その日、城門をくぐった荷駄は、穂束ではなく板の匂いを連れてきた。薄い雲を透かした陽が、積まれた木箱の縁で跳ねて、刻まれた墨の影をちらつかせる。箱の側板には、紅月の宮工が使う細い刻印が押されていた。封蝋は灰色、紐は三度巻き。楓麟は箱の腹に耳を寄せ、風の鳴りではなく、静けさの厚みを確かめるように目を閉じた。
「仮板だ」
藍珠が短く言った。剣は背へ回している。ここで刃は要らない。いるのは、釘と紐と、読み上げる声だ。
王宮の広間に運び込まれた箱がゆっくり開かれる。中から現れたのは、薄い板に貼られた紙束──百と少し、紅月で剥がされた名の短冊。紙の縁は整っているが、ところどころに無理に剥がした跡があり、糊の白が薄く残っていた。書記が最初の一枚を取り上げ、読み出す。「青連(せいれん) 北州第三砦 兵厨房 剥札日・夏至翌日」。次の一枚。「斑里(まだらさと) 灰丘の町 納税帳手 剥札日・麦の月半ば」。一つひとつの名に、薄い埃が乗っている。埃は、遠くから来た証の匂いがした。
評議は、紙の匂いの中で始まった。
「他国の名を抱えれば重荷です」
法務の新任代行が、顔をこわばらせて言う。「板が重く、責務が際限なくなる。万一、剥がされた名の中に賊が紛れていたら、我らの“名の列”が穢(けが)れます」
「配分が増える」
商務は帳面をぱらつかせて肩をすくめる。「“炎逃れ”に“柄隊”、そこへ“仮板”。米の秤は釣り合わなくなるかもしれません」
医の館の長は、静かに頷いた。「けれど、名は薬です。名を持てば、心は身体の熱を下げます。仮でも、板に触れられる場所を、亡命者に。さもなければ“病の列”が伸びる」
楓麟は、板の角に指を当て、耳をわずかに動かした。「仮板は、風に揺れる。だが、見せねば、嘘が吹く。風は、空(から)の場所を通りたがる。隙(すき)を空ければ、そこへ囁(ささや)きが入り、名の縁を剝(は)がそうとする」
藍珠は王を見る。「剣で守れぬ名を、どう守る」
遥は、箱の中の名を一枚、指の腹でそっと撫でた。糊のざらつきが指に残る。剥がされた時の力の向きが、線の乱れになって見える。冬に縫った縫い目。春に立てた銅の縁。夏に裂けた秤の台。王の胸の中で、さまざまな傷のかたちが重なる。
「仮板は掲示する。ただし、“外縁”として。名の列の中には入れぬ。けれど、外には消さぬ」
朱筆が紙に落ち、規(のり)が走った。「仮板は秋分まで。秋分までに“本板”へ戻す線は、紅月とともに引く。剥がした名は、覗(のぞ)くことで、戻る道を思い出す」
◇
広場に、丸太と縄で組んだ枠が立てられた。名の列を囲うように円を描き、その円の外側に、もう一周の細い輪。輪の柱には薄い銅板が背貼りされ、夏の「名板の刃」で学んだ縁の守りが施されている。市兵の小屋の前で、狐火の書生が白墨で絵解きを描く。「本板──国の名」「外縁──仮板」「空白──名のない場所」。藍珠は縄の結び目を確認し、楓麟は灯の位置を指で示した。「風下は灯を遠く、風上は近く」
「見えるように」「見えすぎないように」
王は二つの相反する言葉を続けて書記へ渡し、位置を決める手を止めさせなかった。
仮板は、立った。紅月から逃れた男や女が、群れではなく、一人ずつ近づいてくる。最初の男は、瞼の陰に火の赤を残した目で板を追い、指を震わせながら短冊一つに触れた。「……あった」 顔が崩れ、肩が落ち、次の瞬間には背筋がわずかに伸びる。次の女は、指で文字をなぞりながら泣いた。「まだ……ない」 彼女の隣で、幼い子が板の縁を撫で、狐火の書生の絵を見上げる。絵には「仮板と本板の違い」が描かれていた。“仮”の字の上に、薄い赤で「まだ」の字が重ねられている。
緩衝の野の列も揺れた。「紅月の名を抱えるなら、配分は薄くなるのでは」と囁(ささや)く声。「あの人の名は、紅月の板から剥がされたはず。何故(なぜ)ここに」と指差す影。噂線はすぐ走る。市兵は刃を見せない代わりに、帳簿を広げた。王が先に広げたのは、秤の場だ。米と水の秤の横に、小さな木枠の秤が置かれた。「今日の『仮板の分』は、米ではなく“待つ席(せき)”。“待つ席”は“働き”で重くなる」
絵解きの板に、新しい図が加わる。二つの皿──片方に名の短冊、片方に小石。「待つ席の秤」。小石には刻みがあり、「井戸」「畦」「清め場」「検塩」「路上秤」──夏に人が身につけた働きの名前が、小石の上で白く光った。
王は群衆の前に立ち、声を張った。「仮とは“無い”ではない。仮とは“まだ”だ。まだ戻らぬ名を、待つ形だ。……待たせられる者だけが、待てる。待たせられない腹があるなら、秤の前に来い。小石を載せる。載せるための働きは、ここにある」
「働きは、誰のでもいいのか」
緩衝の野から来た年配の男が、ひび割れた声で問うた。藍珠が一歩、前に出た。
「柄を持て。今夜は『灯の並べ替え』だ。風が変わる。風は弱い灯を折る。折れる前に、灯芯を絞れ。灯芯を絞るのは、剣より難しい」
笑いが、薄く起きて薄く収まる。楓麟は少しだけ耳を動かし、「南東」と呟(つぶや)いた。「明け方、湿りが戻る。仮板の紙が吸いすぎぬよう、裏から布を貼っておけ」
布は、夏に縫った布の余りだ。縫い目は、熟れている。熟れた手が、仮板の裏を支える。見えないところで、見えるものが立つ。
◇
夜、仮板の前で、一人の若者が声を荒げた。首は細く、目はまっすぐだった。「俺の名は“仮”なのか! ここにも、向こうにも、俺は“仮”のままなのか!」
周囲が息を呑(の)む。言葉は鋭い。刃のかたちをしている。刃は、揺れているものの縁を切り取りやすい。切り取られた縁は、ふちから崩れる。
遥は、若者のほうへ歩いた。距離は短い。短い距離でも、足は重い。板の前で止まり、若者の目を受け止める。
「仮は“無い”ではない。仮は“まだ”だ。まだ戻らないという『事実』を、板にして見えるようにする。それは、おまえを軽くするためではない。おまえを、待つためだ。……待つのは、軽くない」
若者は口を開きかけ、閉じた。仮という言葉が、胸の中で別のかたちにほどけていく。狐火の書生が、絵の端に新しい一行を描き足す。「仮=まだ」。子どもが声に出して読む。「まだ」。読み上げる声に、若者の肩が、わずかに落ちる。
「仮板に花を」
誰かが呟(つぶや)いた。夏に名板へ置かれた小さな花の記憶が、広場の片隅から歩いてくる。老女が握りしめた小さな白い花──川べりの砂地に咲く、背の低い花だ──を、仮板の端にそっと置く。花は軽い。軽いが、目には重い。目に重いものは、心の皿を傾ける。傾いた皿は、元に戻る線を探し始める。
藍珠が息を吐いて、剣を鞘に納めた。鞘の縁が月の光をひとしずく拾って、細く光る。それは、仮板の銅縁の光と似ていた。似ているものが、違う場所にあると、心はそこへ道を引く。道は、刃ではなく、指で描ける。
◇
翌日から、仮板の脇には小さな卓が置かれた。「仮板相談」。書記が二人、医の館の若い薬師が一人、狐火の書生が一人。卓の上には三枚の板──「仮板」「本板」「亡命名簿」。その脇に“待つ席の秤”。相談に来た者は、まず名を指す。「ここ」。書記が「どこから、いつ、誰が剥がしたか」を読み上げる。薬師が「眠れているか」を尋ねる。書生が「どの働きの小石を載せるか」を絵で選ばせる。
最初に来たのは、斑里の町から来たという女だった。指の皮が強く、目の周りが痩けている。「ここに、夫の名がある。私は……ない」
書記は頷き、亡命名簿を開く。「ここに、あなたの名を記す。その隣に『仮板の隣』と書く。……『隣』は、遠いようで、近い」
「働けるか」
薬師が尋ね、女は少し笑った。「働くのは、もう知っている。剥がされるのも、もう知っている」
「なら、糸を」
書生が細い糸の束を渡した。「『縫いの場』は仮板の裏にもある。裏の縫い目は、表の花と同じ」
女は糸を受け取り、卓の端で結び目を作った。結び目は不揃いだが、ほどけない。ほどけないものを、裏に増やす。裏が増えれば、表が揺れても、落ちない。
次に来たのは、若い兵だった。短い髪、折れた耳。彼は仮板を睨(にら)み、「向こうの板から剥がされた名は、向こうで戻るのか」と問うた。楓麟が、風のように答える。
「風は、押せば向きを変えたふりをする。だが、山の向こうで同じ向きへ戻る。……凛耀は『仮板』を『本板』へ戻す線を我らへ示した。秋分の語(ことば)。約束の風は、言葉で吹かせられる」
兵は黙って頷き、「待つ席」の小石を手に取った。手の中で、小石が冷たく、軽い。軽さは、嫌(いや)ではなかった。軽いものは、持ち上げやすい。持ち上がるものは、置き直せる。
◇
「外縁」の周りに立つ仮板が、昼の風でかすかに鳴った。紙と銅の、違う音が交じる。その音に混ざって、別の声も混ざった。「どうして紅月の名を」「ここは白風の板だろう」。市の片端で、男が声を荒らげる。夏の「秤の刃」の夜に似た匂いが、かすかに戻る。
王は、秤の場をもう一度開いた。米と水の秤の左右に、「仮板と本板」の二枚の板を置く。彼は米を片方に、水を片方に置き、さらに小さな皿に「働きの小石」を置いた。「今日は、『仮板』のための米は出さない。代わりに、『仮板』のための席に灯を置く」
狐火の書生が、灯の絵を描く。灯の縁は橙色、芯は短い。「待つ席」の周りに小さな灯を置き、夜まで消さない。灯の下で、人は眠れる。眠れば、怒りは遅くなる。遅い怒りは、刃から遠い。
男は、秤の縁で腕を組んだまましばらく立ち尽くし、やがて肩を落として去った。遠くで子どもが、「仮=まだ」と声に出して読み上げる。読む声は、刃の背を削る。
◇
その夜、仮板の前に、市兵の若者が座った。膝の上には、封印札の板。彼は、剣ではなく筆を持っていた。筆先は、薄い墨で震えた。「……秋分まで」。彼は紙の端に小さく日付を書き、朱で囲った。期限は、刃ではない。期限は、約束だ。約束は、刃より長く残る。
王は筆を受け取り、「仮板」と朱書きした。朱の線は、真夏の朱書きよりも、わずかに落ち着いている。夏の朱は、火の色。秋の朱は、土の色。土は火の跡を受け止める。受け止めた跡を、次の苗のために柔らかくする。
楓麟が、風を聞く。「風は弱い。仮板は、揺れて立つ。揺れて立つものは、折れにくい」
「仮は重い」
藍珠が言った。「けれど、重みは残る。重みが残るものは、次の“本板”の芯になる」
遥は、仮板の端を指先で押した。銅の縁が月を薄く返し、紙がわずかに鳴って戻る。戻る音は、夏に縫い目を締め直したときと似ている。人の手は、似た音をすぐ覚える。覚えた音は、次に迷ったときの道になる。
狼煙番の少年が、塔へ向かって鏡を掲げた。三度、短い光。塔は一度だけ返した。灰の渡しからの反射も、一度。遠い場所で、同じ「まだ」が共有される。光は言葉ではない。だが、光は語る。語られた光は、夜の板に小さく写り、子どもの目に入る。子どもの目は、明日の手だ。
◇
仮板が立ってから三日目、ひとりの老人が朝の早いうちに広場へ来て、仮板の前に長く立った。剥がされた名を、じっと見つめる。彼の背は細いが、足の裏は土をつかんでいる。やがて彼は、仮板の縁に触れずに、隣の「本板」の薄線の名へ指を置いた。そこには、彼の娘の名があった。戻らない。戻らないが、いる。
「王よ」
老人は振り返らずに言った。「“仮”を掲げてくれてありがとう。……“仮”は、私の“まだ”でもある」
その言葉は、板の間を通って、王の胸に落ちた。落ちた言葉は、土だ。土は、静かに重く、長く残る。
同じ日の夕刻、緩衝の野の端で、小さな騒ぎ。若者が仮板の短冊を指でなぞり、「名をここに移せ」と叫ぶ。市兵は刃を見せず、帳簿を開く。書記は、「移す」を「映す」に変える。「映す」は、鏡の字だ。凛耀の鏡の背に刻まれた雲と風の文様が、紙の上に透けて見える。映すことは、移すことよりも、重い。映されたものは、そこから消えない。
狐火の書生は、また一枚、新しい絵を描いた。題は「仮の座」。板の周りに小さな丸椅子が描かれ、椅子の下に“待つ席の秤”。椅子の足は四本。それぞれに、「働き」「眠り」「食べる」「泣く」と書かれる。「泣く」──それは、夏の絵にはなかった言葉だ。泣くことを座らせる。座らせれば、泣きは、立って暴れない。
◇
夜半、仮板の影が地面に落ち、銅の縁に薄い雫(しずく)が沿う。楓麟は風向きを確かめ、灯を少しだけ下げた。「紙が吸いすぎる」。藍珠は、結び目を一つずつ撫(な)でてまわる。結び目には人の体温が残る。残った体温は、板を温める。板が温まると、紙は鳴らない。鳴らない紙は、夜に眠れる。
王は仮板と本板の間を歩き、あいだに置かれた「空白の札」に目を留めた。夏に掲げたあの白い札。今は、仮板の外縁に寄り添うように立っている。白は、汚れやすい。汚れやすいから、拭かれる。拭かれるから、そこが通路になる。通路は、刃では作れない。通路は、手で作る。手は、名を持つ者にしかない。
遥は、空白の札の下に小さく朱で書いた。
〈“仮”は、空白を埋めるための形。“まだ”は、嘘を遅らせるための時間〉
朱の細い線が滲(にじ)み、紙の繊維がわずかに膨らむ。膨らんだ繊維は、乾けば、強くなる。夏に学んだ紐と同じだ。
◇
秋分までの日は、まだある。だが、期限は、すでに人の背を伸ばしている。期限は、背中の上で重みになる。重みは、歩幅を一定にする。一定にするものは、秤と仲が良い。
広場の隅で、狼煙番の少年が、鏡を磨いていた。鏡の背の雲と風の文様を、布でやわらかく拭う。彼の傍らでは、老女が針を持ち、あの「名板の刃」の男が紐を通している。仮板の裏から聞こえる、糸が紙を通る細い音。音は弱く、しかし、夜の一部になっていく。
「仮板は、風に揺れ、月を映す」
楓麟が呟(つぶや)き、藍珠は剣を鞘に納める音を、わざと群衆に聞かせるように静かに鳴らした。剣が納まる音は、終わりの音ではない。始まりの音だ。刃がないから、始められることがある。
遥は、板の前で筆を置いた。朱書きの「仮板」の二字の下に、日付が刻まれている。秋分まで。そこまでに戻すと、風に向けて言葉を放つ。言葉は風になる。風は、見えない石を少しだけ動かす。見えない石が動けば、見える板の足が、さらに深く沈む。
仮板が風に揺れ、銅縁が月を反射する。花は乾き、香(か)を薄く残す。誰かがまた花を置く。子どもが「まだ」と読む。老人が「ありがとう」と言う。若者が、柄を担いで振り返らない。板は、背を押さない。板は、背に寄り添う。
“仮”は重い。だが、重みは残る。残った重みが、次の“本”の骨になる。仮板は、国の外縁に立ち、内側の列を支える。列は、刃のかわりに秤を持ち、鏡を掲げ、針を進める。秋分の影は、まだ遠く、しかし、そこへ向かって板は鳴りながら立っている。名は消えない。消さぬと誓った指が、今夜も糸を通し、明日も朱で囲む。そうして、誰かの「まだ」が、誰かの「いま」に変わるまで。
「仮板だ」
藍珠が短く言った。剣は背へ回している。ここで刃は要らない。いるのは、釘と紐と、読み上げる声だ。
王宮の広間に運び込まれた箱がゆっくり開かれる。中から現れたのは、薄い板に貼られた紙束──百と少し、紅月で剥がされた名の短冊。紙の縁は整っているが、ところどころに無理に剥がした跡があり、糊の白が薄く残っていた。書記が最初の一枚を取り上げ、読み出す。「青連(せいれん) 北州第三砦 兵厨房 剥札日・夏至翌日」。次の一枚。「斑里(まだらさと) 灰丘の町 納税帳手 剥札日・麦の月半ば」。一つひとつの名に、薄い埃が乗っている。埃は、遠くから来た証の匂いがした。
評議は、紙の匂いの中で始まった。
「他国の名を抱えれば重荷です」
法務の新任代行が、顔をこわばらせて言う。「板が重く、責務が際限なくなる。万一、剥がされた名の中に賊が紛れていたら、我らの“名の列”が穢(けが)れます」
「配分が増える」
商務は帳面をぱらつかせて肩をすくめる。「“炎逃れ”に“柄隊”、そこへ“仮板”。米の秤は釣り合わなくなるかもしれません」
医の館の長は、静かに頷いた。「けれど、名は薬です。名を持てば、心は身体の熱を下げます。仮でも、板に触れられる場所を、亡命者に。さもなければ“病の列”が伸びる」
楓麟は、板の角に指を当て、耳をわずかに動かした。「仮板は、風に揺れる。だが、見せねば、嘘が吹く。風は、空(から)の場所を通りたがる。隙(すき)を空ければ、そこへ囁(ささや)きが入り、名の縁を剝(は)がそうとする」
藍珠は王を見る。「剣で守れぬ名を、どう守る」
遥は、箱の中の名を一枚、指の腹でそっと撫でた。糊のざらつきが指に残る。剥がされた時の力の向きが、線の乱れになって見える。冬に縫った縫い目。春に立てた銅の縁。夏に裂けた秤の台。王の胸の中で、さまざまな傷のかたちが重なる。
「仮板は掲示する。ただし、“外縁”として。名の列の中には入れぬ。けれど、外には消さぬ」
朱筆が紙に落ち、規(のり)が走った。「仮板は秋分まで。秋分までに“本板”へ戻す線は、紅月とともに引く。剥がした名は、覗(のぞ)くことで、戻る道を思い出す」
◇
広場に、丸太と縄で組んだ枠が立てられた。名の列を囲うように円を描き、その円の外側に、もう一周の細い輪。輪の柱には薄い銅板が背貼りされ、夏の「名板の刃」で学んだ縁の守りが施されている。市兵の小屋の前で、狐火の書生が白墨で絵解きを描く。「本板──国の名」「外縁──仮板」「空白──名のない場所」。藍珠は縄の結び目を確認し、楓麟は灯の位置を指で示した。「風下は灯を遠く、風上は近く」
「見えるように」「見えすぎないように」
王は二つの相反する言葉を続けて書記へ渡し、位置を決める手を止めさせなかった。
仮板は、立った。紅月から逃れた男や女が、群れではなく、一人ずつ近づいてくる。最初の男は、瞼の陰に火の赤を残した目で板を追い、指を震わせながら短冊一つに触れた。「……あった」 顔が崩れ、肩が落ち、次の瞬間には背筋がわずかに伸びる。次の女は、指で文字をなぞりながら泣いた。「まだ……ない」 彼女の隣で、幼い子が板の縁を撫で、狐火の書生の絵を見上げる。絵には「仮板と本板の違い」が描かれていた。“仮”の字の上に、薄い赤で「まだ」の字が重ねられている。
緩衝の野の列も揺れた。「紅月の名を抱えるなら、配分は薄くなるのでは」と囁(ささや)く声。「あの人の名は、紅月の板から剥がされたはず。何故(なぜ)ここに」と指差す影。噂線はすぐ走る。市兵は刃を見せない代わりに、帳簿を広げた。王が先に広げたのは、秤の場だ。米と水の秤の横に、小さな木枠の秤が置かれた。「今日の『仮板の分』は、米ではなく“待つ席(せき)”。“待つ席”は“働き”で重くなる」
絵解きの板に、新しい図が加わる。二つの皿──片方に名の短冊、片方に小石。「待つ席の秤」。小石には刻みがあり、「井戸」「畦」「清め場」「検塩」「路上秤」──夏に人が身につけた働きの名前が、小石の上で白く光った。
王は群衆の前に立ち、声を張った。「仮とは“無い”ではない。仮とは“まだ”だ。まだ戻らぬ名を、待つ形だ。……待たせられる者だけが、待てる。待たせられない腹があるなら、秤の前に来い。小石を載せる。載せるための働きは、ここにある」
「働きは、誰のでもいいのか」
緩衝の野から来た年配の男が、ひび割れた声で問うた。藍珠が一歩、前に出た。
「柄を持て。今夜は『灯の並べ替え』だ。風が変わる。風は弱い灯を折る。折れる前に、灯芯を絞れ。灯芯を絞るのは、剣より難しい」
笑いが、薄く起きて薄く収まる。楓麟は少しだけ耳を動かし、「南東」と呟(つぶや)いた。「明け方、湿りが戻る。仮板の紙が吸いすぎぬよう、裏から布を貼っておけ」
布は、夏に縫った布の余りだ。縫い目は、熟れている。熟れた手が、仮板の裏を支える。見えないところで、見えるものが立つ。
◇
夜、仮板の前で、一人の若者が声を荒げた。首は細く、目はまっすぐだった。「俺の名は“仮”なのか! ここにも、向こうにも、俺は“仮”のままなのか!」
周囲が息を呑(の)む。言葉は鋭い。刃のかたちをしている。刃は、揺れているものの縁を切り取りやすい。切り取られた縁は、ふちから崩れる。
遥は、若者のほうへ歩いた。距離は短い。短い距離でも、足は重い。板の前で止まり、若者の目を受け止める。
「仮は“無い”ではない。仮は“まだ”だ。まだ戻らないという『事実』を、板にして見えるようにする。それは、おまえを軽くするためではない。おまえを、待つためだ。……待つのは、軽くない」
若者は口を開きかけ、閉じた。仮という言葉が、胸の中で別のかたちにほどけていく。狐火の書生が、絵の端に新しい一行を描き足す。「仮=まだ」。子どもが声に出して読む。「まだ」。読み上げる声に、若者の肩が、わずかに落ちる。
「仮板に花を」
誰かが呟(つぶや)いた。夏に名板へ置かれた小さな花の記憶が、広場の片隅から歩いてくる。老女が握りしめた小さな白い花──川べりの砂地に咲く、背の低い花だ──を、仮板の端にそっと置く。花は軽い。軽いが、目には重い。目に重いものは、心の皿を傾ける。傾いた皿は、元に戻る線を探し始める。
藍珠が息を吐いて、剣を鞘に納めた。鞘の縁が月の光をひとしずく拾って、細く光る。それは、仮板の銅縁の光と似ていた。似ているものが、違う場所にあると、心はそこへ道を引く。道は、刃ではなく、指で描ける。
◇
翌日から、仮板の脇には小さな卓が置かれた。「仮板相談」。書記が二人、医の館の若い薬師が一人、狐火の書生が一人。卓の上には三枚の板──「仮板」「本板」「亡命名簿」。その脇に“待つ席の秤”。相談に来た者は、まず名を指す。「ここ」。書記が「どこから、いつ、誰が剥がしたか」を読み上げる。薬師が「眠れているか」を尋ねる。書生が「どの働きの小石を載せるか」を絵で選ばせる。
最初に来たのは、斑里の町から来たという女だった。指の皮が強く、目の周りが痩けている。「ここに、夫の名がある。私は……ない」
書記は頷き、亡命名簿を開く。「ここに、あなたの名を記す。その隣に『仮板の隣』と書く。……『隣』は、遠いようで、近い」
「働けるか」
薬師が尋ね、女は少し笑った。「働くのは、もう知っている。剥がされるのも、もう知っている」
「なら、糸を」
書生が細い糸の束を渡した。「『縫いの場』は仮板の裏にもある。裏の縫い目は、表の花と同じ」
女は糸を受け取り、卓の端で結び目を作った。結び目は不揃いだが、ほどけない。ほどけないものを、裏に増やす。裏が増えれば、表が揺れても、落ちない。
次に来たのは、若い兵だった。短い髪、折れた耳。彼は仮板を睨(にら)み、「向こうの板から剥がされた名は、向こうで戻るのか」と問うた。楓麟が、風のように答える。
「風は、押せば向きを変えたふりをする。だが、山の向こうで同じ向きへ戻る。……凛耀は『仮板』を『本板』へ戻す線を我らへ示した。秋分の語(ことば)。約束の風は、言葉で吹かせられる」
兵は黙って頷き、「待つ席」の小石を手に取った。手の中で、小石が冷たく、軽い。軽さは、嫌(いや)ではなかった。軽いものは、持ち上げやすい。持ち上がるものは、置き直せる。
◇
「外縁」の周りに立つ仮板が、昼の風でかすかに鳴った。紙と銅の、違う音が交じる。その音に混ざって、別の声も混ざった。「どうして紅月の名を」「ここは白風の板だろう」。市の片端で、男が声を荒らげる。夏の「秤の刃」の夜に似た匂いが、かすかに戻る。
王は、秤の場をもう一度開いた。米と水の秤の左右に、「仮板と本板」の二枚の板を置く。彼は米を片方に、水を片方に置き、さらに小さな皿に「働きの小石」を置いた。「今日は、『仮板』のための米は出さない。代わりに、『仮板』のための席に灯を置く」
狐火の書生が、灯の絵を描く。灯の縁は橙色、芯は短い。「待つ席」の周りに小さな灯を置き、夜まで消さない。灯の下で、人は眠れる。眠れば、怒りは遅くなる。遅い怒りは、刃から遠い。
男は、秤の縁で腕を組んだまましばらく立ち尽くし、やがて肩を落として去った。遠くで子どもが、「仮=まだ」と声に出して読み上げる。読む声は、刃の背を削る。
◇
その夜、仮板の前に、市兵の若者が座った。膝の上には、封印札の板。彼は、剣ではなく筆を持っていた。筆先は、薄い墨で震えた。「……秋分まで」。彼は紙の端に小さく日付を書き、朱で囲った。期限は、刃ではない。期限は、約束だ。約束は、刃より長く残る。
王は筆を受け取り、「仮板」と朱書きした。朱の線は、真夏の朱書きよりも、わずかに落ち着いている。夏の朱は、火の色。秋の朱は、土の色。土は火の跡を受け止める。受け止めた跡を、次の苗のために柔らかくする。
楓麟が、風を聞く。「風は弱い。仮板は、揺れて立つ。揺れて立つものは、折れにくい」
「仮は重い」
藍珠が言った。「けれど、重みは残る。重みが残るものは、次の“本板”の芯になる」
遥は、仮板の端を指先で押した。銅の縁が月を薄く返し、紙がわずかに鳴って戻る。戻る音は、夏に縫い目を締め直したときと似ている。人の手は、似た音をすぐ覚える。覚えた音は、次に迷ったときの道になる。
狼煙番の少年が、塔へ向かって鏡を掲げた。三度、短い光。塔は一度だけ返した。灰の渡しからの反射も、一度。遠い場所で、同じ「まだ」が共有される。光は言葉ではない。だが、光は語る。語られた光は、夜の板に小さく写り、子どもの目に入る。子どもの目は、明日の手だ。
◇
仮板が立ってから三日目、ひとりの老人が朝の早いうちに広場へ来て、仮板の前に長く立った。剥がされた名を、じっと見つめる。彼の背は細いが、足の裏は土をつかんでいる。やがて彼は、仮板の縁に触れずに、隣の「本板」の薄線の名へ指を置いた。そこには、彼の娘の名があった。戻らない。戻らないが、いる。
「王よ」
老人は振り返らずに言った。「“仮”を掲げてくれてありがとう。……“仮”は、私の“まだ”でもある」
その言葉は、板の間を通って、王の胸に落ちた。落ちた言葉は、土だ。土は、静かに重く、長く残る。
同じ日の夕刻、緩衝の野の端で、小さな騒ぎ。若者が仮板の短冊を指でなぞり、「名をここに移せ」と叫ぶ。市兵は刃を見せず、帳簿を開く。書記は、「移す」を「映す」に変える。「映す」は、鏡の字だ。凛耀の鏡の背に刻まれた雲と風の文様が、紙の上に透けて見える。映すことは、移すことよりも、重い。映されたものは、そこから消えない。
狐火の書生は、また一枚、新しい絵を描いた。題は「仮の座」。板の周りに小さな丸椅子が描かれ、椅子の下に“待つ席の秤”。椅子の足は四本。それぞれに、「働き」「眠り」「食べる」「泣く」と書かれる。「泣く」──それは、夏の絵にはなかった言葉だ。泣くことを座らせる。座らせれば、泣きは、立って暴れない。
◇
夜半、仮板の影が地面に落ち、銅の縁に薄い雫(しずく)が沿う。楓麟は風向きを確かめ、灯を少しだけ下げた。「紙が吸いすぎる」。藍珠は、結び目を一つずつ撫(な)でてまわる。結び目には人の体温が残る。残った体温は、板を温める。板が温まると、紙は鳴らない。鳴らない紙は、夜に眠れる。
王は仮板と本板の間を歩き、あいだに置かれた「空白の札」に目を留めた。夏に掲げたあの白い札。今は、仮板の外縁に寄り添うように立っている。白は、汚れやすい。汚れやすいから、拭かれる。拭かれるから、そこが通路になる。通路は、刃では作れない。通路は、手で作る。手は、名を持つ者にしかない。
遥は、空白の札の下に小さく朱で書いた。
〈“仮”は、空白を埋めるための形。“まだ”は、嘘を遅らせるための時間〉
朱の細い線が滲(にじ)み、紙の繊維がわずかに膨らむ。膨らんだ繊維は、乾けば、強くなる。夏に学んだ紐と同じだ。
◇
秋分までの日は、まだある。だが、期限は、すでに人の背を伸ばしている。期限は、背中の上で重みになる。重みは、歩幅を一定にする。一定にするものは、秤と仲が良い。
広場の隅で、狼煙番の少年が、鏡を磨いていた。鏡の背の雲と風の文様を、布でやわらかく拭う。彼の傍らでは、老女が針を持ち、あの「名板の刃」の男が紐を通している。仮板の裏から聞こえる、糸が紙を通る細い音。音は弱く、しかし、夜の一部になっていく。
「仮板は、風に揺れ、月を映す」
楓麟が呟(つぶや)き、藍珠は剣を鞘に納める音を、わざと群衆に聞かせるように静かに鳴らした。剣が納まる音は、終わりの音ではない。始まりの音だ。刃がないから、始められることがある。
遥は、板の前で筆を置いた。朱書きの「仮板」の二字の下に、日付が刻まれている。秋分まで。そこまでに戻すと、風に向けて言葉を放つ。言葉は風になる。風は、見えない石を少しだけ動かす。見えない石が動けば、見える板の足が、さらに深く沈む。
仮板が風に揺れ、銅縁が月を反射する。花は乾き、香(か)を薄く残す。誰かがまた花を置く。子どもが「まだ」と読む。老人が「ありがとう」と言う。若者が、柄を担いで振り返らない。板は、背を押さない。板は、背に寄り添う。
“仮”は重い。だが、重みは残る。残った重みが、次の“本”の骨になる。仮板は、国の外縁に立ち、内側の列を支える。列は、刃のかわりに秤を持ち、鏡を掲げ、針を進める。秋分の影は、まだ遠く、しかし、そこへ向かって板は鳴りながら立っている。名は消えない。消さぬと誓った指が、今夜も糸を通し、明日も朱で囲む。そうして、誰かの「まだ」が、誰かの「いま」に変わるまで。



