夏の盛りを越えた朝、薄紅平原は、まるで一枚の織物みたいに色を深めていた。畦と畦の間を渡る風はすでに秋の端を運びはじめていて、粟の穂はひと房ずつ首を垂れ、揺れるたびに細い鈴の音が耳の奥でほどける。畦頭が砂時計を逆さにし、短い号が鳴った。刈り取りの号は冬の角笛よりも低く、春の太鼓よりも静かで、けれど人の肩に乗った重みを確かに軽くする。

 王宮の政務卓には三枚の板が横一列に並んでいる。左から「収穫」「保留」「備蓄」。工営司の若い官が、畦ごとに束ねられた「試し束」を机の片端に積み、淡い墨で重量を書いてゆく。数字の横には、その畦の“名板”に刻まれている名の記号が朱で小さく添えられていた。医の館から来た薬師は「刈り手の熱」と「刀鎌で裂いた掌」を心配そうに見回り、晒と薬草を入れた籠を椅子の足元に置く。商務の官は粉引き水車の稼働表を手に、唇の内側を噛んでいた。

「水車は日中が渇く。朝と夕に回す枠を……」

 言いかけた彼の声を、法務の新任代行が上塗りした。

「穂盗みは重罪、と再掲を。昨夜も畦で手折られた痕が——」

 遥は筆を止めず、静かに言った。

「秤を前に、刃の話をするな」

 法務は言葉を呑み、短く頭を垂れた。彼の指の節が強張っているのを、楓麟は横目で見て、何も言わない。藍珠は鞘の口に軽く指を添え、ひとつ息を吐いただけだった。

 収穫配分の原則は、すでに三段で整理されている。

 第一に「名板の分」。暗線で囲われた家に、名板に刻まれた故人の名で一区画ぶんの初穫を渡す。帰らぬ名に“腹の形”を与えるための分だ。畦の端に立つ木の名板が、やっと重みを伴って立つ。板の前で誰かが掌を合わせ、黙って風に頭を下げる。その沈黙は、数字の枠を越えて、秤の針をわずかに押し戻す。

 第二に「薄線の仕事分」。水見番、清め場、検塩、畦番。夏を支えた仕事に従事した者たちには、通常配分に「仕事分」が上乗せされる。板の端に小さな印が加わるたび、書記の朱がひときわ丁寧に紙へ沈む。

 第三に「緩衝の野の労分」。亡命、炎逃れの者であっても、柄隊として一定日数を満たせば配分の列に入る。「旗は燃える。名は燃えない」という春の言葉が、夏の秤でも有効であることを示すためだ。

 その朝、広場に設けられた「収穫の秤」の場は、いつもの「粥」と「水」の秤に、新しく「実(み)の乾き」の目盛りが加わっていた。小臼で挽く前の粟の水分を、日陰に置いた秤で測る。藍珠は鞘のまま秤の柱に剣を立て、柱の影が目盛りにかからない位置を楓麟が旗で調整する。狼煙番の少年は鏡の角度を何度か変え、太陽の光を裂け目のない目盛りに跳ね返す。狐火の書生は、板に「実の乾き」と「腹の持ち」の絵を描き、子どもに見える高さに釘で留める。

「乾きが浅いほど、腹持ちは悪くなる。だから、秤で先に分ける」

 少年が鏡の白い点で「乾きの皿」を指すと、子どもたちが同じ位置に指を伸ばした。指先の輪郭が夏の光でぼやけ、笑い声が短く弾ける。

 名板の前では、老女が暗線の札の前に膝をつき、震える手を合わせていた。配分係が初穫の袋を差し出すと、老女は細い背中を起こし、「これで名は腹に残る」と静かに言った。その言葉は風のように軽く、けれど聞いた者の胸の奥に重石のように触れた。薄線の若者が柄を壁に立てかけ、順番表を読み上げる。彼の声は、春には頼りなく見えたが、いまは紙の裏まで届く硬さを持っていた。

「緩衝の野、柄隊の第三組、臨時日三日を満たした者から、こちらへ——」

 そのとき、秤の前で一人の男が叫んだ。

「俺の名はどの板にも薄い!」

 黙っていた列が、短くざわめいた。緩衝の野から来た顔。手の甲に縄の跡、肩に柄の痕。働き日数が、わずかに足りない。男の瞳には恥と焦りと怒りが同居していて、口の端が渇いて白くなっていた。

 王は列の前に進み、男と目を合わせた。目を逸らさない。逸らせば噂になる。見れば、秤になる。

「秤は嘘をつけない。だが、秤は待てる」

 遥はゆっくり言った。

「柄隊の“臨時日”を今から三日、夜の見回りで加える。満たせば、列に入る」

 男は息を吐いた。息は熱かった。熱い息は夏の空気にすぐ混ざり、消えた。彼はうなずき、列の端へ移る。怒号は起こらない。怒鳴り声の代わりに、砂時計の砂が一度だけ静かに落ちた。

 夕刻、最初の荷が粉引き水車へ運ばれた。水は渇き、回転は鈍い。工営司の若い官が「夜の水は下流へ」と叫び、楓麟が砂時計を掲げて指で半刻の印を示す。藍珠は柄隊に列整理を命じ、剣は抜かない。抜かない剣の鞘は、秤の柱の影と同じ角度で地面に立てかけられていた。

     ◇

 初穫の二日目。朝から熱い。湿りが戻るはずの風が、薄く遅れていた。名板の前に新しい暗線が一つ増え、老女が昨日と同じように掌を合わせる。狐火の書生は「穂の乾き」の図に、今度は「粉の歩留まり」の絵を描き足した。歩留まりの良し悪しは、秤に乗る数字の差より、人の腹の差の方が分かりやすい。そのための絵。

 広場の隅では、商務の官が粉引き水車の割り当て表を片手に、市から来た粉屋たちと小声でやり合っていた。

「夜の割り当てを増やすのはいい。しかし、灯の油が足りない」

「灯は清め場と半分に。……いや、三分の一を回す」

「清め場を削れば、病が戻る」

 そこへ医の館の薬師が割って入る。

「灯は削らない。夜の粉は、朝の秤に回る。朝の秤は、噂に勝つ」

 商務は唇を結んだ。楓麟が横から紙を差し出した。「油の配分表」。春の「灯の道」の名残が見える。夜の線を削れば、昼に噂が太る。それは既に経験した。

 政務卓の「保留」の板には、いくつかの畦名が仮に置かれていた。乾きが浅い束、名板の印が剥がれかけの束、柄隊の臨時日が未達の束、それから——。

「王。紅月の灰の使いから、密書」

 密偵頭が膝をついた。封蝋は黒く、しかし割れ目はまっすぐだ。紅月の現実派——凛耀の線。

「北城の炎は鎮まりつつあるが、王弟派は城を捨て野に移った。太子派は兵糧を南から引く。どちらも『秋の前に』を口にしはじめた」

 遥は短く息を吸い、吐いた。王弟派の炎は遠い。しかし煙は、白風の板に影を落とす。緩衝の野はこの三日でさらに膨らみ、名簿の端に「炎逃れ」の印が一段と増えた。

「秤を揺らす火は、遠いところの火だけではない」

 藍珠がつぶやく。彼女の視線の先では、秤の台にわずかな裂け目が残り、その上に新しい縄が一本、昨日よりも深く食い込んでいる。

「秤は裂け目を抱えたまま動く。だが、動いている」

 遥は自分に言うように呟いた。楓麟は風を聞き、空を仰いだ。

「今夜は湿りが戻る。明朝、秤は少し軽くなる」

「軽くなると、噂が重くなる」

「だから、数字を早く。声を遅く」

 彼らの会話は短かった。短くなければ、秤の針が遅れる。

     ◇

 三日目の朝、広場の秤の前に、緩衝の野の男——あの「どの板にも薄い」と叫んだ男——が並んでいた。肩に柄。腰には麻の紐。目の縁に眠気が溜まっている。柄隊の臨時日を夜の見回りで満たした。紙の端に朱の印が押され、彼の名前の横に小さな“足”の印が添えられた。「夜に歩いた」という印。藍珠が頷く。男は列を進み、秤の前で素早く頭を下げ、袋を受け取った。袋は重い。重さに驚いた彼の喉から、かすかな笑いが漏れた。笑いは短い。短い笑いは、長い噂を一行だけ薄くする。

 秤の場の端で、狐火の書生が子どもたちに新しい絵を見せた。絵の中心に、大きな秤。片側に「初穫」、片側に「水」。下には小さく「裂け目」と「縄」。絵の下端には「剣はここにある」の一文。子どもが読める文字で。藍珠がその文字を見て、少し笑った。笑いは刃ではない。けれど、刃の影を退ける強さがある。

 名板の前の老女は、今日も掌を合わせる。昨日より指の震えが少し収まっている。「これで名は腹に残る」。小さな声は、風に混じってまた板に触れる。名板の銅縁は薄く光り、その光が狐火の書生の絵の縫い目に触れて、一瞬だけ白く跳ねた。

 そのとき、「保留」の板に置いていた一束について、工営司の若い官が駆け込んできた。

「王。下流の畦の乾き、昨夜の風で一気に進みました。朝一番で『保留』から『収穫』へ——」

 遅れてやって来た湿りは、下流の畦の乾きをむしろ促した。皮肉だが、夏の水はときにそういう顔をする。

「よし。……ただし、畦の端で『病の淀み』の印が出ている」

 医の館の薬師が指を挙げた。「刈る者の足、昨日から熱を持っている箇所がある。畦間を一つ広げ、風を通すべきだ」

 工営司は頷き、畦頭へ鏡の合図を飛ばすよう狼煙番の少年に目で指示した。少年は鏡を胸の高さで回し、短い光を二つ、畦の方向へ跳ね返す。鏡の光は秤の針と違って音を持たない。けれど見た者の心に短い音を残す。今は、それで十分だ。

     ◇

 昼。粉引き水車の前に列ができた。桶を抱えた若者たちの背に汗の濃い地図が浮かび、列の端に緩衝の野の女が子どもを抱いて立っている。子の額に布。母の唇は乾いて割れている。商務の官が水車の割り当てを読み上げ、工営司が水の流れを指差し、藍珠は柄の列を整えた。

 そこへ、噂の風が、昼の熱と一緒に顔を出した。

「白風は紅月に水を貸す。だから、我らの水が薄い」

 誰が言ったのか、見えない。声は、石畳の奥から這い上がってくるようだった。春にも聞いた声。夏の方が、響きは鈍く、脂が乗っている。

 楓麟は風を切った。旗を一枚、わずかに下げ、もう一枚を少し高くする。風の筋が列の上をまっすぐ通るように。風が通れば、噂は長く留まれない。

 遥は秤の場から歩いてきて、噂の方角に背を向けた。背中で風を受ける。胸の前に、広場の秤と同じ簡易の秤を置いた。左の皿に「今日の水」、右の皿に「今日の米」。それから静かに言う。

「秤は嘘をつかない。剣はここにある。だが、剣は秤を動かさない」

 繰り返しの言葉は、反復で薄まらない。目の前に秤がある限り、同じ文が、毎回別の針の位置に届く。噂の風は、背中に突き刺さらず、肩の後ろで力を失った。

     ◇

 夕暮れ、広場の片隅で、古布屋の小さな屋台がひっそりと布を広げた。そこに一人の若者が歩み寄った。緩衝の野から来た彼は、二日前、王に「板の外縁にしかない」と訴えた男ではない。別の若者。だが、似た目をしている。

「名は、重くなるのか」

 若者が布の端を握りながらつぶやいた。狐火の書生が振り向き、しばらく彼を見つめ、それから絵筆の先を下ろした。

「働きで濃くなる。濃くなった名は、風で剥がれない」

「働けなかった者は」

「働ける場所へ運ぶ地図が、ここにある」

 書生は広場の端の「割付表」を指した。「亡命名簿」「名の列」「春の仕事の割付表」——王が以前に三枚並べた板。今は夏の色をしている。若者は頷いた。頷きは小さかったが、その小ささだけ現実だった。

 その背後で、名板の前の老女が袋を抱え、板の縫い目をなぞっていた。彼女は縫い目の上にわずかに指を留め、銅縁に指を移し、そして空を見た。空には、白石の列の旗が夏の名残で鳴っている。無色の旗の縁は日に焼け、布目が乾いて音を立て、その音が地面へ落ちて、小さな砂の振動になる。振動は、誰の足の裏にも同じように伝わった。

     ◇

 夜、王宮の回廊。石の冷えが、昼間の熱をゆっくりと吸っていく。遠くで水車の軋みが合図のように鳴り、近くで砂時計の砂がひとすじ落ちた。

「秤は裂け目を抱えたまま動く。だが、動いている」

 遥が息を吐くように言った。楓麟は風を聞き、「今夜は山の方から湿り」と短く告げる。藍珠は黙って秤の柱に手を置き、木目の筋を指で辿った。裂け目は浅くなってはいない。けれど、縄の光沢は昨日より柔らかい。

「刃ではなく、結び目だな」

 藍珠が言うと、楓麟が小さく笑った。

「王の国は、結び目で立っている」

「縫い目でもな」

「縫い目は、見える記憶だ」

 遥は二人のやり取りを聞きながら、回廊の欄干越しに緩衝の野を眺めた。灯の列は春よりまばらで、夏より濃い。炎逃れの名簿の板が新しくなり、端に貼られた紙の角が風に噛まれて丸くなっている。紙は消える。だが、消える前に何度も読まれれば、板に跡が残る。跡は冬になっても消えない。彼はそれを知っている。

 遠い空では、赤い風がまだ渦を巻いている。凛耀からの次の密書は、まだ届かない。紅月の内乱は、夏の尽きる前に何かを決めるだろう。だが、何を。誰の腹で。そのとき、白風の秤を揺らす火がこちらへ飛び火してこないように、結び目を増やしておかねばならない。

「明朝、暗線の家へ一緒に行く」

 遥が言うと、藍珠が「護衛は最小でいいか」と返し、楓麟が「風は南。午前は日陰が短い」と重ねた。細い段取りが、夜の石に吸い込まれていく。

     ◇

 四日目の朝。王は最小の近衛と藍珠、工営司の若い官を連れて、城下の外れにある暗線の家の一つを訪ねた。庭の端に名板。縫い目。銅縁。板の前に小さな石が置かれていて、その上に昨日の粟の粒が数粒、整えて並べてある。「腹に残る名」を、手の形で置いたのだろう。

 家の中から老女が出てきた。顔は細く、目は深い。けれど、口元は固くない。彼女は王を見ると深く頭を下げ、「昨日は……」と言いかけて、やめた。「昨日は」の後ろに、いくつもの季節が詰まっていた。遥は頷き、言った。

「名は消さない。腹に残る名は、秋に重く返る」

 老女は頷いた。頷きは小さかったが、肩の線がほんのわずか広がった。藍珠は家の外に目を向け、近くの畦で柄を持つ若者に目礼した。若者は照れくさそうに頭を掻いた。工営司の若い官は、名板の縫い目に指先で触れ、職人への発注書の端に「銅縁補修」の文字を足した。

     ◇

 その足で、王は粉引き水車へ向かった。水車は昨日より軽く回り、軋む音の高さが半分だけ上がっている。工営司が水の角度を指差し、楓麟が風の向きをさらに調整する。藍珠は秤の柱の影をもう一度測り、剣の鞘の位置を半歩だけずらした。位置が変わるたび、鞘の結び目が光を飲み、影を吐く。光と影が交互に秤の目盛りを撫で、針は揺れて、戻る。

 そこへ、城門の方から駆け足の足音。密偵頭だった。膝をつき、短く息を整えて言う。

「灰の使者、凛耀の印。急ぎの文です」

 封が切られ、紙が広がる。文は短い。

〈王弟派、北の野で散り、残滓は西へ走る。太子派、都の板を貼り直す。戦をやめたい側の理は、薄く、しかし途切れず。——夏のうちに、約を一つ。白石会盟の延長を〉

 楓麟が目を細める。藍珠が鞘に手を添える。遥は紙を折りたたみ、胸元に仕舞った。

「秤を動かしながら、旗を立てるか」

「立てる場所は、秤の横だ」

 楓麟が応じる。「剣の前ではなく、秤の横に」

「白石は、夏に一度、風で鳴る」

 藍珠の声は低い。彼女の指先は、鞘から結び目へ移っていた。

 王は頷いた。秤の場をもう一度見回し、名板の列を確かめ、粉引き水車の音を耳に溜め、緩衝の野の灯の位置を目に入れた。結び目の数を心の中で一つ、二つと数え、足りないところに指を伸ばす。

「刃なき決着は、刃より手順が多い」

 誰にともなく呟いた言葉に、藍珠がわずかに笑った。笑いは乾いていない。夏の終わりには、乾いた笑いより湿った笑いの方が長く残る。

     ◇

 五日目。秤の場では「備蓄」の板にようやく一枚目の札が貼られた。秋へ回す米。冬へ繋ぐ粟。狐火の書生がその横に、小さな絵を添える。「今日の皿」「明日の皿」。子どもが絵を指でなぞり、老人が頷く。頷きに「怒り」は混じらない。怒りは、秤の前では短命だ。

 それでも、刃は消えない。暮れ六つ、秤の台の一角に、また小さな傷が見つかった。誰かが夜の間に刃物の先でためしたような、浅い傷。藍珠は指先で触れ、鏡で角度を確かめ、木釘を一本、迷いなく打ち込んだ。縄をかけ、結び目を二つ増やす。

 王はその場面を人々の前で隠さなかった。隠せば、噂になる。見せれば、秤になる。

「裂けても、秤は釣る」

 彼は初日と同じ言葉を、初日とは違う声で言った。声は疲れていない。声の周りが疲れているのだ。周りの疲れは、人の肩に乗って、やがて降りる。降ろす場所を秤が提供する。それが、広場に秤を置く理由だ。

 夜。狼煙番の少年が鏡を胸に当て、遠い塔へ短い光を送った。「白石延長、準備」。無色の旗が倉から運び出され、縁の糸がゆるんでいないか藍珠が一枚ずつ指で確かめる。工営司は白石の間の草の線を点検し、医の館は「会盟の日の清め場」の配置図に筆を入れる。密偵頭は噂線、金線、怒り線の先を薄く撫で、玄檀残党の跡がもう「線」と呼べる強さを失っていることを、静かに報告した。

     ◇

 六日目の明け方。霧が畦の間を這い、露が秤の目盛りに点々と残る。広場に集まってくる人々の歩幅は、昨日より落ち着いていた。名板の前で老女が深く頭を下げ、緩衝の野の若者が柄を横に置き、順番表を自分の声で読み上げる。狐火の書生は絵の端に「結び目」を描き加えた。鏡の光がその結び目に触れて跳ね、結び目の影が秤の針に重なって、針はいったん揺れ、また戻った。

 王は政務卓で三枚の板を改めて見た。「収穫」「保留」「備蓄」。それぞれの板の端に、薄く、しかし確かに「名」が連なっている。名は喋らない。けれど、名板の縫い目と秤の縄と、白石の旗の縁を通して、日々、国の手順へ声を渡してくる。彼は朱を持ち、板の隅に小さく書いた。

〈秤は、刃ではなく、結び目で守る〉

 朱は薄い。薄い朱の方が、夏の終わりにはよく残る。濃い朱は秋の雨で滲む。薄い朱は、滲んでも読める。

 赤い風は、まだ遠い。だが、遠い炎の影は夏の空に薄くかかり、その影の下で、収穫の秤は釣り合いを取り続ける。剣は抜かれない。鞘は立ち、結び目は増え、縫い目は見える記憶となって板に残る。

 第三部の初穫は、剣ではなく見える秤と見える列で回り始めた。息は荒い。肩はまだ重い。けれど、人々の掌は、今、刃ではなく柄と秤と板に触れている。触れた掌の温度が、国の線を少しずつ温める。温まった線は、秋の風にも千切れにくい。

 遠く、薄紅平原の端に、白石の列が一本ずつ影を落としはじめる。無色の旗が倉から出て、風を待つ。鏡は磨かれ、砂時計は砂の粒を均される。王は広場の秤をもう一度見た。台の裂け目は、今や縄の下で一筋の影になっている。影は残る。残したまま、秤は釣る。それでいい。刃なき決着は、影ごと抱えることだ。影があると知っている肩の方が、次の風に耐える。

 夏は、音が重い。だが、重い音の中で鳴る結び目の小さな軋みは、確かに未来の方へと線を寄せていく。秤の針が静かに戻った瞬間、王は目を閉じた。胸の中で、ひとつだけ言葉が結ばれる。

——刃ではなく、秤で終える。

 その結び目がほどけないうちに、朝の光が、広場にまっすぐ差し込んだ。針は揺れず、名は消えず、列は乱れない。秋は、まだ少し先にある。けれど、手順はもう秋の形をしはじめている。白石の会盟は延ばされ、赤い風は遠くで薄まり、そして——秤の場の前で、誰かが笑った。短く、静かに。それで十分だ、と王は思った。剣を抜かずに秤を守る、最後の大試練はすぐそこだ。その前に、今日の一杯が、腹の奥で落ち着く音を、彼はきちんと聞いておきたかった。