夜半、塔の鐘は鳴らなかったのに、楓麟は目を開けた。風が変わったのだ、と耳が先に知らせた。北の山の向こう、火に焦げた皮袋を遠くから嗅ぐみたいな微かな匂い——燃え尽きる直前の、乾いた炭の匂い。ほどなく、塔の石段を小柄な影が駆けあがる。狼煙番の少年だ。胸に抱いた筒から布を引き、楓麟へ差し出す。

「灰の封……凛耀の印です」

 蝋は黒く、割れ目はまっすぐだった。楓麟は迷いなく王の寝所へ向かう。扉の前で一度だけ風を聴き直し、結び目を確かめるみたいに息を整え、そっと叩いた。灯は小さく、机には昨夜の秤の帳が開いたまま。遥はすでに座っていた。紙の端まで光が届くように、燭台は低くしてある。

「北が、静かになった風だ」

 楓麟は静かに封を割る。文は短かった。

〈王弟派、北城にて自滅。兵糧庫焼亡、将逃散、旗降。太子派・現実派、暫定合意。『夏至—秋分の停戦』『各州の自助再建』『境界の尊重』の三項。火は刃ではなく飢えで尽きた。されど、消え際の風は危うい。敗残、貴国へ雪崩れ込む恐れあり〉

 文字の間に、煤がほんのりとにじんでいた。遥は黙って読み、黙って紙を裏返した。裏には、凛耀の手で小さく書き添えがあった。

〈明日、灰の渡しに出向く。無色の旗の下にて〉

 筆致はまっすぐで、痩せた光があった。遥は顔を上げ、楓麟と目が合った。

「火の音は止んだ。だが、風がこちらへ来る」

「敗残の足は重い。怒りの線は薄いが、空洞の目が混じる」

「藍珠を起こそう。……剣は置いて、鞘だけ持ってきてくれ」

 遥の声はひっかからなかった。冬に角笛の前で震えた喉が、夏の秤で鍛え直されたあとの声音。彼は筆を取り、紙の余白に短く書く。

〈秤は外には見せる。針は内へ動かす〉

     ◇

 朝の評議は、久しぶりに“外交卓”が中央に置かれた。三色の紐——赤、金、灰——は、すでに一本の灰に束ねられている。書記が昨夜の凛耀の文を読み上げる間、商務は安堵の息をつき、法務は眉をひそめ、工営は「緩衝の野の拡張」を小声で確認した。医の館の薬師は「炎逃れの熱傷と肺の煤」を心配して、晒と蜜の瓶を机の端に置いた。

 楓麟が指で紐の結び目をなぞりながら言った。

「赤は焼けた。金は貼り直す。灰は……ほどく」

 藍珠は短く頷く。「剣を置いているのは、灰だけ」

 遥は地図の端に人差し指を置いた。白石列の白い点、灰の渡しの縄印、霜の峠の旗。紙の上の光景が、今日に限っていつもより近く見えた。

「我々は“線を守る外交”を選び続ける。境界は曖昧にしない。……そして、名を消さない原則を外にも映す」

 法務が首を傾げる。「外へ、でございますか」

「凛耀に言う。貴国の掲示の剥がされた名を、“仮板”に残せと。剥がさぬのが一番だ。だが、剥がすなら、戻すための場所を二枚目に用意する。秋分までの線として」

 商務の若い官が目を丸くした。紙の上に二つの板——“本板”と“仮板”——を、思い描いたのだろう。医の館は口元を引き締め、「病の列」のときの記憶を喉の奥でなぞった。

「仮板は、傷を見えるままにする板になります」

「縫い目が増える。だが、そうやってしか、恨みの刃は鈍らない」

 藍珠の横顔に、冬の夜の火の影が一瞬かすった。けれど彼女の指は剣の柄ではなく、鞘の結び目を確かめていた。

     ◇

 灰の渡しには、夏の午後の匂いがこびりついていた。濡れた麻の縄が日差しで音を立て、川面は午後の風で鏡みたいに平らになったり、突然きらきら砕けたりした。無色の旗が一本、まっすぐ立つ。市兵の小屋は扉を開け放ち、帳簿と筆と砂時計が、いつでも「見える」場所にある。

 凛耀は、思ったより痩せていた。頬がこけ、髷の根元に白いものが混じっている。だが、背筋は伸びていて、歩みは迷わない。彼は縄印の前で深く一礼し、王に向かってまっすぐ歩み出た。

「白石会盟の延長を願う。秋分まで、縄と石と旗の三線を不可侵に」

 声は乾いていたが、濁りがない。彼は続けた。

「亡命明文化の再確認を。封印と名簿と、返還の不可を。——それから、市兵帳簿の相互閲覧を。無色の旗の下で」

 市兵の若い者が胸を張るのが見えた。帳簿が胸板みたいに頼りになる、と知っている人じしんの動きだ。

 遥は頷き、線を引くように言葉を置いた。

「承る。こちらからも、一点、強く求める」

 凛耀は目で「続きを」と促した。遥は無色の旗を一度見上げ、そして言った。

「名を消さない。我らの原則に、貴国の掲示が近づくこと。剥がした名は、仮板に残せ。秋分までに、本板へ戻す手順を作れ」

 凛耀は懐から、小さな鏡を取り出した。背に雲と風の文様。春に少年へ渡した鏡と同じ型だ。彼は鏡で太陽の光をひとつ跳ね返し、無色の旗の白い布に小さな点を作ってから、静かに頷いた。

「約そう。板を二枚にし、剥がした名は仮板へ。戻す線は、我が手で引く」

 赤旗の落日は、こうして鏡の光で言葉にされた。兵の旗ではなく、板の約束で暮れはじめる夕べ。

 そのとき、灰の渡しから半刻ほど離れた「緩衝の野」がざわめいた。砂埃の向こうから、ばらばらと影が近づく。敗残兵の群れだ。槍も旗もなく、短剣だけがいくつか光を返した。眼が空洞で、腹が鳴っている。封印札の台の前で、ひとりが短剣を叩きつけた。刃は血を吸っておらず、油の匂いが乾いている。

「柄を持て」

 藍珠が静かに立った。剣は鞘のまま。鞘の口に、夏の光が一瞬だけ溜まって消える。

「柄は重い。剣より」

 言葉は挑発ではない。宣告でもない。選べ、と差し出す声だ。楓麟は群の端から端までを風でなぞる。怒り線は薄い。疲労線が太い。空洞の目の者が何人か混じっている。春の「空白の札」を思い出させる目だ。

 遥は場で即決した。

「敗残を、柄隊ではなく『畦直し隊』へ回す」

 書記が素早く筆を走らせる。畦の崩れを秋分前に直さなければ、初穫の秤は冬の粥へ繋がらない。

「短剣は封印する。封印札の欄外に小さく書け。——『炎を見た』と」

 楓麟と市兵が頷き、封印の台の横に小さな欄を急ごしらえで作る。そこに、黒い墨で「炎を見た」と一行。刃の記憶を消さず、刃を二度と使えなくする記号。

「それから、初穫の粥を“炎逃れの名簿”に一椀加える」

 医の館の薬師が手を挙げ、「塩と蜂蜜は薄く」と付け加える。炎に焼けた喉には濃い味が刺さるからだ。狐火の書生は、粥の列の端で「炎粥」の絵を描き、子どもがそれを覗き込み、指で湯気の線をなぞった。

 短剣を叩きつけた男が、封印札に手を伸ばす。指が震えている。藍珠が一歩だけ近づき、柄を持った手の甲を軽く叩いた。

「結び目を緩める」

 男は気づかなかったらしい。藍珠は彼の腰の紐——刃を失った穴の空虚を結ぶ紐——の結び目を、ほどけぬように結び直した。男は、わずかに息を吐いた。息は焦げた匂いがしたが、煙ではなかった。

     ◇

 日が落ちる前、凛耀は城に招かれた。塔の上、夕風の通りが良い場所で二人は並んで立った。下では秤の場の縄が軋み、遠くで白石列の旗が夏の残りを鳴らす。

「王弟派は、城を捨て野へ散った。旗は折られ、赤は灰に戻った」

 凛耀の横顔は、春より年を取って見えた。けれど、その目の奥に冬より強い光があった。

「太子派は都の板を貼り直そうとしている。どの名を剥がし、どの名を戻すか——そこに刃が潜む。だから、私は板を二枚にすると言った。“仮板”へ名を置く線。……我が王は、戦をやめたい。だが、王位の継承は、不安定だ」

「境界の秤を動かすな、ということだな」

「動かせば、走らない火が、風でこちらへ向く」

 遥は頷いた。

「剣は抜かない。秤は動かす——内へ。外には見せる。裂け目は、縫って見せる」

 凛耀は目を細め、笑った。笑いは短く、乾いていなかった。春の鏡を少年へ渡したときと同じ笑いだ。

「鏡は、光だけでなく形を映す。白風は、刃ではなく秤と縫い目で形を作っている」

「貴国は、板を二枚にして形を持ち直す」

「間に合えば、だ。秋分までが、刃より鋭い」

 風が、会話の最後の文だけを攫っていった。塔の欄干に置いた楓麟の指先が、風の向きを一度だけ変えた。南。夏がほどけはじめる場所。

     ◇

 同じ時刻、緩衝の野の端では、封印札の列が新しく一本延びていた。札の欄外に「炎を見た」の一行が小さく並ぶ。書記の筆は遅くない。遅くすれば、噂が追い越すからだ。

 柄を渡された敗残兵たちは、畦の崩れに向かった。足取りはぎこちない。柄は重い。剣より重い。重さが、彼らの肩の形を作り直していく。畦直し隊の端に、藍珠がついた。彼女は剣を鞘ごと背に回し、縄と杭と石を指で示す。声は低く、図は簡潔。怒りは、手順の前では長く留まらない。

 狼煙番の少年は、封印札の台の近くで鏡を磨いていた。凛耀の鏡だ。彼が手にすれば、鏡は道具より先に「約束」になる。夕闇が少しずつ濃くなる。少年は鏡で薄い光を一度、川向こうへ送った。まだ返らない。二度目。まだ。三度目——塔の上から、一度、返った。無言の「了」。少年は鏡を胸に当て、笑った。笑いは短く、肩の内側にちゃんと落ちた。

 狐火の書生はその横で、「炎逃れの名簿」の板の端に「粥一椀加」の小さな印を描き足していた。子どもが覗き込んで、「一椀って、どのくらい」と訊く。書生は手で輪を作り、「このくらい」と示し、次に両手で少し大きな輪を作って、「これは秋」と言った。子どもは頷き、輪の中へ顔を入れてみせた。顔は輪より大きく、輪は顔より小さかった。だから、人は待つ。秤は、待てるように作られている。

     ◇

 暮れ六つ、灰の渡しの空が赤く落ちた。川面の光は一刻だけ銅色に変わり、無色の旗の縁に光が集まって、先ほど鏡が作った点の記憶を一瞬だけ呼び出した。凛耀は短く礼をし、少年に鏡を託した。

「秋分まで、板を二枚にする。剥がした名は仮板へ。戻るべき名は戻す。……次は、夏の終いの市で」

「無色の旗の下で」

「無色の旗の下で」

 同じ言葉が、境界を挟んで反対側へも置かれた。凛耀の姿は薄闇に溶け、川向こうの影へ消える。彼が歩き去る背中は、春より細く、冬より遠くなかった。

 少年は鏡を掲げ、光を三度反射した。塔が一度だけ返す。合図は短く、遠く、はっきりしていた。それで十分だった。無色の旗が薄闇の中に立ち、縄印が川の両岸を静かに結ぶ。白石の列はすでに影だけになり、影は土の上で結び目みたいに固まっている。

 王は渡し場の縁に立ち、薄い赤の最後の欠片を目で追った。楓麟は風を聴き、藍珠は鞘の結び目を指で確かめた。三人とも、声を出さなかった。出さない声のほうが、約束を傷つけないときがある。

 背後では、市兵が「畦直し隊」の名を板に移し、工営司が明日の畦の段取りを砂時計に合わせ、医の館が「炎粥」の鍋を洗い、狐火の書生が「仮板」という新しい文字を絵の端に描いていた。紙の上の決めごとが、夜のうちに木の板の重みに変わる。

 赤旗は、確かに落ちた。刃ではなく、飢えで尽きた火の落日。けれど、影は完全には消えない。影は、いつでも内へ入ってくる。紙の隙間から、板の縁から、人の目の裏から。だから——

 だから、縫う。

 名板の縁に貼った薄い銅が、月を薄く映す夜。遥は立ち止まり、指であの銅の冷たさを思い出した。冬から春へ、春から夏へ、ずっと増やしてきた「見える縫い目」。それがある限り、影は影のまま留まる。刃にならない。刃にしない。それがこの国のやり方だ。

 塔の上の灯が、ひとつ消え、またひとつ灯る。狼煙番の少年は鏡を胸に抱いたまま、眠気とたたかっている。鏡の背の雲と風の文様が、夜気でほんの少ししっとりした。楓麟は風を聴き続け、藍珠は鞘を背から外して膝へ置き、結び目を解かずに指を止めた。

 そして王は、静かに目を閉じた。胸の奥で、ひとつだけ言葉を結ぶ。

——名を消さない。境を動かさない。裂け目は、縫って見せる。

 結び目はきつくなりすぎず、緩みすぎず。赤い夕日の温度だけが、川面に長く残った。秋分までの時間は短くない。けれど、短くもない。手順がある。秤がある。旗がある。板がある。名が、ある。

 落日のあとに残った赤は、誰の頬も濡らさなかった。ただ、銅の縁と鏡の背に薄く張りつき、夏の夜風が、それを少しずつ冷ましていった。翌朝、境界の縄は同じ位置にある。白石は同じ間隔で並んでいる。無色の旗は、また風を待つ。影は足元で薄くなり、名の文字は、夜露でいっそう濃くなっていた。

 次に縫うのは、内側だ。そう告げるように、塔の灯がひとつ、東の空へ細長い光を伸ばした。