夜の部屋は、昼間の熱をすっかり失っていた。
 机の上に小さなスタンドライトがひとつ、オレンジ色の光をこぼしている。その下に広げられた〈陸の日記帳〉が、息をしているように見えた。

 結衣は両肘をついて、指先でページの角をなぞった。昨日、空と一緒に読んだ部分はまだ胸の奥に残って、息をするたびに胸を締めつける。けれど――残りのページをどうしても確かめたい衝動に駆られていた。

 ため息を一度つき、深く息を吸い込んで、ページをめくる。

 〈僕は、自分が長く生きられないことを知っていた〉
 〈医者から言われた余命は、誰にも告げなかった〉

 その文字を見た瞬間、結衣の手が止まった。
 心臓が冷たくなり、息が詰まる。
 事故で突然失ったと思っていた命が、実は静かに削られていた――その真実が胸をえぐった。

 次のページをめくる指が震える。

 〈結衣の笑顔を見たくて、無理をしていた。笑っている限り、君は気づかないと思ったから〉
 〈空にだけは言えなかった。弟に“死ぬ兄”を見せたくなかった〉

 文字が滲んで、ページの線がゆがんで見える。
 陸はずっと一人で苦しみを抱えていたのだ。
 気づけなかった自分が悔しくて、胸を掻きむしりたくなる。

 さらに奥のページに、衝撃の一文があった。

 〈事故の日、僕はわざと彼女を遠ざけた。結衣を巻き込みたくなかったから〉

「……嘘」

 結衣の唇が震える。涙で文字が滲み、ページが揺れた。
 陸は自分を守るために、あの日一人で立ち向かったのか。あの夜、自分が隣にいなかったのは偶然ではなく、陸が仕組んだこと――。

「どうして……そんなこと……」

 声がかすれ、嗚咽が溢れる。
 彼の死は避けられなかったのかもしれない。けれど、少なくとも一緒にいたかった。最後の瞬間を共に過ごしたかった。なのに陸は、それすら奪っていった。

 涙を流しながらページをめくると、そこに小さなメモのような紙が挟まっていた。震える手で取り出すと、そこには震えた文字でこう記されていた。

 〈結衣、もし君がこれを見つけたら、どうか泣かないで〉
 〈泣いてしまうなら、空に支えてもらってほしい〉
 〈僕はそれを願っている〉

 その瞬間、結衣の嗚咽は止まらなかった。
 陸はすべてを知っていた。自分が死ぬことも、結衣が泣くことも、そして空が支える未来までも。

 胸の奥で何かが崩れる音がした。
 次の瞬間、結衣は日記帳を抱きしめながら外に飛び出していた。

 夜風が肌を打ち、髪を乱す。
 サンダルの音がアスファルトに響く。
 行くあても考えないまま、足は河川敷を目指していた。

 街灯が少しずつ減り、虫の声だけが耳に届く。
 空気が夏と秋の境目のようにひんやりしている。

 土手を駆け上がり、夜の川面が見えたとき、結衣の喉の奥から叫びが漏れた。

「陸――っ! 会いたいよ! どうして一人で行ったの!」

 声は闇に吸い込まれ、答えは返ってこない。
 ただ蝉の声も消えた夏の夜に、結衣の泣き声だけが響いた。

 そのとき、背後から駆け寄る足音がした。

「結衣!」

 空だった。彼女の肩を掴み、必死に呼びかける。
「結衣! 何があったんだ!」

 結衣は涙で滲んだ目で日記帳を差し出した。

「陸は知ってたの……全部……! 私を守るために、あの日一人で……!」

 空は震える手で文字を追い、顔を歪めた。
 涙が溢れ、地面に落ちる。

「兄ちゃん……そんなの、ずるいよ……!」

 声は嗚咽に途切れ、結衣と空は同時に泣き崩れた。
 川風が吹き、夜空の星が滲んで見える。
 陸が残した真実は、二人を深く傷つけた。
 それでも、その痛みの中で二人は強く抱き合い、涙を分け合った。

「空……私、どうしたらいいの」

 結衣の声は震え、風に溶けた。
 空は涙を拭い、絞り出すように言った。

「一緒に泣いて、一緒に進む。それしかない」

 二人の涙は止まらず、夜の川面に落ち続けた。
 その雫が水面に広がるたび、星の光が揺れて砕けるように見えた。

 しばらく、二人は抱き合ったまま言葉を失っていた。
 空がぽつりと呟く。

「兄ちゃん、最後まで僕たちに優しかったんだね……優しすぎたんだ」

 結衣は頷き、嗚咽の合間に小さく笑った。
「うん……ずるいくらい、優しかった」

 その笑みは泣き顔のままで、けれどどこか子どもの頃に戻ったような温かさがあった。

 遠くで列車の音がした。夜の町を横切るその響きは、まるで過去と未来を分ける線路の音のようだった。

 結衣は日記帳を胸に抱きしめ、空を見上げた。
「ねえ、空。私たち、これからどうなるんだろう」

 空は夜空を見つめながら、息をついた。
「わからない。でも……兄ちゃんが願ったのは、きっと僕たちが泣きながらでも進むことだと思う」

 二人は顔を見合わせ、また涙があふれた。
 けれど、その涙の奥には、ほんの少しだけ新しい鼓動のようなものがあった。

 陸が残した「知ってはいけない真実」は、痛みと同時に、二人を未来へ押し出す力でもあった。
 その夜、川風の中で二人が分け合った涙は、やがて小さな光になって心に灯った。