陽の筋が長く伸びはじめると、薄紅平原の畦は、昼の終わりを惜しむように草の匂いを濃くした。水見番の砂時計は日中の粘りを増し、角木にぶらさがる「名の札」は風の重みで音を変える。夏至を越えた空は、どこか遠くの炎色をわずかに混ぜ、乾いた翳りを畦の端へひっそり落としていた。
その朝、城下の掲示板の前で、下流の女が膝をついて泣いていた。泣き声は大きくないのに、紙に染みていく水のように周囲に広がる。彼女の指は薄線の名をなぞり、その上で止まらず、次の名へ、また次の名へと滑っていく。誰かが水をくれた。彼女はそれを拒まず、喉を濡らし、短い息の後に言った。
「名板に書かれた名は、水に沈んでいるのに」
集まった者たちが、互いの顔を見交わした。ここ数日、上流で予定以上の水が引かれているという報告が続いていた。下流の田は水面の肌を薄くし、畦の影が地面に濃く落ちる。水見番が砂時計を掲げ、「朝の一刻、上流」「日中は中流」「夜明け前、下流」と、刻まれた分配を指で示す。だが、感情は秤に乗らない。砂の粒が同じ重さで落ちるように、言葉は同じ重さで落ちない。泣いている女の隣で、薄線の若者が柄を握り締めていた。握りしめた掌が白くなる。
「剥がすなよ」
若者が呟いた。誰に向けたとも、特定できない。けれど、その一言が、ここしばらくの“癖”を思い出させる。冬から春にかけて、名の列は、嘘や恐怖や黒衣のささやきによって、何度も剥がされかけ、切られかけ、それでも修復されてきた。今、剥がされかけているのは、紙ではなく、分配の均衡だ。
報はすぐに王宮に届いた。工営司は現場の石肌が写った板を運び込み、医の館は熱病の記録を重ね、商務は粉挽き水車の稼働減の数を出し、法務の新任代行は揉め事の発火点の整理を試みる。評議は朝の光の角度を変えながら続き、楓麟は窓際で風を聞いていた。風下は乾き、風上は溢れる。風はいつも、偏りを運ぶ。ならば、それを均すのは「時間」だと、彼は短く言う。
「時間を削る」
彼は、そう言って砂時計の上部の砂を指先でなぞった。砂は人を待ってはくれない。だが、人が砂の落ちる速度に心を合わせることはできる。水を“時”で分ける。王は頷き、朱の小筆を取った。
「争水の秤を布く」
王の声は低かったが、決めたものにはいつものように具体の手が添えられた。
①「水刻」。水見番が堰ごとに石へ、日付と“砂の時”を刻む。誰が、いつ、どれだけ水を引いたか。書き残すのでは足りない。刻む。刻んだものは、雨でも消えにくい。紙に書いた嘘は剥がせる。石に刻んだ嘘は、指で触れればすぐに割れる。
②「交代見張り」。上流村の若者と下流村の若者を対にし、互いの堰に立たせる。敵としてではない。番として。砂時計と帳簿を持ち、剣は持たず、柄も持たせない。代わりに、同じ桶を一つ渡す。重さは分けられる、を体で知ってもらう。
③「争水板」。掲示板に水の割当を公開し、不満は「声」として書き込ませる。声は消さない。剥がさない。書記の筆跡で書くのではない。手ずから書かせる。粗い文字は、粗いままの重みを持つ。板に残る焦茶色の筆は、怒りを“見える形”に変え、見える形は、次の“調整”の土台になる。
藍珠が言った。「剣で水は分けられぬ」。剣を抜くのは、水路に石を落とすのと同じだ。流れの形が変わる。変わった形は、すぐには戻らない。だから、剣は鞘にいて、砂時計を前に出す。
王は立ち上がり、地図室の上に拡がる用水の線をなぞった。「角木」と書かれた小さな印の一つひとつに、藍珠が軽く指先を置く。触れた場所が、今日の“発火点”。楓麟は耳をわずかに動かし、風がどちらから回り込むかを読む。城下の狼煙番の少年は、鏡を既に手にしているだろう。彼の光は砂時計を合わせ、砂時計は朝と昼と夜を繋ぐ。
◇
初日の交代見張りは、ぎこちなさで始まった。堰の両脇に、顔を赤くした若者が二人立つ。上流の若者は古い藁紐で髪を結い、下流の若者は布で日除けをしている。互いに目を合わせない。砂の落ちる音が、沈黙の代わりに二人の間を満たす。
「……一刻」
水見番が告げる。その声に合わせて、上流の若者が角木を少しだけ上げる。水が走る。下流の若者の喉が上下する。彼は自分の袖の端を握り、砂の残りを見つめた。砂が半分を切る頃、上流の若者が自分の桶を持って堰から少し離れた場所へ運んだ。下流の若者が一歩前に出る。桶は重いが、二人なら軽い。二人は何も言わず、同じ桶の両端を持った。足並みが、砂の落ちる速度と合っていった。合った足並みは、怒りの足音を小さくする。
角木には、いくつもの「名の札」が紐で下がっている。それぞれの村の印と、畦頭の名と、日付。そして今日からは、石肌に直接「水刻」が刻まれる。石が鈍い音を立て、鉄針が小さな白い粉を生む。粉は指先にくっつき、風で飛び、頬にかすかに触れる。触れた粉は、言葉よりも確かに「今日はここまで」を教えてくれる。
午前の終わり、王は堰の縁に立ち、汗をかいた若者たちの顔を順番に見た。上流の若者の頬に土がついている。下流の若者の指先に小さな血が滲んでいる。血は乾く前に水で薄められ、すぐに流れに混じった。それは、剣の血ではなかった。剣の血ではない血は、罰の色を持たない。
その足で、王は掲示板の前に立った。争水板は新しい。板の表面に、軋むような筆圧でいくつもの「声」が書かれている。「朝の砂が遅い」「角木が固い」「水が冷たい・子の腹が痛い」「上流の桶が重い・下流の桶が軽い」「番の交替が不公平」。それぞれの声は、粗い。粗いが、その粗さが「本当」を含んでいる。書記が読み上げる代わりに、本人が声にする。声は板に残る。残る声が重なれば、次にどこを削れば良いかが見える。王は朱で欄外に小さく書いた。「声を消すな。消せば、火になる」。
◇
夕刻、最初の火が起きた。夜風が水面を小さくさざめかせはじめる頃、誰かが争水板の端に貼られた「声」を剥がし、火床の端で燃やした。燃えたのは、文字だけではない。言葉の「路」だ。路が消えると、人は怒りを抱えてたたずむしかない。たたずむ場所が狭くなれば、怒りは刃に形を変える。
火はすぐに消された。消したのは、市兵の手と、畦頭たちの柄だった。火床の灰は、医の館の桶に移され、灰汁と混ざり、冷める。灰は冷めれば、磨き布になる。だが、その夜の灰は、まだ熱を持っていた。熱い灰は、翌朝の街の空気に薄く紛れ、焦げ跡は板の上に残った。
翌朝、王は争水板の前に立ち、焦げ跡を指先で触れた。指先が黒くなる。王はその黒を、袖で拭わなかった。声を剥がすな。剥がせば、火になる。火は畦を焼き、名を消す――彼は短く言い、剥がされた跡ごと、上から新しい紙を貼った。焦げ跡は見えるままに。見える焦げは、次の手順を太らせる。
狼煙番の少年が鏡を掲げ、塔から光の点が落ちてくる。砂時計の交換の合図だ。交代見張りの若者二人が、同じ桶を持って板の前に立った。彼らは先に焦げ跡をじっと見た。それから、桶を肩に担ぎ直し、堰へ戻った。戻る背中は、昨日より少しだけ広い。怒りは、重いものを持てば、手から離れやすい。
◇
「堰の石が崩れかけている」という工営司の報告は、午後の議論の芯になった。石肌が湿りに光り、苔の根が緩んでいる。上流の角木の支えはまだ持つ。しかし、次の夕立が長引けば、片側の石が落ちるかもしれない。落ちれば、均した“時”が水にさらわれる。
「修繕はいつ」
王が問うと、工営司の若い官は視線を上げた。「夜明け前。下流の引水の刻と上流の待ちの刻の間。水が細くなる時間に。角木は“名の札”で封印したまま、仮の楔をいれる。楔には“水刻”を刻む。動かない楔ほど、次の動きを軽くするから」
楓麟は風を聞き、三日後の雨の気配を復唱した。「夕立。南西から。短いが濃い」。藍珠は頷いて、「柄隊」を配した。修繕に刃はいらない。柄と楔と、紐。刃を使うのは、角木の皮に“名の札”を通す針だけだ。針は板も通す。板を縫ったときの針目を、藍珠は指で記憶している。
医の館は、「水不足で畦の作業員が倒れている」と報告した。熱の上がった肌に触れる手が不足している。清め場の湯の釜は、灰の見張りが弱くなれば、沸騰の強さが足りなくなる。口覆い布は、夏の汗で貼りつき、外し方と洗い方の指図が一度では身につかない。狐火の書生は新しい絵を描き、口覆い布の端に「ほどく向き」と「結ぶ向き」を矢印で示した。子どもが指でなぞる。
◇
交代見張りの三日目、上流の若者の声が少し柔らいだ。「畑を守りたい」。初日に言った言葉は変わらない。だが、次に付け足された。「おまえの子を守りたい、までは、まだ言えない。でも……桶は、一緒に持てる」。下流の若者は黙って頷き、桶の位置を少し変えた。二人の肩の高さが揃うように。
同じ頃、緩衝の野から名札の薄い男たちが、角木の周りに集まりはじめた。柄を持っている。柄隊は「水刻」の横で、砂時計の交換を手伝い、角木の封印に手を出さないように自分たちの腰の紐を固く結ぶ。藍珠が近づき、「紐の結び目を見せろ」と言うと、彼らは背を向けて結びを示した。ほどきの道筋が用意されている結び。覚えた結びの種類が増えるほど、刃を抜く手の動きは遠くなる。
楓麟は堰から少し離れた草の線に立って、体の向きだけで風を押し返した。午後の風が逆転している。旗の音が微かに乱れる。無色の袖の水見番が、砂時計を胸に抱えて立ち位置を移動する。彼らは剣を持たない。帳と砂と、印の壺だけだ。印の朱は薄い。薄い朱は、紙の上では弱い。けれど、石の上では強い。石に朱が残るのは、雨の責任だ。雨が責任を引き受けるのは、夏だけだ。
◇
争水板の「声」は増え続けた。ある日の朝、「上流の砂が遅れている」と、硬い文字があった。夕刻、同じ筆で「下流の砂が早く落ちる」と書き足されていた。後で聞けば、砂時計を入れる袋の縫い目が湿りでほつれ、砂の動きに微妙な癖がついたのだという。直したのは、畦の端で縫い目を覚えた女たちだった。名板を縫ったときの糸の通し方が、ここで役に立つ。冬の傷が、夏の手順を補う。
別の日、「声」の欄の隅に、子どもの字で「水は眠るの?」とあった。狐火の書生が絵で答えた。「眠らない。けれど、ゆっくりする」。ゆっくりする時間のところに、砂時計の絵が添えられ、ゆっくりする場所のところに、角木の絵が添えられた。子どもは板の前で顔を上げ、堰のほうを指さした。指は濡れていなかったが、目は少し潤んでいた。
◇
夕立が来た。楓麟の読みが当たり、南西から短く濃い雨が押し寄せる。空の色が一段深くなり、畦の端で草の線が重く沈む。角木の封印札が雨で膨らみ、紐が鳴る。工営司の指示で、柄隊が仮の楔を打ち、砂時計の位置を覆う屋根布を引き、医の館の男たちが清め場の釜に追加の柴をくべた。
王は堰の石に膝をついて、滑る石肌の温度を指で確かめた。冷たい。だが、熱い息がすぐ上を通っていく。上流の若者が仮の楔に水刻を刻む。刻む音は雨に消える。けれど、刻まれた白は雨に洗われてくっきりとした。下流の若者は角木の陰で砂時計を抱え、砂の残りを見守る。二人の背中に、藍珠の目があった。その目は、剣の目ではない。剣を抜く場の目は、おのずと対象を切り分ける。今ここにあるのは、切り分けない場だ。切り分けずに均す。均すには、関係の節がいる。節は人の手の数だけ生まれる。
雨は、ほどなく止んだ。湿った匂いが、熱の匂いを少し薄め、畦の向こうで白石列の旗が短く鳴る。狼煙番の少年が、濡れた袖で鏡を拭き、塔に光を送った。光は河原をひとつ越えたところで散った。散った光が、争水板の焦げ跡を一瞬だけ照らした。焦げ跡は、黒く、そこにある。誰かがそれを指先でなぞり、黒が皮膚に移った。移った黒を、その人は拭わなかった。
◇
ある夜、藍珠は堰の脇で、一人の老人に出会った。老人は角木の前に座り込み、砂時計の影を眺めている。彼は低く言った。「若い頃、剣で水を分ける場を見た」。藍珠は答えなかった。老人は続けた。「刃は、瞬間は秩序を作る。けれど、翌日の秩序を壊す。今は、柄で秩序を繋いでいる。……柄は重いな」。藍珠は頷いた。重い。その重さを受け取った人間の背が、少しだけ広くなる。それが、今の戦だ。
別の夜、楓麟は、角木に触れた。木は湿り、内部に通る水の震えが指に伝わる。「風上は溢れ、風下は乾く」。彼の言葉は、誰に向けられたわけでもなかった。けれど、近くにいた水見番がそれを聞きとめ、砂時計の位置を半歩ずらした。半歩のずれが、次の朝、下流の女の涙の量を半分にした。
◇
争水板に、夜のあいだに貼られた小さな紙があった。「声を剥がした者へ」。筆は細い。「剥がすな。剥がせば、火になる。火は畦を焼き、名を消す。名は、刃ではない。剥がすものではなく、触るものだ」。署名はない。けれど、狐火の書生の字ではない。医の館の薬師の字でもない。工営司の若い官の字に似ている。似ているが、違う。藍珠は紙の端に触れ、ほつれた繊維を見て、小さく笑った。「縫い目の人だ」。
また別の日、争水板の端に、黒い墨で太く書かれた字があった。「水は誰のもの」。その下に、細い字で三つの答えが並んだ。「畦のもの」「空のもの」「皆のもの」。王は近づき、朱で小さく書いた。「“時”のもの」。その朱は、午前の光で薄くなり、午後の影で濃くなった。翌朝、子どもの指がその朱をなぞり、「“時”って何」と訊いた。狼煙番の少年が横から言う。「砂だ」。子どもは砂時計を覗き込み、砂粒の一つひとつが落ちるのを見て、頷いた。「たくさんの“ひとつ”だね」。王はその背中を見て、胸の中で小さく頷いた。たくさんの“ひとつ”。名の列も、そうだ。点線・薄線・暗線――ひとつずつが落ち、ひとつずつが残る。残るものは、次の“時”をつくる。
◇
昼の盛り、清め場の湯気がいつもより白く立っていた。医の館の指示で、口覆い布の替えが配られている。並ぶ列は長いが、怒号はない。鍋の灰汁をすくう手が、争水板の焦げ跡に似た色をしている。焦げ跡を見てから来たのだろう。焦げ跡は、誰かの手順を太くする。
工営司の若い官が走ってきて、配水表の端に朱を足す。「上流の朝一刻、半分へ」「中流の昼三分の二を継続」「下流の夜明け前、二刻」。楓麟の風読みが、午後の雨の気配を薄く予告した。藍珠は柄隊の配置を変え、緩衝の野からの男たちに「紐の結び替え」を教える。紐を結び替えるたびに、手の動きが丁寧になる。丁寧な動きは、怒りの角を丸くする。
◇
その夜、王は回廊で小さな杯を傾け、湯の温度で喉を潤した。隣に楓麟が立ち、風の湿りを確かめる。藍珠は少し離れて、磨かれた銅縁の名板を見ていた。縫い目は、日を置くごとに板になじみ、けれど見え続けている。見え続けることが、今の秤の針だ。
「争水は、剣では終わらない」
藍珠が言う。王は頷く。「剣で終わらせるのは簡単だ。だが、翌日から、もっと多くの剣が必要になる」。楓麟が続ける。「風は、声を運ぶ。声は残せば、風で薄まる。板に残せば、次の声はそこから始まる」。王は杯を置き、朱筆を持った。杯の代わりに筆を重く感じる夜は、冬にはなかった種類の疲れだ。だが、嫌いではない。疲れは眠りを連れてきて、眠りは明日を同じ高さで迎えるための床になる。
◇
朝、争水板の前に新しい「声」があった。「上流で名板が倒れた」。風でだ、と書いてある。藍珠はすぐに柄隊を動かし、名板を起こさせ、背貼りの銅縁の緩みを締めた。縫い目は無事だった。無事であることが、人の背を再び伸ばす。起き上がった名板の前で、老女が手を合わせ、「倒れるなら、先に言って」と笑った。笑いは、夏の朝には珍しい。珍しい笑いは、板の前で生まれる。板は、剣ではできないことをする。
水見番の列は今日も続き、砂時計の砂は今日も落ち続ける。上流の若者は、昨日よりも少し柔らかい顔で角木を上げ、下流の若者は、昨日よりも少し固い足で砂時計の影を跨いだ。争水板の焦げ跡は、日に焼かれて少し薄くなった。薄くなっても、そこに“ある”。あることが、秤の皿に重さをつける。
昼過ぎ、凛耀からの密書が届いた。「王弟派、北の城で飢えが深い。夏の前に決着を急ぐ」。白風の境界の縄印の外で、別の“争い”が動く気配。外の火は、内の水を揺らす。楓麟が風を聞き、「風下は乾き、風上は溢れる」ともう一度呟いた。王は地図の端に、小さく朱で書いた。「旗と畦の秤を重く」。夏の秤は、まだ均されきってはいない。だが、秤の針は、剣の切っ先ではない。針は、誰かの指に触れて、揺れるたびに、音を小さく変える。
◇
夕暮れ。畦の端に立つ水見番が、星を映した砂時計を見つめている。砂は、昼の白から夜の銀に色を変え、落ちる音をさらに静かにする。彼の背中に、同じ柄を持った若者が立つ。柄は重い。重いが、二人で持てば軽い。交代見張りのふたりは、今日も互いの堰で同じ桶を運び、同じ砂の音を聞き、同じ焦げ跡を見た。
争水は続く。誰かが声を上げ、誰かが刻み、誰かが砂を合わせ、誰かが焦げ跡を指でなぞる。剣は抜かれない。抜かれない剣は、鞘の中で静かに呼吸をしている。呼吸の回数は、名の列の点の数と同じだけ増え、減り、また増える。水は眠らない。けれど、ゆっくりする。ゆっくりする時間を、人が支える。支える手の数が増えるほど、剥がされた声は、火にならずに、焦げ跡へと留まる。焦げ跡が残る板の前で、子どもが指で線をなぞる。指は黒くなり、すぐに井戸の水で洗われる。洗われて、黒は薄まる。薄まっても、指は“覚えている”。
夏の夜気は、白石列の旗を鳴らし、名板の銅縁に星を落とし、争水板の端に残る焦げ跡を淡く照らした。王は回廊の影からそれを見届け、静かに息を吸った。吸った息の分だけ、秤の皿が揺れ、揺れはやがて、静かに止まる。止まった皿の上に、明日の砂時計がまた置かれる。砂粒は、たくさんの“ひとつ”だ。たくさんの“ひとつ”が、名を消さずに、畦を焼かずに、明日を分ける。
その朝、城下の掲示板の前で、下流の女が膝をついて泣いていた。泣き声は大きくないのに、紙に染みていく水のように周囲に広がる。彼女の指は薄線の名をなぞり、その上で止まらず、次の名へ、また次の名へと滑っていく。誰かが水をくれた。彼女はそれを拒まず、喉を濡らし、短い息の後に言った。
「名板に書かれた名は、水に沈んでいるのに」
集まった者たちが、互いの顔を見交わした。ここ数日、上流で予定以上の水が引かれているという報告が続いていた。下流の田は水面の肌を薄くし、畦の影が地面に濃く落ちる。水見番が砂時計を掲げ、「朝の一刻、上流」「日中は中流」「夜明け前、下流」と、刻まれた分配を指で示す。だが、感情は秤に乗らない。砂の粒が同じ重さで落ちるように、言葉は同じ重さで落ちない。泣いている女の隣で、薄線の若者が柄を握り締めていた。握りしめた掌が白くなる。
「剥がすなよ」
若者が呟いた。誰に向けたとも、特定できない。けれど、その一言が、ここしばらくの“癖”を思い出させる。冬から春にかけて、名の列は、嘘や恐怖や黒衣のささやきによって、何度も剥がされかけ、切られかけ、それでも修復されてきた。今、剥がされかけているのは、紙ではなく、分配の均衡だ。
報はすぐに王宮に届いた。工営司は現場の石肌が写った板を運び込み、医の館は熱病の記録を重ね、商務は粉挽き水車の稼働減の数を出し、法務の新任代行は揉め事の発火点の整理を試みる。評議は朝の光の角度を変えながら続き、楓麟は窓際で風を聞いていた。風下は乾き、風上は溢れる。風はいつも、偏りを運ぶ。ならば、それを均すのは「時間」だと、彼は短く言う。
「時間を削る」
彼は、そう言って砂時計の上部の砂を指先でなぞった。砂は人を待ってはくれない。だが、人が砂の落ちる速度に心を合わせることはできる。水を“時”で分ける。王は頷き、朱の小筆を取った。
「争水の秤を布く」
王の声は低かったが、決めたものにはいつものように具体の手が添えられた。
①「水刻」。水見番が堰ごとに石へ、日付と“砂の時”を刻む。誰が、いつ、どれだけ水を引いたか。書き残すのでは足りない。刻む。刻んだものは、雨でも消えにくい。紙に書いた嘘は剥がせる。石に刻んだ嘘は、指で触れればすぐに割れる。
②「交代見張り」。上流村の若者と下流村の若者を対にし、互いの堰に立たせる。敵としてではない。番として。砂時計と帳簿を持ち、剣は持たず、柄も持たせない。代わりに、同じ桶を一つ渡す。重さは分けられる、を体で知ってもらう。
③「争水板」。掲示板に水の割当を公開し、不満は「声」として書き込ませる。声は消さない。剥がさない。書記の筆跡で書くのではない。手ずから書かせる。粗い文字は、粗いままの重みを持つ。板に残る焦茶色の筆は、怒りを“見える形”に変え、見える形は、次の“調整”の土台になる。
藍珠が言った。「剣で水は分けられぬ」。剣を抜くのは、水路に石を落とすのと同じだ。流れの形が変わる。変わった形は、すぐには戻らない。だから、剣は鞘にいて、砂時計を前に出す。
王は立ち上がり、地図室の上に拡がる用水の線をなぞった。「角木」と書かれた小さな印の一つひとつに、藍珠が軽く指先を置く。触れた場所が、今日の“発火点”。楓麟は耳をわずかに動かし、風がどちらから回り込むかを読む。城下の狼煙番の少年は、鏡を既に手にしているだろう。彼の光は砂時計を合わせ、砂時計は朝と昼と夜を繋ぐ。
◇
初日の交代見張りは、ぎこちなさで始まった。堰の両脇に、顔を赤くした若者が二人立つ。上流の若者は古い藁紐で髪を結い、下流の若者は布で日除けをしている。互いに目を合わせない。砂の落ちる音が、沈黙の代わりに二人の間を満たす。
「……一刻」
水見番が告げる。その声に合わせて、上流の若者が角木を少しだけ上げる。水が走る。下流の若者の喉が上下する。彼は自分の袖の端を握り、砂の残りを見つめた。砂が半分を切る頃、上流の若者が自分の桶を持って堰から少し離れた場所へ運んだ。下流の若者が一歩前に出る。桶は重いが、二人なら軽い。二人は何も言わず、同じ桶の両端を持った。足並みが、砂の落ちる速度と合っていった。合った足並みは、怒りの足音を小さくする。
角木には、いくつもの「名の札」が紐で下がっている。それぞれの村の印と、畦頭の名と、日付。そして今日からは、石肌に直接「水刻」が刻まれる。石が鈍い音を立て、鉄針が小さな白い粉を生む。粉は指先にくっつき、風で飛び、頬にかすかに触れる。触れた粉は、言葉よりも確かに「今日はここまで」を教えてくれる。
午前の終わり、王は堰の縁に立ち、汗をかいた若者たちの顔を順番に見た。上流の若者の頬に土がついている。下流の若者の指先に小さな血が滲んでいる。血は乾く前に水で薄められ、すぐに流れに混じった。それは、剣の血ではなかった。剣の血ではない血は、罰の色を持たない。
その足で、王は掲示板の前に立った。争水板は新しい。板の表面に、軋むような筆圧でいくつもの「声」が書かれている。「朝の砂が遅い」「角木が固い」「水が冷たい・子の腹が痛い」「上流の桶が重い・下流の桶が軽い」「番の交替が不公平」。それぞれの声は、粗い。粗いが、その粗さが「本当」を含んでいる。書記が読み上げる代わりに、本人が声にする。声は板に残る。残る声が重なれば、次にどこを削れば良いかが見える。王は朱で欄外に小さく書いた。「声を消すな。消せば、火になる」。
◇
夕刻、最初の火が起きた。夜風が水面を小さくさざめかせはじめる頃、誰かが争水板の端に貼られた「声」を剥がし、火床の端で燃やした。燃えたのは、文字だけではない。言葉の「路」だ。路が消えると、人は怒りを抱えてたたずむしかない。たたずむ場所が狭くなれば、怒りは刃に形を変える。
火はすぐに消された。消したのは、市兵の手と、畦頭たちの柄だった。火床の灰は、医の館の桶に移され、灰汁と混ざり、冷める。灰は冷めれば、磨き布になる。だが、その夜の灰は、まだ熱を持っていた。熱い灰は、翌朝の街の空気に薄く紛れ、焦げ跡は板の上に残った。
翌朝、王は争水板の前に立ち、焦げ跡を指先で触れた。指先が黒くなる。王はその黒を、袖で拭わなかった。声を剥がすな。剥がせば、火になる。火は畦を焼き、名を消す――彼は短く言い、剥がされた跡ごと、上から新しい紙を貼った。焦げ跡は見えるままに。見える焦げは、次の手順を太らせる。
狼煙番の少年が鏡を掲げ、塔から光の点が落ちてくる。砂時計の交換の合図だ。交代見張りの若者二人が、同じ桶を持って板の前に立った。彼らは先に焦げ跡をじっと見た。それから、桶を肩に担ぎ直し、堰へ戻った。戻る背中は、昨日より少しだけ広い。怒りは、重いものを持てば、手から離れやすい。
◇
「堰の石が崩れかけている」という工営司の報告は、午後の議論の芯になった。石肌が湿りに光り、苔の根が緩んでいる。上流の角木の支えはまだ持つ。しかし、次の夕立が長引けば、片側の石が落ちるかもしれない。落ちれば、均した“時”が水にさらわれる。
「修繕はいつ」
王が問うと、工営司の若い官は視線を上げた。「夜明け前。下流の引水の刻と上流の待ちの刻の間。水が細くなる時間に。角木は“名の札”で封印したまま、仮の楔をいれる。楔には“水刻”を刻む。動かない楔ほど、次の動きを軽くするから」
楓麟は風を聞き、三日後の雨の気配を復唱した。「夕立。南西から。短いが濃い」。藍珠は頷いて、「柄隊」を配した。修繕に刃はいらない。柄と楔と、紐。刃を使うのは、角木の皮に“名の札”を通す針だけだ。針は板も通す。板を縫ったときの針目を、藍珠は指で記憶している。
医の館は、「水不足で畦の作業員が倒れている」と報告した。熱の上がった肌に触れる手が不足している。清め場の湯の釜は、灰の見張りが弱くなれば、沸騰の強さが足りなくなる。口覆い布は、夏の汗で貼りつき、外し方と洗い方の指図が一度では身につかない。狐火の書生は新しい絵を描き、口覆い布の端に「ほどく向き」と「結ぶ向き」を矢印で示した。子どもが指でなぞる。
◇
交代見張りの三日目、上流の若者の声が少し柔らいだ。「畑を守りたい」。初日に言った言葉は変わらない。だが、次に付け足された。「おまえの子を守りたい、までは、まだ言えない。でも……桶は、一緒に持てる」。下流の若者は黙って頷き、桶の位置を少し変えた。二人の肩の高さが揃うように。
同じ頃、緩衝の野から名札の薄い男たちが、角木の周りに集まりはじめた。柄を持っている。柄隊は「水刻」の横で、砂時計の交換を手伝い、角木の封印に手を出さないように自分たちの腰の紐を固く結ぶ。藍珠が近づき、「紐の結び目を見せろ」と言うと、彼らは背を向けて結びを示した。ほどきの道筋が用意されている結び。覚えた結びの種類が増えるほど、刃を抜く手の動きは遠くなる。
楓麟は堰から少し離れた草の線に立って、体の向きだけで風を押し返した。午後の風が逆転している。旗の音が微かに乱れる。無色の袖の水見番が、砂時計を胸に抱えて立ち位置を移動する。彼らは剣を持たない。帳と砂と、印の壺だけだ。印の朱は薄い。薄い朱は、紙の上では弱い。けれど、石の上では強い。石に朱が残るのは、雨の責任だ。雨が責任を引き受けるのは、夏だけだ。
◇
争水板の「声」は増え続けた。ある日の朝、「上流の砂が遅れている」と、硬い文字があった。夕刻、同じ筆で「下流の砂が早く落ちる」と書き足されていた。後で聞けば、砂時計を入れる袋の縫い目が湿りでほつれ、砂の動きに微妙な癖がついたのだという。直したのは、畦の端で縫い目を覚えた女たちだった。名板を縫ったときの糸の通し方が、ここで役に立つ。冬の傷が、夏の手順を補う。
別の日、「声」の欄の隅に、子どもの字で「水は眠るの?」とあった。狐火の書生が絵で答えた。「眠らない。けれど、ゆっくりする」。ゆっくりする時間のところに、砂時計の絵が添えられ、ゆっくりする場所のところに、角木の絵が添えられた。子どもは板の前で顔を上げ、堰のほうを指さした。指は濡れていなかったが、目は少し潤んでいた。
◇
夕立が来た。楓麟の読みが当たり、南西から短く濃い雨が押し寄せる。空の色が一段深くなり、畦の端で草の線が重く沈む。角木の封印札が雨で膨らみ、紐が鳴る。工営司の指示で、柄隊が仮の楔を打ち、砂時計の位置を覆う屋根布を引き、医の館の男たちが清め場の釜に追加の柴をくべた。
王は堰の石に膝をついて、滑る石肌の温度を指で確かめた。冷たい。だが、熱い息がすぐ上を通っていく。上流の若者が仮の楔に水刻を刻む。刻む音は雨に消える。けれど、刻まれた白は雨に洗われてくっきりとした。下流の若者は角木の陰で砂時計を抱え、砂の残りを見守る。二人の背中に、藍珠の目があった。その目は、剣の目ではない。剣を抜く場の目は、おのずと対象を切り分ける。今ここにあるのは、切り分けない場だ。切り分けずに均す。均すには、関係の節がいる。節は人の手の数だけ生まれる。
雨は、ほどなく止んだ。湿った匂いが、熱の匂いを少し薄め、畦の向こうで白石列の旗が短く鳴る。狼煙番の少年が、濡れた袖で鏡を拭き、塔に光を送った。光は河原をひとつ越えたところで散った。散った光が、争水板の焦げ跡を一瞬だけ照らした。焦げ跡は、黒く、そこにある。誰かがそれを指先でなぞり、黒が皮膚に移った。移った黒を、その人は拭わなかった。
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ある夜、藍珠は堰の脇で、一人の老人に出会った。老人は角木の前に座り込み、砂時計の影を眺めている。彼は低く言った。「若い頃、剣で水を分ける場を見た」。藍珠は答えなかった。老人は続けた。「刃は、瞬間は秩序を作る。けれど、翌日の秩序を壊す。今は、柄で秩序を繋いでいる。……柄は重いな」。藍珠は頷いた。重い。その重さを受け取った人間の背が、少しだけ広くなる。それが、今の戦だ。
別の夜、楓麟は、角木に触れた。木は湿り、内部に通る水の震えが指に伝わる。「風上は溢れ、風下は乾く」。彼の言葉は、誰に向けられたわけでもなかった。けれど、近くにいた水見番がそれを聞きとめ、砂時計の位置を半歩ずらした。半歩のずれが、次の朝、下流の女の涙の量を半分にした。
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争水板に、夜のあいだに貼られた小さな紙があった。「声を剥がした者へ」。筆は細い。「剥がすな。剥がせば、火になる。火は畦を焼き、名を消す。名は、刃ではない。剥がすものではなく、触るものだ」。署名はない。けれど、狐火の書生の字ではない。医の館の薬師の字でもない。工営司の若い官の字に似ている。似ているが、違う。藍珠は紙の端に触れ、ほつれた繊維を見て、小さく笑った。「縫い目の人だ」。
また別の日、争水板の端に、黒い墨で太く書かれた字があった。「水は誰のもの」。その下に、細い字で三つの答えが並んだ。「畦のもの」「空のもの」「皆のもの」。王は近づき、朱で小さく書いた。「“時”のもの」。その朱は、午前の光で薄くなり、午後の影で濃くなった。翌朝、子どもの指がその朱をなぞり、「“時”って何」と訊いた。狼煙番の少年が横から言う。「砂だ」。子どもは砂時計を覗き込み、砂粒の一つひとつが落ちるのを見て、頷いた。「たくさんの“ひとつ”だね」。王はその背中を見て、胸の中で小さく頷いた。たくさんの“ひとつ”。名の列も、そうだ。点線・薄線・暗線――ひとつずつが落ち、ひとつずつが残る。残るものは、次の“時”をつくる。
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昼の盛り、清め場の湯気がいつもより白く立っていた。医の館の指示で、口覆い布の替えが配られている。並ぶ列は長いが、怒号はない。鍋の灰汁をすくう手が、争水板の焦げ跡に似た色をしている。焦げ跡を見てから来たのだろう。焦げ跡は、誰かの手順を太くする。
工営司の若い官が走ってきて、配水表の端に朱を足す。「上流の朝一刻、半分へ」「中流の昼三分の二を継続」「下流の夜明け前、二刻」。楓麟の風読みが、午後の雨の気配を薄く予告した。藍珠は柄隊の配置を変え、緩衝の野からの男たちに「紐の結び替え」を教える。紐を結び替えるたびに、手の動きが丁寧になる。丁寧な動きは、怒りの角を丸くする。
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その夜、王は回廊で小さな杯を傾け、湯の温度で喉を潤した。隣に楓麟が立ち、風の湿りを確かめる。藍珠は少し離れて、磨かれた銅縁の名板を見ていた。縫い目は、日を置くごとに板になじみ、けれど見え続けている。見え続けることが、今の秤の針だ。
「争水は、剣では終わらない」
藍珠が言う。王は頷く。「剣で終わらせるのは簡単だ。だが、翌日から、もっと多くの剣が必要になる」。楓麟が続ける。「風は、声を運ぶ。声は残せば、風で薄まる。板に残せば、次の声はそこから始まる」。王は杯を置き、朱筆を持った。杯の代わりに筆を重く感じる夜は、冬にはなかった種類の疲れだ。だが、嫌いではない。疲れは眠りを連れてきて、眠りは明日を同じ高さで迎えるための床になる。
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朝、争水板の前に新しい「声」があった。「上流で名板が倒れた」。風でだ、と書いてある。藍珠はすぐに柄隊を動かし、名板を起こさせ、背貼りの銅縁の緩みを締めた。縫い目は無事だった。無事であることが、人の背を再び伸ばす。起き上がった名板の前で、老女が手を合わせ、「倒れるなら、先に言って」と笑った。笑いは、夏の朝には珍しい。珍しい笑いは、板の前で生まれる。板は、剣ではできないことをする。
水見番の列は今日も続き、砂時計の砂は今日も落ち続ける。上流の若者は、昨日よりも少し柔らかい顔で角木を上げ、下流の若者は、昨日よりも少し固い足で砂時計の影を跨いだ。争水板の焦げ跡は、日に焼かれて少し薄くなった。薄くなっても、そこに“ある”。あることが、秤の皿に重さをつける。
昼過ぎ、凛耀からの密書が届いた。「王弟派、北の城で飢えが深い。夏の前に決着を急ぐ」。白風の境界の縄印の外で、別の“争い”が動く気配。外の火は、内の水を揺らす。楓麟が風を聞き、「風下は乾き、風上は溢れる」ともう一度呟いた。王は地図の端に、小さく朱で書いた。「旗と畦の秤を重く」。夏の秤は、まだ均されきってはいない。だが、秤の針は、剣の切っ先ではない。針は、誰かの指に触れて、揺れるたびに、音を小さく変える。
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夕暮れ。畦の端に立つ水見番が、星を映した砂時計を見つめている。砂は、昼の白から夜の銀に色を変え、落ちる音をさらに静かにする。彼の背中に、同じ柄を持った若者が立つ。柄は重い。重いが、二人で持てば軽い。交代見張りのふたりは、今日も互いの堰で同じ桶を運び、同じ砂の音を聞き、同じ焦げ跡を見た。
争水は続く。誰かが声を上げ、誰かが刻み、誰かが砂を合わせ、誰かが焦げ跡を指でなぞる。剣は抜かれない。抜かれない剣は、鞘の中で静かに呼吸をしている。呼吸の回数は、名の列の点の数と同じだけ増え、減り、また増える。水は眠らない。けれど、ゆっくりする。ゆっくりする時間を、人が支える。支える手の数が増えるほど、剥がされた声は、火にならずに、焦げ跡へと留まる。焦げ跡が残る板の前で、子どもが指で線をなぞる。指は黒くなり、すぐに井戸の水で洗われる。洗われて、黒は薄まる。薄まっても、指は“覚えている”。
夏の夜気は、白石列の旗を鳴らし、名板の銅縁に星を落とし、争水板の端に残る焦げ跡を淡く照らした。王は回廊の影からそれを見届け、静かに息を吸った。吸った息の分だけ、秤の皿が揺れ、揺れはやがて、静かに止まる。止まった皿の上に、明日の砂時計がまた置かれる。砂粒は、たくさんの“ひとつ”だ。たくさんの“ひとつ”が、名を消さずに、畦を焼かずに、明日を分ける。



