最初の雪は、夜明けの直前だった。塔の高窓の縁に白い粉が音もなく貼りつき、石の目地に沿って細い筋が伸びていく。風は硬く、呼気が短くちぎれた。城の内側の通廊にまで、どこか錆びた冷えの匂いが入り込む。秋分から幾夜も、板と札と秤の影のなかで過ごした人々の指は、今や筆ではなく、手箒や木釘や、そして雪掘り具の柄を握る季節に移ったのだ。

 白石会盟で並べた白石の列、その一つひとつの上にも薄く粉が座る。灰の渡しに張られた縄印は夜ごと霜で太り、朝の陽を受けると、細かい針のような氷の結晶がいっせいに光る。旗は重い。夏に縫い足した縫い目は無事だが、氷が縁に固まり、わずかな風にも鈍い音を立てて揺れた。境界は、見える。見えすぎるほどに。

 見えすぎる線は、人の心に別の線を呼ぶ。白風側の畦は黒々と眠りにつき、紅月側の放牧地は雪に覆われる。草が消えると、腹が鳴る。夜陰に紛れて、二つ三つの影が白石の列と縄印の間を滑るように越えてくる。男たちは外套の裾をくくり、掌に短い刃物をしのばせている。刃で雪を払う。雪は払える。が、払っても道は開かない。彼らはそれをまだ知らない。知りながら、知らぬふりをしている者もいる。

 ある夜明け、灰の渡しの下手、膝までの雪の中で、市兵が一団を取り囲んだ。角灯の灯りが雪面に揺れ、氷片が小さく音を返す。市兵は剣に手をかけかけて止め、盾を前へ寄せた。縄印の白霜が、薄い青を帯びる頃合いだった。

「止まれ」

 浅い声。吐く息が白く、言葉の半分は空へ消える。男の一人が外套の内側から小刀を見せた。刃は短く、錆びている。眼は、空腹の色をしていた。彼の背から、少年の咳が聞こえた。少年の鼻先が赤く、素足はぼろ布で巻かれている。

「草は、向こうで雪になった。牛は痩せ、母が咳をする。渡らせてくれ」

 男の声は、雪の硬さに負けて割れた。市兵の一人が、かすかに剣の柄を握り直す。緊張は、薄い氷の上で広がる波紋のように、誰の足元にも伝播する。楓麟が、その波紋の速度を耳で測ったように、ゆっくりと息を吐き、角灯から一歩だけ離れた。藍珠は、いつものように二歩で前に出、剣の鞘の位置を腰の高いところへわずかに上げた。

 男の小刀が、ほんのわずかに傾く。藍珠の指が、柄の上に重く置かれる。剣は抜かれない。しかし、鞘ごと重さを示す。市兵の肩越しに見えた王の影は、その重さを正面から受けるような静けさで、渡しの縄印の真ん中に立った。

「剣で雪は砕けぬ」

 遥が言った。声が、雪の粒に絡んで柔らかく散り、なお男の耳に届く。

「剣で雪を砕けば、刃が鈍る。鈍った刃は、春に畦を守れない。……お前らが越えてきた理由は、雪のせいだ。雪を掘れ。縄印のこちら側の雪は、こちらで掘る。向こう側の雪は、向こうで掘る。今はここで、一緒に掘れ。掘った雪の山の高さで、お前らの“名”を板に載せる」

 男の小刀が、ぽとりと雪へ落ちた。高くはねず、白の中に沈む。藍珠が鞘に添えた指を離し、雪掘り具を投げた。柄が空で短く鳴り、男の胸元へ、柄の重みだけが素早く届く。少年にも、小ぶりの柄が投げられた。少年は咳をしながら、それを受けた。木の温度はまだ人の体温より低い。その冷たさに、少年の眼の中の焦りの部分が少し落ち着く。

 雪番の見回りの初日だった。王が布告した三つの新しい作法──雪番、粥の白、冬板──が、朝の霜のなかで確かに動き出した。

     ◇

 雪番は、剣を持たない。肩に背負うのは、幅広の鉄の板がついた木柄。雪を“払う”ためではなく、“掘る”ための形だ。市兵はその柄を握り、越境者にも同じ柄を握らせる。掘った雪は、縄印の外側へ寄せられる。内側にも外側にも、等しく。掘った山の高さは、板に刻まれる。狼煙番の少年は、手のひらより少し小さい鏡を胸元に下げ、角灯の光を雪面で跳ね返して目印にする。鏡の反射は、雪の中でも嘘をつかない。光は冷たいが、目に優しい。優しいものは、人の荒い息の速度を少しだけ落とす。

 粥の白は、色で分ける。白粥は境界での労に対する礼、灰粥は市で働く者の日の糧。量は同じで、違うのは色。色は嘘をつかない。「白いのが多い」「灰が薄い」という囁きを封じるために、王はわざと色を立てた。狐火の書生は「白と灰の絵解き」を用意し、清め場と配給所の間に掲げる。「白は境界の雪」「灰は市の灰汁」──子どもが笑い、老人は鼻を鳴らす。笑いと鼻音が混ざる場所は、噂の風より居心地がよい。噂は居心地のよい場所を嫌う。

 冬板は、仮板の隣に立った。板は新しいが、縁に薄い銅が貼られている。ナイフの先で引っかけばすぐに傷がわかるよう、あえて鏡面には磨かない。冬に越境した名を、日毎に列に載せる。名は雪の中で書かれ、雪の中で乾く。乾いた名は、春に水を吸う。水を吸う名は、畦の端で重く立つ。

     ◇

 政務卓の上で、工営司の官が両手をこすり、冷えた指で地図を押さえた。

「雪掘りの労が足りません。畦の上の風の通り道、収穫路の窪み、渡しの斜路──どこも雪がたまり、溝が隠れます。溝に足を取られて転ぶ者が増えました。柄隊の半分を雪番へ移すとしても、夜の灯が足りません」

「市の粥は薄い」

 商務の官は、暖をとるために薄い湯を少し飲み、顔をしかめた。「冬借の返済も滞っています。“春借”で逆支給する前に、今の冬の帳をどうやって持たせるか。白粥を境界で支給するのはいい。だが、白が増えれば灰が不満を呼ぶ」

「寒気で病が広がる」

 医の館の薬師は、鼻の頭を赤くして言った。「清め場の湯が冷めやすい。口の布を干す場所が凍りつく。路地の井戸の蓋の隙間から、氷の唇のように霜がのびる。──子が咳き、老人が黙る」

 藍珠は、剣に手を置いた。冬の空気は、刃を乾かす。乾いた刃は軽い。軽い刃は、抜かれやすい。彼はそれを知っているからこそ、その上から、静かに重さを足す。

「剣を見せよ」

 短い。が、真っ直ぐだった。「雪の境界は思ったよりも鋭い。影に紛れ、刃を覗かせる者がいる。“剣はここにある”と示せば、刃は半分眠る」

 楓麟は風を聞いた。北東。塔の上で風が鳴り、旗の縫い目に白い息が絡む。「冬の風は剣を欲する。だが、剣を振れば折れる。凍った手で強く握れば、柄は滑る。鞘は、凍ると木が縮み、刃がわずかに噛む。噛んだ刃を引けば、鞘の口が割れる。……割れ目は冬の終わりまで残る」

 遥は、朱筆を置いて、代わりに雪掘り具の柄を手に取った。政務卓の上に柄の端をそっと置き、木目の流れを見た。木は乾いている。乾きすぎれば割れる。雪に当てる前に、油を少し含ませる必要がある。油を含ませた柄は手に馴染み、冷たさを遅らせる。

「剣は鞘に。柄は見えるところに」

 王は言った。「雪番を増やす。越境者は雪を掘らせ、掘った雪で名を刻ませる。名は冬板に載せる。白粥は境界へ。灰粥は市へ。……色は違えど、量は同じ。色で争う者には、色の理由を見せる」

 彼は机の端に「色の理由」の文字を朱で書き、狐火の書生へ渡した。書生は嬉々として図を描き始める。白い線は雪の線、灰の線は焚き火の灰の線。子どもにも読める、冬の絵解きの始まりだった。

     ◇

 雪番の列に、緩衝の野から来た若者たちが合流した。夏に柄を持ち、秋に臼を回し、冬に柄を握り直す。手の皮は厚くなり、指は丸太のようだ。雪掘り具の先が、氷の縁で鳴る。氷はくすんだ音で返し、雪は沈黙で受け止める。掘り上げた雪は、縄印の外へ、内へ、同じ高さに積まれる。その山影が朝の光で長く伸び、昼には短く、夕には薄くなる。狼煙番の少年の鏡が、雪山の縁で小さく光り、楓麟が風でその光の筋を読み替える。

 境界の夜は、ひときわ長い。白いものは光を返し、黒いものは光を飲む。雪の平面は、月をわずかに歪め、縄印の霜は星を細かく弾く。藍珠は夜の雪の光で人の影の輪郭を見分ける術を、兵と市兵へ静かに教えた。剣の抜き方ではない。鞘の握り方だ。鞘の位置を、腰のどの高さに置くべきか。霜で固くなった革の通いを、どの向きに緩めておくべきか。その「準備」は、剣を抜かないための準備だった。

「柄で雪を叩け」

 越境者の一人が、柄の先で雪を叩き、氷の下に隠れている黒い小石を露わにした。露わになった小石は、夏に畦の縁で何度も踏まれたものかもしれない。季節は巡る。小石は季節を覚えているように見える。

「掘った雪の山が、お前の名になる」

 王がその男に声をかけた。男は息を白く荒げ、黙ってうなずいた。男の背にいた少年が、小さく咳をした。市兵の一人が口覆い布を差し出し、少年の耳の後ろで結び目をつくる。指がかじかみ、結び目はぎこちない。狼煙番の少年が代わりにその結びをきれいに締め直した。鏡を胸に下げた手は、結び目を作るのにも慣れている。

 掘った雪の山は、昼までに肩の高さ近くまで積み上がった。板に、男の名が刻まれる。冬板の列の端に、新しい名が増えた。名は薄い墨で書かれ、凍てつく空気に当たり、乾いた。乾いた名の下には、白い粉がほんの少し積もった。粉は、人に踏まれても、板に貼り付く。貼り付いた粉は、春の雨で薄く溶け、墨にわずかに染み込む。名は、冬の粉を含んだ墨で、春に少し重くなる。

     ◇

 市の広場では、白粥と灰粥の鍋が二つ、並んでいた。鍋の縁には、それぞれ白と灰の札がぶら下がっている。配る器は、同じ大きさ。匙も、同じ。違うのは、粥の色だけだ。白粥を受け取る手は、凍てついた手袋の上から木の温度を感じ、灰粥を受け取る手は、炭の匂いをわずかに楽しむ。白粥の鍋の脇には「雪番の名の列」、灰粥の鍋の脇には「市働きの名の列」。名は並ぶ。名の列は、並ぶ者の呼吸を整える。

 が、噂線は冬でも凍らない。「白のほうが多い」「灰は水っぽい」「境界に行けば白が二度もらえる」──口は、寒いと余計に動く。狐火の書生は、その動く口を絵解きへ向ける技を持っていた。彼は鍋の前で、白と灰の絵を示し、雪と灰の由来を語り、最後に「量は同じ」と太い線で書いた。太い線は、寒いときほど強い。

 それでも、夜更け、広場の端で小さな騒ぎが起きた。誰かが灰粥の列の前で、白粥の器を掲げて見せびらかしたのだ。「境界へ行ったら白がもらえた」と笑う。笑う声は尖り、尖った音は寒気を呼ぶ。空気が一層冷たくなった瞬間、藍珠が器をそっと下げさせ、男に柄を差し出した。

「明日は端の雪を掘れ。白は、そこで温かくなる。白は、ここで凍る」

 男は一瞬、藍珠の目を見て、それから視線を落とした。目で負ける者は、剣に勝とうとしない。剣ではなく、視線で守られた秩序は、冬に強い。

     ◇

 冬板は、日ごとに増えた。紅月の放牧民、畦の手伝いに来た者、野の外れで倒れていたところを連れて来られた老人──名の種類は、季節ごとに変わる。夏の名は汗を含み、秋の名は粉を含む。冬の名は、雪の粉を含み、紙の纏う音が少し低くなる。法務の新任代行が、その紙の音に小さく頷き、朱の小さな印で二重確認の印を押す。誤記は命取り。冬の紙は、乾いた指先を滑らせる。

 冬板の横に、ひとつだけ白い札が立てられていた。「空白の札」。夏に掲げた白は、冬に色をわずかに変えた。冬の空白は、雪の白に負けないよう、縁に細い墨の線を引いた。空白は相変わらず、そこに“ある”。そこへ、目が行く。目が行けば、言葉が行く。言葉が行けば、噂の風は方向を曲げる。

 ある日、冬板の前で、緩衝の野から来た若者が叫んだ。

「俺の名は“冬”か! 春は、夏は、どこだ!」

 彼は腕に雪をつけ、頬は煤で黒い。王は、その若者を評議室へ招き、机の上に板を三枚並べた。「冬板」「本板」「仕事の板」。冬板の名は、仮板と同じように外縁に置かれる。だが、春に移す線は、まだ薄い。

「板は季節の数だけある」

 遥は言った。「冬の名は、冬に強い。春の名は、春に働く。夏の名は、夏に重い。秋の名は、秋に実る。お前は今、冬の名に“いる”。それは“まだ”だ。……だが、“まだ”は“無い”ではない。お前が雪を掘れば、冬の名は濃くなる。濃くなった名は、春に移る。春に移れば、夏の柄が待つ」

 若者は、しばらく机の木目を見つめ、やがて「掘る」と言った。藍珠が柄を差し出し、若者はそれを受けた。柄は、冬でも人の体温を覚える。覚えた体温が、次の夜に残る。

     ◇

 夜、王宮の回廊は、夏の夜よりも音が少ない。清め場の湯の音が、薄い衣の裾を通して聞こえる。口覆い布を干す木の梁は、氷で光り、布は半分凍って半分乾いている。狼煙台の火は短く、鏡の光は長い。塔から返る光は、風の向きでかすかに歪む。その歪みで、楓麟は明日の風を読む。

「冬至は近い」

 楓麟が言った。風の言葉は短くなる季節だ。その短さは、重さの別名でもある。

「剣を抜かぬことは、重い」

 遥は、白い息を吐きながら呟いた。「抜けば、目は楽になる。抜かなければ、背が重い。背の重さで、足の裏を確かめられる。……冬の境界は、背で歩く」

 藍珠は剣を撫でた。革の鞘は少し縮み、縫い目が硬い。縫い目に指を沿わせ、夏に縫った跡を確かめる。縫い目は、季節を越えて、刃を守る。刃は、抜かれないまま、国を守る。

「見せよう」

 藍珠が言った。「鞘のまま、ここにあると。冬は、刃の居場所を知りたがる」

     ◇

 雪は、境界だけで降るわけではない。市にも降る。収穫路の塵を抑えた道は、今や冬の滑りを抱える。夜の灯が一本、また一本、風で折れ、雪で倒れ、次の日には短い灯に替えられた。短い灯は、燃え尽きるのも早い。補給の木油は、市の奥から運ばれる。運ぶ者は、白い息を吐き、白い息を背に背負って歩く。

 ある夜、冬板を切り裂こうとした刃が現れた。夏に「名板の刃」と呼ばれた男とは違う。肩の丸み、歩幅の狭さ──楓麟は風の影で、別の線を読んだ。刃は、冬の手袋の上から握られていた。滑る。刃が板の銅縁に当たった瞬間、冷たい金属の音が夜を裂き、藍珠の足が一歩前へ出る。その一歩は、剣を抜く一歩ではない。刃の手首を、柄の先で軽く叩く一歩だ。叩かれた手首は痺れ、刃が雪へ落ちる。落ちた刃は、夏より深く沈む。雪は、刃を冷やす。冷えた刃は、怒りより先に痛みを呼ぶ。

 捕らえられたのは、紅月でも白風でもない、街の外れの男だった。仕事がなく、家もなく、板に名がなく、冬の白に目が痛くなって、刃を持った。彼の眼はどこか空洞で、夏の「空白の札」を見ていた眼と似ている。王は彼を断頭台へは送らず、冬板の背の銅を磨かせた。磨く布は、布のほうが先に磨り減る。磨り減るものに触れていると、人は少しだけ落ち着く。落ち着くまでの時間を、冬は長くくれる。

     ◇

 冬至の朝は、雲が低かった。塔の上で狼煙番の少年が鏡を胸から外し、掌で温める。鏡は冷えると曇る。曇りは息で消せる。消した息はすぐ凍る。その繰り返しの中で、彼の指先は、冬の鏡の扱いを覚える。凛耀から贈られた鏡は、夏の市の光をよく跳ね返したが、冬は光が薄く、距離が伸びる。その伸びを、彼は手の角度で埋める。

 白石列と縄印には、夜のうちに新しい雪が乗った。雪番の列が動く。掘り、投げ、均す。越境者も、掘る。掘るしかない。掘るという動詞は、冬に人を守る。「奪う」は人を尖らせ、「守る」は人を重くする。「掘る」は人の背を広げる。広い背は、剣より広い。

 王は、境界の雪の山の上から、越境者の男へ白粥を手渡した。白い湯気が、男の頬に当たり、霜のような粉を少し溶かす。男は器を両手で持ち、眼の奥で何かがうなずいた。少年は、器の縁を唇でそっとなぞり、咳の音を短くした。白い粥は、白い腹に落ちる。落ちた白は、刃よりも重い。

 冬板に、その日の名が増えた。「外から」の朱はない。冬は「外から」と「内から」を白で覆う。覆われても、名は読み上げられる。読み上げる声は、夏より低い。低い声は、雪に吸われずに足元を温める。

     ◇

 夜、王宮の回廊で、三人はまた立った。雪明かりで、顔の輪郭が夏より薄い。薄いが、骨は変わらない。骨は季節を越える。

「冬至が過ぎれば、風はまた南へ戻る」

 楓麟が言った。「が、戻る前に、北の風は最後に強く吹く。旗の縫い目を、今夜もう一度、見ろ」

「剣の縫い目も」

 藍珠が、自分の鞘に触れて笑った。「冬は、縫い目の季節だ。剣も旗も板も、縫い目で立つ。……王、縫い目を見せるのは、恥ではないな」

「誇りではないが、嘘ではない」

 遥は答えた。「見せることで、冬は短くなる」

 遠く、灰の渡しのほうで、短い合図の光が三度、雪の低い雲を舐めた。無色の旗のかわりに、鏡が返す。凛耀の国からの知らせは「境界の尊重」を再確認する簡素なものだった。鏡の反射は、冬にこそ清い。

 王は雪の境界を見下ろし、独りごちた。

「剣を抜かずに越える冬は、刃で越える冬より難しい。だが、難しい冬を越えた名は、春に重い」

 雪は、音を消す。その静けさの中で、冬板の前に立つ老女の息遣いが、薄く聴こえた。彼女は夏に言った。「点線は、心を削る。けれど、消さないでほしい」。今、彼女の前の名は点線ではない。冬の墨で濃く書かれ、息で曇り、袖で拭われ、また濃くなった。彼女は名の上に手を置き、縁の銅に触れず、紙のわずかな凹みを指で確かめた。紙は冬に固い。固い紙に指を置くと、人は指の温度を知る。温度を知ると、息が整う。

 狼煙番の少年は、冬板の端の空白の札を、指で軽く弾いた。指の腹は冷え、弾かれた白は音を持たない。持たない音が、かえって耳に残る。彼は鏡を胸元へ戻し、雪番の列の最後尾に回った。掘る音が続く。掘る音は、冬の鼓動だ。

 剣は、鞘の中で息をしている。息をする剣は、抜かれずに春を待つ。春を待つ剣がある限り、雪の境界は、刃の境界にならない。柄で叩かれた雪が空へ舞い、薄い月がその粉を受け止める。冬至の剣は、抜かずに、見せる。その静かな白さで、国の形を凍らせずに保つ。名は、その白の上に、確かに立っている。