朝いちばんの鐘は鳴らなかったのに、城下の空気は早くからざわついていた。湿った南東風が、掲示板の紙の縁をすこしだけめくりあげ、そこに残る焦げ跡を呼び起こす。争水板の黒い波形に触れて、誰かがつぶやく。「外の火が消えたなら、内の秤を重くせよ」。──言葉は小さかったが、紙の上を渡り、人から人へと移ろい、やがて朝の広場ぜんたいに広がる一枚の薄膜になった。
紅月の停戦は、昨夜の狼煙と灰の渡しの合図で確かめられた。凛耀の鏡は三度光り、塔は一度返した。それで十分だった。無色の旗は静かに立ち、縄印は緩まない。外の線は動かない。けれど、線の内側は人の気配で満ち、薄紅平原の畦の端では、水の音がほんのわずかに低くなっていた。
王宮では、朝の政務卓に板が三枚置かれた。ひとつはいつもの「秤の場」の仕様書、もうひとつは「線の場」の条文写し、そして最後が「縫いの場」──名板の繕いを常設化するための図面だった。遥はまだ椅子に腰を落ち着けぬまま、紙の角を揃えた。揃えた指の感触に、冬から続く紙の重さが残っていた。
「外が静かだと、内が喋る」
楓麟が風を聴きながら言い、藍珠がうなずく。「剣は鞘のまま、柱に立てておく」
「秤の皿は四つに増やす。米と水だけでなく、『仕事』と『傷』も、見える形に落とす」
遥の声は、冬よりも低く、夏の湿りを帯びていた。書記が筆を走らせる音が、蝉の初鳴きのように規則正しく続く。狐火の書生は、端の机で新しい絵を描いていた──小石に「水見番」「畦直し隊」「清め場」「医の館」の印を刻み、皿に落とす図。子どもにも読める線。
「緩衝の野は?」と工営司の若い官が問う。彼の目の下にはうっすらと隈がある。昨夜、炎逃れの名簿の列で帳の端に寄り添っていたのを、藍珠は見ていた。
「『炎逃れの名簿』への上乗せは残す。だが“秤の場”で毎朝、公開する。理由を見せる。見せて、耳を澄ます」
医の館の薬師が手を挙げる。「夏の熱で、傷が立つ。『傷の小石』は“白”の小石がよい。湿りに晒しても白いままで、目に残る」
「白い小石を。……それから、『線の場』で白石会盟の条文を読み上げる。外の線は動かない。外を理由に内を荒らさない」
法務の新任代行が、慎重な声で付け加えた。「『縫いの場』は、誰でも針を持てるように──針と糸の数が要りましょう。銅の背貼りの薄板は?」
「鍛冶と話をつけた。短刀より小さく、名板の縁よりわずかに大きい銅片が今夜には届く」
藍珠の横顔に、冬の切先の影がまだかすかに残っていた。けれど、彼女の手は鞘の結び目を確かめ、剣ではなく“縫い針”の場の守りを思っていた。
◇
広場の真ん中に、秤が二台──米の秤と水の秤。そして、その脇に新しく据えられた二つの小さな秤。片方の皿には「仕事」の小石が、もう片方には「傷」の白い小石が、音もなく積まれていく。
「上流村」「下流村」の代表が向かい合った。どちらも日に焼け、どちらも目の下が落ちくぼんでいる。皿の前でうつむいた女が、名板の小さな札を握りしめている。薄線の若者が柄を立てかけ、狼煙番の少年は鏡を胸に抱いたまま、秤の目盛りの影を読むように目を細めた。
「今日は四つだ」
遥はゆっくり言った。「米、水、仕事、傷。四つが、今日の重さだ」
書記が声を張る。「畦直し隊──二十日。水見番──十五日。清め場──十二日。医の館補助──七日」
小石がひとつずつ、皿に落ちるたびに、小さな音がした。重さは音にならないのに、音が重さを伝えることがある。仕事の小石は灰、傷の小石は白。どちらも夏の光に鈍く光って、皿の縁にきちんと収まった。
水の秤へは、杯が吊り下げられている。今日の水を、目で確かめられるように。米の秤へは、乾き具合の違う粟が二種──朝に刈ったものと、日暮れに刈ったもの。狐火の書生が横で、「実の乾き」と「腹の持ち」の絵を掲げている。
「釣り合うか」
藍珠が低く言った。刃は抜かない。鞘のまま、秤の柱に立てかける。楓麟は風を切り、砂埃が目盛りにかからないようにする。少年が鏡を傾け、目盛りの影を濃くする。
四つの皿は、揺れ、止まり、またわずかに揺れた。やがて、僅差で釣り合った。上流の男の顔から力が抜け、下流の女の目に、かすかな水が戻った。遥は短く言った。
「秤が釣り合うなら、剣は要らない。釣り合わなければ、剣でも釣れない」
ざわめきの中に、吐息が混じった。怒号ではない。怒号のかわりに、肺から絞り出す酸素みたいな音。
そこへ──遠くから、乾いた音が飛んできた。石のぶつかる音。緩衝の野のほうだ。藍珠が眉だけで合図し、市兵が走る。楓麟は風を聴き、遥は秤から目を離さない。
◇
緩衝の野の端で、投石の輪が広がりかけていた。標的は、あの「名板の刃」の男。彼は背貼りの銅板を磨いていた。名板の縁は新しく、銅の縁は薄く光る。男は言葉を持たず、紐を通し、銅を磨き、縫い目をなぞるだけ。だが、その「無言」が、誰かの怒りを引きつける。
「名を切った手が、また板を触るのか」
「上乗せをやめろ。炎逃れに粥を加えるな」
声が重なり、石が地面に跳ねる。市兵は盾を構えない。構えれば、刃と同じ影が伸びてしまう。代わりに、輪の内側にすっと飛び込んだ小さな影があった。狼煙番の少年だ。彼は口を大きく開いて、短く叫んだ。
「空白の札は、名を奪うためじゃない!」
喉が裂けるような声だった。「『名の無さ』を見えるようにするためだ! 見えないと、噂が『ある』になる!」
狐火の書生が、その言葉に合わせるように大きな図を掲げた。板の上に、名札と空白札を描いた絵。銅縁と縫い目の周りに、矢印で「傷」「記憶」「待つ」の字を置く。書生は震える指で絵を叩きながら続けた。
「空白は、穴の形をしている。でも、穴は“ある”。穴を見えるようにしないと、穴へ誰かが落ちる!」
投石は、止まらない。すぐには止まらない。だが、投げる腕の肩のところで、ためらいが生まれる。石を持つ手の、親指の腹がかすかに汗ばむ。汗は、冷静の端緒だ。市兵は投石の間に人の列を引き、楓麟は輪の外から風を押して、砂埃を人々の目に入らないように流す。藍珠は遠くの高い場所に立って、鞘のままの剣を水平に掲げた。刃ではなく、線。線は、人を割らずに場を割る。
男は投げられる石を避けなかった。背の銅板に当たる音がした。高い音ではなかった。銅が石を受け止める音は、鍋の縁が木杓子に触れたときの音に似ていた。男は顔を上げない。ただ、銅を磨く。磨く行為は、刃が入る前の儀礼に似ている。だが、これは刃の前ではない。刃のあとだ。あとで、修復の最中だ。
少年の声は枯れた。書生の掲げた図の紙は風でめくれ、裏の白さが一瞬広がった。「白」は、人を落ち着かせる。白い小石のことを、遥は朝の政務卓で思い出した。目に残る色。
投げる手が、ゆっくり下がった。石は落ち、砂の上で音を立てた。石が石であることを思い出した音だった。
◇
午後の端、遥は上流と下流の村の堰に立った。角木には、昨日までの「水刻」がいくつも刻まれている。日付と、砂時計の時刻と、落款みたいな押し印。押し印は「名の札」に対応していて、嘘は刻めない。
上流の若者と下流の若者が両側から来た。睨み合うほどの力は、もう彼らの目には残っていない。夏の労働が、彼らの目尻に塩の白い線を作っている。
「砂時計を、二つ落としてみる」
遥は言い、砂時計を並べて置いた。上流の若者へ一つ、下流の若者へ一つ。二人はゆっくりと、同時に砂時計を逆さにした。
「今日は、上流が一刻貸す。明日は、下流が返す」
石に刻む。貸し/返し。刻まれたものは嘘にならない。刻むかどうか、が全てだ。楓麟が風を読み、砂の落ちる速度の差を耳で確かめる。湿りの差があれば、砂は同じ形を選ばない。藍珠はその間、堰の端で少年と一緒に鏡をきらりと光らせ、砂の落ち具合を目でも合図した。
「貸しは弱さじゃない。返す余地があるから貸せる」
遥の言葉は、堰の石へ吸い込まれ、再び水音となって戻ってきた。下流の若者が砂時計の砂を凝視し、上流の若者は角木の影に座り込んだ。互いの影が堰の真ん中で重なり、影の重みが水よりも濃く見えた。
砂は落ち切り、二つの砂時計は空になった。空は、約束の形になる。二人は砂時計を交換し、再び逆さにする。“時間の相互貸し”。石板に、刻みが増える。刻みが増えれば、噂は薄くなる。噂より刻みを信じる者が増えるからだ。
◇
日が傾き、広場の「縫いの場」に灯が入った。縫い台に、切られた名板の破片が並ぶ。それぞれの断面は、油を拭われ、乾かされ、布で包まれていた。布がほどかれ、破片が寄り合い、縫い目が道のように板の上に現れる。
老女が針を持っていた。冬からずっと、薄線の名の下で祈ってきた人だ。隣には「名板の刃」の男が座る。男の手は震えていた。震えは、恐れと、後悔と、疲労の混じったもの。老女は男の手の甲にそっと自分の指を乗せた。指の皮は薄く、温度は低く、しかし触れるという事実だけが重かった。
「結びを、教えようか」
老女の声は小さい。男はうなずき、紐を指にからめる。藍珠は少し離れた柱にもたれ、楓麟は灯の炎が揺れぬように立ち位置を変えた。狐火の書生は板の端に「縫い目の意味」の図を描き、子どもがそれを見て、縫い目の上に指で“道”の形をなぞる。
王は名の列の前に立った。紙の上に、朝から新しく増えた「仕事の小石」の実績が貼られている。柄隊の「臨時日」が三つ足され、緩衝の野の若者の名が列の端から列の中へ移っていた。動く名。動く列。紙が呼吸をするみたいに、微かに膨らんで見える。
「剣を抜かずに、決着をつける」
遥の声は短かった。「それは、重い。刃よりも。だが、重いものを持てるのは、名を持つ者だけだ」
誰かがすすり泣き、誰かが笑い、誰かが黙った。夏の夜は、音を吸う。けれど、吸った音は消えない。吸われたまま、体の中で重さになる。
◇
その夜──王宮の回廊の石は温かった。昼の熱が残っている。藍珠は剣を鞘ごと柱に立て、結び目を指で押した。ほどけない。けれど、きつすぎない。楓麟は風を聴き、塔の上の灯の呼吸と、城下の焚き火の吐息を、耳の内側で縫いあわせる。遥は一人で広場の端に立ち、裂け目を縄で補った秤の台に指を当てた。縄は乾き、木釘の頭は汗で黒ずんでいる。裂け目は、開いていない。裂け目は、裂け目のまま、秤の体の一部になっている。
近くで、小さなやりとりがあった。狼煙番の少年が、凛耀から預かった鏡をまた磨いている。彼は鏡を胸に当て、「明日も三度」とつぶやいた。狐火の書生が横で絵の具を片づけながら笑う。「三度返らなくても、四度、五度」。少年は頷き、鏡を真上に掲げ、星の光を一瞬だけ受けた。
「線の場」は、昼のうちに白石会盟の条文を読み上げ終えていた。無色の旗の意味、白風の白旗の意味、灰の小旗の意味。旗は、立てるだけでは足りない。倒す日も決めておく。夏至から秋分まで。旗の縁に縫い糸を通すみたいに、期間は「終わり」の印でもある。
緩衝の野では、「炎逃れの名簿」の板の横に小さな棚が設えられ、名の列の端に白い小石が置かれていた。「傷の小石」。白は夜でも見える。白は、舌で噛めば塩のような味がする。味は、記憶をつなぎ止める。
争水板の前では、今日剥がされた「声」の焼け跡に新しい紙が重ねられ、焼け跡ごと糊付けされていた。王は朝の場で言った。「声を剥がすな。剥がせば、火になる。火は畦を焼き、名を消す」。剥がした跡を残すことで、剥がす行為そのものが目につく。目につけば、恥じらいが生まれる。恥じらいは、刃を鈍らせる最初の水だ。
夜半、塔の上から一度だけ、合図が走った。灰の渡しの向こうから、微かな光が返された。凛耀の鏡か、凛耀の部下の鏡か。どちらでもよかった。光は光で、意味は意味だ。少年は鏡で三度返し、塔が一度返す。交わされたのは、季節の長さほどに短い会話。短いから重い。重いから、刃にならない。
◇
翌朝──秤の場は、昨日よりも静かだった。米の秤の皿に乗る粟の粒は、少しだけ乾いている。水の秤の杯は、昨日よりも透明に見えた。「仕事」の小石は増え、「傷」の小石は増えたり減ったり。皿の揺れを目で追う人々の肩が、昨日よりも落ちて見えた。それは疲れではなく、力を抜く術を取り戻した肩の形だった。
上流と下流の代表は、互いを見た。目が、昨日より正面を向いている。相手ではなく、皿を。皿ではなく、目盛りを。目盛りではなく、影を。影は、嘘をつけない。影の長さは、太陽と時間の仕事だ。楓麟は風を読み、目盛りの影が濃く見える位置へ人々を手で誘導する。藍珠は鞘を柱に立て、柄隊の列の乱れを視線で直す。視線で直ることは、夏の半ばまでには誰も信じなかったことだった。
緩衝の野では、昨日投石を受けた場所に、今朝は鍋がひとつ置かれていた。「炎粥」の鍋だ。薄い塩と蜂蜜の粥。名の列に小さく印が付けられ、炎逃れの名簿の者に一椀ずつ加えられる。鍋の湯気は、怒りを吸うように白く立ち、銅の縁が昨夜の石の音をまだ覚えているみたいに薄く鳴った。
「縫いの場」では、老女と「名板の刃」の男がまた同じ卓にいた。二人の手の震えは、少しだけ小さくなっている。彼らの隣には、昨日は見なかった若者が座っていた──緩衝の野から列の内側に名を移した者。柄を脇に置き、初めて針を持っている。針は軽い。軽いが、尖っている。尖っているが、血を出さない。血を出さない尖り方を、人は時間をかけて覚える。
王は広場の端で、短く人々に語った。
「外の火は弱まった。だが、秤は動く。剣は、ここにある」
藍珠が柱に立てた鞘に手を置く。剣の在処を見せる。だが、鞘からは出さない。出さないことを、見えるようにする。楓麟が風で旗を揺らし、無色の旗の音を人々の耳に入れる。旗は裁きの場の印。旗の音は、刃の音ではない。刃が鳴るより先に、旗を鳴らす。
「秤が釣り合う限り、剣はいらない。秤が裂けても、縫えばまた釣る」
秤の台の裂け目には、昨日打ち込んだ木釘と縄の結び目がそのまま残っている。裂け目は、人の目に触れ続ける。触れ続けることで、人の手が覚える。裂け目を縫う手順を。手順は、噂より強い。噂は、手順の前では立っていられない。
◇
午後、王は再び堰へ赴いた。今日は下流が一刻貸す番だ。石の刻みの「貸し」の向かいに、「返し」の刻みが刻まれる。刻みは増え、列になる。列は、時間の線だ。線が増えれば、刃の入り込む余地は狭くなる。刃は、切るために隙間を必要とする。隙間がないと、刃は滑る。滑った刃は、地面に落ちる。落ちた刃は、拾い上げるまでに時間がかかる。その時間の間に、秤は釣れる。
堰の影で、上流の子どもと下流の子どもが砂時計の砂を見ていた。子どもには砂の落ちる音が聞こえる。大人には聞こえない、かすかな音。砂の音は、心を整える。整えられた心は、誰かの名を消さない。
城へ戻る道すがら、遥はふと足を止めた。畦の端に立つ「名板の畑」。暗線の名が刻まれた木の板の前に、昨夜針を持っていた老女が立っている。彼女は板に触れ、触れた指を額に当て、また板に触れる。祈りではない。確認。確認は、祈りの手前にある。確認のあとに人は祈る。祈りのあとに、人は働く。
藍珠が静かに言った。「王、縫い目は増えている」
「刃は抜かれなかった」
「抜かずに済んだのではない。抜かないほうが、重かった」
楓麟が風を聴き、「南南東。明日は湿りが戻る」と言う。湿りが戻れば、秤の皿の粟は少し軽くなる。水の杯は少し重くなる。釣り合いは、別の形でまた出会う。今日の釣り合いと、明日の釣り合いが、同じになることはない。だからこそ、毎朝「秤の場」が要る。
◇
夕刻──灰の渡しの縄印は緩まない。白石列の旗は、夏の終いの風でわずかに鳴る。霜の峠の二枚旗は星の下で交差し、無色の旗は裁きの場の入口を示している。塔の上から、凛耀の鏡が一度返された。少年の鏡が受け、三度返す。点と点。線と線。鏡の背の雲と風の文様が、夏の汗で薄く光る。
広場では、「縫いの場」に新しい卓がひとつ増えた。針と糸は足りている。糸巻きの柄を、子どもが面白がって回す。回す音は、剣の擦れる音に似ているけれど、違う。擦れる音には、布の手触りが混じる。手触りが混じれば、刃は刃でなくなる。刃は、糸を通すための先になり、手を傷つけない程度の尖りに変わる。尖りは残す。残すが、向きが違う。
争水板の前には、焼け跡の上に重ね貼りされた「声」が、今日も増えている。剥がす者はいない。剥がす者が出ても、剥がした跡が残る。跡が残れば、次に剥がす手はためらう。ためらいは、刃を鈍らせる水だ。水があれば、畦は崩れない。
緩衝の野の片隅で、「名板の刃」の男が、老女の隣で紐を結んでいた。結びは、昨日よりも均一で、昨夜よりもほどけにくい。男はまだ言葉を持たない。だが、結び目は語る。結び目は、刃よりも雄弁だ。刃は切るだけだが、結びはつなぐ。つながれた二つのものは、引っ張られる。引っ張られて、強くなる。強くなれば、名は消えない。
王は最後に、名の列の前に立った。紙の上に、今日の秤の結果が貼られ、貸し/返しの刻みが写されている。端には「縫い目の数」が小さな字で記されていた。数は、無機質だ。だが、この数は違う。血の代わりに、糸の数。刃の代わりに、針の数。刃なき決着の、見える指標。
遥は紙の端に小さく朱で書いた。
〈名を消さない。線を動かさない。裂け目は、縫って見せる〉
書いたあと、彼は筆を置いた。筆は軽い。軽いけれど、重くもなる。重くなるのは、誓いを多く含むとき。今日の筆は重かった。けれど、その重さは、誰かの喉を詰まらせるものではない。喉へ水を通すものだ。水は、腹を満たす。満たされた腹は、刃を欲しない。
夜になって、秤は柱に縛られたまま、じっと立っていた。裂け目の縄がきしみ、木釘の頭が月を弾いた。白石列の旗は夜風にわずかに鳴る。灰の渡しの縄印は緩まず、霜の峠の二枚旗は星の下で交差する。鏡は塔から返され、少年の鏡が受けた。光は短く、深く。第三部は、そこで大きな円を閉じる。外の火は弱まり、内の秤は動き続ける。刃は抜かれなかった。抜かないで済ませたのではない。抜かないことを、選んだ。
次に始まるのは、秋だ。収穫本番と「名の教育」。仮板から本板へ、名を戻す長い作業。剣の代わりに、帳。鍬。鏡。そして、縫い針。どれも刃の形をしていない。けれど、どれも線を引く。どれも、名を残す。どれも、国の形を支える。
広場の片隅で、少年が鏡を胸に当てたまま、眠りに落ちた。鏡の背の雲と風は、息づかいに合わせて微かに上下する。楓麟は風を聴き、藍珠は鞘に手を置き、遥は名の列に背を預けて目を閉じた。眠りは浅い。浅い眠りのほうが、約束にやさしいときがある。約束は、重い。だが、その重さを持てるのは、名を持つ者だけだ。名を持つ国だけだ。
刃なき決着──それは、今日いちにちでは終わらない。明日の秤、明日の縫い目、明日の貸し/返し。すべてが続きで、すべてが線だ。夜風が、紙の端をかすかに揺らし、焦げ跡の上に新しい紙をそっと押さえた。焦げは消えない。消さない。けれど、その上に重ねることはできる。重ねた紙は、朝の光でわずかに透け、縫い目の影が美しく浮かび上がった。
紅月の停戦は、昨夜の狼煙と灰の渡しの合図で確かめられた。凛耀の鏡は三度光り、塔は一度返した。それで十分だった。無色の旗は静かに立ち、縄印は緩まない。外の線は動かない。けれど、線の内側は人の気配で満ち、薄紅平原の畦の端では、水の音がほんのわずかに低くなっていた。
王宮では、朝の政務卓に板が三枚置かれた。ひとつはいつもの「秤の場」の仕様書、もうひとつは「線の場」の条文写し、そして最後が「縫いの場」──名板の繕いを常設化するための図面だった。遥はまだ椅子に腰を落ち着けぬまま、紙の角を揃えた。揃えた指の感触に、冬から続く紙の重さが残っていた。
「外が静かだと、内が喋る」
楓麟が風を聴きながら言い、藍珠がうなずく。「剣は鞘のまま、柱に立てておく」
「秤の皿は四つに増やす。米と水だけでなく、『仕事』と『傷』も、見える形に落とす」
遥の声は、冬よりも低く、夏の湿りを帯びていた。書記が筆を走らせる音が、蝉の初鳴きのように規則正しく続く。狐火の書生は、端の机で新しい絵を描いていた──小石に「水見番」「畦直し隊」「清め場」「医の館」の印を刻み、皿に落とす図。子どもにも読める線。
「緩衝の野は?」と工営司の若い官が問う。彼の目の下にはうっすらと隈がある。昨夜、炎逃れの名簿の列で帳の端に寄り添っていたのを、藍珠は見ていた。
「『炎逃れの名簿』への上乗せは残す。だが“秤の場”で毎朝、公開する。理由を見せる。見せて、耳を澄ます」
医の館の薬師が手を挙げる。「夏の熱で、傷が立つ。『傷の小石』は“白”の小石がよい。湿りに晒しても白いままで、目に残る」
「白い小石を。……それから、『線の場』で白石会盟の条文を読み上げる。外の線は動かない。外を理由に内を荒らさない」
法務の新任代行が、慎重な声で付け加えた。「『縫いの場』は、誰でも針を持てるように──針と糸の数が要りましょう。銅の背貼りの薄板は?」
「鍛冶と話をつけた。短刀より小さく、名板の縁よりわずかに大きい銅片が今夜には届く」
藍珠の横顔に、冬の切先の影がまだかすかに残っていた。けれど、彼女の手は鞘の結び目を確かめ、剣ではなく“縫い針”の場の守りを思っていた。
◇
広場の真ん中に、秤が二台──米の秤と水の秤。そして、その脇に新しく据えられた二つの小さな秤。片方の皿には「仕事」の小石が、もう片方には「傷」の白い小石が、音もなく積まれていく。
「上流村」「下流村」の代表が向かい合った。どちらも日に焼け、どちらも目の下が落ちくぼんでいる。皿の前でうつむいた女が、名板の小さな札を握りしめている。薄線の若者が柄を立てかけ、狼煙番の少年は鏡を胸に抱いたまま、秤の目盛りの影を読むように目を細めた。
「今日は四つだ」
遥はゆっくり言った。「米、水、仕事、傷。四つが、今日の重さだ」
書記が声を張る。「畦直し隊──二十日。水見番──十五日。清め場──十二日。医の館補助──七日」
小石がひとつずつ、皿に落ちるたびに、小さな音がした。重さは音にならないのに、音が重さを伝えることがある。仕事の小石は灰、傷の小石は白。どちらも夏の光に鈍く光って、皿の縁にきちんと収まった。
水の秤へは、杯が吊り下げられている。今日の水を、目で確かめられるように。米の秤へは、乾き具合の違う粟が二種──朝に刈ったものと、日暮れに刈ったもの。狐火の書生が横で、「実の乾き」と「腹の持ち」の絵を掲げている。
「釣り合うか」
藍珠が低く言った。刃は抜かない。鞘のまま、秤の柱に立てかける。楓麟は風を切り、砂埃が目盛りにかからないようにする。少年が鏡を傾け、目盛りの影を濃くする。
四つの皿は、揺れ、止まり、またわずかに揺れた。やがて、僅差で釣り合った。上流の男の顔から力が抜け、下流の女の目に、かすかな水が戻った。遥は短く言った。
「秤が釣り合うなら、剣は要らない。釣り合わなければ、剣でも釣れない」
ざわめきの中に、吐息が混じった。怒号ではない。怒号のかわりに、肺から絞り出す酸素みたいな音。
そこへ──遠くから、乾いた音が飛んできた。石のぶつかる音。緩衝の野のほうだ。藍珠が眉だけで合図し、市兵が走る。楓麟は風を聴き、遥は秤から目を離さない。
◇
緩衝の野の端で、投石の輪が広がりかけていた。標的は、あの「名板の刃」の男。彼は背貼りの銅板を磨いていた。名板の縁は新しく、銅の縁は薄く光る。男は言葉を持たず、紐を通し、銅を磨き、縫い目をなぞるだけ。だが、その「無言」が、誰かの怒りを引きつける。
「名を切った手が、また板を触るのか」
「上乗せをやめろ。炎逃れに粥を加えるな」
声が重なり、石が地面に跳ねる。市兵は盾を構えない。構えれば、刃と同じ影が伸びてしまう。代わりに、輪の内側にすっと飛び込んだ小さな影があった。狼煙番の少年だ。彼は口を大きく開いて、短く叫んだ。
「空白の札は、名を奪うためじゃない!」
喉が裂けるような声だった。「『名の無さ』を見えるようにするためだ! 見えないと、噂が『ある』になる!」
狐火の書生が、その言葉に合わせるように大きな図を掲げた。板の上に、名札と空白札を描いた絵。銅縁と縫い目の周りに、矢印で「傷」「記憶」「待つ」の字を置く。書生は震える指で絵を叩きながら続けた。
「空白は、穴の形をしている。でも、穴は“ある”。穴を見えるようにしないと、穴へ誰かが落ちる!」
投石は、止まらない。すぐには止まらない。だが、投げる腕の肩のところで、ためらいが生まれる。石を持つ手の、親指の腹がかすかに汗ばむ。汗は、冷静の端緒だ。市兵は投石の間に人の列を引き、楓麟は輪の外から風を押して、砂埃を人々の目に入らないように流す。藍珠は遠くの高い場所に立って、鞘のままの剣を水平に掲げた。刃ではなく、線。線は、人を割らずに場を割る。
男は投げられる石を避けなかった。背の銅板に当たる音がした。高い音ではなかった。銅が石を受け止める音は、鍋の縁が木杓子に触れたときの音に似ていた。男は顔を上げない。ただ、銅を磨く。磨く行為は、刃が入る前の儀礼に似ている。だが、これは刃の前ではない。刃のあとだ。あとで、修復の最中だ。
少年の声は枯れた。書生の掲げた図の紙は風でめくれ、裏の白さが一瞬広がった。「白」は、人を落ち着かせる。白い小石のことを、遥は朝の政務卓で思い出した。目に残る色。
投げる手が、ゆっくり下がった。石は落ち、砂の上で音を立てた。石が石であることを思い出した音だった。
◇
午後の端、遥は上流と下流の村の堰に立った。角木には、昨日までの「水刻」がいくつも刻まれている。日付と、砂時計の時刻と、落款みたいな押し印。押し印は「名の札」に対応していて、嘘は刻めない。
上流の若者と下流の若者が両側から来た。睨み合うほどの力は、もう彼らの目には残っていない。夏の労働が、彼らの目尻に塩の白い線を作っている。
「砂時計を、二つ落としてみる」
遥は言い、砂時計を並べて置いた。上流の若者へ一つ、下流の若者へ一つ。二人はゆっくりと、同時に砂時計を逆さにした。
「今日は、上流が一刻貸す。明日は、下流が返す」
石に刻む。貸し/返し。刻まれたものは嘘にならない。刻むかどうか、が全てだ。楓麟が風を読み、砂の落ちる速度の差を耳で確かめる。湿りの差があれば、砂は同じ形を選ばない。藍珠はその間、堰の端で少年と一緒に鏡をきらりと光らせ、砂の落ち具合を目でも合図した。
「貸しは弱さじゃない。返す余地があるから貸せる」
遥の言葉は、堰の石へ吸い込まれ、再び水音となって戻ってきた。下流の若者が砂時計の砂を凝視し、上流の若者は角木の影に座り込んだ。互いの影が堰の真ん中で重なり、影の重みが水よりも濃く見えた。
砂は落ち切り、二つの砂時計は空になった。空は、約束の形になる。二人は砂時計を交換し、再び逆さにする。“時間の相互貸し”。石板に、刻みが増える。刻みが増えれば、噂は薄くなる。噂より刻みを信じる者が増えるからだ。
◇
日が傾き、広場の「縫いの場」に灯が入った。縫い台に、切られた名板の破片が並ぶ。それぞれの断面は、油を拭われ、乾かされ、布で包まれていた。布がほどかれ、破片が寄り合い、縫い目が道のように板の上に現れる。
老女が針を持っていた。冬からずっと、薄線の名の下で祈ってきた人だ。隣には「名板の刃」の男が座る。男の手は震えていた。震えは、恐れと、後悔と、疲労の混じったもの。老女は男の手の甲にそっと自分の指を乗せた。指の皮は薄く、温度は低く、しかし触れるという事実だけが重かった。
「結びを、教えようか」
老女の声は小さい。男はうなずき、紐を指にからめる。藍珠は少し離れた柱にもたれ、楓麟は灯の炎が揺れぬように立ち位置を変えた。狐火の書生は板の端に「縫い目の意味」の図を描き、子どもがそれを見て、縫い目の上に指で“道”の形をなぞる。
王は名の列の前に立った。紙の上に、朝から新しく増えた「仕事の小石」の実績が貼られている。柄隊の「臨時日」が三つ足され、緩衝の野の若者の名が列の端から列の中へ移っていた。動く名。動く列。紙が呼吸をするみたいに、微かに膨らんで見える。
「剣を抜かずに、決着をつける」
遥の声は短かった。「それは、重い。刃よりも。だが、重いものを持てるのは、名を持つ者だけだ」
誰かがすすり泣き、誰かが笑い、誰かが黙った。夏の夜は、音を吸う。けれど、吸った音は消えない。吸われたまま、体の中で重さになる。
◇
その夜──王宮の回廊の石は温かった。昼の熱が残っている。藍珠は剣を鞘ごと柱に立て、結び目を指で押した。ほどけない。けれど、きつすぎない。楓麟は風を聴き、塔の上の灯の呼吸と、城下の焚き火の吐息を、耳の内側で縫いあわせる。遥は一人で広場の端に立ち、裂け目を縄で補った秤の台に指を当てた。縄は乾き、木釘の頭は汗で黒ずんでいる。裂け目は、開いていない。裂け目は、裂け目のまま、秤の体の一部になっている。
近くで、小さなやりとりがあった。狼煙番の少年が、凛耀から預かった鏡をまた磨いている。彼は鏡を胸に当て、「明日も三度」とつぶやいた。狐火の書生が横で絵の具を片づけながら笑う。「三度返らなくても、四度、五度」。少年は頷き、鏡を真上に掲げ、星の光を一瞬だけ受けた。
「線の場」は、昼のうちに白石会盟の条文を読み上げ終えていた。無色の旗の意味、白風の白旗の意味、灰の小旗の意味。旗は、立てるだけでは足りない。倒す日も決めておく。夏至から秋分まで。旗の縁に縫い糸を通すみたいに、期間は「終わり」の印でもある。
緩衝の野では、「炎逃れの名簿」の板の横に小さな棚が設えられ、名の列の端に白い小石が置かれていた。「傷の小石」。白は夜でも見える。白は、舌で噛めば塩のような味がする。味は、記憶をつなぎ止める。
争水板の前では、今日剥がされた「声」の焼け跡に新しい紙が重ねられ、焼け跡ごと糊付けされていた。王は朝の場で言った。「声を剥がすな。剥がせば、火になる。火は畦を焼き、名を消す」。剥がした跡を残すことで、剥がす行為そのものが目につく。目につけば、恥じらいが生まれる。恥じらいは、刃を鈍らせる最初の水だ。
夜半、塔の上から一度だけ、合図が走った。灰の渡しの向こうから、微かな光が返された。凛耀の鏡か、凛耀の部下の鏡か。どちらでもよかった。光は光で、意味は意味だ。少年は鏡で三度返し、塔が一度返す。交わされたのは、季節の長さほどに短い会話。短いから重い。重いから、刃にならない。
◇
翌朝──秤の場は、昨日よりも静かだった。米の秤の皿に乗る粟の粒は、少しだけ乾いている。水の秤の杯は、昨日よりも透明に見えた。「仕事」の小石は増え、「傷」の小石は増えたり減ったり。皿の揺れを目で追う人々の肩が、昨日よりも落ちて見えた。それは疲れではなく、力を抜く術を取り戻した肩の形だった。
上流と下流の代表は、互いを見た。目が、昨日より正面を向いている。相手ではなく、皿を。皿ではなく、目盛りを。目盛りではなく、影を。影は、嘘をつけない。影の長さは、太陽と時間の仕事だ。楓麟は風を読み、目盛りの影が濃く見える位置へ人々を手で誘導する。藍珠は鞘を柱に立て、柄隊の列の乱れを視線で直す。視線で直ることは、夏の半ばまでには誰も信じなかったことだった。
緩衝の野では、昨日投石を受けた場所に、今朝は鍋がひとつ置かれていた。「炎粥」の鍋だ。薄い塩と蜂蜜の粥。名の列に小さく印が付けられ、炎逃れの名簿の者に一椀ずつ加えられる。鍋の湯気は、怒りを吸うように白く立ち、銅の縁が昨夜の石の音をまだ覚えているみたいに薄く鳴った。
「縫いの場」では、老女と「名板の刃」の男がまた同じ卓にいた。二人の手の震えは、少しだけ小さくなっている。彼らの隣には、昨日は見なかった若者が座っていた──緩衝の野から列の内側に名を移した者。柄を脇に置き、初めて針を持っている。針は軽い。軽いが、尖っている。尖っているが、血を出さない。血を出さない尖り方を、人は時間をかけて覚える。
王は広場の端で、短く人々に語った。
「外の火は弱まった。だが、秤は動く。剣は、ここにある」
藍珠が柱に立てた鞘に手を置く。剣の在処を見せる。だが、鞘からは出さない。出さないことを、見えるようにする。楓麟が風で旗を揺らし、無色の旗の音を人々の耳に入れる。旗は裁きの場の印。旗の音は、刃の音ではない。刃が鳴るより先に、旗を鳴らす。
「秤が釣り合う限り、剣はいらない。秤が裂けても、縫えばまた釣る」
秤の台の裂け目には、昨日打ち込んだ木釘と縄の結び目がそのまま残っている。裂け目は、人の目に触れ続ける。触れ続けることで、人の手が覚える。裂け目を縫う手順を。手順は、噂より強い。噂は、手順の前では立っていられない。
◇
午後、王は再び堰へ赴いた。今日は下流が一刻貸す番だ。石の刻みの「貸し」の向かいに、「返し」の刻みが刻まれる。刻みは増え、列になる。列は、時間の線だ。線が増えれば、刃の入り込む余地は狭くなる。刃は、切るために隙間を必要とする。隙間がないと、刃は滑る。滑った刃は、地面に落ちる。落ちた刃は、拾い上げるまでに時間がかかる。その時間の間に、秤は釣れる。
堰の影で、上流の子どもと下流の子どもが砂時計の砂を見ていた。子どもには砂の落ちる音が聞こえる。大人には聞こえない、かすかな音。砂の音は、心を整える。整えられた心は、誰かの名を消さない。
城へ戻る道すがら、遥はふと足を止めた。畦の端に立つ「名板の畑」。暗線の名が刻まれた木の板の前に、昨夜針を持っていた老女が立っている。彼女は板に触れ、触れた指を額に当て、また板に触れる。祈りではない。確認。確認は、祈りの手前にある。確認のあとに人は祈る。祈りのあとに、人は働く。
藍珠が静かに言った。「王、縫い目は増えている」
「刃は抜かれなかった」
「抜かずに済んだのではない。抜かないほうが、重かった」
楓麟が風を聴き、「南南東。明日は湿りが戻る」と言う。湿りが戻れば、秤の皿の粟は少し軽くなる。水の杯は少し重くなる。釣り合いは、別の形でまた出会う。今日の釣り合いと、明日の釣り合いが、同じになることはない。だからこそ、毎朝「秤の場」が要る。
◇
夕刻──灰の渡しの縄印は緩まない。白石列の旗は、夏の終いの風でわずかに鳴る。霜の峠の二枚旗は星の下で交差し、無色の旗は裁きの場の入口を示している。塔の上から、凛耀の鏡が一度返された。少年の鏡が受け、三度返す。点と点。線と線。鏡の背の雲と風の文様が、夏の汗で薄く光る。
広場では、「縫いの場」に新しい卓がひとつ増えた。針と糸は足りている。糸巻きの柄を、子どもが面白がって回す。回す音は、剣の擦れる音に似ているけれど、違う。擦れる音には、布の手触りが混じる。手触りが混じれば、刃は刃でなくなる。刃は、糸を通すための先になり、手を傷つけない程度の尖りに変わる。尖りは残す。残すが、向きが違う。
争水板の前には、焼け跡の上に重ね貼りされた「声」が、今日も増えている。剥がす者はいない。剥がす者が出ても、剥がした跡が残る。跡が残れば、次に剥がす手はためらう。ためらいは、刃を鈍らせる水だ。水があれば、畦は崩れない。
緩衝の野の片隅で、「名板の刃」の男が、老女の隣で紐を結んでいた。結びは、昨日よりも均一で、昨夜よりもほどけにくい。男はまだ言葉を持たない。だが、結び目は語る。結び目は、刃よりも雄弁だ。刃は切るだけだが、結びはつなぐ。つながれた二つのものは、引っ張られる。引っ張られて、強くなる。強くなれば、名は消えない。
王は最後に、名の列の前に立った。紙の上に、今日の秤の結果が貼られ、貸し/返しの刻みが写されている。端には「縫い目の数」が小さな字で記されていた。数は、無機質だ。だが、この数は違う。血の代わりに、糸の数。刃の代わりに、針の数。刃なき決着の、見える指標。
遥は紙の端に小さく朱で書いた。
〈名を消さない。線を動かさない。裂け目は、縫って見せる〉
書いたあと、彼は筆を置いた。筆は軽い。軽いけれど、重くもなる。重くなるのは、誓いを多く含むとき。今日の筆は重かった。けれど、その重さは、誰かの喉を詰まらせるものではない。喉へ水を通すものだ。水は、腹を満たす。満たされた腹は、刃を欲しない。
夜になって、秤は柱に縛られたまま、じっと立っていた。裂け目の縄がきしみ、木釘の頭が月を弾いた。白石列の旗は夜風にわずかに鳴る。灰の渡しの縄印は緩まず、霜の峠の二枚旗は星の下で交差する。鏡は塔から返され、少年の鏡が受けた。光は短く、深く。第三部は、そこで大きな円を閉じる。外の火は弱まり、内の秤は動き続ける。刃は抜かれなかった。抜かないで済ませたのではない。抜かないことを、選んだ。
次に始まるのは、秋だ。収穫本番と「名の教育」。仮板から本板へ、名を戻す長い作業。剣の代わりに、帳。鍬。鏡。そして、縫い針。どれも刃の形をしていない。けれど、どれも線を引く。どれも、名を残す。どれも、国の形を支える。
広場の片隅で、少年が鏡を胸に当てたまま、眠りに落ちた。鏡の背の雲と風は、息づかいに合わせて微かに上下する。楓麟は風を聴き、藍珠は鞘に手を置き、遥は名の列に背を預けて目を閉じた。眠りは浅い。浅い眠りのほうが、約束にやさしいときがある。約束は、重い。だが、その重さを持てるのは、名を持つ者だけだ。名を持つ国だけだ。
刃なき決着──それは、今日いちにちでは終わらない。明日の秤、明日の縫い目、明日の貸し/返し。すべてが続きで、すべてが線だ。夜風が、紙の端をかすかに揺らし、焦げ跡の上に新しい紙をそっと押さえた。焦げは消えない。消さない。けれど、その上に重ねることはできる。重ねた紙は、朝の光でわずかに透け、縫い目の影が美しく浮かび上がった。



