冬至を越えて四日目の朝、名の板はまるで湖から切り出された氷塊のようになっていた。銅の縁に、雨垂れの時間がゆっくりと形をとった氷柱がいくつも垂れ、板面は薄い白の膜の下で文字の影だけを揺らす。朱の丸も、薄線も、点線も、すべて「白」に飲まれて、ただの縞のように見える。掲示板の前では、まだ幼い指が氷をなぞり、老いた手が袖でこすろうとして書記に制される。指は冷えで赤く、袖は凍りついて光っている。
「おばあ、ぼくの字、どこ……」
子の声は、雪より薄く、雪より高く、板に届く前に空に消えそうだった。老女は板に額を寄せ、呼気の丸い曇りで小さな穴を作る。そこから覗く線は、判じ絵のように滲んで、名前の一部のようでも、ただの冬の模様のようでもある。見えるようで見えないものは、人の心を急がせる。
「待ちなさい、割れちまうよ」
見回りの市兵が優しく言う。だが、優しさは寒さには勝てず、その言葉もまた白い息になって板に吸い込まれていくだけである。
朝の評議室へ運び込まれたのは、板から削り落ちた氷の欠片を入れた銅盆だった。医の館の若い官が鏡で光を当てながら、不用意に火を近づけた時の割れ方を、銅盆の中で再現する。小さな“ぱきり”という音が室内に走るたび、書記の肩がぴくりと跳ねた。
「火を焚いて溶かせば早い」
工営司の年配の官は指で卓をとんとんと叩く。指の節には泥の古傷が刻まれ、彼は冬の間ずっと雪掘りの段取りを付けてきた人だ。現場の人間ほど、手段を早く求める。
医の館の長は首を振る。頬に乾いた粉雪がまだ残っている。「煙は喉を荒らします。今は病が浅く引っ込んでいる時期。ここで誘うわけには行きません」
「見えぬ名に配分はできぬ。帳は止まる。市は凍る」
商務の官が机をたたくと、墨皿の表面がひやりと揺れた。凍てた空気の中では怒りさえも音を持たない。楓麟は窓に立ち、耳で風の筋を確かめていた。外の旗が鳴らない。鳴らないということは、風が奥底で細かく流れているということだ。流れはあるが、音はない。音がない風は、氷の子だ。急げば、欠ける。
「剣で氷を割るか?」
藍珠が、わざと粗い調子で言った。皮肉半分、試し半分。彼の剣は今日も鞘の中でまたひとつ冬を越えている。刃で割る、という言葉が評議に持ち込まれるたび、藍珠はそれを自分の胸の中で一度受け止め、重さを測ってから手放す。今もそうした。
「冬の氷は風の子。急げば欠ける」
楓麟の声は、窓から入る光の角度のように柔らかい。柔らかいが、確かだった。
遥は卓上の板の写しに目を落とし、薄い朱の筆を取る。彼はゆっくりと三行を書き出した。文字は大きくも小さくもない。見えるために書かれるのではなく、読まれるために書かれる文字だ。
「布告する。第一、『温手(ぬくて)』。板の前に火鉢を置く。氷に向けぬ。手に向ける。人の手で温め、氷の表皮を柔らげる。第二、『氷札』。凍ったままの名を別札に写し、板の外縁に仮に掲げる。春の陽で戻るまで、名を外に置かない。第三、『雪番』。氷を崩さぬ削りの役。若い者から募り、端から削る術を教える。……刃は使わない」
「刃は使わない」
藍珠が繰り返した。言葉は短く、繰り返しに意味が宿る。
密偵頭は心得たというように一礼し、医の館の小者を二人連れて出ていく。狐火の書生も、卓の陰で筆を握り直した。「狐火の本」の次は「氷の本」だ、と彼の目が言っている。彼はもう、冬の教育の言葉の温度を知っていた。
◇
広場の名板の前に、火鉢が並んだ。真っ赤ではない。鈍い橙。炭の上に灰が厚く覆い、炎は見えない。見えない火は、冬に向いていた。火鉢の側では、子どもたちが手をこすり合わせ、大人が手をかざし、老人が指の先だけを火に向ける。温手は、体ではなく手の儀式だ。手は板に触れる。板に触れる手は、名前に触れる。
「手でな。急がずに」
藍珠が、板の前にしゃがみ込んで一人ひとりの指の形を見ている。剣の柄を握る手を見る眼で、人の指を見ていた。指は皆、違った。節の太い指、細い指、爪が割れている指、傷跡の残る指。違う指が、同じ温度で板の上を動く。
狼煙番の少年が鏡を胸の前に抱え、刀身の代わりに光の筋を操った。冬の陽は弱い。だが、鏡で集めれば、指の動きを助けるだけの光は得られる。少年は光を、氷の上に長く置かない。長く置けば板が割れる。それを知っている彼は、点から点へ、光の刃でもって「当てては引き、当てては引き」を繰り返す。光の刃は切らない。光の刃は、読む。
「こっち、少し柔らいだ」
書記が、糸で印をつけた箇所に慎重に指を当て、僅かに色の濃くなった氷の膜を擦る。氷の下から、一本の縦画が現れた。縦画は、誰かの姓の真ん中だ。あ、と誰かが息を呑む。呼気が板に触れて、小さな丸い曇りがひとつ増えた。曇りの縁が、縦画の端をやわらかく守る。
雪番に任じられた若者たちが、銅の小さな匙を手に板の端から氷を剥がし始めた。剥がすのではない、掬う、に近い。端で薄く、中央へ薄く。銅は熱を持ち、手の温もりを吸って氷へ渡す。刃で割らず、温度で解く。若者のひとりは緊張で指先が震えていた。隣に立つ藍珠が、彼の手首を軽く押さえる。
「震えたままで良い。震える手は、深く突っ込まない」
震えは焦りではなかった。恐れではなかった。慎みだった。慎みは、冬の術だ。
氷は音を立てない。砕けない限り、音を持たない。だから群衆は息で音を作る。ふー、ふー、ふー……。冬の音楽が板の前に生まれ、その拍に合わせて、氷の皮が薄く薄く後ずさる。やがて、一つの名前が、氷の下から現れた。
「戻った!」
子が叫んだ。叫びは軽く、軽さは一瞬空へ跳ねたあと、板に降りて吸い込まれる。老人が涙をこぼす。涙は温かく、氷の角をほんの僅かに丸くする。丸くなった角は、次の言葉を受け入れやすくなる。
拍手が広がる。手袋の拍手は音がくぐもる。くぐもった拍手は、冬の街に似合う。派手ではないが、確かな厚みを持つ。拍手の輪の外で、一人の男が板の前に座り込んでいた。夏に「名板の刃」を振るった、あの男である。彼は今日、紐を通す役で来ていた。目の高さに現れたばかりの名前を、彼は指で触れずに眺めた。触れない、という触れ方。触れないことが、触れることになる瞬間がある。
「剣は温められぬ」
藍珠が呟く。彼は剣を鞘ごと板の柱に寄せ、鞘の革に手を置いた。革は冷たい。冷たい革の下にある刃は、冬の間ずっと眠っている。剣は、冬に温まらない。温まらないから、抜かれない。抜かれないから、春に役目を持つ。
楓麟は板の上に積もる雪を手の甲で払った。手の甲を使うのは、掌を冷やしすぎないためだ。彼は雪の落ち方を見て、次に削るべき方向を雪番に示した。氷は落ちる。落ちる方向は、誘える。誘う、それが冬の采配だ。
◇
氷札の板は、名の列の外縁に新しく据えられた。狐火の書生は、縦長の札に「仮」と小さく朱で印をつける。仮とは「まだ」。彼は、以前にも「仮板」の絵解きを描いた。その言葉が冬に救った幾つもの夜を、彼自身が知っている。今日、彼はもっと簡単な絵を描いた。氷の上にある字と、札に写した字が、春の矢印で結ばれている。子どもがそれを見て、矢印に指を添える。「ここからここへ」。矢印に触れる指は、寒さを忘れる。
氷札を書き写す書記の手は、いつもより遅い。遅さは間違いから遠ざける。法務の新任代行は、書き写しの順序に目を凝らし、誤記があった場合の掲示手順を確認する。「誤りは、命取り」と彼は夏に言った。それは冬にも言える。冬には、より強く言える。
雪番の若者の一人が、自分の札を懐から出した。そこにはまだ何の印もない。彼は氷の端で銅匙を当てながら、板の上の一点を指で示した。「これは、小さな『つ』ですか」。隣で身を低くした書記が覗き込み、頷いた。「そうだ。ここは『つ』だ。名前は……」。彼は口の中で名前を繰り返し、指で空中に書き、確かめる。彼にとって、字は図形ではなく、呼び声だ。呼べば、形が現れる。
「名が戻った」
同じ言葉を、別の子どもがいい、別の老人が頷く。昼までに、板の四分の一が「読める」になった。読める、が増えるほど、冬の空気の密度が変わる。密度が高くなり、風の筋が細かくなる。細かくなった風は、氷を薄く、落ち着かせる。
昼の粥の時間。鍋はいつもの倍の早さで空になった。商務は眉を顰めたが、王が肩で息をしながら軽く首を振ると、何も言わなかった。秤の場で見せた裂け目の縄は、今日も板の柱に結ばれている。裂け目があるから持つ、という見せ方が、冬の秤を支えていた。
◇
午後、薄日。狼煙番の少年が鏡で太陽を割り、板の上に短い光の筆を走らせる。少年の鏡の角度を見て、狐火の書生が面白がって、光の道筋を紙に描き始めた。「光の刃の本」。彼はそう呼んで笑い、子どもたちが集まってくる。医の館の薬師がそれに目をとめ、口覆い布の結び方と一緒に、氷の上での息の吐き方を絵で示す。吐きすぎない。吐かないよりも少し、吐く。少し、少し。少しは、冬の長さを計る単位だ。少しを重ねる術を、今この場で学ばせる。
夕刻、名の列の前に、名前を探せない男がひとり座り込んでいた。彼の鼻先から白い息が出ては消え、出ては消える。夏に「空白の札」を掲げたあの男が、いつのまにか彼のそばに座っていた。ふたりは言葉を交わさない。交わさないまま、板を見続けた。氷札の板のほうでは、別の男が筆を持って泣いている。「字が、戻った」と。戻るのではない。見えるようになったのだ、と書生は思ったが、口にしない。言葉はときに、正しさよりも器の形を問う。
藍珠は子どもの手へ自分の手袋を渡し、自分は素手で鞘を握った。鞘の革は冷たく、剣は中で重い。重さは、彼を落ち着かせる。剣は抜かない。抜かないという決意は、冬の間、何度も彼の胸の中で形を変え、しかしいつも同じ結論に戻った。剣は「ここにある」ことが大事で、その次に「抜かない」ことが大事だ。剣の在りかと、剣の不在。二つの大事の間で、彼は冬を守っている。
楓麟は、板の上で再び風を読んだ。雪は夜にかけて細かくなる。氷は夜にかけて固くなる。固さは、音を持つ。音が来る。来る前に、終えるべきものがある。彼は王に目で告げた。王は頷き、板の前で「今日の終わり」を宣言した。
「ここまで。続きは明朝」
止める勇気。冬には、それがもっとも難しい。
◇
夜。王宮の回廊。足音は厚い敷物で吸われ、灯の火はゆっくりと揺れる。外では雪の粒が音を持ち始め、白石列の旗の裂け目をときおり震わせる。王は、凍りかけた欄干の上に指先を置いた。冷たさが、骨に届く。
「凍れる名は、見えぬだけで消えてはいない」
言葉は息の中に、小さく立った。楓麟は欄干の端に雪を集め、指で小さな道を作る。「春までにすべて解かねば。解くのは風と手。……火ではない」
「剣で割るな。それだけは確かだ」
藍珠が短く言い、剣の鞘を撫でた。撫でるという行為は、彼にとって祈りではない。確認だ。剣の重さ、革の硬さ、縫い目の位置。すべて、冬のあいだに変わらないものの名を確かめるための触れ方だ。
遥は、板の上の縫い目の一つひとつを思い出し、昼間の子どもの声を思い出し、老女の涙の温度を思い出した。冬の記憶は冷たい。冷たいから、形を保つ。形を保つから、春に渡せる。春に渡すために、冬に見えるようにする。見えるようにするために、火ではなく、手を使う。
「温手は足りるか」
王の問いに、楓麟は頷いた。「火鉢は足りる。灰の渡しの備蓄を計り、狐火の書生が配し方の絵を描いた。火鉢は人を集める。集まれば、怒りは薄まる」
「氷札は、誤りが出ぬように」
遥の声に、藍珠が「書記が震えている」と答えた。「震える手は深く突っ込まない——今日、俺が雪番に言ったことだ。震える者を前に、落ち着いた者を背に置け。逆にするな」
「雪番に名をやる」
楓麟が言った。「働きを記す名。冬板に、雪番の列を作る。氷を崩さず削った者の名は、春に『氷が溶けた日』として読む」
王は黙って頷き、朱筆で小さく書いた。「雪番の名——春に読む」。文字は小さいが、冬に小さな文字はよく効く。大書は人を集める。小書は人を動かす。
◇
翌朝、広場に新しい儀式が加わった。雪番の任命だ。若者が十人、板の前に並び、銅の匙を胸に置いて、王の前で短い誓いを述べる。誓いは三つの言葉だけ。「割らない。焦らない。写す」。三つを言い終えるたび、背後の群衆が同じ言葉を小さく繰り返す。冬の誓いは、短いほど、深く入る。
任命を終えたひとりが、列の横で待っていた老女に頭を下げた。老女は孫の手を握り、雪番の手に自分の手を重ねた。温度が移り、指が柔らかくなる。柔らかくなった指で、若者は氷の端に匙を当てた。薄い音。氷が、ひと片、落ちる。落ちた氷片は、銅の皿の上で鈍い音を立てた。音は、小さな鐘のようだった。
「名が戻った」
また、子が言い、また、誰かが泣いた。泣きながら、笑う者もいた。笑い声は冬の空に薄く散り、散った笑いは雪の上で小さく弾んだ。弾んだ音は、狐火の書生の耳に入り、彼は新しい絵の余白に小さな丸を描き足した。「笑いの丸」。丸は、冬の形だ。
午后、遠くの白石列で旗が一度だけ鳴り、灰の渡しの縄印に霜が光った。境界は静かだ。放牧民の影も、兵の影もない。ただ、風が越える。越える風は板の前へ戻り、人の息の温度を運んで行く。
商務の官が、粥の列の伸びを見て眉間に皺を寄せたが、王が氷札の板に手を置いているのを見ると、彼は黙って引き下がった。秤の場では、裂け目の縄がきしむことなく、朝と同じ位置で米と水の皿を支え続けた。裂け目は、強さの証に変わっていた。
◇
そして夜。広場の火鉢は、昼よりも少し大きい火を持った。氷札の板には、今日写した名が所狭しと並び、端に小さく「春まで」と朱で書かれてある。狐火の書生は膝掛けを腰に巻き、最後の一本の絵を描き終えた。題は「凍れる名の見つけ方」。彼は絵と絵の間に、短い句を添えた。「見えぬのは、ないのではない」「冷たさは、形を守る」「温めるのは、手の仕事」。
雪番の若者たちは銅の匙を洗い、火のそばで乾かし、指先のひびを油で滑らせた。藍珠は遠くからそれを見て、剣を鞘ごと両手で持ち直した。剣は今日一日、板の側で在り続けた。抜かれない剣が、板を守った。守ったのは剣の重みであり、人の目であり、広場に置かれ続けた秤の裂け目である。
楓麟は、風の音を聞いた。明日は、雪が緩む。緩みは危うい。氷が落ちやすくなる。雪番の動きが、今日よりもずっと大事になる。彼は王の肩に軽く手を置いた。それだけでよかった。
遥は、名板の前に立ち、氷札の隅に小さく書き添えた。「凍れる名は、見えぬだけで、消えない」。朱の色は夜で黒くなり、黒は凍てた板の上に沈む。それでも、朝になれば黒は朱に戻る。戻ることを、今は文字が知っている。人は時々忘れる。文字は時々覚えている。
少年が鏡を掲げ、灯の光を遠い塔へ三度跳ね返した。塔から一度だけ返ってくる小さな光を、彼は嬉しそうに頷いて受け取った。光は、言葉より軽い。軽いが、遠くまで届く。
広場の片隅で、夏に「名板の刃」を振るった男が、今日縫った縫い目の上に指を置いていた。彼はまだ無口だった。無口のまま、紐を結ぶ。結び目は、小さい。小さい結び目が、板の裏で増えていく。その小ささが、冬にはちょうどいい。
雪の夜は長い。名の列は白く、銅縁は月を冷たく返す。火鉢は灰を厚くして火を隠し、人々は手を温め、その手で板を触れ、文字を読み、名前を呼ぶ。呼ぶ声は、小さく、しかし重い。凍れる名は、見えぬだけで消えていない。その確かさを、冬の間じゅう、何度でも確かめる。それが、越冬のやり方だ。
名は、朝にまた現れる。雪番の匙が、今日より少し軽く動き、温手が、昨日より少し早く手を温め、氷札の朱が、見えぬところで文字を支え、剣はまた、抜かれずに板のそばに立つ。楓麟は風を読んで雪の落ち方を誘い、王は板に小さく言葉を足す。冬は、そうして少しずつ進む。春は、そうして近づいてくる。名前は、その間じゅう、消えない。見えなくとも、消えない。——それを人の手が覚え、街の息が覚え、旗の布が覚え、銅の縁が覚えている。冬の国は、記憶の手で保たれていた。
「おばあ、ぼくの字、どこ……」
子の声は、雪より薄く、雪より高く、板に届く前に空に消えそうだった。老女は板に額を寄せ、呼気の丸い曇りで小さな穴を作る。そこから覗く線は、判じ絵のように滲んで、名前の一部のようでも、ただの冬の模様のようでもある。見えるようで見えないものは、人の心を急がせる。
「待ちなさい、割れちまうよ」
見回りの市兵が優しく言う。だが、優しさは寒さには勝てず、その言葉もまた白い息になって板に吸い込まれていくだけである。
朝の評議室へ運び込まれたのは、板から削り落ちた氷の欠片を入れた銅盆だった。医の館の若い官が鏡で光を当てながら、不用意に火を近づけた時の割れ方を、銅盆の中で再現する。小さな“ぱきり”という音が室内に走るたび、書記の肩がぴくりと跳ねた。
「火を焚いて溶かせば早い」
工営司の年配の官は指で卓をとんとんと叩く。指の節には泥の古傷が刻まれ、彼は冬の間ずっと雪掘りの段取りを付けてきた人だ。現場の人間ほど、手段を早く求める。
医の館の長は首を振る。頬に乾いた粉雪がまだ残っている。「煙は喉を荒らします。今は病が浅く引っ込んでいる時期。ここで誘うわけには行きません」
「見えぬ名に配分はできぬ。帳は止まる。市は凍る」
商務の官が机をたたくと、墨皿の表面がひやりと揺れた。凍てた空気の中では怒りさえも音を持たない。楓麟は窓に立ち、耳で風の筋を確かめていた。外の旗が鳴らない。鳴らないということは、風が奥底で細かく流れているということだ。流れはあるが、音はない。音がない風は、氷の子だ。急げば、欠ける。
「剣で氷を割るか?」
藍珠が、わざと粗い調子で言った。皮肉半分、試し半分。彼の剣は今日も鞘の中でまたひとつ冬を越えている。刃で割る、という言葉が評議に持ち込まれるたび、藍珠はそれを自分の胸の中で一度受け止め、重さを測ってから手放す。今もそうした。
「冬の氷は風の子。急げば欠ける」
楓麟の声は、窓から入る光の角度のように柔らかい。柔らかいが、確かだった。
遥は卓上の板の写しに目を落とし、薄い朱の筆を取る。彼はゆっくりと三行を書き出した。文字は大きくも小さくもない。見えるために書かれるのではなく、読まれるために書かれる文字だ。
「布告する。第一、『温手(ぬくて)』。板の前に火鉢を置く。氷に向けぬ。手に向ける。人の手で温め、氷の表皮を柔らげる。第二、『氷札』。凍ったままの名を別札に写し、板の外縁に仮に掲げる。春の陽で戻るまで、名を外に置かない。第三、『雪番』。氷を崩さぬ削りの役。若い者から募り、端から削る術を教える。……刃は使わない」
「刃は使わない」
藍珠が繰り返した。言葉は短く、繰り返しに意味が宿る。
密偵頭は心得たというように一礼し、医の館の小者を二人連れて出ていく。狐火の書生も、卓の陰で筆を握り直した。「狐火の本」の次は「氷の本」だ、と彼の目が言っている。彼はもう、冬の教育の言葉の温度を知っていた。
◇
広場の名板の前に、火鉢が並んだ。真っ赤ではない。鈍い橙。炭の上に灰が厚く覆い、炎は見えない。見えない火は、冬に向いていた。火鉢の側では、子どもたちが手をこすり合わせ、大人が手をかざし、老人が指の先だけを火に向ける。温手は、体ではなく手の儀式だ。手は板に触れる。板に触れる手は、名前に触れる。
「手でな。急がずに」
藍珠が、板の前にしゃがみ込んで一人ひとりの指の形を見ている。剣の柄を握る手を見る眼で、人の指を見ていた。指は皆、違った。節の太い指、細い指、爪が割れている指、傷跡の残る指。違う指が、同じ温度で板の上を動く。
狼煙番の少年が鏡を胸の前に抱え、刀身の代わりに光の筋を操った。冬の陽は弱い。だが、鏡で集めれば、指の動きを助けるだけの光は得られる。少年は光を、氷の上に長く置かない。長く置けば板が割れる。それを知っている彼は、点から点へ、光の刃でもって「当てては引き、当てては引き」を繰り返す。光の刃は切らない。光の刃は、読む。
「こっち、少し柔らいだ」
書記が、糸で印をつけた箇所に慎重に指を当て、僅かに色の濃くなった氷の膜を擦る。氷の下から、一本の縦画が現れた。縦画は、誰かの姓の真ん中だ。あ、と誰かが息を呑む。呼気が板に触れて、小さな丸い曇りがひとつ増えた。曇りの縁が、縦画の端をやわらかく守る。
雪番に任じられた若者たちが、銅の小さな匙を手に板の端から氷を剥がし始めた。剥がすのではない、掬う、に近い。端で薄く、中央へ薄く。銅は熱を持ち、手の温もりを吸って氷へ渡す。刃で割らず、温度で解く。若者のひとりは緊張で指先が震えていた。隣に立つ藍珠が、彼の手首を軽く押さえる。
「震えたままで良い。震える手は、深く突っ込まない」
震えは焦りではなかった。恐れではなかった。慎みだった。慎みは、冬の術だ。
氷は音を立てない。砕けない限り、音を持たない。だから群衆は息で音を作る。ふー、ふー、ふー……。冬の音楽が板の前に生まれ、その拍に合わせて、氷の皮が薄く薄く後ずさる。やがて、一つの名前が、氷の下から現れた。
「戻った!」
子が叫んだ。叫びは軽く、軽さは一瞬空へ跳ねたあと、板に降りて吸い込まれる。老人が涙をこぼす。涙は温かく、氷の角をほんの僅かに丸くする。丸くなった角は、次の言葉を受け入れやすくなる。
拍手が広がる。手袋の拍手は音がくぐもる。くぐもった拍手は、冬の街に似合う。派手ではないが、確かな厚みを持つ。拍手の輪の外で、一人の男が板の前に座り込んでいた。夏に「名板の刃」を振るった、あの男である。彼は今日、紐を通す役で来ていた。目の高さに現れたばかりの名前を、彼は指で触れずに眺めた。触れない、という触れ方。触れないことが、触れることになる瞬間がある。
「剣は温められぬ」
藍珠が呟く。彼は剣を鞘ごと板の柱に寄せ、鞘の革に手を置いた。革は冷たい。冷たい革の下にある刃は、冬の間ずっと眠っている。剣は、冬に温まらない。温まらないから、抜かれない。抜かれないから、春に役目を持つ。
楓麟は板の上に積もる雪を手の甲で払った。手の甲を使うのは、掌を冷やしすぎないためだ。彼は雪の落ち方を見て、次に削るべき方向を雪番に示した。氷は落ちる。落ちる方向は、誘える。誘う、それが冬の采配だ。
◇
氷札の板は、名の列の外縁に新しく据えられた。狐火の書生は、縦長の札に「仮」と小さく朱で印をつける。仮とは「まだ」。彼は、以前にも「仮板」の絵解きを描いた。その言葉が冬に救った幾つもの夜を、彼自身が知っている。今日、彼はもっと簡単な絵を描いた。氷の上にある字と、札に写した字が、春の矢印で結ばれている。子どもがそれを見て、矢印に指を添える。「ここからここへ」。矢印に触れる指は、寒さを忘れる。
氷札を書き写す書記の手は、いつもより遅い。遅さは間違いから遠ざける。法務の新任代行は、書き写しの順序に目を凝らし、誤記があった場合の掲示手順を確認する。「誤りは、命取り」と彼は夏に言った。それは冬にも言える。冬には、より強く言える。
雪番の若者の一人が、自分の札を懐から出した。そこにはまだ何の印もない。彼は氷の端で銅匙を当てながら、板の上の一点を指で示した。「これは、小さな『つ』ですか」。隣で身を低くした書記が覗き込み、頷いた。「そうだ。ここは『つ』だ。名前は……」。彼は口の中で名前を繰り返し、指で空中に書き、確かめる。彼にとって、字は図形ではなく、呼び声だ。呼べば、形が現れる。
「名が戻った」
同じ言葉を、別の子どもがいい、別の老人が頷く。昼までに、板の四分の一が「読める」になった。読める、が増えるほど、冬の空気の密度が変わる。密度が高くなり、風の筋が細かくなる。細かくなった風は、氷を薄く、落ち着かせる。
昼の粥の時間。鍋はいつもの倍の早さで空になった。商務は眉を顰めたが、王が肩で息をしながら軽く首を振ると、何も言わなかった。秤の場で見せた裂け目の縄は、今日も板の柱に結ばれている。裂け目があるから持つ、という見せ方が、冬の秤を支えていた。
◇
午後、薄日。狼煙番の少年が鏡で太陽を割り、板の上に短い光の筆を走らせる。少年の鏡の角度を見て、狐火の書生が面白がって、光の道筋を紙に描き始めた。「光の刃の本」。彼はそう呼んで笑い、子どもたちが集まってくる。医の館の薬師がそれに目をとめ、口覆い布の結び方と一緒に、氷の上での息の吐き方を絵で示す。吐きすぎない。吐かないよりも少し、吐く。少し、少し。少しは、冬の長さを計る単位だ。少しを重ねる術を、今この場で学ばせる。
夕刻、名の列の前に、名前を探せない男がひとり座り込んでいた。彼の鼻先から白い息が出ては消え、出ては消える。夏に「空白の札」を掲げたあの男が、いつのまにか彼のそばに座っていた。ふたりは言葉を交わさない。交わさないまま、板を見続けた。氷札の板のほうでは、別の男が筆を持って泣いている。「字が、戻った」と。戻るのではない。見えるようになったのだ、と書生は思ったが、口にしない。言葉はときに、正しさよりも器の形を問う。
藍珠は子どもの手へ自分の手袋を渡し、自分は素手で鞘を握った。鞘の革は冷たく、剣は中で重い。重さは、彼を落ち着かせる。剣は抜かない。抜かないという決意は、冬の間、何度も彼の胸の中で形を変え、しかしいつも同じ結論に戻った。剣は「ここにある」ことが大事で、その次に「抜かない」ことが大事だ。剣の在りかと、剣の不在。二つの大事の間で、彼は冬を守っている。
楓麟は、板の上で再び風を読んだ。雪は夜にかけて細かくなる。氷は夜にかけて固くなる。固さは、音を持つ。音が来る。来る前に、終えるべきものがある。彼は王に目で告げた。王は頷き、板の前で「今日の終わり」を宣言した。
「ここまで。続きは明朝」
止める勇気。冬には、それがもっとも難しい。
◇
夜。王宮の回廊。足音は厚い敷物で吸われ、灯の火はゆっくりと揺れる。外では雪の粒が音を持ち始め、白石列の旗の裂け目をときおり震わせる。王は、凍りかけた欄干の上に指先を置いた。冷たさが、骨に届く。
「凍れる名は、見えぬだけで消えてはいない」
言葉は息の中に、小さく立った。楓麟は欄干の端に雪を集め、指で小さな道を作る。「春までにすべて解かねば。解くのは風と手。……火ではない」
「剣で割るな。それだけは確かだ」
藍珠が短く言い、剣の鞘を撫でた。撫でるという行為は、彼にとって祈りではない。確認だ。剣の重さ、革の硬さ、縫い目の位置。すべて、冬のあいだに変わらないものの名を確かめるための触れ方だ。
遥は、板の上の縫い目の一つひとつを思い出し、昼間の子どもの声を思い出し、老女の涙の温度を思い出した。冬の記憶は冷たい。冷たいから、形を保つ。形を保つから、春に渡せる。春に渡すために、冬に見えるようにする。見えるようにするために、火ではなく、手を使う。
「温手は足りるか」
王の問いに、楓麟は頷いた。「火鉢は足りる。灰の渡しの備蓄を計り、狐火の書生が配し方の絵を描いた。火鉢は人を集める。集まれば、怒りは薄まる」
「氷札は、誤りが出ぬように」
遥の声に、藍珠が「書記が震えている」と答えた。「震える手は深く突っ込まない——今日、俺が雪番に言ったことだ。震える者を前に、落ち着いた者を背に置け。逆にするな」
「雪番に名をやる」
楓麟が言った。「働きを記す名。冬板に、雪番の列を作る。氷を崩さず削った者の名は、春に『氷が溶けた日』として読む」
王は黙って頷き、朱筆で小さく書いた。「雪番の名——春に読む」。文字は小さいが、冬に小さな文字はよく効く。大書は人を集める。小書は人を動かす。
◇
翌朝、広場に新しい儀式が加わった。雪番の任命だ。若者が十人、板の前に並び、銅の匙を胸に置いて、王の前で短い誓いを述べる。誓いは三つの言葉だけ。「割らない。焦らない。写す」。三つを言い終えるたび、背後の群衆が同じ言葉を小さく繰り返す。冬の誓いは、短いほど、深く入る。
任命を終えたひとりが、列の横で待っていた老女に頭を下げた。老女は孫の手を握り、雪番の手に自分の手を重ねた。温度が移り、指が柔らかくなる。柔らかくなった指で、若者は氷の端に匙を当てた。薄い音。氷が、ひと片、落ちる。落ちた氷片は、銅の皿の上で鈍い音を立てた。音は、小さな鐘のようだった。
「名が戻った」
また、子が言い、また、誰かが泣いた。泣きながら、笑う者もいた。笑い声は冬の空に薄く散り、散った笑いは雪の上で小さく弾んだ。弾んだ音は、狐火の書生の耳に入り、彼は新しい絵の余白に小さな丸を描き足した。「笑いの丸」。丸は、冬の形だ。
午后、遠くの白石列で旗が一度だけ鳴り、灰の渡しの縄印に霜が光った。境界は静かだ。放牧民の影も、兵の影もない。ただ、風が越える。越える風は板の前へ戻り、人の息の温度を運んで行く。
商務の官が、粥の列の伸びを見て眉間に皺を寄せたが、王が氷札の板に手を置いているのを見ると、彼は黙って引き下がった。秤の場では、裂け目の縄がきしむことなく、朝と同じ位置で米と水の皿を支え続けた。裂け目は、強さの証に変わっていた。
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そして夜。広場の火鉢は、昼よりも少し大きい火を持った。氷札の板には、今日写した名が所狭しと並び、端に小さく「春まで」と朱で書かれてある。狐火の書生は膝掛けを腰に巻き、最後の一本の絵を描き終えた。題は「凍れる名の見つけ方」。彼は絵と絵の間に、短い句を添えた。「見えぬのは、ないのではない」「冷たさは、形を守る」「温めるのは、手の仕事」。
雪番の若者たちは銅の匙を洗い、火のそばで乾かし、指先のひびを油で滑らせた。藍珠は遠くからそれを見て、剣を鞘ごと両手で持ち直した。剣は今日一日、板の側で在り続けた。抜かれない剣が、板を守った。守ったのは剣の重みであり、人の目であり、広場に置かれ続けた秤の裂け目である。
楓麟は、風の音を聞いた。明日は、雪が緩む。緩みは危うい。氷が落ちやすくなる。雪番の動きが、今日よりもずっと大事になる。彼は王の肩に軽く手を置いた。それだけでよかった。
遥は、名板の前に立ち、氷札の隅に小さく書き添えた。「凍れる名は、見えぬだけで、消えない」。朱の色は夜で黒くなり、黒は凍てた板の上に沈む。それでも、朝になれば黒は朱に戻る。戻ることを、今は文字が知っている。人は時々忘れる。文字は時々覚えている。
少年が鏡を掲げ、灯の光を遠い塔へ三度跳ね返した。塔から一度だけ返ってくる小さな光を、彼は嬉しそうに頷いて受け取った。光は、言葉より軽い。軽いが、遠くまで届く。
広場の片隅で、夏に「名板の刃」を振るった男が、今日縫った縫い目の上に指を置いていた。彼はまだ無口だった。無口のまま、紐を結ぶ。結び目は、小さい。小さい結び目が、板の裏で増えていく。その小ささが、冬にはちょうどいい。
雪の夜は長い。名の列は白く、銅縁は月を冷たく返す。火鉢は灰を厚くして火を隠し、人々は手を温め、その手で板を触れ、文字を読み、名前を呼ぶ。呼ぶ声は、小さく、しかし重い。凍れる名は、見えぬだけで消えていない。その確かさを、冬の間じゅう、何度でも確かめる。それが、越冬のやり方だ。
名は、朝にまた現れる。雪番の匙が、今日より少し軽く動き、温手が、昨日より少し早く手を温め、氷札の朱が、見えぬところで文字を支え、剣はまた、抜かれずに板のそばに立つ。楓麟は風を読んで雪の落ち方を誘い、王は板に小さく言葉を足す。冬は、そうして少しずつ進む。春は、そうして近づいてくる。名前は、その間じゅう、消えない。見えなくとも、消えない。——それを人の手が覚え、街の息が覚え、旗の布が覚え、銅の縁が覚えている。冬の国は、記憶の手で保たれていた。



