにある。
私はペンを出し、日記帳とは別の真っ白な紙を一枚、机に置いた。書き出しの言葉を迷って、何度かペン先が宙で止まる。やがて、一行だけ書いた。
〈泣いたあとに、歩く〉
紙は、静かにそれを受け取った。
窓の外が、藍から薄い灰へ少しずつほどけていく。夜の端に朝が縫い付けられる。遠くで新聞配達のバイクが一度だけ通り過ぎた。私はスタンドを消し、ベッドに横たわった。日記帳は胸の上ではなく、枕元に置く。手を伸ばせば触れられる距離。触れなくても、そこにある距離。
目を閉じると、陸の字が瞼の裏に浮かぶ。空の「兄ちゃん」という呼び方も、同じ場所で微かに光る。二つの光は喧嘩しない。交互に明滅して、やがて重なり、また離れる。私はそのリズムに合わせて呼吸した。
——結衣、空。僕は、君たちが笑っている未来を信じている。
最後の一文が、眠りの手前でくっきりと読めた。私はその文の端をそっと折り目のように心に挟み、「おやすみ」と小さく言った。返事はない。けれど、風がカーテンを揺らし、髪に触れていった。押されたのか、撫でられたのか、判断のつかないやさしさで。
目覚めるころ、胸の中の種火は、消えていなかった。むしろ、ほんの少しだけ赤くなっている。私はそれを胸の中央に持ち直し、起き上がる。今日もきっと、川へ行く。そして、ゆっくり走る。泣いたあとに、歩く。歩きながら、少しだけ笑う。
窓の向こうに、薄い朝焼け。私は小声で言ってみる。
「——また」
その音は、静かに部屋の空気に溶け、私の背中をやわらかく押した。
机の上に置いた〈日記帳〉は、スタンドライトの小さな光を吸って、深い影をつくる。表紙は柔らかくなっていて、角はすり減り、指先を滑らせると布のような手触りがあった。そこに触れているだけで、陸の温度が、ほんの名残だけど、確かに指に移ってくる気がした。
——開きたい。
——でも、開いた瞬間に、何かが終わってしまう。
指は表紙の端をつまんだまま震え、爪の白い半月が濃くなる。スタンドの光は、日記帳の縁に細い銀色の線を置いて、そこから先は闇の層に落ちていく。ページの向こうに待っているものが、未来ではなく過去だと思うほど、喉が狭くなる。
そのとき、スマホが机の上で小さく震えた。
〈今、外に出られる?〉——空から。
胸の真ん中が、ひと呼吸ぶんだけ軽くなる。私は日記帳を抱え、音を立てないように部屋を出た。廊下の木目は薄い月光で白く、母の寝息が遠い波のように行き来している。玄関の鍵を回す音が夜に触れないよう、息を止めて外へ出た。
外は蒸して、夏の夜の匂いが濃かった。蝉は黙り、代わりに虫の音が低く長く続く。アスファルトの上に夜露が薄く光り、信号の青が濃く見える。私は河川敷へ向かい、土手の階段を一段ずつ下りた。
空は先に来ていた。制服のままで、手には小さな懐中電灯。光の輪が草の穂先を点で拾い、風にあわせて揺れる。
「一緒に読むって、言ってただろ」
強がるみたいな声だった。でも、耳の奥に触れるところが柔らかい。不安がそのまま呼吸に混じっている。
私はうなずき、草の上に膝をついた。空が懐中電灯をページの横から照らす。光はまっすぐで、紙の繊維が小さな地図みたいに浮き上がった。
表紙を開く。最初のページに、陸の癖のある字があった。丸く、ところどころでペン先が止まる。数字の四は、やっぱり三角で閉じられている。
〈もしもこの日記が結衣の手に渡っているなら、僕はもうこの世にいないだろう〉
文字が目に入った瞬間、視界が滲んだ。懐中電灯の光が小さく揺れ、川面の光と混ざる。隣で空が息を飲む音がして、その音自体がやわらかい刃になって胸に触れた。
ページをめくる。紙のこすれる音が、夜の深いところへ吸い込まれる。
〈自分が病気だとわかったのは、去年の春だ〉
〈誰にも言わなかった。父にも、空にも、結衣にも〉
〈結衣には、とくに言えなかった。伝えたら泣かせてしまうと、思った〉
〈泣く顔を見たくなかった。泣く声を、僕のせいにしたくなかった〉
光るものが、ぽたり、と紙の上に落ちる前に、空の手がそっとハンカチを差し入れた。私は「あ……」と小さく息をのむ。空の指は、少しだけ震えていた。
〈僕は結衣に「ありがとう」を言えないまま終わるかもしれない〉
〈でも、泣かないでほしい〉
〈一年後、この場所で待ってる〉
その行が、胸の奥でたしかな音を立てた。——この一文は、手紙と同じ。けれど、ここにある「泣かないでほしい」は、手紙にはなかった。ページの上の陸は、私の知らない陸だった。私が知っている陸の目と笑い方を持ちながら、私から隠れていた時間の陸。
「兄ちゃん……」
空が、ほとんど声にならない声で言った。その響きに、遠くの誰かが灯すポーチライトの黄色が混じって聞こえた。私は唇をかみ、次のページへ指を送る。
〈病気は長くは続かない種類だと言われた。だから、その短い時間をどう使えばいいか、ずっと考えた〉
〈結衣に泣いてほしくない、というのはワガママだ。泣くのは生きている証拠だから〉
〈だから、泣いたあとに、歩き出せるようにしておきたい〉
〈僕がいなくなったあとの結衣に、僕以外の誰かの声が届くように〉
光がまた揺れた。風が川の幅をなで、虫の音が厚みを増す。私は、小さく首を振ることしかできない。
「ずるい」
いつの間にか口からもれていた。
「……ずるいよ、陸。そんなふうに先回りして、勝手に未来を用意して」
空は黙っていた。黙ったまま、息の深さだけで、同じところに立っていると教えてくれた。
〈空へ〉
次のページの最初の二文字に、私も空も同時に視線を止めた。
〈空、君は僕のことを写真でしか知らないと、何度も思った〉
〈それは僕のせいだ。会いに行かなかったからだ〉
〈君が僕に似ていると言われるたびに、君の輪郭が薄くなるなら、ごめん〉
〈君は君だ。僕の代わりじゃない〉
〈君が君の速度で、君の呼吸で、結衣の言葉を受け取ってくれたら、それがいちばんいい〉
〈そして、もしできるなら——〉
〈結衣を頼む〉
空が短く息を呑んだ。懐中電灯の光が、ほんの一瞬だけ草の方へ外れ、すぐに戻る。
「……兄ちゃん、全部、わかってたんだね」
かすれた声。
「僕たちが、どう泣くかまで」
私は耐えきれず、顔を両手で覆った。指の間から、熱がこぼれる。嗚咽は思ったより大きくて、夜の広い背中にすぐ吸われていった。
「置いていった、くせに」
空が言った。唇のかたちだけ、子どもみたいに震える。
「置いていった、って思ってたけど……守ってたんだ、たぶん。僕らの歩き方まで」
「置いていったんじゃない……守ってくれたんだよ」
言葉が声になった瞬間、胸の堰が壊れた。涙は勢いを増し、頬と顎を熱で伝って落ちる。私は日記帳を胸に抱きしめた。紙の角が胸骨に当たり、痛い。その痛みは、ここに存在している証拠だった。
〈結衣へ〉
ページの上で、陸の字が私の名前を呼ぶ。
〈君は、泣くことができる人だ。泣かないように頑張るより、泣ける強さを信じている〉
〈君の泣き方は、僕の好きな海に似ている。満ちて、引いて、また満ちる〉
〈満ちたあとに残る貝殻みたいに、君の言葉はきっと、誰かのポケットに残る〉
〈それから、僕は「ありがとう」を何度も忘れそうになるから、いま書く〉
〈ありがとう。君が僕の隣にいてくれたこと。僕の話を最後まで聞いてくれたこと。君の失敗を笑って、僕の失敗をもっと笑ってくれたこと〉
〈君が未来へ行くとき、僕は君の背中を押せるだろうか〉
〈もし押せなかったら、風になって君の髪を動かす〉
文字を追うたびに、記憶の灯りが次々と点った。アイスを割りそこねて笑った夏。焼きそばスープと呼ぶしかなかった文化祭。冬の帰り道、缶コーヒーの熱さを陸の手に押しつけた夜。全部が「いま読み上げられている私の名前」と糸で結び直される。
「陸……会いたいよ」
声は夜の背中を渡って、川風に運ばれていく。星のない黒の上空で、きっとすぐさま見えないところへ散っていく。それでも、言わずにはいられなかった。
空は私の肩にそっと手を置いた。指が震えて、体温が、皮膚の下で不器用に混ざる。
「結衣」
名前だけ呼ばれて、私はまた泣いた。名前は、涙腺のどこかを確実に押すスイッチだ。
ページの隅に、あの日と同じ地図が描いてあった。赤い×印は薄れていて、指でなぞると、指先がわずかに赤を拾った。
〈一年後、この場所で待ってる〉
その下に、小さな字で、さらに一行。
〈君が来られなかったら、それでもいい。来られる日が来ると、僕は信じてる〉
——信じられている。
人に信じられることは、時々苦しい。信頼は、重さを伴って胸に乗る。けれどその重さは、背筋を少し伸ばさせる種類の重さだった。
最後のページは、驚くほど短かった。
〈結衣、空。僕は、君たちが笑っている未来を信じている〉
それだけ。言い切りで終わる文字は、夜の端にしっかり結び目をつくった。
読み終えた瞬間、私は日記帳を胸に抱いて、声を上げて泣いた。涙は草を濡らし、懐中電灯の光の点で小さく光った。空も隣で泣いていた。兄を知らないまま憧れ続け、ようやく心の一部に触れた——その痛みと、受け取ってしまった願いの重さに、肩がわずかに揺れている。
泣きながら、私はふと思う。
——この夜は、たぶん、ここで終わらない。
泣く前の自分と、泣いたあとの自分は、同じ体温で続いている。泣き切った先に残る空白に、言葉がひとつ置けるかもしれない。陸が残した余白。私たちが書く余白。
「空」
私は涙を拭いながら呼んだ。
「……ありがとう。来てくれて。いっしょに読んでくれて」
空は首を横に振る。
「僕こそ。君がいてくれたから、開けた」
「開けたけど、閉じたね」
「うん。今夜は、閉じる夜でいいと思う」
懐中電灯の光を落とすと、世界はすぐに暗くなった。暗闇は怖いけれど、音がよく聞こえる。川のせせらぎ、虫の音、遠くの車のタイヤが橋を渡るときの振動。私たちの呼吸。
「……陸の『また』、聞こえた気がする」
私が言うと、空は目を閉じたまま頷いた。
「僕も。『また』って、言い方だけ置いて、いなくなるの、兄ちゃんっぽい」
「ずるいよね」
「うん。ずるい。でも、ずるいの好きだろ?」
「好き」
笑いながら、また少し泣いた。
やがて、風が向きを変え、肌に触れる湿度が少しだけ下がった。泣いたあとの皮膚は敏感で、夜気のわずかな変化も拾う。私は日記帳を丁寧に閉じ、表紙を撫でた。
「空。……これ、しばらく、私が持ってていい?」
「当たり前だよ。君の名前で始まって、君の名前で結ばれてる本だ」
「でも、時々、いっしょに読んで」
「うん。ページをめくらない日も、いっしょに持ってよう」
立ち上がると、草の湿りが膝に残った。空は懐中電灯を消し、スマホの画面で時間を確認する。日付の境目は、もうすぐそこにある。
「送るよ」
空が言い、私たちは土手をゆっくり上った。夜目に慣れた足は、昼よりも確かに地面を選ぶ。階段の最後の一段で、私はふと振り返った。闇の中に、川は気配だけで流れている。声にはしない「また」を、私は夜に預けた。
帰り道、空は多くを話さなかった。並ぶ沈黙は、さっきより軽い。二人で持つにはちょうどいい重さ。家の角を曲がるところで、空が立ち止まり、息を整えて言った。
「結衣」
「うん」
「明日の朝、少しだけ走る。……君の『泣いたあとの歩き方』、僕、並べると思う」
心臓が、静かに高く跳ねた。
「私、走るの苦手だけど」
「知ってる。ゆっくりでいい。置いていかないよ」
「置いていかない、って言葉、信じるから」
「信じて」
玄関の前で別れた。ドアを閉める直前、空が小さく手を上げる。声にしない「また」が、もう一度、夜に混ざった。
部屋に戻ると、スタンドライトの光が前より暖かく見えた。日記帳を机に置き、イスに座る。深く息を吸い、ゆっくり吐く。胸の中で、何かが微かに揺れる。——陸を失った痛みの奥で、かすかな温もりが灯る。種火みたいに小さい。掌で守れるくらい小さい。でも、確かにそこにある。
私はペンを出し、日記帳とは別の真っ白な紙を一枚、机に置いた。書き出しの言葉を迷って、何度かペン先が宙で止まる。やがて、一行だけ書いた。
〈泣いたあとに、歩く〉
紙は、静かにそれを受け取った。
窓の外が、藍から薄い灰へ少しずつほどけていく。夜の端に朝が縫い付けられる。遠くで新聞配達のバイクが一度だけ通り過ぎた。私はスタンドを消し、ベッドに横たわった。日記帳は胸の上ではなく、枕元に置く。手を伸ばせば触れられる距離。触れなくても、そこにある距離。
目を閉じると、陸の字が瞼の裏に浮かぶ。空の「兄ちゃん」という呼び方も、同じ場所で微かに光る。二つの光は喧嘩しない。交互に明滅して、やがて重なり、また離れる。私はそのリズムに合わせて呼吸した。
——結衣、空。僕は、君たちが笑っている未来を信じている。
最後の一文が、眠りの手前でくっきりと読めた。私はその文の端をそっと折り目のように心に挟み、「おやすみ」と小さく言った。返事はない。けれど、風がカーテンを揺らし、髪に触れていった。押されたのか、撫でられたのか、判断のつかないやさしさで。
目覚めるころ、胸の中の種火は、消えていなかった。むしろ、ほんの少しだけ赤くなっている。私はそれを胸の中央に持ち直し、起き上がる。今日もきっと、川へ行く。そして、ゆっくり走る。泣いたあとに、歩く。歩きながら、少しだけ笑う。
窓の向こうに、薄い朝焼け。私は小声で言ってみる。
「——また」
その音は、静かに部屋の空気に溶け、私の背中をやわらかく押した。



