帳場に置かれた長机の木目の間に、朱と墨の小さな島がいくつも浮いていた。紙の端が乾ききらず、指で押さえた跡が白く残る。冬至前、城の会計所の空気は湯気のない湯のように薄く、しかし確かに重かった。帳簿の「冬借」の行には、赤い印が列を成す。春に借り、夏に働き、秋に返しきれず、冬へ積み替えた名々が、まるで雪の重みでたわむ梢のように、紙の上でしなっている。
朝の鐘がまだ鳴りきらぬうちから、掲示板の前には人が集まった。息は白いが、声は熱い。「冬借を消せ」と、誰かが言う。言葉はすぐに拾われ、反響を伴って広がる。「消せ」「消せ」「消せ」。板はじんわりと湿りを吸い、名の列は重みを増して、背の柱がわずかに軋んだ。
遥は、柱の細い音に眉を寄せた。音は悲鳴ではない。支えようとする者の声に似ている。耐える音。耐えている。だから、すぐに黙らせるのではなく、耐えている力に見合うだけの手の重さで支えねばならない——彼はそう考えて、回廊から評議室へ向かった。
評議は、火の側で行われた。暖はある。だが、暖の側に置かれた言葉ほど、ときに冷たいものはない。商務司は足を火に近づけ、乾いた指で紙を弾いた。
「返済を猶予せねば、市が凍ります。門前で湯気のあるものが見えなければ、取引は止まり、冬借の紙は紙のままです」
「猶予すれば、秩序が崩れる」
法務の新任代行は、吐く息に合わせて言葉を刻んだ。刻み目は鋭く、冷たかった。「取り決めを曲げれば次の嘘が生まれ、次の嘘は次の板に、重く残る。名は重くあるべきだが、約束の重みと混ぜてはならない」
「返済を労役で肩代わりさせよ」
工営司の若い官が、手の上に短い図面を広げた。雪掘り、井戸の縁の補修、冬板の背貼りの銅の磨き——冬の仕事は尽きぬ。「銭の返しに銭が足りぬなら、労で返す。春の畦のために、冬の雪を少しずつどかす」
「寒さの中での労は命を削る」
医の館の薬師は、指先のひび割れを袖で隠しながら口を開く。「虚ろな目で雪を掘れば肺が冷え、床に増える者が出る。『返済』の字が増えるほど、『死亡』の朱が増える」
藍珠は、椅子の背に立てかけた剣に手を置いた。指先が鞘の縫い目を確かめる仕草は、ここ数日の習いになっている。「剣で催促するか?」と短く皮肉を投げ、すぐに目を下ろす。その黒い瞳の底には、静かな怒りと疲れと、薄い笑いが層をなしていた。
楓麟は、窓際から吹き込む冷気の筋を指で追い、風の向きを耳で探った。「冬借は風に似ている。止めれば溜まり、流せば軽くなる。止めることは堰。流すことは水路。どちらも、刻みが要る」
遥は、その言葉に頷き、朱の筆を持ち直した。彼の筆は、かつてより少し太い。冬は細いものを折るから、太いほうが折れにくい。太く書くということは、遅く書くということだ。遅さは冬の味方だ。
「“冬借秤”を置く」
王の声は、火の音に負けず、しかし火より柔らかかった。「秤の片皿に約束、片皿に今を乗せる。三つのやり方で、今を重くする」
朱で、三つの字が書かれた。
一、労返。
二、名返。
三、白旗返済。
労返——雪掘りや板の修復、縄印の雪の山を均すこと、清め場の薪を割って運ぶこと。冬の公共の労を返済に充てる。紙に“労”と書くのではなく、山に“労”を積む。積んだ高さを、板に刻む。
名返——返済を終えた名は、板に朱丸で囲む。朱丸は、血の印ではない。約束が果たされた円だ。誰の眼にも見える形で、名の周りに“戻った環”を描く。
白旗返済——返済が不可能な家は、無色の旗を屋根に掲げる。旗は“免状”ではない。守るのは命だけ。春まで問わぬ。旗は、冬の風でたなびく。隣人は、その旗を見て口を噤め。旗を折るな。奪うな。旗は、春のための息だ。
評議室の空気が、ほんの少し緩んだ。緩みは油断ではない。複数の筋肉が同時に力を抜いたときに生まれる、身体の重心の移動のようなものだ。
「王」
法務の新任代行が、静かに反駁の紙を押しやる。「白旗は乱用される危険があります。旗に寄る者、旗の影に隠れる者。旗の色を“名の重み”と混同する者」
「旗の色は“名”ではない」
遥は、紙に軽く指を置いた。「旗は風を示す。名は地に残る。……旗の『白』で守るのは、返済の履行ではない。命だ。春に問う。春に厳しく問う。そのために、冬は生かす」
藍珠が剣から手を離した。「旗の陰で剣を抜こうとする者は?」
「剣ではなく、柄で叩け」
楓麟が、風の隙間で笑った。「冬の柄は冷たい。冷たさは怒りを遅くする」
◇
布告は、陽の短い午下がりに出された。広場の板の前に人が集まり、狐火の書生が「冬借秤」の図を掲げる。秤の片皿に小石、片皿に砂時計。朱丸で囲まれた名の絵には、子どもが指を差して笑い、老女は袖で目を押さえた。「囲まれるって、こんな形」と、小さな声がさざめく。
雪の境界では、さっそく労返が始まった。冬板の前に置かれた短い黒板には、その日の労の種類と、返済に換える数が書いてある。「雪一山=銭一」「板一枚の縫い=銭一」「薪十束運び=銭半」。数字は小さく、だが、雪は積めば高い。山は見える。見えない銭に変わるより、見える山は、心に早い。
緩衝の野から出た若い男が、雪掘りの列に並んだ。頬が痩け、唇がひび割れ、しかし眼は固い。柄を受け取り、雪の表を二度、三度叩く。リズムをつかみ、氷の層を見分け、力の方向を少しずつ覚える。掘り上げた雪を縄印の外へ投げる手つきが、昼には滑らかになった。
夕刻、冬板の前で、書記が朱丸を描いた。男の名の周りに、丸い朱が一周、回った。朱は冬の空気で少し濃く、紙の目に吸い込まれるまでに小さく光る。男は、その朱を見た。子どもが、それを見上げて笑い、老女は泣いた。泣き声は短く、しかし深い。「丸くなった」と、老女は言った。丸いという形容が、冬の紙にはやさしく響いた。
城下の別の角では、白旗が揚がった。屋根の端に無色の布が結ばれ、風でやわらかく踊る。旗を張るのは恥ではないか——そう思っていた家の者は、結び目をつくる指が何度も止まり、やっとの思いで固く結んだ。結んだ瞬間、屋根の上から、狼煙番の少年が鏡で光を一筋送った。旗は光で照らされ、無色のまま光を返す。
旗が揚がるや、隣人の一人が顔をしかめた。「旗に甘えるな」と、口の端で言う。その声を、近くで口覆い布を配っていた狐火の書生が聞き、図を持って振り返る。
「旗の絵解きです。旗は“免状”ではありません。旗は“冬の息継ぎ”です。……ここを見てください。旗が立つのは『返済不能』ではなく『返済延期』。旗の下に、春の『返しの日』が書かれます。日が書かれていない旗は、旗ではない。空白は、旗ではない」
書生の指は、冷たくて赤い。指先が震え、紙の角に霜がつく。だが「旗は命を守る」と書かれた太い線は揺れない。太い線は、冬の友だ。
その様子を遠くから見ていた藍珠が、旗の影に目を細めた。剣は腰に、鞘は凍えて硬い。鞘に添えた手の温度で、皮はわずかに柔らかくなる。彼は結び目の位置を確かめ、風の向きを背で読む。白い旗が、隣の屋根の上で妙に短い弧を描いたとき、藍珠は人込みの中に消え、旗の紐を結び直した。結び目が甘いと、風はそこから怒りを咲かせる。結び直された紐は、冬の夜をひとつ、無事に越える。
◇
冬借秤の場での初日、混乱はなかったわけではない。雪掘りの列の先頭で、一人の男が肩で息をしながら叫んだ。
「俺の冬借は“春の狐火”のせいだ! あんな本を読ませるから、女房は粥を薄くし、子は絵ばかり描く!」
狐火の書生は、少しだけ顔を引きつらせ、それから笑った。笑いは自嘲でも侮りでもない、ただ寒さに耐える小さな暖だ。「本は、粥になりません。ですが、本は粥を薄くしません。……ここに、白と灰の量。ここに、図。ここに、雪の山」
彼は男の隣に立ち、柄の持ち方をそっと直した。「ここをこう。冬の柄は、夏の柄より重いです。重いものは、ゆっくり持つ」
ゆっくり、という言葉は、冬に効く。ゆっくりの側に人は寄り、早くの側に怒りは寄る。怒りは寄っては来るが、冬の冷気の上では少し滑る。
冬板の端で、老女が朱丸の名を撫でた。指先は薄い手袋越しでも紙の目を覚えているらしく、細い線をなぞると、指の腹がわずかに引っかかる。引っかかりの感触は、生の印だ。「丸になった」と、彼女はもう一度言った。丸は、閉じた形ではない。次の文字に続くための“区切り”だ。丸い区切りは、冬に人の息を整える。
◇
夜、城門の外で、白粥と灰粥の鍋が静かに湯気を立てる。雪掘りを終えた者には白、清め場や病の列で働いた者には灰。器を受け取る手は疲れているが、器の重みが腕に戻る温かさは、数字ではなく“覚え”で伝わる。数字が場の空気を冷やす前に、覚えが場を温める。
「旗を奪うな。旗は命を守る。返済は春に問え」
王は、鍋の間で立ち、短く宣言した。短さは、硬さではない。短くするために、長く考えた言葉の重みだ。群衆の前で彼が語るとき、彼の声は冬の布のように厚みを帯びていた。厚い布は、風をわずかに鈍らせる。
宣言の後、列の端で小さな揉み合いが起きた。無色の旗の家の若者が、並ぶ順番を変えたのだ。
「旗の家だからって、先にするのか!」
怒鳴り声。藍珠が向かっていくのと同時に、楓麟が手を上げて押しとどめた。楓麟は噂の風の向きを読む。今は、声を減らすより、見せるほうが効く。
「秤をここに」
王が言った。書記が小さな秤を持ち出す。白粥と灰粥の器を、順に皿へ置く。釣り合いの目盛りは揺れるが、おおむね同じ高さで止まる。次に砂時計。旗の家の若者が雪番で使った砂の“落ち”を倒し、同じ時間内に運んだ薪の束数が並べられる。秤は嘘をつかない。嘘をつかないものが、怒りの前にあると、怒りは少し座る。
若者の肩が落ちる。誰かが肩を叩く。木の匂いが近くなる。木の匂いは、冬の夜に人の目から尖りを落とす。
◇
冬の長い夜、王宮の書庫塔の灯は、いつもより一つ多く灯された。帳簿の列は今日も赤く、冬借の数字は今日も重い。だが、赤字の数字に、ほんの小さな朱丸が散りはじめた。返済を終えた名。丸の中に安堵があり、丸の外に責務がある。丸は、ただの印だが、印の形は人を少し強くする。
遥は、紙の「冬至」の欄に大きな朱で円を描き、その円の外側に「風」「粥」「旗」「板」「柄」と五つの小さな点を打った。点は、小さな星に似ている。星は冬に近い。近いものは、人を迷わせない。
「冬借の風はまだ弱い」
楓麟が窓の外を見た。雪は細かく、風は薄い。「だが、冬至に吹き荒れる。……冬至は季節の“節”だ。節には、風が集まる。節で、折れるものもある。折れないものもある。折れないものは、縫ってある」
「冬至に剣を求める声は強まる」
藍珠は剣を膝に置いた。膝の上の刃は静かだが、鞘の皮の縫い目が冷気で硬くなっている。「旗を掲げる家が増えれば、旗を汚す者も出る。秤を裂こうとする者も出る。……剣を見せる位置を、今夜、決めておこう」
遥は、朱で「冬至」の円をもう一度なぞり、指で紙の目を押さえた。紙は冷たいが、指の温度で少し柔らかくなる。柔らかいものは、押し問答に耐える。彼は静かに言った。
「冬至の秤に、剣の影を落とさない。影は旗の影だけで足りる。……剣はここにあると示す。抜かない。白旗はここにあると示す。奪わせない。丸はここにあると示す。増やす」
楓麟は小さく笑った。笑いは短い。短いから、冬に合う。「風は明日、北をもどる。白石列の縫い目を見よ。縄印の霜を払え。雪番の列に短い灯を一本足せ」
「剣は、鞘のままで手の内」
藍珠が応じ、立ち上がった。彼は剣を持ち、冬板の前の銅縁を指でなぞった。「銅は冷たいが、指は覚える。指が覚えることは、目に残るより強い」
◇
翌朝、雪は深かった。白旗の列が増え、屋根から屋根へ、無色の布が冬空に細い弓を描く。その下で、子供が旗の影を追い、老人が旗の結び目を見上げる。緩衝の野の一角では、柄隊が雪掘りと薪運びを交代で行い、冬板の前に並んだ名にわずかな間隔が生まれた。間隔は、呼吸の間だ。呼吸の間があると、人は怒りで息を止めずに済む。
小さな家の前で、老女が白旗をつけ終え、背を伸ばした。旗の布は、彼女の肩から見れば大きく、しかし空から見れば小さいだろう。彼女の足元には、昨日受け取った灰粥の器が伏せて置いてある。器の底に薄い霜の輪ができ、その輪を指でなぞると、霜が眼に見えぬ粉になって消える。老女は笑った。「丸になった」と、彼女は三度目に言った。旗の結び目も丸、器の霜も丸、名の朱も丸。丸は、人を生かす形だ。
冬板の端では、あの「名板の刃」の男が、紐を通していた。夏に刃を向け、今は板を縫う。彼の指は太くなり、冬の冷たさに慣れ、紐は一息で通るようになった。彼は語らない。だが、紐の端を結ぶ結び目の固さが、季節に一度、変わった。固さは、後悔の固さではない。役目の固さだ。硬いのは、冬の結び目の美徳だ。
狼煙番の少年が、冬板の白い空白の札の前で足を止め、指で一度、空白を押した。空白は、押しても破れない。押した指の跡は残らない。残らないものを前に、人は何をするか。少年は鏡を胸に戻し、風の向きを見た。「北北東」と、彼は呟いた。声は短い。短いなりに輪郭を持つ。
「明日、冬至」
狐火の書生が、息を白くしながら少年の横に立ち、紙に大きく書いた。「冬至」。太い朱で円を描き、その脇に小さく「秤」「白旗」「丸」「労」「声」と書く。板の前を通る人が、その文字を読んで頷いたり、鼻で笑ったり、目を伏せたりする。板はそれを全部受け止め、何も返さない。返さないということが、冬には強い。
◇
評議の後、藍珠は市兵を集め、剣の立て方を短く教えた。秤の場の柱の横に、鞘のままの剣を立てる高さ、角度、間隔。冬の光は低い。低い光が剣の鞘の側面で細く跳ねる。その細さを、彼は嫌わない。細いものは、冬に折れる。しかし、細い光は、人の眼に刺さらず、視線を静かに留める。
楓麟は雪番の列の先頭に立ち、小さな灯の足りない箇所に短い灯を足す。火種は、清め場の灰で温めてある。灰は冬の友だ。灰は、火の記憶であり、火の約束だ。冬は記憶と約束で持つ。風は、約束の上を通り過ぎる。通り過ぎる風に、約束を見せる。
遥は、板の前に立ち、白旗の結び目をひとつだけ自分の手で結んだ。王が結ぶ結び目は特別だが、特別であることを大きく言わない。手の温度が布に移り、それが冬の朝の数刻を持たせる。特別は、冬にあっては小さくあるべきだ。小さな特別は、長い日を持たせる。
◇
夜になり、空は薄く晴れ、星が近く見えた。冬至の前夜の星は、いつもよりまっすぐに、いつもより静かに、いつもより硬く、輝く。星の硬さに、人の柔らかさが対抗する。柔らかさは、結び目、丸、旗、布、灰、そして秤。硬さは、刃、氷、霜、骨、そして約束。どちらもいる。どちらも居場所を心得ていれば、冬は越せる。
「冬至」
王は、政務卓の「冬至」の円をもう一度囲み、今度は円の内側に小さな丸をひとつ打った。二重丸。二重丸は、よほどの大仕事の印だ。明日、秤の場で冬借の秤をもう一段増やす。雪掘りの山と薪の束と板の縫いの数、白旗の数、白粥と灰粥の数、そして——声の数。争水板の焦げ跡に書いたように、声は消さず、板に残す。声を残せば、刃の音は減る。
「王」
楓麟が風を聞いて言った。「風の音に、剣の音が混じらぬよう。剣は、明日も鞘のまま見せよう」
「見せることで、剣は眠る」
藍珠が、剣の柄に手を置き、目を閉じた。「眠る剣は、重い。重い剣は、抜きにくい。抜きにくい剣は、冬に強い」
遥は、筆を置いた。置き方がゆっくりだ。ゆっくりは、冬の礼儀だ。彼は、低く呟く。
「旗を奪うな。旗は命を守る。返済は春に問え。……冬借の秤は、明日、もう一度、皆で見る」
窓の外で、雪が静かに降り始めた。冬至の前の雪は、音を持たない。音がない代わりに、見える。見えすぎる。見えすぎるものを前に、人は剣を求める。剣を求める声は強くなる。だが、剣を抜かない手は、旗を結ぶ。結び目は、明日をつなぐ。明日をつなぐ手の温度が、冬至の夜の唯一の火だ。
◇
翌朝——冬至。
広場の秤の場に、米(粟)と水、薪と雪、板と紐、白旗と灰の札、そして声の紙が並んだ。剣は柱のわきに鞘のまま立ち、藍珠の背がその前に、楓麟の耳がその横に、遥の手が秤の皿にあった。
「冬借の秤を、皆で見る」
王は、短く言った。声は寒気で細くなるが、その細さの中に、春の太さがわずかに見えた。秤の皿に雪の小山が乗る。薪の束が乗る。板の縫い目の数の札が乗る。白粥と灰粥が乗る。声の紙が置かれる。「消せ」という声、「消すな」という声、「春まで」という声。皿は揺れる。揺れは、冬の自然だ。だが、揺れながら、秤は釣る。
朱丸がひとつ、またひとつ、板の名の周りに描かれる。丸は、冬の夜空に浮かぶ小さな月のように、静かに人の背を押す。無色の旗は風に鳴り、結び目が堅く、布は薄く、しかし切れない。旗の下に立つ子が、丸を見上げて笑う。老女が泣く。泣くことは弱さではない。泣くことは、冬の強さだ。
秤の場の端で、狐火の書生が、新しい図をそっと掲げる。図の端に書かれた四文字——「返済は春」。その下に、小さな朱丸が幾つも並んでいる。丸は増える。増えれば、冬借は減る。減れば、春の水はわずかに軽くなる。軽くなった水は畦を流れ、名板の脇の土を濡らす。濡れた土は、冬の終わりを知る。
狼煙番の少年は、鏡を胸から外し、秤の皿の目盛りに光を当てた。目盛りは光でくっきりと起き上がり、揺れは【見る】ものになる。見ることは、冬の薬だ。見えないものは、冬の刃だ。今日、見る側に刃はない。
遠く、灰の渡しから、短い光が一度、雪雲の裾を舐めて走った。凛耀の国からの合図は簡素だ——「境界の尊重」。無色の旗が浅い角度で返す。光の返しには、音がない。音がない返事は、冬の返事だ。
王は秤の前で、一行を書き加えた。
「冬至、見届けた。春に問う」
朱字は、紙に深く沈んでいった。沈む朱の背に、人々の眼が乗る。眼は、冬の夜に重い。重い眼は、刃を軽くする。軽くなった刃は、鞘の中で眠る。眠った刃のそばで、旗が鳴り、丸が増え、紐が締まり、雪が掘られ、粥が配られ、声が残された。
冬借は風であり、雪であり、名であり、丸であり、旗であり、剣の鞘の硬さであり、指の温度だった。冬至を越える者は、剣を抜かずに、これらを抱えて進む。抱えた重みが、春にそのまま実の重さへと変わることを信じながら。
朝の鐘がまだ鳴りきらぬうちから、掲示板の前には人が集まった。息は白いが、声は熱い。「冬借を消せ」と、誰かが言う。言葉はすぐに拾われ、反響を伴って広がる。「消せ」「消せ」「消せ」。板はじんわりと湿りを吸い、名の列は重みを増して、背の柱がわずかに軋んだ。
遥は、柱の細い音に眉を寄せた。音は悲鳴ではない。支えようとする者の声に似ている。耐える音。耐えている。だから、すぐに黙らせるのではなく、耐えている力に見合うだけの手の重さで支えねばならない——彼はそう考えて、回廊から評議室へ向かった。
評議は、火の側で行われた。暖はある。だが、暖の側に置かれた言葉ほど、ときに冷たいものはない。商務司は足を火に近づけ、乾いた指で紙を弾いた。
「返済を猶予せねば、市が凍ります。門前で湯気のあるものが見えなければ、取引は止まり、冬借の紙は紙のままです」
「猶予すれば、秩序が崩れる」
法務の新任代行は、吐く息に合わせて言葉を刻んだ。刻み目は鋭く、冷たかった。「取り決めを曲げれば次の嘘が生まれ、次の嘘は次の板に、重く残る。名は重くあるべきだが、約束の重みと混ぜてはならない」
「返済を労役で肩代わりさせよ」
工営司の若い官が、手の上に短い図面を広げた。雪掘り、井戸の縁の補修、冬板の背貼りの銅の磨き——冬の仕事は尽きぬ。「銭の返しに銭が足りぬなら、労で返す。春の畦のために、冬の雪を少しずつどかす」
「寒さの中での労は命を削る」
医の館の薬師は、指先のひび割れを袖で隠しながら口を開く。「虚ろな目で雪を掘れば肺が冷え、床に増える者が出る。『返済』の字が増えるほど、『死亡』の朱が増える」
藍珠は、椅子の背に立てかけた剣に手を置いた。指先が鞘の縫い目を確かめる仕草は、ここ数日の習いになっている。「剣で催促するか?」と短く皮肉を投げ、すぐに目を下ろす。その黒い瞳の底には、静かな怒りと疲れと、薄い笑いが層をなしていた。
楓麟は、窓際から吹き込む冷気の筋を指で追い、風の向きを耳で探った。「冬借は風に似ている。止めれば溜まり、流せば軽くなる。止めることは堰。流すことは水路。どちらも、刻みが要る」
遥は、その言葉に頷き、朱の筆を持ち直した。彼の筆は、かつてより少し太い。冬は細いものを折るから、太いほうが折れにくい。太く書くということは、遅く書くということだ。遅さは冬の味方だ。
「“冬借秤”を置く」
王の声は、火の音に負けず、しかし火より柔らかかった。「秤の片皿に約束、片皿に今を乗せる。三つのやり方で、今を重くする」
朱で、三つの字が書かれた。
一、労返。
二、名返。
三、白旗返済。
労返——雪掘りや板の修復、縄印の雪の山を均すこと、清め場の薪を割って運ぶこと。冬の公共の労を返済に充てる。紙に“労”と書くのではなく、山に“労”を積む。積んだ高さを、板に刻む。
名返——返済を終えた名は、板に朱丸で囲む。朱丸は、血の印ではない。約束が果たされた円だ。誰の眼にも見える形で、名の周りに“戻った環”を描く。
白旗返済——返済が不可能な家は、無色の旗を屋根に掲げる。旗は“免状”ではない。守るのは命だけ。春まで問わぬ。旗は、冬の風でたなびく。隣人は、その旗を見て口を噤め。旗を折るな。奪うな。旗は、春のための息だ。
評議室の空気が、ほんの少し緩んだ。緩みは油断ではない。複数の筋肉が同時に力を抜いたときに生まれる、身体の重心の移動のようなものだ。
「王」
法務の新任代行が、静かに反駁の紙を押しやる。「白旗は乱用される危険があります。旗に寄る者、旗の影に隠れる者。旗の色を“名の重み”と混同する者」
「旗の色は“名”ではない」
遥は、紙に軽く指を置いた。「旗は風を示す。名は地に残る。……旗の『白』で守るのは、返済の履行ではない。命だ。春に問う。春に厳しく問う。そのために、冬は生かす」
藍珠が剣から手を離した。「旗の陰で剣を抜こうとする者は?」
「剣ではなく、柄で叩け」
楓麟が、風の隙間で笑った。「冬の柄は冷たい。冷たさは怒りを遅くする」
◇
布告は、陽の短い午下がりに出された。広場の板の前に人が集まり、狐火の書生が「冬借秤」の図を掲げる。秤の片皿に小石、片皿に砂時計。朱丸で囲まれた名の絵には、子どもが指を差して笑い、老女は袖で目を押さえた。「囲まれるって、こんな形」と、小さな声がさざめく。
雪の境界では、さっそく労返が始まった。冬板の前に置かれた短い黒板には、その日の労の種類と、返済に換える数が書いてある。「雪一山=銭一」「板一枚の縫い=銭一」「薪十束運び=銭半」。数字は小さく、だが、雪は積めば高い。山は見える。見えない銭に変わるより、見える山は、心に早い。
緩衝の野から出た若い男が、雪掘りの列に並んだ。頬が痩け、唇がひび割れ、しかし眼は固い。柄を受け取り、雪の表を二度、三度叩く。リズムをつかみ、氷の層を見分け、力の方向を少しずつ覚える。掘り上げた雪を縄印の外へ投げる手つきが、昼には滑らかになった。
夕刻、冬板の前で、書記が朱丸を描いた。男の名の周りに、丸い朱が一周、回った。朱は冬の空気で少し濃く、紙の目に吸い込まれるまでに小さく光る。男は、その朱を見た。子どもが、それを見上げて笑い、老女は泣いた。泣き声は短く、しかし深い。「丸くなった」と、老女は言った。丸いという形容が、冬の紙にはやさしく響いた。
城下の別の角では、白旗が揚がった。屋根の端に無色の布が結ばれ、風でやわらかく踊る。旗を張るのは恥ではないか——そう思っていた家の者は、結び目をつくる指が何度も止まり、やっとの思いで固く結んだ。結んだ瞬間、屋根の上から、狼煙番の少年が鏡で光を一筋送った。旗は光で照らされ、無色のまま光を返す。
旗が揚がるや、隣人の一人が顔をしかめた。「旗に甘えるな」と、口の端で言う。その声を、近くで口覆い布を配っていた狐火の書生が聞き、図を持って振り返る。
「旗の絵解きです。旗は“免状”ではありません。旗は“冬の息継ぎ”です。……ここを見てください。旗が立つのは『返済不能』ではなく『返済延期』。旗の下に、春の『返しの日』が書かれます。日が書かれていない旗は、旗ではない。空白は、旗ではない」
書生の指は、冷たくて赤い。指先が震え、紙の角に霜がつく。だが「旗は命を守る」と書かれた太い線は揺れない。太い線は、冬の友だ。
その様子を遠くから見ていた藍珠が、旗の影に目を細めた。剣は腰に、鞘は凍えて硬い。鞘に添えた手の温度で、皮はわずかに柔らかくなる。彼は結び目の位置を確かめ、風の向きを背で読む。白い旗が、隣の屋根の上で妙に短い弧を描いたとき、藍珠は人込みの中に消え、旗の紐を結び直した。結び目が甘いと、風はそこから怒りを咲かせる。結び直された紐は、冬の夜をひとつ、無事に越える。
◇
冬借秤の場での初日、混乱はなかったわけではない。雪掘りの列の先頭で、一人の男が肩で息をしながら叫んだ。
「俺の冬借は“春の狐火”のせいだ! あんな本を読ませるから、女房は粥を薄くし、子は絵ばかり描く!」
狐火の書生は、少しだけ顔を引きつらせ、それから笑った。笑いは自嘲でも侮りでもない、ただ寒さに耐える小さな暖だ。「本は、粥になりません。ですが、本は粥を薄くしません。……ここに、白と灰の量。ここに、図。ここに、雪の山」
彼は男の隣に立ち、柄の持ち方をそっと直した。「ここをこう。冬の柄は、夏の柄より重いです。重いものは、ゆっくり持つ」
ゆっくり、という言葉は、冬に効く。ゆっくりの側に人は寄り、早くの側に怒りは寄る。怒りは寄っては来るが、冬の冷気の上では少し滑る。
冬板の端で、老女が朱丸の名を撫でた。指先は薄い手袋越しでも紙の目を覚えているらしく、細い線をなぞると、指の腹がわずかに引っかかる。引っかかりの感触は、生の印だ。「丸になった」と、彼女はもう一度言った。丸は、閉じた形ではない。次の文字に続くための“区切り”だ。丸い区切りは、冬に人の息を整える。
◇
夜、城門の外で、白粥と灰粥の鍋が静かに湯気を立てる。雪掘りを終えた者には白、清め場や病の列で働いた者には灰。器を受け取る手は疲れているが、器の重みが腕に戻る温かさは、数字ではなく“覚え”で伝わる。数字が場の空気を冷やす前に、覚えが場を温める。
「旗を奪うな。旗は命を守る。返済は春に問え」
王は、鍋の間で立ち、短く宣言した。短さは、硬さではない。短くするために、長く考えた言葉の重みだ。群衆の前で彼が語るとき、彼の声は冬の布のように厚みを帯びていた。厚い布は、風をわずかに鈍らせる。
宣言の後、列の端で小さな揉み合いが起きた。無色の旗の家の若者が、並ぶ順番を変えたのだ。
「旗の家だからって、先にするのか!」
怒鳴り声。藍珠が向かっていくのと同時に、楓麟が手を上げて押しとどめた。楓麟は噂の風の向きを読む。今は、声を減らすより、見せるほうが効く。
「秤をここに」
王が言った。書記が小さな秤を持ち出す。白粥と灰粥の器を、順に皿へ置く。釣り合いの目盛りは揺れるが、おおむね同じ高さで止まる。次に砂時計。旗の家の若者が雪番で使った砂の“落ち”を倒し、同じ時間内に運んだ薪の束数が並べられる。秤は嘘をつかない。嘘をつかないものが、怒りの前にあると、怒りは少し座る。
若者の肩が落ちる。誰かが肩を叩く。木の匂いが近くなる。木の匂いは、冬の夜に人の目から尖りを落とす。
◇
冬の長い夜、王宮の書庫塔の灯は、いつもより一つ多く灯された。帳簿の列は今日も赤く、冬借の数字は今日も重い。だが、赤字の数字に、ほんの小さな朱丸が散りはじめた。返済を終えた名。丸の中に安堵があり、丸の外に責務がある。丸は、ただの印だが、印の形は人を少し強くする。
遥は、紙の「冬至」の欄に大きな朱で円を描き、その円の外側に「風」「粥」「旗」「板」「柄」と五つの小さな点を打った。点は、小さな星に似ている。星は冬に近い。近いものは、人を迷わせない。
「冬借の風はまだ弱い」
楓麟が窓の外を見た。雪は細かく、風は薄い。「だが、冬至に吹き荒れる。……冬至は季節の“節”だ。節には、風が集まる。節で、折れるものもある。折れないものもある。折れないものは、縫ってある」
「冬至に剣を求める声は強まる」
藍珠は剣を膝に置いた。膝の上の刃は静かだが、鞘の皮の縫い目が冷気で硬くなっている。「旗を掲げる家が増えれば、旗を汚す者も出る。秤を裂こうとする者も出る。……剣を見せる位置を、今夜、決めておこう」
遥は、朱で「冬至」の円をもう一度なぞり、指で紙の目を押さえた。紙は冷たいが、指の温度で少し柔らかくなる。柔らかいものは、押し問答に耐える。彼は静かに言った。
「冬至の秤に、剣の影を落とさない。影は旗の影だけで足りる。……剣はここにあると示す。抜かない。白旗はここにあると示す。奪わせない。丸はここにあると示す。増やす」
楓麟は小さく笑った。笑いは短い。短いから、冬に合う。「風は明日、北をもどる。白石列の縫い目を見よ。縄印の霜を払え。雪番の列に短い灯を一本足せ」
「剣は、鞘のままで手の内」
藍珠が応じ、立ち上がった。彼は剣を持ち、冬板の前の銅縁を指でなぞった。「銅は冷たいが、指は覚える。指が覚えることは、目に残るより強い」
◇
翌朝、雪は深かった。白旗の列が増え、屋根から屋根へ、無色の布が冬空に細い弓を描く。その下で、子供が旗の影を追い、老人が旗の結び目を見上げる。緩衝の野の一角では、柄隊が雪掘りと薪運びを交代で行い、冬板の前に並んだ名にわずかな間隔が生まれた。間隔は、呼吸の間だ。呼吸の間があると、人は怒りで息を止めずに済む。
小さな家の前で、老女が白旗をつけ終え、背を伸ばした。旗の布は、彼女の肩から見れば大きく、しかし空から見れば小さいだろう。彼女の足元には、昨日受け取った灰粥の器が伏せて置いてある。器の底に薄い霜の輪ができ、その輪を指でなぞると、霜が眼に見えぬ粉になって消える。老女は笑った。「丸になった」と、彼女は三度目に言った。旗の結び目も丸、器の霜も丸、名の朱も丸。丸は、人を生かす形だ。
冬板の端では、あの「名板の刃」の男が、紐を通していた。夏に刃を向け、今は板を縫う。彼の指は太くなり、冬の冷たさに慣れ、紐は一息で通るようになった。彼は語らない。だが、紐の端を結ぶ結び目の固さが、季節に一度、変わった。固さは、後悔の固さではない。役目の固さだ。硬いのは、冬の結び目の美徳だ。
狼煙番の少年が、冬板の白い空白の札の前で足を止め、指で一度、空白を押した。空白は、押しても破れない。押した指の跡は残らない。残らないものを前に、人は何をするか。少年は鏡を胸に戻し、風の向きを見た。「北北東」と、彼は呟いた。声は短い。短いなりに輪郭を持つ。
「明日、冬至」
狐火の書生が、息を白くしながら少年の横に立ち、紙に大きく書いた。「冬至」。太い朱で円を描き、その脇に小さく「秤」「白旗」「丸」「労」「声」と書く。板の前を通る人が、その文字を読んで頷いたり、鼻で笑ったり、目を伏せたりする。板はそれを全部受け止め、何も返さない。返さないということが、冬には強い。
◇
評議の後、藍珠は市兵を集め、剣の立て方を短く教えた。秤の場の柱の横に、鞘のままの剣を立てる高さ、角度、間隔。冬の光は低い。低い光が剣の鞘の側面で細く跳ねる。その細さを、彼は嫌わない。細いものは、冬に折れる。しかし、細い光は、人の眼に刺さらず、視線を静かに留める。
楓麟は雪番の列の先頭に立ち、小さな灯の足りない箇所に短い灯を足す。火種は、清め場の灰で温めてある。灰は冬の友だ。灰は、火の記憶であり、火の約束だ。冬は記憶と約束で持つ。風は、約束の上を通り過ぎる。通り過ぎる風に、約束を見せる。
遥は、板の前に立ち、白旗の結び目をひとつだけ自分の手で結んだ。王が結ぶ結び目は特別だが、特別であることを大きく言わない。手の温度が布に移り、それが冬の朝の数刻を持たせる。特別は、冬にあっては小さくあるべきだ。小さな特別は、長い日を持たせる。
◇
夜になり、空は薄く晴れ、星が近く見えた。冬至の前夜の星は、いつもよりまっすぐに、いつもより静かに、いつもより硬く、輝く。星の硬さに、人の柔らかさが対抗する。柔らかさは、結び目、丸、旗、布、灰、そして秤。硬さは、刃、氷、霜、骨、そして約束。どちらもいる。どちらも居場所を心得ていれば、冬は越せる。
「冬至」
王は、政務卓の「冬至」の円をもう一度囲み、今度は円の内側に小さな丸をひとつ打った。二重丸。二重丸は、よほどの大仕事の印だ。明日、秤の場で冬借の秤をもう一段増やす。雪掘りの山と薪の束と板の縫いの数、白旗の数、白粥と灰粥の数、そして——声の数。争水板の焦げ跡に書いたように、声は消さず、板に残す。声を残せば、刃の音は減る。
「王」
楓麟が風を聞いて言った。「風の音に、剣の音が混じらぬよう。剣は、明日も鞘のまま見せよう」
「見せることで、剣は眠る」
藍珠が、剣の柄に手を置き、目を閉じた。「眠る剣は、重い。重い剣は、抜きにくい。抜きにくい剣は、冬に強い」
遥は、筆を置いた。置き方がゆっくりだ。ゆっくりは、冬の礼儀だ。彼は、低く呟く。
「旗を奪うな。旗は命を守る。返済は春に問え。……冬借の秤は、明日、もう一度、皆で見る」
窓の外で、雪が静かに降り始めた。冬至の前の雪は、音を持たない。音がない代わりに、見える。見えすぎる。見えすぎるものを前に、人は剣を求める。剣を求める声は強くなる。だが、剣を抜かない手は、旗を結ぶ。結び目は、明日をつなぐ。明日をつなぐ手の温度が、冬至の夜の唯一の火だ。
◇
翌朝——冬至。
広場の秤の場に、米(粟)と水、薪と雪、板と紐、白旗と灰の札、そして声の紙が並んだ。剣は柱のわきに鞘のまま立ち、藍珠の背がその前に、楓麟の耳がその横に、遥の手が秤の皿にあった。
「冬借の秤を、皆で見る」
王は、短く言った。声は寒気で細くなるが、その細さの中に、春の太さがわずかに見えた。秤の皿に雪の小山が乗る。薪の束が乗る。板の縫い目の数の札が乗る。白粥と灰粥が乗る。声の紙が置かれる。「消せ」という声、「消すな」という声、「春まで」という声。皿は揺れる。揺れは、冬の自然だ。だが、揺れながら、秤は釣る。
朱丸がひとつ、またひとつ、板の名の周りに描かれる。丸は、冬の夜空に浮かぶ小さな月のように、静かに人の背を押す。無色の旗は風に鳴り、結び目が堅く、布は薄く、しかし切れない。旗の下に立つ子が、丸を見上げて笑う。老女が泣く。泣くことは弱さではない。泣くことは、冬の強さだ。
秤の場の端で、狐火の書生が、新しい図をそっと掲げる。図の端に書かれた四文字——「返済は春」。その下に、小さな朱丸が幾つも並んでいる。丸は増える。増えれば、冬借は減る。減れば、春の水はわずかに軽くなる。軽くなった水は畦を流れ、名板の脇の土を濡らす。濡れた土は、冬の終わりを知る。
狼煙番の少年は、鏡を胸から外し、秤の皿の目盛りに光を当てた。目盛りは光でくっきりと起き上がり、揺れは【見る】ものになる。見ることは、冬の薬だ。見えないものは、冬の刃だ。今日、見る側に刃はない。
遠く、灰の渡しから、短い光が一度、雪雲の裾を舐めて走った。凛耀の国からの合図は簡素だ——「境界の尊重」。無色の旗が浅い角度で返す。光の返しには、音がない。音がない返事は、冬の返事だ。
王は秤の前で、一行を書き加えた。
「冬至、見届けた。春に問う」
朱字は、紙に深く沈んでいった。沈む朱の背に、人々の眼が乗る。眼は、冬の夜に重い。重い眼は、刃を軽くする。軽くなった刃は、鞘の中で眠る。眠った刃のそばで、旗が鳴り、丸が増え、紐が締まり、雪が掘られ、粥が配られ、声が残された。
冬借は風であり、雪であり、名であり、丸であり、旗であり、剣の鞘の硬さであり、指の温度だった。冬至を越える者は、剣を抜かずに、これらを抱えて進む。抱えた重みが、春にそのまま実の重さへと変わることを信じながら。



