夏至の前夜は、風の輪郭が鋭かった。昼の名残の熱が石畳の目地に沈み、夜気はそこからゆっくりと吸い上げられていく。城下の灯は普段より少しだけ背を引き、静けさの綾は薄い布のようにほどけずに留まっていた。――だからだろう、火床の脇の足音と、板を裂く乾いた音が、思いのほか遠くまで通ったのは。

 最初に見つけたのは、巡回の老女だった。灯をかざして紙を読み上げる癖がある。声に出して名をなぞると、知らない名も身内の骨のように感じられるからだと、本人は言う。その夜も、彼女は点線の列の前で指の腹を紙に滑らせていた。ざらり、と皮膚にひっかかる異物の気配。灯を近づける。薄線の名が並ぶ板の中央に、黒い「×」が浮かび上がった。油で塗られている。切り口は浅くない。乾いた斜めの線が、二度、交差している。

 老女は息を吸い込み、「火」と言いかけて、言葉を飲み変えた。「人を呼んで」。その一拍が、夜の静けさを守った。市兵が駆けつけ、狼煙番の少年が塔に光をなぞり、火床の火が一段上がる頃には、人垣ができていた。誰かが泣いた。誰かが怒鳴った。誰かが黙って、紙の端の震えを押さえた。黒い「×」は、名という名の真ん中を、わざと避けている。個人を刺すのではない。列そのものの意味を壊す刃だ、と誰かが低く言った。

 夜明けまでに板の周囲は縄で囲まれ、油の匂いは布で押さえられた。切られた木の繊維が薄明かりに白く立ち上がる。そこに、夏至の朝焼けが入りはじめる。紙の黒と木の白の境目が、ゆっくりと色を持ちはじめる時間帯に、評議が開かれた。

     ◇

 法務の新任代行は、紙束を机に置く音まで整えていた。「名への冒涜は国法の根を切る行為です」と言い、厳罰の条を示した。字は真っ直ぐ、余白は狭い。冬に「断頭台を立てない」と王が決めて以来、法務は言葉の角度を慎重に選ぶ癖がついたが、今回ばかりは選ぶべき言葉が見えやすいのだ、と言外に滲む。

 商務は口を結んだ。「恐怖で市が凍ります。旬の取引は足で動きます。動く足は、怖がると止まる。止まれば配給の列が狂います」。数字の上で、恐怖は即、滞りになる。滞りは噂を呼び込む。噂は、板をもう一枚切る。

 医の館は短く報告した。「油に毒はありません。焦げ臭は麻の油。触れても皮膚は焼けない。だが匂いは残る」。匂いは記憶に残りやすい。記憶に残る匂いは、怒りの火種になる。だから「匂い」を最初に消す段取りが要る、と。

 藍珠は剣に手を置き、刀身ではなく柄の重みで、言葉に重さを足す。「刃の匂いは城外の小鍛冶。……大鍛冶の熱ではない。打ち直しを急いだ短刀の匂いだ」。刃は新しい。新しいのに、刃文は浅い。冬から潜っていた「黒衣」の線よりも、場当たりの、手近な暴力の匂いが近い。

 楓麟は窓を少し開け、風を指で裂いた。朝の南東の皮は薄く、匂いをよく運ぶ。彼はゆっくりと言う。「怒り線ではなく、“空(から)の線”だ。恨みの向きが見えない。意味を壊すための刃。名を持たぬ者の匂いがする」。

 「名を持たぬ者」。評議の空気が微かに沈む。亡命名簿にも、名の列にも、外縁にもない影。冬と春を通して、王が「消さない」と決めてきた名の輪郭の外側に、濃い空白がある。

 遥は朱筆を持ち、短く息を整えた。「断頭台のない裁きの線は守る」。その上で三段の応対を決める、と。

 ①「名板の修復を“儀”に」。板を新しくするだけでは、刃の意図に押し返す力が足りない。切られた板を洗い、継ぎ、縫い、再び掲げる。「繕いの儀」を行う。職人、書記、子ども、薄線の者、皆で糸を通す。縫い目は傷を隠さない。見える記憶にする。

 ②「刃の線を逆に辿る」。油の匂い、切り口の角度、木の繊維の割れ方。鍛冶屋の炉の灰の混じり、砥石の粉の残り。古布屋、古書肆、裏寺――冬の残火ももう一度洗う。空の線は痕跡が薄い。薄いなら、薄いまま辿る。薄さは風に近い。風は楓麟が読む。

 ③「名の護り札」。名板の縁に薄い銅板を背貼りにする。切り傷を浅くする。銅は鏡に近い。凛耀から渡された鏡の線を借りる。光で守る。刃が滑る。滑った刃は音を立てる。音は鈴になる。鈴が鳴れば、人が寄る。

 法務は口を結び直した。「儀」は法にとって「前例」になる。前例は後の線になる。――それでも、王は頷いた。前例を作る代わりに、恨みを薄める。薄めた恨みは、夏の風で飛ぶ。

     ◇

 繕いの儀の日、広場に卓が並んだ。切られた板は布の上に置かれ、油は医の館の薬師が、灰と酒と温湯で少しずつ拭った。黒は褪せる。褪せきらない部分は残る。残す。消さない、のと同じように。王は最初に針を持った。針目は粗い。粗いことは欠点ではない。誰にでも見える、ということだ。針が木に入る音は小さい。藍珠が板を押さえる手は迷いがなく、楓麟は風を板から外に流す。布の端を子どもが持ち、老女が結び目を作る。火床の向こうで狐火の書生が図を広げ、「縫い目は弱さではなく“新しい繊維”」と描いて見せる。縫い目は傷口を閉じるためだけにあるのではない。板と人の手の間に増えた線だ、と。

 「王が縫うのか」と、誰かが呟いた。呟きは笑いではない。驚きでもない。確認だ。冬から春へ、王は紙に線を引いてきた。今日は板に線を通す。朱の代わりに糸で。

 縫い終わった板の裏に、薄い銅が当てられる。銅は柔らかい。柔らかさが刃を受け、力を散らす。銅の端には小さな穴があり、そこに紐が通された。紐は藍珠が結んだ。結び目は固く、ほどく時の道筋が考えられている。結んだ者だけがほどける結び。結び目の陰で、凛耀の鏡が一度だけ光を跳ね返した。無色の旗の下、光は色を持たない。

 「傷は消えません」と、医の館の薬師が言った。「けれど、痛みは他の場所へ移る。手の中に移る。それは悪いことではない」。手の中の痛みは、行動に変わる。

 板は再び立てられた。縫い目は見える。銅の縁は薄く光る。人々はしばらく黙ってそれを見た。見て、散った。散る時の足音は、いつもより柔らかかった。

     ◇

 密偵頭は城外の鍛冶屋を一軒ずつ回った。炉の灰を見る。灰の中に小さな鉄の光が残っている店。砥石の粉が水で薄められた跡が乾ききらず残っている台。油の壺の縁の汚れ。ひとつひとつ、薄い線を拾っていく。薄い線は、太い線より手がかかる。かかる手間の分だけ、怒りは静まる。怒りが仕事に変わるのは、国のために良い。

 やがて、小鍛冶のひとりが白状した。「夜に短刀を一振り、売った。刃は薄い。急いだ。買い手は痩せていた。目が乾いていた」。乾いた目。冬に井戸の縁で見た目と同じだ、と密偵頭は思う。痩せた男は緩衝の野に入った記録が一度ある。名の列には“ない”。亡命名簿にも“ない”。「外縁」にも引っかからない。空白の中を移動してきた影。

 捕縛は、鏡から始まった。狼煙番の少年が塔から路地へ光を落とす。光は蛇のように曲がり、曲がった先で市兵が待つ。男は刃を捨てて走った。走る音が一度だけ石畳に高く響き、その先の曲がり角で止まる。市兵が肩で押さえ、紐で縛る。紐は、藍珠が織らせた新しい結び目を持っている。結んだ者だけがほどける結び。「ほどくな。結べ」と渡された紐だ。

 取り調べで、男は吐いた。「名が憎い。名のある者は重い。名のない俺は、軽い」。冬、紅月の内乱で家族を失った。春、緩衝の野で列に並んだが、板に名は載らなかった。亡命名簿に名はない。働きの札にもない。列の外側にいた。名の列の前で、何度か立ち尽くした。立ち尽くす時間は、怒りに変わる。怒りは刃の形を探す。刃は手に馴染む。馴染んだら、板を探す。板は街の中心にある。中心は、刃を望まない。

 評議室で、法務の紙が再び机に置かれた。墨の匂いが新しい。厳罰を主張する声の背中には、街を守りたい焦りがある。焦りは理解できる。理解できても、線は選び直さなければならない。

 遥は首を横に振った。「断頭台には送らない」。代わりに、名の列の端に「空白の札」を掲げる、と。そこに男の名を書くことはしない。書けないからだ。無い名は書けない。だが、無いことを「ある」と見せる。空白の札は白い。白いが、確かに「在る」。板の端の白は、視界の端のとげになる。とげは忘れさせない。忘れさせないことが、罰の一部になる。

 処分は「労役三年、名の列の保守に服す」。男は新しい名板を運び、背貼りの銅板を磨き、切られた板の縫い目をなぞる。なぞる指は、最初、震える。震えは徐々に小さくなり、やがて、別の震えに変わる。疲れの震え。疲れは悪くない。疲れは、眠りを連れてくる。眠りは、怒りを薄める。

 藍珠は彼に柄を渡さなかった。紐を渡した。「結べ。ほどくな」。男はしばらく紐を見つめ、それから頷いた。紐は刃より重いときがある。重さは、手の中で分かる。

     ◇

 繕いの儀を見ていた人々は、静かに散った。名板は傷を抱えたまま立ち、縁の銅が薄く光る。狐火の書生が子どもに縫い目の意味を教えた。「ここは、痛かった線。痛かった線は、見えると、誰かが触って、確かめられる。触ると、痛みは指へ移る。移った痛みは、次の手を細かくする」。医の館の薬師は油の拭い方を教え、古布屋の婆は銅の磨き布を配った。磨き布は、鏡に使うものと同じだ。磨くほど光る。光るほど、刃は滑る。滑った刃は音を立てる。音が立てば、人が寄る。寄れば、刃は引く。引けば、血が出ない。

 広場の片隅で、狼煙番の少年が、凛耀から渡された鏡を名板の銅縁にかざしていた。銅は鏡ほどは映らない。映らないが、光は返す。返す光の量は、磨くほど増える。少年はそれを確かめ、鏡を胸に戻した。胸の奥で、小さな誓いが鳴った気がした。鳴った誓いは、声にはしない。声にすると軽くなる。軽くなる誓いは、風で飛ぶ。飛ばないように、胸に留める。

     ◇

 夜。王宮の回廊は、夏の静けさを知っている。柱の影は短く、灯の揺れは小さい。遥は縫い目に指を当てた。木と糸、紙と銅、油の匂いと灰の粉。冬から春へ、紙で──言葉で──繋いできた線が、今日は手で繋がった。手で繋いだ線は、切れるときの音も、繋がるときの音も、耳が覚える。耳が覚えた音は、次に起こるとき、少し早く拾える。

「名板は刃を受け、縫い目で強くなる」

 楓麟が、風を聞くような声で言った。「王、あなたの線も同じだ」。冬に断頭台を立てなかった線。春に「名を消さない」と決めた線。夏に秤を置いた線。刃を受けた分だけ、縫い目が増えた。縫い目は傷ではない。傷の上の新しい繊維だ。

「消さないと誓った以上、傷も一緒に残す」

 遥は答えた。誓いは、痛みとセットだ。痛みのない誓いは、風の尻尾だけ掴んだように、するりと抜ける。痛みがあるから、重さになる。重さは、旗の布目を厚くする。厚い布目は、夏の風で鳴る。

 藍珠がそこへ来て、縫い目の間に指を差し入れ、糸の張りを確かめた。「ほどけない」。短く言って、柄の背で板の足元を押した。揺れない。揺れないものは、人の背を伸ばす。

     ◇

 翌日から、城下のいくつかの名板に、薄い銅の縁が付いた。付けられた銅は新しいが、磨き方はすぐに古くなる。子どもが布で円を描き、薄線の者が角を押さえ、老女が結び目を触る。名板は皆の手の高さで、少しずつ光る。

 「護り札」の導入は市の噂を一つ消し、別の噂を一つ生んだ。「銅は金になる」。狐火の書生が即座に図を貼った。「銅は銅。塩は塩。薄い銅は刀を滑らせ、薄い塩は器を軽くする」。笑いが起き、子が「塩度桶」を思い出して走る。走る足音の向こうで、商務が数字を弾き、工営は銅板の輸送経路を短くし、医の館は銅の手触りの衛生を説明した。名板の周りに集まるものの種類は増えた。増えながら、軽くなった。軽くなったことは、良いことだ。

 密偵頭は「空の線」の把握を続けた。亡命名簿の外縁でもなく、薄線にも掛からず、春の仕事の割付表にも触れていない影。裏寺、古書肆、古布屋――冬から春にかけて炙り出した穴は、夏の光で逆に見えにくくなる。見えにくいものは、触りかたを変える。彼は「噂線」「金線」「怒り線」をいったん外し、足の線に戻した。足の線――市兵が自分の足で歩き、顔を覚え、匂いを覚える線。匂いは風が運ぶ。風は楓麟が読む。読む音に合わせて、足が曲がる。

 捕らえられた男は、最初の十日は無言で銅を磨いた。磨くほどに指の腹が金属の薄い冷えに馴染み、磨いた面に自分の顔が歪んで映る。その歪みを見て、男は少しだけ背を丸めた。十五日目、彼は初めて自分から言葉を発した。「名は重い」。誰にともなく言った。その言葉は、風に乗らず、板の中へ吸い込まれた。

 労役の間、藍珠は彼に刃を触らせなかった。紐だけ。紐で結ぶ作業は、刃より時間がかかる。時間がかかる作業は、怒りの息切れを先に連れてくる。息の上がりは、怒りの降りだ。降りれば眠りが来る。眠りは、怒りを薄める。

     ◇

 夏至の風が白石列の旗を鳴らす日、名板の銅縁は薄く月を映した。昼の熱を逃がしきった石が、夜の光を受ける。繕いの儀の縫い目は、少しずつ板の色に馴染んでいる。馴染みながら、見え続けている。見え続ける傷は、嘘にならない。

 「空白の札」は白い。書かれたものは何もない。だが、白は確かに“ある”。子どもが問う。「ここには、何の名があるの?」 狐火の書生が答える。「ない名が、ある」。子は首を傾げ、板の他の場所の文字を指でなぞる。なぞった指が少し黒くなる。黒は油ではなく、紙の煤だ。煤は簡単に拭える。拭える煤と拭えない傷。その違いを、子どもは指で覚える。

 王は遠くからそれを見ていた。名を消さないと決めた時、名の外側に「空白」があることも抱え込むことになるとは、分かっていたはずだ。分かっていても、目の前に立つ白は、予想よりも重い。重いものを持ち上げる時、人は息を意識する。息を意識した瞬間、体に線が通る。線が通ると、手が動く。

 「夏本番だ」

 楓麟が風を聞き、言った。白石会盟は夏至まで。旗は終わりへ向かって立っている。終わりは始まりの合図でもある。会盟が解ければ、また別の線が要る。水の線、畦の線、病の線、噂の線。外からは紅月内乱の余波。内では収穫期の前の「水争い」。秤の皿は増える。増える皿の高さを揃える仕事は、冬の剣より、春の鍬より、夏の紙より、難しいかもしれない。

 藍珠は柄の背で板の足元を軽く叩いた。「立っている」。短く言って、旗を仰いだ。「旗は増やしたら、倒す日も決める」。旗が立っているだけで安心するのは、春までだ。夏は、倒す日取りを決め、倒し方を決める。倒したあとの土の整えを決める。決める人間の肩を、誰が軽くするか。柄隊がいる。畦頭がいる。狼煙番がいる。書記がいる。医の館がいる。密偵がいる。……王がいる。

 遥は名板の縫い目から指を離し、机上の地図に「草の線」の細い点をもう一本足した。点は、夏の風で少しだけ揺れた。揺れは、見えるほどではない。見えない揺れは、体で感覚される。肩を少しだけ上げ下げして、息を整える。整えた息の分だけ、夜の静けさが厚くなる。厚くなった静けさは、城下の細い路地の、誰かの眠りを深くする。深くなった眠りの朝、粥の器が一杯だけ厚くなる。厚くなった一杯で、誰かが刃ではなく紐を手にする。

 名板の刃は、そこで止まった。止まったのは、偶然ではない。偶然に見えるほど、皆が少しずつ手を使った。針、紐、布、鏡、砂時計、帳簿。刃を持たない道具ばかりだ。刃の代わりに持ったものは、すぐには血を止めない。けれど、次の血を遠ざける。遠ざかった血のにおいの隙間から、夏の月が薄く光った。

 白石の旗は鳴り、名板の銅縁は月を返し、空白の札は白いまま“ある”。夏はここから重くなる。重くなるから、手順がいる。手順は人の手の数だけ用意される。――次に来るのは、収穫期直前の「水争い」と、紅月内乱の波だ。線を守る外交と、名を守る内政。二つの秤の皿に、王は両手を広げ、同時に重みを受けるだろう。縫い目は増える。増えた縫い目は、国の呼吸の回数に等しくなる。呼吸が続く限り、名は消えない。