君のいない夏を、君と歩く

 机の上に置いた日記帳は、今日はいつもより濃い影を連れていた。
 表紙の布は手に馴染む柔らかさで、角は小さく白く擦れている。ページの間に指を差し込むと、紙の冷たさが爪の先から腕に上がってきて、そこで止まる。開けば、陸の字がこちらを見返すと分かっている。だからこそ、開けない。昨日の夜、罪悪感が胸の真ん中に居座ってからというもの、どの行も、あの人の声になって私を責める気がするのだ。

 〈結衣、君が笑っていることを望む〉

 その一行は、刃のかたちをしていた。やさしい刃。触れた指を切りはしないけれど、皮膚の奥のやわらかいところを迷いなく押してくる。笑え、と言っているのではない。笑っていてほしい、と言っている。その違いを頭では分かっているのに、心は言葉の影ばかりを拾ってしまう。

 ふと、窓の向こうから低い衝撃が届いた。腹の奥に小さく響く、夏特有の音。カーテンを開けると、遠くの空に花火が上がっていた。色は控えめで、夜の底からひとつ、またひとつ、慎重に咲いては散る。去年の夏の大きな花火が蘇る。川べりで陸と並んで見上げた、胸を震わせるほどの大輪。隣にいた横顔。笑ったときに左頬にだけできる浅い影。あの夜が、最後だった。

 「……陸」

 声が呼ぶ前に涙が落ちた。頬に伝う道筋だけ熱くなり、喉の奥がじわりと膨らむ。息が細くなる。泣くのは悪いことではないと知っているのに、泣くたびにどこかで「笑って」と書かれた行が光る。私は手の甲で涙を拭い、目を閉じた。すると、机の上のスマホが震えた。

 〈花火、一緒に見ない?〉——空から。

 心臓が、ふたつ跳ねた。陸を思い出して泣いていたのに、同じ花火を空と見る。指が震え、返事の文字がすぐに並ばない。胸の中で、何かが小さくぶつかり合っては離れる。深く息を吸い、短く返す。

 〈行く〉

 浴衣に袖を通すのは、去年以来だった。箪笥の奥から出した布は、少しだけ洗剤の匂いが残っていて、帯の結び目を何度も直すうち、指の腹に布の温度が移る。鏡の前で髪をまとめ、襟元を整える。目の赤みは完全には消えないが、目の奥の水は少し澄んだ。玄関のドアを開けると、夜の湿気がすぐに頬に来て、鼻先に砂糖と醤油の混ざった祭りの匂いが乗った。

 人混みは、夏の音を増幅する装置だ。足袋がアスファルトに触れるたび、小さな音が重なっていく。屋台の呼び声、金魚すくいの水の反射、ビニール袋の擦れる音。提灯の赤が川沿いの道を点々と照らし、遠くで笛の音が震える。空は、石段の下で待っていた。浴衣の私を見つけると、少し驚いた顔をして、すぐに照れくさそうに笑う。

 「……似合ってる」

 その二音で、胸の内側が熱くなる。すぐに、同じ場所に冷たいものが差し込む。——陸にも、同じことを言ってほしかった。去年、それを言ってほしくて、でも照れて言えなかった自分。今、その光景を空と共有している。

 花火が空に咲いた。暗い布に刺繍のように、光が一本一本ほどけていく。大輪の白が夜を一瞬で明るくし、次の瞬間、色が残像になって目の奥に沈む。光に照らされた空の横顔。似ている。けれど、違う。違いが逆に目を離させる。私は視線を逸らし、胸に折りたたんだ扇子でそっと風を送った。

 「……ごめん」

 自分に言ったのか、空に言ったのか、陸に言ったのか、私自身にも分からないまま声が出た。空が振り向く。

 「何が?」

 「私、陸のこと、忘れられない。なのに、あなたといると——楽しいって、思っちゃう。……陸を裏切ってるみたいで」

 最後の言葉が出た瞬間、涙が溢れた。空は驚いて、一度だけ目を見開き、それから真剣な表情に変わった。花火の明滅が、彼の瞳に小さく映る。

 「裏切りなんかじゃない」
 空の声は必死で、でも乱れてはいなかった。
 「兄ちゃんは、君が笑うことを望んでた。……僕だって、君に、ずっと泣いていてほしくない」

 「分かってる。分かってるのに、怖いの。……陸を忘れてしまいそうで」

 空はしばらく黙って、花火を見上げた。大きな音が一度、私たちの頭上で割れる。空はその音が落ち着くのを待つみたいにして、低く言った。

 「忘れなくていい。兄ちゃんは君の中に生きてる。君が僕と笑っても、兄ちゃんが消えるわけじゃない」

 正しい。耳で受けとると、そう思う。けれど、胸は簡単には頷けない。陸を想う気持ちと、空に惹かれる気持ち。二つの想いが背中合わせに立って、それぞれがそれぞれのほうへ手を引く。真ん中にいる私は、引っ張られたまま、どちらにも倒れきれずに息を整えていた。

 花火が一段落すると、音は遠のき、提灯の灯りが音の隙間を埋めた。屋台の裏に回ると、川風が少しだけ涼しい。私たちは人混みから離れ、川沿いの道を歩いた。提灯の赤い円が等間隔で地面に落ち、影が交互に伸び縮みする。水面には、さっきの花火の名残の煙が薄く張りついて、黒を少しだけ白くしている。

 「……もしも、陸が生きてたら」
 私は足を止めずに口を開いた。
 「私は、陸と一緒に未来を歩いてたと思う。空を好きになることなんて、なかった」

 それは正直だった。正直はいつだって、誰かを傷つける可能性を抱えている。言いながら、私は自分の言葉が空のどこに触れるのか、怖かった。空は俯き、唇を軽く噛んだように見えた。それから、顔を上げる。

「そうだろうね」
 答えは真っ直ぐだった。
 「でも、僕は今、ここにいる。兄ちゃんが残した手紙が、君と僕を繋いだ。……それは事実だ」

 声は震えていたが、芯は強かった。誰かの「いま」を信じるための声。私は袖口を指で摘み、涙の残りを吸わせる。提灯の灯りが、空の横顔の骨格をやわらかくなぞる。陸ではない。違う人。なのに、同じように私を見つめるまなざし。そこに映る自分は、去年の私でも、昨日の私でもない、今ここに立っている私だった。

 「空、痛くない?」
 ぽつりと問う。
 「私が、こんなことを言うの、痛くない?」

 空は少しだけ笑った。
 「痛いよ。でも、走ってると、膝に来る痛みと胸に来る痛みは別物でさ。君の言葉の痛みは、胸に来る。……それは、ちゃんと生きてる痛みだから、嫌いじゃない」

 「走る比喩、万能だね」
 「ランナーは比喩に逃げがち」
 空の肩が軽く揺れる。私はつられて笑い、すぐにまた目頭が熱くなる。笑いと涙は、いつだって近道で繋がっている。

 少し歩いて、小さな橋のたもとに差しかかった。欄干に手を置くと、鉄の冷たさが指先から腕に上がる。空は同じように手を置き、川を覗き込んだ。水は暗く、ところどころで提灯の赤が斑点のように浮いている。
 「僕ね、あの日記を読んでから、もう一回、兄ちゃんに嫉妬した」
 空が言った。
 「死んだ人に嫉妬するって、変だけど。兄ちゃんは、先に未来を持っていった気がして。僕らに“笑う未来”なんて、簡単に言うなよって、思った」

 「……思っていいよ」
 私は言う。
 「私、毎日思ってる。陸、ずるい、って。……でも、そのずるさが、私の背中を押すこともあるの。悔しいけど」

 「悔しいけど、押される」
 空は唇の端を上げ、欄干から手を離した。
 「君、さっき“裏切り”って言ったでしょ。僕はね、たぶん、君を裏切りたいわけじゃなくて、君の“いま”に加担したいだけなんだと思う。兄ちゃんの影を薄めるんじゃなくて、君が立っている場所の地面を少し固くする、みたいな」

 地面を、固くする。
 言葉が、胸の内側のどこかにすっと収まった。私は目を閉じる。去年の夏の地面は、花火のたびに震えて、でも平らだった。今の地面は、ところどころに穴が空いて、柔らかい場所と硬い場所が混ざっている。そこに立つには、足の置き方を覚え直さなければならない。

 「ねえ、空」
 私は目を開け、川面の黒に問いを落とす。
 「二つの想いを、同じ胸で育てることって、できるかな。陸を想う気持ちと、空に惹かれる気持ち。どっちかに水をやると、どっちかが枯れそうで怖い」

 空は少し首を傾げ、考えてから言った。
 「ちょっとだけ違う種類の水を、交互にやる。陸への想いには、思い出の水。空への想いには、今日の水。……それで、ゆっくり根が絡んで、やがて土のほうが勝手に水を回してくれる。そんな気がする」

 「園芸も万能か」
 「比喩の畑は広いよ」
 二人で笑う。橋の上を、風がひとつ渡っていく。笑ったあと、私は小さくため息をついた。
 「ごめんね。私ばっかり泣いて、言って、受け取ってもらってる」

 「いいよ。僕、聞くの得意だから」
 空は冗談めかして肩をすくめ、それから真面目な顔に戻した。
 「でも、一つだけ、お願いがある」

 私は姿勢を正した。
 「なに?」

 「いつか、君の笑ってる写真を、一枚、僕に撮らせて」
 言葉は軽かったが、そこに載る願いは軽くなかった。
 「泣いた時間を裏切らない笑いのときでいい。今日じゃなくても、夏が終わってからでも。いつか君が『この笑いは残していい』って思える日に」

 胸の奥で、何かが静かに鳴った。写真が怖かった理由を、彼は知らないはずなのに、言い当てられたように感じた。私は頷く。
 「……約束する。いつか、その日が来たら」

 「待ってる」
 空は短く、しかし確かに言った。待つという言葉は、陸の手紙を連れてくる。けれど、同じ音でも、違う意味を持ちうると、私は少しだけ信じられた。

 祭りが終わりに近づくにつれ、提灯の灯りが一つ、また一つ、風の中で弱くなっていく。帰り道、土手を上がる階段の途中で、空が立ち止まった。
 「送るよ」
 「ううん、大丈夫。ここで」
 言ってから、私は一歩だけ近づいた。
 「空」
 「うん」
 「……ありがとう」
 「どういたしまして」
 彼はいつものように照れた笑い方をして、手を軽く上げた。
 「また」
 「また」

 家のドアを静かに閉める。靴を揃え、浴衣を脱ぎ、シャワーを浴びる。肩に残った花火の音のかけらが、湯気の中でほどけていく。部屋に戻ると、机の上の日記帳が、薄暗い中で形だけをはっきりさせていた。私はベッドに横たわる。天井の四隅に、街灯の光が薄く四角をつくっている。まぶたを閉じると、今日の光景が順不同でやってくる。花火、浴衣、提灯、橋の鉄、空の横顔、日記の行。

 胸の奥で、二つの想いがせめぎ合う。陸を失った痛みと、空に惹かれる温もり。どちらも本物で、どちらも否定できない。二つの重さが肩に乗り、私は両方の重みを確かめる。どちらも落とさないように、腕の使い方を変える。息を合わせる。深く吸って、長く吐く。——大丈夫になんて、今日のうちにはならない。でも、「大丈夫になっていく途中」には、入れた気がした。

 「……私、どうしたらいいの」

 天井に向けて小さく洩らす。返事はこない。けれど、窓の外で風がカーテンを揺らし、髪に触れた。誰かがやさしく押してくれるみたいに。私は枕を少し抱える。涙がまたにじみ、静かに耳の後ろへ流れた。泣くと、世界の輪郭がいったん曖昧になって、それから形を取り戻す。取り戻された輪郭は、さっきよりほんの少し柔らかい。

 眠りの手前で、陸の声と空の声が混ざる。
 ——生きろ。
 押し方の違う二つの合図が、胸の真ん中で重なって、わずかな灯りになる。私はその灯りを手のひらに包み、目を閉じた。

 夏休みの残りは、数日。花火の煙の名残が空に薄く張りつく夜、私は自分の胸のなかで、二つの想いにそれぞれの席を用意する。席札には、それぞれの名前を書く。ひとつには「陸」。もうひとつには——ためらいながら、ゆっくりと「空」と書いた。二つの席の間に、空席がひとつある。そこには、いつかの私自身が座るはずだ。泣いたあとに笑う私。笑ったあとにまた泣ける私。どちらも裏切らない私。

 目の裏に、かすかな花火の残像が咲いて、ほどけた。私はその光の端を指でそっと折るようにして、「おやすみ」と言った。返事は風に紛れ、夜は静かに深く沈んでいった。