放課後の教室には、まだ昼間の熱気が残っていた。窓を半分開けても、風はほとんど入ってこない。
 結衣は、机の上に置かれた〈陸の日記帳〉を両手で抱えたまま、動けずにいた。
 表紙は柔らかく、長いあいだ誰かの掌に馴染んだ革の感触がした。指先を滑らせるだけで、胸の奥の奥が痛くなるような、そんな手触りだった。

 昨日、空に言った言葉が、まだ胸の奥に残っている。
 ――「代わりじゃなくていい」。
 それは確かに自分の本心だった。空に陸の影を重ねたくない、という祈りのような思い。
 けれど、その一方で、陸の影は消えてくれない。むしろこの日記帳を抱いていると、ページの向こうに彼の声がかすかに届くような錯覚さえして、怖くなる。
 読んだら、陸が完全に“過去”になってしまいそうで――。

 チャイムが鳴って、教室の外が一気に賑やかになった。部活へ向かう生徒の笑い声が遠くに聞こえる。結衣はしばらく耳を澄ませ、そしてゆっくり立ち上がった。
 日記帳を胸に抱えたまま、夕方の河川敷へ向かう。

 川へ続く道の、湿った土の匂い。季節が少しずつ秋へ傾いていることを知らせるように、風が軽く冷たい。

 土手の下、見慣れた背中があった。
 空が、石を蹴りながら待っている。
 彼は結衣の腕の中にある日記帳を見つけ、歩み寄ってきた。
 その瞳はいつもより深く、真剣な色をしている。

「……読もう」
 空が、短くそう言った。

 結衣は一瞬ためらった。
「でも、読んだら……もう、陸が完全に“過去”になってしまいそうで」

 空は小さく首を振る。
「違うよ。兄ちゃんは、未来を生きるためにこれを残したんだと思う。読むことが、兄ちゃんを過去に閉じ込めるんじゃなくて、僕たちに託すことになる」

 その言葉に、胸の奥を突かれたような痛みが走る。涙が喉元まで込みあげたが、必死に飲み込んで頷いた。
 二人は川辺の草の上に並んで座り、そっと日記帳を開いた。

 ページには、陸の丁寧な文字が並んでいた。

 〈体の調子が悪い。誰にも言えない。父さんにも、結衣にも。笑ってごまかすしかない〉
 〈結衣の前では泣きたくない。強い兄のままでいたい〉

 その一文に、結衣の胸は張り裂けそうになった。
 彼は自分の前でいつも笑っていた。強い兄のままでいたいと願って。けれど、本当は苦しんでいたのだ。
 気づいてやれなかった自分を責め、涙が一粒、ページに落ちてにじんだ。

 空も無言でページをめくった。
 震える指先が、淡い夕陽に透けて見えた。

 〈空。もしこの日記を読むことがあったら、ごめん。弟として何もしてやれなくて〉
 〈でも、僕は君のことを誇りに思ってる。僕にない自由さ、真っ直ぐさを持ってるから〉

 空の手が止まった。指先が微かに震え、唇を噛んでいる。
「兄ちゃん……そんなふうに思ってたのか」
 声はかすれ、涙に震えていた。
 彼の目に光るものが溜まり、こぼれ落ちそうになる。

 さらにページをめくると、結衣の名前が何度も現れた。

 〈結衣はよく笑う。僕の心を軽くしてくれる〉
 〈本当は言いたい。“好きだ”って。でも、言えば結衣が困るだろうから、言わない〉
 〈来年も一緒に花火を見たい。未来があるなら、ずっと隣にいたい〉

 その文字を見た瞬間、結衣は声をあげて泣いた。
 陸の「好き」という想いが、ページを通して初めて自分に届いた。
 どうして生きているうちに言ってくれなかったのか。どうして今になって知ることになったのか。
 胸が痛くて、呼吸が乱れる。

 空は黙って結衣の背中に手を回した。
 その温もりが涙を誘い、結衣はその肩に顔を埋めて泣き続けた。
「陸……私も、言いたかったの。“好き”って」
 涙混じりの声は、川面を渡る風にさらわれて消えた。

 最後のページには、こう書かれていた。

 〈もし僕がいなくなったら、結衣と空が出会うように仕掛けをした。二人ならきっと笑える未来を作れる。僕の願いは、それだけだ〉

 二人はその文字を見つめ、言葉を失った。
 陸はすべてを見抜き、二人が出会う未来さえも予想していたのだ。

「兄ちゃん……僕たちを……」
 空の声は嗚咽に途切れ、結衣もまた号泣した。
 過去から伸びてきた陸の願いが、今の二人を繋ぎ、同時に苦しめている。

 日記帳を閉じると、夜の川風がページを揺らした。
 涙で濡れた紙は重く、抱きしめると胸にずしりと響いた。

 結衣は空に顔を向け、震える声で言った。
「陸は……私たちを未来に送ろうとしてる。でも私、まだ怖いよ。陸を忘れるのも、空を好きになるのも」

 空は涙で濡れた顔で結衣を見つめ、小さく頷いた。
「怖くてもいい。兄ちゃんが願ったのは、僕たちが泣きながらでも進むことだと思う」

 二人は夜空を見上げ、涙を流し続けた。
 星が滲み、川面に揺れる光が震えて見えた。

 日記帳に刻まれた陸の想いは、二人を縛りながらも、未来へ押し出していた。
 その重みを抱いたまま、二人は静かに並んで座っていた。
 冷たい風が頬を撫で、涙の跡を乾かしていく。

 やがて、空が小さく息をついた。
「ねえ、結衣。兄ちゃんが書いてた“花火”、来年、見に行こう」

 結衣は目を伏せたまま、かすかに笑った。
「……うん、行こう。怖くても、泣いてても、ちゃんと行こう」

 その言葉に、空の唇がわずかに震えた。
 笑顔と泣き顔が入り混じるまま、二人は互いの手を握った。
 夜の川辺には、虫の声だけが静かに響いていた。

 こうして、陸の日記帳は、結衣と空にとってただの過去ではなく、未来へ向かうための道標になっていく。
 ページを閉じても、その重さは二人の胸の奥でまだ温かく脈打っていた。