冬至の朝は、夜の名残を引きずっていた。城下は雪に閉ざされ、屋根の白はまだ新しく、路地の氷は古い。吐く息は古く、新しく、何本もの薄い糸になって重なり合い、掲示板の前で揺れていた。名の列は霜の薄膜に覆われ、朱の丸も、薄線も、点線も、いくぶん色を吸われて白に溶けかけている。板そのものが冷たく鳴る——板は木でできているのに、金属のような音を立てる朝だった。
粥の列は長く、列の端は薄紅平原へ続く道の方へ折れ、別の列は市の石橋の下まで伸びていた。白旗が増え、屋根の上に無色の弧がいくつも並ぶ。結び目は固く、結ばれた布は硬く、まるで風が結び目の内側だけを避けて吹いているみたいに、旗の周りの空気は静かだった。
「剣を抜け!」
叫びは、どこから始まったのか、誰も見なかった。聞いた者は多かった。最初は一人分の声。それから二人分。三人分。列の奥から、板の近くから、広場の縁から。雪の上に投げ出された声は冷たく、冷たさがかえって燃えるように聞こえた。
「剣で奪え!」
群衆の中の眼が、剣を探す。市兵の腰、藍珠の腰、石壁の影、旗の柱の根。手が刃の記憶を探す。冬は記憶を硬くする——硬くなった記憶は、角で人の心に当たって痛みを生む。痛みは短い、そして、強い。
市兵の一人が本能で鞘に手をかけた。刃の重みは、冬にだけ軽く感じられるときがある。寒さは手から感覚を奪い、奪われた感覚の代わりに影のような力を与える。彼の指はちょうど鞘の縫い目を掴みかけ、革の冷えに驚き、そして——。
「抜くな!」
王の声は、高くも低くもなかった。短く、まっすぐ、冷気の隙間を滑って市兵の耳に届いた。彼の手は、鞘の縫い目の上で止まった。止まった指先は震えず、ただ、次の命を待つ兵士の指に戻った。
広場の端で、楓麟が耳を傾けていた。風は北から南へと薄く流れ、雪の粒は小さく、乾いている。乾いた雪は舞い、舞えば視界を濁らせる。濁れば、刃の勘は鈍る。——風は味方でもあり、敵でもある。どちらにするかは、今、こちらが決めることだ。楓麟はわずかに顎を引いて合図した。無言の命は、冬の朝にはよく通る。
藍珠は剣の柄に指を置き、鞘の縫い目のひとつひとつを指の腹で辿った。剣はここにある。触れられるところに。だが、抜かれない。抜かないことを見せるために、剣はここにある。彼は、鞘ごと剣を胸の前に持ち上げ、雪の光に晒した。刃ではなく、鞘の革が光る。革は、冬の光を薄く返す。薄い光は、怒りの目に刺さらない。
遥は、広場の中央へ歩み出た。雪がきしみ、足音が薄い弧を描く。掲示板の前に立ち、振り返る。粥の列の人々が一斉に揺れた。揺れは、行列の波だ。波は刃を求める。刃は波を切る。——だが、今日は違う波を作る。王は手を上げた。
「場を開く。三つ」
野太い声が合図の角笛の代わりとなり、板の陰から書記と市兵が動き出した。夜のうちに用意していた板、紐、秤、短い卓が、雪の上に置かれる。
「秤の場」
裂け目を縫った秤が、柱のそばに据えられる。裂け目は縄と木釘で補われ、裂け目そのものが模様のようになっている。王は米の袋を秤に開け、水桶を吊り、仕事の小石を皿に載せる。砂時計は横の台で待機する。釣り合いは揺れるが、落ちない。揺れは見える。揺れが見えれば、揺れに名前をつけられる。
「縫いの場」
切り裂かれた名板の古い板が布の上に寝かされ、針と糸が回される。子どもが糸の端を持ち、老女が結び目を作り、狐火の書生が縫い目の意味を大きな字で描く。夏に「名板の刃」を振るった男が、黙って紐を通す。彼の指は太く、冬の冷たさに慣れている。指は、言葉より多くを覚える。
「旗の場」
白旗と無色の旗が、束から抜かれ、結び目の作り方が絵で示される。旗は免状ではなく、息継ぎだ。旗は恥ではなく、春へ繋ぐ糸だ。王の朱で「旗の意味」が書かれた板が立てられる。「命を守る。返済は春に問う」と太い字で。子どもにも読めるように、絵が添えられる。絵の間に「旗の結び目は丸く」と小さな字。丸は冬の形だ。
場が広がるにつれ、冷えた空気がわずかに動いた。動きは暖と同じ働きをする。固まったものをほどく。ほどけたものを再び結ぶ。結び直しの場は、刃の場よりも時間がかかる。時間がかかるということ自体が、怒りを冷ます。
それでも、剣を求める声は、なお、凍った地面から突き上がってくる。
「剣で奪え!」
「剣で取り返せ!」
「剣で黙らせろ!」
投石が始まる。最初は小石。次に雪の塊。氷の角が混じる。角は、切る。石は、覚えを壊す。秤の柱に当たり、裂け目の縄が軋む。名板の銅縁に当たり、鈍い音が鳴る。旗の布に当たり、布はそれでも静かだ。
藍珠が立った。鞘のままの剣を高く掲げ、雪の光の中で示した。
「剣はここにある」
彼は声を押さえ、しかし確かに広場全体に届くように言った。「ここにある。見えよ。……だが、抜かぬ。抜かぬからこそ守れる。刃を見せれば、心は刃を見る。鞘を見せれば、心は中身を想像する。想像は、冬の刃より強い」
投げられた雪の塊が、彼の顔の横を過ぎた。瞬間、楓麟が風を切った。風は雪を舞わせ、舞った雪は石の軌道を逸らし、逸らされた石は秤の脚の手前に落ちた。落ちた音は、小さく、短く、広場のざわめきに飲み込まれる。彼は耳を傾け、風の筋を指で誘導した。誘導するというより、風が自らそこへ行きたがっているのを、背中で後押しするようだった。
王は、秤の前に立ち、群衆のほうへ向き直る。裂け目を縫った板に手を置き、釣り合いの揺れを自分の指で止める。
「剣は名を消す」
彼は、言葉の形を一つひとつ確かめるように、低く、ゆっくり言った。「剣は、書いた名を切り裂く。剣で奪ったものは、剣で奪い返される。奪い返される間に、名が消える。……秤は、名を残す。秤は嘘をつかない。秤は揺れる。揺れて、残す。揺れることが、残すことだ」
誰かが、息を飲んだ音がした。別の誰かが、布の端を握り直す音がした。男の叫び声の背に、小さな子のすすり泣きが混じる。老女の喉から、低い短い声がもれ、その声は、毛皮の下にささやかに温もりを保っている。
「名を消したいか!」
王の声は、初めて少し上がった。雪がその声を受け止め、冷やし、遠くへ運ぶ。遠くへ運ばれた声は、耳に刺さらず、胸に落ちる。
沈黙があった。短いが、確かな沈黙。沈黙は、冬の礼だ。礼のあと、広場のどこかから、やや掠れた声が返った。
「残せ!」
別の場所から、別の声。
「残せ!」
声は広がる。残せ、残せ、残せ——言葉が繰り返されるうちに、形が刻まれる。刻まれた形は、刃ではなく、糸だ。糸は冷たいが、切れにくい。
投石は止まらないが、投げる腕の角度は下がる。石は高くは飛ばず、雪の上で音を失い、落ちる。雪の上の石は、春に土に混ざり、小さな路の礫になる。今、空にあった刃は、地に落ち、道に変わりつつある。
◇
秤の場では、仕事の小石が一つずつ皿に落ちていった。雪掘り一山。板の縫い一列。薪十束。清め場の湯の火守り一刻。水見番の巡り。医の館の布の仕立て。小石は冷たいが、落ちる音は温かい。温かい音は、冬の空気に吸われ、耳に残る。耳に残った音は、夜の眠りを深くする。
縫いの場では、夏に刃を手にした男が、子どもと並んで糸を通した。彼の横顔は硬く、目は低く、唇は固い。だが、縫い目は美しかった。等間隔。均一の深さ。糸は白、板は古い茶。縫い目は白い、冬の道のようだった。
狐火の書生が、縫い目の横に小さな図を描いていた。「傷は消えない。傷を縫えば、傷は強くなる」。文字は簡単、絵は素朴。が、冬の目にはそれがよく合う。豪奢な飾りは、冬の寒さに負ける。素朴な線は、寒さに勝つ。
旗の場では、無色の布の束が減っていった。旗は数で語らない。結び目で語る。王はひとつだけ自分の手で結び、結び目を確かめ、布に指の温度を残した。誰もその結び目の特別を騒がない。騒がないことが特別だ。旗はその家の屋根に揚がり、風はその旗の意味を知っているかのように、結び目の方向だけを撫でた。
◇
昼の終わり、雪は少し太くなり、音を持ち始めた。冬至の雪は、午后に音を持つ。微かな音だが、耳の奥に残る。小さな鈴を遠くで鳴らしているみたいな音。音は、刃を鈍らせる。鈍った刃は、鞘に入る。
狐火の書生が秤の場の端で、狼煙番の少年と並んで立った。少年は鏡を胸に、書生は筆を耳に挟んでいる。二人とも鼻の頭を赤くして、額に小さな汗を浮かべている。雪の中の汗は、自分の火だ。自分の火は、冬を持つ。
「残したい」
少年が、小さく言った。「残せ、ってさっきみんな言ってたけど、意味、わかって言ってるのかな」
「わかっていない言葉が、先に形になることがある」
書生が笑った。「形が先で、意味があと。冬は、その順番で持つ。……夏は逆だ。意味が先で、形があと。だから冬と夏は喧嘩する」
「冬は、喧嘩に勝つ?」
「勝たない。負けない」
二人は、同時に空を見上げ、同時に目を細めた。雪の粒がまつ毛に乗り、溶け、冷たさだけが残る。その冷たさは、一瞬、刃の冷たさに似ている。次の瞬間、湯の湯気の冷たさに似る。似て、違う。違いが、冬を越させる。
◇
夕刻、風がひときわ強くなり、白石列の旗の一本が裂ける音が、遠くから届いた。ざわめきが一瞬広場を駆け、次の瞬間、誰かが走り、別の誰かが布を持ち、さらに別の誰かが針を持って追いかけた。裂けた旗は、夜を呼ぶ。夜は、縫い目を求める。縫い目は、旗を戻す。
楓麟は、風の向きを変えようとはしなかった。風は冬至の印だ。印には逆らわない。印は受け取って、見せて、縫って、残す。彼はただ、広場の雪が吹き溜まらぬように足で小さな手前の溝を作り、水が春に流れる道の始まりをつけた。冬に道をつけるというのは、春に言葉をつけることだ。
藍珠は、剣を鞘のまま柱のそばに立て、その隣に立った。剣はここにある。剣がここにあるから、抜かないことができる。抜かないことが、剣を重くする。重い剣は、軽くなるな、と大声で言わなくてもいい。重さは、沈黙の側にある。
王は、冬至の祭壇に向かった。雪で低く盛られた祭壇。夏の祭壇とは違う。果実も、花も、旗も、剣も、ない。あるのは、雪と板と、短い火だけ。雪は白、板は茶、火は橙。三色だけ。混ざらない。混ざらないから、重ならない。重ならないから、残る。
王は、朱筆をとった。筆は太い。太い字は、冬に向いている。細い字は、冬に負ける。彼は、板の上に大書した。
「名を消さない」
筆の音が聞こえた。木の目を渡る音。朱が染みる音。音というより、指の中の骨に伝わってくる圧。圧が、冬の空気に広がる。広がった圧は、投石を止める。止めた投石のかわりに、いくつかの小さな拍手が起きた。拍手はすぐに止み、停止の静寂が冬の夜の布に重なる。
王は、その板を立て、釘を打った。釘は冷たい。指は温かい。温かい指が冷たい釘を押し込み、板に音が残る。音は、小さな太鼓の連打のようだ。太鼓は、ここでは戦の号令ではない。生の号令だ。粥の列に向けて、一番短い行進曲だ。
群衆は火を囲んだ。白粥と灰粥が、一様に湯気を上げる。秤の場の脇の鍋は、今日に限って、ほんのひとさじだけ増やされている。冬至だから。冬至は節目だから。節目は、人に少しだけ余白を与える。余白は、翌日のために要る。
「剣を抜かなかった」
誰かが、火の向こう側で言った。返事はない。返事がないことが、返事だった。返事の代わりに、楓麟が風を読み、藍珠が剣を鞘に軽く叩きつけ、王が火に手をかざした。その三つの動きが、広場の冬至の記憶を、形にして残した。
◇
夜更け。王宮の回廊。雪は階段の縁に薄く積もり、灯は冷たく、しかし、風の当たる方向だけは微かに揺れる。楓麟、藍珠、遥。三人の影が、灯の影に重なる。
藍珠は、剣を静かに鞘に収めた。収める所作は、抜く所作よりも静かで、時間がかかる。鞘の口に刃が触れる音が、ひときわ薄く鳴った。薄い音は、冬の夜に似合う。
「風が変わる」
楓麟が囁く。彼の耳は、城の上を渡る風の背を撫で、灰の渡しを越える風の足跡を拾い、白石列の旗の裂け目を撫でる風の心を感じ取る。「南が、少し息を吹き返す。明日は雪が緩む。緩むと、怒りも緩む。冬至を越えれば、光は長くなる。長くなる光は、刃を短くする」
「剣は、抜かなかった」
藍珠が言った。言葉は短い。彼において、短さは慎みであり、誇りでもあった。「抜かぬ剣は、守った。……抜かぬ剣を、守ったのは、秤と、旗と、縫い目だ。剣は、今日は、その後ろに立っていればよかった」
「冬を越す。名を残す」
王は雪に手を伸ばし、指の腹で冷たさを受けた。冷たさは、皮膚を通り抜け、骨に触る。骨に触る冷たさは、人に明日の形を思い出させる。彼は、誰に向けるでもなく誓った。声は低く、誓いは短く。「冬を越す。名を残す。——剣を抜かずに」
三人は、しばらく黙って雪を見た。雪は降り続ける。降り続けることは、冬の礼儀だ。礼儀に支えられた沈黙は、厚く、温かい。やがて、遠くで狼煙番の少年の鏡が、灯の微光を反射した。塔から小さな光が一度返る。返しは短い。短い返事は、冬の返事だ。そこには、何もないように見えて、すべてが含まれている。
◇
雪は翌朝、ほんの少しだけ緩んだ。広場の秤の縄は、新しく締め直され、縫いの場の板は、昨夜縫われた縫い目が薄く光っていた。旗の場では、昨日結ばれた結び目が固く、ほどけず、風を受けて、静かに鳴る。鳴るというより、風が旗の中を通り抜ける音が、結び目のところでわずかに低くなる。その低さが、人に「ここに結び目がある」と知らせる。
冬至の剣は、抜かれなかった。抜かれないことで、力を持った。抜かないという決断は、剣の形を変えた。刃から鞘へ。鞘から秤へ。秤から旗へ。旗から名へ。名から、記憶へ。記憶は、刃よりも長い。
冬至は越えた。だが、最後の試練は春に訪れる。記憶の継承。冬に刻んだ縫い目を、春に誰が指でなぞるか。冬に結んだ旗の結び目を、春に誰がほどかずに次の布へ渡すか。冬に描いた「名を消さない」の朱字を、春に誰が読み直すか。剣は鞘の中で眠る——眠らせ続けるために、帳と鍬と鏡と針と、そして秤が、明日も人の手の中で重みを持つ。
王は、広場の端で、一枚の新しい板の前に立った。板には、まだ何も書かれていない。空白は、冬の中で鮮やかだ。空白は、春のためにある。彼は朱筆をとり、今度はゆっくり、細く、書いた。
「名は、春に読む」
細い字は、冬に負けることもある。だが、今日は、負けなかった。雪がやみ、遠い白石列の旗が、裂け目を縫われたまま、薄い光の中で立っていた。無色の旗は、境界の上で、静かに息をしていた。城下の白旗は、屋根の上で、同じように静かに息をしていた。そのどちらも、剣の影ではなく、名の影で揺れていた。冬は、剣を欲した。だが、名が持ちこたえた。
冬至の剣は、抜かれない。抜かれない剣は、国の形を内側から支え、外側から見せる。見せるというのは、抜かないということだ。見せることで、剣は眠る。眠らせることで、名は残る。名が残れば、春に読む者が現れる。読む者が現れれば、冬の縫い目は無駄にならない。
雪の境界の向こうで、風が一度だけ鳴った。楓麟は耳を傾け、藍珠は鞘を撫で、王は指で板の木目をなぞった。木目は、冬の時間を刻んでいる。刻まれた時間は、名と共に春へ渡る——そういう確信だけが、寒さの中にあって温かかった。
粥の列は長く、列の端は薄紅平原へ続く道の方へ折れ、別の列は市の石橋の下まで伸びていた。白旗が増え、屋根の上に無色の弧がいくつも並ぶ。結び目は固く、結ばれた布は硬く、まるで風が結び目の内側だけを避けて吹いているみたいに、旗の周りの空気は静かだった。
「剣を抜け!」
叫びは、どこから始まったのか、誰も見なかった。聞いた者は多かった。最初は一人分の声。それから二人分。三人分。列の奥から、板の近くから、広場の縁から。雪の上に投げ出された声は冷たく、冷たさがかえって燃えるように聞こえた。
「剣で奪え!」
群衆の中の眼が、剣を探す。市兵の腰、藍珠の腰、石壁の影、旗の柱の根。手が刃の記憶を探す。冬は記憶を硬くする——硬くなった記憶は、角で人の心に当たって痛みを生む。痛みは短い、そして、強い。
市兵の一人が本能で鞘に手をかけた。刃の重みは、冬にだけ軽く感じられるときがある。寒さは手から感覚を奪い、奪われた感覚の代わりに影のような力を与える。彼の指はちょうど鞘の縫い目を掴みかけ、革の冷えに驚き、そして——。
「抜くな!」
王の声は、高くも低くもなかった。短く、まっすぐ、冷気の隙間を滑って市兵の耳に届いた。彼の手は、鞘の縫い目の上で止まった。止まった指先は震えず、ただ、次の命を待つ兵士の指に戻った。
広場の端で、楓麟が耳を傾けていた。風は北から南へと薄く流れ、雪の粒は小さく、乾いている。乾いた雪は舞い、舞えば視界を濁らせる。濁れば、刃の勘は鈍る。——風は味方でもあり、敵でもある。どちらにするかは、今、こちらが決めることだ。楓麟はわずかに顎を引いて合図した。無言の命は、冬の朝にはよく通る。
藍珠は剣の柄に指を置き、鞘の縫い目のひとつひとつを指の腹で辿った。剣はここにある。触れられるところに。だが、抜かれない。抜かないことを見せるために、剣はここにある。彼は、鞘ごと剣を胸の前に持ち上げ、雪の光に晒した。刃ではなく、鞘の革が光る。革は、冬の光を薄く返す。薄い光は、怒りの目に刺さらない。
遥は、広場の中央へ歩み出た。雪がきしみ、足音が薄い弧を描く。掲示板の前に立ち、振り返る。粥の列の人々が一斉に揺れた。揺れは、行列の波だ。波は刃を求める。刃は波を切る。——だが、今日は違う波を作る。王は手を上げた。
「場を開く。三つ」
野太い声が合図の角笛の代わりとなり、板の陰から書記と市兵が動き出した。夜のうちに用意していた板、紐、秤、短い卓が、雪の上に置かれる。
「秤の場」
裂け目を縫った秤が、柱のそばに据えられる。裂け目は縄と木釘で補われ、裂け目そのものが模様のようになっている。王は米の袋を秤に開け、水桶を吊り、仕事の小石を皿に載せる。砂時計は横の台で待機する。釣り合いは揺れるが、落ちない。揺れは見える。揺れが見えれば、揺れに名前をつけられる。
「縫いの場」
切り裂かれた名板の古い板が布の上に寝かされ、針と糸が回される。子どもが糸の端を持ち、老女が結び目を作り、狐火の書生が縫い目の意味を大きな字で描く。夏に「名板の刃」を振るった男が、黙って紐を通す。彼の指は太く、冬の冷たさに慣れている。指は、言葉より多くを覚える。
「旗の場」
白旗と無色の旗が、束から抜かれ、結び目の作り方が絵で示される。旗は免状ではなく、息継ぎだ。旗は恥ではなく、春へ繋ぐ糸だ。王の朱で「旗の意味」が書かれた板が立てられる。「命を守る。返済は春に問う」と太い字で。子どもにも読めるように、絵が添えられる。絵の間に「旗の結び目は丸く」と小さな字。丸は冬の形だ。
場が広がるにつれ、冷えた空気がわずかに動いた。動きは暖と同じ働きをする。固まったものをほどく。ほどけたものを再び結ぶ。結び直しの場は、刃の場よりも時間がかかる。時間がかかるということ自体が、怒りを冷ます。
それでも、剣を求める声は、なお、凍った地面から突き上がってくる。
「剣で奪え!」
「剣で取り返せ!」
「剣で黙らせろ!」
投石が始まる。最初は小石。次に雪の塊。氷の角が混じる。角は、切る。石は、覚えを壊す。秤の柱に当たり、裂け目の縄が軋む。名板の銅縁に当たり、鈍い音が鳴る。旗の布に当たり、布はそれでも静かだ。
藍珠が立った。鞘のままの剣を高く掲げ、雪の光の中で示した。
「剣はここにある」
彼は声を押さえ、しかし確かに広場全体に届くように言った。「ここにある。見えよ。……だが、抜かぬ。抜かぬからこそ守れる。刃を見せれば、心は刃を見る。鞘を見せれば、心は中身を想像する。想像は、冬の刃より強い」
投げられた雪の塊が、彼の顔の横を過ぎた。瞬間、楓麟が風を切った。風は雪を舞わせ、舞った雪は石の軌道を逸らし、逸らされた石は秤の脚の手前に落ちた。落ちた音は、小さく、短く、広場のざわめきに飲み込まれる。彼は耳を傾け、風の筋を指で誘導した。誘導するというより、風が自らそこへ行きたがっているのを、背中で後押しするようだった。
王は、秤の前に立ち、群衆のほうへ向き直る。裂け目を縫った板に手を置き、釣り合いの揺れを自分の指で止める。
「剣は名を消す」
彼は、言葉の形を一つひとつ確かめるように、低く、ゆっくり言った。「剣は、書いた名を切り裂く。剣で奪ったものは、剣で奪い返される。奪い返される間に、名が消える。……秤は、名を残す。秤は嘘をつかない。秤は揺れる。揺れて、残す。揺れることが、残すことだ」
誰かが、息を飲んだ音がした。別の誰かが、布の端を握り直す音がした。男の叫び声の背に、小さな子のすすり泣きが混じる。老女の喉から、低い短い声がもれ、その声は、毛皮の下にささやかに温もりを保っている。
「名を消したいか!」
王の声は、初めて少し上がった。雪がその声を受け止め、冷やし、遠くへ運ぶ。遠くへ運ばれた声は、耳に刺さらず、胸に落ちる。
沈黙があった。短いが、確かな沈黙。沈黙は、冬の礼だ。礼のあと、広場のどこかから、やや掠れた声が返った。
「残せ!」
別の場所から、別の声。
「残せ!」
声は広がる。残せ、残せ、残せ——言葉が繰り返されるうちに、形が刻まれる。刻まれた形は、刃ではなく、糸だ。糸は冷たいが、切れにくい。
投石は止まらないが、投げる腕の角度は下がる。石は高くは飛ばず、雪の上で音を失い、落ちる。雪の上の石は、春に土に混ざり、小さな路の礫になる。今、空にあった刃は、地に落ち、道に変わりつつある。
◇
秤の場では、仕事の小石が一つずつ皿に落ちていった。雪掘り一山。板の縫い一列。薪十束。清め場の湯の火守り一刻。水見番の巡り。医の館の布の仕立て。小石は冷たいが、落ちる音は温かい。温かい音は、冬の空気に吸われ、耳に残る。耳に残った音は、夜の眠りを深くする。
縫いの場では、夏に刃を手にした男が、子どもと並んで糸を通した。彼の横顔は硬く、目は低く、唇は固い。だが、縫い目は美しかった。等間隔。均一の深さ。糸は白、板は古い茶。縫い目は白い、冬の道のようだった。
狐火の書生が、縫い目の横に小さな図を描いていた。「傷は消えない。傷を縫えば、傷は強くなる」。文字は簡単、絵は素朴。が、冬の目にはそれがよく合う。豪奢な飾りは、冬の寒さに負ける。素朴な線は、寒さに勝つ。
旗の場では、無色の布の束が減っていった。旗は数で語らない。結び目で語る。王はひとつだけ自分の手で結び、結び目を確かめ、布に指の温度を残した。誰もその結び目の特別を騒がない。騒がないことが特別だ。旗はその家の屋根に揚がり、風はその旗の意味を知っているかのように、結び目の方向だけを撫でた。
◇
昼の終わり、雪は少し太くなり、音を持ち始めた。冬至の雪は、午后に音を持つ。微かな音だが、耳の奥に残る。小さな鈴を遠くで鳴らしているみたいな音。音は、刃を鈍らせる。鈍った刃は、鞘に入る。
狐火の書生が秤の場の端で、狼煙番の少年と並んで立った。少年は鏡を胸に、書生は筆を耳に挟んでいる。二人とも鼻の頭を赤くして、額に小さな汗を浮かべている。雪の中の汗は、自分の火だ。自分の火は、冬を持つ。
「残したい」
少年が、小さく言った。「残せ、ってさっきみんな言ってたけど、意味、わかって言ってるのかな」
「わかっていない言葉が、先に形になることがある」
書生が笑った。「形が先で、意味があと。冬は、その順番で持つ。……夏は逆だ。意味が先で、形があと。だから冬と夏は喧嘩する」
「冬は、喧嘩に勝つ?」
「勝たない。負けない」
二人は、同時に空を見上げ、同時に目を細めた。雪の粒がまつ毛に乗り、溶け、冷たさだけが残る。その冷たさは、一瞬、刃の冷たさに似ている。次の瞬間、湯の湯気の冷たさに似る。似て、違う。違いが、冬を越させる。
◇
夕刻、風がひときわ強くなり、白石列の旗の一本が裂ける音が、遠くから届いた。ざわめきが一瞬広場を駆け、次の瞬間、誰かが走り、別の誰かが布を持ち、さらに別の誰かが針を持って追いかけた。裂けた旗は、夜を呼ぶ。夜は、縫い目を求める。縫い目は、旗を戻す。
楓麟は、風の向きを変えようとはしなかった。風は冬至の印だ。印には逆らわない。印は受け取って、見せて、縫って、残す。彼はただ、広場の雪が吹き溜まらぬように足で小さな手前の溝を作り、水が春に流れる道の始まりをつけた。冬に道をつけるというのは、春に言葉をつけることだ。
藍珠は、剣を鞘のまま柱のそばに立て、その隣に立った。剣はここにある。剣がここにあるから、抜かないことができる。抜かないことが、剣を重くする。重い剣は、軽くなるな、と大声で言わなくてもいい。重さは、沈黙の側にある。
王は、冬至の祭壇に向かった。雪で低く盛られた祭壇。夏の祭壇とは違う。果実も、花も、旗も、剣も、ない。あるのは、雪と板と、短い火だけ。雪は白、板は茶、火は橙。三色だけ。混ざらない。混ざらないから、重ならない。重ならないから、残る。
王は、朱筆をとった。筆は太い。太い字は、冬に向いている。細い字は、冬に負ける。彼は、板の上に大書した。
「名を消さない」
筆の音が聞こえた。木の目を渡る音。朱が染みる音。音というより、指の中の骨に伝わってくる圧。圧が、冬の空気に広がる。広がった圧は、投石を止める。止めた投石のかわりに、いくつかの小さな拍手が起きた。拍手はすぐに止み、停止の静寂が冬の夜の布に重なる。
王は、その板を立て、釘を打った。釘は冷たい。指は温かい。温かい指が冷たい釘を押し込み、板に音が残る。音は、小さな太鼓の連打のようだ。太鼓は、ここでは戦の号令ではない。生の号令だ。粥の列に向けて、一番短い行進曲だ。
群衆は火を囲んだ。白粥と灰粥が、一様に湯気を上げる。秤の場の脇の鍋は、今日に限って、ほんのひとさじだけ増やされている。冬至だから。冬至は節目だから。節目は、人に少しだけ余白を与える。余白は、翌日のために要る。
「剣を抜かなかった」
誰かが、火の向こう側で言った。返事はない。返事がないことが、返事だった。返事の代わりに、楓麟が風を読み、藍珠が剣を鞘に軽く叩きつけ、王が火に手をかざした。その三つの動きが、広場の冬至の記憶を、形にして残した。
◇
夜更け。王宮の回廊。雪は階段の縁に薄く積もり、灯は冷たく、しかし、風の当たる方向だけは微かに揺れる。楓麟、藍珠、遥。三人の影が、灯の影に重なる。
藍珠は、剣を静かに鞘に収めた。収める所作は、抜く所作よりも静かで、時間がかかる。鞘の口に刃が触れる音が、ひときわ薄く鳴った。薄い音は、冬の夜に似合う。
「風が変わる」
楓麟が囁く。彼の耳は、城の上を渡る風の背を撫で、灰の渡しを越える風の足跡を拾い、白石列の旗の裂け目を撫でる風の心を感じ取る。「南が、少し息を吹き返す。明日は雪が緩む。緩むと、怒りも緩む。冬至を越えれば、光は長くなる。長くなる光は、刃を短くする」
「剣は、抜かなかった」
藍珠が言った。言葉は短い。彼において、短さは慎みであり、誇りでもあった。「抜かぬ剣は、守った。……抜かぬ剣を、守ったのは、秤と、旗と、縫い目だ。剣は、今日は、その後ろに立っていればよかった」
「冬を越す。名を残す」
王は雪に手を伸ばし、指の腹で冷たさを受けた。冷たさは、皮膚を通り抜け、骨に触る。骨に触る冷たさは、人に明日の形を思い出させる。彼は、誰に向けるでもなく誓った。声は低く、誓いは短く。「冬を越す。名を残す。——剣を抜かずに」
三人は、しばらく黙って雪を見た。雪は降り続ける。降り続けることは、冬の礼儀だ。礼儀に支えられた沈黙は、厚く、温かい。やがて、遠くで狼煙番の少年の鏡が、灯の微光を反射した。塔から小さな光が一度返る。返しは短い。短い返事は、冬の返事だ。そこには、何もないように見えて、すべてが含まれている。
◇
雪は翌朝、ほんの少しだけ緩んだ。広場の秤の縄は、新しく締め直され、縫いの場の板は、昨夜縫われた縫い目が薄く光っていた。旗の場では、昨日結ばれた結び目が固く、ほどけず、風を受けて、静かに鳴る。鳴るというより、風が旗の中を通り抜ける音が、結び目のところでわずかに低くなる。その低さが、人に「ここに結び目がある」と知らせる。
冬至の剣は、抜かれなかった。抜かれないことで、力を持った。抜かないという決断は、剣の形を変えた。刃から鞘へ。鞘から秤へ。秤から旗へ。旗から名へ。名から、記憶へ。記憶は、刃よりも長い。
冬至は越えた。だが、最後の試練は春に訪れる。記憶の継承。冬に刻んだ縫い目を、春に誰が指でなぞるか。冬に結んだ旗の結び目を、春に誰がほどかずに次の布へ渡すか。冬に描いた「名を消さない」の朱字を、春に誰が読み直すか。剣は鞘の中で眠る——眠らせ続けるために、帳と鍬と鏡と針と、そして秤が、明日も人の手の中で重みを持つ。
王は、広場の端で、一枚の新しい板の前に立った。板には、まだ何も書かれていない。空白は、冬の中で鮮やかだ。空白は、春のためにある。彼は朱筆をとり、今度はゆっくり、細く、書いた。
「名は、春に読む」
細い字は、冬に負けることもある。だが、今日は、負けなかった。雪がやみ、遠い白石列の旗が、裂け目を縫われたまま、薄い光の中で立っていた。無色の旗は、境界の上で、静かに息をしていた。城下の白旗は、屋根の上で、同じように静かに息をしていた。そのどちらも、剣の影ではなく、名の影で揺れていた。冬は、剣を欲した。だが、名が持ちこたえた。
冬至の剣は、抜かれない。抜かれない剣は、国の形を内側から支え、外側から見せる。見せるというのは、抜かないということだ。見せることで、剣は眠る。眠らせることで、名は残る。名が残れば、春に読む者が現れる。読む者が現れれば、冬の縫い目は無駄にならない。
雪の境界の向こうで、風が一度だけ鳴った。楓麟は耳を傾け、藍珠は鞘を撫で、王は指で板の木目をなぞった。木目は、冬の時間を刻んでいる。刻まれた時間は、名と共に春へ渡る——そういう確信だけが、寒さの中にあって温かかった。



