白は、音を立てずに痩せていった。白石列の影から先に雪解けが始まり、石の肌が昼の光を吸って鈍く濡れ、灰の渡しの縄印は水気を含んで重たく垂れた。氷は名板の銅縁に沿って薄く剥がれ、指先で触れれば、滴がひとつ落ちるたびに冬がひとつ退くようだった。火鉢の前では「温手」と呼ばれる人垣ができ、手の温もりで字を戻す者、息で吹きかける者、袖でそっと拭い、氷札の裏に写しておいた仮の名を、元の場所へ貼り戻す者。冬板はまだ白いが、銅縁は光を取り戻し始めていた。
王宮では、冬の諸制度を「春仕様」に組み替える評議が始まっている。広間の机には、冬に使い込んで角が柔らかくなった板と札と、裂け目を縫いながら耐え続けた秤の柱が整然と並べられていた。壁際の棚には、狐火の書生が書き直した絵解きの束——「雪中列の歩き方」「焔番の火の扱い」「温手の手順」——が新しい表紙をつけて重ねられている。
楓麟が、窓際で風を聞く仕草をした。耳の後ろを撫でるような薄い空気の流れを、指の先で掬い取るような彼特有の動きだ。
「三日後、南から湿り。五日目の夜に、弱い雨」
彼は短く言った。柱に立て掛けられた鏡の縁が、その言葉のタイミングで細かく光る。藍珠は手元の巡邏表を春型に組み替え、書記に渡した。
「柄隊・畦直し隊・水見番、順次『種下ろし隊』へ転用する。隊長の名は変えない。冬から働きの形が移るだけだ。剣は城庫に封じたまま、鞘の点検だけ続ける。『剣の場』は象徴として残すが、春の間は剣の列を細くする。剣は“在る”だけでいい」
「在る」という言葉が、冬至の日からこちら、この国の合言葉のようになった。抜かない剣が“在る”ことの重さを、皆が少しずつ覚えたのだ。藍珠は証文に短く印を押し、朱の指先で鞘の縫い目を撫でた。
王——遥は、冬の間に断章として掲げ続けた言葉を机上に広げた。「名を消さない」「嘘で鍋を満たさない」「剣で秤を動かさない」。ばらばらに貼り出していた紙片をひとつに束ね、条として刻む時が来ている。彼は朱筆を取った。筆は冬を越して幾度も使われているが、穂先はまだまっすぐだ。
「『春の誓詞(せいし)』にする」
遥は筆の先をわずかに持ち上げ、視線で評議の面々を環に撫でた。楓麟が頷き、藍珠は目だけで笑った。工営司の若い官と、医の館の上役、商務の責任者、法務の新任代行。彼らの目の下には冬の疲れがあるが、目の奥には春の湿りが宿っている。
「第一条——名の列は王権ではなく、市の共同資産とし、書記と市兵、市井の選ばれた『名守(なもり)』の三者で管理する」
「名守」。その言葉に、広間の空気がわずかに変わった。工営司の若い官が眉を上げる。「市井から選ぶのですか」
「そうだ」遥は即座に答えた。「名守は、名の列の前に一番長く立った者から選ぶ。冬に温手で字を戻した手、繕いの儀で針を通した手、夏に薄線の窓口で声を受けた耳。王の指名ではない。板の前で名を見続けた者自身に、板の面倒を持たせる。——名は、王のものではない」
法務の新任代行が頷いた。「承知しました。ただ、“選び”の手続きは要ります。恣意を疑われぬように」
「手順は簡潔に。市井で書面の推薦を募り、名守候補の名を板に貼る。異論は『声』として横に付ける。——冬の『争水板』でやった方法だ」
遥は再び筆を置き、第二条を書いた。
「第二条——板は『見える記憶』として保存し、誤記は誤記のまま取り消し線で残す。誤りを消すのではなく、誤りであったことを残す」
商務が小さく顔をすぼめた。「市の信用に響くのでは」
「誤りが消えている方が、信用は落ちる」楓麟が口を開いた。「風が誤りの跡を嗅ぎつければ、噂線はまた肥える。誤りを見せて正す方が、風は弱い」
第三条。
「『空白の札』を年に一度数え上げる。空白に対する仕事の枠を用意する。補助、見回り、文庫の整備、そして『名の学校』の手伝い——名前と字を教える場を、板の横に作る」
狐火の書生の目が輝いた。「僕に、図を描かせてください」
「描け。図を言葉より先に歩かせる」
第四条。
「剣は境界と礼のためにのみ示し、内政の秤には用いない。剣は、列の横に在り続ける。だが、秤を動かさない」
藍珠が胸に手を当てた。「鞘の点検は続ける。鞘が裂ければ、剣は勝手に出てしまう。鞘を守るのも、剣の役目だ」
第五条。
「境界の無色旗と鏡の合図を、季節の儀に組み込む。春分・夏至・秋分・冬至の四節に光を交わし、境界の線を『見える言葉』に毎回帰す」
筆が止まった。遥はそこに一点だけ余白を残し、朱で小さく丸をつけた。余白は、言葉の息継ぎだ。春の誓詞にも息は要る。
◇
誓詞は「儀」と同時に作られた。言葉だけでなく、手順と動きに落とし込まれなければ、春の湿りに溶けて形を失う。白石列の中央に低い壇が組まれ、板の前に名守の席が設けられる。名守は三人。城下の古い路地で店を畳んでから毎日板の前に立ち続けた老女。緩衝の野から来て冬中、繕いの儀で紐を通し続けた男。狼煙番の塔に通い、鏡の合図の意味を子どもに教えてきた女教師。三者三様の手の皺が、春の新しい制度を支える。
市兵は秤の前に一礼して立つ。秤の柱は冬の裂け目を持ったまま、縄で縫われている。その傷は、もう誰も隠そうとしない。秤は裂け目を抱えたまま正確であろうとする。それが冬から学んだ矜持だ。
工営は畦の小石を壇へ運び、一つ置いた。これは畦を畦たらしめる線の最小単位。医の館の薬師は清めの湯を匙で注ぎ、湯気の白を薄く立てた。雪の名残と混じって、白い気配が春の匂いに変わっていく。
藍珠は剣を鞘ごと横向きに置いた。剣は、名の背後に在る。剣は抜かれない。だが在る。子どもたちの視線が自然にそこへ集まり、誰かが小さな声で言った。「抜かない剣」。別の子が頷く。「抜かないから、ここにある」
楓麟は風の向きを指で描き、鏡を受け渡す子どもたちの立ち位置を決めた。鏡は光で言葉を運ぶ。光は風に乗る。風の向きを読めない鏡は、言葉を誤る。楓麟の手つきは慎重で、子どもたちも真似て慎重になった。慎重は、春の第一の礼だ。
儀の日、城下も緩衝の野も、紅月からの「雪労」名簿の者も、一列になった。冬板の前で、一人ずつ自分の名を読み、誓詞の下に各自の印——指紋、布片、小石——を置く。指を朱に浸す者。冬の間に使っていた口覆い布の端を裂いて置く者。自分の畦から拾ってきた小さな石を置く者。置かれたもののどれもが、名の形の延長だった。
名の前に立った老女が、冬の間に薄線の下で自分の息子の名を見続けていたあの老女であると気づいた者もいた。老女は小石を置き、王の顔を見た。瞳は濡れているが、冬の透明を残したままだ。
「王よ、あの冬、点線は心を削った。でも、消さないでほしいと頼んだことを、覚えているかい」
遥は頷いた。「覚えている。点線は、帰るための道だ」
「そう。道は残すものだね」
老女は微笑んだ。冬の笑みは短くて軽いが、跡が長く残る。
列の中に、緩衝の野から移り住んだ若者の姿があった。昨夏、柄を渡されて「重い」と言いながら握った彼だ。冬の間、彼は雪中列で焔番の火鉢を運び、繕いの場で紐を通し続けた。彼は板の前で立ち止まり、しわくちゃの口覆い布を指で撫で、布の一片を切って誓詞の下に置いた。置く前に彼は顔を上げ、王を見た。
「俺の名、もう『仮』じゃないんだね」
「仮とは“まだ”だった。もう“まだ”ではない」
「なら、春は、畦で」
彼は言い、口角を少しだけ上げた。笑うことを身体がまだぎこちなく覚えている笑みだった。
名守のひとり、女教師が誓詞を読み上げた。声は高くはないが、遠い。遠くまで届く声というものは、必ずしも大きい必要がないのだと、冬が皆に教えてくれた。
「第一条。名の列は市の共同資産——」
彼女は時折言葉を切り、板の方を見る。その目配せで、読み上げた言葉が板へ吸い込まれていくのが、わかる気がした。言葉が板に吸い込まれ、板が言葉で厚くなる。厚くなった板は、風で鳴りにくくなる。
名守の老女は、誤記の取り消し線を指でなぞった。「こうして残すのだね」
医の館の薬師が頷く。「誤りを隠すと病になる。誤りを見せると薬になる」
市兵の中の若い者が、空白の札の束を掲げた。冬に増えた空白は、春に仕事の枠と結び付けられている。空白は、名の不在の形であり、同時に仕事の約束の形でもある。板はそれを白いまま抱え、誰のものでもない白として残す。
遥は壇に上がった。長広舌は避けた。冬の間、彼は短い言葉の強さを学んだ。剣と同じで、言葉も抜きすぎれば鈍る。必要な長さまでだけ抜く。
「名は、国の形ではない。名は、人の形だ。国の形は、その名を落とさぬ板の幅と、秤の柱の太さで決まる」
彼はそこで一度だけ息を吸い、余白に置いておいた朱の丸の位置を指で確かめた。
「名を消さない。嘘で鍋を満たさない。剣で秤を動かさない」
言葉は短かった。短さの中に冬の芯が残り、春の湿りがそれを柔らかく包んだ。
儀の中途、灰の渡しの方角から、小さな隊列が無色の旗の陰影の間へ入った。紅月からの使いである。凛耀本人ではなく、彼の配下の若者二人。一人は鏡を、もう一人は同じ形の鏡を、胸の前に捧げ持っている。彼らは深く頭を垂れ、言った。
「春の光を返す用に——鏡を」
王は受け取り、すぐに狼煙番の少年に託した。少年は二枚の鏡を高く掲げ、塔から返ってきた光を白石列へ跳ね返す。光は石の間をかすめ、板の銅縁で軽く踊り、渡しの縄まで届いた。縄の霜花が、その一瞬だけ透明を深めたように見えた。
群衆の間から小さな息が漏れる。歓呼は起きない。息だ。冬と春の境目は、声より先に息で交わされる。息がそろえば、人は同じ方向を見る。
遥は筆の余白へ、最後の付記を朱で小さく置いた。「名を消さない——ただし、名を道具にしない」
法務が目を上げた。商務も医の館も。板の前に立つ老女がすでに頷いていた。彼女の冬の言葉が、ここに溶け込んでいる。「名は道だ。誰かを殴るための棒にしない」
◇
午後、名守の選定が行われた。城下の四つの区と、緩衝の野と、灰の渡しの外に新たにできた仮住まいの帯から、それぞれ一名ずつの推薦が上がる。板に候補の名が貼られ、横に「声」の紙が付く。「この人は毎朝板を掃除していた」「誤記の指摘がいつも早かった」「声が大きすぎる」「冬に焔番を一人で持ちすぎた」——褒め言葉も、苦情も、紙に残る。評議室ではない。板の横だ。選ばれた三人の名前が決まる頃には、太陽は白石に絡む氷を完全に溶かしていた。
藍珠は「剣の場」を片付けながら、王に囁いた。「春の『剣の場』は、こうしてよい。鞘を磨き、革を温める。剣を見せるのは、境界だけにする」
「境界の剣は、礼のためにある」
「そうだ。抜くための剣ではない。礼のための剣だ」
藍珠の髪に、解けはじめた水の粒が一つ落ちて、すぐに乾いた。冬の水は、剣の革を柔くする。
楓麟は鏡の受け渡しの列を見て、子どもたちの足の位置に小石を置いていった。風が変わるたび、小石もわずかに動く。子どもたちはそれを見て、自分の位置を微調整する。調整することを身の内に覚えるのは、春の勉強の第一日目だ。
狐火の書生は、誓詞の絵解きを描き始めていた。「名守」「取り消し線」「空白の札」「剣の場」。彼の線は冬の間にしなやかさを増し、春の紙の上で滑るように走る。子どもたちが寄って来る。「名を道具にしないって、どういうこと?」——書生は笑った。「例えばね。誰かを叩く時に『この名のために』と言って棒に名を書いたら、それは名を道具にしているんだ。名は棒じゃない。道だ」
「道は、歩くためのもの」
隣で名守に選ばれた女教師が、板に貼る「名の学校」の紙を持ちながら呟いた。紙には、字の少ない者、字を持たぬ者のための授業の時間が、春分からの暦で書かれている。狼煙番の少年も一コマ、鏡の授業を持つことになっていた。
◇
夕暮れにさしかかる頃、灰の渡しの縄が一度だけ鳴った。凛耀が使者とは別に、単身で渡しのこちら側に顔を出したのだ。彼は儀の終わりに間に合わなかった。雪労の若者の引率をしていて、遅れたのだと言った。息が上がっているが、眼は静かだ。
「遅れた。だが、光は見た」
彼は無色旗の陰で深々と礼をし、鏡を胸に当てて短く笑った。
「『名を道具にしない』。……それを、うちの板にも書く。仮板にも、本板にも。約す」
「約は、書いておく」
遥は頷いた。「書いた約は、破れにくい。——あなたの国の仮板は、秋分の日に本板に戻すと約した。それを冬の間も覚えていた。それは、板が覚えていたからだ」
「板に覚えさせる。剣に覚えさせるのではなく」
「剣は、覚えるのが下手だ」
二人は笑った。笑いは短かったが、乾いていなかった。春の笑いは、湿りを少し含む。
凛耀は鏡を差し出し、狼煙番の少年に目で合図を送った。少年は鏡を受け取り、塔へ走る。塔から返る光は彼の指先でほどよく割られ、三つに分かれて白石列、渡し、名板の銅縁に走った。光は、言葉が届かないところへ先に触れる。触れた場所は、夜の中でも白い。白は、冬から借りている色だ。
◇
夜の初め、広場に薄い灯がついた。誓詞の板の前に人の輪はない。誰も大声を出さない。代わりに、誰かが一枚一枚、紙の角を撫でていく。「名守」の三人がその角を揃え、一日のうちに増えた「声」の紙を読み、端に小さな朱点を付ける。朱点は「読んだ」の印だ。読むことの印があるのは、春の仕様だ。
医の館の薬師は、清めの湯の釜を運び出す。湯は冬ほど白くならない。空気が湿ってきたからだ。焔番の火鉢は一つ減り、かわりに、夜目にも黒い土の入った鉢が置かれた。土は、春に備える道具だ。土の黒は、冬が退いた跡に最初に現れる色で、目が慣れるまで少し時間がかかる。
藍珠は剣の鞘を布で拭き、磨き粉を指でわずかにつけ、革の息を整えた。彼はその手を止め、広場の端で手を繋いでいる二人の影を見た。冬の間、繕いの場で紐を通し続けた男と、彼に投石したことのある男だ。今日、二人は並んで誓詞の紙を撫で、言葉の縫い目を確かめ、帰り道を同じにした。剣が在ることで、剣に頼らない道を選ぶ者が増えた。剣の功績は、抜かれないことの結果として現れる。それは目に見えないが、確かに重い。
楓麟は塔の根元で風を聞いた。「風は南へ。雨は薄い。——明後日の夜、鏡をまた繋ぐ」
「季節の儀を始めよう」遥は言った。「春分の前に、光の稽古を」
季節の儀——四節に光を交わす約束は、今日、誓詞に文字として刻まれた。文字にしただけでは足りない。光を動かす手の練習が要る。塔の上では狼煙番の少年が、高く低く鏡を持ち替え、子どもたちに角度を教える。角度は、春の数学だ。子どもたちは数字より先に、光の速度を覚える。
遥は誓詞の板の余白に、指で一度だけ触れた。紙の肌は、昼の間よりほんの少しだけ冷たくなっていた。冷たさは、夜の仕事の合図だ。王は筆を取らず、声にも出さず、心の内でただひとつの文を反芻した。「名を消さない。ただし、名を道具にしない」。それは、冬から春への橋の中心に置くべき石だった。
◇
翌日から、春の誓詞は日常に落とし込まれていった。名守の三人の前には、朝のうちから細い列ができる。誤記の申し出、名の順序の変更の相談、空白の札の確認、亡命名簿から本板に戻った名の移し替え——紙は春の湿りでわずかに重く、指も湿りを含んでいるから、取り消し線の朱は、冬より綺麗に走った。
「名の学校」の最初の日、女教師は板の端に小さな机を並べ、字が書けない者に自分の名を練習させた。狼煙番の少年は鏡の授業をした。鏡は名前の代わりにはならないが、名前の意味を教えるのに役立つ。「きみの名を呼ぶとき、光はここに当たる」。そう言って少年が指した先に、子どもの胸の骨の間で小さく跳ね返る光があった。子どもは笑い、名の読み方をもう一度ゆっくりと口に出した。
緩衝の野から移って来た男——かつて「名板の刃」と呼ばれた彼は、今は詫びの労役を終え、名守ではないが板の保守に雇われている。彼は銅縁の継ぎ目の錆を落とし、冬の縫い目の糸を切らずに上から薄い紙を当て、春の湿りで柔らかくする作業を覚えた。投石したことを覚えている者もいる。覚えているからこそ、彼が今、糸を切らずに紙を当てる姿を見て、少しずつ怒りの形が解けていく。
工営司の若い官は、「種下ろし隊」の巡回を開始した。畦の角、井戸の周り、収穫路の始点に、春の小石を置いていく。小石は軽く、子どもでも持てる。冬の雪の塊を割るのと違い、春は置く動きが多い。置くことは記憶のために良い。置いた場所を身体が覚える。
藍珠は城庫で鞘の点検を続けた。鞘に髪の毛ほどの裂けが見つかると、彼は躊躇なく革を縫う。縫う手つきは、名板の繕いの儀を経て、前よりも柔らかくなった。彼は剣に語りかける癖がある。「出番はない。だが、お前は在れ」。剣は答えない。答えないことで返事をする。
楓麟は「無色旗」と鏡の合図の稽古を続け、四節の儀の段取りを整えた。旗の位置、鏡の角度、子どもたちの歩幅。歩幅は春には広がる。冬の歩幅は小さい。広がりすぎれば、春はすぐに転ぶ。転び方を先に教えるのも、春の教育だ。転んだとき、手を広げる。手を地面につける。名を落とさない。
◇
春分の前のある日、名守の老女が板の前で一枚の紙を取り上げた。「声」だ。紙には太い字でこう書かれている。「名を武器にすればいい。名のためだと叫んで剣を抜け」。冬の名残の囁きが、春の湿りを吸って重くなり、板の前でようやく落ちた声だ。老女は紙を撫で、名守の机の前に持っていった。女教師と緩衝の野の男がそれを読み、目を合わせた。
そのとき、遥が静かに近づいた。彼は「声」を手に取り、誓詞の板の余白に、昨日と同じ文をもう一度小さく書き足した。「名を道具にしない」。紙に向けて言う。「名を口実に剣を抜くのは、名への冒涜だ。名のために剣を抜くのではない。名のために剣を抜かない。——それが、王の春だ」
人垣の向こうから、一人の若い男がためらいがちな足取りで進み出た。昨夏、柄を重いと泣いた男ではない。冬に紅月から渡ってきたばかりの青年だ。彼はまだ自分の名を滑らかに言えず、板の前で詰まった。
「俺は……俺の名は、ここに、ある」
最後の一語が、彼自身の耳でやっと聞こえる高さで出た。遥は頷いた。
「ある。——『ある』という事実は、剣よりも重い」
青年の目が潤み、彼は誓詞の下に自分の指の朱を押した。指は大きくはないが、掌の硬さは冬の労を含んでいる。
夕暮れ、小さな雨が降った。楓麟の言った通り、五日目の夜に弱い雨が来た。雨は白石の間を細く走り、板の銅縁を濡らし、誓詞の紙に点々と暗い斑点を作った。斑点は乾けば跡になる。跡は、春の記憶になる。人々は雨の中、板の前で足を止め、誰も走らない。雨を避ける代わりに、雨に濡れる権利をひとりずつ受け取る。濡れることは、冬を終わらせる儀でもある。
夜、塔の上で楓麟が風を聞いた。「湿りは薄く、風は南へ曲がる。光は明後日の朝、よく通る」。狼煙番の少年が鏡を拭き、藍珠が鞘に油を馴染ませ、遥は誓詞の板の前で指先を一度だけ組んだ。指の間に、冬と春の境の細い線が確かに触れた。
◇
春の誓詞は、声を張り上げて勝ち取ったものではない。冬至の夜に剣を抜かず、雪中の列で倒れた者を焔番が抱き起こし、凍れる名板の前で温手が氷を解いた。あの積み重ねが、この短い条に姿を変えた。
名は、国の形ではない。名は人の形だ。——王の言葉は、そのまま板の縁に染み込み、銅の薄い光の下で息をひそめている。息は目に見えないが、確かに板を膨らませ、秤の柱を太らせた。剣は、在り続ける。抜かない。抜かないから、儀の後ろで春の列が真っ直ぐ伸びる。白石列の中央で低い壇に置かれた畦の小石は、その上に置かれる種の重みを待っている。灰の渡しの縄印は、雨でさらに重くなり、春の光を受ける角度を変えた。風は、子どもたちの鏡を、うまく運ぶ向きに流れている。
春は始まったばかりだ。だが、もう一度だけ冬に触れるように、遥は誓詞の紙の隅にそっと手を置いた。紙は、冷たくはない。冷たくはないが、引き締まっている。引き締めたものに触れた指は、自然に力を抜いた。力を抜くことは、春の最初の難しさだ。彼は静かに息を吐き、遠くの畦の地図を思い浮かべた。そこに今から落とす種の小さな重みと、名板の前に残した指紋の小さな重みが、春の土の中で同じ方角へ沈んでいくのを、確かに感じた。
王宮では、冬の諸制度を「春仕様」に組み替える評議が始まっている。広間の机には、冬に使い込んで角が柔らかくなった板と札と、裂け目を縫いながら耐え続けた秤の柱が整然と並べられていた。壁際の棚には、狐火の書生が書き直した絵解きの束——「雪中列の歩き方」「焔番の火の扱い」「温手の手順」——が新しい表紙をつけて重ねられている。
楓麟が、窓際で風を聞く仕草をした。耳の後ろを撫でるような薄い空気の流れを、指の先で掬い取るような彼特有の動きだ。
「三日後、南から湿り。五日目の夜に、弱い雨」
彼は短く言った。柱に立て掛けられた鏡の縁が、その言葉のタイミングで細かく光る。藍珠は手元の巡邏表を春型に組み替え、書記に渡した。
「柄隊・畦直し隊・水見番、順次『種下ろし隊』へ転用する。隊長の名は変えない。冬から働きの形が移るだけだ。剣は城庫に封じたまま、鞘の点検だけ続ける。『剣の場』は象徴として残すが、春の間は剣の列を細くする。剣は“在る”だけでいい」
「在る」という言葉が、冬至の日からこちら、この国の合言葉のようになった。抜かない剣が“在る”ことの重さを、皆が少しずつ覚えたのだ。藍珠は証文に短く印を押し、朱の指先で鞘の縫い目を撫でた。
王——遥は、冬の間に断章として掲げ続けた言葉を机上に広げた。「名を消さない」「嘘で鍋を満たさない」「剣で秤を動かさない」。ばらばらに貼り出していた紙片をひとつに束ね、条として刻む時が来ている。彼は朱筆を取った。筆は冬を越して幾度も使われているが、穂先はまだまっすぐだ。
「『春の誓詞(せいし)』にする」
遥は筆の先をわずかに持ち上げ、視線で評議の面々を環に撫でた。楓麟が頷き、藍珠は目だけで笑った。工営司の若い官と、医の館の上役、商務の責任者、法務の新任代行。彼らの目の下には冬の疲れがあるが、目の奥には春の湿りが宿っている。
「第一条——名の列は王権ではなく、市の共同資産とし、書記と市兵、市井の選ばれた『名守(なもり)』の三者で管理する」
「名守」。その言葉に、広間の空気がわずかに変わった。工営司の若い官が眉を上げる。「市井から選ぶのですか」
「そうだ」遥は即座に答えた。「名守は、名の列の前に一番長く立った者から選ぶ。冬に温手で字を戻した手、繕いの儀で針を通した手、夏に薄線の窓口で声を受けた耳。王の指名ではない。板の前で名を見続けた者自身に、板の面倒を持たせる。——名は、王のものではない」
法務の新任代行が頷いた。「承知しました。ただ、“選び”の手続きは要ります。恣意を疑われぬように」
「手順は簡潔に。市井で書面の推薦を募り、名守候補の名を板に貼る。異論は『声』として横に付ける。——冬の『争水板』でやった方法だ」
遥は再び筆を置き、第二条を書いた。
「第二条——板は『見える記憶』として保存し、誤記は誤記のまま取り消し線で残す。誤りを消すのではなく、誤りであったことを残す」
商務が小さく顔をすぼめた。「市の信用に響くのでは」
「誤りが消えている方が、信用は落ちる」楓麟が口を開いた。「風が誤りの跡を嗅ぎつければ、噂線はまた肥える。誤りを見せて正す方が、風は弱い」
第三条。
「『空白の札』を年に一度数え上げる。空白に対する仕事の枠を用意する。補助、見回り、文庫の整備、そして『名の学校』の手伝い——名前と字を教える場を、板の横に作る」
狐火の書生の目が輝いた。「僕に、図を描かせてください」
「描け。図を言葉より先に歩かせる」
第四条。
「剣は境界と礼のためにのみ示し、内政の秤には用いない。剣は、列の横に在り続ける。だが、秤を動かさない」
藍珠が胸に手を当てた。「鞘の点検は続ける。鞘が裂ければ、剣は勝手に出てしまう。鞘を守るのも、剣の役目だ」
第五条。
「境界の無色旗と鏡の合図を、季節の儀に組み込む。春分・夏至・秋分・冬至の四節に光を交わし、境界の線を『見える言葉』に毎回帰す」
筆が止まった。遥はそこに一点だけ余白を残し、朱で小さく丸をつけた。余白は、言葉の息継ぎだ。春の誓詞にも息は要る。
◇
誓詞は「儀」と同時に作られた。言葉だけでなく、手順と動きに落とし込まれなければ、春の湿りに溶けて形を失う。白石列の中央に低い壇が組まれ、板の前に名守の席が設けられる。名守は三人。城下の古い路地で店を畳んでから毎日板の前に立ち続けた老女。緩衝の野から来て冬中、繕いの儀で紐を通し続けた男。狼煙番の塔に通い、鏡の合図の意味を子どもに教えてきた女教師。三者三様の手の皺が、春の新しい制度を支える。
市兵は秤の前に一礼して立つ。秤の柱は冬の裂け目を持ったまま、縄で縫われている。その傷は、もう誰も隠そうとしない。秤は裂け目を抱えたまま正確であろうとする。それが冬から学んだ矜持だ。
工営は畦の小石を壇へ運び、一つ置いた。これは畦を畦たらしめる線の最小単位。医の館の薬師は清めの湯を匙で注ぎ、湯気の白を薄く立てた。雪の名残と混じって、白い気配が春の匂いに変わっていく。
藍珠は剣を鞘ごと横向きに置いた。剣は、名の背後に在る。剣は抜かれない。だが在る。子どもたちの視線が自然にそこへ集まり、誰かが小さな声で言った。「抜かない剣」。別の子が頷く。「抜かないから、ここにある」
楓麟は風の向きを指で描き、鏡を受け渡す子どもたちの立ち位置を決めた。鏡は光で言葉を運ぶ。光は風に乗る。風の向きを読めない鏡は、言葉を誤る。楓麟の手つきは慎重で、子どもたちも真似て慎重になった。慎重は、春の第一の礼だ。
儀の日、城下も緩衝の野も、紅月からの「雪労」名簿の者も、一列になった。冬板の前で、一人ずつ自分の名を読み、誓詞の下に各自の印——指紋、布片、小石——を置く。指を朱に浸す者。冬の間に使っていた口覆い布の端を裂いて置く者。自分の畦から拾ってきた小さな石を置く者。置かれたもののどれもが、名の形の延長だった。
名の前に立った老女が、冬の間に薄線の下で自分の息子の名を見続けていたあの老女であると気づいた者もいた。老女は小石を置き、王の顔を見た。瞳は濡れているが、冬の透明を残したままだ。
「王よ、あの冬、点線は心を削った。でも、消さないでほしいと頼んだことを、覚えているかい」
遥は頷いた。「覚えている。点線は、帰るための道だ」
「そう。道は残すものだね」
老女は微笑んだ。冬の笑みは短くて軽いが、跡が長く残る。
列の中に、緩衝の野から移り住んだ若者の姿があった。昨夏、柄を渡されて「重い」と言いながら握った彼だ。冬の間、彼は雪中列で焔番の火鉢を運び、繕いの場で紐を通し続けた。彼は板の前で立ち止まり、しわくちゃの口覆い布を指で撫で、布の一片を切って誓詞の下に置いた。置く前に彼は顔を上げ、王を見た。
「俺の名、もう『仮』じゃないんだね」
「仮とは“まだ”だった。もう“まだ”ではない」
「なら、春は、畦で」
彼は言い、口角を少しだけ上げた。笑うことを身体がまだぎこちなく覚えている笑みだった。
名守のひとり、女教師が誓詞を読み上げた。声は高くはないが、遠い。遠くまで届く声というものは、必ずしも大きい必要がないのだと、冬が皆に教えてくれた。
「第一条。名の列は市の共同資産——」
彼女は時折言葉を切り、板の方を見る。その目配せで、読み上げた言葉が板へ吸い込まれていくのが、わかる気がした。言葉が板に吸い込まれ、板が言葉で厚くなる。厚くなった板は、風で鳴りにくくなる。
名守の老女は、誤記の取り消し線を指でなぞった。「こうして残すのだね」
医の館の薬師が頷く。「誤りを隠すと病になる。誤りを見せると薬になる」
市兵の中の若い者が、空白の札の束を掲げた。冬に増えた空白は、春に仕事の枠と結び付けられている。空白は、名の不在の形であり、同時に仕事の約束の形でもある。板はそれを白いまま抱え、誰のものでもない白として残す。
遥は壇に上がった。長広舌は避けた。冬の間、彼は短い言葉の強さを学んだ。剣と同じで、言葉も抜きすぎれば鈍る。必要な長さまでだけ抜く。
「名は、国の形ではない。名は、人の形だ。国の形は、その名を落とさぬ板の幅と、秤の柱の太さで決まる」
彼はそこで一度だけ息を吸い、余白に置いておいた朱の丸の位置を指で確かめた。
「名を消さない。嘘で鍋を満たさない。剣で秤を動かさない」
言葉は短かった。短さの中に冬の芯が残り、春の湿りがそれを柔らかく包んだ。
儀の中途、灰の渡しの方角から、小さな隊列が無色の旗の陰影の間へ入った。紅月からの使いである。凛耀本人ではなく、彼の配下の若者二人。一人は鏡を、もう一人は同じ形の鏡を、胸の前に捧げ持っている。彼らは深く頭を垂れ、言った。
「春の光を返す用に——鏡を」
王は受け取り、すぐに狼煙番の少年に託した。少年は二枚の鏡を高く掲げ、塔から返ってきた光を白石列へ跳ね返す。光は石の間をかすめ、板の銅縁で軽く踊り、渡しの縄まで届いた。縄の霜花が、その一瞬だけ透明を深めたように見えた。
群衆の間から小さな息が漏れる。歓呼は起きない。息だ。冬と春の境目は、声より先に息で交わされる。息がそろえば、人は同じ方向を見る。
遥は筆の余白へ、最後の付記を朱で小さく置いた。「名を消さない——ただし、名を道具にしない」
法務が目を上げた。商務も医の館も。板の前に立つ老女がすでに頷いていた。彼女の冬の言葉が、ここに溶け込んでいる。「名は道だ。誰かを殴るための棒にしない」
◇
午後、名守の選定が行われた。城下の四つの区と、緩衝の野と、灰の渡しの外に新たにできた仮住まいの帯から、それぞれ一名ずつの推薦が上がる。板に候補の名が貼られ、横に「声」の紙が付く。「この人は毎朝板を掃除していた」「誤記の指摘がいつも早かった」「声が大きすぎる」「冬に焔番を一人で持ちすぎた」——褒め言葉も、苦情も、紙に残る。評議室ではない。板の横だ。選ばれた三人の名前が決まる頃には、太陽は白石に絡む氷を完全に溶かしていた。
藍珠は「剣の場」を片付けながら、王に囁いた。「春の『剣の場』は、こうしてよい。鞘を磨き、革を温める。剣を見せるのは、境界だけにする」
「境界の剣は、礼のためにある」
「そうだ。抜くための剣ではない。礼のための剣だ」
藍珠の髪に、解けはじめた水の粒が一つ落ちて、すぐに乾いた。冬の水は、剣の革を柔くする。
楓麟は鏡の受け渡しの列を見て、子どもたちの足の位置に小石を置いていった。風が変わるたび、小石もわずかに動く。子どもたちはそれを見て、自分の位置を微調整する。調整することを身の内に覚えるのは、春の勉強の第一日目だ。
狐火の書生は、誓詞の絵解きを描き始めていた。「名守」「取り消し線」「空白の札」「剣の場」。彼の線は冬の間にしなやかさを増し、春の紙の上で滑るように走る。子どもたちが寄って来る。「名を道具にしないって、どういうこと?」——書生は笑った。「例えばね。誰かを叩く時に『この名のために』と言って棒に名を書いたら、それは名を道具にしているんだ。名は棒じゃない。道だ」
「道は、歩くためのもの」
隣で名守に選ばれた女教師が、板に貼る「名の学校」の紙を持ちながら呟いた。紙には、字の少ない者、字を持たぬ者のための授業の時間が、春分からの暦で書かれている。狼煙番の少年も一コマ、鏡の授業を持つことになっていた。
◇
夕暮れにさしかかる頃、灰の渡しの縄が一度だけ鳴った。凛耀が使者とは別に、単身で渡しのこちら側に顔を出したのだ。彼は儀の終わりに間に合わなかった。雪労の若者の引率をしていて、遅れたのだと言った。息が上がっているが、眼は静かだ。
「遅れた。だが、光は見た」
彼は無色旗の陰で深々と礼をし、鏡を胸に当てて短く笑った。
「『名を道具にしない』。……それを、うちの板にも書く。仮板にも、本板にも。約す」
「約は、書いておく」
遥は頷いた。「書いた約は、破れにくい。——あなたの国の仮板は、秋分の日に本板に戻すと約した。それを冬の間も覚えていた。それは、板が覚えていたからだ」
「板に覚えさせる。剣に覚えさせるのではなく」
「剣は、覚えるのが下手だ」
二人は笑った。笑いは短かったが、乾いていなかった。春の笑いは、湿りを少し含む。
凛耀は鏡を差し出し、狼煙番の少年に目で合図を送った。少年は鏡を受け取り、塔へ走る。塔から返る光は彼の指先でほどよく割られ、三つに分かれて白石列、渡し、名板の銅縁に走った。光は、言葉が届かないところへ先に触れる。触れた場所は、夜の中でも白い。白は、冬から借りている色だ。
◇
夜の初め、広場に薄い灯がついた。誓詞の板の前に人の輪はない。誰も大声を出さない。代わりに、誰かが一枚一枚、紙の角を撫でていく。「名守」の三人がその角を揃え、一日のうちに増えた「声」の紙を読み、端に小さな朱点を付ける。朱点は「読んだ」の印だ。読むことの印があるのは、春の仕様だ。
医の館の薬師は、清めの湯の釜を運び出す。湯は冬ほど白くならない。空気が湿ってきたからだ。焔番の火鉢は一つ減り、かわりに、夜目にも黒い土の入った鉢が置かれた。土は、春に備える道具だ。土の黒は、冬が退いた跡に最初に現れる色で、目が慣れるまで少し時間がかかる。
藍珠は剣の鞘を布で拭き、磨き粉を指でわずかにつけ、革の息を整えた。彼はその手を止め、広場の端で手を繋いでいる二人の影を見た。冬の間、繕いの場で紐を通し続けた男と、彼に投石したことのある男だ。今日、二人は並んで誓詞の紙を撫で、言葉の縫い目を確かめ、帰り道を同じにした。剣が在ることで、剣に頼らない道を選ぶ者が増えた。剣の功績は、抜かれないことの結果として現れる。それは目に見えないが、確かに重い。
楓麟は塔の根元で風を聞いた。「風は南へ。雨は薄い。——明後日の夜、鏡をまた繋ぐ」
「季節の儀を始めよう」遥は言った。「春分の前に、光の稽古を」
季節の儀——四節に光を交わす約束は、今日、誓詞に文字として刻まれた。文字にしただけでは足りない。光を動かす手の練習が要る。塔の上では狼煙番の少年が、高く低く鏡を持ち替え、子どもたちに角度を教える。角度は、春の数学だ。子どもたちは数字より先に、光の速度を覚える。
遥は誓詞の板の余白に、指で一度だけ触れた。紙の肌は、昼の間よりほんの少しだけ冷たくなっていた。冷たさは、夜の仕事の合図だ。王は筆を取らず、声にも出さず、心の内でただひとつの文を反芻した。「名を消さない。ただし、名を道具にしない」。それは、冬から春への橋の中心に置くべき石だった。
◇
翌日から、春の誓詞は日常に落とし込まれていった。名守の三人の前には、朝のうちから細い列ができる。誤記の申し出、名の順序の変更の相談、空白の札の確認、亡命名簿から本板に戻った名の移し替え——紙は春の湿りでわずかに重く、指も湿りを含んでいるから、取り消し線の朱は、冬より綺麗に走った。
「名の学校」の最初の日、女教師は板の端に小さな机を並べ、字が書けない者に自分の名を練習させた。狼煙番の少年は鏡の授業をした。鏡は名前の代わりにはならないが、名前の意味を教えるのに役立つ。「きみの名を呼ぶとき、光はここに当たる」。そう言って少年が指した先に、子どもの胸の骨の間で小さく跳ね返る光があった。子どもは笑い、名の読み方をもう一度ゆっくりと口に出した。
緩衝の野から移って来た男——かつて「名板の刃」と呼ばれた彼は、今は詫びの労役を終え、名守ではないが板の保守に雇われている。彼は銅縁の継ぎ目の錆を落とし、冬の縫い目の糸を切らずに上から薄い紙を当て、春の湿りで柔らかくする作業を覚えた。投石したことを覚えている者もいる。覚えているからこそ、彼が今、糸を切らずに紙を当てる姿を見て、少しずつ怒りの形が解けていく。
工営司の若い官は、「種下ろし隊」の巡回を開始した。畦の角、井戸の周り、収穫路の始点に、春の小石を置いていく。小石は軽く、子どもでも持てる。冬の雪の塊を割るのと違い、春は置く動きが多い。置くことは記憶のために良い。置いた場所を身体が覚える。
藍珠は城庫で鞘の点検を続けた。鞘に髪の毛ほどの裂けが見つかると、彼は躊躇なく革を縫う。縫う手つきは、名板の繕いの儀を経て、前よりも柔らかくなった。彼は剣に語りかける癖がある。「出番はない。だが、お前は在れ」。剣は答えない。答えないことで返事をする。
楓麟は「無色旗」と鏡の合図の稽古を続け、四節の儀の段取りを整えた。旗の位置、鏡の角度、子どもたちの歩幅。歩幅は春には広がる。冬の歩幅は小さい。広がりすぎれば、春はすぐに転ぶ。転び方を先に教えるのも、春の教育だ。転んだとき、手を広げる。手を地面につける。名を落とさない。
◇
春分の前のある日、名守の老女が板の前で一枚の紙を取り上げた。「声」だ。紙には太い字でこう書かれている。「名を武器にすればいい。名のためだと叫んで剣を抜け」。冬の名残の囁きが、春の湿りを吸って重くなり、板の前でようやく落ちた声だ。老女は紙を撫で、名守の机の前に持っていった。女教師と緩衝の野の男がそれを読み、目を合わせた。
そのとき、遥が静かに近づいた。彼は「声」を手に取り、誓詞の板の余白に、昨日と同じ文をもう一度小さく書き足した。「名を道具にしない」。紙に向けて言う。「名を口実に剣を抜くのは、名への冒涜だ。名のために剣を抜くのではない。名のために剣を抜かない。——それが、王の春だ」
人垣の向こうから、一人の若い男がためらいがちな足取りで進み出た。昨夏、柄を重いと泣いた男ではない。冬に紅月から渡ってきたばかりの青年だ。彼はまだ自分の名を滑らかに言えず、板の前で詰まった。
「俺は……俺の名は、ここに、ある」
最後の一語が、彼自身の耳でやっと聞こえる高さで出た。遥は頷いた。
「ある。——『ある』という事実は、剣よりも重い」
青年の目が潤み、彼は誓詞の下に自分の指の朱を押した。指は大きくはないが、掌の硬さは冬の労を含んでいる。
夕暮れ、小さな雨が降った。楓麟の言った通り、五日目の夜に弱い雨が来た。雨は白石の間を細く走り、板の銅縁を濡らし、誓詞の紙に点々と暗い斑点を作った。斑点は乾けば跡になる。跡は、春の記憶になる。人々は雨の中、板の前で足を止め、誰も走らない。雨を避ける代わりに、雨に濡れる権利をひとりずつ受け取る。濡れることは、冬を終わらせる儀でもある。
夜、塔の上で楓麟が風を聞いた。「湿りは薄く、風は南へ曲がる。光は明後日の朝、よく通る」。狼煙番の少年が鏡を拭き、藍珠が鞘に油を馴染ませ、遥は誓詞の板の前で指先を一度だけ組んだ。指の間に、冬と春の境の細い線が確かに触れた。
◇
春の誓詞は、声を張り上げて勝ち取ったものではない。冬至の夜に剣を抜かず、雪中の列で倒れた者を焔番が抱き起こし、凍れる名板の前で温手が氷を解いた。あの積み重ねが、この短い条に姿を変えた。
名は、国の形ではない。名は人の形だ。——王の言葉は、そのまま板の縁に染み込み、銅の薄い光の下で息をひそめている。息は目に見えないが、確かに板を膨らませ、秤の柱を太らせた。剣は、在り続ける。抜かない。抜かないから、儀の後ろで春の列が真っ直ぐ伸びる。白石列の中央で低い壇に置かれた畦の小石は、その上に置かれる種の重みを待っている。灰の渡しの縄印は、雨でさらに重くなり、春の光を受ける角度を変えた。風は、子どもたちの鏡を、うまく運ぶ向きに流れている。
春は始まったばかりだ。だが、もう一度だけ冬に触れるように、遥は誓詞の紙の隅にそっと手を置いた。紙は、冷たくはない。冷たくはないが、引き締まっている。引き締めたものに触れた指は、自然に力を抜いた。力を抜くことは、春の最初の難しさだ。彼は静かに息を吐き、遠くの畦の地図を思い浮かべた。そこに今から落とす種の小さな重みと、名板の前に残した指紋の小さな重みが、春の土の中で同じ方角へ沈んでいくのを、確かに感じた。



