週明けの空は、週末の汗の匂いをほんの少し残したまま乾いていた。
下校のチャイムが鳴っても、誰かの笑い声が教室の隅に小さく残って、窓辺のカーテンが微妙な速さでふくらんではしぼむ。私は教科書を鞄に入れ、机の端に指をかけたまま、黒板の消し跡をぼんやり見ていた。目のふちの赤みは、うまく引いてくれない。鏡の前で叩き込んだコンシーラーも、昼をすぎるころには薄くなって、皮膚の下に流れっぱなしの涙の川がうっすら透ける。
「ねえ、カフェ行こ」
美月が私の肩を軽くつついた。彼女のポニーテールは、朝より少しだけ崩れている。私は反射的に頷き、鞄のチャックを閉めた。歩幅を合わせると、階段の踊り場に溜まった午後の熱がふっと背中に乗る。校門を出ると、アスファルトの照り返しが足首を包み、横断歩道の白がやけに眩しかった。
駅前のカフェは、ガラス越しに淡いミルク色の明かりが見えた。店内の空気は甘く、スチームミルクの湯気に砂糖が混ざった匂いがする。私たちは窓際の二人席に座った。美月がメニューを開き、なにも考えずに指さした先の「アイスとエスプレッソ」の文字に、私は曖昧にうなずいた。
スプーンを握る手が、小さく震える。薄く溶けはじめたバニラの湖に、エスプレッソの濃い褐色が低く沈む。表面は静かで、でも底では熱がまだぐらぐら生きている。目の前のそれが、どうしてか胸の景色に重なる。口に出す前に、喉の奥でひっかかった名前が、舌の裏でつまずく。陸。言ってしまいそうで、唇を噛む。
「結衣」
美月が、紙ナプキンでストローの口を拭きながら、私を覗きこんだ。
「やっぱり行ってるんでしょ? あの河川敷に」
私は曖昧に笑い、「少しだけ」と答えた。少しだけ。少しだけのつもりだった。昨日も、一昨日も、その前も。少しだけ、が少しずつ伸びて、夕暮れの端に触れてしまう。
「結衣、怖い夢ばかり見てる顔だよ」
美月の声は、驚くほどまっすぐだった。私の胸の奥、息が出入りする細い通路のところがぎゅっとすぼまる。スプーンを持った手に汗がにじみ、冷たいはずの柄が、掌に熱い跡を残した。
「……たぶん、ね」
私は笑ってみせた。笑いは、形としては笑いで、でも感情の重心は少し斜めにずれている。美月はため息をつき、ストローを紙袋から抜くと、ぱき、と折り曲げた。彼女の指の白い関節を見ていると、私の指が自分のものじゃないみたいに遠くなっていく。
会計をすませて外に出ると、風が一段強くなっていた。交差点の隅の木の葉が表と裏を反転させ、黄緑と銀の間をすばやく行き来する。美月と別れたあと、私の足は自然に川の方へ向いていた。体が覚えてしまった道。角を二つ曲がって、踏切を渡る。遮断機の赤い光が下りたまま、私の影の中に点滅する。
土手を下りる階段の真ん中あたりで、風がまたひとつ吹いた。夕方の光が草の穂に残って、川面には細い金色の帯がひらひら浮いている。誰かが水に投げた石の音がした。
空がいた。制服の上着を脱いで、白いシャツの袖を折り、草の斜面に腰を下ろしている。片手で石を選び、指で軽くすり合わせてから弧を描くように投げる。その腕の角度は、陸とは違う。陸は、投げる前に一拍置いて、空気の重さを量るように肩をまわすくせがあった。空は、ためらいよりも先に動く。座る姿勢も違う。陸は背筋を自然に立てる人で、座面の端にそっと腰を置く。空は重力に委ねるように、ぐっと腰を落として、右足を投げる方向とは反対に崩す。粗削りで、でもどこか楽しげだ。
「また来たんだね」
振り返った空の笑顔は、陸のそれとは違った。少し照れくさそうで、無邪気で、光が頬の真ん中に丸く落ちる。私は胸が熱くなり、思わず口をつく。
「……あなた、陸とは違う」
空は目を瞬き、それからすぐに笑った。
「当たり前だよ。僕は僕だ」
単純な言葉だった。単純で、逃げていない言葉だった。その瞬間、涙が勝手にあふれた。昨日まで、私は空の中に陸を探していた。似ている瞳、似ている横顔、似ている沈黙。けれど今日、はっきりと「違う」が胸に立ち上がって、私の中の誰かが小さくうなずいた。
「違うのに、似てる。似てるのに、違う。どっちなのか分からなくて……苦しいの」
声は震え、頬を涙が伝う。ふいに鼻の奥がつんと痛み、吸い込む空気が胸の奥で引っかかる。
空は少し困ったように笑い、「僕だってそうだよ」と返した。
「兄ちゃんの代わりになれないって分かってる。でも、兄ちゃんを知らなさすぎて、僕の中では兄ちゃんはずっと理想のままなんだ。君の話を聞くと、知らない兄ちゃんを少しだけ手に入れた気がする。……それが嬉しいんだ」
嬉しい。苦しい。二つの言葉が、ほぼ同じ重さと温度で胸を叩く。私は涙を拭いきれずに俯いた。足元の草の間にある土の暗さが、目の奥に広がる。自分の影に自分の涙の色が混ざって、境目が曖昧になっていく。
やがて、空がポケットから小さな箱を取り出した。薄い灰色の紙で覆われた、角の丸い箱。握られていた時間の長さが、外側の繊維の毛羽立ちに刻まれている。空は指の腹で一度角をなぞってから、静かに差し出した。
「兄ちゃんが最後に持ってたっていう日記帳。父さんから渡されたんだ。……でも、読むのが怖くて」
箱の蓋を外すと、古びたノートが見えた。表紙は深い緑で、四隅が少し白くなっている。私は震える手でそれを受け取り、胸に抱いた。紙の冷たさが、シャツ越しに心臓の鼓動とぶつかる。陸が触れた紙。陸が残した文字。そこに、彼の本当の思いが刻まれているのかもしれない。
「君と一緒なら、読めるかもしれない」
空の言葉は、硬く結んだ糸の結び目を、爪の先で少しずつ緩めるみたいに、丁寧に私の胸に触れた。私は涙を拭きながら小さく頷いた。
頷いた瞬間、胸の奥に強烈な痛みが走った。陸の手紙。空の瞳。いま手の中にある日記帳。すべてが、私を過去と未来の狭間に引き裂こうとしている。どちらか一方に寄りかかると、もう一方がすぐに泣き出す。
「陸……どうして、こんなもの残したの……?」
声は風に溶け、川の流れに吸い込まれていった。空は隣で黙って立ち尽くし、私の涙をただ見ていた。その瞳には陸の面影と、陸にはなかった“違う光”が宿っていた。夜の入り口にともる小さな街灯のような、頼りないけれど確かな光。
「……歩こうか」
空の声が低く、しかし揺れずに届いた。私たちは川沿いの舗装路に降りて、並んで歩いた。足音は、二つ。歩幅は、今日も同じ速度だった。沈黙は、昨日よりもやわらかい。沈黙そのものに温度があるなら、きっとこれは人肌に近い温度だ。
「美月は、元気?」
唐突に空が訊いた。私は少し驚いた顔をして、うなずく。
「うん。心配してくれてる。私が、怖い夢ばかり見てる顔だって」
「……優しいね」
「うん。優しい。私が陸の話をすると、黙って聞いてくれる。でも、時々、困った顔をする。私がどこに向かって歩いてるのか、私自身、うまく言えないから」
「行く場所が分からなくても、足は前に出る」
空の言い方は、走る人の言い方だった。
「止まれない日もあって、止まっていい日もあって、その境目を決めるのが下手だと、息が苦しくなる」
「空は、止まれる?」
「止まれるようになりたい、と思ってるところ」
空は笑って、靴ひもを一度直した。膝を折る動作が、陸よりも柔らかい。陸は動作の途中で視線を一度上げて、周りを確認する人だった。空は視線を落としたまま、指で確かめる人だ。違いを数えるたび、私は安心と不安の両方を抱え直す。
川に沿って歩き切り、土手の階段に腰を下ろすと、空は空を見上げた。まだ青が残っている。風の向きが変わり、乾いた土の匂いと、どこかの家の夕飯の匂いが交互に来る。
「君は、兄ちゃんに何と言いたい?」
空が遠くに向けて投げた問いは、すぐには落ちてこなかった。
「……“遅いよ”かな」
自分でも意外な答えが口から出た。
「もっとはやく言って、って。もっとはやく、こんな手紙や、日記帳や、“また”の言い方の秘密、全部。間に合うように。……でも、それを言ったあと、きっとまた泣く」
「なんで?」
「“遅くても、ありがとう”って言いたくなるから」
空は黙って頷いた。彼の横顔に、夕方の最後の光が残っていた。私は、そこに陸を探さなかった。探そうとしなかった。違うからこそ、この頷きは空のものだ、と分かった。
夜、帰宅してベッドに横たわると、涙がまた頬を伝った。胸の上に置いた日記帳が重くのしかかる。開けば陸の言葉に触れられる。けれど、開けば「もう戻らない現実」が突きつけられる。怖くて、ページをめくることができない。私は表紙の角を親指で撫でる。紙のざらつきは確かで、そこに触れている指も確かだ。なのに、開くという行為だけが、どうしても私の中で現実にならない。
眠りに落ちるまで、時間がうすく何度も重なった。夢の中で、陸が日記帳を差し出してきた。顔は見えず、声も届かない。ただ、「開け」と唇が動いている。唇の形だけで伝わる命令は、やさしくも厳しい。私はページに指をかける。紙の縁が爪の先に触れる。——そこで、目が覚めた。
胸の上の日記帳が、冷たく重かった。窓の外は朝焼けで、薄い桃色が雲の端に縫い留められている。蝉が一匹だけ鳴き、やんで、また別の一匹が鳴く。私は日記帳を強く握りしめ、小さく呟いた。
「……違う君に、会いに行く」
言った瞬間、胸の内側でなにかがカチリと動いた。私が会いに行きたいのは、陸でも、陸の影でもなく、空という“違う君”だ。違うという事実は、罪ではない。救いにもなる。許しにもなる。私は布団をはね、洗面台の鏡に顔を近づけた。目の赤みはまだ残っているけれど、目の奥の色は昨日より澄んでいた。水で頬をぬらす。冷たさが皮膚を通って、胸の中の熱の中心に届く。
学校の支度をしていると、スマホが震えた。〈おはよう。今日、放課後、少しだけ走る。川に寄る〉空からの短いメッセージ。私は迷わず返信する。〈行く。日記帳、持っていく〉。送信の音が小さく鳴り、部屋の空気に溶けた。
授業は相変わらず私を置いていく。黒板の文字が、目に入る前に色あせる。昼休み、パンの袋を開ける音に紛れて、美月が私のほうを見た。
「昨日より、顔がまっすぐ」
「そう?」
「うん。たぶん、泣いたね」
私は笑った。
「うん。たぶん、泣いた」
美月はパンを一口かじり、目を細める。
「行き先があるのはいいこと。迷ってても」
放課後、私はまた川に向かった。日記帳は鞄のいちばん外側のポケットに入れた。取り出しやすい場所。逃げやすい場所。どちらにも開ける場所。土手の上に出ると、風が昨日より涼しくて、草の色が少し深く見える。空が、いつもの斜面にいた。白いシャツの袖を折り、膝の上に肘を置いて、川の流れを見ている。
「来た」
空が立ち上がり、私のほうへ二歩近づく。私は鞄から日記帳を取り出し、胸の前で両手をそろえた。
「……一緒に、開ける?」
空は目を細め、小さくうなずいた。
私たちはベンチに並んで座った。表紙の角に触れる指先に、同じくらいの力。空が「せーの」とも言わないまま、私は自分の呼吸に合わせて蓋を開けた。紙の匂いが、夏の匂いと混ざる。最初のページには、日付と、短い言葉。陸の字。
——読めない。
目が文字をなぞる前に、涙が溢れた。紙の上に落ちる前に、空の指が素早くハンカチを差し入れる。私は笑いながら泣いた。
「まだ、早いか」
空が言う。
「うん。まだ、早い」
「いいよ。閉じよ」
「……うん」
私たちは同時に日記帳を閉じた。紙の端が、静かに重なる音がした。その小さな音が、約束みたいに胸に残った。
「違う君」
私は、日記帳の上に手を置いたまま、空を見た。
「空は、違う君だね。陸じゃない。陸に似てるけど、違う。違うから、いま、隣に座れる」
空は照れくさそうに笑い、草を一本ちぎって、指でほどく。
「君も、違う君だよ。兄ちゃんがきっと知っていた結衣とも、写真でしか知らない結衣とも違う。僕がいま、ここで知ってる君」
風が吹いて、川の色がひとつだけ濃くなる。遠くで犬の鳴き声がして、誰かが自転車のベルを鳴らした。
「じゃあ、また」
空が言う。
「また」
私も言う。二つの「また」は、同じ音の形で、別の意味を持って、空気の中で重なった。
帰り道、私は思った。違うことを怖がってばかりいたのは、たぶん私だ。似ているものにすがるほうが簡単だった。違うことは、いつも少し痛い。けれど、その痛みは、手放したくない。痛みがある場所に、私のいまがあるから。
家に着いて部屋に入ると、窓のそとに薄い月が出ていた。机の上に日記帳を置く。今夜は、開かない。明日も、開かないかもしれない。けれど、いつか。
私はベッドに横たわり、目を閉じる。瞼の裏に、二人の瞳が浮かぶ。陸の瞳と、空の瞳。どちらも同じ色で、でも違う光を宿している。私の胸の中で、その光が、交互にゆっくり明滅する。
「おやすみ、陸」
「おやすみ、空」
声に出すと、どちらもきちんと届いた気がした。蝉の声が遠のき、夜の深い呼吸が部屋の隅に溜まっていく。私はその呼吸に耳を傾けながら、明日の私に会いにいく準備を、静かに始めた。
下校のチャイムが鳴っても、誰かの笑い声が教室の隅に小さく残って、窓辺のカーテンが微妙な速さでふくらんではしぼむ。私は教科書を鞄に入れ、机の端に指をかけたまま、黒板の消し跡をぼんやり見ていた。目のふちの赤みは、うまく引いてくれない。鏡の前で叩き込んだコンシーラーも、昼をすぎるころには薄くなって、皮膚の下に流れっぱなしの涙の川がうっすら透ける。
「ねえ、カフェ行こ」
美月が私の肩を軽くつついた。彼女のポニーテールは、朝より少しだけ崩れている。私は反射的に頷き、鞄のチャックを閉めた。歩幅を合わせると、階段の踊り場に溜まった午後の熱がふっと背中に乗る。校門を出ると、アスファルトの照り返しが足首を包み、横断歩道の白がやけに眩しかった。
駅前のカフェは、ガラス越しに淡いミルク色の明かりが見えた。店内の空気は甘く、スチームミルクの湯気に砂糖が混ざった匂いがする。私たちは窓際の二人席に座った。美月がメニューを開き、なにも考えずに指さした先の「アイスとエスプレッソ」の文字に、私は曖昧にうなずいた。
スプーンを握る手が、小さく震える。薄く溶けはじめたバニラの湖に、エスプレッソの濃い褐色が低く沈む。表面は静かで、でも底では熱がまだぐらぐら生きている。目の前のそれが、どうしてか胸の景色に重なる。口に出す前に、喉の奥でひっかかった名前が、舌の裏でつまずく。陸。言ってしまいそうで、唇を噛む。
「結衣」
美月が、紙ナプキンでストローの口を拭きながら、私を覗きこんだ。
「やっぱり行ってるんでしょ? あの河川敷に」
私は曖昧に笑い、「少しだけ」と答えた。少しだけ。少しだけのつもりだった。昨日も、一昨日も、その前も。少しだけ、が少しずつ伸びて、夕暮れの端に触れてしまう。
「結衣、怖い夢ばかり見てる顔だよ」
美月の声は、驚くほどまっすぐだった。私の胸の奥、息が出入りする細い通路のところがぎゅっとすぼまる。スプーンを持った手に汗がにじみ、冷たいはずの柄が、掌に熱い跡を残した。
「……たぶん、ね」
私は笑ってみせた。笑いは、形としては笑いで、でも感情の重心は少し斜めにずれている。美月はため息をつき、ストローを紙袋から抜くと、ぱき、と折り曲げた。彼女の指の白い関節を見ていると、私の指が自分のものじゃないみたいに遠くなっていく。
会計をすませて外に出ると、風が一段強くなっていた。交差点の隅の木の葉が表と裏を反転させ、黄緑と銀の間をすばやく行き来する。美月と別れたあと、私の足は自然に川の方へ向いていた。体が覚えてしまった道。角を二つ曲がって、踏切を渡る。遮断機の赤い光が下りたまま、私の影の中に点滅する。
土手を下りる階段の真ん中あたりで、風がまたひとつ吹いた。夕方の光が草の穂に残って、川面には細い金色の帯がひらひら浮いている。誰かが水に投げた石の音がした。
空がいた。制服の上着を脱いで、白いシャツの袖を折り、草の斜面に腰を下ろしている。片手で石を選び、指で軽くすり合わせてから弧を描くように投げる。その腕の角度は、陸とは違う。陸は、投げる前に一拍置いて、空気の重さを量るように肩をまわすくせがあった。空は、ためらいよりも先に動く。座る姿勢も違う。陸は背筋を自然に立てる人で、座面の端にそっと腰を置く。空は重力に委ねるように、ぐっと腰を落として、右足を投げる方向とは反対に崩す。粗削りで、でもどこか楽しげだ。
「また来たんだね」
振り返った空の笑顔は、陸のそれとは違った。少し照れくさそうで、無邪気で、光が頬の真ん中に丸く落ちる。私は胸が熱くなり、思わず口をつく。
「……あなた、陸とは違う」
空は目を瞬き、それからすぐに笑った。
「当たり前だよ。僕は僕だ」
単純な言葉だった。単純で、逃げていない言葉だった。その瞬間、涙が勝手にあふれた。昨日まで、私は空の中に陸を探していた。似ている瞳、似ている横顔、似ている沈黙。けれど今日、はっきりと「違う」が胸に立ち上がって、私の中の誰かが小さくうなずいた。
「違うのに、似てる。似てるのに、違う。どっちなのか分からなくて……苦しいの」
声は震え、頬を涙が伝う。ふいに鼻の奥がつんと痛み、吸い込む空気が胸の奥で引っかかる。
空は少し困ったように笑い、「僕だってそうだよ」と返した。
「兄ちゃんの代わりになれないって分かってる。でも、兄ちゃんを知らなさすぎて、僕の中では兄ちゃんはずっと理想のままなんだ。君の話を聞くと、知らない兄ちゃんを少しだけ手に入れた気がする。……それが嬉しいんだ」
嬉しい。苦しい。二つの言葉が、ほぼ同じ重さと温度で胸を叩く。私は涙を拭いきれずに俯いた。足元の草の間にある土の暗さが、目の奥に広がる。自分の影に自分の涙の色が混ざって、境目が曖昧になっていく。
やがて、空がポケットから小さな箱を取り出した。薄い灰色の紙で覆われた、角の丸い箱。握られていた時間の長さが、外側の繊維の毛羽立ちに刻まれている。空は指の腹で一度角をなぞってから、静かに差し出した。
「兄ちゃんが最後に持ってたっていう日記帳。父さんから渡されたんだ。……でも、読むのが怖くて」
箱の蓋を外すと、古びたノートが見えた。表紙は深い緑で、四隅が少し白くなっている。私は震える手でそれを受け取り、胸に抱いた。紙の冷たさが、シャツ越しに心臓の鼓動とぶつかる。陸が触れた紙。陸が残した文字。そこに、彼の本当の思いが刻まれているのかもしれない。
「君と一緒なら、読めるかもしれない」
空の言葉は、硬く結んだ糸の結び目を、爪の先で少しずつ緩めるみたいに、丁寧に私の胸に触れた。私は涙を拭きながら小さく頷いた。
頷いた瞬間、胸の奥に強烈な痛みが走った。陸の手紙。空の瞳。いま手の中にある日記帳。すべてが、私を過去と未来の狭間に引き裂こうとしている。どちらか一方に寄りかかると、もう一方がすぐに泣き出す。
「陸……どうして、こんなもの残したの……?」
声は風に溶け、川の流れに吸い込まれていった。空は隣で黙って立ち尽くし、私の涙をただ見ていた。その瞳には陸の面影と、陸にはなかった“違う光”が宿っていた。夜の入り口にともる小さな街灯のような、頼りないけれど確かな光。
「……歩こうか」
空の声が低く、しかし揺れずに届いた。私たちは川沿いの舗装路に降りて、並んで歩いた。足音は、二つ。歩幅は、今日も同じ速度だった。沈黙は、昨日よりもやわらかい。沈黙そのものに温度があるなら、きっとこれは人肌に近い温度だ。
「美月は、元気?」
唐突に空が訊いた。私は少し驚いた顔をして、うなずく。
「うん。心配してくれてる。私が、怖い夢ばかり見てる顔だって」
「……優しいね」
「うん。優しい。私が陸の話をすると、黙って聞いてくれる。でも、時々、困った顔をする。私がどこに向かって歩いてるのか、私自身、うまく言えないから」
「行く場所が分からなくても、足は前に出る」
空の言い方は、走る人の言い方だった。
「止まれない日もあって、止まっていい日もあって、その境目を決めるのが下手だと、息が苦しくなる」
「空は、止まれる?」
「止まれるようになりたい、と思ってるところ」
空は笑って、靴ひもを一度直した。膝を折る動作が、陸よりも柔らかい。陸は動作の途中で視線を一度上げて、周りを確認する人だった。空は視線を落としたまま、指で確かめる人だ。違いを数えるたび、私は安心と不安の両方を抱え直す。
川に沿って歩き切り、土手の階段に腰を下ろすと、空は空を見上げた。まだ青が残っている。風の向きが変わり、乾いた土の匂いと、どこかの家の夕飯の匂いが交互に来る。
「君は、兄ちゃんに何と言いたい?」
空が遠くに向けて投げた問いは、すぐには落ちてこなかった。
「……“遅いよ”かな」
自分でも意外な答えが口から出た。
「もっとはやく言って、って。もっとはやく、こんな手紙や、日記帳や、“また”の言い方の秘密、全部。間に合うように。……でも、それを言ったあと、きっとまた泣く」
「なんで?」
「“遅くても、ありがとう”って言いたくなるから」
空は黙って頷いた。彼の横顔に、夕方の最後の光が残っていた。私は、そこに陸を探さなかった。探そうとしなかった。違うからこそ、この頷きは空のものだ、と分かった。
夜、帰宅してベッドに横たわると、涙がまた頬を伝った。胸の上に置いた日記帳が重くのしかかる。開けば陸の言葉に触れられる。けれど、開けば「もう戻らない現実」が突きつけられる。怖くて、ページをめくることができない。私は表紙の角を親指で撫でる。紙のざらつきは確かで、そこに触れている指も確かだ。なのに、開くという行為だけが、どうしても私の中で現実にならない。
眠りに落ちるまで、時間がうすく何度も重なった。夢の中で、陸が日記帳を差し出してきた。顔は見えず、声も届かない。ただ、「開け」と唇が動いている。唇の形だけで伝わる命令は、やさしくも厳しい。私はページに指をかける。紙の縁が爪の先に触れる。——そこで、目が覚めた。
胸の上の日記帳が、冷たく重かった。窓の外は朝焼けで、薄い桃色が雲の端に縫い留められている。蝉が一匹だけ鳴き、やんで、また別の一匹が鳴く。私は日記帳を強く握りしめ、小さく呟いた。
「……違う君に、会いに行く」
言った瞬間、胸の内側でなにかがカチリと動いた。私が会いに行きたいのは、陸でも、陸の影でもなく、空という“違う君”だ。違うという事実は、罪ではない。救いにもなる。許しにもなる。私は布団をはね、洗面台の鏡に顔を近づけた。目の赤みはまだ残っているけれど、目の奥の色は昨日より澄んでいた。水で頬をぬらす。冷たさが皮膚を通って、胸の中の熱の中心に届く。
学校の支度をしていると、スマホが震えた。〈おはよう。今日、放課後、少しだけ走る。川に寄る〉空からの短いメッセージ。私は迷わず返信する。〈行く。日記帳、持っていく〉。送信の音が小さく鳴り、部屋の空気に溶けた。
授業は相変わらず私を置いていく。黒板の文字が、目に入る前に色あせる。昼休み、パンの袋を開ける音に紛れて、美月が私のほうを見た。
「昨日より、顔がまっすぐ」
「そう?」
「うん。たぶん、泣いたね」
私は笑った。
「うん。たぶん、泣いた」
美月はパンを一口かじり、目を細める。
「行き先があるのはいいこと。迷ってても」
放課後、私はまた川に向かった。日記帳は鞄のいちばん外側のポケットに入れた。取り出しやすい場所。逃げやすい場所。どちらにも開ける場所。土手の上に出ると、風が昨日より涼しくて、草の色が少し深く見える。空が、いつもの斜面にいた。白いシャツの袖を折り、膝の上に肘を置いて、川の流れを見ている。
「来た」
空が立ち上がり、私のほうへ二歩近づく。私は鞄から日記帳を取り出し、胸の前で両手をそろえた。
「……一緒に、開ける?」
空は目を細め、小さくうなずいた。
私たちはベンチに並んで座った。表紙の角に触れる指先に、同じくらいの力。空が「せーの」とも言わないまま、私は自分の呼吸に合わせて蓋を開けた。紙の匂いが、夏の匂いと混ざる。最初のページには、日付と、短い言葉。陸の字。
——読めない。
目が文字をなぞる前に、涙が溢れた。紙の上に落ちる前に、空の指が素早くハンカチを差し入れる。私は笑いながら泣いた。
「まだ、早いか」
空が言う。
「うん。まだ、早い」
「いいよ。閉じよ」
「……うん」
私たちは同時に日記帳を閉じた。紙の端が、静かに重なる音がした。その小さな音が、約束みたいに胸に残った。
「違う君」
私は、日記帳の上に手を置いたまま、空を見た。
「空は、違う君だね。陸じゃない。陸に似てるけど、違う。違うから、いま、隣に座れる」
空は照れくさそうに笑い、草を一本ちぎって、指でほどく。
「君も、違う君だよ。兄ちゃんがきっと知っていた結衣とも、写真でしか知らない結衣とも違う。僕がいま、ここで知ってる君」
風が吹いて、川の色がひとつだけ濃くなる。遠くで犬の鳴き声がして、誰かが自転車のベルを鳴らした。
「じゃあ、また」
空が言う。
「また」
私も言う。二つの「また」は、同じ音の形で、別の意味を持って、空気の中で重なった。
帰り道、私は思った。違うことを怖がってばかりいたのは、たぶん私だ。似ているものにすがるほうが簡単だった。違うことは、いつも少し痛い。けれど、その痛みは、手放したくない。痛みがある場所に、私のいまがあるから。
家に着いて部屋に入ると、窓のそとに薄い月が出ていた。机の上に日記帳を置く。今夜は、開かない。明日も、開かないかもしれない。けれど、いつか。
私はベッドに横たわり、目を閉じる。瞼の裏に、二人の瞳が浮かぶ。陸の瞳と、空の瞳。どちらも同じ色で、でも違う光を宿している。私の胸の中で、その光が、交互にゆっくり明滅する。
「おやすみ、陸」
「おやすみ、空」
声に出すと、どちらもきちんと届いた気がした。蝉の声が遠のき、夜の深い呼吸が部屋の隅に溜まっていく。私はその呼吸に耳を傾けながら、明日の私に会いにいく準備を、静かに始めた。



