川の色は、夕暮れになると少しだけやわらぐ。昼の強すぎる光が取り払われて、かわりに薄い蜜のような橙が水の面にのっていく。土手の草は風に押され、背丈のちがう緑がさざめきをつくった。耳を澄ますと、遠くで試し打ちの花火が鳴った。乾いた音が一拍おいて胸に届き、鼓動と重なる。
私の隣に、空が立っていた。
横顔は驚くほど陸に似ている。顎のライン、鼻筋、瞬きをするときの、ほんの一瞬だけ伏せ目がちになる癖。記憶の中の陸と、いまの空が、光の揺れに重なり合ってはずれていく。その「似ているのに、違う」という感覚が、胸の底をゆさゆさと乱した。
「君は、陸と……どんな関係だった?」
風の音にまぎれるような、でもはっきり届く声だった。突然の問いに、喉の奥がぎゅっとせばまる。私は川面を見た。橙と灰色が混ざり合う細い波。言葉はそこに落ちて、なかなか形にならない。
「……幼なじみ。小さいころからずっと一緒で、でも、最後の日……ちゃんと『ありがとう』も『好き』も言えなかった」
声に触れた瞬間、視界が滲む。夕焼けが少し膨らんで、輪郭が揺れた。言ってしまったことより、言えなかったことのほうがずっと重い事実として胸に残っている。あの日、口の中で何度も転がした言葉は、唇を越えられなかった。
空はしばらく黙っていた。川下のほうで鳥が水に触れる小さな音がして、また静かになった。やがて、彼はぽつりとつぶやいた。
「やっぱり。兄ちゃんが残した言葉の意味、少し分かる気がする」
「意味?」私は顔を上げる。風が前髪に入って、目頭が冷えた。
空はポケットに指を入れ、古びた封筒を取り出した。角がやわらかくなり、紙そのものが長い時間を吸いこんで黄の層を重ねている。そこから便箋を一枚抜き、私に見せるように持ち上げた。文字は、あの人の癖だった。丸みを帯びて、数字の四は三角のまま閉じている。
一年後、この場所で待ってる。
そこまでは、私が持つ手紙と同じだ。けれど、その下に、短い一文が添えられていた。細く、ためらいのあとを引くような線で書かれている。
——結衣を頼む。
膝の裏から力がすぅっと抜けていき、地面が遠のいた。視界が揺れて、川面のきらめきと文字の黒がぐしゃぐしゃに混ざる。喉の奥に熱い塊がせり上がって、言葉を弾き飛ばす。
「どうして……どうしてそんなこと言うのよ……」
嗚咽が声を塞ぎ、空気がうまく息に変わらない。胸に手を当てると、骨の下で心臓が猫みたいに暴れている。やめて、と言おうとしても、息がつかえるばかり。
空は少し距離を詰め、私の肩にそっと手を置いた。その手は温かかった。けれど、同時に不器用で、ほんの少し震えていた。
「ごめん。兄ちゃんの代わりなんてできない。……でも、来てくれてありがとう」
その言葉に、涙はあとからあとから溢れた。陸の代わりなんて誰もなれない。分かっている。分かっているのに、今こうして自分の隣に立つ空の存在が、心の穴のふちをすこしだけ埋めてしまう。
それが、怖かった。
「似てるのに……違う。あなたを見ると、陸を思い出して、苦しくなる」
「……僕もだよ」空は俯き、小さな声で答えた。「兄ちゃんのことを思い出すたび、胸が痛い。でも、僕は兄ちゃんを知らなすぎた。写真と噂と、たまの電話の声しか知らない。だから、君と話してみたかったんだ。君が知ってる兄ちゃんを、僕は知らないから」
彼の靴先が砂利を押し、すこし白い小石が転がる。夕暮れの光がかすれ、空の頬を斜めに切った。
「君は、兄ちゃんと何を話して、何を笑って、何を嫌ったのか。どの季節が好きで、どこが苦手だったのか。僕の知らない兄ちゃんのことを、君は知ってる。……羨ましい、って言ったら、ずるいかな」
羨ましい。
その言葉が胸に落ちたとき、少し別の痛みが生まれた。私にとって陸は、いつも隣にいるのが当たり前だった。幼いころの夏、川に足を浸して数を数えたこと。冬の朝、白い息でじゃんけんをして勝ったほうがマフラーを巻くルールを作ったこと。春の薄い雨のなか、教室に忘れた折り鶴を取りに戻ったこと。そんな細かい記憶が、私のからだの内側に積もっている。空には、そのどれもが、抜け落ちている。
「……陸はね、アイスの棒を割り損ねると、すごく悔しそうにするの。あれ、コツがあるんだよって得意げに言って、結局うまく割れなくて、私の分をちゃっかりもらうの」
気づくと、私は話しはじめていた。言葉は引き出しの奥から勝手に出てきて、夕風にほどけていく。
「体育の持久走は苦手なのに、最後だけ急に速くなって、抜きざまに『ばいばい』って笑うの。ずるいでしょ。……それから、テストの点が悪いと、鉛筆のせいにするの。芯が折れてたんだって。そんなわけ、ないのに」
空は顔を上げ、ひとつひとつの言葉を拾うように頷いていた。目の奥に、なにか温かいものと、少しだけ刺さるような痛みが交互に灯る。
「……ありがとう」
その一言は、風よりも小さい声で、でも確かに届いた。
川をまたさざなみが渡っていく。土手の上で、自転車のブレーキがきゅっと鳴き、遠ざかった。私たちはしばらく並んで立ち尽くし、空の色が一段暗くなるのを見送った。
「兄ちゃんはさ」空が、夕闇に溶けるような声で言った。「いつも僕に、電話の最後で『もう切るね』じゃなくて『じゃあ、また』って言ったんだ。間に一年が挟まることだって分かってるのにさ。『また』の言い方が、変に明るくて。……あの『また』の行き先が、ずっと分からなかった」
「『また』の行き先」私はゆっくり繰り返す。唇の上でその言葉を転がすと、輪郭が少し丸くなって、胸の内側にしまえるかたちになった。
「手紙の『一年後』って、その『また』なのかな」
空はうなずいた。
「たぶん。兄ちゃんは、未来の言い方を、選んだんだと思う。……勝手にだよ。勝手に、僕たちに未来を押しつけた。置き手紙みたいに」
置き手紙。
そう言われると、少し腹が立った。泣きながらも、小さな笑いが頬の端にひっかかる。
「ほんと、勝手だよ。何も言わずにいなくなって、勝手に『待ってる』なんて言って。……でも、そんなところも、陸らしい」
空が、よほど迷った末にというふうに、そっと聞いた。
「怒ってる?」
「怒ってるよ」私は即答した。「悲しいし、悔しいし、寂しいし、怒ってる。でも、全部、同時に、同じくらいあるから、どれかひとつに名前をつけられない」
「そっか」
空は、ほっとしたように笑った。夜が来る直前の笑顔は、一瞬で溶けてしまう氷みたいに儚い。そこに、陸はあまりいなかった。空自身の顔が、薄明かりの中で浮かんだ。
私たちは土手を下り、川沿いの舗装された道をゆっくり歩いた。足音は、二つ分。歩幅の取り方が、陸とは少し違う。陸はいつも半歩先に出て、振り返って「ほら」って目で促すくせがあった。空は同じ速度に揃えるのが上手で、私が立ち止まると、同じだけ止まった。
「君、怖い?」
不意の問いに、うなずく。
「怖い。あなたを見ていると、陸の声が戻ってくる気がして。期待して、また思い知るのが、怖い。……でも、会いたい。陸に、もう一度。無理なのに、そう思ってしまう自分も、怖い」
空は、足もとを見た。舗装の小さな亀裂に、草の細い芽が顔を出している。
「僕も、怖いよ。兄ちゃんを知らなすぎたから。君から兄ちゃんの話を聞くたびに、手に入れられるものが増えるのと同じだけ、もう二度と手に入らないものがはっきりしていく。嬉しいのと、痛いのが、同じ場所にある」
夕闇が完全に夜に変わるころ、私たちは堤防の小さな階段に腰を下ろした。空がコンビニの袋からペットボトルの水を二本出す。一本を渡され、ふたを回すと、ひゅう、と小さな空気の音がした。水は、喉を急いでいって、胸の熱を少し冷やした。
「さっきの言葉」私は言った。「『結衣を頼む』って、どういう気持ちで書いたと思う?」
空は長く息を吐いた。夜の匂いがすこし深くなる。
「分からない。けど……兄ちゃんは、僕を頼るのが下手だった。いつも自分で抱え込んで、最後の最後に『ごめん』みたいに笑う。あれは『頼む』というより、『託す』に近いんじゃないかな。君のことを、僕に『渡す』んじゃなくて、君自身の『未来』を君に渡すための、迂回路みたいな」
「迂回路」
私は便箋の文字を思い出す。一年後、この場所で待ってる。
私の気持ちは、まっすぐに走る道では間に合わないのかもしれない。ぐるりと遠回りして、時間という橋を渡って、やっと届く言葉がある。それが「待ってる」なのだとしたら——少し、許せる気がした。
空が、夜空を見上げた。星がひとつ、そこだけ明るく瞬いていた。
「兄ちゃんのこと、もっと教えて。……君が知ってる兄ちゃんを、少しずつでいいから」
私はうなずき、肩の力を抜いた。
「陸はね、数学の公式を覚えるとき、歌にしたの。『イチタスイチハニじゃないよ』って意味の分からない替え歌。頭に残るからやってみなって言われて、ぜんぜん残らなくて、私だけ追試で怒られた」
空の口もとがほどける。
「兄ちゃんっぽい」
「それから、夏祭りの金魚すくいで、最初は慎重にやるのに、一匹とれた瞬間に調子に乗って、網を水に沈めすぎて破るの。で、破れた網を、帰り道ずっと『お守りにする』ってポケットに入れてて、洗濯のときにお母さんに怒られるの」
「怒られてそう」
空は笑った。笑いながら、目のふちに水を湛える。笑いと涙は、惜しみなく隣り合う。
「ねえ」私はためらいながら言う。「空は、陸に、何を言いたかった?」
空は膝の上で手を組んだ。夜の風が指の間を抜ける。
「……たぶん、ちっぽけなこと。どうしてそんなに遠くに行くの、どうして黙ってるの、どうして僕に何も頼らないの、って。子どもの質問。でも本当は、ただ『もう少し一緒にいて』って言いたかっただけかもしれない。……言えなかったけど」
胸の奥で、似た形の言葉が響く。私も、陸に言えなかった。同じこと。ほんの一言が、いちばん大事で、いちばん難しい。
帰り道。土手を離れた街は、夜に鮮やかさを取り戻す。コンビニの白い光、住宅の窓の四角い灯り、信号の青。私たちは並んで歩いた。話しながら、沈黙しながら、また話しながら。話題は陸を何度も回って、ふと明日の天気に降り、また陸に戻る。円を描くみたいに。
家の前で、空が立ち止まった。
「今日は、ありがと」
「こちらこそ」私は小さく頭を下げた。玄関の灯りが、足もとに柔らかい輪を落としている。
空は、躊躇いがちに口を開いた。
「また、来てもいい?」
少しの間、言葉が動かなかった。
「……うん」
声に出してみると、喉の奥でいったん鳴った痛みが、少しだけ丸くなった。
空は安心したように息をつき、くしゃっと笑った。
「じゃあ、また」
その「また」は、陸がよく使っていた「また」に、少しだけ似ていた。けれど、まるきり同じではない。違いが、私の胸を落ち着かせる。玄関のドアを開けると、家の匂いが一気に押し寄せた。だしの残り香、洗剤、畳。ふつうの生活の匂い。
「おかえり」
台所から母の声。
「……うん」
短く返事をし、部屋に入る。机の上に、封筒と便箋。灯りの下で、紙は昼よりも白く見える。
私は椅子に座り、手紙をそっと開いた。涙でにじんだ字を指でなぞる。紙の繊維のざらつきが、皮膚のやわらかいところに触れるたび、胸の奥が少しずつ明るくなる——痛みを抱えたままでも、灯りは灯って良いのだと、紙が教えてくれるみたいに。
空と話すことで、陸の姿が鮮明に蘇る。笑顔も、声も、癖も、どうでもいい嘘のつき方も。
だけど同時に、心の奥に空の顔も刻まれ始めている。陸の面影をまとった“違う人”として。そこに罪悪感のような棘が生まれて、触れるたびに自分を刺す。私は、誰を求めているの? 陸? 空? その問いは、答えの形を与えられないまま、胸の片隅で静かな音を立てていた。
ベッドに横たわる。天井の隅に、街灯の明かりが四角く切れて貼りつく。カーテンの隙間から秋の気配を含んだ風が入って、汗ばんだ額を撫でた。目を閉じると、今日の川面と、空の「兄ちゃん」という言い方が交互に浮かぶ。
「陸……私、どうすればいいの?」
声に出すと、音はすぐ布に吸われて消える。
答えは、静かな夜の中で小さく砕け、そのまま見えなくなった。
夢の中で、去年の夏の花火がもう一度開いた。
人ごみの中で、陸が隣にいる。汗のにおい、焼きそばのソース、綿あめの甘さ。音が胸を叩くたびに、陸が笑う。
「また来年も」
その言葉に、夢の中の私はうなずく。けれど、次の瞬間、陸の背中だけが遠ざかる。私は叫ぶ。「その来年、私は……誰とここにいるの?」
花火の音にかき消され、返事は届かない。誰かの浴衣の袖が私の肩をかすめ、紙のうちわが空気を切る。陸は振り返らない。視界の端で、横顔が別の横顔にすり替わる。陸と、空。空と、陸。重なって、ほどけて、わからなくなる。
目を覚ますと、枕は濡れていた。胸の奥の痛みは、夢の中のものじゃなかったという証のように、現実に残っている。外はまだ青い。鳥の声が一度だけして、また止んだ。
私は起き上がり、机に向かった。便箋を広げ、もう一度読む。
一年後、この場所で待ってる。
刻まれた文字は、昨日と同じ重さでそこにある。けれど、私の指の温度が、ほんの少しだけ違う。空と話したせいかもしれない。陸の言葉の輪郭が、以前よりくっきりと見える気がした。
これから先の一年が、恐ろしく長い坂道に思える瞬間がある。途中で休もうとして、誰かに見つかるのが怖い瞬間もある。でも、坂の途中で息を整えることを、陸は許すだろうか。許すに決まっている。だって、あの人は、誰よりも私の歩幅に合わせるのが上手かったのだから。
——いや、上手かった「誰か」を、私はいま、また覚え直している最中なのかもしれない。空の歩幅で。
放課後の河川敷を思い出す。夕暮れに溶ける輪郭、震える指、やさしいけれど不器用な手。
私はペンを取り、封筒の内側に小さく書いた。誰に宛てるともなく、今日の自分への覚え書きみたいに。
行く。
声にしない約束を、胸のいちばん奥の、痛みと温度が混じる場所にそっとしまう。
夜の窓の外で、風が一度だけ強く鳴った。カーテンが揺れて、月の欠けた光が、部屋の隅でやさしく転がる。私は手紙を丁寧に折り、封筒に戻した。角を指でそっと撫でると、紙の向こう側で、陸の「また」と空の「また」がひとつの線になっていく気がした。
明日、また川へ行く。
そこで私は、陸の影と、空という「違う人」と、何度でも向き合うのだと思う。怖さは消えない。けれど、怖いまま向かうことを、あの一文はきっと赦している。
一年後、この場所で待ってる。
その約束の手前にいる、今日の私へ。
ちゃんと生きて、ちゃんと迷って、ちゃんと泣いていいと、誰かが言ってくれた気がした。
私の隣に、空が立っていた。
横顔は驚くほど陸に似ている。顎のライン、鼻筋、瞬きをするときの、ほんの一瞬だけ伏せ目がちになる癖。記憶の中の陸と、いまの空が、光の揺れに重なり合ってはずれていく。その「似ているのに、違う」という感覚が、胸の底をゆさゆさと乱した。
「君は、陸と……どんな関係だった?」
風の音にまぎれるような、でもはっきり届く声だった。突然の問いに、喉の奥がぎゅっとせばまる。私は川面を見た。橙と灰色が混ざり合う細い波。言葉はそこに落ちて、なかなか形にならない。
「……幼なじみ。小さいころからずっと一緒で、でも、最後の日……ちゃんと『ありがとう』も『好き』も言えなかった」
声に触れた瞬間、視界が滲む。夕焼けが少し膨らんで、輪郭が揺れた。言ってしまったことより、言えなかったことのほうがずっと重い事実として胸に残っている。あの日、口の中で何度も転がした言葉は、唇を越えられなかった。
空はしばらく黙っていた。川下のほうで鳥が水に触れる小さな音がして、また静かになった。やがて、彼はぽつりとつぶやいた。
「やっぱり。兄ちゃんが残した言葉の意味、少し分かる気がする」
「意味?」私は顔を上げる。風が前髪に入って、目頭が冷えた。
空はポケットに指を入れ、古びた封筒を取り出した。角がやわらかくなり、紙そのものが長い時間を吸いこんで黄の層を重ねている。そこから便箋を一枚抜き、私に見せるように持ち上げた。文字は、あの人の癖だった。丸みを帯びて、数字の四は三角のまま閉じている。
一年後、この場所で待ってる。
そこまでは、私が持つ手紙と同じだ。けれど、その下に、短い一文が添えられていた。細く、ためらいのあとを引くような線で書かれている。
——結衣を頼む。
膝の裏から力がすぅっと抜けていき、地面が遠のいた。視界が揺れて、川面のきらめきと文字の黒がぐしゃぐしゃに混ざる。喉の奥に熱い塊がせり上がって、言葉を弾き飛ばす。
「どうして……どうしてそんなこと言うのよ……」
嗚咽が声を塞ぎ、空気がうまく息に変わらない。胸に手を当てると、骨の下で心臓が猫みたいに暴れている。やめて、と言おうとしても、息がつかえるばかり。
空は少し距離を詰め、私の肩にそっと手を置いた。その手は温かかった。けれど、同時に不器用で、ほんの少し震えていた。
「ごめん。兄ちゃんの代わりなんてできない。……でも、来てくれてありがとう」
その言葉に、涙はあとからあとから溢れた。陸の代わりなんて誰もなれない。分かっている。分かっているのに、今こうして自分の隣に立つ空の存在が、心の穴のふちをすこしだけ埋めてしまう。
それが、怖かった。
「似てるのに……違う。あなたを見ると、陸を思い出して、苦しくなる」
「……僕もだよ」空は俯き、小さな声で答えた。「兄ちゃんのことを思い出すたび、胸が痛い。でも、僕は兄ちゃんを知らなすぎた。写真と噂と、たまの電話の声しか知らない。だから、君と話してみたかったんだ。君が知ってる兄ちゃんを、僕は知らないから」
彼の靴先が砂利を押し、すこし白い小石が転がる。夕暮れの光がかすれ、空の頬を斜めに切った。
「君は、兄ちゃんと何を話して、何を笑って、何を嫌ったのか。どの季節が好きで、どこが苦手だったのか。僕の知らない兄ちゃんのことを、君は知ってる。……羨ましい、って言ったら、ずるいかな」
羨ましい。
その言葉が胸に落ちたとき、少し別の痛みが生まれた。私にとって陸は、いつも隣にいるのが当たり前だった。幼いころの夏、川に足を浸して数を数えたこと。冬の朝、白い息でじゃんけんをして勝ったほうがマフラーを巻くルールを作ったこと。春の薄い雨のなか、教室に忘れた折り鶴を取りに戻ったこと。そんな細かい記憶が、私のからだの内側に積もっている。空には、そのどれもが、抜け落ちている。
「……陸はね、アイスの棒を割り損ねると、すごく悔しそうにするの。あれ、コツがあるんだよって得意げに言って、結局うまく割れなくて、私の分をちゃっかりもらうの」
気づくと、私は話しはじめていた。言葉は引き出しの奥から勝手に出てきて、夕風にほどけていく。
「体育の持久走は苦手なのに、最後だけ急に速くなって、抜きざまに『ばいばい』って笑うの。ずるいでしょ。……それから、テストの点が悪いと、鉛筆のせいにするの。芯が折れてたんだって。そんなわけ、ないのに」
空は顔を上げ、ひとつひとつの言葉を拾うように頷いていた。目の奥に、なにか温かいものと、少しだけ刺さるような痛みが交互に灯る。
「……ありがとう」
その一言は、風よりも小さい声で、でも確かに届いた。
川をまたさざなみが渡っていく。土手の上で、自転車のブレーキがきゅっと鳴き、遠ざかった。私たちはしばらく並んで立ち尽くし、空の色が一段暗くなるのを見送った。
「兄ちゃんはさ」空が、夕闇に溶けるような声で言った。「いつも僕に、電話の最後で『もう切るね』じゃなくて『じゃあ、また』って言ったんだ。間に一年が挟まることだって分かってるのにさ。『また』の言い方が、変に明るくて。……あの『また』の行き先が、ずっと分からなかった」
「『また』の行き先」私はゆっくり繰り返す。唇の上でその言葉を転がすと、輪郭が少し丸くなって、胸の内側にしまえるかたちになった。
「手紙の『一年後』って、その『また』なのかな」
空はうなずいた。
「たぶん。兄ちゃんは、未来の言い方を、選んだんだと思う。……勝手にだよ。勝手に、僕たちに未来を押しつけた。置き手紙みたいに」
置き手紙。
そう言われると、少し腹が立った。泣きながらも、小さな笑いが頬の端にひっかかる。
「ほんと、勝手だよ。何も言わずにいなくなって、勝手に『待ってる』なんて言って。……でも、そんなところも、陸らしい」
空が、よほど迷った末にというふうに、そっと聞いた。
「怒ってる?」
「怒ってるよ」私は即答した。「悲しいし、悔しいし、寂しいし、怒ってる。でも、全部、同時に、同じくらいあるから、どれかひとつに名前をつけられない」
「そっか」
空は、ほっとしたように笑った。夜が来る直前の笑顔は、一瞬で溶けてしまう氷みたいに儚い。そこに、陸はあまりいなかった。空自身の顔が、薄明かりの中で浮かんだ。
私たちは土手を下り、川沿いの舗装された道をゆっくり歩いた。足音は、二つ分。歩幅の取り方が、陸とは少し違う。陸はいつも半歩先に出て、振り返って「ほら」って目で促すくせがあった。空は同じ速度に揃えるのが上手で、私が立ち止まると、同じだけ止まった。
「君、怖い?」
不意の問いに、うなずく。
「怖い。あなたを見ていると、陸の声が戻ってくる気がして。期待して、また思い知るのが、怖い。……でも、会いたい。陸に、もう一度。無理なのに、そう思ってしまう自分も、怖い」
空は、足もとを見た。舗装の小さな亀裂に、草の細い芽が顔を出している。
「僕も、怖いよ。兄ちゃんを知らなすぎたから。君から兄ちゃんの話を聞くたびに、手に入れられるものが増えるのと同じだけ、もう二度と手に入らないものがはっきりしていく。嬉しいのと、痛いのが、同じ場所にある」
夕闇が完全に夜に変わるころ、私たちは堤防の小さな階段に腰を下ろした。空がコンビニの袋からペットボトルの水を二本出す。一本を渡され、ふたを回すと、ひゅう、と小さな空気の音がした。水は、喉を急いでいって、胸の熱を少し冷やした。
「さっきの言葉」私は言った。「『結衣を頼む』って、どういう気持ちで書いたと思う?」
空は長く息を吐いた。夜の匂いがすこし深くなる。
「分からない。けど……兄ちゃんは、僕を頼るのが下手だった。いつも自分で抱え込んで、最後の最後に『ごめん』みたいに笑う。あれは『頼む』というより、『託す』に近いんじゃないかな。君のことを、僕に『渡す』んじゃなくて、君自身の『未来』を君に渡すための、迂回路みたいな」
「迂回路」
私は便箋の文字を思い出す。一年後、この場所で待ってる。
私の気持ちは、まっすぐに走る道では間に合わないのかもしれない。ぐるりと遠回りして、時間という橋を渡って、やっと届く言葉がある。それが「待ってる」なのだとしたら——少し、許せる気がした。
空が、夜空を見上げた。星がひとつ、そこだけ明るく瞬いていた。
「兄ちゃんのこと、もっと教えて。……君が知ってる兄ちゃんを、少しずつでいいから」
私はうなずき、肩の力を抜いた。
「陸はね、数学の公式を覚えるとき、歌にしたの。『イチタスイチハニじゃないよ』って意味の分からない替え歌。頭に残るからやってみなって言われて、ぜんぜん残らなくて、私だけ追試で怒られた」
空の口もとがほどける。
「兄ちゃんっぽい」
「それから、夏祭りの金魚すくいで、最初は慎重にやるのに、一匹とれた瞬間に調子に乗って、網を水に沈めすぎて破るの。で、破れた網を、帰り道ずっと『お守りにする』ってポケットに入れてて、洗濯のときにお母さんに怒られるの」
「怒られてそう」
空は笑った。笑いながら、目のふちに水を湛える。笑いと涙は、惜しみなく隣り合う。
「ねえ」私はためらいながら言う。「空は、陸に、何を言いたかった?」
空は膝の上で手を組んだ。夜の風が指の間を抜ける。
「……たぶん、ちっぽけなこと。どうしてそんなに遠くに行くの、どうして黙ってるの、どうして僕に何も頼らないの、って。子どもの質問。でも本当は、ただ『もう少し一緒にいて』って言いたかっただけかもしれない。……言えなかったけど」
胸の奥で、似た形の言葉が響く。私も、陸に言えなかった。同じこと。ほんの一言が、いちばん大事で、いちばん難しい。
帰り道。土手を離れた街は、夜に鮮やかさを取り戻す。コンビニの白い光、住宅の窓の四角い灯り、信号の青。私たちは並んで歩いた。話しながら、沈黙しながら、また話しながら。話題は陸を何度も回って、ふと明日の天気に降り、また陸に戻る。円を描くみたいに。
家の前で、空が立ち止まった。
「今日は、ありがと」
「こちらこそ」私は小さく頭を下げた。玄関の灯りが、足もとに柔らかい輪を落としている。
空は、躊躇いがちに口を開いた。
「また、来てもいい?」
少しの間、言葉が動かなかった。
「……うん」
声に出してみると、喉の奥でいったん鳴った痛みが、少しだけ丸くなった。
空は安心したように息をつき、くしゃっと笑った。
「じゃあ、また」
その「また」は、陸がよく使っていた「また」に、少しだけ似ていた。けれど、まるきり同じではない。違いが、私の胸を落ち着かせる。玄関のドアを開けると、家の匂いが一気に押し寄せた。だしの残り香、洗剤、畳。ふつうの生活の匂い。
「おかえり」
台所から母の声。
「……うん」
短く返事をし、部屋に入る。机の上に、封筒と便箋。灯りの下で、紙は昼よりも白く見える。
私は椅子に座り、手紙をそっと開いた。涙でにじんだ字を指でなぞる。紙の繊維のざらつきが、皮膚のやわらかいところに触れるたび、胸の奥が少しずつ明るくなる——痛みを抱えたままでも、灯りは灯って良いのだと、紙が教えてくれるみたいに。
空と話すことで、陸の姿が鮮明に蘇る。笑顔も、声も、癖も、どうでもいい嘘のつき方も。
だけど同時に、心の奥に空の顔も刻まれ始めている。陸の面影をまとった“違う人”として。そこに罪悪感のような棘が生まれて、触れるたびに自分を刺す。私は、誰を求めているの? 陸? 空? その問いは、答えの形を与えられないまま、胸の片隅で静かな音を立てていた。
ベッドに横たわる。天井の隅に、街灯の明かりが四角く切れて貼りつく。カーテンの隙間から秋の気配を含んだ風が入って、汗ばんだ額を撫でた。目を閉じると、今日の川面と、空の「兄ちゃん」という言い方が交互に浮かぶ。
「陸……私、どうすればいいの?」
声に出すと、音はすぐ布に吸われて消える。
答えは、静かな夜の中で小さく砕け、そのまま見えなくなった。
夢の中で、去年の夏の花火がもう一度開いた。
人ごみの中で、陸が隣にいる。汗のにおい、焼きそばのソース、綿あめの甘さ。音が胸を叩くたびに、陸が笑う。
「また来年も」
その言葉に、夢の中の私はうなずく。けれど、次の瞬間、陸の背中だけが遠ざかる。私は叫ぶ。「その来年、私は……誰とここにいるの?」
花火の音にかき消され、返事は届かない。誰かの浴衣の袖が私の肩をかすめ、紙のうちわが空気を切る。陸は振り返らない。視界の端で、横顔が別の横顔にすり替わる。陸と、空。空と、陸。重なって、ほどけて、わからなくなる。
目を覚ますと、枕は濡れていた。胸の奥の痛みは、夢の中のものじゃなかったという証のように、現実に残っている。外はまだ青い。鳥の声が一度だけして、また止んだ。
私は起き上がり、机に向かった。便箋を広げ、もう一度読む。
一年後、この場所で待ってる。
刻まれた文字は、昨日と同じ重さでそこにある。けれど、私の指の温度が、ほんの少しだけ違う。空と話したせいかもしれない。陸の言葉の輪郭が、以前よりくっきりと見える気がした。
これから先の一年が、恐ろしく長い坂道に思える瞬間がある。途中で休もうとして、誰かに見つかるのが怖い瞬間もある。でも、坂の途中で息を整えることを、陸は許すだろうか。許すに決まっている。だって、あの人は、誰よりも私の歩幅に合わせるのが上手かったのだから。
——いや、上手かった「誰か」を、私はいま、また覚え直している最中なのかもしれない。空の歩幅で。
放課後の河川敷を思い出す。夕暮れに溶ける輪郭、震える指、やさしいけれど不器用な手。
私はペンを取り、封筒の内側に小さく書いた。誰に宛てるともなく、今日の自分への覚え書きみたいに。
行く。
声にしない約束を、胸のいちばん奥の、痛みと温度が混じる場所にそっとしまう。
夜の窓の外で、風が一度だけ強く鳴った。カーテンが揺れて、月の欠けた光が、部屋の隅でやさしく転がる。私は手紙を丁寧に折り、封筒に戻した。角を指でそっと撫でると、紙の向こう側で、陸の「また」と空の「また」がひとつの線になっていく気がした。
明日、また川へ行く。
そこで私は、陸の影と、空という「違う人」と、何度でも向き合うのだと思う。怖さは消えない。けれど、怖いまま向かうことを、あの一文はきっと赦している。
一年後、この場所で待ってる。
その約束の手前にいる、今日の私へ。
ちゃんと生きて、ちゃんと迷って、ちゃんと泣いていいと、誰かが言ってくれた気がした。



