鏡の前で、私はしばらく動けなかった。
赤く腫れた目が、そこにあった。昨夜どれだけ泣いたのか、指でそっと触れるとひりつくように熱い。冷たい水で何度顔を洗っても腫れは引かず、薄くファンデーションを塗っても、隠しきれない赤が滲み出る。
机の上には、まだ乾ききらない涙で滲んだ手紙が置かれている。便箋の角がほんの少し折れて、そこから光が跳ね返る。昨日よりもその一文は重く、胸の奥を押しつぶしていた。
一年後、この場所で待ってる。
昨日、河川敷で会った少年。陸に似ていた顔。けれど違う声。陸が生きていた証みたいに胸を締め付ける「空」という存在。夢のような夜が、朝の光の中で現実になっていくのが怖かった。
学校に行っても集中できない。黒板に先生が書く文字は目に入る前に消え、ノートは白紙のまま。窓の外の青空だけが、やけに鮮明だった。
休み時間、美月が隣に座って覗き込む。
「大丈夫? 昨日からずっとぼーっとしてるよ」
私は一瞬迷った。けれど、心の奥で何かが決壊する音がして、勇気を振り絞って答えた。
「……陸から、手紙が届いたの」
美月の表情が固まる。
「……は? いや、亡くなったんでしょ?」
「そう。でも、本当に届いたの。弟も見てる。私だけじゃない」
その言葉に美月は眉を寄せ、しばらく黙った。やがて小声で言う。
「……結衣、それ、行くの?」
その問いに、私は即答できなかった。
行けば、何かが変わる気がする。でも同時に、行けば「本当に陸がいない」ことを突きつけられる気がする。期待と恐怖が胸の奥で絡み合い、心臓を締め付ける。
放課後、私は寄り道せずに家へ戻った。玄関を開けると味噌汁の香りが広がり、母が台所に立っている。玉ねぎの甘い匂いとだしの匂いが混ざって、ふつうの生活の匂いがした。
「おかえり。……どうしたの、その顔」
「なんでもない」
母は深追いせず、黙って鍋をかき混ぜる。その背中を見て、胸が詰まった。母も陸の死を知っている。あの日、泣き崩れる私を必死に抱きしめてくれたのは母だった。なのに、私は何ひとつ母に話せないまま、机の上の手紙ばかりを見つめている。
夕食のあと、自室にこもり、机に置いた手紙をじっと見つめる。封筒の端が少し破れ、触れるだけで簡単にちぎれてしまいそうだ。指先がそこに触れるたび、胸の奥がひゅっと冷たくなる。
――どうして私に残したの?
――なぜ“一年後”なの?
――待ってるって、どういう意味?
心の中で陸に問いかける。けれど、問いの答えは返ってこない。時計の秒針の音だけが部屋に満ちる。
その夜、再び夢を見た。
夏祭りの光、川辺の屋台。人ごみに紛れて陸の姿を探す。遠くで振り返る笑顔が見えた気がして、走り出す。
「陸!」
叫ぶが、声は届かない。人の波に押され、足が止まる。彼の背中はまた遠ざかっていく。
そして、夢の中で聞こえたのは、あの手紙の文字だった。
一年後、この場所で待ってる。
はっと目を覚まし、時計を見ると午前二時。心臓が速く打ち、汗でシーツが湿っていた。呼吸がうまくいかない。手探りで電気を点け、もう一度手紙を広げる。震える声で読み上げる。
「一年後、この場所で待ってる……」
涙が頬を伝う。もし行かなければ、一生後悔するかもしれない。もし行ったとしても、得られるのは絶望かもしれない。
それでも、心の奥から声が聞こえる。
――行け。
翌日、学校帰りに河川敷へ向かった。夕日が川を染め、風が頬を撫でる。昨日の夜と同じ場所。草の匂いが少し乾いて、秋の気配を含んでいた。
そこに立つと、昨日の夜と同じように、ひとりの少年が待っていた。陸に似た横顔。けれど昨日よりもはっきり見えるその目は、違う人間の目だった。
「来てくれたんだな」
少年――空が微笑む。その笑顔には、陸にはなかった影が差していた。頬の奥の筋肉の動きが違う。目の奥に宿るものが違う。
私は小さく頷き、涙をこらえながら言った。
「行くべきか迷った。でも……来なきゃいけない気がした」
空はしばらく黙り込んだ。夕日が川面に反射して、その輪郭を金色に縁取る。彼のポケットの中で、何かがかすかに擦れる音がした。
「たぶん、兄ちゃんもそう思ってたんだと思う。君に“来させる”ために、この手紙を残したんだ」
兄ちゃん。
その呼び方が、また胸に重く響く。陸という存在が遠くの人ではなく、血を分けた誰かだったことを、空の声が突きつけてくる。私は胸の奥にまた痛みを感じた。どうして陸はそんなことを?
答えを知るために――私はここに来たのだ。
空は私の表情を見て、ほんの少し目を伏せた。
「兄ちゃん、最後まで君のことを話してた。僕にはよくわからなかったけど……君に“未来”を渡そうとしてたのかもしれない」
夕風が二人の間を抜ける。川面が静かに光り、遠くで小さな魚が跳ねた。私は指先で便箋の端を握りしめ、声を絞り出す。
「未来なんて、まだ怖いよ……」
空は何も言わず、ただ頷いた。その目には、同じ痛みが映っている気がした。二人の間に、沈黙が落ちる。
その沈黙の中に、陸の声がまだ微かに残っているような気がして、胸が締めつけられる。
空がゆっくりと息を吸い込んだ。
「ここから、少しずつ答えを探そう。兄ちゃんが残したものの意味を」
私は涙を拭い、頷いた。
「……うん」
川辺の空は茜色から紫に変わり、町の灯りがひとつずつともる。世界が少しずつ夜へ傾いていく中で、私たちだけがまだ昨日と今日の境目に立っていた。
手の中の便箋が、夕風でかすかに震える。そこに書かれた文字が、胸の奥で静かに燃えている。
一年後、この場所で待ってる。
その言葉が、行くべきか、行かざるべきかを、いまも私に問いかけていた。
赤く腫れた目が、そこにあった。昨夜どれだけ泣いたのか、指でそっと触れるとひりつくように熱い。冷たい水で何度顔を洗っても腫れは引かず、薄くファンデーションを塗っても、隠しきれない赤が滲み出る。
机の上には、まだ乾ききらない涙で滲んだ手紙が置かれている。便箋の角がほんの少し折れて、そこから光が跳ね返る。昨日よりもその一文は重く、胸の奥を押しつぶしていた。
一年後、この場所で待ってる。
昨日、河川敷で会った少年。陸に似ていた顔。けれど違う声。陸が生きていた証みたいに胸を締め付ける「空」という存在。夢のような夜が、朝の光の中で現実になっていくのが怖かった。
学校に行っても集中できない。黒板に先生が書く文字は目に入る前に消え、ノートは白紙のまま。窓の外の青空だけが、やけに鮮明だった。
休み時間、美月が隣に座って覗き込む。
「大丈夫? 昨日からずっとぼーっとしてるよ」
私は一瞬迷った。けれど、心の奥で何かが決壊する音がして、勇気を振り絞って答えた。
「……陸から、手紙が届いたの」
美月の表情が固まる。
「……は? いや、亡くなったんでしょ?」
「そう。でも、本当に届いたの。弟も見てる。私だけじゃない」
その言葉に美月は眉を寄せ、しばらく黙った。やがて小声で言う。
「……結衣、それ、行くの?」
その問いに、私は即答できなかった。
行けば、何かが変わる気がする。でも同時に、行けば「本当に陸がいない」ことを突きつけられる気がする。期待と恐怖が胸の奥で絡み合い、心臓を締め付ける。
放課後、私は寄り道せずに家へ戻った。玄関を開けると味噌汁の香りが広がり、母が台所に立っている。玉ねぎの甘い匂いとだしの匂いが混ざって、ふつうの生活の匂いがした。
「おかえり。……どうしたの、その顔」
「なんでもない」
母は深追いせず、黙って鍋をかき混ぜる。その背中を見て、胸が詰まった。母も陸の死を知っている。あの日、泣き崩れる私を必死に抱きしめてくれたのは母だった。なのに、私は何ひとつ母に話せないまま、机の上の手紙ばかりを見つめている。
夕食のあと、自室にこもり、机に置いた手紙をじっと見つめる。封筒の端が少し破れ、触れるだけで簡単にちぎれてしまいそうだ。指先がそこに触れるたび、胸の奥がひゅっと冷たくなる。
――どうして私に残したの?
――なぜ“一年後”なの?
――待ってるって、どういう意味?
心の中で陸に問いかける。けれど、問いの答えは返ってこない。時計の秒針の音だけが部屋に満ちる。
その夜、再び夢を見た。
夏祭りの光、川辺の屋台。人ごみに紛れて陸の姿を探す。遠くで振り返る笑顔が見えた気がして、走り出す。
「陸!」
叫ぶが、声は届かない。人の波に押され、足が止まる。彼の背中はまた遠ざかっていく。
そして、夢の中で聞こえたのは、あの手紙の文字だった。
一年後、この場所で待ってる。
はっと目を覚まし、時計を見ると午前二時。心臓が速く打ち、汗でシーツが湿っていた。呼吸がうまくいかない。手探りで電気を点け、もう一度手紙を広げる。震える声で読み上げる。
「一年後、この場所で待ってる……」
涙が頬を伝う。もし行かなければ、一生後悔するかもしれない。もし行ったとしても、得られるのは絶望かもしれない。
それでも、心の奥から声が聞こえる。
――行け。
翌日、学校帰りに河川敷へ向かった。夕日が川を染め、風が頬を撫でる。昨日の夜と同じ場所。草の匂いが少し乾いて、秋の気配を含んでいた。
そこに立つと、昨日の夜と同じように、ひとりの少年が待っていた。陸に似た横顔。けれど昨日よりもはっきり見えるその目は、違う人間の目だった。
「来てくれたんだな」
少年――空が微笑む。その笑顔には、陸にはなかった影が差していた。頬の奥の筋肉の動きが違う。目の奥に宿るものが違う。
私は小さく頷き、涙をこらえながら言った。
「行くべきか迷った。でも……来なきゃいけない気がした」
空はしばらく黙り込んだ。夕日が川面に反射して、その輪郭を金色に縁取る。彼のポケットの中で、何かがかすかに擦れる音がした。
「たぶん、兄ちゃんもそう思ってたんだと思う。君に“来させる”ために、この手紙を残したんだ」
兄ちゃん。
その呼び方が、また胸に重く響く。陸という存在が遠くの人ではなく、血を分けた誰かだったことを、空の声が突きつけてくる。私は胸の奥にまた痛みを感じた。どうして陸はそんなことを?
答えを知るために――私はここに来たのだ。
空は私の表情を見て、ほんの少し目を伏せた。
「兄ちゃん、最後まで君のことを話してた。僕にはよくわからなかったけど……君に“未来”を渡そうとしてたのかもしれない」
夕風が二人の間を抜ける。川面が静かに光り、遠くで小さな魚が跳ねた。私は指先で便箋の端を握りしめ、声を絞り出す。
「未来なんて、まだ怖いよ……」
空は何も言わず、ただ頷いた。その目には、同じ痛みが映っている気がした。二人の間に、沈黙が落ちる。
その沈黙の中に、陸の声がまだ微かに残っているような気がして、胸が締めつけられる。
空がゆっくりと息を吸い込んだ。
「ここから、少しずつ答えを探そう。兄ちゃんが残したものの意味を」
私は涙を拭い、頷いた。
「……うん」
川辺の空は茜色から紫に変わり、町の灯りがひとつずつともる。世界が少しずつ夜へ傾いていく中で、私たちだけがまだ昨日と今日の境目に立っていた。
手の中の便箋が、夕風でかすかに震える。そこに書かれた文字が、胸の奥で静かに燃えている。
一年後、この場所で待ってる。
その言葉が、行くべきか、行かざるべきかを、いまも私に問いかけていた。



