南東風は、日に三度、質感を変えた。朝は洗いたての布のように軽く、昼には鍋の湯気のように湿り、夕べには舌の奥で塩の粒を探すような重さを帯びる。風の変わり目ごとに、薄紅平原の畦で粟の穂の色がわずかに違い、ある区画では、まだ夏至の前だというのに首が垂れはじめていた。畦の土は春に積んだ草の鱗を内側から押し上げ、指で押すと、細かい水が指紋の間から静かに戻った。
工営司が政務卓の上に広げた地図は、冬の線と春の線の上に、さらに細い「夏の印」が重ねられている。畦の間に描かれた点の集合は、水見番の砂時計が落とした時間の跡だ。そこに、工営司の若い官が新たな札を重ねた。
「この二つの区画が、日当たりと水回しの加減で早穂(わせほ)となっています。ここは病の淀み候補でもあるので、畦間を広げて風を通す作業を先に。逆に、こちらは陰が残りやすいので、風は後回し。――試し刈りを入れて、粒の充ちを確かめたい」
彼は朱の点で「試し刈り」の場所を二つ、印した。点は小さいのに、机のまわりの呼吸がほんの少し深くなる。穂は腹に近い。腹は心に近い。
「早穂の噂は、風より速い」
楓麟が、塔から戻ったばかりの衣の裾を払って言った。風の匂いをまとっている。南東。湿りを運ぶ。今夜は水の音が畦の下で厚くなる、と彼は続ける。
「未熟の穂を生で食えば、腹を壊す」
医の館の医官が短く刺すように言った。短い言葉ほどあとからじわりと広がる。政務卓に居並ぶ者たちの背筋が、目に見えないほどわずかに伸びた。
「試し刈りは、秤で行う」
遥は朱筆を持ち、「秤」の字を紙の端にそっと置いた。字は小さく、線はまっすぐだ。
◇
夜、風は予告通りに湿りを増した。灯の列の外側、畦の影が二重になって重なるころ、人影が一つ、膝を曲げ、指先で穂を毟った。毟る音は小さかった。草の擦れる音に紛れて、誰の耳にも届かないほどに。数本、また数本。籠の底に当たる粒の音が、一度だけ乾いた。見張りの犬が低く唸り、すぐに黙った。畦の土は、足音を吸い込んで記憶し、朝にだけそれを浮き上がらせる。
翌朝。名板の前で、村の女が膝をついて泣いた。名板の端は春に王の手で立てられたままの高さで、よく磨かれている。指でなぞると滑り、ささくれはない。そこに結ばれた紐の先の札が、風にからからと鳴っていた。鳴る音は、さびしい。
「誰かが、うちの畦に入った。穂が、ない」
女の声は大きくなかった。けれど、名板の前で響く言葉は、壁から壁へ伝わるように長く残る。薄線の若者が柄を握り締め、指の骨が白く浮いた。彼の名は春に狼煙台で鏡を習い、今は畦の端で砂時計を持つひとりだ。
「穂盗みは重罪に」
法務の新任代行は、評議に入るなり札を打った。札は角が鋭く、音も硬い。机の上で跳ね、隣の札の影をほんの少し食う。
「飢えの線が薄れた今、重罪は反発を招く」
商務は反対の札を出した。字は細かく、桁が並ぶ。春の帳尻を丁寧に合わせてきた手先は、夏の「欲」の線に敏感だ。
「未熟穂は腹を悪くする。罰より、先に守る」
医の館は短い紙を一枚、札の隙間に滑り込ませた。
「誰かが腹と心の両方で急いだ」
楓麟が風を聞くように言った。焦りは匂いになる。夜の畦にその匂いは確かに残っていた、と。
遥は、静かに息を吸って吐き、朱筆の先で新しい短冊を指した。
「早穂の秤を置く」
白い紙に、細い字が並んだ。
①「試し刈り札」――畦頭に一日五束までの試し刈りを許す札を配る。束には村の印と日付を結ぶ。束は秤の皿に、札は帳の皿に。
②「石臼の前貸し」――試し刈りは生で食べず、王宮の小臼で挽く。挽いた粉は湯で練り、配給所で配る。生の“味見”ではなく“秤の味見”を。
③「夜の畦番」――市兵ではなく、畦の持ち主と薄線の者が交代で見回る。携えるのは柄のみ。狼煙番が鏡で順番を合図する。
「秤を置く。怒りは秤に乗せる」
王の朱は、最後に短くそう書き足されていた。
◇
昼。畦の端に畦頭たちが集まった。腰札に「畦頭」の墨が新しく、背には藍珠の筆による短句「刃より柄の訓(おしえ)」が滲んでいる。砂時計は直射を避けるため、布の影に置かれ、朝の一刻を合わせてから、今度は「試し刈りの砂」を落とす。砂が落ち切るだけの時間。刈るのは五束。それ以上は、刈らない。
刈った穂は細い縄で縛り、村の印と今日の日付を結びつける。印は畦の木札の名と照応し、今日という「時」とひとつの束になる。畦頭が細い腕の子に束を渡し、子が走って小臼の前へ運ぶ。藍珠は剣を背に回し、柄で子の背の高さを測るようにして渋滞を捌いた。医の館の薬師が小臼の横に立ち、湯の温度を見て、石杵の動きを合図する。小臼は冬に紅月の市で見かけた軽い鉄輪の技術を模した新しい柄がつき、握る手に馴染む。
小臼で挽いた粉は、湯で練られて粥になる。粥は薄い。しかし、それは未熟穂の「生」の味より確実に腹に優しい。配給所では医の館の指示で子どもと病人に先に配り、次に畦頭の札に従って村へ一杯ずつ戻す。狐火の本を書いた書生が板の前に立ち、「未熟穂と腹の図」を掲げた。未熟の粒の断面と、腹の絵。子が笑い、大人が笑い、けれど目は図を見ている。笑いは理解の音だ。
工営司の若い官は、石臼の前に小さく秤を置いた。棒秤。棒の目盛は浅く、目立たない。目立たないのに、皿が傾けばそれだけで人は納得する。皿が傾く理由を言葉にしないで済むのは、夏の疲れを減らす。
◇
緩衝の野から来た若者が、配給の列の端で手を挙げた。肩の裏の日焼けが新しい。目はまっすぐだが、言葉が喉で躓く。
「うちの村では、『初穂祭』で王の名を呼ぶのが習いだ。……ここでも、呼ばせてほしい」
藍珠の眉がほんのわずかに動いた。冬、黒衣が「名」を祈りに使って線を溶かした記憶は、薄くはなっていない。祈りは、線の上に乗せるものであって、線そのものではない。混ざると、線は足場を失う。
楓麟は風を聞き、若者の言葉の中の「習い」の匂いを嗅いだ。それは悪意の匂いではなかった。故郷の井戸の縁に座って唱えた、短い言葉の匂いだ。
「祭ではなく、『報せ』として」
遥は答えた。名板の前で、束をひとつ置き、名を読み上げる。誰の名も消さない。誰の名も、増やさない。短く、静かに。声は大きくしない。誰かの祈りが誰かの耳を押しつぶさないように。
「名板の前の初穂」
楓麟が言葉を整えた。板に書けば、言葉は形になる。形は道具になる。道具は使い方で刃にも柄にもなる。
若者は深く頭を下げ、「報せ」のやり方をもう一度確かめてから、名板の前に立った。束を置き、名をひとつ、読み上げる。声はかすかに震えたが、長くはなかった。震えは短いほど、胸に届く。
◇
夜。畦番の初日。市兵ではなく、畦の持ち主と薄線の者が交代で巡る。腰には砂時計と小さな鈴、手には柄だけ。狼煙番の少年が塔の上で鏡を揺らし、順番の合図を送る。光は短く、音は鈴に変わり、鈴の音は草に吸い込まれて、畦の下で眠る。
名板の影で、小さな影が動いた。狼煙番の少年の鏡がそれを拾い、短い光が畦頭の足元に落ちる。畦頭は柄を持って近づいた。柄の先で地面を一度だけ軽く打つ。打つ音は、声より早く「ここに人がいる」と伝える。
影は縮こまり、やがて泣きながら立ち上がった。緩衝の野から来た年若い女で、手には毟った未熟穂がひと握り。目の下の皮膚は薄く、声は擦れている。
「子が泣いた。粥の列が長く、待てなかった」
畦頭は喉の奥まで上がってきた怒りを飲み込んだ。飲み込むと、胃が熱くなる。熱は悪いものではない。熱は、言葉を短くする。
「小臼へ」
畦頭はそれだけ言い、女を連れて歩いた。彼の背の「刃より柄の訓」の文字が夜露を吸って濃くなっている。小臼の灯は低く、鍋の湯はまだ温かい。医の館の薬師が目だけで問い、畦頭は短く頷いた。未熟穂は臼に落とされ、湯で練られ、器に入る。女は両手で器を受け取り、口覆い布を顎までずらして、一息に飲んだ。飲む音は静かで、遠くの旗の布の擦れる音と混じった。
「秤は、人の腹の前に置く」
翌朝、王は掲示板に短い紙を貼った。紙は細く、文字は少ない。
〈待てない腹がある。だから“秤”で先に分ける。秤を守れ。守れば、秋に重く返る〉
紙は風に揺れ、名板の前で老女が頷いた。点線で囲まれた名の下に置いた小さな草花が、朝の光で色を取戻している。
◇
秤が置かれると、噂の風は方向を変えた。誰かが夜に毟った穂は小臼に向かい、小臼の前で「今日の分」の砂が落ちる。昼には、試し刈り札の束が市兵小屋に戻ってきて、帳簿の薄い行に「印」「日」の朱が並ぶ。商務は改めて数字を弾き、「粥の器を一割、薄くせずに済む」と書いた。医の館は「腹の図」の横に「秤の図」を貼り、狐火の書生がまた笑われながら、重ねた二つの皿の絵のバランスを指で示した。
夜の畦番は、最初の三日は鈴がよく鳴った。四日目からは、鈴は合図以外では鳴らなくなった。鳴らない鈴は、見張りの目と同じだ。鳴るときだけ鳴る。鳴らないことが仕事のほとんど。鳴らない音に、人は安心する。
薄線の若者は巡回の合間に鏡を磨いた。夜でも、星の光を拾えると教わったからだ。磨く手の動きは、砂時計を返す手と似ている。同じ手が、違うものの時間を整える。彼はその感触を胸に仕舞い、次の巡回へ移った。
◇
その裏で、遠い丘の上に薄い煙が立った。紅月の北の城の方向。凛耀からの密書が、夜のうちに楓麟のもとへ届く。
〈王弟派、北の城で飢え始める。夏の前に決着を急ぐ気配。兵の腹は鳴る。鳴る腹は境界を揺らす。白石の列は、旗だけでなく、粥の匂いでも揺れる〉
楓麟は王に密書を渡し、風の向きと合わせた。「外の火は、火そのものの熱より、腹の熱を運ぶ。早穂の秤は、外と内の両方に効く」
遥は砂時計を見つめた。昼の砂は遅く、夜の砂は速い。砂は同じでも、空気の皮が違う。彼は朱で「旗と畦の秤を重く」と書き足し、無色の旗のもとに市兵の臨時小屋をひとつ増やす札を出した。帳簿の写しは二部。ひとつは白風、ひとつは紅月の灰旗へ。透明であることが、境界の布の強さになる。
◇
畦の昼は、熱く静かだった。石臼の前に積まれた早穂の束には村の印がそれぞれ結ばれている。印の形はさまざまだ。丸、角、波。印の形を見るだけで、どの畦頭が先に刈ったか、どの村が一日を早起きしたか、目が追える。印は、名の短い影だ。
その日の午後、藍珠は柄隊の畦頭たちを回って短く声をかけた。
「柄は重い。重いから、肩を替えろ。替える順番を、砂で決める」
彼の声は率直で、削ぎ落とされている。率直な声は、夏に向いている。余韻が残らないからだ。残らない余韻の代わりに、人は手を動かす。
工営司の若い官は、畦間の風を通す作業の印を「病の淀み」の地図に重ねた。風は見えないが、草の鱗が風を見せる。葉の裏が返る回数を数え、そこに小さな矢印を置く。矢印は子どもにも読める。矢印を読む子は、風の道を足で覚える。
◇
日が落ちて、畦番の鈴の音がまたひとつ、空に溶けた。狼煙番の少年は塔の上で鏡を胸から少し浮かせ、夜の星の位置を探った。星は少ない。夏の星は、見える時と見えない時の差が大きい。差は練習で埋める。埋めるために、少年は目を細め、息を止め、鏡の角度をほんの少しだけ変えた。遠くの畦頭の腰の鈴が、短く返事をする。
畦の外れで、小さな足音が立ち止まった。畦頭が柄をひとつ打つ。打つ音に、もうひとつ、短い音が重なる。柄の先をほんの少し下げ、影を「見える場所」へ誘導する。影はふらりと揺れ、名板の前へ出た。緩衝の野の年若い女――昨夜の女ではなかった。抱いた子が熱で泣き、口覆い布が湿っている。
「小臼へ」
畦頭は、またそれだけ言った。女は泣きながら頷く。泣く声は昨夜より静かだった。静かな泣き声は、誰かの眠りを奪わない。奪わない眠りの積み重ねは、翌朝の働きを太くする。
◇
翌朝、掲示板の前で、老女がふと紙に手を伸ばした。王の短い紙――〈待てない腹がある。だから“秤”で先に分ける。秤を守れ。守れば、秋に重く返る〉――の角を、指先で押さえる。押さえた指はしわと節で固く、しかし動きは柔らかい。
「重く返る、ねえ」
老女は独り言のように言い、点線で囲まれた名の下の草花を整えた。整える手つきは、畦の草の鱗に似ている。整えられた花は少しだけ背を伸ばし、名の影が短くなった。影が短くなるのは、夏だ。
◇
評議の席で、法務はなお「重罪」の札を手元に置いていた。紙の端に爪の跡が薄く残っている。数字の光を整えていた商務は、今度はその札の位置を目で測り、医の館は蒸し布の絵をさらに簡素にした。彼らはそれぞれ、自分の「重さ」を秤の皿に少しずつ載せ直している。
「秤は、皿が同じ高さにある時にだけ『平ら』に見える」
楓麟がぽつりと言った。王は頷き、「皿の高さを先に決める」と朱で書く。皿は「旗」と「畦」だ。旗の皿は無色のもとに置かれる。畦の皿は草の線の内側に置かれる。皿の間で、粥の器が行き来する。器の底は薄くならないように。薄くすると、噂が底から入る。
「秤の前で、声を大きくするな」
藍珠が言い、紙の端に短く残した。秤の場所は、声より重い。
◇
昼過ぎ、工営司の若い官が白石列の南端へ走る。放牧民の列が「草の線」の手前で止まり、牛の舌が草の匂いを探している。畦の補強に回す束の印が、昨日より増えていた。印は石の上に白い粉のように積もり、風で飛ばない。印が増えると、放牧民の年長の目尻の皺が細くなる。細くなる皺は、声の角を丸くする。
「この線のこちらは、畦の草。向こうは大地の草。――昨日の約は、今日も有効」
藍珠が草縄を足で軽く押し、年長が頷く。頷くとき、牛がひとつ、鼻を鳴らした。鼻の音は湿っていて、夏の音だ。
◇
午後、王は小臼の前に立ち、子どもが杵を押すのを見守った。杵の柄は軽く、子の手でも上下できる。それでも、疲れる。疲れるから、順番に押す。順番は砂時計で決める。砂が落ちる間に押す。落ちたら、次へ。砂の音はしない。音がしないから、誰かのために耳を空けておける。
狐火の書生が、子に問われた。
「味が薄い」
「薄いものは、腹で濃くなる。腹が濃くなれば、目が濃くなる。目が濃くなれば、線が見える」
書生は、描いた図の「腹」の部分を指で叩いた。叩く音は小さい。子は笑い、笑った口の端に白い粥の跡がついた。跡は手で拭かれ、布に移る。移った白は、夕べに洗われて消える。消えるものと消えないものの区別を、夏の布はうまく教える。
◇
夜。狼煙番の少年は、塔の上で一度だけ自分の名前を口の中で繰り返した。名は声にすれば重くなる。重い名は、夜の風に落としにくい。落としにくいから、次の合図を間違えない。彼は鏡を少し傾け、畦番の腰の鈴に光を落とした。鈴が鳴り、畦頭の足が動く。動く足の先で、柄が土に触れ、音の代わりに振動が指に伝わる。振動は静かに胸骨に上がり、そこで消える。消え方で、畦の湿りが分かる。
畦の陰、名板の影にひざまずく影は今夜はなかった。なかった、という事実は、誰も知らない。知られない事実は、夏の夜の良いニュースだ。良いニュースは声にならない。声にならないものの積み重ねが、人の顔を少し柔らかくする。
◇
三日目の朝、名板の前に、緩衝の野から来たもう一人の若者が立っていた。彼は亡命名簿の外縁に名を持つ。紅月の板からは剥がされ、白風の亡命名簿にはある。名の列の本体には、まだない。彼は畦の仕事を手伝ってきたが、今朝は、立ち尽くしていた。
「俺は、ここに“ある”のか」
彼は誰にともなく言った。王は彼を評議室へ招き、机の上に三枚の板を置いた。〈白風の名の列〉〈亡命名簿〉〈春の仕事の割付表〉。板はそれぞれ、木の色が違う。匂いも違う。触れたときの音も違う。
「板は三つ。お前は三つに“ある”。紅月の板から剥がれた名は、ここでは剥がさない。……だが、名は“働き”で濃くなる。働きが薄い名は、風で剥がれる。お前はどの板で、自分の名を濃くする」
若者は唇を噛み、やがて、「畦で」と答えた。藍珠が静かに頷き、柄を差し出す。柄は重い。重いものを両手で受けるとき、人は目を細くする。細くした目は、線を見分けるのがうまくなる。
◇
午後、「名板の前の初穂」の報せが、小さく始まった。束をひとつ置き、名をひとつ読む。読む声は長くない。長くない声は、隣の畦にも届く。届いた声は、同じ長さで返ってくる。返ってくる声を数えると、畦の数が分かる。数は、灯の数と合う。合えば、秤の皿は横になる。
凛耀から、白石の縄印を渡ってまた小さな紙が届いた。
〈王弟派の城の粥が薄くなる。初穂の報せは聞こえない。夏の前に、彼らは旗を倒すか、旗の布を燃やすか、どちらかを選ぶだろう。こちらの“現実派”は、秤の布を厚くする。白風の秤は、鏡に映る〉
楓麟は紙を読み、風の向きを確かめ、「南東の皮が薄くなった」と言った。皮が薄い日は、言葉が遠くまで飛ぶ。飛ぶ言葉は、良い言葉でなければならない。悪い言葉は、遠くで毒になる。
「初穂の報せは、名を消さない。……それでよい」
王は短く言い、紙の端に「報せ」と朱で重ねた。重ねた朱は、二度目でも濃くならない。もともと濃いからだ。
◇
夕方、小臼の前で、石杵を押す子の肩が笑った。笑った肩に、太陽の光が斜めに刺さる。影が長くなり、旗の下で、鈴が鳴った。鳴った鈴の音は、畦の外からではなく内からだ。畦頭が走る。名板の前で、薄線の若者が柄を胸に当て、少し震えている。彼の足元には束が一本、落ちていた。束には印がない。印がない束は、秤に乗らない。
「印を忘れた」
若者は言い、顔を伏せた。顔の皮膚が夏の汗で赤い。
「忘れたものは、今書く」
畦頭は短く言い、彼の手を取って名板の前に連れて行った。板の端に細い紙を結び、村の印の簡略を教える。線を一本、丸を半分。線と半分の丸。印は、すぐに真似できるように作られている。真似ることは、学ぶことだ。盗むことではない。盗むことと学ぶことの間には、秤がある。秤の皿に手を置けば、違いは指に伝わる。
◇
夜。静かな風。旗の布は乾き、白石は冷え、畦の草は夜露を吸った。緩衝の野の端で、柄の列が静かに夜道を巡る。彼らの背は広くなり、腰札は汗で暗くなっている。鈴は鳴らない。鳴らない夜の音は、良い音だ。良い音は、記憶に残らない。残らないもののほうが、翌日の手を軽くする。
盗みは消えてはいない。夜の草の影は、人の影をいくつも隠す。けれど、秤が置かれ、怒りが薄まり、名板の前の「報せ」が小さく灯る。灯は一つずつで、風に揺れる。揺れる灯の下で、老女が立ち止まり、紙に触れる。点線の名は点線のまま。だが、その線は薄くない。薄くない線は、誰かの眠りを支える。
夏は重い。重いから、手順がいる。手順は紙に書かれ、砂で測られ、旗の下で交換される。手順を守れば、崩れない。崩れない夜は、朝の粥の器を一杯だけ厚くする。その一杯の厚みが、外の火を遠ざける。腹の火は境界を揺らす。腹の火を秤に乗せる。乗せた火は、粥の湯気に変わる。
遥は、塔の陰から畦を見下ろし、砂時計の影が夜に短くなっていくのを見守った。砂は落ちる。落ちることをやめない。落ちる砂の数は、数えなくてよい。数えない代わりに、人は順番を守る。順番は誰かの名を濃くする。濃くなった名は、風で剥がれない。
旗は鳴り、白石は黙し、畦は立つ。秤は机の上にも畦の端にも置かれ、誰かの息に合わせてわずかに揺れる。揺れる秤を見つめる目は、冬のはじめよりずっと濃くなっていた。濃くなった目は、噂を遠ざける。遠ざかった噂の隙間から、夏の星がひとつ、薄く光った。
夏至の夜が近づいている。白石会盟の旗は、終わりへ向かって立っている。終わりへ向かって立つ旗の下で、人々は始まりのための重さをそれぞれの肩に分け合い、柄を握り、砂を返し、名を読み、秤をのぞきこんだ。軽すぎるものを軽いままにせず、重すぎるものを重いままにしない。その間にあるほんのわずかな「平ら」が、国の呼吸になっていく。
その呼吸は、一つひとつの畦の上で、夜通し続いていた。明け方、狼煙番の少年が最後の合図を塔から送る。小さな光が畦の上で跳ね、鈴が一度だけ鳴った。鳴った鈴の音は、国のどこにも響かなかった。響かなかったのに、確かに、そこにあった。翌朝の粥の器の厚みとして。名板の前の老女の頷きとして。緩衝の野の若者の柄の重みとして。――そして、白石の沈黙として。
工営司が政務卓の上に広げた地図は、冬の線と春の線の上に、さらに細い「夏の印」が重ねられている。畦の間に描かれた点の集合は、水見番の砂時計が落とした時間の跡だ。そこに、工営司の若い官が新たな札を重ねた。
「この二つの区画が、日当たりと水回しの加減で早穂(わせほ)となっています。ここは病の淀み候補でもあるので、畦間を広げて風を通す作業を先に。逆に、こちらは陰が残りやすいので、風は後回し。――試し刈りを入れて、粒の充ちを確かめたい」
彼は朱の点で「試し刈り」の場所を二つ、印した。点は小さいのに、机のまわりの呼吸がほんの少し深くなる。穂は腹に近い。腹は心に近い。
「早穂の噂は、風より速い」
楓麟が、塔から戻ったばかりの衣の裾を払って言った。風の匂いをまとっている。南東。湿りを運ぶ。今夜は水の音が畦の下で厚くなる、と彼は続ける。
「未熟の穂を生で食えば、腹を壊す」
医の館の医官が短く刺すように言った。短い言葉ほどあとからじわりと広がる。政務卓に居並ぶ者たちの背筋が、目に見えないほどわずかに伸びた。
「試し刈りは、秤で行う」
遥は朱筆を持ち、「秤」の字を紙の端にそっと置いた。字は小さく、線はまっすぐだ。
◇
夜、風は予告通りに湿りを増した。灯の列の外側、畦の影が二重になって重なるころ、人影が一つ、膝を曲げ、指先で穂を毟った。毟る音は小さかった。草の擦れる音に紛れて、誰の耳にも届かないほどに。数本、また数本。籠の底に当たる粒の音が、一度だけ乾いた。見張りの犬が低く唸り、すぐに黙った。畦の土は、足音を吸い込んで記憶し、朝にだけそれを浮き上がらせる。
翌朝。名板の前で、村の女が膝をついて泣いた。名板の端は春に王の手で立てられたままの高さで、よく磨かれている。指でなぞると滑り、ささくれはない。そこに結ばれた紐の先の札が、風にからからと鳴っていた。鳴る音は、さびしい。
「誰かが、うちの畦に入った。穂が、ない」
女の声は大きくなかった。けれど、名板の前で響く言葉は、壁から壁へ伝わるように長く残る。薄線の若者が柄を握り締め、指の骨が白く浮いた。彼の名は春に狼煙台で鏡を習い、今は畦の端で砂時計を持つひとりだ。
「穂盗みは重罪に」
法務の新任代行は、評議に入るなり札を打った。札は角が鋭く、音も硬い。机の上で跳ね、隣の札の影をほんの少し食う。
「飢えの線が薄れた今、重罪は反発を招く」
商務は反対の札を出した。字は細かく、桁が並ぶ。春の帳尻を丁寧に合わせてきた手先は、夏の「欲」の線に敏感だ。
「未熟穂は腹を悪くする。罰より、先に守る」
医の館は短い紙を一枚、札の隙間に滑り込ませた。
「誰かが腹と心の両方で急いだ」
楓麟が風を聞くように言った。焦りは匂いになる。夜の畦にその匂いは確かに残っていた、と。
遥は、静かに息を吸って吐き、朱筆の先で新しい短冊を指した。
「早穂の秤を置く」
白い紙に、細い字が並んだ。
①「試し刈り札」――畦頭に一日五束までの試し刈りを許す札を配る。束には村の印と日付を結ぶ。束は秤の皿に、札は帳の皿に。
②「石臼の前貸し」――試し刈りは生で食べず、王宮の小臼で挽く。挽いた粉は湯で練り、配給所で配る。生の“味見”ではなく“秤の味見”を。
③「夜の畦番」――市兵ではなく、畦の持ち主と薄線の者が交代で見回る。携えるのは柄のみ。狼煙番が鏡で順番を合図する。
「秤を置く。怒りは秤に乗せる」
王の朱は、最後に短くそう書き足されていた。
◇
昼。畦の端に畦頭たちが集まった。腰札に「畦頭」の墨が新しく、背には藍珠の筆による短句「刃より柄の訓(おしえ)」が滲んでいる。砂時計は直射を避けるため、布の影に置かれ、朝の一刻を合わせてから、今度は「試し刈りの砂」を落とす。砂が落ち切るだけの時間。刈るのは五束。それ以上は、刈らない。
刈った穂は細い縄で縛り、村の印と今日の日付を結びつける。印は畦の木札の名と照応し、今日という「時」とひとつの束になる。畦頭が細い腕の子に束を渡し、子が走って小臼の前へ運ぶ。藍珠は剣を背に回し、柄で子の背の高さを測るようにして渋滞を捌いた。医の館の薬師が小臼の横に立ち、湯の温度を見て、石杵の動きを合図する。小臼は冬に紅月の市で見かけた軽い鉄輪の技術を模した新しい柄がつき、握る手に馴染む。
小臼で挽いた粉は、湯で練られて粥になる。粥は薄い。しかし、それは未熟穂の「生」の味より確実に腹に優しい。配給所では医の館の指示で子どもと病人に先に配り、次に畦頭の札に従って村へ一杯ずつ戻す。狐火の本を書いた書生が板の前に立ち、「未熟穂と腹の図」を掲げた。未熟の粒の断面と、腹の絵。子が笑い、大人が笑い、けれど目は図を見ている。笑いは理解の音だ。
工営司の若い官は、石臼の前に小さく秤を置いた。棒秤。棒の目盛は浅く、目立たない。目立たないのに、皿が傾けばそれだけで人は納得する。皿が傾く理由を言葉にしないで済むのは、夏の疲れを減らす。
◇
緩衝の野から来た若者が、配給の列の端で手を挙げた。肩の裏の日焼けが新しい。目はまっすぐだが、言葉が喉で躓く。
「うちの村では、『初穂祭』で王の名を呼ぶのが習いだ。……ここでも、呼ばせてほしい」
藍珠の眉がほんのわずかに動いた。冬、黒衣が「名」を祈りに使って線を溶かした記憶は、薄くはなっていない。祈りは、線の上に乗せるものであって、線そのものではない。混ざると、線は足場を失う。
楓麟は風を聞き、若者の言葉の中の「習い」の匂いを嗅いだ。それは悪意の匂いではなかった。故郷の井戸の縁に座って唱えた、短い言葉の匂いだ。
「祭ではなく、『報せ』として」
遥は答えた。名板の前で、束をひとつ置き、名を読み上げる。誰の名も消さない。誰の名も、増やさない。短く、静かに。声は大きくしない。誰かの祈りが誰かの耳を押しつぶさないように。
「名板の前の初穂」
楓麟が言葉を整えた。板に書けば、言葉は形になる。形は道具になる。道具は使い方で刃にも柄にもなる。
若者は深く頭を下げ、「報せ」のやり方をもう一度確かめてから、名板の前に立った。束を置き、名をひとつ、読み上げる。声はかすかに震えたが、長くはなかった。震えは短いほど、胸に届く。
◇
夜。畦番の初日。市兵ではなく、畦の持ち主と薄線の者が交代で巡る。腰には砂時計と小さな鈴、手には柄だけ。狼煙番の少年が塔の上で鏡を揺らし、順番の合図を送る。光は短く、音は鈴に変わり、鈴の音は草に吸い込まれて、畦の下で眠る。
名板の影で、小さな影が動いた。狼煙番の少年の鏡がそれを拾い、短い光が畦頭の足元に落ちる。畦頭は柄を持って近づいた。柄の先で地面を一度だけ軽く打つ。打つ音は、声より早く「ここに人がいる」と伝える。
影は縮こまり、やがて泣きながら立ち上がった。緩衝の野から来た年若い女で、手には毟った未熟穂がひと握り。目の下の皮膚は薄く、声は擦れている。
「子が泣いた。粥の列が長く、待てなかった」
畦頭は喉の奥まで上がってきた怒りを飲み込んだ。飲み込むと、胃が熱くなる。熱は悪いものではない。熱は、言葉を短くする。
「小臼へ」
畦頭はそれだけ言い、女を連れて歩いた。彼の背の「刃より柄の訓」の文字が夜露を吸って濃くなっている。小臼の灯は低く、鍋の湯はまだ温かい。医の館の薬師が目だけで問い、畦頭は短く頷いた。未熟穂は臼に落とされ、湯で練られ、器に入る。女は両手で器を受け取り、口覆い布を顎までずらして、一息に飲んだ。飲む音は静かで、遠くの旗の布の擦れる音と混じった。
「秤は、人の腹の前に置く」
翌朝、王は掲示板に短い紙を貼った。紙は細く、文字は少ない。
〈待てない腹がある。だから“秤”で先に分ける。秤を守れ。守れば、秋に重く返る〉
紙は風に揺れ、名板の前で老女が頷いた。点線で囲まれた名の下に置いた小さな草花が、朝の光で色を取戻している。
◇
秤が置かれると、噂の風は方向を変えた。誰かが夜に毟った穂は小臼に向かい、小臼の前で「今日の分」の砂が落ちる。昼には、試し刈り札の束が市兵小屋に戻ってきて、帳簿の薄い行に「印」「日」の朱が並ぶ。商務は改めて数字を弾き、「粥の器を一割、薄くせずに済む」と書いた。医の館は「腹の図」の横に「秤の図」を貼り、狐火の書生がまた笑われながら、重ねた二つの皿の絵のバランスを指で示した。
夜の畦番は、最初の三日は鈴がよく鳴った。四日目からは、鈴は合図以外では鳴らなくなった。鳴らない鈴は、見張りの目と同じだ。鳴るときだけ鳴る。鳴らないことが仕事のほとんど。鳴らない音に、人は安心する。
薄線の若者は巡回の合間に鏡を磨いた。夜でも、星の光を拾えると教わったからだ。磨く手の動きは、砂時計を返す手と似ている。同じ手が、違うものの時間を整える。彼はその感触を胸に仕舞い、次の巡回へ移った。
◇
その裏で、遠い丘の上に薄い煙が立った。紅月の北の城の方向。凛耀からの密書が、夜のうちに楓麟のもとへ届く。
〈王弟派、北の城で飢え始める。夏の前に決着を急ぐ気配。兵の腹は鳴る。鳴る腹は境界を揺らす。白石の列は、旗だけでなく、粥の匂いでも揺れる〉
楓麟は王に密書を渡し、風の向きと合わせた。「外の火は、火そのものの熱より、腹の熱を運ぶ。早穂の秤は、外と内の両方に効く」
遥は砂時計を見つめた。昼の砂は遅く、夜の砂は速い。砂は同じでも、空気の皮が違う。彼は朱で「旗と畦の秤を重く」と書き足し、無色の旗のもとに市兵の臨時小屋をひとつ増やす札を出した。帳簿の写しは二部。ひとつは白風、ひとつは紅月の灰旗へ。透明であることが、境界の布の強さになる。
◇
畦の昼は、熱く静かだった。石臼の前に積まれた早穂の束には村の印がそれぞれ結ばれている。印の形はさまざまだ。丸、角、波。印の形を見るだけで、どの畦頭が先に刈ったか、どの村が一日を早起きしたか、目が追える。印は、名の短い影だ。
その日の午後、藍珠は柄隊の畦頭たちを回って短く声をかけた。
「柄は重い。重いから、肩を替えろ。替える順番を、砂で決める」
彼の声は率直で、削ぎ落とされている。率直な声は、夏に向いている。余韻が残らないからだ。残らない余韻の代わりに、人は手を動かす。
工営司の若い官は、畦間の風を通す作業の印を「病の淀み」の地図に重ねた。風は見えないが、草の鱗が風を見せる。葉の裏が返る回数を数え、そこに小さな矢印を置く。矢印は子どもにも読める。矢印を読む子は、風の道を足で覚える。
◇
日が落ちて、畦番の鈴の音がまたひとつ、空に溶けた。狼煙番の少年は塔の上で鏡を胸から少し浮かせ、夜の星の位置を探った。星は少ない。夏の星は、見える時と見えない時の差が大きい。差は練習で埋める。埋めるために、少年は目を細め、息を止め、鏡の角度をほんの少しだけ変えた。遠くの畦頭の腰の鈴が、短く返事をする。
畦の外れで、小さな足音が立ち止まった。畦頭が柄をひとつ打つ。打つ音に、もうひとつ、短い音が重なる。柄の先をほんの少し下げ、影を「見える場所」へ誘導する。影はふらりと揺れ、名板の前へ出た。緩衝の野の年若い女――昨夜の女ではなかった。抱いた子が熱で泣き、口覆い布が湿っている。
「小臼へ」
畦頭は、またそれだけ言った。女は泣きながら頷く。泣く声は昨夜より静かだった。静かな泣き声は、誰かの眠りを奪わない。奪わない眠りの積み重ねは、翌朝の働きを太くする。
◇
翌朝、掲示板の前で、老女がふと紙に手を伸ばした。王の短い紙――〈待てない腹がある。だから“秤”で先に分ける。秤を守れ。守れば、秋に重く返る〉――の角を、指先で押さえる。押さえた指はしわと節で固く、しかし動きは柔らかい。
「重く返る、ねえ」
老女は独り言のように言い、点線で囲まれた名の下の草花を整えた。整える手つきは、畦の草の鱗に似ている。整えられた花は少しだけ背を伸ばし、名の影が短くなった。影が短くなるのは、夏だ。
◇
評議の席で、法務はなお「重罪」の札を手元に置いていた。紙の端に爪の跡が薄く残っている。数字の光を整えていた商務は、今度はその札の位置を目で測り、医の館は蒸し布の絵をさらに簡素にした。彼らはそれぞれ、自分の「重さ」を秤の皿に少しずつ載せ直している。
「秤は、皿が同じ高さにある時にだけ『平ら』に見える」
楓麟がぽつりと言った。王は頷き、「皿の高さを先に決める」と朱で書く。皿は「旗」と「畦」だ。旗の皿は無色のもとに置かれる。畦の皿は草の線の内側に置かれる。皿の間で、粥の器が行き来する。器の底は薄くならないように。薄くすると、噂が底から入る。
「秤の前で、声を大きくするな」
藍珠が言い、紙の端に短く残した。秤の場所は、声より重い。
◇
昼過ぎ、工営司の若い官が白石列の南端へ走る。放牧民の列が「草の線」の手前で止まり、牛の舌が草の匂いを探している。畦の補強に回す束の印が、昨日より増えていた。印は石の上に白い粉のように積もり、風で飛ばない。印が増えると、放牧民の年長の目尻の皺が細くなる。細くなる皺は、声の角を丸くする。
「この線のこちらは、畦の草。向こうは大地の草。――昨日の約は、今日も有効」
藍珠が草縄を足で軽く押し、年長が頷く。頷くとき、牛がひとつ、鼻を鳴らした。鼻の音は湿っていて、夏の音だ。
◇
午後、王は小臼の前に立ち、子どもが杵を押すのを見守った。杵の柄は軽く、子の手でも上下できる。それでも、疲れる。疲れるから、順番に押す。順番は砂時計で決める。砂が落ちる間に押す。落ちたら、次へ。砂の音はしない。音がしないから、誰かのために耳を空けておける。
狐火の書生が、子に問われた。
「味が薄い」
「薄いものは、腹で濃くなる。腹が濃くなれば、目が濃くなる。目が濃くなれば、線が見える」
書生は、描いた図の「腹」の部分を指で叩いた。叩く音は小さい。子は笑い、笑った口の端に白い粥の跡がついた。跡は手で拭かれ、布に移る。移った白は、夕べに洗われて消える。消えるものと消えないものの区別を、夏の布はうまく教える。
◇
夜。狼煙番の少年は、塔の上で一度だけ自分の名前を口の中で繰り返した。名は声にすれば重くなる。重い名は、夜の風に落としにくい。落としにくいから、次の合図を間違えない。彼は鏡を少し傾け、畦番の腰の鈴に光を落とした。鈴が鳴り、畦頭の足が動く。動く足の先で、柄が土に触れ、音の代わりに振動が指に伝わる。振動は静かに胸骨に上がり、そこで消える。消え方で、畦の湿りが分かる。
畦の陰、名板の影にひざまずく影は今夜はなかった。なかった、という事実は、誰も知らない。知られない事実は、夏の夜の良いニュースだ。良いニュースは声にならない。声にならないものの積み重ねが、人の顔を少し柔らかくする。
◇
三日目の朝、名板の前に、緩衝の野から来たもう一人の若者が立っていた。彼は亡命名簿の外縁に名を持つ。紅月の板からは剥がされ、白風の亡命名簿にはある。名の列の本体には、まだない。彼は畦の仕事を手伝ってきたが、今朝は、立ち尽くしていた。
「俺は、ここに“ある”のか」
彼は誰にともなく言った。王は彼を評議室へ招き、机の上に三枚の板を置いた。〈白風の名の列〉〈亡命名簿〉〈春の仕事の割付表〉。板はそれぞれ、木の色が違う。匂いも違う。触れたときの音も違う。
「板は三つ。お前は三つに“ある”。紅月の板から剥がれた名は、ここでは剥がさない。……だが、名は“働き”で濃くなる。働きが薄い名は、風で剥がれる。お前はどの板で、自分の名を濃くする」
若者は唇を噛み、やがて、「畦で」と答えた。藍珠が静かに頷き、柄を差し出す。柄は重い。重いものを両手で受けるとき、人は目を細くする。細くした目は、線を見分けるのがうまくなる。
◇
午後、「名板の前の初穂」の報せが、小さく始まった。束をひとつ置き、名をひとつ読む。読む声は長くない。長くない声は、隣の畦にも届く。届いた声は、同じ長さで返ってくる。返ってくる声を数えると、畦の数が分かる。数は、灯の数と合う。合えば、秤の皿は横になる。
凛耀から、白石の縄印を渡ってまた小さな紙が届いた。
〈王弟派の城の粥が薄くなる。初穂の報せは聞こえない。夏の前に、彼らは旗を倒すか、旗の布を燃やすか、どちらかを選ぶだろう。こちらの“現実派”は、秤の布を厚くする。白風の秤は、鏡に映る〉
楓麟は紙を読み、風の向きを確かめ、「南東の皮が薄くなった」と言った。皮が薄い日は、言葉が遠くまで飛ぶ。飛ぶ言葉は、良い言葉でなければならない。悪い言葉は、遠くで毒になる。
「初穂の報せは、名を消さない。……それでよい」
王は短く言い、紙の端に「報せ」と朱で重ねた。重ねた朱は、二度目でも濃くならない。もともと濃いからだ。
◇
夕方、小臼の前で、石杵を押す子の肩が笑った。笑った肩に、太陽の光が斜めに刺さる。影が長くなり、旗の下で、鈴が鳴った。鳴った鈴の音は、畦の外からではなく内からだ。畦頭が走る。名板の前で、薄線の若者が柄を胸に当て、少し震えている。彼の足元には束が一本、落ちていた。束には印がない。印がない束は、秤に乗らない。
「印を忘れた」
若者は言い、顔を伏せた。顔の皮膚が夏の汗で赤い。
「忘れたものは、今書く」
畦頭は短く言い、彼の手を取って名板の前に連れて行った。板の端に細い紙を結び、村の印の簡略を教える。線を一本、丸を半分。線と半分の丸。印は、すぐに真似できるように作られている。真似ることは、学ぶことだ。盗むことではない。盗むことと学ぶことの間には、秤がある。秤の皿に手を置けば、違いは指に伝わる。
◇
夜。静かな風。旗の布は乾き、白石は冷え、畦の草は夜露を吸った。緩衝の野の端で、柄の列が静かに夜道を巡る。彼らの背は広くなり、腰札は汗で暗くなっている。鈴は鳴らない。鳴らない夜の音は、良い音だ。良い音は、記憶に残らない。残らないもののほうが、翌日の手を軽くする。
盗みは消えてはいない。夜の草の影は、人の影をいくつも隠す。けれど、秤が置かれ、怒りが薄まり、名板の前の「報せ」が小さく灯る。灯は一つずつで、風に揺れる。揺れる灯の下で、老女が立ち止まり、紙に触れる。点線の名は点線のまま。だが、その線は薄くない。薄くない線は、誰かの眠りを支える。
夏は重い。重いから、手順がいる。手順は紙に書かれ、砂で測られ、旗の下で交換される。手順を守れば、崩れない。崩れない夜は、朝の粥の器を一杯だけ厚くする。その一杯の厚みが、外の火を遠ざける。腹の火は境界を揺らす。腹の火を秤に乗せる。乗せた火は、粥の湯気に変わる。
遥は、塔の陰から畦を見下ろし、砂時計の影が夜に短くなっていくのを見守った。砂は落ちる。落ちることをやめない。落ちる砂の数は、数えなくてよい。数えない代わりに、人は順番を守る。順番は誰かの名を濃くする。濃くなった名は、風で剥がれない。
旗は鳴り、白石は黙し、畦は立つ。秤は机の上にも畦の端にも置かれ、誰かの息に合わせてわずかに揺れる。揺れる秤を見つめる目は、冬のはじめよりずっと濃くなっていた。濃くなった目は、噂を遠ざける。遠ざかった噂の隙間から、夏の星がひとつ、薄く光った。
夏至の夜が近づいている。白石会盟の旗は、終わりへ向かって立っている。終わりへ向かって立つ旗の下で、人々は始まりのための重さをそれぞれの肩に分け合い、柄を握り、砂を返し、名を読み、秤をのぞきこんだ。軽すぎるものを軽いままにせず、重すぎるものを重いままにしない。その間にあるほんのわずかな「平ら」が、国の呼吸になっていく。
その呼吸は、一つひとつの畦の上で、夜通し続いていた。明け方、狼煙番の少年が最後の合図を塔から送る。小さな光が畦の上で跳ね、鈴が一度だけ鳴った。鳴った鈴の音は、国のどこにも響かなかった。響かなかったのに、確かに、そこにあった。翌朝の粥の器の厚みとして。名板の前の老女の頷きとして。緩衝の野の若者の柄の重みとして。――そして、白石の沈黙として。



