君のいない夏を、君と歩く

 夜の河川敷は、昼間の匂いをすっかり手放していた。
 草は露を吸って重く、踏みしめるたびやわらかく沈む。川面は黒い帯のようにのび、その上に点々と街の明かりが溶けて流れていく。風がふくたび、濡れた葉先が小さく触れ合って、夜の奥で鈴を鳴らすみたいな音がした。

 結衣は日記帳を胸にかかえ、膝を抱えた。字の並びの一つひとつが、胸の内側に棘のように刺さる。胸郭がぎゅっと締めつけられて、呼吸を忘れる。目を閉じれば、余白のところで指が止まっていた陸の手の甲が浮かぶ。骨ばっているのに、掌はいつも温かかった。

「陸は……ずっと私を守ろうとしてたのに。私、なにもできなかった……!」

 口にした途端、言葉はほどけて泣き声に変わった。
 水をこぼすみたいに涙が出て、頬を伝って首もとへ落ちていく。喉の奥が焼けるほど痛いのに、まだ泣ける。泣けてしまうことが、よけいにみじめだった。

 隣にいる空は、目を真っ赤にして俯いていた。
 草に手をついて、指先で土をひっかく。小さな黒い土の粒が爪の間に入り込む。その様子が、どうしようもなく幼い。けれど、その幼さはきっと、陸の前では出せなかった顔なのだろうと思った瞬間、胸がふるえた。

「兄ちゃんは、僕にも全部見抜いてた。……君のことを支える役目を、僕に押し付けていったんだ」

 空の声は、どこか遠くから返ってくるみたいだった。
「でも、僕なんかじゃ兄ちゃんの代わりになれない!」

 結衣は首を振った。勢いよく振ったせいで涙が飛ぶ。
「代わりなんて、誰もなれないよ。陸は陸で、空は空なの。……私はもう、それをちゃんと分かってる」

 言ってから、胸の奥でなにかが少しだけ動いた。
 ほんとうに? と自分で問い直す。
 陸の笑い声、くしゃっとなる目尻、少し曲がった箸の持ち方。思い出の細部は、まだすぐそこに手触りを残している。忘れる気なんてない。忘れられるはずもない。だけど――空の横顔を見ていると、別の輪郭も確かにここにあるのだ、と身体が知ってしまう。

 風が、二人の間をやわらかく抜けていく。
 虫の声が寄せては返し、遠くの土手の階段でチリ、と石が転がる。夜は、音をひとつ残らず拾い上げて反響させる。泣き声も、吐息も。

「でも……私、怖いの」

 結衣は膝の上で指を絡めた。爪が手の甲の皮膚に食い込む。
「陸を好きだった気持ちと、空に惹かれてる気持ち。どっちも本物で、どっちも嘘じゃない。二つの想いに引き裂かれて、もう自分がどうしたらいいのか分からない」

 声にした瞬間、夜が少しだけ近づく。
 目の前がぼやけた。
 川の輪郭が波紋となってほどけ、その上を漂う光が砕ける。

 沈黙のあいだ、結衣は思い出に触れた。
 教室の窓辺で、陸がふざけた声色で「作文読めよ」と肩をつついてきた午後。駅前のパン屋で、いちばんはじっこの焦げたクロワッサンを選んで「こういうの、なぜかうまいんだ」と笑っていた顔。花火大会の夜、帰り道で「来年も」と言いかけて、結局は言わなかったその続き。
 あのとき、言えなかった言葉が、今になってページの上で文字になってしまうなんて。
 陸は、最後の最後にまで、優しさの面を外さなかった。
 それを思うと、泣くことすら、どこか恥じる気がした。

 空が顔を上げる。睫毛の先に丸い雫が乗っている。
「僕も同じだよ。兄ちゃんを尊敬してるし、兄ちゃんをずっと追いかけてた。でも……気づけば、君を見てる。君と笑いたくて、君に泣いてほしくなくて、兄ちゃんの影を忘れてしまいそうになる」

 その言葉が落ちた場所から、波紋が広がった。
 結衣は堪えようとしたけれど、胸が先に反応して、息が丸ごとひっくり返る。

「空……!」

 呼ぶだけでやっとだった。
 喉の奥でひっかかる涙が、ここにいることの証拠みたいに熱い。

 空は涙を拭わない。頬を濡らす線のまま、真っ直ぐこちらを見る。
「兄ちゃんの代わりじゃない。君の隣にいる“僕自身”でありたいんだ」

 それは、まっすぐで、こわいほどの告白だった。
 結衣の胸の中で、ずっと固く結んでいた結び目が少しほどける。
 陸への罪悪感が、広い川の底に沈んでいく。消えないまま、底石のひとつとして静かにそこにある。と同時に、水面のきらめきのようなものが、胸の表面に点っては消える。

 結衣はそっと手を伸ばした。
 空の指先に触れる。
 冷たい。けれど、その冷たさが安心に変わる。冷たいということは、生きているということだ。温もりが、触れ合う場所に集まってくる。

 次の瞬間、二人は抱き合っていた。
 強く、必死に。まるで溺れるのを防ぐように。
 結衣の嗚咽が空の胸に吸い込まれ、空の鼓動が結衣の耳もとで淡く響く。
 その音は、夜のどんな音より確かだった。

「ごめん……陸……」

 結衣は目を閉じたまま、胸の内側に向かって言う。
「でも、私……もう一人じゃ立っていられないの」

「僕もだ……結衣」

 空の声は、湿った草の匂いの中で、まっすぐに届く。
「兄ちゃんに恥じないように、君を守りたい。逃げないでここにいる。泣くなら、隣で一緒に泣く」

 その言葉は、結衣の弱いところをやさしく包んだ。
 支えられることを許すこと。
 それは、陸に対する裏切りなんかじゃない。
 陸が願ったとおりに、未来を選ぶことだ。

 結衣は、空の胸に顔を埋めた。
 シャツの布の匂いがする。洗いたての香りに、どこか運動部のロッカーみたいな、すこしだけ日なたのにおいが混じっている。
 「好き……」
 自分の声が、とても小さくて、それでもはっきり響いた。

 少し間があって、空が息を吸う気配がする。
「僕も……君が好きだ」

 言葉が重なる。
 その重みは、痛みの上に静かに置かれる毛布みたいだった。
 陸の影は消えない。忘れようとする必要もない。
 ただ、影の向こうに、別の輪郭が現れる。二人で見つめれば、輪郭は形になっていく。

 泣きながら交わした告白は、痛みと罪悪感を抱えたままの、一歩だった。
 夜風が涙を乾かす。乾くそばから、新しい涙が滲む。
 でも、もう怖くはない。滲み出るものがあるうちは、生きている。生きているなら、なんどでもやり直せる。

 遠くで電車の音がして、橋の下を潜るときの反響が遅れて届いた。
 川沿いの道路を走る車のライトが、葦の茂みを白く洗う。
 その光の刃の端っこに、白い蛾がひらりと舞って、すぐ暗闇に戻っていく。
 夜は、明るいところでだけ形を持つ。暗がりの多くは輪郭がないまま、そこにいる。

「ねえ、空」

 結衣は顔を上げた。涙の跡で頬が冷たい。
「もし、陸が生きてたら、私たち、こんなふうに抱き合ってなかったかもしれないね」

「うん」

 空は視線を川に向けた。
「それでも、兄ちゃんは……きっと怒らないと思う。怒れない、じゃなくて。兄ちゃんは、僕たちが自分で選ぶことを、いちばん喜ぶ人だったから」

 結衣は小さく笑った。
 笑うと、胸の奥の鋭い棘が少し丸くなる。
「陸って、ずるいよね。最後まで全部、見越してる」

「ずるい」

 空も笑う。涙に濡れた目が、いたずらっぽく綻ぶ。
「でも、僕、兄ちゃんのそういうところが好きだった」

 また笑って、それから二人とも黙った。
 黙ることが、今夜は怖くない。
 黙り合う沈黙の中に、相手の体温と呼吸のリズムがちゃんと入ってきて、重なって、少しずつ落ち着いていく。

 結衣は日記帳をそっと開いた。
 風でページがふわりとめくれる。紐のしおりが小さく揺れた。
 陸の字は、やっぱり丁寧で、ところどころに少しだけ癖がある。
 “好き”という文字が、同じ筆圧でいくつも並んでいる。
 同じ強さで書かれたことが、心にまっすぐ刺さる。

「ねえ、あの、金魚」

 結衣がふいに言うと、空がこちらを見た。
「去年の夏祭りで、陸がすくってくれた子。冬まで生きたよ。名前、つけてなかったけど。朝になると近寄ってくるの。水面に影が差すと、すぐ来るの。人を待つみたいで、可愛いなって思ってた」

「へえ」

 空の声が少しやわらぐ。
「そういう話、もっと聞きたい。兄ちゃんのこと、僕の知らない兄ちゃん」

 結衣は頷いた。
 話すことは、痛む。でも、痛むからこそ、そこに温度がある。
「空の小さいころの話も、聞かせてよ。ほら、ランドセルの鍵、しょっちゅう失くしてたとか」

「なんで知ってるの」

「陸が言ってた。『こいつの忘れ物の才能は、ちょっと芸術の域』って」

「最悪だ、兄ちゃん」

 二人で小さく笑う。
 笑いながら、泣きたくなる。
 泣きながら、笑ってしまう。
 その往復の幅が、だんだん狭くなっていくのが分かる。

 風が止み、夜が深くなった。
 川は大きな呼吸をするみたいに、ゆっくりと流れている。
 遠くの橋の上を、また電車が渡る。
 眠らない町が、眠らないままで、ここにいる二人だけをそっと見逃してくれているような気がした。

「空」

 結衣は、日記帳を膝に置いて、両手で包んだ。
「私、明日、陸のお母さんに会いに行こうと思う。……読んだこと、話したい。怒られるかもしれないし、泣かせちゃうかもしれない。でも、黙っているほうが、きっとよくない」

「一緒に行くよ」

 空は迷わず言った。
「僕が言わなきゃいけないこともある。……兄ちゃんに、言えなかった“ありがとう”を、言わなきゃ」

 ありがとう。
 その言葉を口にすると、胸の奥に温かいものが落ちる。
 “さよなら”よりも先に、それを置いておくこと。
 陸が見ていた未来の足元に、ささやかな灯りを置くこと。

「こわいね」

「こわい。でも、行こう」

 返事が揃う。
 同じ方向に向いていることを確かめ合うだけで、身体が少し軽くなる。

 結衣は空の肩に額を寄せた。
 まぶたが重い。泣き過ぎて、目の周りが熱く腫れているのがわかる。
 それでも、ここで目を閉じることに、はじめて罪悪感がなかった。
 眠ることは、今日を手放すことじゃない。
 むしろ、明日に渡すために包むことだ、と身体が理解していく。

「空」

「うん」

「ありがとね」

 ほんとうに小さな声で言うと、空が「うん」ともう一度答えた。
 その返事の中には、言葉にならないいくつもの意味が詰まっている。
 “こちらこそ”とか、“これからも”とか、“泣いていいよ”とか。

 結衣はそっと目を閉じた。
 耳の奥で、空の鼓動がひとつ、ふたつ、と数えられる。
 川は流れ続け、星は薄い雲の向こうで滲んで、虫の声は同じフレーズを飽きずに奏でている。
 世界は、悲しみを抱いたまま回っている。
 その事実が、今夜はなぜか、少しだけ優しく思えた。

 どのくらい、そうしていたのだろう。
 風がふたたび戻ってきて、頬にかかっていた髪を押しのけた。
 空が上着をそっと肩にかけてくれる。温度が移る。

「そろそろ帰ろうか」

「うん」

 立ち上がると、膝の裏がぐらぐらして、少し笑ってしまう。
 泣いたあとに立ち上がるのは、まるで新しい重力に慣れるみたいにぎこちない。
 土手の階段をゆっくり上がる。足元の砂が鳴る。
 途中で一度だけ振り返ると、川はさっきと同じ形で、同じ音で流れていた。
 わたしたちが泣いても、泣かなくても、川は流れる。
 でも、その当たり前が、今夜は救いだった。

 歩き出してからも、手は自然と触れ合った。
 指をからめて歩くには、まだ少し早い気がした。
 けれど、袖と袖が触れるだけで、十分だった。そこに確かな人がいる。
 街に近づくほど、灯りが増える。
 信号待ちの横断歩道で、風鈴のような自転車の鈴の音が横を通り過ぎていった。

 家の近くで別れる手前、結衣はもう一度だけ空の顔を見た。
 赤くすこし腫れた目。塩で白くなった頬。
 同じような顔を、わたしもしているのだろう。
 それが、可笑しくて、愛おしかった。

「また明日」

「うん。明日、いっしょに」

 短い言葉を交わす。
 それだけで、明日が少し手前に寄ってくる。

 家の門をくぐると、眠っている町の匂いがした。
 玄関で靴を脱ぐと、足の裏に土の感触がまだ残っている。
 洗面台で顔を洗うと、冷たい水が頬の熱を連れていってくれた。鏡に映った自分は、泣いたあと特有の幼い顔をしていて、「大丈夫」と小さく言ってみた。声に出すと、言葉は少しだけ現実になる。

 部屋に戻る。
 机のスタンドライトをつけ、日記帳をそっと置いた。
 ページの端をなでる。紙の感触が指に移る。
 閉じたままのページは、今夜は開かなかった。
 大切にしまうことも、読むことと同じくらい、陸を思う行為のひとつだと思えた。

 ベッドに体を沈める。
 暗くした部屋の天井に、街灯の白い四角が静かに浮かぶ。
 まぶたの裏で、陸の字が淡く揺れる。
 “泣いてしまうなら、空に支えてもらってほしい”。
 その一行が、まるで祈りのように胸に残っている。

「陸」

 ほんの少しだけ声にしてみる。
 名前は、呼べばそこに在る。
 返事がなくても、意味はある。
 それを知る夜だった。

 眠りに落ちる間際、河川敷の風の手触りがもう一度だけ蘇った。
 痛みはそこにある。けれど、その周りを囲うように、やわらかな温度が生まれている。
 それはたぶん、もう誰の代わりでもない、私たち自身のものだ。

 明日、空といっしょに行こう。
 泣いてもいい。震えてもいい。
 それでも、あの家の玄関のベルを鳴らして、扉が開くのを待とう。
 陸のいない世界へ、陸の名前を抱えたまま、歩いていこう。

 目を閉じる。
 静寂の底で、心臓がひとつ、またひとつ、と確かに打つ。
 そのリズムが、遠くの川の音とゆっくり重なって、やがて見えない梯子みたいに明日へ伸びていった。