夏の夕暮れは、まるで一枚の薄い和紙みたいに空を覆っていた。
 河川敷の草は一日分の陽を吸って、指でなぞると温度がまだ残っている。風が通るたび、その温度はかすかに揺れて、どこか遠くの花火大会のざわめき――屋台の呼び声、子どもたちの笑い、花火筒を据える鈍い金属音――を運んできた。
 けれど、ここだけは切り取られたみたいに静かだった。結衣と、空と、美月。三人の間に張りつめた空気が立ちのぼり、夕焼けの色を薄くしてしまう。

 結衣は、胸の前で指を組んだ。自分の両手がこんなにも頼りなく震えるのを、いま初めて見ている気がした。
「美月……これは違うの。ただの偶然で、私は……」
 声は喉の奥でひっかかり、すぐにほどけてしまう。否定したい。言い訳だって用意できるはずだった。けれど、昨夜の告白と、いま手のひらに残る温もりが、どの言葉も受けつけてくれない。

 美月の瞳は、夕陽の赤を飲み込んで、濡れていた。
「結衣、ずっと見てたよ。あの日から、君が陸くんをどれだけ想って泣いてたか。だから、空くんと一緒にいるのを見ても、最初は安心したの。君を支えてくれてるんだって」
 言うたびに、声はすこし震え、涙が頬を伝って落ちていく。
「でも……違うんだね。支えてるだけじゃなくて……好きになってるんだね」

 胸の奥でなにかが崩れた。
 頷くことも、否定することもできない。結衣は唇を噛んで、涙を飲み込もうとしたけれど、飲み込むたび、別の涙が溢れてくる。

 空が半歩、前に出た。夕焼けに縁どられた横顔は、子どもみたいに若く見えて、それでも不思議と頼もしかった。
「僕が結衣を好きになった。兄ちゃんの代わりなんかじゃない。僕自身の気持ちだ」
 言い切る声が、草むらの奥で跳ね返る。

 美月は痛みに耐えるように眉を寄せ、結衣をまっすぐ見た。
「どうして……? 陸くんをあんなに好きだったのに。まだ日記を抱えて泣いてたのに。どうして……弟の空くんに心を許すの?」
 問いは鋭く、けれど責めるだけの刃ではなかった。震えの中に、心配と戸惑いが混ざっている。だからこそ、結衣の胸を正確に刺した。

「私だって分からないよ……!」
 言葉は涙といっしょにこぼれ落ちる。
「陸を忘れたわけじゃない。でも、空と一緒にいると……少しだけ呼吸ができるの。笑えるの。……それが罪だって分かってても、止められないの!」

 美月の頬を、さらに大粒の涙が伝った。
 結衣は知っている。陸がいなくなってからの長い日々に、だれよりも寄りそい、黙って横に座ってくれたのは美月だった。下校の道で「話さなくていいよ」と、ただ歩幅を合わせてくれたのも。
 その美月を、いま自分が泣かせている。たったそれだけの事実が、背骨の奥まで冷たくする。

「結衣……私は君が幸せになることを願ってる」
 美月は唇を噛み、ひと呼吸して続けた。
「でも、その幸せが陸くんを裏切ることだなんて、信じたくない」

 くるりと背を向ける。涙を拭わないまま、河川敷の斜面を駆け上がっていくスニーカーの白。
「待って――」と声を出した瞬間、足が鉛みたいに重くなった。踏み出そうとした一歩が、土の上で空回りする。呼吸が乱れ、胸が軋む。
「美月……ごめん……ごめん……!」

 空がそっと肩に手を置いた。
 その手を、結衣は思わず振り払ってしまう。
「空……もう、どうすればいいのか分からない。私、美月まで傷つけて……陸まで裏切って……」
 膝から力が抜けて、その場に崩れ落ちた。草の匂いが近くなる。鼻の奥に夏の土の匂いが広がっていく。

 空は結衣の前にしゃがみこみ、地面すれすれの視線でまっすぐ言った。
「違う。兄ちゃんは裏切られたなんて思わない。美月も、いつか分かってくれる。だから結衣、自分を責めないで」
 その言葉は、やわらかい毛布みたいに胸に触れてくる。けれど、いまは毛布の重ささえ支えられず、結衣は首を振ることしかできなかった。

 遠くで、最初の花火が上がった。
 どん、と空の底を叩くような音。光が遅れて、夕闇の膜ににじむ。
 人の歓声が波のように押し寄せ、ここに届くころには、細かい泡になって消える。

 その夜、家に帰っても涙は止まらなかった。
 洗面所の鏡に映る自分は、目のふちがさらに赤く、幼い顔になっている。タオルで顔を押さえ、深呼吸を繰り返す。机の上の日記帳に視線が吸い寄せられるけれど、指先は表紙に触れられなかった。
 ベッドの上で丸くなり、枕に顔をうずめて声を殺す。息を継ぐたび、胸の奥がひゅうひゅう鳴る。涙で濡れた枕カバーが冷えて、頬に吸い付いた。

 いつのまにか眠っていたらしい。夢の中で、陸が現れた。
 祭りの夜と同じ浴衣姿で、手には去年の金魚すくいのポイ。笑っている。けれど、その背後で美月が泣いていた。
 「待って」と手を伸ばすと、陸は首を横に振って、背を向ける。歩幅は大きくも小さくもなく、ただ一定で、追いつけそうで追いつけない。
 その後ろ姿に叫び声を上げたとき、目が覚めた。
 朝の光はまっすぐで、部屋の隅に溜まった夜の影を薄くしている。枕元には、涙の跡だけが残っていた。

 ――友情も、恋も、陸への想いも。全部抱えたまま進まなければならない。
 その重さに押しつぶされそうになりながら、結衣は身支度をした。制服のスカートにアイロンの折り目を指でなぞり、髪を結び直す。目の腫れは隠せないけれど、目を開けて歩くことはできる。

 学校への道で、蝉の声がすっかり薄くなっていることに気づく。夏が出口に近づくときの、あの空白の時間。風の温度がすこしだけ軽く、空の青がどこか遠い。
 校門をくぐると、いつもより靴音が大きく聞こえた。教室の前で深呼吸をしてドアを開けると、美月は席にいた。頬の赤みは引いていたが、目のふちは私と同じ色をしている。

 「おはよう」
 言うだけでも、喉が狭くなる。
 美月は「おはよう」と返した。声は普段どおりだけど、言葉のすぐ後ろに小さな間があった。
 その間に、昨夜のすべてが立ち上がってしまいそうで、結衣は視線を落として席に着いた。

 一限目。先生の声は、遠い海の波の音みたいに単調で、黒板の白いチョークの線だけがやけに鮮明だった。ノートに書き写しながら、結衣の意識は何度も隣の列に流れていく。
 美月は真っ直ぐ前を見ている。まばたきの回数がすこし多い気がする。指先でシャープペンのノックを何度も押して、芯先の音が小さく弾む。
 ――話したい。謝りたい。でも、どんな言葉も、昨夜の涙に届かない気がした。

 昼休み、廊下の端で、美月が小さく手招きした。
 ふたりで校舎裏のベンチに座る。日の当たらない場所は涼しく、プールの塩素の匂いが風にのって流れてくる。
 美月は、紙パックの麦茶を差し出した。受け取ると、食道の道に沿って冷たさが落ちていく。

「ごめん、昨日は……」
 先に言ったのは、美月だった。
「走って逃げちゃって。ちゃんと話す前に、結衣を置いて」

「私のほうこそ、ごめん」
 言ってから、次の言葉が見つからない。
 美月は少しだけ笑って、すぐに真顔に戻った。

「私ね、陸くんのことがすごく好きだったわけじゃない。人として尊敬してたし、大事に思ってた。でも……結衣が陸くんを好きで、陸くんも結衣を大切にしてて、そのふたりが並んでるときの景色が、私は好きだったの」
 景色、という言い方が美月らしかった。
「その景色が壊れるのが怖かった。昨日の私は、たぶん、それに泣いたんだと思う。裏切りって言葉を使って、結衣を責めてるようで、ほんとは自分の怖さをぶつけてただけ」

 胸のどこかがほどける。
「美月……」

「でも、だからって簡単に納得できたわけでもない」
 美月は包みをほどくみたいに、言葉を選ぶ。
「君の幸せを願ってる。心から。だけど、陸くんのことがまだこんなにも痛いのに、その隣で別の“好き”が始まることを、私は上手く受け止められないの。時間が必要。私にも、結衣にも」

 結衣は大きく頷いた。
「うん……待つ。急がない。急いじゃいけない気がする」
 自分で言って、すこし救われる。昨夜の河川敷で握った手の温度が、いま少し控えめな熱へと落ちついて、胸の奥に灯る。

「空くんは?」
 美月がぽつりと訊く。
「ちゃんと、自分の気持ちで君のそばにいる?」

「うん」
 空の横顔が脳裏に浮かぶ。
「兄ちゃんの代わりじゃない、“僕自身”って言ってた。……それが、嬉しくて、怖い」

「だよね」
 美月は、ベンチの端で指をそろえ、きゅっと握る。
「私、まだ空くんを“陸くんの弟”として見ちゃうと思う。だけど、いつか“空くん”として見るようになるのかもしれない。そのためにも、結衣。お願い。ふたりで、ちゃんと慎重に進んで」

「約束する」
 声は自然に出た。
「無理に幸せの形にしようとしない。陸の痛みも、美月の気持ちも、私が抱えられるぶんは抱えていく。……それでも、もし転びそうになったら、助けて」

「そのときは文句を言いながら手を引っ張る」
 美月が笑う。涙の痕の上にのる笑いは、脆いけれど、確かだった。

 チャイムが鳴り、ふたりは立ち上がった。
 戻る前に、美月がふいに結衣の肩を抱き寄せる。
「泣きたいときは、どっちの肩でも使って。陸くんがいなくても、肩の数は減ってないから」
 抱擁は短く、でも、じゅうぶんに温かかった。

 放課後。
 河川敷に出ると、昼の熱はすっかり薄くなり、風がほどよく汗を冷ましてくれる。空は、前と同じ場所に立っていた。
 結衣の顔を見て、目の奥の緊張がほどける。
「美月は?」
「話した。……時間が必要だって。私も、それでいいと思った」

 空は「そっか」と短く言って、川に目を向ける。
 濃くなっていく空の色が、水面の銀をゆっくり奪っていく。
「僕さ、兄ちゃんに『焦るなよ』ってよく言われてた。試合前とか、受験のこととか。……たぶん、いまも同じこと言うと思う」

「うん」
 結衣は、昨日のように手を繋ぐことをしなかった。
 代わりに、袖の端がふれるくらいの距離で並ぶ。
 ふれないことで、守れるものがある。ふれることで、育てられるものもある。今日は前者を選ぶ。

「花火、始まるね」
 空の言葉と同時に、夜の空に丸い火が咲いた。
 どん、という音が胸の奥を叩く。光が開いて、消える。
 美しいだけで、少し苦い。
 結衣は空に聞こえるか聞こえないかの声で言った。
「美月、泣いてた。私のせいで。でも、ちゃんと話せた。……怖いけど、良かった」

「泣きながら進むって、兄ちゃんが書いてた」
 空は少し笑う。
「僕たち、たぶん、その練習をしてる」

 その夜、帰宅して机に座ると、日記帳の表紙が、いつもより近くにあった。
 結衣はそっと開く。空気が紙の匂いで満たされる。
 “泣いてしまうなら、空に支えてもらってほしい”。
 あの一行が、今夜は違う輪郭で読める。
 ――「空」に支えてもらうことは、「陸」を手放すことではない。
 涙でにじんだ行間に、そんな意味が薄く浮かび上がって、やがて静かに沈んだ。

 スマホが震えた。美月からだった。
《さっきはごめん。明日、お昼いっしょしてくれる?》
 短い文面に、たしかな呼吸の音が宿っている。
《もちろん》と返すと、すぐ《ありがと》が届く。

 ベッドに横になる。
 天井の四角い光が、ゆっくりと薄れていく。
 まぶたの裏に、花火の残像が波紋みたいに広がった。
 そこに、陸の横顔と、美月の涙と、空の横顔が順番に浮かんでは消える。
 どれも消せない。どれも抱えていく。
 抱えることは重いけれど、同時に、手放さないという選択でもある。

 目を閉じ、深く息を吸う。
 肺のいちばん奥に、夜の風の匂いが残っている。
 明日も、きっと泣く。泣きながら笑う。笑いながらまた泣く。
 それでも――と結衣は心の中で言う。
 それでも、友だちと、空と、陸の名前と、いっしょに歩く。

 遠くで、最後の花火が大輪を描いた。
 大きな音が遅れて届いて、やがて、夏の夜はいつもの呼吸に戻っていく。
 静けさの中、胸の奥に残った微かな熱だけが、明日へ向けてじんわり灯り続けていた。