夏休みの最後の週末は、朝よりも夕方のほうが静かだった。
陽の色が薄まり、風の温度が一歩だけ秋に寄る。私は河川敷の土手に立ち、川面のゆっくりした動きをじっと見ていた。朝から心はずっと揺れている。昨日の花火の残像が、瞼の裏で何度も咲いてはほどけ、その度に胸の内側で波が立つ。陸を想う気持ちと、空に惹かれる気持ち。二つの想いの狭間で、呼吸は浅くなる。吸っても、深いところまで届かない。吐いても、全部が出ていく気がしない。
川岸の草は、陽に焼かれて少し色を褪せている。穂の先を風が撫でるたび、表と裏が反転して銀に光る。遠くでは子どもが自転車のベルを鳴らし、橋の下を渡るタイヤの音が低くこだまする。私は両手を背中で組み、立ったまま自分の影を見下ろした。影は細く長く、川の方へ伸びている。足先が水に届かないことを、影だけが先に知っている。
「結衣」
背中から、私の名前が呼ばれた。振り向くと、空が土手の上から降りてくるところだった。制服のまま、首筋に汗の細い線。髪が少し乱れて、前髪の端が額に貼りついている。不器用な笑みを浮かべかけて——けれど、すぐにそれをたたんで、真剣な表情に変えた。
「……話したいことがある」
声はいつもより低かった。冗談の逃げ道を残さない声。私はうなずき、川沿いのベンチを指さした。二人で腰を下ろすと、木の板が小さく軋む。沈黙が一度だけ、私たちの膝に置かれた。
空はしばらく黙っていた。左手の親指で右の人差し指の第二関節を、何度もなぞる。息を吸って、吐いて、その真ん中でようやく、重い口を開いた。
「僕、——兄ちゃんの最後を知ってる。父さんから聞かされたんだ」
胸の奥で、何かがはっきり音を立てた。聞きたい。けれど、聞きたくない。陸の「最後」という二文字は、それだけで胸を切り裂く。私は膝の上で指を組み、組んだ指の骨の角に爪を軽く押しつけた。
空は俯き、拳を膝の上で握りしめた。指の節が白くなる。
「事故の直前まで、兄ちゃん……君のこと、話してたって。『結衣が泣いていないか』って。——僕、それを聞いた時、悔しかった。兄ちゃんにとって、僕より君の方が大事だったんだって。嫉妬して、……泣いた」
言葉が地面に落ち、砂粒の間をゆっくり沈んでいくのが見える気がした。私は息を飲む。喉が細くなり、空気がうまく通らない。胸の真ん中に置かれた石の重みが、急に形を変えて尖る。目の縁が熱くなり、視界がわずかに歪む。
空は続けた。声は震えていたが、逃げていない。
「でも、同時に安心もした。兄ちゃんは、最後の最後まで、君を想ってたんだって。——それが兄ちゃんの本当の姿だったんだと思う」
「やめて……」
私は両手で顔を覆った。嗚咽が勝手に生まれ、指の隙間から熱が落ちる。やめて、なんて言いながら、本当は聞きたかった。陸が私をどう思っていたのか。最後に何を抱えていたのか。知りたい気持ちと、知りたくない気持ちが、同じ場所でひっかき合う。
「……会いたい。もう一度だけでいいから、陸に会いたい」
声にすると、胸の奥の壊れたところがはっきりした形で疼いた。声は風に薄く伸び、川の流れに吸い込まれる。空はそっと私の肩に手を置いた。手は温かく、でも少し震えていた。
「兄ちゃんは、もういない。でも、兄ちゃんが残したものは、ここにある。手紙も、日記も、そして——僕も。……結衣、君が抱えてる痛みを、僕もいっしょに抱えたい」
はっきりと、言った。重い言葉を、軽く言おうとしなかった。私は顔を上げる。空の瞳には、陸の色がある。けれど、陸にはなかった影が宿っている。嫉妬や悔しさや、届かなかった時間の濃度。それら全部を抱えた瞳が、まっすぐ私を見ている。
「ごめん……」
私は鼻をすすり、言葉を途切れ途切れにつなげる。
「空に支えられてるのに、私、陸のことばかり考えて……」
空は首を振った。肩の線が、少しだけ緩む。
「それでいい。兄ちゃんを忘れないでほしい。忘れる必要なんてない。ただ、僕のことも、少しだけ——見てほしい」
見てほしい、という言葉は、お願いの形をしていたけれど、どこかで宣言にも聞こえた。私はうなずくことしかできなかった。頷きには、まだ十分な力がない。けれど、それでも、首は垂直より少し前に倒れた。
風が川上から吹きおりて、草の匂いが濃くなる。二人の沈黙は、今日の空気に馴染んで、重すぎも軽すぎもしない重さになった。私はハンカチで目元を押さえ、深呼吸をひとつ。呼吸は、少しだけ深くなった。胸の奥の石の角が、ほんの少し丸くなる。
「ねえ、空」
私は小さく呼びかける。
「いまの話、どうして、今日、言おうと思ったの?」
空は少し目を細め、遠くの水面を見た。光が細く跳ねる。
「昨日、君が浴衣で来た時、思った。——兄ちゃんに、また嫉妬したんだ。君の『去年』は兄ちゃんと一緒で、僕の『去年』には君がいない。僕の『今年』に君がいる。その事実が、嬉しくて、苦しくて。……だから逃げないで言おうと思った。僕の中の、ずるい気持ちも、痛い気持ちも」
「ずるい気持ち」
私は反芻する。
「私もある。陸の『ずるい』に助けられて、空の『ずるい』に救われる。——おかしいね」
「おかしくない。人はだいたい、ずるさでできてる」
空は照れくさそうに笑い、それから真面目に戻る。
「ずるさを、誰のために使うか、だけ」
私は笑い、また少し泣いた。笑いと涙は、ほんとうに近い。どちらをしても、胸の奥に同じ温度が広がる。
しばらくして、私たちはベンチから立ち上がり、川沿いを歩いた。足音は二つ。歩幅は、自然に揃う。土手の斜面から、バッタが飛び出し、慌てて草の影に隠れた。空が小さく笑い、私は指先でスカートの裾を整える。橋の下の影をくぐると、鉄の匂いが強くなる。影の温度は、昼よりも薄い涼しさを持っていた。
「父さんね」
空が、不意に言った。
「兄ちゃんの話をするとき、少しだけ目を逸らす。僕はそれが嫌で、何度か喧嘩になった。——でも、昨日、日記の話をしたら、父さんが初めて、ちゃんと僕の目を見て、『空、おまえはおまえでいい』って言った。……それが、なんか、悔しくてさ」
「悔しい?」
「うん。もっと早く言ってほしかったし、もっと上手く言ってほしかったし、でも、ようやく出てきたその言葉が、ちゃんと僕に届いてしまうのも悔しい。届くことに腹が立つくらい、僕は父さんの言葉に飢えてたんだと思う」
「空のなかの『去年』が、少し埋まったんだね」
言いながら、私は気づく。私の中の『去年』は、埋まらないままでいいのかもしれない。空白のまま、穴としてそこにいていい。穴の形を覚えたら、落ちずに歩けるから。
夕方の色が濃くなる。川は灰色を帯び、空は薄い桃色を端に乗せる。虫の声が一つ増え、また一つ増える。私たちは土手の階段を逆に歩き、街の方へ身体を向けた。別れ際、空が手を上げる。
「——結衣」
「うん」
「また、明日」
明日。夏休みの最後の週末の「明日」は、夏と秋の境目に置かれる。私はうなずいた。
「また、明日」
家に帰ると、部屋の空気は昼に置いた温度のままだった。机の上の日記帳は、触れられていない本の顔で、こちらを見ている。私は椅子を引き、日記帳を開いた。ページの隅に、小さな文字があった。
〈結衣、泣かないで。君が泣くと、僕まで泣きたくなる〉
胸がきゅっと縮んだ。涙はすぐに来た。声が漏れないように唇を噛む。噛んだ跡がじんと熱を持つ。指の腹で、その一文をそっとなぞる。紙の繊維が、指先に細い道を描く。私は目を閉じる。
——陸、私はどうすればいいの?
問いは、部屋の空気に溶けて、どこにも届かない。返事はない。ただ、涙だけが溢れ続ける。泣きながら、私は気づく。答えがないこと自体が、いまの私の答えだ。答えはいつも遅れてやって来る。遅れてやってきた答えだけが、からだに馴染む。
涙が少し落ち着いた頃、私は日記帳を閉じ、枕元に置いた。ベッドに横たわり、天井を見上げる。電気を消すと、街灯の帯がカーテンの隙間から細く差し込み、天井の四隅に柔らかい四角をつくる。瞼を閉じると、今日の言葉が順不同で浮かび、沈む。
眠りは、泣いた夜ほど、静かに来る。私はゆっくりとそこへ降りていった。
夢の中の川は、現実よりも幅が広く、音が浅い。陸が立っている。向こう岸に、背を向けて。白いTシャツの背中が、夜の色を少し吸って灰に近づいている。陸はやさしく微笑み、ゆっくりと歩き出す。私は呼ぼうとする。足を踏み出そうとする。——けれど、足が動かない。膝から下が水に変わったみたいに重く、喉が乾いて、名前が出てこない。
代わりに、背後から声がした。
「大丈夫。僕がいる」
振り返ると、そこに空が立っていた。陸の姿と、少しずれて重なる。重なって、離れて、やがて一つに溶けていく——のではなく、二つの輪郭を保ったまま、同じ場所に立つ。陸は向こう岸で振り返らない。空は、こちら側でまっすぐ私を見る。私は、同時に二つの方向から支えられている、と不思議にはっきりと分かった。
はっと目を覚ます。頬は涙で濡れていた。枕の端がひんやりして、耳の後ろに張りつく。外はまだ早朝の色で、蝉の声が細く一度だけ鳴って止む。胸の奥では、二つの想いがまた衝突している。ぶつかって、離れて、また寄って——答えは出ない。出ないまま、私は手のひらを胸に当てた。
「……陸」
小さく呼ぶ。
「……空」
続けて呼ぶ。どちらの名前も、喉の奥で同じ温度に触れた。二つの音がぶつからず、順番に胸を叩く。私はゆっくり息を吸い、長く吐いた。
朝が来る。答えの出ないままの朝は、昨日より少しだけ明るい。窓の外の空は、夏の青を残しながら、端に薄い白が縫い込まれている。私はベッドから起き上がり、鏡の前に立った。目の縁には、泣いた色がまだ残る。けれど、目の奥の水は、昨日よりも澄んで見えた。
制服に袖を通す。髪を結び、日記帳にそっと指先を置いてから、玄関に向かう。靴紐を結ぶ手が、いつもより丁寧だ。ドアを開けると、朝の空気が新しい紙みたいな匂いで迎える。
「——行ってきます」
声は小さい。でも、床にきちんと触れる足音のように、私自身に届いた。二つの想いは、今日も胸にいる。どちらも同じだけ重い。どちらも落とさないように、持ち方を少しずつ覚えていく。
川へ、学校へ、そしてまた川へ。私の「いま」を繋ぐ場所へ、私は歩き出した。
陽の色が薄まり、風の温度が一歩だけ秋に寄る。私は河川敷の土手に立ち、川面のゆっくりした動きをじっと見ていた。朝から心はずっと揺れている。昨日の花火の残像が、瞼の裏で何度も咲いてはほどけ、その度に胸の内側で波が立つ。陸を想う気持ちと、空に惹かれる気持ち。二つの想いの狭間で、呼吸は浅くなる。吸っても、深いところまで届かない。吐いても、全部が出ていく気がしない。
川岸の草は、陽に焼かれて少し色を褪せている。穂の先を風が撫でるたび、表と裏が反転して銀に光る。遠くでは子どもが自転車のベルを鳴らし、橋の下を渡るタイヤの音が低くこだまする。私は両手を背中で組み、立ったまま自分の影を見下ろした。影は細く長く、川の方へ伸びている。足先が水に届かないことを、影だけが先に知っている。
「結衣」
背中から、私の名前が呼ばれた。振り向くと、空が土手の上から降りてくるところだった。制服のまま、首筋に汗の細い線。髪が少し乱れて、前髪の端が額に貼りついている。不器用な笑みを浮かべかけて——けれど、すぐにそれをたたんで、真剣な表情に変えた。
「……話したいことがある」
声はいつもより低かった。冗談の逃げ道を残さない声。私はうなずき、川沿いのベンチを指さした。二人で腰を下ろすと、木の板が小さく軋む。沈黙が一度だけ、私たちの膝に置かれた。
空はしばらく黙っていた。左手の親指で右の人差し指の第二関節を、何度もなぞる。息を吸って、吐いて、その真ん中でようやく、重い口を開いた。
「僕、——兄ちゃんの最後を知ってる。父さんから聞かされたんだ」
胸の奥で、何かがはっきり音を立てた。聞きたい。けれど、聞きたくない。陸の「最後」という二文字は、それだけで胸を切り裂く。私は膝の上で指を組み、組んだ指の骨の角に爪を軽く押しつけた。
空は俯き、拳を膝の上で握りしめた。指の節が白くなる。
「事故の直前まで、兄ちゃん……君のこと、話してたって。『結衣が泣いていないか』って。——僕、それを聞いた時、悔しかった。兄ちゃんにとって、僕より君の方が大事だったんだって。嫉妬して、……泣いた」
言葉が地面に落ち、砂粒の間をゆっくり沈んでいくのが見える気がした。私は息を飲む。喉が細くなり、空気がうまく通らない。胸の真ん中に置かれた石の重みが、急に形を変えて尖る。目の縁が熱くなり、視界がわずかに歪む。
空は続けた。声は震えていたが、逃げていない。
「でも、同時に安心もした。兄ちゃんは、最後の最後まで、君を想ってたんだって。——それが兄ちゃんの本当の姿だったんだと思う」
「やめて……」
私は両手で顔を覆った。嗚咽が勝手に生まれ、指の隙間から熱が落ちる。やめて、なんて言いながら、本当は聞きたかった。陸が私をどう思っていたのか。最後に何を抱えていたのか。知りたい気持ちと、知りたくない気持ちが、同じ場所でひっかき合う。
「……会いたい。もう一度だけでいいから、陸に会いたい」
声にすると、胸の奥の壊れたところがはっきりした形で疼いた。声は風に薄く伸び、川の流れに吸い込まれる。空はそっと私の肩に手を置いた。手は温かく、でも少し震えていた。
「兄ちゃんは、もういない。でも、兄ちゃんが残したものは、ここにある。手紙も、日記も、そして——僕も。……結衣、君が抱えてる痛みを、僕もいっしょに抱えたい」
はっきりと、言った。重い言葉を、軽く言おうとしなかった。私は顔を上げる。空の瞳には、陸の色がある。けれど、陸にはなかった影が宿っている。嫉妬や悔しさや、届かなかった時間の濃度。それら全部を抱えた瞳が、まっすぐ私を見ている。
「ごめん……」
私は鼻をすすり、言葉を途切れ途切れにつなげる。
「空に支えられてるのに、私、陸のことばかり考えて……」
空は首を振った。肩の線が、少しだけ緩む。
「それでいい。兄ちゃんを忘れないでほしい。忘れる必要なんてない。ただ、僕のことも、少しだけ——見てほしい」
見てほしい、という言葉は、お願いの形をしていたけれど、どこかで宣言にも聞こえた。私はうなずくことしかできなかった。頷きには、まだ十分な力がない。けれど、それでも、首は垂直より少し前に倒れた。
風が川上から吹きおりて、草の匂いが濃くなる。二人の沈黙は、今日の空気に馴染んで、重すぎも軽すぎもしない重さになった。私はハンカチで目元を押さえ、深呼吸をひとつ。呼吸は、少しだけ深くなった。胸の奥の石の角が、ほんの少し丸くなる。
「ねえ、空」
私は小さく呼びかける。
「いまの話、どうして、今日、言おうと思ったの?」
空は少し目を細め、遠くの水面を見た。光が細く跳ねる。
「昨日、君が浴衣で来た時、思った。——兄ちゃんに、また嫉妬したんだ。君の『去年』は兄ちゃんと一緒で、僕の『去年』には君がいない。僕の『今年』に君がいる。その事実が、嬉しくて、苦しくて。……だから逃げないで言おうと思った。僕の中の、ずるい気持ちも、痛い気持ちも」
「ずるい気持ち」
私は反芻する。
「私もある。陸の『ずるい』に助けられて、空の『ずるい』に救われる。——おかしいね」
「おかしくない。人はだいたい、ずるさでできてる」
空は照れくさそうに笑い、それから真面目に戻る。
「ずるさを、誰のために使うか、だけ」
私は笑い、また少し泣いた。笑いと涙は、ほんとうに近い。どちらをしても、胸の奥に同じ温度が広がる。
しばらくして、私たちはベンチから立ち上がり、川沿いを歩いた。足音は二つ。歩幅は、自然に揃う。土手の斜面から、バッタが飛び出し、慌てて草の影に隠れた。空が小さく笑い、私は指先でスカートの裾を整える。橋の下の影をくぐると、鉄の匂いが強くなる。影の温度は、昼よりも薄い涼しさを持っていた。
「父さんね」
空が、不意に言った。
「兄ちゃんの話をするとき、少しだけ目を逸らす。僕はそれが嫌で、何度か喧嘩になった。——でも、昨日、日記の話をしたら、父さんが初めて、ちゃんと僕の目を見て、『空、おまえはおまえでいい』って言った。……それが、なんか、悔しくてさ」
「悔しい?」
「うん。もっと早く言ってほしかったし、もっと上手く言ってほしかったし、でも、ようやく出てきたその言葉が、ちゃんと僕に届いてしまうのも悔しい。届くことに腹が立つくらい、僕は父さんの言葉に飢えてたんだと思う」
「空のなかの『去年』が、少し埋まったんだね」
言いながら、私は気づく。私の中の『去年』は、埋まらないままでいいのかもしれない。空白のまま、穴としてそこにいていい。穴の形を覚えたら、落ちずに歩けるから。
夕方の色が濃くなる。川は灰色を帯び、空は薄い桃色を端に乗せる。虫の声が一つ増え、また一つ増える。私たちは土手の階段を逆に歩き、街の方へ身体を向けた。別れ際、空が手を上げる。
「——結衣」
「うん」
「また、明日」
明日。夏休みの最後の週末の「明日」は、夏と秋の境目に置かれる。私はうなずいた。
「また、明日」
家に帰ると、部屋の空気は昼に置いた温度のままだった。机の上の日記帳は、触れられていない本の顔で、こちらを見ている。私は椅子を引き、日記帳を開いた。ページの隅に、小さな文字があった。
〈結衣、泣かないで。君が泣くと、僕まで泣きたくなる〉
胸がきゅっと縮んだ。涙はすぐに来た。声が漏れないように唇を噛む。噛んだ跡がじんと熱を持つ。指の腹で、その一文をそっとなぞる。紙の繊維が、指先に細い道を描く。私は目を閉じる。
——陸、私はどうすればいいの?
問いは、部屋の空気に溶けて、どこにも届かない。返事はない。ただ、涙だけが溢れ続ける。泣きながら、私は気づく。答えがないこと自体が、いまの私の答えだ。答えはいつも遅れてやって来る。遅れてやってきた答えだけが、からだに馴染む。
涙が少し落ち着いた頃、私は日記帳を閉じ、枕元に置いた。ベッドに横たわり、天井を見上げる。電気を消すと、街灯の帯がカーテンの隙間から細く差し込み、天井の四隅に柔らかい四角をつくる。瞼を閉じると、今日の言葉が順不同で浮かび、沈む。
眠りは、泣いた夜ほど、静かに来る。私はゆっくりとそこへ降りていった。
夢の中の川は、現実よりも幅が広く、音が浅い。陸が立っている。向こう岸に、背を向けて。白いTシャツの背中が、夜の色を少し吸って灰に近づいている。陸はやさしく微笑み、ゆっくりと歩き出す。私は呼ぼうとする。足を踏み出そうとする。——けれど、足が動かない。膝から下が水に変わったみたいに重く、喉が乾いて、名前が出てこない。
代わりに、背後から声がした。
「大丈夫。僕がいる」
振り返ると、そこに空が立っていた。陸の姿と、少しずれて重なる。重なって、離れて、やがて一つに溶けていく——のではなく、二つの輪郭を保ったまま、同じ場所に立つ。陸は向こう岸で振り返らない。空は、こちら側でまっすぐ私を見る。私は、同時に二つの方向から支えられている、と不思議にはっきりと分かった。
はっと目を覚ます。頬は涙で濡れていた。枕の端がひんやりして、耳の後ろに張りつく。外はまだ早朝の色で、蝉の声が細く一度だけ鳴って止む。胸の奥では、二つの想いがまた衝突している。ぶつかって、離れて、また寄って——答えは出ない。出ないまま、私は手のひらを胸に当てた。
「……陸」
小さく呼ぶ。
「……空」
続けて呼ぶ。どちらの名前も、喉の奥で同じ温度に触れた。二つの音がぶつからず、順番に胸を叩く。私はゆっくり息を吸い、長く吐いた。
朝が来る。答えの出ないままの朝は、昨日より少しだけ明るい。窓の外の空は、夏の青を残しながら、端に薄い白が縫い込まれている。私はベッドから起き上がり、鏡の前に立った。目の縁には、泣いた色がまだ残る。けれど、目の奥の水は、昨日よりも澄んで見えた。
制服に袖を通す。髪を結び、日記帳にそっと指先を置いてから、玄関に向かう。靴紐を結ぶ手が、いつもより丁寧だ。ドアを開けると、朝の空気が新しい紙みたいな匂いで迎える。
「——行ってきます」
声は小さい。でも、床にきちんと触れる足音のように、私自身に届いた。二つの想いは、今日も胸にいる。どちらも同じだけ重い。どちらも落とさないように、持ち方を少しずつ覚えていく。
川へ、学校へ、そしてまた川へ。私の「いま」を繋ぐ場所へ、私は歩き出した。



