放課後の廊下は、夕方の光を細長く切って床に落としていた。
私はその上を踏まないように歩きながら、窓ガラスに映る自分の顔を見た。泣き腫らしたせいで、目のふちがまだ赤い。コンシーラーを重ねても、涙の跡は薄い川のみたいに皮膚の下を走っている。表面だけを整えても、内側はぐちゃぐちゃのままだ。胸の真ん中に置かれた石の重さは、朝よりも形をくっきりさせて、歩くたび少しずつ沈んでいく。
階段を降りると、熱の残った空気がふっと顔にかかった。校門の外の空はきれいで、痛いほど青いのに、見上げるほどに胸が痛くなった。陸の代わりに現れたみたいな空――そう思うたびに、自分で自分の考えに驚く。空は陸の弟で、まったく別の人だ。それでも、ふとした瞬間に陸の影が彼の輪郭に重なる。笑ったときの口角の角度、驚いたときの眉の跳ね方、言い出す前に一瞬だけ沈黙を置く癖。些細な仕草のひとつひとつが、胸の柔らかいところに針みたいに刺さる。
信号待ちのあいだにスマホを見ても、通知はほとんどない。グループのチャットに流れるスタンプの顔は軽やかで、そこに今の私を置く場所はないように見えた。青になっても足が動くまでに少し時間がかかった。踏み出した一歩が、地面の硬さを取り戻す。
夕方、私はまた河川敷へ降りていく。昨日までの迷いが、道筋の両側に背の低い草のように残っている。踏めば香りが立つし、踏み跡が残る。土手の階段を下りると、川面に光の帯が揺れ、その向こうを風が走っていく。遠くできこえるのは、たぶん誰かの投げた石が水に触れる音。
空は先に来ていた。制服のまま草に座り込み、片手で石をつまんでは、川に向かって投げる。ぽちゃん、という控えめな音がして、小さな波紋が丸く広がっていく。横顔を見た瞬間、心臓が強く跳ねた。夕日の色が、彼の頬の骨と睫毛の影をやわらかく縁取っている。目の色は陸と同じだ。琥珀に少し墨を落としたような、夏の終わりを含む色。斜めから光が入ると、奥のほうに小さな光が灯り、過去の時間がそこに映る気がする。錯覚だと分かっていても、時が少し巻き戻ったみたいに錯覚してしまう。
「……陸に似てる」
口に出すつもりはなかったのに、言葉が先に落ちた。空は手を止め、指の間で石を転がし、少し寂しげに笑った。
「よく言われるよ。小さいころから、会う大人にまず言われた。“陸くんに似てるね”って。でも、“似てる”って言われるたび、僕は僕じゃない気がしてくるんだ」
胸の辺りが、内側からしゅっと縮んだ。私の何気ない一言が、空の輪郭を薄くしてしまう。陸を重ねることは、空を認めているようで、同時に空の存在を否定しているのかもしれない。私は言い訳のように口を開きかけて、閉じた。風がすこし強くなり、草が表と裏をひっくり返すみたいに色を変えた。
「兄ちゃんのことを知りたい。……でも、兄ちゃんの代わりになりたいわけじゃない」
空の声はかすかに震えていた。彼もまた、兄の影の手触りに引っかかれて血がにじむ場所を、胸の奥に抱えている。私は黙って頷くことしかできなかった。言葉は慎重に選ばないと、簡単に誰かの大事なものを傷つけてしまう。
「……じゃあ、どうして私の前に現れたの?」
聞いた瞬間、自分の問いの鋭さに気づいて、息を止めた。責めるつもりなんてなかった。ただ、知りたかった。彼の歩いてきた道の、この場所に近づく直前の足跡の深さを。
空は一瞬黙り、視線を川に落とした。すこししてから、言う。
「僕も、兄ちゃんに会いたかったんだ。手紙が嘘でも、本当でも、君と話すことで、兄ちゃんのことを感じられる気がした。……君が覚えてる兄ちゃんの時間に、少しでも触れられるんじゃないかって」
その言葉が、私の胸を真ん中から貫いた。陸を亡くしたのは、私だけじゃない。空にとっては、手に入れられなかった時間が、そのまま丸ごと失われたことになる。最初から足りなかったものが、さらにゼロになってしまうみたいに。兄の姿を追い求める弟と、最後の言葉を渡せなかった幼なじみ。立っている場所は違うのに、抱えている痛みは似ている。形は違っても、痛いところは同じ場所にあった。
「私……昨日からずっと泣いてばかり。陸に会いたいって思うのに、あなたを見て泣いてる。変だよね」
自分で言いながら、笑っているのか泣いているのか分からなくなる。喉の奥に硬い塊が居座る。鼻のうしろが熱くなる。胸に置いた手がかすかに震える。
ためらいながら、空の手が私の手に触れた。驚くほど温かいのに、少し不器用な触れ方だった。陸の手とは違う。指の長さも、握る強さも、呼吸に合わせるリズムも。違うのに、どうしてか涙は止まらなかった。違うことが、救いになる瞬間もある。
「兄ちゃんの代わりにはなれない。でも……君が泣いてるのを放っておけない」
ただの言葉じゃなかった。彼の手の温度と、喉の震え方と、目の奥の陰りといっしょに届いた。代わりじゃないと言われることは、置き換えられない痛みのまま抱かれることと同じだ。私は頷き、涙をぬぐい、深く息を吸った。
「ねえ、空。君の“似てる”は、君を奪う言葉? それとも、君を結んでくれる言葉?」
空は少し考え、石をもう一つ水へ投げた。波紋が重なり、光を崩す。
「どっちでもある。奪われるって思う日は、僕の輪郭が薄くなる。君の知ってる兄ちゃんの話を聞いているのに、いつのまにか“似てるから”って僕に貼られていくラベルが増える気がして。……でも、結ばれるって思う日は、僕の中に兄ちゃんの影が宿る。僕の声の奥に、兄ちゃんの“また”の言い方が残ってる気がして、少し安心する」
「“また”の言い方」
私は小さく繰り返した。耳のどこかで、陸の声が答える。――“じゃあ、また”。言い切らずに置かれる、余白。次のページに指を差し込んだまま、閉じずにいる読みかけの本。約束というより、希望の言い方。未来の呼び方。
「私、空を見てると……陸の“また”に触れてる気がする。罪悪感もあるけど、救いもある。それが、私をぐちゃぐちゃにしてる」
「ぐちゃぐちゃでいいと思う」
空の声が、風の向きに合わせて柔らかくなる。
「きれいに分けられるものじゃないから。泣きながら笑う、笑いながら泣く、って、多分、正しい」
河原の石を踏む音が近づいてきて、ランニングの人が私たちの横をすり抜けた。汗の匂いと、柔軟剤の匂いが一瞬だけ混ざる。空は手を離し、両膝に肘を置いて空を見上げた。夕方は、夜になる直前の色を少しだけ混ぜはじめていた。川沿いの茂みから虫の声が加わる。
「空、ひとつ聞いてもいい?」
頷きを待たずに続ける。
「君が“僕は僕だ”って確かめられる瞬間って、どんなとき?」
空は目を細めた。考えるときの陸に似た癖だ。けれど、目の奥の光は別のものを映している。
「走ってるとき。息が切れて、足が重くて、でも、次の一歩を出せた瞬間。あれは、兄ちゃんのものでも、誰のものでもない、僕の呼吸だから。……それと、誰かの話を最後までちゃんと聞けたとき。兄ちゃんは話すのがうまかったけど、聞くのは少しだけ下手だった。僕は、聞くのが得意かもしれない」
「得意だと思う」
私は笑い、胸の重さが少し薄まるのを感じた。
「私、今日、救われたよ。君が聞いてくれるから、言葉がちゃんと地面に落ちた気がする」
空は照れくさそうに肩をすくめ、草を一本摘んで指で撫でた。
「じゃあ、交換条件。君の“私が私だって確かめられる瞬間”も、いつか教えて」
「いつかじゃなくて、今言っていい?」
私は膝の上で手を重ねなおす。
「泣けたとき。ちゃんと。ごまかさないで。……それができた日は、私がまだ“私”でいられるって思える」
空はゆっくり頷いた。
「いいね。それ」
それから、私たちは昨日よりも少し長い沈黙を共有した。沈黙の形は昨日と違う。持ちやすい。角がまるくなって、掌に納まる。沈黙の種類を覚えていくことが、誰かと並ぶことの練習だと、身体が勝手に理解する。
暮れきる前に帰ろう、と立ち上がると、空が踵で小さな石を押し、照れたように言った。
「明日、朝練あるから、もう行くね。……じゃあ、また」
「また」
私もそう言って、彼の背中を見送った。夕焼けの色が、彼の白いシャツを薄く染め、風が裾を摘む。歩幅は陸とは違う。陸は半歩前に出て、私を振り返って笑う人。空は、同じ速度で並べる人。違いは、私の中で罪の印ではなく、いつの間にか救いの印に変わりつつあった。
夜、帰宅してベッドに横たわると、涙がまた頬を伝った。目を閉じると、浮かぶのは二人の瞳。陸の瞳と、空の瞳。どちらも同じ色で、でも違う光を宿している。陸の光は、真っ直ぐで、前へ押し出す光。空の光は、横に並んで、隣をあかるくする光。
「……どうして、似ているのに違うんだろう」
呟いて、笑ってしまう。答えが出るはずのない問いを、私は何度でも投げる。投げるたび、形が少しずつ変わって、いつか別の言葉になるかもしれないから。天井の角に夜の色がたまる。部屋の空気の温度がすこし下がり、布団の中にこもる息が現実をつないでくれる。
夢の中。
再び陸が現れる。夏祭りの明かり、焼きそばの油の匂い、綿あめの甘さ。陸は何も言わず、ただ笑って手を振っている。彼の後ろに、空が立っていた。二人の輪郭は重なり、少しずれて、やがて一人の影に変わる。私はその影に向かって必死に走る。足の裏が地面を掴み、息が焼ける。たどり着いた瞬間、影は霧のようにほどけて、空気に混ざった。やめて、待って、という声が、花火の音に吸い込まれる。
目を覚ますと、枕は濡れていた。窓の外では、蝉が短く鳴いて、やんで、また鳴く。夏の朝がくる前の、薄い灰色の時間。胸の奥には、答えの出ない痛みだけが確かに残っていた。けれど、昨夜の痛みより、表面がすこしだけなめらかだ。触れられる程度の、痛み。
私は起き上がり、机の上の封筒と便箋を広げた。指で文字をなぞる。
一年後、この場所で待ってる。
この一文は、昨日よりも今日、今日よりも明日、違う意味を帯びる。その“違い”を許すことが、私の一年の課題なのだと、ぼんやり思う。
学校へ向かう支度をしながら、鏡に映る自分に小さく会釈した。腫れはまだ残っている。でも、目の奥の色が、ほんの少しだけ澄んだ気がした。泣いたぶん、水が入れ替わる。涙は、濁った心をゆっくり薄める水だ。
階段を降りる途中、スマホが震え、画面に短いメッセージが浮かんだ。——〈おはよう。朝練の前に川、通った。風、気持ちいいよ〉。送信者の名前を見て、胸の温度が少し上がる。指が勝手に返信を打った。——〈おはよう。今度、朝の川も一緒に歩こう〉。
玄関を開けると、朝の空気が新しい手紙みたいにまっさらで、少しひんやりしていた。私は靴ひもを結び直し、短く息を吐く。足は、昨日よりも軽い。
校門までの道の途中、ショーウィンドウに映った自分にもう一度目をやる。赤みはまだ完全には消えない。でも、そんな顔でいい。そんな顔で、行く。
帰り道、私はまた河川敷へ寄った。夕方ではなく、昼と夕の境い目の明るさ。ベンチに座ると、川は昼の色をまだ少し残していた。空は今日は来ていない。いなくても、私はここに来る。来られる自分でいたいと思う。
風が頬を撫で、髪が耳にかかる。私は目を閉じ、ゆっくりともう一度問いかける。
――陸。空。私はだれを求めているの?
答えは、やっぱり来ない。けれど、問いのすぐそばに、別の言葉が芽を出す。
――いまは、どちらも。
それは卑怯な答えかもしれない。けれど、今日の私にはそれがほんとうだ。陸の“また”と、空の“また”。似ている瞳に宿る違う光。その両方を大事に抱えたまま、私はこの場所に立っている。
夕方、土手の影が長く伸びる。草の匂いに、遠くのカレーの匂いが混ざる。私は立ち上がり、制服のスカートを払って、帰り道に身体を向けた。
歩き出す足は、昨日より少しだけ、自分のものに近い。胸の真ん中の石は、まだそこにある。けれど、指で触れても砕けない程度の硬さに落ち着いている。持ち歩ける重さになっていく。
私はポケットの中のスマホを軽く叩いた。いつか“似ている”という言葉が、奪う言葉よりも、結ぶ言葉として多く使える日は来るだろうか。その日の私に会うために、明日も、また川へ行こうと思った。
家の角を曲がると、母の「おかえり」の準備の気配がする。私は「ただいま」を胸の中で一度言ってから、口に出した。声の響きは、昨日よりも少しだけ明るい。
部屋に入って、手紙を胸に当てる。紙の冷たさは、すぐに体温に馴染んだ。
似ている瞳。
その四文字を、私はそっと心の棚に置いた。たぶん、ここから何度も手に取る。ひどく痛む日も、やさしく触れられる日も、同じだけあるだろう。どちらの日も、私のものだ。
窓の外で蝉が鳴き、やがて少しだけ間を置いた。私はその間に、深く息を吸い込んだ。吸い込んだ空気は私のもので、吐いた息もまた私のものだった。
私はその上を踏まないように歩きながら、窓ガラスに映る自分の顔を見た。泣き腫らしたせいで、目のふちがまだ赤い。コンシーラーを重ねても、涙の跡は薄い川のみたいに皮膚の下を走っている。表面だけを整えても、内側はぐちゃぐちゃのままだ。胸の真ん中に置かれた石の重さは、朝よりも形をくっきりさせて、歩くたび少しずつ沈んでいく。
階段を降りると、熱の残った空気がふっと顔にかかった。校門の外の空はきれいで、痛いほど青いのに、見上げるほどに胸が痛くなった。陸の代わりに現れたみたいな空――そう思うたびに、自分で自分の考えに驚く。空は陸の弟で、まったく別の人だ。それでも、ふとした瞬間に陸の影が彼の輪郭に重なる。笑ったときの口角の角度、驚いたときの眉の跳ね方、言い出す前に一瞬だけ沈黙を置く癖。些細な仕草のひとつひとつが、胸の柔らかいところに針みたいに刺さる。
信号待ちのあいだにスマホを見ても、通知はほとんどない。グループのチャットに流れるスタンプの顔は軽やかで、そこに今の私を置く場所はないように見えた。青になっても足が動くまでに少し時間がかかった。踏み出した一歩が、地面の硬さを取り戻す。
夕方、私はまた河川敷へ降りていく。昨日までの迷いが、道筋の両側に背の低い草のように残っている。踏めば香りが立つし、踏み跡が残る。土手の階段を下りると、川面に光の帯が揺れ、その向こうを風が走っていく。遠くできこえるのは、たぶん誰かの投げた石が水に触れる音。
空は先に来ていた。制服のまま草に座り込み、片手で石をつまんでは、川に向かって投げる。ぽちゃん、という控えめな音がして、小さな波紋が丸く広がっていく。横顔を見た瞬間、心臓が強く跳ねた。夕日の色が、彼の頬の骨と睫毛の影をやわらかく縁取っている。目の色は陸と同じだ。琥珀に少し墨を落としたような、夏の終わりを含む色。斜めから光が入ると、奥のほうに小さな光が灯り、過去の時間がそこに映る気がする。錯覚だと分かっていても、時が少し巻き戻ったみたいに錯覚してしまう。
「……陸に似てる」
口に出すつもりはなかったのに、言葉が先に落ちた。空は手を止め、指の間で石を転がし、少し寂しげに笑った。
「よく言われるよ。小さいころから、会う大人にまず言われた。“陸くんに似てるね”って。でも、“似てる”って言われるたび、僕は僕じゃない気がしてくるんだ」
胸の辺りが、内側からしゅっと縮んだ。私の何気ない一言が、空の輪郭を薄くしてしまう。陸を重ねることは、空を認めているようで、同時に空の存在を否定しているのかもしれない。私は言い訳のように口を開きかけて、閉じた。風がすこし強くなり、草が表と裏をひっくり返すみたいに色を変えた。
「兄ちゃんのことを知りたい。……でも、兄ちゃんの代わりになりたいわけじゃない」
空の声はかすかに震えていた。彼もまた、兄の影の手触りに引っかかれて血がにじむ場所を、胸の奥に抱えている。私は黙って頷くことしかできなかった。言葉は慎重に選ばないと、簡単に誰かの大事なものを傷つけてしまう。
「……じゃあ、どうして私の前に現れたの?」
聞いた瞬間、自分の問いの鋭さに気づいて、息を止めた。責めるつもりなんてなかった。ただ、知りたかった。彼の歩いてきた道の、この場所に近づく直前の足跡の深さを。
空は一瞬黙り、視線を川に落とした。すこししてから、言う。
「僕も、兄ちゃんに会いたかったんだ。手紙が嘘でも、本当でも、君と話すことで、兄ちゃんのことを感じられる気がした。……君が覚えてる兄ちゃんの時間に、少しでも触れられるんじゃないかって」
その言葉が、私の胸を真ん中から貫いた。陸を亡くしたのは、私だけじゃない。空にとっては、手に入れられなかった時間が、そのまま丸ごと失われたことになる。最初から足りなかったものが、さらにゼロになってしまうみたいに。兄の姿を追い求める弟と、最後の言葉を渡せなかった幼なじみ。立っている場所は違うのに、抱えている痛みは似ている。形は違っても、痛いところは同じ場所にあった。
「私……昨日からずっと泣いてばかり。陸に会いたいって思うのに、あなたを見て泣いてる。変だよね」
自分で言いながら、笑っているのか泣いているのか分からなくなる。喉の奥に硬い塊が居座る。鼻のうしろが熱くなる。胸に置いた手がかすかに震える。
ためらいながら、空の手が私の手に触れた。驚くほど温かいのに、少し不器用な触れ方だった。陸の手とは違う。指の長さも、握る強さも、呼吸に合わせるリズムも。違うのに、どうしてか涙は止まらなかった。違うことが、救いになる瞬間もある。
「兄ちゃんの代わりにはなれない。でも……君が泣いてるのを放っておけない」
ただの言葉じゃなかった。彼の手の温度と、喉の震え方と、目の奥の陰りといっしょに届いた。代わりじゃないと言われることは、置き換えられない痛みのまま抱かれることと同じだ。私は頷き、涙をぬぐい、深く息を吸った。
「ねえ、空。君の“似てる”は、君を奪う言葉? それとも、君を結んでくれる言葉?」
空は少し考え、石をもう一つ水へ投げた。波紋が重なり、光を崩す。
「どっちでもある。奪われるって思う日は、僕の輪郭が薄くなる。君の知ってる兄ちゃんの話を聞いているのに、いつのまにか“似てるから”って僕に貼られていくラベルが増える気がして。……でも、結ばれるって思う日は、僕の中に兄ちゃんの影が宿る。僕の声の奥に、兄ちゃんの“また”の言い方が残ってる気がして、少し安心する」
「“また”の言い方」
私は小さく繰り返した。耳のどこかで、陸の声が答える。――“じゃあ、また”。言い切らずに置かれる、余白。次のページに指を差し込んだまま、閉じずにいる読みかけの本。約束というより、希望の言い方。未来の呼び方。
「私、空を見てると……陸の“また”に触れてる気がする。罪悪感もあるけど、救いもある。それが、私をぐちゃぐちゃにしてる」
「ぐちゃぐちゃでいいと思う」
空の声が、風の向きに合わせて柔らかくなる。
「きれいに分けられるものじゃないから。泣きながら笑う、笑いながら泣く、って、多分、正しい」
河原の石を踏む音が近づいてきて、ランニングの人が私たちの横をすり抜けた。汗の匂いと、柔軟剤の匂いが一瞬だけ混ざる。空は手を離し、両膝に肘を置いて空を見上げた。夕方は、夜になる直前の色を少しだけ混ぜはじめていた。川沿いの茂みから虫の声が加わる。
「空、ひとつ聞いてもいい?」
頷きを待たずに続ける。
「君が“僕は僕だ”って確かめられる瞬間って、どんなとき?」
空は目を細めた。考えるときの陸に似た癖だ。けれど、目の奥の光は別のものを映している。
「走ってるとき。息が切れて、足が重くて、でも、次の一歩を出せた瞬間。あれは、兄ちゃんのものでも、誰のものでもない、僕の呼吸だから。……それと、誰かの話を最後までちゃんと聞けたとき。兄ちゃんは話すのがうまかったけど、聞くのは少しだけ下手だった。僕は、聞くのが得意かもしれない」
「得意だと思う」
私は笑い、胸の重さが少し薄まるのを感じた。
「私、今日、救われたよ。君が聞いてくれるから、言葉がちゃんと地面に落ちた気がする」
空は照れくさそうに肩をすくめ、草を一本摘んで指で撫でた。
「じゃあ、交換条件。君の“私が私だって確かめられる瞬間”も、いつか教えて」
「いつかじゃなくて、今言っていい?」
私は膝の上で手を重ねなおす。
「泣けたとき。ちゃんと。ごまかさないで。……それができた日は、私がまだ“私”でいられるって思える」
空はゆっくり頷いた。
「いいね。それ」
それから、私たちは昨日よりも少し長い沈黙を共有した。沈黙の形は昨日と違う。持ちやすい。角がまるくなって、掌に納まる。沈黙の種類を覚えていくことが、誰かと並ぶことの練習だと、身体が勝手に理解する。
暮れきる前に帰ろう、と立ち上がると、空が踵で小さな石を押し、照れたように言った。
「明日、朝練あるから、もう行くね。……じゃあ、また」
「また」
私もそう言って、彼の背中を見送った。夕焼けの色が、彼の白いシャツを薄く染め、風が裾を摘む。歩幅は陸とは違う。陸は半歩前に出て、私を振り返って笑う人。空は、同じ速度で並べる人。違いは、私の中で罪の印ではなく、いつの間にか救いの印に変わりつつあった。
夜、帰宅してベッドに横たわると、涙がまた頬を伝った。目を閉じると、浮かぶのは二人の瞳。陸の瞳と、空の瞳。どちらも同じ色で、でも違う光を宿している。陸の光は、真っ直ぐで、前へ押し出す光。空の光は、横に並んで、隣をあかるくする光。
「……どうして、似ているのに違うんだろう」
呟いて、笑ってしまう。答えが出るはずのない問いを、私は何度でも投げる。投げるたび、形が少しずつ変わって、いつか別の言葉になるかもしれないから。天井の角に夜の色がたまる。部屋の空気の温度がすこし下がり、布団の中にこもる息が現実をつないでくれる。
夢の中。
再び陸が現れる。夏祭りの明かり、焼きそばの油の匂い、綿あめの甘さ。陸は何も言わず、ただ笑って手を振っている。彼の後ろに、空が立っていた。二人の輪郭は重なり、少しずれて、やがて一人の影に変わる。私はその影に向かって必死に走る。足の裏が地面を掴み、息が焼ける。たどり着いた瞬間、影は霧のようにほどけて、空気に混ざった。やめて、待って、という声が、花火の音に吸い込まれる。
目を覚ますと、枕は濡れていた。窓の外では、蝉が短く鳴いて、やんで、また鳴く。夏の朝がくる前の、薄い灰色の時間。胸の奥には、答えの出ない痛みだけが確かに残っていた。けれど、昨夜の痛みより、表面がすこしだけなめらかだ。触れられる程度の、痛み。
私は起き上がり、机の上の封筒と便箋を広げた。指で文字をなぞる。
一年後、この場所で待ってる。
この一文は、昨日よりも今日、今日よりも明日、違う意味を帯びる。その“違い”を許すことが、私の一年の課題なのだと、ぼんやり思う。
学校へ向かう支度をしながら、鏡に映る自分に小さく会釈した。腫れはまだ残っている。でも、目の奥の色が、ほんの少しだけ澄んだ気がした。泣いたぶん、水が入れ替わる。涙は、濁った心をゆっくり薄める水だ。
階段を降りる途中、スマホが震え、画面に短いメッセージが浮かんだ。——〈おはよう。朝練の前に川、通った。風、気持ちいいよ〉。送信者の名前を見て、胸の温度が少し上がる。指が勝手に返信を打った。——〈おはよう。今度、朝の川も一緒に歩こう〉。
玄関を開けると、朝の空気が新しい手紙みたいにまっさらで、少しひんやりしていた。私は靴ひもを結び直し、短く息を吐く。足は、昨日よりも軽い。
校門までの道の途中、ショーウィンドウに映った自分にもう一度目をやる。赤みはまだ完全には消えない。でも、そんな顔でいい。そんな顔で、行く。
帰り道、私はまた河川敷へ寄った。夕方ではなく、昼と夕の境い目の明るさ。ベンチに座ると、川は昼の色をまだ少し残していた。空は今日は来ていない。いなくても、私はここに来る。来られる自分でいたいと思う。
風が頬を撫で、髪が耳にかかる。私は目を閉じ、ゆっくりともう一度問いかける。
――陸。空。私はだれを求めているの?
答えは、やっぱり来ない。けれど、問いのすぐそばに、別の言葉が芽を出す。
――いまは、どちらも。
それは卑怯な答えかもしれない。けれど、今日の私にはそれがほんとうだ。陸の“また”と、空の“また”。似ている瞳に宿る違う光。その両方を大事に抱えたまま、私はこの場所に立っている。
夕方、土手の影が長く伸びる。草の匂いに、遠くのカレーの匂いが混ざる。私は立ち上がり、制服のスカートを払って、帰り道に身体を向けた。
歩き出す足は、昨日より少しだけ、自分のものに近い。胸の真ん中の石は、まだそこにある。けれど、指で触れても砕けない程度の硬さに落ち着いている。持ち歩ける重さになっていく。
私はポケットの中のスマホを軽く叩いた。いつか“似ている”という言葉が、奪う言葉よりも、結ぶ言葉として多く使える日は来るだろうか。その日の私に会うために、明日も、また川へ行こうと思った。
家の角を曲がると、母の「おかえり」の準備の気配がする。私は「ただいま」を胸の中で一度言ってから、口に出した。声の響きは、昨日よりも少しだけ明るい。
部屋に入って、手紙を胸に当てる。紙の冷たさは、すぐに体温に馴染んだ。
似ている瞳。
その四文字を、私はそっと心の棚に置いた。たぶん、ここから何度も手に取る。ひどく痛む日も、やさしく触れられる日も、同じだけあるだろう。どちらの日も、私のものだ。
窓の外で蝉が鳴き、やがて少しだけ間を置いた。私はその間に、深く息を吸い込んだ。吸い込んだ空気は私のもので、吐いた息もまた私のものだった。



