白石の列は背丈のそろった子どもたちのように、春の風に揃ってかすかにうなずいていた。雪の季節に身を固くしていた苔は、石の隙間で薄緑の舌を出し、刈り揃えられた雑草が陽に乾いて、踏まれればぱりりと軽い音を立てる。灰の渡しの水面は、冬ほど重たくはないが、まだ春の気まぐれを映している。先週までの雨を吸ってふくらんだ水位は、きっちり印の縄の中で落ち着き、風が吹くたびに波紋が約束どおりの円を描いた。
王はその水音を背に、石畦の途切れ目から遠くを眺めた。目当てはひとつ。無色の旗の向こう、灰の渡しに姿を見せるはずの小さな隊列だ。あの鏡の光が、春の空に返ってくるのを。
最初の閃きは午の少し前だった。狼煙番の少年が塔の上で小さく身体を起こし、鏡を一度傾ける。灰の渡しのこちら側で見張っていた市兵が合図を返す。十呼吸ほど置いて、対岸の陰から、鈍い金の縁どりを持つ小さな箱が二つ、陽の下へ押し出される。前回と同じではない。今回は四角が二つ。王は横に立っていた楓麟をちらと見る。楓麟は無言で頷いた。
「来た」
無色の旗の下、凛耀が現れた。初めて会った春市のときよりも痩せている。頬の影は深く、顎にうっすらと剃り残しが浮いている。けれど、その眼は前よりも澄んでいた。消耗の澄さとでも言えばいい。削ぎ取られたものの分だけ、見えるものが増えた眼。
彼は渡しの中央で荷を下ろし、深く一礼した。背後には小さな護衛が二人、さらに木箱を抱えた若者が二人。若者のひとりは右足を少し引きずっていた。冬の雪労で膝を痛めたのだろう。楓麟は一瞬だけ風向きを確かめ、旗の位置を半歩ずらした。反射の角度を整えるためだ。
「白風の王」
凛耀が口を開く。声は乾いているが、言葉は湿りを持っていた。
「停戦を、『歳の約』に。境界の監視を、『市兵の共同隊』に。仮板制度を貴国に倣い、剥がした名をかならず仮板に残すことを、我が国の法に」
彼は用件を列ね、押し付けるような語尾を使わなかった。交渉というより整備——王はそう感じた。冬の間、外側の火が内側の板を舐めた。残ったのは、燃え残りではなく、灰の上に立つ新しい杭の位置だった。
評議はその日の午後に開かれた。外交卓の上には、春の湿りが指紋に移る程度に磨かれた三色の紐——赤・金・灰——が、今は一本の灰に束ねられて乗っている。凛耀が並べたのと同じ木箱が、卓の端に置かれる。箱の蓋を開けると、鏡の背に雲と風の文様。紅月の工房で昔から作られてきた意匠だが、この一年で磨きの癖が僅かに変わっている。背の刻みが浅くなり、縁取りが薄くなった。物資の事情が透けて見える細部だ。
「往来の安定は、市にとって益です」
商務が真っ先に口を開いた。目の下に青い影があるが、声は弾んでいる。春の市は冬より細い糸で始まっている。その糸を太くするのに、歳の約は利く。工営は橋板の補修計画に指を置き、木の節の位置と、どちら側の杭が古いかを確かめる。
「仮板の運用が、不履行のときは?」
法務の新任代行は慎重だった。冬の間、彼女が何度も板の前で肩を竦める姿を王は見ている。法律は剣ではない。けれど、ときに剣の代わりに立って、人の腹の影を受ける役目を持つ。
「光で監査する」
王は鏡に指を置き、短く言った。
「合図に応じないときは、板の端に空白を増やし、空白を“告知”する。恥ではなく、記録に」
空白の札は、冬にこの国の内側で可視化されてきた。名の無さを罰するのではなく、数える。数えることで、無さがあることを記録する。空白に仕事の枠を割り当て、空白を減らす方向を集める。方法はすでに効いている。外にも同じ視線を投げるだけだ。
楓麟は風を聞き、窓の外を見た。
「南南東。夕方にひと雨」
「橋板の泥が流れますね」
工営の若い官が頷く。「共同補修で刻む印の位置は、明日がいい」
「明日なら、乾く前」
藍珠が短く言い、腰に下げた剣の鞘に視線を落とす。鞘は今日も開かれない。開かれないはずのものだ。春は剣の列を細く、という彼の計画の文言が、そのまま教室の黒板に残っている。剣は今、象徴としてしか置かない。象徴を象徴のままに保つのが、難しい仕事だ。
春の返還式は白石列の中央で行われた。無色の旗の陰に、封印札の台が据えられる。台の上には、冬から春にかけて封じられてきた短剣——刃先の鈍いもの、柄の欠けたもの、鍔だけ光っているもの——が重く積まれている。鍛冶の槌の音が、冬の清め場とは違う高さで響いた。刃は釘に、畦板の留め具に、井戸蓋の蝶番に変えられていく。金色の火花は小さく、音は抑えめに。威勢ではなく、手順の音で。
藍珠は一振りを自ら台に置き、刃を撫でた。自分の剣ではない。冬に封じられて春まで待った、緩衝の野で拾われた短剣だ。封印札には、持ち主の名の代わりに「炎を見た」と小さく朱が回っている。
「剣はここで終わる」
藍珠は告げる。声はよく通るが、強くはない。
「終わるために、ここにあった」
歓声は起きなかった。代わりに、深い息が方々で吐かれた。人は、終わりごとに歓声を上げるほど強くはない。この一年で、王も藍珠も楓麟もそれを知った。終わりを終わりとして受け入れるには、息がいる。長い息が。
楓麟は旗の端を指で整え、狼煙番の少年が鏡を持つ位置を指し示した。少年は昼の光を受けて、反射を灰の渡しへ送る。凛耀が胸に手を当て、首を垂れる。彼が連れてきた若者たちは、台の端でじっと立ち、鍛冶の槌が刃から蝶番を生む軌道を凝視している。世界が少しずつ別の形に移るところを、初めて目で見る顔だ。
「光は刃より早い」
王は言って、凛耀から差し出された鏡を受け取る。これで四枚。春、夏、秋、冬。季節ごとに光を交わすための鏡だ。鏡は剣と違って、使っても消耗しない。欠けても、角度を換えれば光は跳ね返る。凛耀は「季節ごとに」と言った。歳の約の中心に、光の往還を据える。それは多分、剣をやめたい側が考えた、隠しようのない策だ。
王は壇に立った。長くは語らない。彼が長く語らないとき、人の耳は逆に開く。
「この一年、我らは剣を抜かずに、秤と板と鏡と、鍬と糸で国を守った」
言葉の間に、遠くの水車の音が挟まる。冬の藁の焼け跡に若草が立ち上がる匂いが、風に運ばれてくる。
「剣を抜かないことは、臆病ではない。重いことを、分けて持つ方法だ」
王は秤の皿を指先で軽く叩いた。皿はほんの僅かに揺れ、すぐに安定する。
「——名を消さない。そのために、板を残す。嘘を残さない。そのために、誤りを残す。怒りを残さない。そのために、秤を残す。境界を消さない。そのために、無色の旗と光を残す」
群衆の輪の中に、冬に紅月の小旗を差し出して泣いていた少年がいた。彼はいま、冬板に刻まれた自分の名の隣の朱丸を指でなぞり、笑っていた。笑いはまだ不器用だが、目の奥に宿がある。宿は、冬じゅう焔番の前で見てきた火の色に近い。
かつて名板を切り裂いた男は、式の端で銅縁を磨いていた。彼は最後まで縁を光らせ、針を通し、板の影に退く。群衆の立つ場所からは彼の顔は見えない。板の縁だけが、細い光を跳ね返している。
狼煙番の少年は教室の仲間を集め、鏡を掲げた。塔へ反射の合図を送る。返ってくる光は点で、点はまた別の点へ渡される。合図の文法は冬の間に子どもたちの身体に入っている。言葉の前に風がある。そして光は言葉より速い。
狐火の書生は胸に『名の本(仮題)』の最終稿を抱え、誰よりも落ち着かない顔で周囲を見回していた。式が終わったら広場の一角で読み聞かせをする予定だ。名の列と秤と鏡と布と針——彼が絵とことばで繋ぎ直した一年の記憶。冬に描いた「狐火の本」と同じ調子で、今度は名の本。子どもは笑い、大人は笑いながら黙るだろう。
式ののち、評議は短く締められた。歳の約に関わる要点は三つ。共同隊の編成、鏡の監査の文言、仮板運用の細則。共同隊は市兵から十、紅月から十。袖は無色の縁取りをつけ、帳簿は双方の筆で写す。鏡の監査は、季節の光の儀に正式に組み込む。応じない場合は板の端に空白を増やし、その空白を広場で読み上げる。恥ではなく、呼びかけとして。仮板は、剥がした名を貼る板の位置を「本板の外縁」に固定し、秋分に集約して本板へ戻す。ただし、「外から」と朱で注記する。外から来た、という事実は消さない。出入口の記憶は、道の記憶だ。
儀の締め括りは、名の列の読み上げだった。名守たちが板の前に並び、ひとつずつ名を読み上げる。暗線は薄くなっている。薄線は多くが朱丸に変わった。点線は“探しの札”ごと外縁の掲示へ移されている。冬じゅう、探しの札の前で足を止めていた人たちが、春の湿りの中で別の時間を持ち始めた。王は一枚の空白札に指を置き、声を落とした。
「ここに、まだ来ぬ名がある。空白を恥とせず、呼びかけの形として残す。——いつか、誰かが帰る道になるから」
言葉のあと、白石列を渡る風が微かに鳴った。無色の旗の縁が光を拾ってきらりと跳ねる。どこからともなく「名を残せ!」と声が上がり、別の場所から「剣を抜くな!」と応じる。やがてそれは短い合唱になった。「板を守れ!」「秤を見よ!」。王は頷き、朱筆を納める。拍手の代わりに、息が一斉に吐かれた。
凛耀は最後に鏡を差し出した。
「これで四枚。季節ごとに、光を交わそう」
「光は刃より早い」
王は短く笑い、鏡を狼煙番の少年へ渡した。楓麟は耳を動かし、空の匂いを嗅いだ。
「穀の匂い。夏は穏やか、秋は実る」
「剣は箱へ」
藍珠は言って、腰から外した剣を木箱に納め、封をした。鞘の革は、この一年で何度も雨に濡れ、何度も乾いた。柔らかくなっている。柔らかさは、剣の居場所を剣から遠くする。遠い剣は、よく効く。
◇
夕刻、灰の渡しの水面に鏡の反射が細く揺れ、塔の上から返される光が白石列の銅縁に点々と跳ねていた。日が西に傾くと、銅の縁の光は薄い赤味を帯びる。冬に縫った縫い目は、春の光で影になり、板の面に馴染む。傷は消えない。見え方が変わるだけだ。
王・楓麟・藍珠は肩を並べ、遠い畑の地図を思い浮かべていた。秋に描いた「苗床の地図」は、今や実物の畦と重なっている。砂時計は新しい仕事へ回され、清め場の灰は春の鍬の柄に染み込み、冬の白旗は物置の梁に吊られて、必要なときにだけ降ろされる。
「歳の約、光の監査、仮板の法。他国も同じ線を引けるか」
藍珠が言った。問いではあるが、挑みではない。確かめるような声だった。
「光は、国境を選ばない」
楓麟が答える。「風も」
「だから、光で縛る」
王は静かに言った。「剣で縛るより、ほどけにくい」
「ほどけにくいものは、結び直しにくい」
「結び直す時は、針で」
三人は短く笑った。笑いは、この一年で何度も国の形を軽くした。軽さは逃避ではなく、分配の方法だ。重さを分け合うために、人は笑う。
広場の端では、狐火の書生が小さな輪を作り、『名の本』の一節を読み上げていた。「嘘は消さない、誤りは残す」。子どもの笑いが起き、母親の肩が揺れ、老女の目尻の皺が深くなる。緩衝の野から来た若者は、背筋を伸ばして立ち、板の影で鏡の角度を真似していた。かつて刃を投げつけた手が、鏡を支える角度を覚えようとしている。人は変わる。その言葉を安っぽくしないために、春は手順を必要とした。手順は、刃より遅い。遅さは、消えにくい。
式が解け、群衆が散り始めると、王は名守たちと短い会合を持った。「名の学校」での「春の刻」の計画を確認し、名板の布を替える順番を決め、仮板の外縁が空白になったことを告げる。空白は残す。残して、数える。年に一度、空白を読み上げる儀をする。それは、名を道具にしないための儀でもある。
凛耀は帰り支度の途中で、王の前に歩み出た。彼の背後では、若者が例の木箱を抱え、眼でこちらの鏡の枚数を数えている。四枚。春、夏、秋、冬。それぞれ異なる光の刃の角度を持っている。季節ごとに、返す光の高さが違う。返す側の地面の硬さも違う。冬は硬く、春は柔らかい。柔らかい地面は、足音を吸う。足音が消える分、光の音が聞こえる。
「白風の王」
凛耀は言った。
「貴国の“空白の告知”は、我らの板を救うだろう。恥ではなく記録に。……我らは、剥がした名を仮板に残すことを、法にした」
「法だけでは足りない」
王は鏡を指先で押さえ、返した。
「読む目と、支える手が要る」
「そのために、教室がある」
「そうだ」
「我らも、作る」
凛耀の眼が、ほんの少しだけ湿った。疲れではない。疲れのさらに奥にあるものだ。彼は短く頭を下げ、言葉を継いだ。
「剣を抜かずに、この冬を越えた。——私情を言えば、羨ましい」
「そなたが剣を納める日が来る」
「来る」
凛耀ははっきりと言った。
「だから、光を交わし続けたい」
「交わす。歳の約が続く限り」
凛耀は去った。無色の旗の陰をくぐり、灰の渡しの縄印の手前で一度だけ振り返った。王は頷き、楓麟は風を読み、藍珠は鞘に触れた。少年は鏡を持ち直し、夕陽の端を拾って塔へ送る。塔から返ってきた光が、白石列の銅縁で何度も跳ねた。
名板は風を受けながら立っている。縫い目は細い陰影となって面に馴染む。冬に洗われつくした板の肌は、春の手で少し柔らかさを取り戻した。柔らかい板は、針を通しやすい。通しやすい針は、結び直しを容易にする。結び直しは、生きている印だ。
王は最後にひとり、板の前に立った。朱筆は納めた。かわりに、素手で板の端を押さえる。木の温度が指先にある。冬よりも温かい。掌の中央で、紙の呼吸がわかる。紙は生きている。生きているから、書ける。書けるから、消せない。「名を残す王」と呼ばれることに、王は意味を見ていなかった。呼び名は、彼個人のためにあるのではない。板のためにある。板が、名を残し続けるために、呼び名は一度だけ役に立つ。それは、人の口を板へ向ける。口を板へ向けると、目も板へ向く。目が板に向けば、手が板に触れる。手が触れれば、板は続く。
王は目を閉じ、短く祈った。祈りは、誰へのものでもない。春の湿りが夏に乾き、秋に重くなり、冬にまた硬くなる。その輪のどこでも、名が残るように。剣を抜かずに、秤が釣り合い、鏡が光り、鍬が土を起こし、糸が縫い目を守るように。
「行こう」
王は言った。楓麟が頷き、藍珠が鞘に触れる。三人は肩を並べて歩き出す。遠い畑の地図を思い浮かべながら。畑の線は、地図の線ではなく、人の足が踏んでできる線だ。足が続けば、線は消えない。線が消えない限り、名は残る。
夕暮れが深まる。灰の渡しの水面に鏡の反射が細く揺れ、塔の上から返される光が白石列の銅縁に点々と跳ねる。板の紙は風に鳴り、縫い目は沈黙する。銅縁は薄く赤く、かすかに熱を持っている。誰もいない広場に、秤の柱が影を落とす。影は裂け目を抱えたまま真っ直ぐで、夜の最初の星がその上に落ちた。星は刃ではない。刃の形をした光でもない。ただの点だ。点は、次の点へ渡される。渡されるかぎり、線になる。
季節の記録はここで幕を閉じる。けれど板の紙は、明日の名を書く余白を、たしかに残している。余白は、国の呼吸だ。呼吸は、名の居場所だ。春の夜気が白くほどけ、無色の旗が音を吸い、銅の縁がほんのわずかに光る。王はその光を見て、静かに目を細めた。長い息を吐き、また短い息を吸う。その呼吸の間に、次の名が生まれる。呼ばれる前から、名は、そこにある。そう信じられるだけの、板の幅と秤の柱の太さを、彼らはこの一年で手に入れたのだ。
王はその水音を背に、石畦の途切れ目から遠くを眺めた。目当てはひとつ。無色の旗の向こう、灰の渡しに姿を見せるはずの小さな隊列だ。あの鏡の光が、春の空に返ってくるのを。
最初の閃きは午の少し前だった。狼煙番の少年が塔の上で小さく身体を起こし、鏡を一度傾ける。灰の渡しのこちら側で見張っていた市兵が合図を返す。十呼吸ほど置いて、対岸の陰から、鈍い金の縁どりを持つ小さな箱が二つ、陽の下へ押し出される。前回と同じではない。今回は四角が二つ。王は横に立っていた楓麟をちらと見る。楓麟は無言で頷いた。
「来た」
無色の旗の下、凛耀が現れた。初めて会った春市のときよりも痩せている。頬の影は深く、顎にうっすらと剃り残しが浮いている。けれど、その眼は前よりも澄んでいた。消耗の澄さとでも言えばいい。削ぎ取られたものの分だけ、見えるものが増えた眼。
彼は渡しの中央で荷を下ろし、深く一礼した。背後には小さな護衛が二人、さらに木箱を抱えた若者が二人。若者のひとりは右足を少し引きずっていた。冬の雪労で膝を痛めたのだろう。楓麟は一瞬だけ風向きを確かめ、旗の位置を半歩ずらした。反射の角度を整えるためだ。
「白風の王」
凛耀が口を開く。声は乾いているが、言葉は湿りを持っていた。
「停戦を、『歳の約』に。境界の監視を、『市兵の共同隊』に。仮板制度を貴国に倣い、剥がした名をかならず仮板に残すことを、我が国の法に」
彼は用件を列ね、押し付けるような語尾を使わなかった。交渉というより整備——王はそう感じた。冬の間、外側の火が内側の板を舐めた。残ったのは、燃え残りではなく、灰の上に立つ新しい杭の位置だった。
評議はその日の午後に開かれた。外交卓の上には、春の湿りが指紋に移る程度に磨かれた三色の紐——赤・金・灰——が、今は一本の灰に束ねられて乗っている。凛耀が並べたのと同じ木箱が、卓の端に置かれる。箱の蓋を開けると、鏡の背に雲と風の文様。紅月の工房で昔から作られてきた意匠だが、この一年で磨きの癖が僅かに変わっている。背の刻みが浅くなり、縁取りが薄くなった。物資の事情が透けて見える細部だ。
「往来の安定は、市にとって益です」
商務が真っ先に口を開いた。目の下に青い影があるが、声は弾んでいる。春の市は冬より細い糸で始まっている。その糸を太くするのに、歳の約は利く。工営は橋板の補修計画に指を置き、木の節の位置と、どちら側の杭が古いかを確かめる。
「仮板の運用が、不履行のときは?」
法務の新任代行は慎重だった。冬の間、彼女が何度も板の前で肩を竦める姿を王は見ている。法律は剣ではない。けれど、ときに剣の代わりに立って、人の腹の影を受ける役目を持つ。
「光で監査する」
王は鏡に指を置き、短く言った。
「合図に応じないときは、板の端に空白を増やし、空白を“告知”する。恥ではなく、記録に」
空白の札は、冬にこの国の内側で可視化されてきた。名の無さを罰するのではなく、数える。数えることで、無さがあることを記録する。空白に仕事の枠を割り当て、空白を減らす方向を集める。方法はすでに効いている。外にも同じ視線を投げるだけだ。
楓麟は風を聞き、窓の外を見た。
「南南東。夕方にひと雨」
「橋板の泥が流れますね」
工営の若い官が頷く。「共同補修で刻む印の位置は、明日がいい」
「明日なら、乾く前」
藍珠が短く言い、腰に下げた剣の鞘に視線を落とす。鞘は今日も開かれない。開かれないはずのものだ。春は剣の列を細く、という彼の計画の文言が、そのまま教室の黒板に残っている。剣は今、象徴としてしか置かない。象徴を象徴のままに保つのが、難しい仕事だ。
春の返還式は白石列の中央で行われた。無色の旗の陰に、封印札の台が据えられる。台の上には、冬から春にかけて封じられてきた短剣——刃先の鈍いもの、柄の欠けたもの、鍔だけ光っているもの——が重く積まれている。鍛冶の槌の音が、冬の清め場とは違う高さで響いた。刃は釘に、畦板の留め具に、井戸蓋の蝶番に変えられていく。金色の火花は小さく、音は抑えめに。威勢ではなく、手順の音で。
藍珠は一振りを自ら台に置き、刃を撫でた。自分の剣ではない。冬に封じられて春まで待った、緩衝の野で拾われた短剣だ。封印札には、持ち主の名の代わりに「炎を見た」と小さく朱が回っている。
「剣はここで終わる」
藍珠は告げる。声はよく通るが、強くはない。
「終わるために、ここにあった」
歓声は起きなかった。代わりに、深い息が方々で吐かれた。人は、終わりごとに歓声を上げるほど強くはない。この一年で、王も藍珠も楓麟もそれを知った。終わりを終わりとして受け入れるには、息がいる。長い息が。
楓麟は旗の端を指で整え、狼煙番の少年が鏡を持つ位置を指し示した。少年は昼の光を受けて、反射を灰の渡しへ送る。凛耀が胸に手を当て、首を垂れる。彼が連れてきた若者たちは、台の端でじっと立ち、鍛冶の槌が刃から蝶番を生む軌道を凝視している。世界が少しずつ別の形に移るところを、初めて目で見る顔だ。
「光は刃より早い」
王は言って、凛耀から差し出された鏡を受け取る。これで四枚。春、夏、秋、冬。季節ごとに光を交わすための鏡だ。鏡は剣と違って、使っても消耗しない。欠けても、角度を換えれば光は跳ね返る。凛耀は「季節ごとに」と言った。歳の約の中心に、光の往還を据える。それは多分、剣をやめたい側が考えた、隠しようのない策だ。
王は壇に立った。長くは語らない。彼が長く語らないとき、人の耳は逆に開く。
「この一年、我らは剣を抜かずに、秤と板と鏡と、鍬と糸で国を守った」
言葉の間に、遠くの水車の音が挟まる。冬の藁の焼け跡に若草が立ち上がる匂いが、風に運ばれてくる。
「剣を抜かないことは、臆病ではない。重いことを、分けて持つ方法だ」
王は秤の皿を指先で軽く叩いた。皿はほんの僅かに揺れ、すぐに安定する。
「——名を消さない。そのために、板を残す。嘘を残さない。そのために、誤りを残す。怒りを残さない。そのために、秤を残す。境界を消さない。そのために、無色の旗と光を残す」
群衆の輪の中に、冬に紅月の小旗を差し出して泣いていた少年がいた。彼はいま、冬板に刻まれた自分の名の隣の朱丸を指でなぞり、笑っていた。笑いはまだ不器用だが、目の奥に宿がある。宿は、冬じゅう焔番の前で見てきた火の色に近い。
かつて名板を切り裂いた男は、式の端で銅縁を磨いていた。彼は最後まで縁を光らせ、針を通し、板の影に退く。群衆の立つ場所からは彼の顔は見えない。板の縁だけが、細い光を跳ね返している。
狼煙番の少年は教室の仲間を集め、鏡を掲げた。塔へ反射の合図を送る。返ってくる光は点で、点はまた別の点へ渡される。合図の文法は冬の間に子どもたちの身体に入っている。言葉の前に風がある。そして光は言葉より速い。
狐火の書生は胸に『名の本(仮題)』の最終稿を抱え、誰よりも落ち着かない顔で周囲を見回していた。式が終わったら広場の一角で読み聞かせをする予定だ。名の列と秤と鏡と布と針——彼が絵とことばで繋ぎ直した一年の記憶。冬に描いた「狐火の本」と同じ調子で、今度は名の本。子どもは笑い、大人は笑いながら黙るだろう。
式ののち、評議は短く締められた。歳の約に関わる要点は三つ。共同隊の編成、鏡の監査の文言、仮板運用の細則。共同隊は市兵から十、紅月から十。袖は無色の縁取りをつけ、帳簿は双方の筆で写す。鏡の監査は、季節の光の儀に正式に組み込む。応じない場合は板の端に空白を増やし、その空白を広場で読み上げる。恥ではなく、呼びかけとして。仮板は、剥がした名を貼る板の位置を「本板の外縁」に固定し、秋分に集約して本板へ戻す。ただし、「外から」と朱で注記する。外から来た、という事実は消さない。出入口の記憶は、道の記憶だ。
儀の締め括りは、名の列の読み上げだった。名守たちが板の前に並び、ひとつずつ名を読み上げる。暗線は薄くなっている。薄線は多くが朱丸に変わった。点線は“探しの札”ごと外縁の掲示へ移されている。冬じゅう、探しの札の前で足を止めていた人たちが、春の湿りの中で別の時間を持ち始めた。王は一枚の空白札に指を置き、声を落とした。
「ここに、まだ来ぬ名がある。空白を恥とせず、呼びかけの形として残す。——いつか、誰かが帰る道になるから」
言葉のあと、白石列を渡る風が微かに鳴った。無色の旗の縁が光を拾ってきらりと跳ねる。どこからともなく「名を残せ!」と声が上がり、別の場所から「剣を抜くな!」と応じる。やがてそれは短い合唱になった。「板を守れ!」「秤を見よ!」。王は頷き、朱筆を納める。拍手の代わりに、息が一斉に吐かれた。
凛耀は最後に鏡を差し出した。
「これで四枚。季節ごとに、光を交わそう」
「光は刃より早い」
王は短く笑い、鏡を狼煙番の少年へ渡した。楓麟は耳を動かし、空の匂いを嗅いだ。
「穀の匂い。夏は穏やか、秋は実る」
「剣は箱へ」
藍珠は言って、腰から外した剣を木箱に納め、封をした。鞘の革は、この一年で何度も雨に濡れ、何度も乾いた。柔らかくなっている。柔らかさは、剣の居場所を剣から遠くする。遠い剣は、よく効く。
◇
夕刻、灰の渡しの水面に鏡の反射が細く揺れ、塔の上から返される光が白石列の銅縁に点々と跳ねていた。日が西に傾くと、銅の縁の光は薄い赤味を帯びる。冬に縫った縫い目は、春の光で影になり、板の面に馴染む。傷は消えない。見え方が変わるだけだ。
王・楓麟・藍珠は肩を並べ、遠い畑の地図を思い浮かべていた。秋に描いた「苗床の地図」は、今や実物の畦と重なっている。砂時計は新しい仕事へ回され、清め場の灰は春の鍬の柄に染み込み、冬の白旗は物置の梁に吊られて、必要なときにだけ降ろされる。
「歳の約、光の監査、仮板の法。他国も同じ線を引けるか」
藍珠が言った。問いではあるが、挑みではない。確かめるような声だった。
「光は、国境を選ばない」
楓麟が答える。「風も」
「だから、光で縛る」
王は静かに言った。「剣で縛るより、ほどけにくい」
「ほどけにくいものは、結び直しにくい」
「結び直す時は、針で」
三人は短く笑った。笑いは、この一年で何度も国の形を軽くした。軽さは逃避ではなく、分配の方法だ。重さを分け合うために、人は笑う。
広場の端では、狐火の書生が小さな輪を作り、『名の本』の一節を読み上げていた。「嘘は消さない、誤りは残す」。子どもの笑いが起き、母親の肩が揺れ、老女の目尻の皺が深くなる。緩衝の野から来た若者は、背筋を伸ばして立ち、板の影で鏡の角度を真似していた。かつて刃を投げつけた手が、鏡を支える角度を覚えようとしている。人は変わる。その言葉を安っぽくしないために、春は手順を必要とした。手順は、刃より遅い。遅さは、消えにくい。
式が解け、群衆が散り始めると、王は名守たちと短い会合を持った。「名の学校」での「春の刻」の計画を確認し、名板の布を替える順番を決め、仮板の外縁が空白になったことを告げる。空白は残す。残して、数える。年に一度、空白を読み上げる儀をする。それは、名を道具にしないための儀でもある。
凛耀は帰り支度の途中で、王の前に歩み出た。彼の背後では、若者が例の木箱を抱え、眼でこちらの鏡の枚数を数えている。四枚。春、夏、秋、冬。それぞれ異なる光の刃の角度を持っている。季節ごとに、返す光の高さが違う。返す側の地面の硬さも違う。冬は硬く、春は柔らかい。柔らかい地面は、足音を吸う。足音が消える分、光の音が聞こえる。
「白風の王」
凛耀は言った。
「貴国の“空白の告知”は、我らの板を救うだろう。恥ではなく記録に。……我らは、剥がした名を仮板に残すことを、法にした」
「法だけでは足りない」
王は鏡を指先で押さえ、返した。
「読む目と、支える手が要る」
「そのために、教室がある」
「そうだ」
「我らも、作る」
凛耀の眼が、ほんの少しだけ湿った。疲れではない。疲れのさらに奥にあるものだ。彼は短く頭を下げ、言葉を継いだ。
「剣を抜かずに、この冬を越えた。——私情を言えば、羨ましい」
「そなたが剣を納める日が来る」
「来る」
凛耀ははっきりと言った。
「だから、光を交わし続けたい」
「交わす。歳の約が続く限り」
凛耀は去った。無色の旗の陰をくぐり、灰の渡しの縄印の手前で一度だけ振り返った。王は頷き、楓麟は風を読み、藍珠は鞘に触れた。少年は鏡を持ち直し、夕陽の端を拾って塔へ送る。塔から返ってきた光が、白石列の銅縁で何度も跳ねた。
名板は風を受けながら立っている。縫い目は細い陰影となって面に馴染む。冬に洗われつくした板の肌は、春の手で少し柔らかさを取り戻した。柔らかい板は、針を通しやすい。通しやすい針は、結び直しを容易にする。結び直しは、生きている印だ。
王は最後にひとり、板の前に立った。朱筆は納めた。かわりに、素手で板の端を押さえる。木の温度が指先にある。冬よりも温かい。掌の中央で、紙の呼吸がわかる。紙は生きている。生きているから、書ける。書けるから、消せない。「名を残す王」と呼ばれることに、王は意味を見ていなかった。呼び名は、彼個人のためにあるのではない。板のためにある。板が、名を残し続けるために、呼び名は一度だけ役に立つ。それは、人の口を板へ向ける。口を板へ向けると、目も板へ向く。目が板に向けば、手が板に触れる。手が触れれば、板は続く。
王は目を閉じ、短く祈った。祈りは、誰へのものでもない。春の湿りが夏に乾き、秋に重くなり、冬にまた硬くなる。その輪のどこでも、名が残るように。剣を抜かずに、秤が釣り合い、鏡が光り、鍬が土を起こし、糸が縫い目を守るように。
「行こう」
王は言った。楓麟が頷き、藍珠が鞘に触れる。三人は肩を並べて歩き出す。遠い畑の地図を思い浮かべながら。畑の線は、地図の線ではなく、人の足が踏んでできる線だ。足が続けば、線は消えない。線が消えない限り、名は残る。
夕暮れが深まる。灰の渡しの水面に鏡の反射が細く揺れ、塔の上から返される光が白石列の銅縁に点々と跳ねる。板の紙は風に鳴り、縫い目は沈黙する。銅縁は薄く赤く、かすかに熱を持っている。誰もいない広場に、秤の柱が影を落とす。影は裂け目を抱えたまま真っ直ぐで、夜の最初の星がその上に落ちた。星は刃ではない。刃の形をした光でもない。ただの点だ。点は、次の点へ渡される。渡されるかぎり、線になる。
季節の記録はここで幕を閉じる。けれど板の紙は、明日の名を書く余白を、たしかに残している。余白は、国の呼吸だ。呼吸は、名の居場所だ。春の夜気が白くほどけ、無色の旗が音を吸い、銅の縁がほんのわずかに光る。王はその光を見て、静かに目を細めた。長い息を吐き、また短い息を吸う。その呼吸の間に、次の名が生まれる。呼ばれる前から、名は、そこにある。そう信じられるだけの、板の幅と秤の柱の太さを、彼らはこの一年で手に入れたのだ。



