君のいない夏を、君と歩く

 川の音は、夜になると昼間よりもずっと近くで響いていた。街灯はところどころで切れ、明かりと闇の境目が足もとに斑の模様をつくっている。川面には、月明かりが小さな破片のように揺れ、夜風は湿った匂いを抱いて頬を撫でた。

 胸の奥で心臓が音を立てていた。耳に届く自分の鼓動は、外の世界のすべてよりも大きく感じる。足が勝手に進んでしまう。影が、そこに立っている。

 背丈も、立ち方も、あの夏の記憶のままだった。河川敷の細い階段を上りきったところで、私は息をのんだ。目の前の空気が波打つ。

 「……陸?」

 ようやく声を出せたのは、囁きに近いかすれ声だった。自分の口が動いたことさえ信じられないくらい、喉が乾いていた。

 その瞬間、影が振り返った。月明かりに浮かび上がった横顔は、確かに陸に似ていた。輪郭、頬の線、伏せたまつげ。すべてが胸をえぐるほど懐かしい。けれど、その奥にあるものが違っていた。目の奥の雰囲気も、声の高さも。陸が持っていた光と違う、見知らぬ誰かの影がそこにあった。

 彼は一歩こちらに寄ってきた。砂利がかすかに鳴る。
 「君が……結衣?」

 その声は、懐かしさと同時に“知らない誰か”の響きをしていた。心臓の音が喉元まで上がる。私は後ずさりし、かろうじて声を絞り出す。

 「あなたは……誰?」

 彼は短く息を吸い、少し困ったように微笑んだ。月明かりの下で、その笑顔はどこか幼さを残していた。

 「空。……陸の弟だよ」

 その名前が耳に入った瞬間、頭の奥でいくつもの記憶がほどける。陸には弟がいた、ということは聞いたことがあった。けれど、別れた両親のもとで育ち、ほとんど会ったことのない存在。顔も声も、断片のままにしか知らなかった。

 「弟……」

 私の声は、自分でも驚くほど掠れていた。信じたいのか疑いたいのか分からないまま、胸の奥で何かが軋む。

 「どうして……ここに?」

 ようやく言葉になったのはそれだけだった。声は震えて、足元の石ころを見つめることしかできない。

 空はポケットから古びた封筒を取り出した。色も形も、私が受け取った手紙とまったく同じだった。月明かりの下で、紙は黄ばんでいて、切手の角は少しめくれている。

 「僕のところにも届いたんだ。兄ちゃんの字で、『一年後、この場所で待ってる』って」

 兄ちゃん。
 その響きが胸に沁みた。彼の声の中にある「兄ちゃん」という呼び方が、遠い場所の景色をほんの一瞬だけ見せた気がする。私が知らない陸の顔。私の知らない家族の時間。

 息が詰まる。つまり、陸は私だけでなく、弟にも手紙を残していたのか。
 どうして。どうしてそんなことができるの。どうして私をここに呼んだの。

 二人はそのまま無言で川を眺めた。蝉の声は消え、風の音だけが残る。夜の川は黒い絹のように光って、どこまでも続いているように見えた。

 「そんなの、嘘だよ……」

 気づけば、喉の奥から熱いものがこみ上げて、言葉になっていた。涙が頬を伝い、指先まで震えた。私は両手で顔を覆い、目を閉じた。

 空は驚いたように目を見開いたが、何も言わなかった。ただ川面に小石を投げた。波紋がゆっくり広がって、やがて消える。静寂がまた戻る。

 私は心の中で問い続けていた。――どうして陸は死んだあとに手紙を残したのか。なぜ“一年後”なのか。私に何を伝えたかったのか。答えのない問いが胸の奥で渦を巻く。

 「……帰る」

 かろうじてそう言って、私は踵を返した。足がふらつく。空は数歩遅れてから私の隣に並んだ。沈黙が重く、夜気がひんやりと肌に貼りつく。

 途中、空が唐突に口を開いた。
 「兄ちゃん、最後まで君のこと、気にしてたよ」

 その言葉は、胸を突き刺すように私の中に落ちた。心臓が痛むほどに。
 「そんなの……言わないでよ……」

 泣き笑いになって、声が詰まる。涙と嗚咽が入り混じり、前が霞んだ。空はそれ以上何も言わず、ただ歩幅を私に合わせてくれていた。そのことだけが、胸の奥にかすかな温もりを残した。

 家に帰り、自室に戻ると、外の音は遠い世界のものみたいに小さかった。机に手紙を広げる。インクの色は、昨日よりも古く見えた。震える指で文字をなぞる。

 一年後、この場所で待ってる。

 涙が次々に零れ落ちる。インクが滲み、文字が霞む。それでも消えない。「待ってる」という言葉が、私の心を捕まえて離さない。彼はもういないのに。いないのに、「待ってる」と書き残した。残酷で、優しい矛盾。

 私はベッドに突っ伏し、声を殺して泣いた。あの夏、陸を救えなかった悔い。最後に「ありがとう」も「好き」も言えなかった痛み。全部が蘇ってきて、胸が裂けそうになる。

 夜更け、涙に濡れた手紙を抱えたまま、私は眠りに落ちた。

 夢の中で、花火の音が響く。去年と同じ場所で、陸が手を振っている。笑顔はまぶしくて、声は届かない。私は走ろうとするが、足が前に出ない。叫びたいのに声も出ない。ただ、陸が遠ざかっていくのを見ているしかない。

 目覚めた時、枕は濡れていた。窓の外では朝日が昇り始めている。頬の涙が光を受けて冷たい。

 「陸……どうして?」

 声にならない問いが、静かな部屋に溶けていった。