その朝、最初に鳴ったのは鐘ではなく、鎌の歯が粟の茎をはたと落とす乾いた音だった。薄紅平原に、刈り音が雨の前触れみたいに細かく広がっていく。畦頭(あぜがしら)が砂時計を逆さにし、柄隊の若者たちが声を合わせると、首を垂れた早穂も遅穂も、同じ角度で地面に向かって傾いた。刈られた束が人の背を越え、積まれた山は、たちまち風の通り道を変える。夏に張った草の線の向こう側でも、紅月から逃れてきた男たちが、ぎこちない手つきで束ね紐を結んでいた。結び目はまだ不揃いだが、ほどけそうでいてほどけない。冬に覚えた縫い針の癖が、彼らの指の関節に残っている。

 問題はそれからだ。穂束は山になったが、山は腹を満たさない。市へ、粉挽き水車へ、備蓄の蔵へ──運ばなければただの風景だ。ところが、山車の車輪が、初めの角でずぶりと沈んだ。雨の名残りが収穫路(しゅうかくみち)を抉(えぐ)り、牛の蹄(ひづめ)を呑(の)み込む。溝に溜まった泥は粘り、片輪だけ深く取られた山車は、やがて軸をきしませて動かなくなる。夏の間に幾度も埋め戻したはずの段差は、秋の重みでまた崩れ、田と道の境いめが曖昧になっていく。

 王宮の政務卓に、泥の匂いがあがってきた。工営司は図面の上から身を乗り出し、「収穫路補修を先に」と声を荒げる。「土を運ぶ人手、石、木の楔(くさび)、どれも今日明日が勝負です。溝は、今、埋めるべきです」

 商務司は譲らない。「市へ早く穂を運ばなければ、粉挽き水車が止まります。水は減っています。回るうちに回させないと、今度は市の秤が止まる」

 法務の新任代行は机を叩いた。「通行妨害を罰す。道は国の血管だ。止める者は、国を止める者だ」

 その言葉に重みはあったが、楓麟(ふうりん)は耳をわずかに動かすと、静かに遮った。「罰より流れを作れ。風は、叱っても向きを変えない。堰を動かすか、道を通すかだ」

 藍珠(らんじゅ)は剣の柄に軽く手を置き、短く言った。「剣で道は開かぬ」

 遥は、積まれた図面と板の縁をそっと揃えた。紙の端に、夏の間についた裂け目の縄の跡を、指が覚えている。剣を抜かずに秤を守ったあの日の、汗と灰と粥の匂い。それを上塗(うわぬ)りするように、今は湿った土の匂いが鼻に差しこんでくる。

「『収穫路の秤』を布告する」

 遥は朱筆を取り、三行に分けて書いた。

 ──一、「塵札(ちりふだ)」。収穫ごとに道へ撒く土砂を一車分寄付させ、板に記録する。畦頭の印と日付を結ぶ。

 ──二、「交代牛」。上流村と下流村の牛馬を交互に使い、互いの路に足跡を刻ませる。返礼は米ではなく、翌日の牽(ひ)き代(しろ)。

 ──三、「夜の灯」。狼煙番(ろうえんばん)が収穫路に灯を並べ、夜通し運搬を可能にする。灯芯は湿らせて、火の縁(ふち)を低く。

 書記が走り、布告が城下の掲示板に張り出される。狐火の書生はすでに絵筆をとっていて、山車の車輪に石が噛み、泥が逃げる図を描いた。子どもがそれを覗き込む。絵の余白には、小さく、あの白い小石──夏に傷の印に使った小石──が一つ貼られていた。「転ばないための白」。

     ◇

 現場は、紙より速く変わる。緩衝の野から来た若者がはじめて牛を曳(ひ)いた。掌(てのひら)に綱の痕(あと)が食い込み、肩にかけた綱は泥で重くなる。牛は人の躊躇(ちゅうちょ)を鼻で嗅ぎ分け、ため息みたいに一歩だけ後ずさった。若者は綱を握り直し、深く吸ってから、歩幅を牛に合わせる。霧がまだ畦にしがみつき、草の匂いが濃い。誰かが笑い、誰かが罵(ののし)り、誰かが笑いながら罵った。秋の最初の喧騒(けんそう)は、夏の喧噪(けんそう)とは少し違って、腹に重く沈む。

 「塵札だ、塵を寄越せ」

 工営司の若い官が、路の端で声を張った。塵札の板には、印と日付の欄が二本ずつ。今日は「東畦」から「市口」まで。明日は「市口」から「水車場」まで。土砂が積まれた小車が次々に寄せられ、緩衝の野の男が、柄の先に括(くく)りつけられた板で、泥と混ぜて溝に流し込む。泥は軟らかく、土は重い。重いほうを先に入れれば、軟らかいほうが隙間を埋める。狐火の書生の図の通りに、人々は手を動かす。見れば、やれる。見えれば、やる。

 「交代牛」の札が木杭から外され、楡(にれ)の枝に掛けられていく。上流の赤い印、下流の青い印。今日は赤が先に牽き、青が後を押す。明日は逆。牛は印を知らない。だが、牛を曳く人は、印を知る。その知識が、牛の鼻先で緩んだ綱を、すこしだけ短くする。

 狼煙番の少年が、灯の列を運び始めた。灯は冬の灯ではなく、秋の灯だ。油は薄く、水が少し混じる。火は高く燃えず、縁が橙色に光るだけ。それでいい。光りすぎない灯は、夜目に優しい。灯の間隔は一定ではない。道の窪(くぼ)みの深い場所は近く、坂の上は遠く。少年は足で歩きながら、風下に灯を置いた。灯の炎がさざ波になる方角を、背中で受けながら並べる。

 市の子どもたちが、その横で「収穫路の絵解き」を掲げる。灰の渡しで鏡を掲げていた小さな手は、秋には板を持つ手になった。彼らは、夜まで交代で板を持つ。板には、山車の通り方、角に石を置く位置、牛の目の前に垂らす草の束の量──細かい絵が並ぶ。「刃の知識」ではない。「手の知識」だ。

 列は、動き始めた。昼の太陽が傾くにつれて、車輪の音が一定になり、路の片側で泥がうすく光る。誰かが歌い出し、それを誰かが笑いで止め、それでも歌は別の場所からこぼれる。

 路の脇で、ひとりの老人が倒れた。背に“暗線”の名板を抱いていた。縁には薄い銅板、表には縫い目。夏に修復した板だ。板は重い。老人の肩の骨は、布越しにも尖って見えた。

 「名は収穫を見届ける」

 遥は泥に跪(ひざまず)いて、名板を抱えた。老人の体に手を添え、板を胸に引き寄せる。名板の縁は、夏の月を映した銅の光をわずかに残し、秋の太陽で別の色になっていた。老人は目を閉じ、唇を細く結んでいる。医の館の薬師が駆け寄り、頬に手を当てた。「熱はない。力が尽きただけだ」

 老女──冬から名の列の前に立ち続けていた人──が、いつの間にか傍(かたわ)らに来て、名板の縫い目にそっと指を置いた。彼女の指は、春に針を持ったときよりも、迷いなく縫い目を辿(たど)る。縫い目は、秋の指には道だ。どの糸がどこへ向かい、どの結び目がほどけやすいか、指の腹は覚えている。

「持ちます」

 老女が言い、藍珠は頷いた。藍珠は剣に触れない。代わりに柄を一本、老女の脇に置いた。柄は重い。だが、柄は人に重さを分けられる。剣は、重さを奪う。老女は柄に背中を預けながら、名板を胸に抱えた。

     ◇

 夜、灯が揺れる収穫路で、楓麟が風を測った。「明日は、雨」

 「泥に剣は役立たぬ」と、藍珠は肩をすくめる。彼女の顔には泥が跳ね、結び目の端が湿って重くなっている。「役立つのは、紐だ。縛る、解く、結び直す」

 「泥でも名は流さない」

 遥は泥の上に指で線を描いた。線はすぐ崩れ、泥に溶ける。それでも、指に残る泥の重さは、線の重さだ。名板の縁を銅で護(まも)ったように、路の縁も石と枝で護る。護ることは、美しくない。泥は、きれいではない。けれど、泥は人を立たせる。立った人は、名を読み上げられる。

 灯の列の向こうで、狼煙番の少年が鏡を胸に当て、短く合図を送っていた。塔が一度、返す。凛耀の鏡の返礼かもしれない。どちらでもよかった。光は、夜の作業場では秤の目盛りになった。目盛りの影が、泥の厚みを教える。

     ◇

 翌朝、雨は夜のうちに少し降り、止んでいた。路はさらに重く、踏まれた跡は深く、車輪はひきずる音を低くした。布告はもう働いている。塵札の板には朱が増え、交代牛の札は日に焼けた手垢で黒ずんだ。夜の灯は、朝まで消えずに残り、灯芯を絞れば、そのまま昼の目印になった。

 評議は、泥の匂いを連れて始まった。工営司は顔を輝かせる。「塵札、効いています。土砂が足りません。『塵』という名を嫌がって、最初はどの村も渋ったが、名を残せるとなれば、手が変わった。塵を出すのは、名を出すのと同じことだと」

 商務は紙の束を差し出した。「市の秤は、昨夜から朝にずらしました。水車の回転が不安定なので、粉挽きを“細歯”に切り替えています。歩留まりは落ちますが、粉は薄くても安全です」

 医の館は短く付け加えた。「足の傷が増えています。『清め場』を収穫路の二箇所に臨時設置します。口覆い布は、泥でも洗える晒を」

 法務は、言葉を選びながら言った。「通行の妨害を罰す、は引っ込めます。『塵札』の未納には、板の端に小さく印を付けるだけでよい」

 楓麟は風を聞き、「南。今日の午後は、湿りが増す」と告げる。藍珠は、剣の結びを固くした。「剣は今日も、柱に立てるだけ」

「『収穫路の秤』は、今日から二日間、広場ではなく路の上でやる」

 遥は言い、板に新しく線を引いた。「運ぶ直前に秤にかけ、路の中ほどでもう一度秤にかけ、蔵の前で最後に秤にかける。重さが落ちていれば、落ちた場所に“塵”を戻す。落ちていなければ、次の車に“灯”を貸す」

 書記が、小走りで出ていく。狐火の書生は、その場で「路上秤」の絵を描き始めた。秤は三度。刃は一本も描かれない。描かれるのは、結び目と、灯の縁、そして馬の鼻先にぶらさがる草の束。

     ◇

 路上秤は、人を静かにさせる。山車が秤の脇に寄せられ、束が降ろされ、皿に乗る。乗せる手は、束のどこを掴むかで軽くも重くもなる。そこに嘘は混じる。混じりうる。だから、三度。三度あれば、嘘は居心地をなくす。嘘は、居場所を探して迷い、最後には落ちる。

 「交代牛」の札の前に、上流と下流の印が並ぶ。上流の若者が牛の頬を撫で、下流の若者が車輪の軸に油をさす。二人の手は泥だらけだ。泥で滑るとき、素早い手は次の場所へすべる。遅い手は、そこで止まり、泥に沈む。沈む手は、助けられる。助けられると、人は次に助ける側に回る。助けることは、秤の小石になる。

 途中の坂で、山車が止まった。押す者の肩が上がり、押された車輪は、半歩だけ前に出るが、すぐに後ろへ戻る。そのたび、心も少し後ろへ戻る。狼煙番の少年が呼吸を整え、灯の場所を一歩前へ移した。光が、泥の凹みを浮かび上がらせる。子どもが、段差へ石を滑り込ませる。石は、語らない。だが、石は裏切らない。石は、石だ。

 市の入口の手前で、列が詰まった。そのとき、また老人の姿が見えた。昨日の人とは違う。背に名板はなく、代わりに布で包んだ小さな木札を抱いている。薄線の名が、そこに書かれている。彼は肩で息をし、一歩進んでは立ち止まり、また一歩進む。

 「名は収穫を見るだけではない。名は、収穫へ歩く」

 遥がそっと木札を受け取り、老人の肩へ手を置いた。老人は頷いて、少し笑った。笑いは、泥に落ちない。笑いは、火のように上へ上がる。上がっても、燃え広がらない火だ。こういう火は、国をあたためる。

     ◇

 書生の絵は、夕方の灯の下でまた一枚増えた。題は「背中で押す」。絵の真ん中に、大きな背中が描かれている。背中は言葉を持たないが、背中には約束が乗る。背中は、嘘を背負わない。嘘は、肩から滑り落ちるからだ。

 夜の入口で、楓麟がふたたび風を測った。「北西、強め。夜半にひとしきり」

「灯を低く」と少年が復唱し、藍珠は柄隊に声をかける。「縄を短く、結びを近く」

 路上秤の二度目の目盛りに、雨粒の跡がついた。跡は、小さな星の形をしている。その星の形の並び方で、風の向きが読める。夏のはじめに楓麟が教えた通りだ。人々の目は、知らぬうちにそれを覚えた。覚えれば、次の「重さ」が見える。

 緩衝の野の若者が、初めて自分の名前で塵札に印を押した。指は震えていなかった。震えは、最初の数回だけだ。震えは、やがて絞れる。名は、うまく押されなくても、そこに残る。残る文字が不格好でも、次に押す手がそれをなぞる。なぞる手は、乱れを整える。整えることは、刃より強い。

 深夜、雨が強くなった。灯の縁が、ときおりちりちりと音を立てる。路の脇に臨時の清め場が設けられ、桶の湯気が白く立ち上る。医の館の薬師が、足の傷を洗い、白い小石をひとつ、桶の縁に置く。「ここに傷がある。ここで洗え」と。

 藍珠は鞘の結びをほどきかけて、また結び直した。剣は今日も抜かれない。抜かれないことを、見えるようにする。剣が抜かれる場面は、刃だけでは終わらない。抜かれたあとの塵の位置、結び直される紐の手順、そういう細いことが、刃の前後を支える。ならば、刃を抜かないほうが、手順は早い。早いものは、噂に勝てる。

     ◇

 雨の明けた朝、路はまた重くなったが、列は途切れなかった。「夜の灯」の間に白い羽みたいな灰が落ちていて、それを誰かが拾い集め、塵札の板の隅に貼り付けた。灰は軽い。軽いものは、秤の皿に乗せても釣り合いを乱さない。だが、目には残る。残るものは、あとで効く。

 王宮の回廊で、遥は工営司の報告を聞き終えると、静かに頷いた。「『塵札』の印の線は、名の列の外縁の線と同じだ。剥がれることも、上書きされることもある。だが、上書きは上書きとして見えるようにする」

 法務が恐る恐る尋ねる。「『剥がした跡』も残しますか」

「残す。争水板の焦げ跡と同じだ」

 商務は、粉引き水車からの細い粉袋を差し出した。「歩留まりは下がっても、腹は満ちます。秤の場で『薄いが安全』の粉だと見せて配る」

 医の館は、「足の傷が重い者に、『座って押す』働きを与えたい」と申し出た。路の端に置く小車を、座って押す人のための用具。働ける者は、働き方を見つける。見つけ方を絵にするのが、狐火の書生の仕事になった。

 楓麟は風を聞き、藍珠は結び直した。二人の会話は短く、冬から変わらない。短い言葉の向こうで、手はずっと動いている。遥はふと、名の列の端の「空白の札」を思い出した。夏の夜に掲げた白い札は、秋の朝でも白い。白は、汚れれば目立つ。目立てば、拭かれる。拭かれれば、そこが「入口」になる。

     ◇

 午後、山車が市の中へ入り、粉引き水車がゆっくり回り始めた。水は夏よりも少なく、音は低い。低い音は、人の声を落ち着かせる。高い音は、人の足を速める。速い足は、刃に近い。遅い足は、秤に近い。秤は、遅いほうを待つ。

 「夜の灯」を並べていた子どもたちが、昼の「影」の位置を測る遊びを始めた。影が長くなり、旗の縁を斜めに横切る時刻を探す。影は、名の列にも落ちる。影が重なれば、文字は濃く見える。濃く見える文字は、読まれる。読まれれば、残る。

 路の端で、老女がまた針を持っていた。「縫いの場」は、収穫路の脇にも小さく設けられた。板の破片はない。だが、袋の裂け目がある。裂け目を縫わなければ、粉は路で流れる。流れれば、秤で釣り合うはずの皿が軽くなる。軽くなれば、争いが重くなる。重くなれば、剣に近づく。剣に近づけば、夏の約束が遠のく。ならば、今縫う。

 老女の隣に座ったのは、あの「名板の刃」の男だった。彼は背貼りの銅板ではなく、今日は麻糸を手にしている。結びは、夏よりも均一になっていた。均一な結び目は、ほどけにくい。ほどけにくければ、声は荒れない。荒れない声は、遠くまで届く。届く声は、刃ではなく布を通す。

 藍珠は、二人の背後から目だけで見守った。楓麟は、燠火(おきび)の風下に回って、煙が路へ流れないようにした。煙は人の目を刺す。刺された目は、怒る。怒りは、速い。速いものは、刃の重さとよく馴染む。馴染ませたくないときは、煙を曲げればいい。曲げるのは、風の仕事だ。

     ◇

 夕刻、狼煙番の少年が、塔へ合図を送った。鏡の背の雲と風の文様が、秋の光を薄く弾く。塔は一度だけ返し、灰の渡しのほうからも、かすかな反射が一度。凛耀の線は、夏と同じところを通っていた。外の線は動かない。だから、内を動かす。内の線は、毎日少しずつ動かす。動かしながら、元に戻せるように印を残す。印は、刻みでも、糸でも、白い小石でもいい。

 王は、路上秤の最後の一台の前で立ち止まった。刈り場から市へ、そこから水車へ、そして備蓄の蔵へ。三度の秤の記録が、板に縦に並んでいる。数字は美しくない。美しさは、人の疲れを誤魔化(ごまか)す。ここに要るのは、誤魔化さない線だ。誤魔化さない線は、刃を遠ざける。

「泥でも名は流さない」

 遥はもう一度、低く言った。泥に膝をついたときの冷たさは、もう衣に染みて冷えきっている。それでも、膝を立てる。立てた膝は、地面を押す。押された地面は、少しだけ硬くなる。硬くなった地面は、次の人の足を受ける。受けた足が、次の荷を押す。

 夜、灯の列がまた延びた。灯は数を競わない。足りないところに足りるだけ。多いところでは減らす。減らされて怒る人はいない。怒る前に、灯の縁が目に入るからだ。人の目は、灯に引かれる。引かれた目は、刃へ向かわない。

 広場の片隅に戻ると、「縫いの場」の卓がひとつ増えていた。子どもが、袋の裂け目を縫っている。針は指に刺さる。刺されば泣く。泣けば、隣の手が止まる。止まった手は、刺さないやり方を教える。教えることは、秤の小石だ。今日、誰かが教えたことは、明日、誰かの小石になる。

     ◇

 秋の気配は、葉の色ではなく、塵の匂いで強まっていく。収穫路の塵は、夏の灰とは違う。鼻に残って、喉を乾かし、目の縁に白い線を引く。白い線は、怒りの赤より、長く残る。長く残るものが、国を変える。

 夜更け、遥はひとりで名の列の前に立った。今日増えた「塵札」の印が、端に小さく連なっている。外縁の薄い線に「路上秤」の記録が移され、貸し/返しの刻みが、堰の石から紙へ写される。紙は、泥を吸わない。その代わり、汗を吸う。吸った汗は、乾けば塩になる。塩は、舌にのせると苦い。苦いが、必要だ。必要なものは、美しくなくてよい。

 王は、朱で小さく書き足した。

〈塵札の列は、名の列の縁。塵は名を汚さず、名は塵を軽くする〉

 書き終えたとき、背後から小さな物音がした。振り返ると、あの老人が、先ほどの木札を抱えたまま、柱に凭(もた)れて座っていた。目は閉じているが、呼吸はある。老女が毛布を持ってきて、そっと肩に掛けた。「名は、収穫を見届けました」と彼女は言い、老人の額に指先を一度、当てた。

 藍珠は鞘に手を置き、楓麟は風を聴いた。風は、明日も湿りを運ぶ。湿りは、秤の皿を軽くする。軽い皿は、すぐ揺れる。揺れれば、また秤の場を開く。開けば、刃は遠のく。

 秋分の影は、まだ遠い。だが、影はすでに路の上に落ちている。灯は、影の形を見せるためにある。秤は、影の重さを測るためにある。針は、影の裂け目を縫うためにある。鏡は、影の端を光らせるためにある。どれも剣の形はしていない。けれど、どれも、国の形を支えている。

 収穫路の塵が、夜風でふわりと舞い、灯の縁をかすめて落ちた。落ちた塵に、白い小石の陰が重なる。小石は動かない。動かないものが、動くものを支える。動くものが、動かないものを意味にする。意味は、刃より長く残る。

 夜の最後の荷が蔵に入ったとき、狼煙番の少年は、鏡を胸に当てて小さく息を吐いた。「三度、明日も」と彼は呟(つぶや)き、鏡の背の雲と風を、掌で一度撫(な)でした。撫でることは、約束の形に似ている。約束は、刃では切れない。切れないものを増やしていくことが、秋の仕事だ。冬へ繋(つな)がるまで、刃なきまま、重ねていく。