夏は、音が重くなる。鍋の沸騰が腹の底で鳴り、水面を叩く桶の木口が骨に響く。薄紅平原を渡ってきた南東風は、もう春のような軽さを持たない。湿りを抱え、昼の石畳に溜まり、夜には名板の銅縁に露の粒を並べる。露は朝日にほどけ、ほどけた水がまたどこかの秤に乗る。

 その秤が、揺れた。

 緩衝の野から、朝一番の列が波のように押し寄せた。「粥が薄い」「匙が小さくなった」と叫ぶ声が混じる。城内からは別の波が押し返す。「井戸が浅い」「亡命者に水を奪われる」。誰かが言い、誰かが受け、誰かが怒鳴り、誰かが黙り込む。噂線は、春にほどいたはずの結び目を、夏の熱で手早く再び固くする。「白風の王は紅月のために水を割く」と囁く声が、昼下がりの陰にしつこく残った。

 評議は荒れた。机の上に置かれた紙の端が、誰かの言葉で震えるたび、小さな風が部屋の角に生まれる。

「秤を壊す者は斬るべきだ」

 法務の新任代行が初めて声を荒らげた。冬に彼は慎重で、春に彼は細心であったが、夏の重みは彼の言葉を短くする。

「取引所が閉じる。人の金は噂を嫌う」

 商務が嘆く。指の関節に白い跡が出るほど帳を握りしめ、紙の裏に汗を染み込ませた。

「堰の石が、また崩れる」

 工営司の若い官が現場の図を広げる。石の角に赤い印、角木の陰で砂時計の砂が斜めに溜まる絵。彼の頬は、日焼けの下で緊張の白さを浮かべた。

「病は収まらない。待つ列の足で汗疹が化膿し、桶の縁で皮膚が裂ける」

 医の館の薬師が低く言う。背の籠には口覆い布、晒、薬草。紙に書いた「洗いの手順」は、春より太い字で描かれていた。

 藍珠は剣を立てた。鞘の口を机の端に軽く触れさせ、乾いた音を一度だけ響かせる。

「剣を見せるべき時だ」

 楓麟は首を振った。耳をわずかに動かし、評議室の空気の流れを聞いた。重い言葉は低いところに溜まり、軽い言葉は窓の方へ逃げる。秤の皿は、いま左に傾き、右に戻りきれていない。

「秤は剣の影では釣り合わぬ」

 彼の声は薄いが、針金のような張りがある。響きは短いが、耳の奥に長く残る。

 遥は朱筆を置いた。置いてから、また少し持ち上げ、完全に下ろした。筆先は紙を濡らさず、空気の中で一度だけ震える。王の喉にできかけた硬さが、ひと呼吸でほどけた。

「決める」

 短く言ってから、手順を並べるように指を三本立てた。

「一つ、『秤の場』を広場に設ける。粥と水を秤にかける実演を毎朝、王自ら行う。書記が声を張り、『今日の水、今日の米』を示す。秤は嘘をつかないことを、目の前で見せる」

「二つ、『剣の場』も設ける。ただし剣は抜かない。鞘のまま立てる。藍珠と市兵が秤の横に立ち、『剣はここにある』と示す。剣の影ではなく、現れた場所を示す」

「三つ、『噂の場』。狐火の書生と狼煙番の少年に自由に語らせ、板に書かせる。噂は音のままでは剥がれる。字にすれば、剥がした跡が残る」

 法務が口を開きかけ、閉じた。彼は王の顔を見た。冬から春へ、春から夏へ、言葉の重さは少しずつ違っていた。彼は気づいている。今、斬れ、と言えば、秤の皿が割れることを。

 藍珠は剣を持ち直し、鞘の口に触れていた手をゆっくり離した。「剣はここにある」と言うために、手を放す。矛盾のようで、矛盾ではない。剣を握りしめた手より、手を離した肩の方が、重い時がある。

 楓麟は頷き、紙の端に細い矢印を引いた。風の向きは、今日、東から西へ。広場の儀の際の声の通り道と、煙の逃げ道を計算に入れて、彼は小屋の位置を調整する。

     ◇

 初日の「秤の場」は、朝の光の中に置かれた。広場の中央に木の秤。片方の皿は米、片方の皿は水桶。板に描かれた数字は大きく、子どもの目の高さにも見えるように低いところに一枚追加された。狐火の書生がその下に立ち、「今日の米、今日の水」と書いた札を、少年の鏡の光に合わせて差し替える。

 王は自ら米を皿に置いた。計量は誤魔化さない。指で軽くならし、米の粒が静かに収まるのを待つ。次に水桶を吊るす。桶の縁から、静かに水が滴り、木の皿に濡れの円が広がる。釣り合いは微妙に揺れ、王が言う。

「秤は嘘をつかない。剣はここにある。だが、剣は秤を動かさない」

 声は深くなかった。けれど、その場にいた者たちの肩の筋肉が一度だけゆるみ、誰かが小さく拍手をした。拍手は一つ、また一つ増え、やがて広がりすぎる前に止んだ。異様な静けさが残らない程度の拍手。誰かが涙を拭い、誰かが口を結び、誰かが子どもの手を握った。

 藍珠は秤の横で鞘を立て、左手を鞘に置いた。彼女の指は剣を握らない。その指は、秤の台の裂け目を押さえるための手の形だった。まだ裂けてはいない。けれど、夏の噂は、木の板より早く割れ目を作る。

 楓麟は、広場を囲む屋台の屋根の向きをわずかに変えさせた。風が水桶に直接当たらないように。布の影の長さが針の影の長さを狂わせないように。秤は、風ごと釣り合わせなければならない。

 噂の場では、狐火の書生が「秤の図」を描き、狼煙番の少年が「風の図」を置く。「風が強い日は、針が揺れる」「針が揺れても、秤は嘘をつかない」。少年は鏡を使って影を作り、子どもたちに影の揺れと針の揺れの違いを見せた。子は笑い、大人は黙って見た。笑いは釣り合いを軽くする。沈黙は重くする。どちらも必要だ。

     ◇

 その夜、秤の場に「刃」が突き刺さった。誰かが、鞘から剣を抜いたのだ。鞘は立ててあった。抜くことは容易ではないはずだった。だが、刃は秤の台に縦に一筋、深く走った。木目は裂け、秤の支柱がわずかに傾ぐ。月の光を受けた剣身の筋は、もうそこにない。剣はすでにどこかへ消えていた。

 市兵が灯を掲げ、声を上げ、走った。藍珠は鞘の位置を確認し、自分の剣の柄に手を掛けた。抜きかけたその手を、遥の声が止めた。

「秤を裂いた刃に、刃で返せば秤は消える」

 藍珠は剣を鞘に戻した。歯を食いしばり、肩で息をした。怒りは短く、痛みは長い。彼女の指は鞘の口から離れ、縄の束に伸びた。縛る方が、今は重い。

 翌朝、裂け目をそのまま残した秤が、広場に置かれた。修復ではない。修復は、夜のうちにできる。だが、裂け目を見せる必要がある。裂け目は、噂の切り口に似ている。縫い目を見せることは、噂の縫い方を見せることだ。

 王は木釘を裂け目に打ち、縄を張り、台の下から横木を噛ませた。釘は太くない。縄は美しく結ばれ、結び目は鏡に映して確認される。彼は、片方の皿に米を、もう片方に水を置いた。針は、揺れた。揺れてから、戻った。戻るまでに、昨日より時間がかかった。時間がかかった分、誰かの肩が少し下がった。

「裂けても、秤は釣る」

 王は言った。言葉は、裂け目に乗って広がった。楓麟は風を聞き、「裂け目を縫う姿は、噂を縫う姿」と低く述べた。狐火の書生はその場面を絵にした。「裂け目に縄」「縄に影」。絵の端に、「縫えば、戻る」と小さく書く。少年はその横で、鏡で結び目に光を当て、縄の陰の濃さで張り具合を見せる。

     ◇

 秤の場は続き、剣の場は立ち、噂の場は話し続けた。だが、噂線のひとつはしぶとかった。「白風の王は紅月のために水を割く」。言う者は、証拠を求められると肩をすくめる。「皆が言っている」。皆は誰だ。誰かが書いた「皆」の一文字は、いつも輪郭が薄い。薄い輪郭は、板に張られたとき、剥がれやすい。

 楓麟は噂の場で、紙を二枚広げた。一枚には「声」。もう一枚には「刻」。争水板に書かれ、夜に剥がされた「声」の焦げ跡を、そのまま描き写し、横に堰の石に刻まれた「水刻」の拓本を貼った。

「声を剥がすな。剥がせば、火になる。火は畦を焼き、名を消す。刻は、削れても、跡が残る」

 彼は静かに言った。言葉の合間に風の音が入り、音の合間に誰かの息が入る。息と風が重なると、噂は音から線になり、線は板に止まる。

 その日の夕暮れ、広場の端で一人の男が跪いた。緩衝の野から来たらしい。頬に煤が残り、足首に紐の跡。彼は「剣を」と言った。藍珠は首を振った。男は顔を上げ、秤を見た。裂け目の縄が夕風にかすかに軋む。彼は首を横に振り、代わりに柄を求めた。藍珠は渡した。「重いぞ」。男は頷き、肩に乗せた。肩の骨が沈み、彼の影が少し広くなった。

     ◇

 夜の噂の場で、狐火の書生が話した。「春に狐火の話を書いた。火に見えて、火ではないものがある。夏には、刃の音がする。刃に見えて、刃ではないものがある。噂は刃の形をして、秤を切ろうとする。けれど、噂は刃ではない。音だ。音は、板に釘で止められる」

 子どもが笑い、誰かが拍手をした。狼煙番の少年は鏡を机に置き、手のひらで表面の粉を拭った。鏡は、今夜、光を遠くへ送らない。鏡は、秤の裂け目に当てる。裂け目がどれだけ深いか、光の筋で測る。測った深さは、明日の朝、木釘の長さになる。

 王は回廊で立ち止まった。名板の縫い目と、秤の縄の結び目が、夜の風に揺れて互いを映し合う。名板は刃を受け、縫い目で強くなった。秤は刃を受け、縄で立った。彼は指を伸ばし、結び目にそっと触れた。触れた指先に、夏の汗の塩が残る。塩は、冬からずっと、この国の背骨のように彼の語尾に留まっている。

「秤を裂いた刃に、刃で返せば秤は消える」

 自分に向けてもう一度、彼は呟いた。呟きは、夜の底で薄く広がり、広がった先で静かに沈む。沈む場所は、明日の広場の木陰だ。

     ◇

 翌朝、秤の場の前に、見慣れた背中が立った。法務の新任代行だった。彼は人混みを割らず、秤の端に黙って立ち、板に貼られた「噂の紙」の一枚を指差した。そこには、夜のうちに誰かが書いた小さな文字があった。「剣はここにある。秤はここにある。噂もここにある」。法務は頷いた。言葉を撤回するためではない。言葉に別の言葉を重ねるために。

「秤を壊す者は、斬らぬ。秤を壊す者は、縫わせる」

 彼は板にそう書いた。筆致は固い。固い筆致は、読みにくい。読みにくい字を声にすると、音は柔らかくなる。声は、秤の針に触れないように慎重に動き、だからこそ広場に届いた。

 藍珠は剣の場に立ち続けた。鞘の口に結び目を増やし、その結び目に少年の鏡で光を当て、ほどけぬことを確かめる。剣はここにある。だが、剣は秤を動かさない。彼女の肩は、昨日よりわずかに下がって見えた。肩に乗っていた重さが、縄の節の方へ移っているのだ。

 楓麟は風を読み、昼の前に短い布告を出した。「水の刻は、今日だけ半刻早める」。上流の風が強く、下流の陰が涼しいからだ。紙にはわずかの朱。朱は、濃くしない。濃い朱は、夏の目に刺さる。薄い朱は、夏の汗に溶ける。

     ◇

 日暮れ前、緩衝の野の端で、小さな揉み合いが起きた。「秤の米を少し分けろ」。声の主は、昨夜柄を受け取った男だった。彼は柄を地面に立て、手を伸ばした。市兵が手を押さえた。押さえた手は強くなかった。男はため息をつき、柄を拾い、井戸の柵へ向かった。柵の縄は緩み、角木は熱で硬くなり、砂時計の砂は日中に湿る。湿った砂を指で崩しながら、彼は自分の喉の渇きを、声にしなかった。

 王は遠くから、その背を見た。名の列の端に、白い一枚の札——「空白の札」——が、夜の前にわずかに揺れた。揺れる白は、黒に沈まず、金に染まらず、ただそこに“ある”。彼は胸の奥で、その白さと秤の裂け目の白木を重ねた。どちらも、無色の旗の根に繋がっている。

「秤は揺れながら立つ。名は傷を抱えながら残る」

 それを口には出さなかった。言えば、軽くなる。軽い言葉は、夏の風に乗って遠くへ行き、必要な場所に届かないことがある。彼は言葉を胸に留め、代わりに秤の台の縄をもう一度締めた。結び目は、昨日より少し低い位置へ移された。低い位置の方が、人の目に入りやすい。目に入る結び目は、噂より強い。

     ◇

 夜風が高台を撫で、裂け目の縄が軋んだ。軋みは、静かな悲鳴のようでもあったが、実は良い音だった。鳴るということは、切れていないということだ。剣の鞘が月光を反射し、名板の銅縁が薄く光り、白石の列の小旗が夏至の名残を鳴らした。

 藍珠が言った。「王。剣は、今日も抜かなかった」

 遥は頷いた。「できれば、明日も」

「できなければ」

 楓麟が続ける。「その時は、剣を持った手で、秤の縄を守る」

 王は笑った。短く、だが腹の底から。笑いは重さを軽くはしない。重さの置き場を変えるだけだ。それで十分な夜がある。

 秤は揺れながらも立ち、名板は傷を抱えながらも立つ。噂の紙は剥がれても、焦げ跡が残る。焦げ跡の上に新しい紙が貼られ、焦げ跡ごと読み上げられる。剣は鞘の中で息をし、柄は夜の井戸で汗を吸う。砂時計の砂は、ときどき詰まり、ときどき流れる。詰まりと流れの間で、人の肩が、ゆっくり降りていく。

 夏はまだ続く。秋は遠い。遠い秋の手前で、秤の刃と噂の刃が、もう一度だけ試される夜が来るだろう。だが今は、広場の秤が裂け目を抱いたまま釣り合いに戻る様を、皆が見た。見たものは、忘れにくい。忘れにくいものは、噂より長く残る。

 夜更け、狼煙番の少年が鏡を胸に当てた。光を跳ね返すのではない。自分の胸の中の重さを、鏡で量るように。鏡は針を持たない。だが、映された顔は針の代わりになる。彼は鏡を下ろし、秤の縄に触れ、名板の銅縁に触れ、鞘の結び目に触れた。触れた指先に残った感触が、彼の明日の合図の角度を、ほんの少し変える。

 秤は、まだ立っている。裂け目は、まだ見えている。見えている裂け目を忘れない限り、秤は、誰かがもう一度刃を向けようとしたとき、縄の音で先に知らせる。音に気づく耳が、今、この国には増えている。増えた耳に、王は小さく言う。「ありがとう」。言葉は誰にも届かない。届かなくていい。言ったことより、結んだことの方が、今夜は重い。

 夏の星は、秤の木針の先で震えた。震えは、すぐに止まった。止まった先で、紙の上の数字が、薄い朱で一行だけ増えた。「秤の場、裂け目の縄、結び直し」。その一行が、噂の場の板の隅に、狐火の書生の絵の端に、少年の鏡の縁に、細く、だが確かに繋がった。剣は抜かれない。秤は守られた。夏は重い。重いまま、秤は今日も釣る。明日も。明後日も。できれば。できなければ、その裂け目は、縫い目として残る。残った縫い目が、秋の秤を支える。そういう順序で、国の線は、今日も明日も、結び直されていく。