秋分が近づくと、城の石壁は朝夕の光の角度で重みを変えた。夏のあいだ均等に照らされていた壁面の凹凸が、日毎に斜めの陰影を深くし、漆喰の小さな傷まで浮き上がらせる。王宮の広間も同じだった。積まれた板、束ねられた札、古びた秤の金具──すべての輪郭が鋭く、そして疲れて見える。官吏は目の下に薄い隈を作り、市兵は鞘に入った剣を腰の少し高い位置で支え直していた。机には「収穫」「保留」「備蓄」の三枚の板、壁際には「亡命」「炎逃れ」「仮板移行」の三枚の板。秤は二台、米と水。砂時計が四つ、歩幅の違う時間を落とし続けている。
広間の空気を最初に切り開いたのは、工営司の若い官の声だった。
「畦の補修が間に合いません。早刈りの畦が沈み始め、車がはまり、牛が足を悪くしています。堰の角木も二ヶ所、緩みました。石を押し直す人手が不足です」
彼は板の上に墨の点を打ち、その点が「危」を表す印であることを指先で示した。点は一つ、二つ、三つと増え、薄紅平原の地図に斑点のように広がっていく。
「市の粥が薄い」
商務の官が、机上の配給表に手をついて呻くように言った。「収穫路は夜通し動いていますが、臼が足りない。水車の歯に穂が詰まり、挽く速度が落ちています。配分の列は長く、列の怒り線が……」
「仮板の名は本板へ移すべきです」
法務の新任代行は、筆を握りしめたまま、声をあえて平坦にした。「秋分の約束です。“仮”は“まだ”であっても、“いつまでも”ではない。ここで移すと決めねば、外縁は空白ではなく、空洞になる」
楓麟は、広間の片側の高窓から吹き込む風を耳で測り、言葉を立てた。
「急げば線は切れる。綱は引っ張りすぎれば糸から千切(ちぎ)れる。千切れた綱は結べるが、結び目は弱い。……秋分は線の結び直しの日だ。結び目を急いで作れば、冬にほどける」
藍珠は剣の柄に手を置いた。「剣を抜けば早い。だが、線は消える。畦の補修に剣は役立たぬ。旗を立て直すのに刃は要らぬ。……王」
遥は、三人の声が重なる場所に、静かに声を置いた。
「『秋分の秤』を宣言する」
筆の朱が、乾いた音で硯の縁を叩いた。広間にいる者すべてが、紙の上に引かれる一本目の線を待った。
「一つ、収穫は三分──市と緩衝の野と畦頭へ、均等に。三つの皿を、目に見える場所に並べる。釣り合わぬ日には、理由を板に書く。二つ、仮板の移行──秋分の日、仮板の名を本板へ移す。ただし朱字で『外から』と記す。剥がれた傷が消えぬように。三つ、白石会盟の延長──紅月の現実派と協議し、三ヶ月、境界を固定する。旗が冬の風で裂けても、縄印は緩めぬ」
法務の官が、安堵と緊張を混ぜた表情で頷く。商務は、配分の算盤を弾き直し、工営司は畦の危印を少し拭った。
「王」
楓麟が低く呼んだ。遥が目を向けると、楓麟は耳をわずかに動かした。
「風は変わる。昼は南東、夜は北東。旗が鳴る。……紙を重ねるなら、銅縁を冷やせ」
銅は夜の冷えで縮む。紙は夜の湿りで広がる。縁を冷やせば、紙の伸びは受け止められる。王は頷き、書記に指示を飛ばした。
◇
秋分の日の朝、広場は早くから人で満ちた。仮板の周りにはもう小さな椅子が並べられ、絵解きの板が立ち、秤が三台に増えている。米の秤、水の秤、そして「待つ席の秤」。狼煙番の少年が鏡を磨き、光の跳ね返りで目盛りを確かめる。狐火の書生は、白墨で「仮=まだ」「外から」の文字をしたため、その横に「朱で囲む理由」を描いた。朱は火の色でもあり、血の色でもあり、止める色でもある──と、彼は説明した。
仮板から名が、一つずつ読み上げられる。書記の声は掠れ、時折、別の書記に交代した。短冊の紙は薄く、裏に支えの布が貼られている。白い布には、夏の繕いの時の糸の色がわずかに混じっていた。板の前に立つ人々の表情は千差万別だった。泣き笑い、無言、俯き、空を見る。笑いながら泣く者、泣きながら微笑む者。感情の秤は左右へ大きく揺れ、それでもゆっくり中央へ帰るような、不思議な集まり方をした。
「……斑里(まだらさと) 灰丘の町 納税帳手」
「……青連(せいれん) 北州第三砦 兵厨房」
名が読み上げられ、その都度、王の朱筆が本板へ移る。「外から」。朱の二文字が、名の右に細く入る。書かれたばかりの朱は濡れていて、午後の光で薄く照り返す。子どもが目を凝らし、その字を指でなぞろうとして、老女に優しく手を引かれる。朱は触れれば散る。散れば、傷に見える。傷は消せない。だから、見て覚える。
「名は戻った。だが、傷も戻った」
最後の名を書き終えたとき、王は朱筆の先を紙縁で静かに止め、群衆に向けて短く言った。短い言葉で、十分だった。広場にいた者たちは、自分の中にもある傷の形を思い、人の板に書かれた傷と重ねた。
その瞬間、空が鳴った。南東からの風が急に強くなり、白石列の旗がばさりと音を立てて裂けた。乾いた布は、真ん中から斜めに裂け、布目が空へ踊る。群衆がざわめき、幾人かが反射的に板へ寄る。藍珠が二歩で旗へ走り、裂け目の両端を掴んだ。楓麟は顔を上げ、風の筋を追うように瞼を細めた。
「冬の兆し」
彼の低い声は、風に攫われずに王の耳へ届く。
王は旗を受け取り、裂け目を自ら見た。繊維のささくれの形、布の疲れの出方。旗は立て直せば立つ。縫えば戻る。だが、名は、消せば戻らない。彼は旗の裂け目の縁に指を当て、群衆に向き直った。
「旗は裂けても、名は裂けない。旗は縫えば戻る。名は、消せば戻らない」
静かな声が、広場全体で息を一拍止めさせた。藍珠がほどけた縄を結び直し、市兵が見張りの位置を少し広げる。狐狸火の書生が旗の図を描き、裂け目の縫い方を子どもに示す。狼煙番の少年が空へ鏡を上げ、裂けた旗の代わりに光で合図を送る。塔から一度、短い返光。灰の渡しからも一度。無色の旗の代わりの光は、風に裂けない。
仮板の最後の短冊が移され、外縁は空白となった。空白は白い。白は汚れやすい。だから、誰かが布で拭き、誰かが布の端を絞る。拭かれた白は一層白く、そこが人の視線の通路になる。通路は大切だ。通路がある限り、噂は壁に当たって止まらず、行き先を変える。変えた先に、秤が置かれている。
◇
午後の評議は、静かで早かった。白石会盟の延長条項、仮板移行の注記文言、収穫三分の配分補助書──すべての紙に朱が入り、印が押され、糊が塗られ、板に貼られる。貼られる音は、朝よりも乾いていた。夏の間、布と紙と板の音を聴き続けた耳は、乾きを耳で判別する術を身につけていた。
「王、畦の危印の一つ、解けました」
工営司の若い官が、目の疲れの中にわずかな明るさを持ち帰った。「上流村と下流村の“時間の相互貸し”が上手く回り、堰に立つ人が増えました。角木の封印札の紐が綺麗に結び直されています」
商務は、「市の粥が朝より濃くなった」と報告した。「粉引きの臼を夜に二つ増やし、緩衝の野の“柄隊”の半分を“臼回し隊”へ移しました。腕が上がらないと訴える者には交代の砂時計を配り、“二刻挽いたら一刻休む”の新しい絵を配布しています」
法務は、仮板移行の記録に朱で「外から」を並べ、その下に更に小さく、「秋分」と記した。「仮板は空いた。空白の札は残す。……“無い”ことを『ある』と示す札は、今日以降も立てます」
楓麟は、机の端に置かれた裂けた旗を指でなぞり、縫い糸の太さを見て、短く頷いた。「明日、北東。霜の峠が早く冷える。渡しの縄の湿りを抜け」
藍珠は、剣を鞘に納めたまま、旗の結び目を指で押し、広間の出入口を一つひとつ目で確かめた。警戒する目は鋭いが、刃は見せない。見せない刃は、人の背中を不用意に硬くしない。硬くない背中は、重い荷を柔らかく背負える。
◇
夕暮れ、広場は朝の喧騒とは違う落ち着きを取り戻していた。移された名の列は、朱字の「外から」を連ねて、夕日に薄く輝く。縫い目が赤く浮かび、銅縁が月を予感する光を返す。秤は片付けられず、そのまま柱の根元に置かれ、裂け目も縄の補いも見えるまま残された。見える傷は、夜の灯の下で、昨日の痛みを今日の記憶へ変える。
老女が一人、静かに板の前に立った。彼女はかつて「点線は、心を削る。けれど、消さないでほしい」と言った人だ。今、彼女の指は一本の名に触れ、その右の朱字に触れずに、上へ、下へ、線を確かめるように滑った。彼女は口の中で小さく、誰かの名を呼び、うなずいた。その動きは、祈りというより、確かめだった。
そこへ緩衝の野から来た若者が立ち止まり、板と老女と、遥を一度に見た。彼は夏には柄を重いと嘆いたが、今は柄を肩に軽く置くことを覚えている。彼は板に目を戻し、「“仮板の外縁”が空になった」と呟いた。
「空白もまた“ある”」
王が答えた。「空白を空洞にしないために、灯を置く。灯は、目を集め、風を見せる」
狐火の書生が、灯の芯を少し短くした。長い芯は煤(すす)を呼び、煤は板を黒くする。黒は字を消す。芯を短くすれば、灯は白く燃え、白は字を浮かび上がらせる。狼煙番の少年は、塔に向けて鏡を三度掲げ、塔は一度返した。秋分の合図は、夏の合図よりも落ち着いている。落ち着いた光は、夜の翼を少し重くする。
◇
夜、王宮の回廊で三人が立った。音は少なく、遠くの収穫路を牛が踏む鈍い音だけが、暗い空気を押し出すように続いていた。
「秋分の影は、冬の前触れ」
楓麟が言い、石床の上で風の音を拾った。「今夜は北東。旗は鳴るが、倒れない。白石は冷え、縄印は音を飲む。境界は静かだ」
「冬は剣を求める」
藍珠は、剣の柄から手を離さずに言った。「雪が刃の役目を半分奪う。奪われた半分を取り返そうと、人は刃を振る。……だが」
「剣を抜かずに冬を越す」
王は答えた。「それが名を守る道だ。剣は秤を動かさない。秤は、冬でも釣れる。釣るためには、柱を冷やし、皿を乾かす。人の手を温める」
楓麟が穏やかに笑う。「柱を冷やし、人の手を温める。相反することを同時にやるのが、王の仕事だ」
「剣の仕事は、抜かないときに半分ある」
藍珠が、夜空を見上げて小さく付け加えた。「抜かずに見せる。鞘のまま立てる。人の背中に、『ここにある』とだけ伝える」
遅れて、医の館の灯がひとつ消え、次の灯が点いた。清め場の湯はゆっくり泡を立て、夜の水面には星が少し滲んだ。畦の方角からは、柄隊の誰かが歌を間違えながら歌う声。間違えた歌は、冬の前に笑いの隙間を作る。
◇
秋分の月は、昔から「半分の月」と教えられてきた。半分しか見えない月は、半分見えることの強さを知っている。見える半分は誰が見ても同じだが、見えない半分は誰の胸にも違う形で存在する。広場の板も、今夜は半分だけ見えた。上の半分は月が照らし、下の半分は灯が照らす。縫い目と朱字は上で赤く、下で温かい。
外縁は空白になった。空白は、放っておけば積もる埃を呼ぶ。だが、今夜は拭かれ、灯で照らされ、子どもの指が一日に一度なぞる「白い場所」になっている。白い場所は、人の心の中で最初に一線が引かれる場所だ。最初の線は、往々にして曲がる。曲がった線は、紙を破らない。破らない線は、次の線を呼ぶ。
王は、空白の札をもう一度見た。夏の夜に掲げた白は、秋の夜に少しだけ黄味を帯びた。黄味は汚れではない。時間の色だ。時間は、名の隣に積もる。積もった時間を、脇へ掃くことはできない。積もった時間があるから、名は倒れない。倒れない名は、冬の風に耐える。
「名は戻った。傷も戻った。……傷を縫った手は、そのまま冬を縫う」
遥の言葉は、誰にということなく回廊に落ち、石に吸い込まれていった。石は冷えを返す。冷えは頬をかじる。頬をかじられると、人は息を一つ深く吐き、胸がわずかに軽くなる。軽くなった胸で、広場へ戻る。
秤は、裂け目を抱いたまま、柱の根元で静かに眠っているように見えた。眠っている秤は、朝になれば、また動く。動く秤の前に、人がまた集まる。集まった人が、また声を出す。声は焼かれずに残され、板に貼られ、焦げ跡とともに記憶になる。
白石列の旗は、縫い目を増やして立ち、無色の旗は光で代わり、縄印は夜露に濡れて重くなり、霜の峠の二枚の旗は星の下で交差して、互いの影を短くした。凛耀の鏡が塔からごく短く返り、少年の鏡がそれを受けた。光の線は、剣よりも細く、剣よりも長い。細くて長いものは、冬に強い。
広場の仮板は、すべて移され、外縁は空白となった。だが、空白もまた“ある”。その“ある”を見せ続けるために、王は明日の紙を準備する。朱の筆先は、今夜は水で洗われ、布で包まれた。藍珠の剣は、鞘の中で静かに息をし、楓麟の耳は、夜の風のわずかな向きの変化を最後に一度だけ拾った。
季節はここで、大きな節目を迎える。外の火は弱まり、内の秤は動き続ける。次に来るのは、冬の剣と名の記憶だ。刃を抜かずに越える冬は、刃で越える冬より難しい。難しい冬を越えるために、国は今日、縫い目を増やし、秤に縄を巻き、板の外縁に空白を残した。残された空白は、恐れではない。約束の余白だ。そこへ、誰かの「まだ」が書き込まれ、誰かの「いま」が重なり、やがて誰かの「帰る」が朱で囲まれるだろう。
秋分の影は、夜の下半分をやさしく濃くし、名の列の上半分をくっきりと浮かび上がらせた。名は消えない。消さぬと誓った手が、夜を跨いで次の朝に続く。針はまた糸を通し、鏡はまた光を返し、秤はまた米と水を載せ、人はまた列に並ぶ。列の先にあるのは、刃ではない。紙と、布と、朱と、そして名だ。冬が来る前に、人はそれをもう一度確かめる。確かめたものだけが、風に耐えられるから。
広間の空気を最初に切り開いたのは、工営司の若い官の声だった。
「畦の補修が間に合いません。早刈りの畦が沈み始め、車がはまり、牛が足を悪くしています。堰の角木も二ヶ所、緩みました。石を押し直す人手が不足です」
彼は板の上に墨の点を打ち、その点が「危」を表す印であることを指先で示した。点は一つ、二つ、三つと増え、薄紅平原の地図に斑点のように広がっていく。
「市の粥が薄い」
商務の官が、机上の配給表に手をついて呻くように言った。「収穫路は夜通し動いていますが、臼が足りない。水車の歯に穂が詰まり、挽く速度が落ちています。配分の列は長く、列の怒り線が……」
「仮板の名は本板へ移すべきです」
法務の新任代行は、筆を握りしめたまま、声をあえて平坦にした。「秋分の約束です。“仮”は“まだ”であっても、“いつまでも”ではない。ここで移すと決めねば、外縁は空白ではなく、空洞になる」
楓麟は、広間の片側の高窓から吹き込む風を耳で測り、言葉を立てた。
「急げば線は切れる。綱は引っ張りすぎれば糸から千切(ちぎ)れる。千切れた綱は結べるが、結び目は弱い。……秋分は線の結び直しの日だ。結び目を急いで作れば、冬にほどける」
藍珠は剣の柄に手を置いた。「剣を抜けば早い。だが、線は消える。畦の補修に剣は役立たぬ。旗を立て直すのに刃は要らぬ。……王」
遥は、三人の声が重なる場所に、静かに声を置いた。
「『秋分の秤』を宣言する」
筆の朱が、乾いた音で硯の縁を叩いた。広間にいる者すべてが、紙の上に引かれる一本目の線を待った。
「一つ、収穫は三分──市と緩衝の野と畦頭へ、均等に。三つの皿を、目に見える場所に並べる。釣り合わぬ日には、理由を板に書く。二つ、仮板の移行──秋分の日、仮板の名を本板へ移す。ただし朱字で『外から』と記す。剥がれた傷が消えぬように。三つ、白石会盟の延長──紅月の現実派と協議し、三ヶ月、境界を固定する。旗が冬の風で裂けても、縄印は緩めぬ」
法務の官が、安堵と緊張を混ぜた表情で頷く。商務は、配分の算盤を弾き直し、工営司は畦の危印を少し拭った。
「王」
楓麟が低く呼んだ。遥が目を向けると、楓麟は耳をわずかに動かした。
「風は変わる。昼は南東、夜は北東。旗が鳴る。……紙を重ねるなら、銅縁を冷やせ」
銅は夜の冷えで縮む。紙は夜の湿りで広がる。縁を冷やせば、紙の伸びは受け止められる。王は頷き、書記に指示を飛ばした。
◇
秋分の日の朝、広場は早くから人で満ちた。仮板の周りにはもう小さな椅子が並べられ、絵解きの板が立ち、秤が三台に増えている。米の秤、水の秤、そして「待つ席の秤」。狼煙番の少年が鏡を磨き、光の跳ね返りで目盛りを確かめる。狐火の書生は、白墨で「仮=まだ」「外から」の文字をしたため、その横に「朱で囲む理由」を描いた。朱は火の色でもあり、血の色でもあり、止める色でもある──と、彼は説明した。
仮板から名が、一つずつ読み上げられる。書記の声は掠れ、時折、別の書記に交代した。短冊の紙は薄く、裏に支えの布が貼られている。白い布には、夏の繕いの時の糸の色がわずかに混じっていた。板の前に立つ人々の表情は千差万別だった。泣き笑い、無言、俯き、空を見る。笑いながら泣く者、泣きながら微笑む者。感情の秤は左右へ大きく揺れ、それでもゆっくり中央へ帰るような、不思議な集まり方をした。
「……斑里(まだらさと) 灰丘の町 納税帳手」
「……青連(せいれん) 北州第三砦 兵厨房」
名が読み上げられ、その都度、王の朱筆が本板へ移る。「外から」。朱の二文字が、名の右に細く入る。書かれたばかりの朱は濡れていて、午後の光で薄く照り返す。子どもが目を凝らし、その字を指でなぞろうとして、老女に優しく手を引かれる。朱は触れれば散る。散れば、傷に見える。傷は消せない。だから、見て覚える。
「名は戻った。だが、傷も戻った」
最後の名を書き終えたとき、王は朱筆の先を紙縁で静かに止め、群衆に向けて短く言った。短い言葉で、十分だった。広場にいた者たちは、自分の中にもある傷の形を思い、人の板に書かれた傷と重ねた。
その瞬間、空が鳴った。南東からの風が急に強くなり、白石列の旗がばさりと音を立てて裂けた。乾いた布は、真ん中から斜めに裂け、布目が空へ踊る。群衆がざわめき、幾人かが反射的に板へ寄る。藍珠が二歩で旗へ走り、裂け目の両端を掴んだ。楓麟は顔を上げ、風の筋を追うように瞼を細めた。
「冬の兆し」
彼の低い声は、風に攫われずに王の耳へ届く。
王は旗を受け取り、裂け目を自ら見た。繊維のささくれの形、布の疲れの出方。旗は立て直せば立つ。縫えば戻る。だが、名は、消せば戻らない。彼は旗の裂け目の縁に指を当て、群衆に向き直った。
「旗は裂けても、名は裂けない。旗は縫えば戻る。名は、消せば戻らない」
静かな声が、広場全体で息を一拍止めさせた。藍珠がほどけた縄を結び直し、市兵が見張りの位置を少し広げる。狐狸火の書生が旗の図を描き、裂け目の縫い方を子どもに示す。狼煙番の少年が空へ鏡を上げ、裂けた旗の代わりに光で合図を送る。塔から一度、短い返光。灰の渡しからも一度。無色の旗の代わりの光は、風に裂けない。
仮板の最後の短冊が移され、外縁は空白となった。空白は白い。白は汚れやすい。だから、誰かが布で拭き、誰かが布の端を絞る。拭かれた白は一層白く、そこが人の視線の通路になる。通路は大切だ。通路がある限り、噂は壁に当たって止まらず、行き先を変える。変えた先に、秤が置かれている。
◇
午後の評議は、静かで早かった。白石会盟の延長条項、仮板移行の注記文言、収穫三分の配分補助書──すべての紙に朱が入り、印が押され、糊が塗られ、板に貼られる。貼られる音は、朝よりも乾いていた。夏の間、布と紙と板の音を聴き続けた耳は、乾きを耳で判別する術を身につけていた。
「王、畦の危印の一つ、解けました」
工営司の若い官が、目の疲れの中にわずかな明るさを持ち帰った。「上流村と下流村の“時間の相互貸し”が上手く回り、堰に立つ人が増えました。角木の封印札の紐が綺麗に結び直されています」
商務は、「市の粥が朝より濃くなった」と報告した。「粉引きの臼を夜に二つ増やし、緩衝の野の“柄隊”の半分を“臼回し隊”へ移しました。腕が上がらないと訴える者には交代の砂時計を配り、“二刻挽いたら一刻休む”の新しい絵を配布しています」
法務は、仮板移行の記録に朱で「外から」を並べ、その下に更に小さく、「秋分」と記した。「仮板は空いた。空白の札は残す。……“無い”ことを『ある』と示す札は、今日以降も立てます」
楓麟は、机の端に置かれた裂けた旗を指でなぞり、縫い糸の太さを見て、短く頷いた。「明日、北東。霜の峠が早く冷える。渡しの縄の湿りを抜け」
藍珠は、剣を鞘に納めたまま、旗の結び目を指で押し、広間の出入口を一つひとつ目で確かめた。警戒する目は鋭いが、刃は見せない。見せない刃は、人の背中を不用意に硬くしない。硬くない背中は、重い荷を柔らかく背負える。
◇
夕暮れ、広場は朝の喧騒とは違う落ち着きを取り戻していた。移された名の列は、朱字の「外から」を連ねて、夕日に薄く輝く。縫い目が赤く浮かび、銅縁が月を予感する光を返す。秤は片付けられず、そのまま柱の根元に置かれ、裂け目も縄の補いも見えるまま残された。見える傷は、夜の灯の下で、昨日の痛みを今日の記憶へ変える。
老女が一人、静かに板の前に立った。彼女はかつて「点線は、心を削る。けれど、消さないでほしい」と言った人だ。今、彼女の指は一本の名に触れ、その右の朱字に触れずに、上へ、下へ、線を確かめるように滑った。彼女は口の中で小さく、誰かの名を呼び、うなずいた。その動きは、祈りというより、確かめだった。
そこへ緩衝の野から来た若者が立ち止まり、板と老女と、遥を一度に見た。彼は夏には柄を重いと嘆いたが、今は柄を肩に軽く置くことを覚えている。彼は板に目を戻し、「“仮板の外縁”が空になった」と呟いた。
「空白もまた“ある”」
王が答えた。「空白を空洞にしないために、灯を置く。灯は、目を集め、風を見せる」
狐火の書生が、灯の芯を少し短くした。長い芯は煤(すす)を呼び、煤は板を黒くする。黒は字を消す。芯を短くすれば、灯は白く燃え、白は字を浮かび上がらせる。狼煙番の少年は、塔に向けて鏡を三度掲げ、塔は一度返した。秋分の合図は、夏の合図よりも落ち着いている。落ち着いた光は、夜の翼を少し重くする。
◇
夜、王宮の回廊で三人が立った。音は少なく、遠くの収穫路を牛が踏む鈍い音だけが、暗い空気を押し出すように続いていた。
「秋分の影は、冬の前触れ」
楓麟が言い、石床の上で風の音を拾った。「今夜は北東。旗は鳴るが、倒れない。白石は冷え、縄印は音を飲む。境界は静かだ」
「冬は剣を求める」
藍珠は、剣の柄から手を離さずに言った。「雪が刃の役目を半分奪う。奪われた半分を取り返そうと、人は刃を振る。……だが」
「剣を抜かずに冬を越す」
王は答えた。「それが名を守る道だ。剣は秤を動かさない。秤は、冬でも釣れる。釣るためには、柱を冷やし、皿を乾かす。人の手を温める」
楓麟が穏やかに笑う。「柱を冷やし、人の手を温める。相反することを同時にやるのが、王の仕事だ」
「剣の仕事は、抜かないときに半分ある」
藍珠が、夜空を見上げて小さく付け加えた。「抜かずに見せる。鞘のまま立てる。人の背中に、『ここにある』とだけ伝える」
遅れて、医の館の灯がひとつ消え、次の灯が点いた。清め場の湯はゆっくり泡を立て、夜の水面には星が少し滲んだ。畦の方角からは、柄隊の誰かが歌を間違えながら歌う声。間違えた歌は、冬の前に笑いの隙間を作る。
◇
秋分の月は、昔から「半分の月」と教えられてきた。半分しか見えない月は、半分見えることの強さを知っている。見える半分は誰が見ても同じだが、見えない半分は誰の胸にも違う形で存在する。広場の板も、今夜は半分だけ見えた。上の半分は月が照らし、下の半分は灯が照らす。縫い目と朱字は上で赤く、下で温かい。
外縁は空白になった。空白は、放っておけば積もる埃を呼ぶ。だが、今夜は拭かれ、灯で照らされ、子どもの指が一日に一度なぞる「白い場所」になっている。白い場所は、人の心の中で最初に一線が引かれる場所だ。最初の線は、往々にして曲がる。曲がった線は、紙を破らない。破らない線は、次の線を呼ぶ。
王は、空白の札をもう一度見た。夏の夜に掲げた白は、秋の夜に少しだけ黄味を帯びた。黄味は汚れではない。時間の色だ。時間は、名の隣に積もる。積もった時間を、脇へ掃くことはできない。積もった時間があるから、名は倒れない。倒れない名は、冬の風に耐える。
「名は戻った。傷も戻った。……傷を縫った手は、そのまま冬を縫う」
遥の言葉は、誰にということなく回廊に落ち、石に吸い込まれていった。石は冷えを返す。冷えは頬をかじる。頬をかじられると、人は息を一つ深く吐き、胸がわずかに軽くなる。軽くなった胸で、広場へ戻る。
秤は、裂け目を抱いたまま、柱の根元で静かに眠っているように見えた。眠っている秤は、朝になれば、また動く。動く秤の前に、人がまた集まる。集まった人が、また声を出す。声は焼かれずに残され、板に貼られ、焦げ跡とともに記憶になる。
白石列の旗は、縫い目を増やして立ち、無色の旗は光で代わり、縄印は夜露に濡れて重くなり、霜の峠の二枚の旗は星の下で交差して、互いの影を短くした。凛耀の鏡が塔からごく短く返り、少年の鏡がそれを受けた。光の線は、剣よりも細く、剣よりも長い。細くて長いものは、冬に強い。
広場の仮板は、すべて移され、外縁は空白となった。だが、空白もまた“ある”。その“ある”を見せ続けるために、王は明日の紙を準備する。朱の筆先は、今夜は水で洗われ、布で包まれた。藍珠の剣は、鞘の中で静かに息をし、楓麟の耳は、夜の風のわずかな向きの変化を最後に一度だけ拾った。
季節はここで、大きな節目を迎える。外の火は弱まり、内の秤は動き続ける。次に来るのは、冬の剣と名の記憶だ。刃を抜かずに越える冬は、刃で越える冬より難しい。難しい冬を越えるために、国は今日、縫い目を増やし、秤に縄を巻き、板の外縁に空白を残した。残された空白は、恐れではない。約束の余白だ。そこへ、誰かの「まだ」が書き込まれ、誰かの「いま」が重なり、やがて誰かの「帰る」が朱で囲まれるだろう。
秋分の影は、夜の下半分をやさしく濃くし、名の列の上半分をくっきりと浮かび上がらせた。名は消えない。消さぬと誓った手が、夜を跨いで次の朝に続く。針はまた糸を通し、鏡はまた光を返し、秤はまた米と水を載せ、人はまた列に並ぶ。列の先にあるのは、刃ではない。紙と、布と、朱と、そして名だ。冬が来る前に、人はそれをもう一度確かめる。確かめたものだけが、風に耐えられるから。



