蝉の声が薄くなっていた。
夏休みの終わりは、音の端からやって来る。蝉の抜け殻が少しずつ増え、風の中に微かな乾きを混ぜる。町の色は同じなのに、梯子の最上段に足をかけたみたいな不安定さがある。私は河川敷へ向かう道を歩きながら、ふと「去年の同じ時期」を思い出していた。陸と並んで歩いた土手の傾斜。笑い合う時の、呼吸の短い合図。信号待ちで肩が触れて、気づかないふりをした温度。記憶は、鮮やかで、容赦がない。胸がきゅっと縮み、喉の後ろに熱いものが溜まる。
土手を下りると、川は浅く光っていた。水面を走る風の軌跡が、細い線で何度も書き直されている。下流のほうに視線を向けると、空がひと足先に来ていた。制服のまま、両肘を膝に置いて、遠くを見ている。呼びかける前に彼は私に気づき、ゆっくりと立ち上がった。迷いと決意が混ざった表情。胸の奥がわずかに固くなる。
「結衣……話してもいいかな。ずっと、隠してたことがある」
声は低く、逃げ道をつくらない言い方だった。私はうなずき、草の上に腰を下ろした。草の匂いに、夕方の土の温度が混ざる。虫の声が遠くで揺れて、ふたりの沈黙に目印のような点を打つ。
「僕、——ずっと、兄ちゃんに憧れてた」
空は俯き、指を組む。その指の節に、これまで言わなかった時間が滲んでいた。
「小さい頃から会えなかったのに、送られてくる写真を見るだけで分かった。兄ちゃんは強くて、優しくて、僕にはないものを全部持ってる人だって。写真の中の兄ちゃんは、いつも誰かの隣で笑ってた。……その“誰か”は、たいてい君だった」
胸の内側に冷たいものが走る。私は息を浅く吸い、吐き損ねた空気が喉に残るのを感じた。
「再会したら、一緒に笑ってくれるって、ずっと信じてた」
空は拳を膝の上で握りしめる。
「でも、その“いつか”は来なかった。——叶わなかった」
陸が亡くなったことで奪われたのは、私の未来だけじゃない。誰かの憧れも、届くはずの笑いも、ちゃんと受け取ることが決まっていた言葉も、まとめて持っていかれた。やっと気づく。私は自分の痛みばかり抱えて、空の痛みの形を、まだ測れていなかった。
「嫉妬もしてた」
空はかすかに笑って、自分の言葉に自分で苦くなるみたいに、目を伏せた。
「写真の中で兄ちゃんの隣にいるのは、いつも君だった。僕は兄ちゃんの弟なのに、兄ちゃんの一番近くにいるのは君で。羨ましかった。……悔しくて、情けなくて、何度も夜に腹立てて、勝手に泣いた」
涙が頬を落ちるのに、私は気づくのが遅れた。涙が皮膚を走るときの温度はいつだって体温より少し高い。私は袖口でそっと押さえる。
「ごめん……私、そんなこと、考えたこともなかった」
「謝ることじゃない。君は悪くない」
空は首を振る。
「でも、正直に言うと、羨ましかった。兄ちゃんの目に映る君の笑顔が、まぶしくて。写真の紙が、やけに冷たく感じた」
陸と過ごした時間は、私の宝物だ。けれどそれは、空の手には一度も乗らなかった重みでもある。宝物は、誰かにとっては欠落の証拠にもなる。そう気づいた瞬間、胸の奥の棚がひとつ軋んだ。
「それでも」
空が、小さく息を吸った。
「兄ちゃんは僕にも残してくれた。“結衣を頼む”って。……それ、聞いたとき、嬉しかった。兄ちゃんに初めて頼られた気がした。でも、同時に怖かった。兄ちゃんの代わりにはなれないし、なっちゃいけないって、思った」
私は涙で曇った視界のまま、彼を見た。風が少し強くなり、草の穂先がまとめて裏返る。私は口を開く。
「代わりじゃなくていい」
声が自分のものとは思えないほどはっきり出た。
「空は、空のままでいてほしい。陸とは違う人なんだから。——違うから、ここに座ってくれてる」
言い切ると同時に、喉の奥が震えて、言葉の残りが涙になって出た。陸を忘れたくなんてない。けれど、空を空として見たい気持ちも、本物だ。二つの本物が、胸の中でぶつかり、しばらく音を立てる。
空は驚いたように私を見つめ、それから小さく笑った。
「ありがとう。……その言葉を、ずっと待ってたのかもしれない」
ふたりの間に、静けさが降りた。沈黙は形を持つ。今日の沈黙は、角が丸くて、掌に収まる程度の重さをしていた。川風が頬を撫で、虫の声がひとつ増える。それから、空が思い出すみたいに言った。
「父さんがね、この前、初めてまっすぐ僕を見て、言ったんだ。“空、おまえはおまえでいい”って。でも、その言葉に腹が立った。もっと早く言ってよ、って。もっと上手く言ってよ、って。……届いちゃうから、余計に腹が立った」
「届いちゃう言葉、悔しいよね」
私は笑いながら泣く。
「陸の“ずるい”も、空の“ずるい”も、私には効く。ずるいのくせに、支えてくる」
「ずるいを、誰のために使うか——だと思う」
空は小石を一つ拾って、水に放った。輪がいくつも重なり、すぐにほどける。
私は指先でスカートの裾を整え、深く息を吸った。草の匂いが、少し秋の匂いを含む。空の横顔に、陸の影が薄く揺れて、でもすぐに別の光が差してくる。そこにいるのは、陸ではない“違う君”。私の胸の奥が、その違いをようやく受け容れる準備を始めていた。
別れ際、土手の階段の途中で、私は空に向き直った。
「空」
「うん」
「……話してくれて、ありがとう」
「こちらこそ。——また、明日」
「また、明日」
家に帰ると、部屋の空気は昼の温度を持ち帰ったみたいに少しくぐもっていた。机の上には陸の日記帳。表紙に指を置くと、紙の冷たさがすぐに皮膚に移る。私はゆっくりと開いた。ページの隅、余白の端に、細い字があった。
〈空には空の道がある。どうか彼を否定しないで〉
呼吸が止まった。文字は陸の癖のある字だった。小さく、急いだときの丸み。私は声を上げて泣いた。陸は知っていた。私と空が出会い、揺れ、苦しみ、やがてどこかへ歩き出すことまで。私が“比較”という刃で空を傷つける可能性まで、きっと。ページの上のインクは乾ききっているのに、私の指に触れたところだけ濡れて見えた。
「陸……どうすればいいの?」
声に出すと、部屋の温度が少しだけ下がった気がした。返事は、もちろん来ない。けれど、窓の外の風がカーテンを撫で、その裾が私の手の甲にふれていった。私は日記帳を閉じ、胸の上に置いたまま目を閉じる。瞼の裏には、今日の土手と、空の横顔と、陸の字が順不同に浮かんでは沈んだ。
眠りは、泣いた夜ほど、静かにやってくる。私はその静けさに身体を預けた。
夢の中で、陸が笑っていた。去年の夏のTシャツのまま、少しだけ後ろを振り向く。私は手を伸ばす。追いかけようとするのに、足が動かない。膝から下が水に変わったみたいに重く、名前が喉の手前で絡まる。陸は遠ざかっていく。代わりに、背後から手が差し出された。
「——大丈夫。僕がいる」
振り返ると、空だった。陸の残像の縁が、空の手の温度に合わせて柔らかくなる。二人の姿は重なりそうで、重ならない。重ならないまま、同じ方向を向く。私は泣きながら、その手を掴もうとして——夢は、そこで途切れた。
目が覚めた。頬は濡れていて、枕の端がひんやりしている。窓から差し込む朝の光は、昨日よりも少し白かった。私は胸に手を当て、深く息を吸う。息の底に、“矛盾”がまだ座っている。——陸を想いながら、空を見つめている。
矛盾は、悪者じゃない。私がいま生きている証拠だ。そう思えた瞬間、胸の真ん中の石に、ほんのわずかな丸みが戻る。
その日、私は学校のない午前を、机に向かって過ごした。日記帳の横に、白い紙を一枚置く。ペン先が紙に触れ、しばらく動かない。やがて、短い一行だけが書けた。
〈空の道を、私の歩幅で並ぶ〉
書き終えると、紙がその言葉を静かに受け取った。私は紙をたたみ、日記帳の中ほどにそっと挟む。陸の言葉と、いまの私の言葉が、背中合わせに並ぶ。ページを閉じる音は、軽いのに、部屋の空気に長く残った。
午後、川へ行く支度をしながら、私は初めて気づく。——空が私に「見てほしい」と言ったとき、本当に欲しかったのは、比較じゃない視線だったのだと。陸に似ている部分を数える目ではなく、空の形をそのまま確かめる目。私がそれを向けられる日が、ようやく始まったのかもしれない。
夕方の土手は、昨日よりも秋に近い色をしていた。空は少し遅れて来て、私を見るなり、少しだけ安堵の顔をした。
「来た」
「来たよ」
「走る?」
「歩く」
「いいね」
会話は浅く、でも、地面にちゃんと足が触れている。ふたりで川沿いを歩く。歩幅が自然と揃い、沈黙が昨日より軽い。私は思い切って言った。
「空、私……比較しない目を、練習する」
「うん」
「難しいけど、やる」
「難しいことは、だいたい、練習でどうにかなる」
「ランナー理論だ」
「うん。僕はそれしか持ってないから」
笑い合う。笑いは裏切りじゃない。泣いた時間を消す笑いじゃなくて、泣いた時間を抱えたまま出る笑いだ。そういう笑いがあることを、やっと身体が思い出し始めている。
帰り際、私はふいに立ち止まり、空に向かって深く一礼した。
「ありがとう、空。……隠してたこと、教えてくれて」
空は照れたように首を掻き、少し考えてから、まっすぐ言った。
「ありがとう、結衣。否定しないで、聞いてくれて。——また、明日」
「また、明日」
夜、部屋の灯りを落とす。日記帳に指を添え、目を閉じる。陸の字が瞼の裏に浮かぶ。〈空には空の道がある〉という一文が、今日の終わりのしおりになる。私はそのしおりをそっと心に挟み、「おやすみ」と言った。返事は風に紛れて聞こえない。けれど、カーテンの裾がわずかに動き、髪に触れた。押されたのか、撫でられたのか、判断のつかないやさしさで。
矛盾はまだ胸にいる。痛みもいる。嫉妬も、罪悪感も、ときどき顔を出すだろう。それでも、比べない目を練習する明日がある。空の道と私の道が並ぶ距離を、今日より少しだけ伸ばせるかもしれない。そんな予感を小さく抱いて、私は深く息を吸い、眠りへ降りていった。
夏休みの終わりは、音の端からやって来る。蝉の抜け殻が少しずつ増え、風の中に微かな乾きを混ぜる。町の色は同じなのに、梯子の最上段に足をかけたみたいな不安定さがある。私は河川敷へ向かう道を歩きながら、ふと「去年の同じ時期」を思い出していた。陸と並んで歩いた土手の傾斜。笑い合う時の、呼吸の短い合図。信号待ちで肩が触れて、気づかないふりをした温度。記憶は、鮮やかで、容赦がない。胸がきゅっと縮み、喉の後ろに熱いものが溜まる。
土手を下りると、川は浅く光っていた。水面を走る風の軌跡が、細い線で何度も書き直されている。下流のほうに視線を向けると、空がひと足先に来ていた。制服のまま、両肘を膝に置いて、遠くを見ている。呼びかける前に彼は私に気づき、ゆっくりと立ち上がった。迷いと決意が混ざった表情。胸の奥がわずかに固くなる。
「結衣……話してもいいかな。ずっと、隠してたことがある」
声は低く、逃げ道をつくらない言い方だった。私はうなずき、草の上に腰を下ろした。草の匂いに、夕方の土の温度が混ざる。虫の声が遠くで揺れて、ふたりの沈黙に目印のような点を打つ。
「僕、——ずっと、兄ちゃんに憧れてた」
空は俯き、指を組む。その指の節に、これまで言わなかった時間が滲んでいた。
「小さい頃から会えなかったのに、送られてくる写真を見るだけで分かった。兄ちゃんは強くて、優しくて、僕にはないものを全部持ってる人だって。写真の中の兄ちゃんは、いつも誰かの隣で笑ってた。……その“誰か”は、たいてい君だった」
胸の内側に冷たいものが走る。私は息を浅く吸い、吐き損ねた空気が喉に残るのを感じた。
「再会したら、一緒に笑ってくれるって、ずっと信じてた」
空は拳を膝の上で握りしめる。
「でも、その“いつか”は来なかった。——叶わなかった」
陸が亡くなったことで奪われたのは、私の未来だけじゃない。誰かの憧れも、届くはずの笑いも、ちゃんと受け取ることが決まっていた言葉も、まとめて持っていかれた。やっと気づく。私は自分の痛みばかり抱えて、空の痛みの形を、まだ測れていなかった。
「嫉妬もしてた」
空はかすかに笑って、自分の言葉に自分で苦くなるみたいに、目を伏せた。
「写真の中で兄ちゃんの隣にいるのは、いつも君だった。僕は兄ちゃんの弟なのに、兄ちゃんの一番近くにいるのは君で。羨ましかった。……悔しくて、情けなくて、何度も夜に腹立てて、勝手に泣いた」
涙が頬を落ちるのに、私は気づくのが遅れた。涙が皮膚を走るときの温度はいつだって体温より少し高い。私は袖口でそっと押さえる。
「ごめん……私、そんなこと、考えたこともなかった」
「謝ることじゃない。君は悪くない」
空は首を振る。
「でも、正直に言うと、羨ましかった。兄ちゃんの目に映る君の笑顔が、まぶしくて。写真の紙が、やけに冷たく感じた」
陸と過ごした時間は、私の宝物だ。けれどそれは、空の手には一度も乗らなかった重みでもある。宝物は、誰かにとっては欠落の証拠にもなる。そう気づいた瞬間、胸の奥の棚がひとつ軋んだ。
「それでも」
空が、小さく息を吸った。
「兄ちゃんは僕にも残してくれた。“結衣を頼む”って。……それ、聞いたとき、嬉しかった。兄ちゃんに初めて頼られた気がした。でも、同時に怖かった。兄ちゃんの代わりにはなれないし、なっちゃいけないって、思った」
私は涙で曇った視界のまま、彼を見た。風が少し強くなり、草の穂先がまとめて裏返る。私は口を開く。
「代わりじゃなくていい」
声が自分のものとは思えないほどはっきり出た。
「空は、空のままでいてほしい。陸とは違う人なんだから。——違うから、ここに座ってくれてる」
言い切ると同時に、喉の奥が震えて、言葉の残りが涙になって出た。陸を忘れたくなんてない。けれど、空を空として見たい気持ちも、本物だ。二つの本物が、胸の中でぶつかり、しばらく音を立てる。
空は驚いたように私を見つめ、それから小さく笑った。
「ありがとう。……その言葉を、ずっと待ってたのかもしれない」
ふたりの間に、静けさが降りた。沈黙は形を持つ。今日の沈黙は、角が丸くて、掌に収まる程度の重さをしていた。川風が頬を撫で、虫の声がひとつ増える。それから、空が思い出すみたいに言った。
「父さんがね、この前、初めてまっすぐ僕を見て、言ったんだ。“空、おまえはおまえでいい”って。でも、その言葉に腹が立った。もっと早く言ってよ、って。もっと上手く言ってよ、って。……届いちゃうから、余計に腹が立った」
「届いちゃう言葉、悔しいよね」
私は笑いながら泣く。
「陸の“ずるい”も、空の“ずるい”も、私には効く。ずるいのくせに、支えてくる」
「ずるいを、誰のために使うか——だと思う」
空は小石を一つ拾って、水に放った。輪がいくつも重なり、すぐにほどける。
私は指先でスカートの裾を整え、深く息を吸った。草の匂いが、少し秋の匂いを含む。空の横顔に、陸の影が薄く揺れて、でもすぐに別の光が差してくる。そこにいるのは、陸ではない“違う君”。私の胸の奥が、その違いをようやく受け容れる準備を始めていた。
別れ際、土手の階段の途中で、私は空に向き直った。
「空」
「うん」
「……話してくれて、ありがとう」
「こちらこそ。——また、明日」
「また、明日」
家に帰ると、部屋の空気は昼の温度を持ち帰ったみたいに少しくぐもっていた。机の上には陸の日記帳。表紙に指を置くと、紙の冷たさがすぐに皮膚に移る。私はゆっくりと開いた。ページの隅、余白の端に、細い字があった。
〈空には空の道がある。どうか彼を否定しないで〉
呼吸が止まった。文字は陸の癖のある字だった。小さく、急いだときの丸み。私は声を上げて泣いた。陸は知っていた。私と空が出会い、揺れ、苦しみ、やがてどこかへ歩き出すことまで。私が“比較”という刃で空を傷つける可能性まで、きっと。ページの上のインクは乾ききっているのに、私の指に触れたところだけ濡れて見えた。
「陸……どうすればいいの?」
声に出すと、部屋の温度が少しだけ下がった気がした。返事は、もちろん来ない。けれど、窓の外の風がカーテンを撫で、その裾が私の手の甲にふれていった。私は日記帳を閉じ、胸の上に置いたまま目を閉じる。瞼の裏には、今日の土手と、空の横顔と、陸の字が順不同に浮かんでは沈んだ。
眠りは、泣いた夜ほど、静かにやってくる。私はその静けさに身体を預けた。
夢の中で、陸が笑っていた。去年の夏のTシャツのまま、少しだけ後ろを振り向く。私は手を伸ばす。追いかけようとするのに、足が動かない。膝から下が水に変わったみたいに重く、名前が喉の手前で絡まる。陸は遠ざかっていく。代わりに、背後から手が差し出された。
「——大丈夫。僕がいる」
振り返ると、空だった。陸の残像の縁が、空の手の温度に合わせて柔らかくなる。二人の姿は重なりそうで、重ならない。重ならないまま、同じ方向を向く。私は泣きながら、その手を掴もうとして——夢は、そこで途切れた。
目が覚めた。頬は濡れていて、枕の端がひんやりしている。窓から差し込む朝の光は、昨日よりも少し白かった。私は胸に手を当て、深く息を吸う。息の底に、“矛盾”がまだ座っている。——陸を想いながら、空を見つめている。
矛盾は、悪者じゃない。私がいま生きている証拠だ。そう思えた瞬間、胸の真ん中の石に、ほんのわずかな丸みが戻る。
その日、私は学校のない午前を、机に向かって過ごした。日記帳の横に、白い紙を一枚置く。ペン先が紙に触れ、しばらく動かない。やがて、短い一行だけが書けた。
〈空の道を、私の歩幅で並ぶ〉
書き終えると、紙がその言葉を静かに受け取った。私は紙をたたみ、日記帳の中ほどにそっと挟む。陸の言葉と、いまの私の言葉が、背中合わせに並ぶ。ページを閉じる音は、軽いのに、部屋の空気に長く残った。
午後、川へ行く支度をしながら、私は初めて気づく。——空が私に「見てほしい」と言ったとき、本当に欲しかったのは、比較じゃない視線だったのだと。陸に似ている部分を数える目ではなく、空の形をそのまま確かめる目。私がそれを向けられる日が、ようやく始まったのかもしれない。
夕方の土手は、昨日よりも秋に近い色をしていた。空は少し遅れて来て、私を見るなり、少しだけ安堵の顔をした。
「来た」
「来たよ」
「走る?」
「歩く」
「いいね」
会話は浅く、でも、地面にちゃんと足が触れている。ふたりで川沿いを歩く。歩幅が自然と揃い、沈黙が昨日より軽い。私は思い切って言った。
「空、私……比較しない目を、練習する」
「うん」
「難しいけど、やる」
「難しいことは、だいたい、練習でどうにかなる」
「ランナー理論だ」
「うん。僕はそれしか持ってないから」
笑い合う。笑いは裏切りじゃない。泣いた時間を消す笑いじゃなくて、泣いた時間を抱えたまま出る笑いだ。そういう笑いがあることを、やっと身体が思い出し始めている。
帰り際、私はふいに立ち止まり、空に向かって深く一礼した。
「ありがとう、空。……隠してたこと、教えてくれて」
空は照れたように首を掻き、少し考えてから、まっすぐ言った。
「ありがとう、結衣。否定しないで、聞いてくれて。——また、明日」
「また、明日」
夜、部屋の灯りを落とす。日記帳に指を添え、目を閉じる。陸の字が瞼の裏に浮かぶ。〈空には空の道がある〉という一文が、今日の終わりのしおりになる。私はそのしおりをそっと心に挟み、「おやすみ」と言った。返事は風に紛れて聞こえない。けれど、カーテンの裾がわずかに動き、髪に触れた。押されたのか、撫でられたのか、判断のつかないやさしさで。
矛盾はまだ胸にいる。痛みもいる。嫉妬も、罪悪感も、ときどき顔を出すだろう。それでも、比べない目を練習する明日がある。空の道と私の道が並ぶ距離を、今日より少しだけ伸ばせるかもしれない。そんな予感を小さく抱いて、私は深く息を吸い、眠りへ降りていった。



