翌朝、目覚ましの音より先に、胸の奥の重さで目が覚めた。
カーテンの隙間から差し込む光は淡く、まだ夏の名残を抱えているのに、肌を撫でる空気は秋の気配を混ぜている。
結衣は鏡に映る自分の顔を見た。昨夜、泣き続けた跡は、きちんとそこにあった。腫れた目のふちが赤く、頬の下にうっすらと涙の筋が残っている。
洗面台の水で何度も顔を洗ってみたけれど、腫れは引かなかった。唇の奥にはまだ、あの「好き」と囁いた余韻がこびりついていて、胸が甘く痛む。
けれど同時に、強烈な罪悪感が押し寄せる。
――陸を失ったばかりなのに、弟である空を好きになってしまった。
許されるはずがない。
胸の奥でその言葉が何度も反響し、体温を冷たくしていく。
制服の襟を整え、髪を結び直して学校へ向かった。
通学路のイチョウ並木は、まだ青々としているのに、風に混じる匂いはどこか乾いていて、夏と秋の境目を示していた。
歩くたびに、昨夜の空の顔がフラッシュのように蘇る。泣きながら笑った空。握った手の温もり。そのすべてが、胸の奥で光を放つのに、その光はなぜか刃のように痛い。
昇降口で靴を履き替え、教室のドアを開けると、美月がすぐに声をかけてきた。
「大丈夫? 最近、顔が疲れてるよ」
結衣は反射的に笑ってごまかした。
「うん、ちょっと寝不足なだけ」
笑顔は作れた。でも、目まではごまかせない。
美月の瞳がどこか探るように光っているのを感じ、心臓が早鐘を打つ。
もし誰かに「空と一緒にいること」を知られたら――。
その不安が全身を覆った。机に向かって筆箱を開ける指先が、ほんの少し震えている。
授業中、ノートにペンを走らせながら、思考は何度も昨日に引き戻された。
「好き」と言った自分の声。
「僕も」と返した空の声。
その音の重なりが、心の奥で渦を巻いている。
陸の名前を呼んだときの、胸の裂けるような痛み。
すべてが同時に胸の奥で生きている。
黒板の文字はすぐに霞み、先生の声も遠くなる。
放課後。
空は、いつもの河川敷で待っていた。
昨日の告白の余韻がまだ残っていて、互いに視線を合わせると頬が赤くなる。
川風が髪を揺らし、光が水面を割って小さな破片にしている。
「昨日のこと……夢じゃないよな」
空が小さく笑う。その声に結衣の胸は温かくなるが、同時に喉が詰まる。
「……夢じゃない。でも、夢みたいだった」
二人はしばらく黙って川を眺めた。
流れる水の音が、沈黙を優しく包む。
空がポケットの中で何かをいじっている音だけが、かすかに聞こえた。
結衣は勇気を振り絞って口を開いた。
「ねえ、私たち……このまま一緒にいていいのかな」
空は真剣な目で結衣を見つめた。
「どういう意味?」
「だって、私たちは……陸を裏切ってるんじゃない?」
その言葉を口にした瞬間、胸が締め付けられ、涙が浮かぶ。
言いたくなかった言葉が、先に口から出てしまった。
空は強く首を振った。
「違う。兄ちゃんは、僕たちが泣きながらでも未来を生きてほしいって願ってた。あの日記に全部書いてあっただろ」
「分かってる。でも……世間はそう思ってくれない。私たちが近づけば、きっと誰かに言われる。“死んだ兄を裏切った”って」
その言葉に空の瞳が揺れた。
彼もまた同じ恐怖を抱えていたのだ。
兄の影から抜け出そうとすればするほど、“弟なのに”という声が頭に響く。
陸がいたから自分がいた。陸の影があったから、光に憧れられた。
その影を背に、誰かの隣に立つことの罪悪感は、空にも染みついていた。
結衣は泣き出しそうな声で続けた。
「昨日、“好き”って言ってしまったの。本当の気持ちだから……でも、言った瞬間から怖くて仕方ない。私なんかが空を好きになる資格なんてない」
空は迷わず結衣の手を握った。
震える手のひらは温かく、確かな存在を伝えてくる。
その温もりに、涙腺がまた緩む。
「資格なんて、誰が決めるんだよ。兄ちゃんじゃない。世間でもない。僕と君が決めるんだ」
真っ直ぐな言葉に胸が熱くなり、涙が零れる。
けれど、その瞬間、背後から人の声が聞こえ、二人ははっと振り返った。
そこには、美月が立っていた。
風に髪をなびかせ、驚いた顔で二人を見つめている。
制服の裾が川風に揺れて、光を反射していた。
「……結衣? 空くんと……」
心臓が止まりそうになる。
隠していた想いが、最も知られたくない友に見られてしまった。
結衣は顔を真っ赤にして手を振りほどこうとするが、空は握ったまま放さない。
その手の温もりが、逃げ道をふさいでいるようで、同時に支えでもあった。
美月の表情に、戸惑いと痛みが浮かんでいた。
結衣は叫びそうになる。――これは違う、そうじゃない、と。
けれど、昨日の告白も、今の手の温もりも、紛れもない真実だった。
口を開けば、嘘になってしまう。黙れば、すべてを認めることになる。
美月は静かに口を開いた。
「結衣……それ、陸くんが知ったらどう思うと思う?」
その一言に結衣の心は崩れ落ち、膝が震えた。
視界がぐにゃりと歪む。涙が堰を切ったように溢れ、声にならない嗚咽が漏れる。
空もまた顔を歪め、唇を噛みしめた。
許されぬ想い。
それでも手を繋いでしまった。
罪悪感の棘が胸の内側を何度も刺すのに、指先は相手を求めてしまう。
川風が、三人の間をすり抜けていった。
水面が光をちりばめ、風に合わせてゆっくりと形を変える。
その美しさが、かえって胸に突き刺さる。
結衣は嗚咽の合間に、かろうじて声を出した。
「ごめん、美月……ごめん……でも、私……」
言葉は途中で消えた。
喉が塞がれて、声にならない。
空の手が、いっそう強く結衣の手を握る。
「美月……」
空が口を開きかけ、何かを言おうとして、飲み込んだ。
兄ちゃんの名が喉まで出かかったが、出せなかった。
出してしまえば、今ここにあるものが全部崩れてしまう気がした。
風が強く吹き、三人の髪を乱す。
虫の声が遠くに途切れ、電車の音が橋を渡っていく。
世界は淡々と動いているのに、ここだけが取り残されているようだった。
結衣は目を閉じた。
涙の中で、陸の笑顔が浮かぶ。
その笑顔は、叱るでも、責めるでもなく、ただ遠くから見守るような顔だった。
――許されぬ想い。
けれど、ほんとうに許されないのだろうか。
陸が願った未来は、どんな形だったのか。
胸の奥で、その問いが小さな灯のように揺れている。
美月は何も言わず、ゆっくりと踵を返した。
靴底が草を踏む音が小さく響き、川風に消えていく。
その背中が遠ざかるまで、結衣も空も、動けなかった。
指先だけが、まだ確かに相手を掴んでいる。
その手を離せば楽になるのか、それとももっと深く傷つくのか。
分からないまま、二人は泣きながら、答えの出ない未来に引き裂かれていった。
夜になっても、川は同じ音で流れていた。
許されぬ想いは、風の奥に溶けていきながら、二人の胸に残り続けた。
その痛みは、陸のいない世界を生きるために払う代償のように思えた。
けれど同時に、どこかで微かに、明日への足音のようにも響いていた。
カーテンの隙間から差し込む光は淡く、まだ夏の名残を抱えているのに、肌を撫でる空気は秋の気配を混ぜている。
結衣は鏡に映る自分の顔を見た。昨夜、泣き続けた跡は、きちんとそこにあった。腫れた目のふちが赤く、頬の下にうっすらと涙の筋が残っている。
洗面台の水で何度も顔を洗ってみたけれど、腫れは引かなかった。唇の奥にはまだ、あの「好き」と囁いた余韻がこびりついていて、胸が甘く痛む。
けれど同時に、強烈な罪悪感が押し寄せる。
――陸を失ったばかりなのに、弟である空を好きになってしまった。
許されるはずがない。
胸の奥でその言葉が何度も反響し、体温を冷たくしていく。
制服の襟を整え、髪を結び直して学校へ向かった。
通学路のイチョウ並木は、まだ青々としているのに、風に混じる匂いはどこか乾いていて、夏と秋の境目を示していた。
歩くたびに、昨夜の空の顔がフラッシュのように蘇る。泣きながら笑った空。握った手の温もり。そのすべてが、胸の奥で光を放つのに、その光はなぜか刃のように痛い。
昇降口で靴を履き替え、教室のドアを開けると、美月がすぐに声をかけてきた。
「大丈夫? 最近、顔が疲れてるよ」
結衣は反射的に笑ってごまかした。
「うん、ちょっと寝不足なだけ」
笑顔は作れた。でも、目まではごまかせない。
美月の瞳がどこか探るように光っているのを感じ、心臓が早鐘を打つ。
もし誰かに「空と一緒にいること」を知られたら――。
その不安が全身を覆った。机に向かって筆箱を開ける指先が、ほんの少し震えている。
授業中、ノートにペンを走らせながら、思考は何度も昨日に引き戻された。
「好き」と言った自分の声。
「僕も」と返した空の声。
その音の重なりが、心の奥で渦を巻いている。
陸の名前を呼んだときの、胸の裂けるような痛み。
すべてが同時に胸の奥で生きている。
黒板の文字はすぐに霞み、先生の声も遠くなる。
放課後。
空は、いつもの河川敷で待っていた。
昨日の告白の余韻がまだ残っていて、互いに視線を合わせると頬が赤くなる。
川風が髪を揺らし、光が水面を割って小さな破片にしている。
「昨日のこと……夢じゃないよな」
空が小さく笑う。その声に結衣の胸は温かくなるが、同時に喉が詰まる。
「……夢じゃない。でも、夢みたいだった」
二人はしばらく黙って川を眺めた。
流れる水の音が、沈黙を優しく包む。
空がポケットの中で何かをいじっている音だけが、かすかに聞こえた。
結衣は勇気を振り絞って口を開いた。
「ねえ、私たち……このまま一緒にいていいのかな」
空は真剣な目で結衣を見つめた。
「どういう意味?」
「だって、私たちは……陸を裏切ってるんじゃない?」
その言葉を口にした瞬間、胸が締め付けられ、涙が浮かぶ。
言いたくなかった言葉が、先に口から出てしまった。
空は強く首を振った。
「違う。兄ちゃんは、僕たちが泣きながらでも未来を生きてほしいって願ってた。あの日記に全部書いてあっただろ」
「分かってる。でも……世間はそう思ってくれない。私たちが近づけば、きっと誰かに言われる。“死んだ兄を裏切った”って」
その言葉に空の瞳が揺れた。
彼もまた同じ恐怖を抱えていたのだ。
兄の影から抜け出そうとすればするほど、“弟なのに”という声が頭に響く。
陸がいたから自分がいた。陸の影があったから、光に憧れられた。
その影を背に、誰かの隣に立つことの罪悪感は、空にも染みついていた。
結衣は泣き出しそうな声で続けた。
「昨日、“好き”って言ってしまったの。本当の気持ちだから……でも、言った瞬間から怖くて仕方ない。私なんかが空を好きになる資格なんてない」
空は迷わず結衣の手を握った。
震える手のひらは温かく、確かな存在を伝えてくる。
その温もりに、涙腺がまた緩む。
「資格なんて、誰が決めるんだよ。兄ちゃんじゃない。世間でもない。僕と君が決めるんだ」
真っ直ぐな言葉に胸が熱くなり、涙が零れる。
けれど、その瞬間、背後から人の声が聞こえ、二人ははっと振り返った。
そこには、美月が立っていた。
風に髪をなびかせ、驚いた顔で二人を見つめている。
制服の裾が川風に揺れて、光を反射していた。
「……結衣? 空くんと……」
心臓が止まりそうになる。
隠していた想いが、最も知られたくない友に見られてしまった。
結衣は顔を真っ赤にして手を振りほどこうとするが、空は握ったまま放さない。
その手の温もりが、逃げ道をふさいでいるようで、同時に支えでもあった。
美月の表情に、戸惑いと痛みが浮かんでいた。
結衣は叫びそうになる。――これは違う、そうじゃない、と。
けれど、昨日の告白も、今の手の温もりも、紛れもない真実だった。
口を開けば、嘘になってしまう。黙れば、すべてを認めることになる。
美月は静かに口を開いた。
「結衣……それ、陸くんが知ったらどう思うと思う?」
その一言に結衣の心は崩れ落ち、膝が震えた。
視界がぐにゃりと歪む。涙が堰を切ったように溢れ、声にならない嗚咽が漏れる。
空もまた顔を歪め、唇を噛みしめた。
許されぬ想い。
それでも手を繋いでしまった。
罪悪感の棘が胸の内側を何度も刺すのに、指先は相手を求めてしまう。
川風が、三人の間をすり抜けていった。
水面が光をちりばめ、風に合わせてゆっくりと形を変える。
その美しさが、かえって胸に突き刺さる。
結衣は嗚咽の合間に、かろうじて声を出した。
「ごめん、美月……ごめん……でも、私……」
言葉は途中で消えた。
喉が塞がれて、声にならない。
空の手が、いっそう強く結衣の手を握る。
「美月……」
空が口を開きかけ、何かを言おうとして、飲み込んだ。
兄ちゃんの名が喉まで出かかったが、出せなかった。
出してしまえば、今ここにあるものが全部崩れてしまう気がした。
風が強く吹き、三人の髪を乱す。
虫の声が遠くに途切れ、電車の音が橋を渡っていく。
世界は淡々と動いているのに、ここだけが取り残されているようだった。
結衣は目を閉じた。
涙の中で、陸の笑顔が浮かぶ。
その笑顔は、叱るでも、責めるでもなく、ただ遠くから見守るような顔だった。
――許されぬ想い。
けれど、ほんとうに許されないのだろうか。
陸が願った未来は、どんな形だったのか。
胸の奥で、その問いが小さな灯のように揺れている。
美月は何も言わず、ゆっくりと踵を返した。
靴底が草を踏む音が小さく響き、川風に消えていく。
その背中が遠ざかるまで、結衣も空も、動けなかった。
指先だけが、まだ確かに相手を掴んでいる。
その手を離せば楽になるのか、それとももっと深く傷つくのか。
分からないまま、二人は泣きながら、答えの出ない未来に引き裂かれていった。
夜になっても、川は同じ音で流れていた。
許されぬ想いは、風の奥に溶けていきながら、二人の胸に残り続けた。
その痛みは、陸のいない世界を生きるために払う代償のように思えた。
けれど同時に、どこかで微かに、明日への足音のようにも響いていた。



