放課後の空気は、まだ夏だった。
蝉の鳴き声が、網戸越しに部屋へ入ってくる。机の端に落ちた陽は、ノートの罫線を白く照らし、ゆっくりとずれていく。私は制服のまま床に座り、郵便受けで拾ってきた封筒を、しばらく見つめ続けていた。
見慣れない、少し黄ばんだ紙。
裏側ののりは、ところどころ粉を吹くように白く乾いている。切手は古い図柄で、知らない記念の花が描かれていた。宛名は私のフルネーム。ペン先を止める癖のある、見覚えのある字。差出人の欄に、短く、ひとつだけ——陸。
喉の奥で、音が割れたみたいに呼吸が途切れた。
陸。
頭の中でその二文字が、何度も何度も書き換わって、また元に戻る。
「……お母さん」
廊下へ出て、台所に向かって呼んだ。シンクに水が跳ねる音。母が振り返る。
「どうしたの、結衣」
「この……封筒、私宛て。差出人、陸って、書いてある」
母は濡れた手をタオルで拭きながら受け取り、目を細めて、首をかしげた。「え……ほんとだ。……でも、ほら、そういう名字の人もいるし。気のせいじゃない?」
気のせい、で片づけられる言葉が、この封筒の手触りには合わなかった。古びているのに、私の名だけはくっきり新しい。私の胸だけが、やけに騒がしい。
「ごめん、部屋に戻る」
私は封筒を取り返して、自室に閉じこもった。
机の上に置くと、封筒の重さが音もなく空気に沈む。手のひらの汗が紙に移りそうで、何度も拭いてから、丁寧に端を切った。紙の繊維がささやく。取り出した便箋は一枚だけ。そこに、ほんの短い文。
一年後、この場所で待ってる。
日付は、今日。年月日の横に、赤鉛筆のような細い線で、点が打ってある。今日から、ぴったり一年後。
頭の奥で、時間がねじれた。陸は、もういない。去年の、夏の、河川敷。救急車の赤い灯が、遠ざかった夜。私の中で、そこから先の季節の手触りは、うまく思い出せない。秋も冬も、春も、名前は言えるのに、色がない。匂いも、風の温度も。ぜんぶ、そこに落ちてしまったから。
どうして。
冗談? いたずら? 誰かが、彼の名前を使った? 指先が勝手に震え、私は便箋の下に見えた影を目で追った。書かれているのは、それだけじゃなかった。日付の下に、小さな、手描きの地図。駅から河川敷へ向かう道。土手のゆるいカーブ。細い橋。右岸に小さな×印。——最後に花火を見た場所。
うそだ。そう思うのに、身体は頷いていた。
この字を知っている。丸く、ゆっくりと書く癖。数字の四を、開かずに三角で閉じる癖。夏休みの宿題で見慣れた癖。間違えたとき、ぐるぐると塗りつぶす癖。そこにいるのは、確かにあの陸の手だった。
息が浅くなる。体温が首のうしろに集まって、頭が軽い。私はベッドに倒れ込み、布団の匂いのなかで目を閉じた。鼓動が、数えられない音で胸の奥を叩く。
夜、夢を見た。
どこか遠くで花火が上がる。乾いた破裂音のあとに、胸に落ちる低い響き。川辺に灯りがゆれて、人の肩越しに空が見える。振り返る横顔。笑う目尻。汗の光。
「またね」
唇だけが確かにそう動く。声は風に混じり、耳に届く前に溶けた。私は名前を呼ぼうとするのに、喉に鍵がかかったみたいに音が出ない。指先は、誰かの浴衣の裾をつかむはずだった。
目が覚めると、部屋は暗く、風鈴の音が聞こえた。手は、誰のものもつかんでいない。枕の湿り気だけが、夢の現実を確かめる。
私は布団の端から便箋を引き寄せ、もう一度、字をなぞった。皮膚が紙の繊維にひっかかる。指の腹に、陸の線が伝わる。
——一年後、この場所で待ってる。
たったそれだけで、世界が息を吹き返すようで、同時に、呼吸がうまくいかなくなる。
翌日。校舎は蝉時雨の膜のなかで揺れていた。
教室の空調は弱く、日焼けの匂いが混じった空気が重い。黒板に書かれていく文字は、頭の中に入る前に消えた。美月が授業の区切れ目に、私の机を指で軽く弾く。
「どうしたの、朝から変だよ。顔が、なんか、夏」
「夏はみんなこうだよ」
「そうだけど。……ちゃんと寝た?」
私はためらってから、声を落とした。「昨日、手紙が届いたの」
「ラブレター?」
「ううん。——陸から」
美月の目が、一瞬だけ大きくなって、それから眉尻が困った顔に落ちた。「……え、それは、さすがに怖くない? 同じ名前の別人とか、さ」
「字が、陸の字だった。地図も。花火の場所の、×も」
私の声が本気の温度で震えているのを、美月はわかってしまう。彼女は肩で短く息を吐いて、わざと軽く笑った。「じゃあ、行ってみればいいじゃん。ホラー映画も、正体を見るまでがいちばん怖いって言うでしょ」
「行ったら、何か、変わっちゃうかもしれない」
「変わらない方が、怖いこともあるよ」
美月はそれだけ言って、自分の席に戻った。私の机の中には、ノートと教科書と、便箋が一枚。授業の鐘が鳴るたび、めくれたページの隙間から、その白が覗いた。
夕方。家の音は、いつもどおりだった。テレビのニュースは、知らない誰かの事故や、見知らぬ街の雨を読み上げる。母は、夕飯の味噌汁に葱を散らし、私が「うん」とか「ううん」とか答える間に、器を並べる。世界は回っている。私の机の上だけ、止まったまま。
私は椅子を引き、便箋を広げた。日付の横の小さな地図を指で辿る。駅。踏切。駐輪場。土手へ上がる細い階段。川の匂い。草むらの中に、去年の私たちの笑い声が、まだ低く沈んでいる気がした。
「……行かなくちゃ」
声に出してみると、言葉は思ったより軽かった。
怖い。期待。怒り。希望。ぜんぶが胸でぶつかって、火花みたいに散っている。けれど足は、靴を探し、玄関の鍵を取る。母に「コンビニ」とだけ言って外へ出ると、夕気が肌に触れて、体温を持っていく。歩道のアスファルトは昼の熱をまだ少し残している。街路樹の葉は、風に触れて、控えめに音をたてた。
駅前を抜ける。通り過ぎる会話。笑い声。揚げ物の匂い。夏休みの終わりかけの街は、どこか少しだけ疲れている。踏切の警報が、赤いリズムで空気を切る。電車が行ってしまうと、私の影が長く伸びた。
土手へ続く階段は、薄暗く、コオロギの音が濃くなる。上りきった先に、川面が開く。風が一段冷たくて、髪が頬に貼りつく。遠くの街灯が水にひとつずつ縦に溶けて、揺れていた。
×印のついた場所は、すぐに見つかった。
去年の夏、屋台の明かりの向こうで、私たちが花火を見上げたスロープ。舗装の切れ目に、私のスニーカーの模様がまだ残っているような気がして、胸が痛む。私は歩幅を小さくして、呼吸を浅くした。心臓の音が、夜の中で目立ちすぎる。
そこに、誰かが立っていた。
街灯の光が届くぎりぎりの距離。背丈、肩の線、首の角度。
喉が音の出し方を忘れる。足だけが、わずかに前へ出る。
影が、こちらを向いた。
私は、名前を呼ぼうとして、声を落とした。空気がひとつ分、足りない。
陸、——。
唇だけが、かすかに形を作る。
けれど、音にはならなかった。
風が草を渡る。川面が暗く笑う。私の中で、止まっていた夏が、音を立てて動き始める。
私は立ち尽くしたまま、胸の上で震える便箋を掴み直した。日付の赤い点が、街灯の白に浮き上がる。一年後、この場所で待ってる。
今日と一年前と一年後が、細い糸で結ばれて、私をここへ引き寄せている。
影は、もう一歩、こちらに近づいた。
目が、合う。
世界が、静かになる。
蝉の声も、遠くなる。
ただ、風が、ゆっくり私の頬を撫でる。
私は、息を吸った。
そして、ようやく、小さな音で——
「……だれ?」
問いは、夜に溶け、影の胸へ落ちた。
影が、口を開く。
その瞬間までが、永遠のように長かった。
——つづく。
蝉の鳴き声が、網戸越しに部屋へ入ってくる。机の端に落ちた陽は、ノートの罫線を白く照らし、ゆっくりとずれていく。私は制服のまま床に座り、郵便受けで拾ってきた封筒を、しばらく見つめ続けていた。
見慣れない、少し黄ばんだ紙。
裏側ののりは、ところどころ粉を吹くように白く乾いている。切手は古い図柄で、知らない記念の花が描かれていた。宛名は私のフルネーム。ペン先を止める癖のある、見覚えのある字。差出人の欄に、短く、ひとつだけ——陸。
喉の奥で、音が割れたみたいに呼吸が途切れた。
陸。
頭の中でその二文字が、何度も何度も書き換わって、また元に戻る。
「……お母さん」
廊下へ出て、台所に向かって呼んだ。シンクに水が跳ねる音。母が振り返る。
「どうしたの、結衣」
「この……封筒、私宛て。差出人、陸って、書いてある」
母は濡れた手をタオルで拭きながら受け取り、目を細めて、首をかしげた。「え……ほんとだ。……でも、ほら、そういう名字の人もいるし。気のせいじゃない?」
気のせい、で片づけられる言葉が、この封筒の手触りには合わなかった。古びているのに、私の名だけはくっきり新しい。私の胸だけが、やけに騒がしい。
「ごめん、部屋に戻る」
私は封筒を取り返して、自室に閉じこもった。
机の上に置くと、封筒の重さが音もなく空気に沈む。手のひらの汗が紙に移りそうで、何度も拭いてから、丁寧に端を切った。紙の繊維がささやく。取り出した便箋は一枚だけ。そこに、ほんの短い文。
一年後、この場所で待ってる。
日付は、今日。年月日の横に、赤鉛筆のような細い線で、点が打ってある。今日から、ぴったり一年後。
頭の奥で、時間がねじれた。陸は、もういない。去年の、夏の、河川敷。救急車の赤い灯が、遠ざかった夜。私の中で、そこから先の季節の手触りは、うまく思い出せない。秋も冬も、春も、名前は言えるのに、色がない。匂いも、風の温度も。ぜんぶ、そこに落ちてしまったから。
どうして。
冗談? いたずら? 誰かが、彼の名前を使った? 指先が勝手に震え、私は便箋の下に見えた影を目で追った。書かれているのは、それだけじゃなかった。日付の下に、小さな、手描きの地図。駅から河川敷へ向かう道。土手のゆるいカーブ。細い橋。右岸に小さな×印。——最後に花火を見た場所。
うそだ。そう思うのに、身体は頷いていた。
この字を知っている。丸く、ゆっくりと書く癖。数字の四を、開かずに三角で閉じる癖。夏休みの宿題で見慣れた癖。間違えたとき、ぐるぐると塗りつぶす癖。そこにいるのは、確かにあの陸の手だった。
息が浅くなる。体温が首のうしろに集まって、頭が軽い。私はベッドに倒れ込み、布団の匂いのなかで目を閉じた。鼓動が、数えられない音で胸の奥を叩く。
夜、夢を見た。
どこか遠くで花火が上がる。乾いた破裂音のあとに、胸に落ちる低い響き。川辺に灯りがゆれて、人の肩越しに空が見える。振り返る横顔。笑う目尻。汗の光。
「またね」
唇だけが確かにそう動く。声は風に混じり、耳に届く前に溶けた。私は名前を呼ぼうとするのに、喉に鍵がかかったみたいに音が出ない。指先は、誰かの浴衣の裾をつかむはずだった。
目が覚めると、部屋は暗く、風鈴の音が聞こえた。手は、誰のものもつかんでいない。枕の湿り気だけが、夢の現実を確かめる。
私は布団の端から便箋を引き寄せ、もう一度、字をなぞった。皮膚が紙の繊維にひっかかる。指の腹に、陸の線が伝わる。
——一年後、この場所で待ってる。
たったそれだけで、世界が息を吹き返すようで、同時に、呼吸がうまくいかなくなる。
翌日。校舎は蝉時雨の膜のなかで揺れていた。
教室の空調は弱く、日焼けの匂いが混じった空気が重い。黒板に書かれていく文字は、頭の中に入る前に消えた。美月が授業の区切れ目に、私の机を指で軽く弾く。
「どうしたの、朝から変だよ。顔が、なんか、夏」
「夏はみんなこうだよ」
「そうだけど。……ちゃんと寝た?」
私はためらってから、声を落とした。「昨日、手紙が届いたの」
「ラブレター?」
「ううん。——陸から」
美月の目が、一瞬だけ大きくなって、それから眉尻が困った顔に落ちた。「……え、それは、さすがに怖くない? 同じ名前の別人とか、さ」
「字が、陸の字だった。地図も。花火の場所の、×も」
私の声が本気の温度で震えているのを、美月はわかってしまう。彼女は肩で短く息を吐いて、わざと軽く笑った。「じゃあ、行ってみればいいじゃん。ホラー映画も、正体を見るまでがいちばん怖いって言うでしょ」
「行ったら、何か、変わっちゃうかもしれない」
「変わらない方が、怖いこともあるよ」
美月はそれだけ言って、自分の席に戻った。私の机の中には、ノートと教科書と、便箋が一枚。授業の鐘が鳴るたび、めくれたページの隙間から、その白が覗いた。
夕方。家の音は、いつもどおりだった。テレビのニュースは、知らない誰かの事故や、見知らぬ街の雨を読み上げる。母は、夕飯の味噌汁に葱を散らし、私が「うん」とか「ううん」とか答える間に、器を並べる。世界は回っている。私の机の上だけ、止まったまま。
私は椅子を引き、便箋を広げた。日付の横の小さな地図を指で辿る。駅。踏切。駐輪場。土手へ上がる細い階段。川の匂い。草むらの中に、去年の私たちの笑い声が、まだ低く沈んでいる気がした。
「……行かなくちゃ」
声に出してみると、言葉は思ったより軽かった。
怖い。期待。怒り。希望。ぜんぶが胸でぶつかって、火花みたいに散っている。けれど足は、靴を探し、玄関の鍵を取る。母に「コンビニ」とだけ言って外へ出ると、夕気が肌に触れて、体温を持っていく。歩道のアスファルトは昼の熱をまだ少し残している。街路樹の葉は、風に触れて、控えめに音をたてた。
駅前を抜ける。通り過ぎる会話。笑い声。揚げ物の匂い。夏休みの終わりかけの街は、どこか少しだけ疲れている。踏切の警報が、赤いリズムで空気を切る。電車が行ってしまうと、私の影が長く伸びた。
土手へ続く階段は、薄暗く、コオロギの音が濃くなる。上りきった先に、川面が開く。風が一段冷たくて、髪が頬に貼りつく。遠くの街灯が水にひとつずつ縦に溶けて、揺れていた。
×印のついた場所は、すぐに見つかった。
去年の夏、屋台の明かりの向こうで、私たちが花火を見上げたスロープ。舗装の切れ目に、私のスニーカーの模様がまだ残っているような気がして、胸が痛む。私は歩幅を小さくして、呼吸を浅くした。心臓の音が、夜の中で目立ちすぎる。
そこに、誰かが立っていた。
街灯の光が届くぎりぎりの距離。背丈、肩の線、首の角度。
喉が音の出し方を忘れる。足だけが、わずかに前へ出る。
影が、こちらを向いた。
私は、名前を呼ぼうとして、声を落とした。空気がひとつ分、足りない。
陸、——。
唇だけが、かすかに形を作る。
けれど、音にはならなかった。
風が草を渡る。川面が暗く笑う。私の中で、止まっていた夏が、音を立てて動き始める。
私は立ち尽くしたまま、胸の上で震える便箋を掴み直した。日付の赤い点が、街灯の白に浮き上がる。一年後、この場所で待ってる。
今日と一年前と一年後が、細い糸で結ばれて、私をここへ引き寄せている。
影は、もう一歩、こちらに近づいた。
目が、合う。
世界が、静かになる。
蝉の声も、遠くなる。
ただ、風が、ゆっくり私の頬を撫でる。
私は、息を吸った。
そして、ようやく、小さな音で——
「……だれ?」
問いは、夜に溶け、影の胸へ落ちた。
影が、口を開く。
その瞬間までが、永遠のように長かった。
——つづく。



