君のいない夏を、君と歩く

 日曜の午後の空は、どこまでも薄く広がっていた。真っ白ではなく、うっすらと水の色が混ざったような青で、ところどころに擦りガラスみたいな雲が浮いている。河川敷のベンチは陽を吸って温かく、背もたれの古びた木目に、汗ばむ背中がやさしく貼りついた。私は上を向いて、まばたきのたびに色を変える夏の光を眺めた。耳の奥は蝉でいっぱいだ。目を閉じると、黒いまぶたの裏側にまで蝉の粒が降ってくる。

 昨日の出来事が、頭から離れない。あの手紙の一行。――一年後、この場所で待ってる。
 それから、空の便箋にだけ添えられていた短い言葉。――結衣を頼む。
 指でなぞるたび、胸の奥にあたたかさが灯る。けれど同時に、細い鎖で締めつけられるような痛みもやって来る。やさしさと残酷が、同じ文字の中で並んでいる。どちらが本体で、どちらが影なのか、見極められないまま、私はこのベンチに座っていた。

 川面は光の帯を揺らし続け、時折、風が草をさっと撫でる。誰かの笑い声が土手の向こうから降りてきて、また遠ざかる。日曜だというだけで、街はゆるくほどけている気がする。私は手のひらを膝に重ね、ゆっくりと呼吸を数えた。

 やがて、軽い足音が近づいてきた。砂利が柔らかく鳴り、影が私の足元に重なる。振り返ると、そこに空が立っていた。Tシャツの襟ぐりに汗の色が滲んでいて、額の髪が少しだけ肌に張りついている。息は上がっていないのに、胸だけが高く低く動いて、走ってきたのか、それとも立ち止まるまでに躊躇ったのか、判断がつかない。

 「ここにいると思った」

 空はそう言って、私の隣に腰を下ろした。木が小さくきしむ。隣に座ったその横顔は、陸に似ている。顎のライン、鼻筋、笑う前に口角がわずかに揺れる癖。似ている。――でも、違う。目の奥の陰り。笑うまでのためらい。歩幅を合わせるときの、わずかな呼吸の調整。陸にはなかった影が、空の目の奥に沈んでいる。

 しばらく黙って、同じ方向を見た。川は絶えず流れ、空は絶えず変わる。蝉は鳴き続け、私たちは黙り続けた。沈黙は重くはなかった。けれど、軽くもない。長く持っていると、指の力がじんと痺れる石のような沈黙だった。

 「僕、陸の弟だけど……」
 空がぽつりと口をひらく。
 「兄ちゃんとは、ほとんど一緒に過ごしたことがないんだ」

 私は首をわずかに傾け、彼の横顔を見た。まぶたの端が少し赤い。風がふっと吹いて、Tシャツの裾がわずかに揺れた。

 「両親が離婚して、僕は母さんに引き取られた。兄ちゃんは父さんの方へ。だから僕は、兄ちゃんのことを写真でしか知らなかった。毎年送られてくる年賀状に映る、少しずつ大きくなっていく横顔を見てさ、“同じ血が流れてるんだ”って、無理やり思い込んでた」

 空の声の中に、乾いたものと湿ったものが交互に混じる。長い時間を通り過ぎてきた声だ、と分かった。私は胸の奥がきゅっと縮んだ。私にとっての陸は、いつでも「隣で知っていた人」だった。朝の眠気、体育のあとにむせる声、夏の汗の匂い、冬の指先の冷たさ。隣で知ったことは、からだの奥に住み着く。けれど空にとって陸は、紙の上でしか増えない人だった。遠くで想い続けることしかできない弟だった。

 「だからね、去年、兄ちゃんが亡くなったって聞いた時……正直、実感が湧かなかったんだ」
 空は指を組み、膝のうえでぎゅっと握った。「悲しいって思うより、ただ“もう会えないんだ”って、冷たい現実だけが残って」

 言葉の端が、かすかに震える。私は視線を落として、自分の手を見た。爪の白い半月が、じわりと色を薄める。

 「でも、それから手紙が届いた。……兄ちゃんからの」

 心臓が強く脈打った。胸の内側で階段を踏み外したみたいに、血がざっと降りる。

 「一年後、この場所で待ってる。」

 空は短く言って、それから息をひとつ飲み込んだ。
 「僕にとって兄ちゃんは、憧れだった。写真の中でいつも笑っていて、優しそうで、強そうで。だから……手紙を見た時、ようやく兄ちゃんに会える気がしたんだ」

 「会える」
 その言葉は甘く、そして危うい。期待と恐怖の両方に足をかけたまま、空の声は綱渡りをしている。私は自分の心が、その綱の下でざわざわと風になっているのを感じた。

 「僕は……兄ちゃんのことを知りたい」
 空は川を見ずに、まっすぐ私を見た。まなざしは陸と同じ色なのに、違う人の深さを持っている。
 「兄ちゃんがどんなふうに笑って、どんなふうに怒って、どんなふうに君と過ごしていたのか」

 胸の奥の扉が、ひとりでに開いてしまう。鍵はかけたはずなのに、内側からつまみが回る。思い出が、勝手にあふれだす。

 「……陸はね」
 声が勝手に出る。止めないほうがいい、とどこかで思う。
 「朝が弱くて、よく寝癖つけてた。前髪が二つに割れてて、真ん中に変な塔ができるの。私が笑うと、恥ずかしそうに手で押さえるんだけど、余計目立つから、なお可笑しくって」

 空の口もとが、ほんの少し持ち上がる。私は続ける。

 「体育の後はジュースを一気に飲んで、必ずゲホゲホむせるの。なのに毎回、『今日はいける気がする』って言って、やっぱりむせる。学習しないのって言うと、笑ってごまかすの」

 「学習しないタイプ、分かる」空が小さく笑う。「兄ちゃん、そういうところある」

 「それから、すごく優しかった。いつも私のこと、気にかけてくれて。忘れ物が多いからって、教室のドアに“忘れ物注意”って付箋を貼ったら、先生に怒られて、私の分まで謝ったり。私が走るの苦手なの知ってて、運動会のとき、私の方に顔を向けずに、わざとゆっくり並走してくれたり」

 言葉に触れるたび、胸の内側で何かが温まり、同時に痛くなる。涙が視界の端に集まりはじめ、頬の骨のところで光る。私は慌てて笑い、笑いながら涙をこぼした。

 「でも、私は……最後に言えなかったの。“ありがとう”も、“好き”も。ずっと、言える機会はいくらでもあったのに。最後の日くらい、ちゃんと言えばよかったのに」

 声が震える。気づけば嗚咽に変わっていて、言葉の輪郭が崩れていく。ここまで来るのは簡単なのに、ここから戻るのは難しい。私は手の甲で頬を拭ったが、追いかけるように涙が生まれて、指の隙間からこぼれた。

 ためらいがちに、空がハンカチを差し出した。白地に薄い線で格子の模様がある、折り癖のついた布だった。
 「……使う?」

 「ごめん」
 私は受け取り、顔に押し当てた。布がすぐに湿る。塩の味がする。呼吸がうまくいかないとき、布越しの自分の息が、少しだけ現実につなぎ留めてくれる。

 涙の波が一段落するまで、空は何も言わなかった。蝉の声に、川の音が混じる。たまに自転車が通り過ぎ、タイヤが砂利を噛む音を置いて去っていく。世界は、泣いている私を特別扱いしない。いつもどおりに、転がり続ける。

 涙が落ち着いた頃、空が小さく呟いた。
 「兄ちゃんは……君のことを幸せにしたかったんだと思う。手紙に“結衣を頼む”って書いたのは、そういう意味なんじゃないかな」

 私は首を振った。
 「違う。幸せにしたかったなら、生きていてくれなきゃ……」

 その言葉は、夜風に似た午後の風に溶けて、川の流れにさらわれていった。空は答えず、ただ少しだけ近づいて、同じ姿勢で座り続ける。その温もりが、かえって切なかった。
 温度は、優しさと同時に、喪失の輪郭もはっきりさせてしまう。私の隣にある温かさは、もう二度と戻らない温かさの模造なのだと思うたび、胸の中の鎖がきしんだ。

 「ねえ、空」
 私はハンカチで目を押さえたまま、ゆっくり言う。
 「“結衣を頼む”って、どうしてあなたの便箋にだけ書いたんだろう。私のにはなかった。私に言えばよかったのに。私に“自分で自分を頼め”って言えばよかったのに」

 空は少しだけ考える顔をして、遠くの水面を見た。
 「兄ちゃんは、君に直接そう言えなかったんだと思う。君に頼った瞬間、君の泣き方が少し変わってしまうことを、兄ちゃんは怖れたのかもしれない。君に立っていてほしくて、でも、立ってと言うと、その言葉の重みで君が倒れてしまうことがある。だから、僕に“迂回”させたんだ。回りくどいけど、兄ちゃんらしい」

 「回りくどいの、陸らしい」
 私は苦笑し、また少し泣いた。笑いと涙は、惜しみなく隣り合う。
 「それにしても、ずるいよ。こんなふうに私たちをここに呼んで、勝手に未来を残していくなんて」

 「ずるい」
 空が復唱し、ふっと笑った。
 「……でも、ずるい人が好きだったんだろう?」

 「うん」
 あっさり言いながら、胸の奥がじんと温かくなる。私が好きだったずるさは、誰かを傷つける種類のものではなくて、誰かを守ろうとして角度を変える種類のずるさだった。たとえば、私のために負けたふりをするとか。たとえば、私の涙を笑いに変えるために、わざと変な歩き方をするとか。

 「空は、兄ちゃんのどこが好き?」
 気づくと、今度は私が問いかけていた。

 空は、すこし唇を噛み、それから正直に言った。
 「会えなかった時間のぶん、想像の中で兄ちゃんが育っちゃった。写真の中の兄ちゃんは、いつもいい顔をしてて、同じ角度で笑ってて、同じような季節の服を着てる。だから、好きって言うと、たぶん、それは僕の作った兄ちゃんのことになる。……でも、本物の兄ちゃんのことも、好きだったと思う。電話の最後で“じゃあ、また”って言う言い方が、いつも妙に明るくて。僕が黙っていても、そこだけで未来が開く感じがしたから」

 「“また”の言い方」
 私は小さく繰り返した。
 「陸も、そうだった」

 風が少し強くなり、緑の匂いが濃くなる。日差しはまだ夏のままだが、風の中のどこかで秋が準備を始めている。

 「空」
 私はベンチから身を起こし、膝に置いた手を組んだ。
 「陸のこと、もっと話していい? 私の知ってる陸。隣で知った陸」

 空はまっすぐ頷いた。
 「うん。聞かせて」

 私はひとつ、呼吸を整える。思い出すことは、呼吸に似ている。早く吸いこみすぎても、長く止めすぎても、苦しくなる。ほどよい速度で、肺に入れ、肌にめぐらせる。

 「……夏の朝、陸はよく、宿題のドリルを開いたまま寝てた。鉛筆が耳に挟まったままで、私はそれをそっと取って、代わりに付箋を挟むの。『ここまでやったよ』って。起きてくると、陸は得意げに“昨日の俺、えらい”って言う。えらくないよ、って返すのがお約束で」

 「春は?」空が優しく問う。

 「春は……桜の花びらを、机の中に入れるの。陸の机の、教科書の間に。一週間くらいして開くと、せんべいみたいに割れて、“うわ、せんべいが入ってる”って騒ぐの。それで先生に怒られて、私にはバレないように合図で笑いかけてくる」

 空の目が、春の色をすこし含んだ。
 「冬は?」

 「冬は、私の手が冷たすぎるからって、マフラーを二重にしてくれた。自分のは薄いまま。帰り道に“あったかい”って言ったら、陸は“だろ?”って肩をすくめるの。それで、こっそり温かい缶コーヒーを買って、陸の手に押しつける。『熱っ』って言いながら、結局嬉しそうに持ち歩くの」

 「……秋は?」
 空は、問いを最後まで歩かせた。四季をひと回りさせるみたいに。

 「秋はね、文化祭のとき。陸は焼きそば担当で、麺を炒めるのがどうしても下手なの。べちゃべちゃになるの。私が裏方で皿を並べながら、『それ、もはやスープだよ』って言ったら、陸は『焼きそばスープという新メニューだ』って言い張って、先生に“そんなものはない”って即答されるの」

 空が肩を震わせて笑った。笑うと、目尻が少しだけ陸に似る。私は胸が痛くなり、でも、その痛みを逃がさず抱きしめることにした。痛みは、思い出の取っ手だ。きっと、そのうち色が変わる。いまはそう信じるしかない。

 「……ありがとう」
 空が言った。「聞けてよかった。僕の中の兄ちゃんが、すこしずつ、写真から降りてくる」

 「降りてくる?」

 「うん。紙の上で立っていた兄ちゃんが、地面に足をつける感じ。風に髪が動いて、汗が額に光って、息が上がって、笑いながらむせる。……そういう兄ちゃんは、僕の知らない兄ちゃんだ」

 私はハンカチを返した。空は受け取り、ポケットの角をなぞって、ていねいにたたみ直した。布の格子が指の熱でやわらかくなる。

 「ねえ、結衣」
 空が、少しだけ声音を落として言った。
 「僕、君に頼みたいことがある。図々しいのは分かってる。……でも、言うだけ言わせて」

 私は頷いた。頼みごとは、たいてい怖い。でも、言葉になった頼みは、まだ触れることができる。

 「兄ちゃんの部屋、いつか、見せてくれる?」
 空は視線を下げたまま、吐き出すように続けた。
 「写真じゃなくて、兄ちゃんの手の跡のある場所。教科書の落書きとか、ベッドのシーツのシワとか、押し入れの匂いとか。そういうのを、僕は一度も知らない。……もし、君がよかったら、でいい」

 胸の中で、ひとつ、鍵が動く音がした。陸の部屋。あの夏のまま、時計が止まっている部屋。手を伸ばすと、いつでも時間に触れてしまう部屋。守りたくて、触れられたくなくて、でも、閉じておくだけでは腐ってしまう気もしていた部屋。

 「……考えさせて」
 私は正直に言った。
 「いまは、まだ、怖い。でも、いつか」

 空は、すぐに「うん」と頷いた。
 「急がなくていい。僕も、急がない。兄ちゃんの『一年後』が、僕らにくれた時間だと思うから」

 その言い方に、私は少し救われる。時間を「くれた」と言うことができるなら、受け取ることも、いつか返すことも、できるのかもしれない。

 沈む太陽が、川を薄い金色に染めた。影が長く伸び、ベンチの足が二本だけ長くなったふうに見える。私たちは、ゆっくり立ち上がる。空が水筒を差し出し、私も自分のボトルのふたを回す。金属が擦れる音が、小さく鳴る。

 帰り道、土手の斜面を並んで歩いた。草の根が土を掴む匂いが濃い。足首に種のようなものが当たって、つつっと上がってくる。私はそれを指で払って、ついでに、心についた小さな棘も払うように見せかけた。

 「僕」
 空が前を見たまま言った。
 「君の泣き方、好きだよ」

 「え?」私は思わず振り向く。頬が熱くなる。

 「ちゃんと泣くから。ごまかさないで。……兄ちゃんの前でも、そうだった?」

 「うん。陸の前だと、変に強がれない。すぐばれるから」

 空は、わずかに笑った。
 「兄ちゃん、そういうの見抜くの、たしかに得意そう」

 信号のない小さな横断歩道を渡る。遠くから車が二台、順番にこちらを過ぎていく。排気の匂いが短く残り、すぐ夏の匂いに洗い流される。

 「空は、泣く?」
 私が聞くと、彼は少し間を置いて、素直に頷いた。
 「泣くよ。ひとりのときも、だれかの前でも。兄ちゃんのことで泣くの、最初は自分でも驚いた。会ってない時間のほうが長いのに、こんなに泣くのかって。……でも、泣くたびに、少しだけ知れる気がする。自分の中の兄ちゃんを」

 「泣くたびに、知れる」
 私はその言葉を心に置いた。泣くと、何かを失っている気がするのに、同時に、何かを受け取っているのかもしれない。涙は、記憶の形を指でなぞるための水なのかもしれない。

 角を曲がると、私の家のある通りに出た。見慣れた植え込み、マンションのポーチ、郵便受け。日曜の夕方の匂い――洗濯物の柔軟剤と、どこかの家のカレーの匂いが混ざる匂い――が、低く漂っている。

 家の前で、空が立ち止まった。
 「今日は、ありがと。話せてよかった」

 「こちらこそ」
 私も立ち止まり、空と向き合う。
 「陸のこと、空に話すと、私の中の陸が、少し落ち着く。――変な言い方だけど」

 「分かるよ」空は微笑む。「僕も、君の話を聞くと、僕の中の兄ちゃんが、ちゃんと座ってくれる感じがする」

 私たちは小さく笑い合って、それから、少しだけ口を閉じた。沈黙が、今度は少し軽かった。持ちやすい石の重さに変わっていた。

 「じゃあ、また」
 空の言い方は、陸の「また」に似ていた。似ていて、違う。違いが、ありがたい。

 玄関のドアを開けると、家の匂いが私を包む。出汁と、洗剤と、木の匂い。母の「おかえり」が、いつもより一歩手前で待っているように聞こえた。私は「ただいま」と返し、靴を揃え、部屋に戻る。

 机の上に、封筒と便箋を置いた。椅子に座り、しばらく眺める。指先が、紙の角をなぞる。紙の向こうには、陸がいる。紙の手前には、空がいる。私の胸は、その真ん中あたりにいる。

 一年後、この場所で待ってる。
 陸の字は、私の中の時間をまっすぐに貫く矢印みたいだ。矢印の先には、まだ誰の姿も見えない。けれど、そこに向かう道に、今日、空という「弟の存在」が灯りを置いた気がする。点と点のあいだに、細い線が生まれた。名前のない線だ。まだ頼りない。けれど、手をかけられる。

 ベッドに横になる。天井の角に、夕方が最後の光を置いていく。目を閉じると、陸の笑顔が現れる。空の目の奥の陰りも現れる。二人は重なったり、離れたり、入れ替わったりする。私は胸に手を当て、静かに問う。

 ――私は誰を求めているの? 陸? 空?

 答えは、まだやって来ない。けれど、問うたあとに来る沈黙は、昨日までの沈黙と少し違っていた。重さの芯が、ほんの少し移動した。問いは、私を沈めるだけでなく、浮かせもする。知らないうちに、呼吸の仕方が変わっていた。

 「陸……私、どうすればいいの?」

 暗い部屋に放った問いは、壁にぶつかって戻り、布団に吸われ、いつのまにか私の胸の内で、小さな灯りに変わった。泣いてもいい、と誰かが言った気がした。泣いた分だけ、たぶん、知れる。私の中の陸も、私の中の空も。
 目を開ける。窓の外で、夜が深く息をする。私は横向きになって、手紙を胸に抱いた。紙の冷たさが、ゆっくりと体温に馴染んでいく。

 弟がいる。
 その事実を、ようやく、からだが受け取りはじめていた。陸の「また」を引き受けるために現れた、誰か。似ていて、違う人。違うからこそ、向き合える人。
 私は目を閉じ、深いところへ沈む前に、心のどこかでそっと呟いた。

 ――明日も、川へ。
 ――そして、少しずつ、話そう。
 ――私の知っている陸を。あなたの知らない兄ちゃんを。

 耳の奥の蝉の音が、夜の底でゆっくりと薄くなっていった。