名の列の前で、老女が膝をついた。春の病の湯気が街から薄れ、用水の音が畦の間に途切れなく続き始めた矢先だった。紙の端に風が指を入れ、薄い影が一つずつ揺れる。彼女はその揺れの中から、ひとつの“点線”を探り当てた。冬の日から変わらず点のままの枠――息子の名だった。

「王よ」

 老女は呼吸を整えるように、ゆっくりと顔を上げた。頬の皺は、乾いた溝ではなかった。春の湿りでやわらかくなった土のように、水を含み、指を押しあてれば形が変わる。目は驚くほど澄んで、若い頃の顔がそこに残っているように見えた。

「点線は、心を削る」

 彼女は言った。誰も返事を急がない。名の前では、声は小さくなる。

「けれど、消さないでほしい。……消えないでくれ。点のままでいい。ここに、ある、と分かるから」

 言葉が終わるまでに、名の列の前にいた者たちが一人、また一人と息を呑んだ。吸い込む音は小さいのに、紙の前の空気が一歩、二歩と深くなる。誰かが嗚咽したわけでも、叫んだわけでもない。ただ、たしかな重さが目の前の板に乗った。

 王は、彼女の隣に膝を折った。春の路面はまだ冷たく、膝頭に石の感触がじかに伝わる。紙の縁が目の高さに近くなって、文字の黒が少し滲んで見えた。

「消さない」

 王は短く言った。言葉は短いほうが、長く残る。

     ◇

 評議室の空気は、淡い光で満ちていた。窓から差す光が机の上の札の角にあたり、紙の繊維が薄く浮かび上がる。三色の紐――赤、金、灰――は今日は卓の端に寄せられ、代わりに“名”の札の束が中央に据えられている。春に増えた名。冬から待っている名。様々な重さの紙が、同じ厚さの仮に重ねられている。

 法務の新任代行が口火を切った。彼の声は変わらず平坦だ。平坦な声は、感情の起伏に飲み込まれにくい。評議室でそれは武器だった。

「“帰還未確認”の線に上限が必要です。点線のままの名が増え続ければ、実務が滞ります。遺族給付の確定、相続の処理、畑の割付……」

 数字は理を伴う。机の上では、数字は必ず正しい顔をする。商務の官が続いた。

「薄線の家への春借免除を続ければ、財が細る。夏の市へ向けて備蓄を崩せば、秋の配分に影が落ちます」

 工営の若い官が反論した。

「薄線の者を水見番に登用し続ければ、現場が回る。彼らは“待つ”ことに耐えてきた。砂時計を見る目が安定している。堰の角木は、そういう目で見たほうがいい」

 楓麟は窓の外に耳を傾け、ゆっくりと風を吸い込んでから言った。

「名は“働き”に変わる。変える仕組みを持てば、紙の上の重しではなくなる。紙に残して、手に移す」

 藍珠は、名の列の方角を見るように視線を落とし、無言で頷いた。

 王は机の上の札を手に取り、一枚ずつ指の腹で押さえた。紙は似た顔をしていても、触れば違う。柔らかく濡れたような紙、骨のように硬い紙。人の名は、紙ごとに違う。

「夏の運用に変える」

 王は朱筆を立てた。点線・薄線・暗線――その三種の線を夏にあわせて引き直す。

「一点目。点線――『探しの札』を市の四隅に出張掲示する。狼煙番と市兵に“足の仕事”を任せる。噂線ではなく、足で探す」

 書記が素早く書き留める。筆先が紙を走る音が、夏の虫の前触れのように細かく響く。

「二点目。薄線――“夏の仕事”の優先枠を与える。井戸、畦、検塩、清め場。働きは給付に換算する。春借免除の減衰は緩め、働きで相殺する」

 商務の若い官が小さく息を吸い、その息を吐くとき、反論の角が少し丸くなっていた。

「三点目。暗線――遺族給付の確定と並行して、“畑の名板”を設置する。畦の端に立て、秋の収穫まで残す。名を立たせる」

「名板に、うちの子の名を」

 老女の声が、朝の掲示の場面と重なって王の耳の内側で響いた。一度浮かんだ声は、しばらく胸のどこかの棚に置かれる。

「名板を見に行く人の列を想定すべきです」

 法務の新任代行が即座に実務の線へ戻そうとする。楓麟が短く言葉を添える。

「列が生まれる場所には、木陰を。足場を。水を。噂ではなく、息をつく場に」

     ◇

 夏仕様の「探しの札」は、翌日には市の四隅に立った。紙ではなく板。雨で滲まないように薄い油を引き、板の角に砂紙を当てて手が切れないように丸める。狼煙番と市兵が列の管理をし、知らせが入れば朱で小さく線を引く。狼煙台で見た影、渡しで聞いた名、清め場で並んだ時の隣の顔――そのどれもが点を運ぶ。

 薄線の人々へは、「夏の仕事」の札が手渡された。井戸の周りに新しい柵を組む作業。検塩所の桶の塩を揺らし、比重の石を沈めて示す役。清め場で灰をこし、布を干す場所の風通しを整える役。仕事に“役”をつけて呼べば、名がそこに乗る。

 暗線の家には、工営の若い官が自ら足を運び、畦の端に“名板”を立てた。名板の木は、春に切り出したものを寝かせておいた。年輪がまっすぐで、虫にやられにくい木。板の下端は土に埋める前に焼いて炭化させ、腐りを遅らせる。板の上には烙印で“名”を、下には村と畦の番号を。板の余白は、風に名前を鳴らさせるための空白だ。

 名板が立つたびに、畦の空気が少し変わった。土の匂いに、文字の匂いが混ざる。刃の匂いではない。湿った紙を捲るときの匂い。そこに人が立ち止まり、手を合わせる。誰かが言葉を失い、誰かが一言だけ置いていく。置かれた言葉は、風で飛ばない。板が重しになる。

     ◇

 夏の運用が回り出した日の昼前、緩衝の野から一人の若者が、市の中へ駆け込んできた。肩に柄を斜めに引っかけ、額に汗が滲んでいる。足取りはまっすぐで、躊躇がない。彼は名の列の前で立ち止まり、声を張った。

「俺は、ここに“ある”のか!」

 声が紙の表を震わせる。通りかかった者が思わず足を止めた。若者の顔は痩せている。痩せているが、眼の奥に燃えるものがあった。燃え方は粗くはない。ひとつの色で、まっすぐに燃えている。

「紅月の板から名を剥がされた。『裏切りの名は板に要らぬ』と言われた。こっちには“亡命名簿”にしかない。名の列には、ない。俺はどこの名だ!」

 亡命明文化の折衷案――「相手国の掲示からは削除。ただし受け入れ国は“亡命名簿”に登録し、名の列の“外縁”に記す」。その“外縁”の外に、彼はいる。板にはあるが、列にはない。線の外に立つ者ほど、線を欲しがる。線は、存在の輪郭だからだ。

 王は若者を評議室に招いた。机の上に三枚の板を置く。ひとつは「白風の名の列」。ひとつは「亡命名簿」。もうひとつは「春の仕事の割付表」。板は三枚とも木だが、表情が違う。名の列の木は、長い間に手が触れた艶がある。亡命名簿の木はまだ新しく、油の匂いが濃い。割付表の木には、数え切れない印の点が、星座のように散っている。

「板は三つ」

 王は指を一本ずつ置いて示した。「お前は三つに“ある”。紅月の板から剥がれた名は、ここでは剥がさない。……だが、名は“働き”で濃くなる。働きが薄い名は、風で剥がれる。お前はどの板で、自分の名を濃くする?」

 若者は唇を噛み、目を閉じた。短い沈黙のあと、目を開く。言葉が腹から出る。

「畦で」

 藍珠が静かに頷いた。柄を差し出す。木の手触りが掌に移る。若者の指が柄を握った瞬間、肩がわずかに広がった。

「柄は重いぞ」

「重いほうがいい」

 若者の声は、細いが硬い。藍珠は目を細め、楓麟は耳を動かした。王は朱筆を取り、割付表に若者の名を書いた。紙に書く音が、決意に足場をつける。

「名は板で守る。板は働きで守る。働きは、名を守る」

 王は自分に言うように、低く繰り返した。

     ◇

 同じ日の夕刻、「名の列」に一通の書状が貼られた。封蝋に灰色の小さな紋。凛耀からだった。書は短い。

〈我が国の板で剥がされた名々に、ここで“外縁”が与えられていると聞く。感謝。内乱が収まれば、板の復旧を約す〉

 板は国の形。名は人の形。二つの“形”が橋の上で交差して、互いの影を少しだけ柔らかくする。無色の旗に反射した光が文面に薄く揺れ、読み上げる書記の声がいつもより低く響いた。

 その場に居合わせた女が、唇を噛んだ。

「約す、という言葉は、軽い」

 王は頷いた。

「軽い。軽いが、書かれている」

 書かれた言葉は、紙の上で重くなる。重くなるから、誰かがそれを持ち上げようとする。持ち上げる手があれば、約束は形になる。

     ◇

 市の四隅の「探しの札」は、予想よりも早く点を拾い集めた。狼煙番の少年は、ふもとの市場と塔の間を、鏡の光で何度も往復した。彼の光は、昼は麦の穂を、夜は口覆い布の白を拾った。市兵は札の端に貼られた小さな紙片を剥がし、新しい紙を重ねる。紙片には、雑な字で書かれた短い情報が載っていた。「昨夜、渡しでこの名を呼ぶ声」「緩衝の野の炊き場でこの傷跡」「狐火の本を持っていた少年の隣にこの名」。点は点でしかないが、集めれば線になる。線になれば、足の向きが決まる。

 薄線の人々は、夏の仕事に就いた。井戸の口で蓋の合わせ目を指の腹で確かめ、角木の札の結びを細く整え、検塩所の桶の水を静かに撹拌する。働く手は、思っていたよりも確かだった。待つことに耐えた手は、急がない。急がない手は、乱れない。

 暗線の家に立った名板は、朝夕に人を呼んだ。そこに立つ者の顔は、同じ顔ではない。泣く者だけではない。黙って板に触れ、土の匂いを吸い込んで帰っていく者が多い。板の前で、狐火の本を書いた書生が、子どもに字を教えているのを見かけることもあった。「ここに書かれた名は、どうしても読めるようになりたい」という子の一言で、書生は座り込んだ。板の影が二人の頭を柔らかく覆った。

     ◇

 夜、王宮の回廊を歩きながら、藍珠が問うた。月は細く、庭の砂利の光がわずかに濡れている。風は海の匂いをほんの少し運んでくる。

「王。いつまで“点線”を保つ?」

 王は歩みを止めず、真っ直ぐに前を見た。答えは、胸の中で深く息を吸うように、時間をかけて出た。

「答えは持たない。……けれど、剣で切れる線ではない。点線は、誰かが帰るための道だ。線にしてしまえば、帰る場所が減る」

「線にしておかないと、怒りの口実になる」

 藍珠は反対の言い方をする。反対を言って、重さを測るために。

「だからこそ、点線に“仕事”を結ぶ」

 楓麟が言葉をついだ。風の湿りは、夜の花の匂いに混じっていた。

「夏の風は直線だ。だが、人の道は点の列だ。点を線にするのは、足だけだ」

 王は轻く笑った。その笑いは、眠る前に肩を緩める者の笑いに似ている。

「点線が道であり続けるように、板を立て、札を回し、砂を落とす。……夏の間、それを続けられるかどうかだ」

「剣は?」

「畦の外で待っている」

 藍珠の答えに、楓麟がわずかに頷いた。剣が鞘にある音が、夜の静けさに溶ける。

     ◇

 翌朝、畦の端で老女が名板の前に座った。座るというより、板の影に身体を合わせた。名前の字を撫でる指は細く、節が硬い。節の硬さが、指の震えを止めていた。彼女は目を閉じ、唇を動かす。言葉は聞こえない。聞こえないから、風がそれを運ぶ。板の上に置かれた名は動かない。動かないものの前で動く唇は、祈りよりも約束に近い。

 狼煙番の少年が、その横に立った。鏡を掲げ、光を遠い塔へ送る。反射は薄いが、確かに動く。塔から返った光が畦の水面に跳ね、名板の文字が一瞬だけ白く浮く。浮いた文字は、すぐに土色に戻る。その戻り方が、安堵に似ていた。

 緩衝の野の若者は、柄を担ぎ、名の“薄い”板の前に立った。彼の背中はまだ細い。だが、柄の重みが肩に広がり、その広がりが彼の輪郭をわずかに変えた。板の前で、彼は自分の名を指で押さえた。押さえた指の圧は強くない。強すぎると、紙は破れる。紙が破れない程度の圧で、彼は自分の名の輪郭を覚えた。

 板の紙は夜風に揺れた。揺れたが、剥がれない。消えない。消えない名の重みが、夏の前に地面へゆっくり沈んでいく。沈むということは、失われることではない。根が張ることだ。名は根になる。根は、秋の風が来ても動かない。動かない根の上で、葉は揺れる。揺れる葉の影が、人の頬を撫でる。

     ◇

 「探しの札」は思いがけない線も拾った。市の外れの古い祠で、狐の石像の足元に小さな布切れが結ばれていた。布には、拙い字で一つの名が書かれている。書いたのは子どもだ。書生がその布をそっと外し、札に移した。書生は、布を結んだ子の手つきを思い浮かべながら、紙の上に丁寧に字を書いた。字は揺れていない。揺れない字は、読みやすい。

 狼煙番の少年は、塔から塔へ光を走らせる途中で、一度だけ鏡を伏せた。伏せた鏡に、自分の顔が映る。布の跡が頬に薄く残っている。彼は指で跡をなぞり、少し笑って鏡をまた掲げた。跡は、消えないほうがいい印もあるのだと、彼は思った。

 市兵の白袖は、蓋の行商の列を整理しながら、名の列の端に貼られた“病の列”の紙の角に手を触れた。紙はまだ乾いていない。乾いていない紙は、破れやすい。だからそっと押さえる。押さえる手は、刃ではない。

     ◇

 王宮へ戻る道すがら、王は畦の上を流れる水の音を聞いた。水は嘘を持たない。水路の曲がり角に、石の小さな積みがあり、草の根がそこに絡んでいる。水は一瞬だけ細くなり、すぐに太さを取り戻す。細くなることと、止まることは違う。細くなるときに、紙の上の点線もまた、細い道になる。細い道でも、足は入る。入った足の跡が、次の人の足を呼ぶ。

 王はふと、春の病の湯気を思い出した。湯気は見えにくいものを見せ、見えすぎるものを隠してくれた。湯気の中で数えた息の数が、今も胸のどこかに残っている。残っている息の数が、名の前に立つときの言葉の長さを決める。

 王は歩幅をわずかに伸ばし、塔の方へ目をやった。楓麟が、風を聞いている。藍珠が、剣を鞘に入れたまま外を見ている。彼らの姿は遠くからでも分かる。分かる姿があることが、名の列の前に立つ者の背を支える。

     ◇

 夕刻、評議室の端に置いた小さな卓に、薄い酒が一杯置かれた。書記が王の側に来て、声を落とす。

「今日、名の列に花が増えました」

「花の名は」

 王が尋ねると、書記は首を傾げて笑った。

「分かりません。採ってきた子に聞いたら、『きれい』としか」

「それでいい」

 王は笑って頷いた。花の名は、紙に書かれなくてもいい。名の列に置かれた花は、花であることで十分な名を持つ。

「凛耀からの書状、読み上げました」

 書記が続ける。「約す、の一字にざわめきはありましたが、誰も紙を破ろうとはしませんでした」

「破ろうとした手があれば、紙のほうが先にそれを覚える」

 王は酒をひと口含んだ。薄い酒の熱が喉に広がる。広がる熱は、声の出方を少し変える。

「明日、畦の名板をもう十枚、据える」

「工営司、承知しています。焼きの深い板を選ぶと」

 楓麟がどこからともなく現れ、報告する。耳の動きが静かだ。風は、南南東。

「明後日、夕立」

「水見番に伝えよう」

 藍珠は剣の柄に手を置いたまま、短く言った。「柄は重いぞ、と伝えるのを忘れずに」

「忘れない」

 王は微笑した。忘れないという言葉ほど、あやういものはない。だからこそ、紙に書き、板に打ち、砂を落とす。

     ◇

 夜、名の列の前に立つ者の影が、春の灯で長く伸びた。影は静かに動く。動かないのは板と紙だけだ。動かないものの前で、人が動く。それで十分だった。

 紙の端で、小さな声がした。朝の老女だった。彼女はまた膝をつき、同じ点線の前で手を合わせる。手が祈っているのか、約しているのかは、もうさほど問題ではなかった。点線はそこにある。消えない。消さない。消えない名の重みが、夏の前に地面へゆっくり沈んでいく。

 狼煙番の少年が遠くから鏡を掲げ、塔へ光を送った。緩衝の野の若者は柄を担ぎ、名の“薄い”板の前に立ち尽くす。彼の背中は細いが、背中の骨の間に新しい筋が一本通ったように見えた。筋は目には見えない。だが、柄はそれを知っている。柄を握る手が、それを知っている。

 紙は夜風に揺れ、剥がれなかった。板は黙って立ち、倒れなかった。名は、消えなかった。消えない名は、国の記憶を縫い止める針のように、夏の布地の端に刺さっていた。針は小さい。だが、布をほどけなくするには十分だ。ほどいてきた冬の網を、夏は別の編み目で結び直す。その編み目の一つひとつに、名がある。名がある限り、どれほど薄い線でも、道になる。

 王はその道の脇に立ち、深く息を吸った。吸った息が、胸の奥で二本に分かれ、一方が責任へ、一方が恐れへ流れる。二つの流れが、真ん中で合わさる場所がある。そこに、板を立て、紙を貼り、砂を落とす。明日も、明後日も。

 遠く、白石の列が月の光で白く浮き、灰の渡しの縄印が夜風に揺れた。境界は静かだ。静かな境界の手前で、名の列は音を立てずに重くなり続ける。重くなるということは、沈むということだ。沈む名は、地面を固くする。固くなった地面に、明日の朝、初夏の最初の影が落ちる。影の向こうに、人の歩幅が伸びる。伸びた歩幅が、点と点を繋いで、帰る道になる。点線は道だ。消えぬ名は、道の名だ。道は、どの季節の風にも消されない。