春の水の音が街の骨の隙間へ染みこみはじめたころ、城下の北端――風の直角が路地の奥で絡まる、陽の射しにくい細い道で、子どもが倒れた。冬に痩せて伸びた肋骨が薄い肌越しに数えられ、頬は熱に染まりきって、手首はあまりにも軽い。母親は何度も水を口に運ぼうとして、湯呑の縁が子の唇に触れただけで引っこみ、代わりに自分の指を濡らして額を撫でた。指の腹が熱に跳ね返される。母は声を出すのを忘れ、代わりに唇だけが絶えず動いた。
医の館から駆け付けた若い医官が、手早く脈を取り、目を開かせ、舌の色を見てから、路地の井戸の覆いに目をやった。蓋はある。だが木の合わせ目が歪んでいる。冬の乾きで縮み、春の湿りでその縮みが歪みのまま膨れて、わずかな隙が口を開けていた。
「水を少し。桶でも、鉢でもいい」
医官は静かに言い、井戸の水面に鏡で日を集め、その光をゆっくり揺らした。揺れに、光より細い影が反応する。重くはない。だが、生きている。目に見えるほど大きくはないのに、間違いなく“動き”を持っているものが、そこにいた。医官は額に汗が浮くのも構わず、子の喉の下に薄い布を挟み、薬草を煎じた湯をほんの少し、指先で潤すように口へ触れさせた。子の喉が小さく上下する。生の糸はまだ切れていない。
「医の館に運ぶ」
若い医官は担架を呼び、母親の肩を軽く押して座らせた。母はその手の重みにやっと涙を落とし、嗚咽が路地に広がった。春の風が、その嗚咽をすぐには乾かさない。湿りが、生の音をそのまま持ち運ぶ。
二日と経たず、緩衝の野でも似た症状が出た。咳と熱、腹の痛み。夜の灯の列が二重になり、鍋の火の前で布を口に当てる者が増えた。医の館の書き手が夜半に政務卓へ走り、王の机に置かれた紙の端を、震える指で叩いた。
「水かもしれません」
彼女の声は、喉でなく胸から出た。
◇
朝の評議は、久しぶりに硬い。紙が乾かず、筆が早く走れない日がある。今日がそうだった。
医の館の薬師は、まず三つ、端的に挙げた。井戸の蓋の不備。停滞水の飛沫。配給桶の衛生。どれか一つが欠けても、呼び込まないはずの病を、呼び込む。
「蓋の在庫は薄い」
工営の若い官の顔は曇った。春市で足りぬ村へ蓋を回し続け、倉の端に積んだ板材の角まで数えて抱えた在庫の“数”と、井戸の“口”の数が、合わない。
「木桶を増やします。水を汲んだあと、煮沸できるように」
商務の若い官は、力みを抑えつつ言う。数字は走りたい。だが木は育つのに時間がいる。刻み目を内皮に合わせる手も、春の数だけは急に増えない。
「噂も走る」
藍珠が短く言った。「“白風の水が病を呼ぶ”“緩衝の野の者が持ち込んだ”――敵の言葉でなくとも、誰かの怯えがこう変形する。剣で斬る相手がいないときの怒りは、噂になる」
「噂線より速いのは、目と手だ」
楓麟が耳をわずかに動かし、風の湿りを測るように言う。「見るものを見せ、触るものを触らせる」
王は頷いた。頷きながら、朱の筆を取る。冬に何度も書いた言葉は、春には短くなる。短くなるから、重くなる。
「即日、三段の対策を布告する」
彼は紙を三枚に分け、それぞれの上に太い字で書いた。
一つ、「清めの井戸」。城内外に“清め場”を設け、湯を沸かして配給桶を煮沸できるように。柴は春借から先に支給し、灰の管理は市兵。灰は、火よりも嘘を嫌う。
二つ、「蓋の行商」。春市で人気となった井戸木蓋の職人たちを小隊に分け、各区を回る“蓋の行商”として登録する。代金は後払い、王の印の札で担保する。蓋は、ふさぐためのものではない。開けるために、まず閉じる。
三つ、「口の布」。医の館が作る口覆い布(晒と麻)を緩衝の野と市に配布。狐火の本を書いた書生に図を描かせ、布の洗い方を絵物語にする。絵は、噂より早く子どもに届く。
「名の列の端に、『病の列』を仮設する」
王はさらに付け加えた。「発症者の名、住まい、接触した場所を“点線”で掲げ、誰でも見られるようにする」
法務の新任代行は、淡々と顔を上げる。
「公開は差別を呼びます」
「隠れた病は、噂になる」
王は静かに返した。「嘘より早い“知らせ”が命を救う」
彼が言い終える前に、書記が震える声で。
「誤記は命取りです」
「二重確認の朱印を増やす」
楓麟が短く指示した。「筆を増やす。遅くても、嘘より速く」
◇
清め場は、驚くほど早く立ち上がった。冬に焚いた避寒所の火の経験が、手の順序として残っている。城門近くの広場に、背の低い竃(かまど)を四つ。緩衝の野の入口に、石で囲って風よけを作り、湯が逃げないようにする。灰の桶には無色の帯。灰は、誰の色にも染まらない。灰の管理は市兵がする。灰の目も、砂時計の砂と同じように嘘を嫌う。
緩衝の野から来た男が、灰汁で桶を洗っている。昨日まで柄を肩に担いで歩いていた手だ。その手が、今は桶の縁を撫で、内側にこびりついた古い粕を灰で浮かせ、布で丁寧にこそげ落とす。狼煙番の少年がそばで口覆い布の結び方を子に教え、最後に鏡で日を跳ね返して井戸の水面を照らす。日が揺れるのに合わせて、水の表面がわずかに粟立つ。粟立つ水は、急いで飲むに向かない。口の布をした子が、目だけを大きくしてその粟立ちを見つめる。見たものは、次に忘れにくい。
藍珠は剣を背に回して、柄だけを手に持ち、配水列の順番を示す。手は荒い。だが、乱暴ではない。柄の木肌には、白石会盟の無色の布が細く巻かれている。その布が、春の光を柔らかく吸っていた。
楓麟は、清め場の煙の流れを読んだ。風を受ける障子の角度を半刻ごとに変え、煙が井戸の口へ行かないよう、流れを抜いてやる。煙は、匂いで噂を呼ぶ。匂いを縛れば、噂は弱る。
その間にも、「蓋の行商」が街角に現れた。肩に蓋を二枚ずつかついだ若い職人が、叩くのは宣伝の太鼓ではなく、槌の音。コン、コン――音の間に手が入る。合わせ目に差し込む薄い竹。蓋の縁には焼印で小さく、王の印、職人の印、そして設置した井戸の番地が記され、紙の札が一枚、台帳へ留められる。代金は後払い。札が担保する。札の裏に、手触りでわかる細い筋が入っている。狐火の本の紙と同じ、子どもが触れて覚えられる目印だ。
口の布の配布所では、晒の白と麻の薄い茶が、春の空に小旗のように揺れている。書生が図板の前に立ち、「鼻から顎まで隙間なく」「濡れたら替える」「洗うときは揉まずに押し洗い」と、丸い字で書いた紙芝居をめくる。文字の周りを、子どもの絵が囲む。笑っている顔、布で隠れて目だけになった顔、布を洗う手。布は、顔を隠すためでなく、顔を守るためにある。書生はそれを何度も言った。
「布で顔を隠すと、顔がなくなる?」
小さな子が訊いた。書生は首を振った。
「布の向こうに、顔があるって分かるように、目をまっすぐにするんだ。目をまっすぐにすると、嘘は目から落ちる」
◇
布告から一日――「病の列」が掲示板の端に立った。名、住まい、接触場所。すべて“点線”で囲まれ、朱の二重確認印が押されている。紙の上の点線は、軽い。軽いが、消えていない。その下に、小さく「消息を知らせた者へ春借の免除一日」と添えてある。知らせることは、責めることではない。
掲示の前で、王は立った。長くは喋らない。喋らないで済むなら、それに越したことはない。だが、噂が口を開く前に、言葉で先に口を塞ぐべき時がある。
「名は剥がさない」
王は紙の端に指を置いた。「けれど、名を罵るな。病は刃ではない。刃を向けるな」
ざわめきが広がる。群衆の中の女が、布で口を覆いながらうなずく。男が目を逸らして肩をすくめる。どちらも悪ではない。どちらも恐れの形だ。
王は井戸の前に立ち、蓋を外し、口の布を自分の顔にかけた。汲み上げた水を鍋に移し、火にかけ、沸騰を待つ。鍋の縁に小さな泡が立ち、やがて大きな泡が踊る。踊る泡は、見ている人の心に少し空気を入れる。空気が入れば、言葉は少し遅く出る。遅く出る言葉は、鋭くない。
目の前で煮沸した水を、王は一口、二口。口の布を外して、群衆のほうを見た。布の跡が頬に横一文字に残る。その跡だけで十分だった。誰かが息を吐き、誰かが自分の口の布を縛り直す。見せることは、命令より重い。
それでも、噂は別の口から生まれる。「白風の水が病を呼ぶ」「緩衝の野が持ち込んだ」。黒衣の残火は、火は小さくとも、灰の奥で熱を残している。商人の口、酒場の隅、路地の影――言葉は影を選ぶ。影の中で培われた言葉は、光の中へ出ると歪む。歪んだ言葉が、別の影を探して歩き出す。
楓麟は風を聞き、噂線がどこで太くなるかを地図の上に印した。噂が太る場所は、いつも決まっている。待ち時間の長い場所。列のある場所。顔と顔の間に、言葉が溜まる場所。そこへ市兵の白袖を回し、清め場の煙を少し流し込み、狐火の本の新しい紙芝居を持ち込む。噂は進路を変える。変えた先に、砂時計の音のない落ち方を見せる。
◇
二日が過ぎた。発症の波が、ほんの少し下がりはじめた。清め場の煙の匂いが市の空気に混ざり、口の布が当たり前になっていく。布を忘れた者には、子どもが「これ」と差し出すようになる。子が差し出す布は、命令ではない。差し出された布を受け取る大人の指が、少しだけ震える。震える指の震えは、怒りの震えではない。怖さの震えだ。怖さを自分で言葉にできない時、布が言葉の代わりになる。
それでも、死者は出た。医の館は死者の名を「名の列」に小さく、だが確かに加えた。冬の名の隣に、春の名が増える。季節は、名の種類を選ばない。王はその前に立ち、筆を置いた。置いた筆に、肩の重さが溜まる。筆は、重さを吸う。吸った重さを、紙に移す。紙は、見ている人のなかに、重さを静かに配る。配られた重さに、恨みが混じらないように――それが王の仕事だった。
夜、清め場の湯が静かに沸く。鏡が星を薄く映し、湯気がその星を一瞬だけ乱す。湯気に包まれた楓麟が、風を聞いて言った。
「噂線は弱まった」
藍珠が短く笑う。
「剣を抜かずに守れた」
「剣を抜かないで済む戦は、長く続けられる」
王は湯気の中で目を閉じ、明日も名が増えるかもしれない恐れを、秤にかけるように静かに受け止めた。恐れを認めることは、逃げることではない。恐れを隠せば、噂になる。恐れを言葉にすれば、秤に乗る。秤に乗るものは、重さを測れる。
◇
翌朝、医の館の中庭で、薬師と書生が並んで立っていた。薬師は瓶を、書生は紙芝居を持っている。二人の間に子どもが十人、布を口に当て、目を覗かせている。
「これが、停滞水にいる虫の卵」
薬師が瓶を光に透かす。薄い影が、光といっしょに揺れる。揺れは、子どもの胸の奥に落ちる。落ちた揺れは、夜、眠りの間に形を結ぶ。形を結んだものが、明日の朝、井戸の蓋の前で手を動かす。
「布は、洗う。布は、乾かす。布は、しわを伸ばす」
書生が紙芝居をめくる。「しわが残ると、そこに病が残る」
「お母ちゃんの手、しわが多い」
子の一人が、布越しに言った。笑いがこぼれる。書生は首を振り、笑った。
「手のしわは、いい。働いたしわだ。布のしわは、直す。働く前に直す」
笑いが少し広がり、緊張が細くほどける。ほどけたものは、次に結び直しやすい。
緩衝の野の清め場で、昨日まで怒りを胸の奥に丸めていた男が、鍋の灰汁で桶を洗いながら、ひとりごとのように言った。
「俺は刃より、柄を長く持っている」
「柄のほうが、肩に来る」
そばを通った藍珠が笑って返す。
「肩は広くなる」
男は自分の肩に手を置き、真剣な顔で頷いた。その仕草の真面目さが、周囲の空気を落ち着かせる。真面目な仕草は、噂より早い。
◇
「病の列」には、ぼろ布のような言葉が吊るされる危険があった。“病の名”の横に、“悪い名”の影が貼りつく。法務の新任代行は毎朝、掲示の前に立って、貼り紙の端を指で撫でていた。破られていないか。上書きされていないか。名の線が濃くなりすぎて、罰の線に変わっていないか。彼は“淡々”という彼自身の武器で、掲示を守った。
ある朝、掲示の前で年老いた女が立ち尽くしていた。薄線で囲われた名が、昨日「点線」から移ったばかりだ。女の目は紙の上で動かず、ただ潤んでいる。王は女の横に立ち、同じ紙を見た。
「この名は、狼煙台の少年が見たと言った」
王が言うと、女は顔を上げた。目の水が、指の節を一本ずつ濡らす。
「帰ってくるか」
「分からない」
王は嘘を言わなかった。「分からないから、ここに書く。薄い線で、『帰還未確認』と」
女は、紙の端をそっと撫でた。その指の触れ方が、名の上の空気を温める。温められた空気は、紙の裏を伝って、別の名の字にも温かさを分ける。分けられた温かさは、死者の名にも届く。
◇
噂は、残り火になった。それでも火は火だ。城下の酒場で、薄い声がひそひそと燃え上がる。緩衝の野の外れで、背中の曲がった男が舌打ちをする。白風の水は病を呼ぶ――誰かの恐れを借りた言葉が、なめらかに口から出る。口の中で磨かれて、いかにも本当のような顔をする。
その夜、王は酒場の裏で、板切れ二枚を並べた。ひとつに「噂」、もうひとつに「知らせ」。板に水を垂らし、片方は布で拭かずに放置。もう片方は布で拭き取り、火のそばに立て掛けた。しばらくして、放置した板の水は汚い筋を残し、拭いた板は乾いて、木目が浮き上がる。浮き上がった木目は、皿のように美しかった。酒場の裏口に立って見ていた男が、鼻を鳴らし、すくめた肩を少し下ろした。見せることは、噂を殺すのではない。噂が生きられない場所を増やすのだ。
◇
夜半、王宮の塔の上。風が、湯気の残り香を運び、星の光が鏡に薄く跳ねる。楓麟が耳を動かし、しばらく黙ってから言った。
「噂線は、弱い。水の線は、太い。明日も、砂を落とす」
「落ちるものは、落ちる」
藍珠が欄干に肘を置いて空を見上げる。「落ちるものを、見ていればいい時がある」
「落ちないものを、見ていなければいけない時もある」
王は「名の列」の紙の手触りを思い浮かべる。紙は落ちない。落ちないものを持つ手は、震える。震える手を、砂の落ちる音で支える。支え合うのは、柄と刃ではない。柄と砂だ。
塔の陰から、狼煙番の少年が小さく手を振った。彼は鏡を掲げ、星の光を遠い塔へ返す。昼間の鏡は水面を、夜の鏡は星を――どちらも、見せたいものを正直に映す。
「明日、清め場の竃をひとつ増やす」
王は言った。「灰の在庫は、春借で……」
「足りぬ時は、足りぬと書く」
楓麟が笑った。王も笑い、短く頷いた。その短さで、塔の上の空気が少し温かくなる。温かくなった空気が、梯子を伝って、下の回廊へ落ちる。落ちた温かさは、夜勤の書記の肩を温める。温められた肩の上で、筆が少しだけ滑らかに走る。滑らかに走る筆が、誤記をひとつ減らす。
◇
翌日、緩衝の野の端で、ひとりの男が「病の列」の板を見上げていた。板の上に、“彼の名”はない。彼は安堵の息を吐き、その息の最後に、誰にともなく小さく謝った。隣に立っていた若い女が、その息の音を聞き、布で口を覆ったまま言った。
「名がないのは、助かったということ」
「名があるのも、助かるということ」
男が言った。女は一瞬、目を丸くして、それから頷いた。頷いたとき、布が頬から少し離れ、そこに薄い跡が残った。
彼らの足元で、清め場の湯が沸く。灰の匂いは、冬の焚き火の匂いよりも軽い。軽い匂いは、長く続く。長く続く匂いが、日々の習慣になる。
◇
“疫の戸口”は、静かに閉まりつつあった。戸というのは、風でいきなり閉まるものではない。軋む音を立て、誰かの手のひらの温度を覚え、少しずつ角度を変える。角度が変わるたびに、内と外の空気が入れ替わり、匂いが混ざり、息が深くなる。戸を閉めるのは、押す手だけではない。引く手もいる。支える肩もいる。見ている目もいる。
名の列の端に、「病の列」はまだ立っている。立っていること自体が、噂より強い。立っている紙の前で、誰かが花を置き、誰かが布を縛り直し、誰かが砂時計を覗き込む。覗き込む目は、剣の刃を見る目と違う。違う目の持ち主は、明日の朝、井戸の蓋の前で、いつもより少し早く手を伸ばすだろう。その手の動きが、ひとつの噂を遅らせ、一人の子の熱を下げる。
夜の清め場で湯が静かに沸き続け、鏡が星を薄く映し続ける。楓麟は風を聞き、藍珠は剣を抜かずに見張り、王は名の前で目を閉じる。目を閉じて、秤の皿に、恐れと責任を一緒に載せる。載せた皿が、真ん中に戻るまで、息を数える。息の数え方を国中が覚えたとき、噂は遅れ、病は遅れ、生は、季節とともに前へ進む。
湯気の向こうで、狼煙番の少年が、小さな声で数を数えていた。砂が落ちるのに合わせて、一、二、三――。その声は夜風に混ざり、白石の列の方へ渡っていく。白石は黙っている。黙っている石の側で、私たちは生の音を少しずつ整え、戸口を静かに閉じていく。戸の向こうには、夏の気配。戸のこちらには、まだ名の列。名は消さない。だから、戸は開けられる。明日の朝のために。
医の館から駆け付けた若い医官が、手早く脈を取り、目を開かせ、舌の色を見てから、路地の井戸の覆いに目をやった。蓋はある。だが木の合わせ目が歪んでいる。冬の乾きで縮み、春の湿りでその縮みが歪みのまま膨れて、わずかな隙が口を開けていた。
「水を少し。桶でも、鉢でもいい」
医官は静かに言い、井戸の水面に鏡で日を集め、その光をゆっくり揺らした。揺れに、光より細い影が反応する。重くはない。だが、生きている。目に見えるほど大きくはないのに、間違いなく“動き”を持っているものが、そこにいた。医官は額に汗が浮くのも構わず、子の喉の下に薄い布を挟み、薬草を煎じた湯をほんの少し、指先で潤すように口へ触れさせた。子の喉が小さく上下する。生の糸はまだ切れていない。
「医の館に運ぶ」
若い医官は担架を呼び、母親の肩を軽く押して座らせた。母はその手の重みにやっと涙を落とし、嗚咽が路地に広がった。春の風が、その嗚咽をすぐには乾かさない。湿りが、生の音をそのまま持ち運ぶ。
二日と経たず、緩衝の野でも似た症状が出た。咳と熱、腹の痛み。夜の灯の列が二重になり、鍋の火の前で布を口に当てる者が増えた。医の館の書き手が夜半に政務卓へ走り、王の机に置かれた紙の端を、震える指で叩いた。
「水かもしれません」
彼女の声は、喉でなく胸から出た。
◇
朝の評議は、久しぶりに硬い。紙が乾かず、筆が早く走れない日がある。今日がそうだった。
医の館の薬師は、まず三つ、端的に挙げた。井戸の蓋の不備。停滞水の飛沫。配給桶の衛生。どれか一つが欠けても、呼び込まないはずの病を、呼び込む。
「蓋の在庫は薄い」
工営の若い官の顔は曇った。春市で足りぬ村へ蓋を回し続け、倉の端に積んだ板材の角まで数えて抱えた在庫の“数”と、井戸の“口”の数が、合わない。
「木桶を増やします。水を汲んだあと、煮沸できるように」
商務の若い官は、力みを抑えつつ言う。数字は走りたい。だが木は育つのに時間がいる。刻み目を内皮に合わせる手も、春の数だけは急に増えない。
「噂も走る」
藍珠が短く言った。「“白風の水が病を呼ぶ”“緩衝の野の者が持ち込んだ”――敵の言葉でなくとも、誰かの怯えがこう変形する。剣で斬る相手がいないときの怒りは、噂になる」
「噂線より速いのは、目と手だ」
楓麟が耳をわずかに動かし、風の湿りを測るように言う。「見るものを見せ、触るものを触らせる」
王は頷いた。頷きながら、朱の筆を取る。冬に何度も書いた言葉は、春には短くなる。短くなるから、重くなる。
「即日、三段の対策を布告する」
彼は紙を三枚に分け、それぞれの上に太い字で書いた。
一つ、「清めの井戸」。城内外に“清め場”を設け、湯を沸かして配給桶を煮沸できるように。柴は春借から先に支給し、灰の管理は市兵。灰は、火よりも嘘を嫌う。
二つ、「蓋の行商」。春市で人気となった井戸木蓋の職人たちを小隊に分け、各区を回る“蓋の行商”として登録する。代金は後払い、王の印の札で担保する。蓋は、ふさぐためのものではない。開けるために、まず閉じる。
三つ、「口の布」。医の館が作る口覆い布(晒と麻)を緩衝の野と市に配布。狐火の本を書いた書生に図を描かせ、布の洗い方を絵物語にする。絵は、噂より早く子どもに届く。
「名の列の端に、『病の列』を仮設する」
王はさらに付け加えた。「発症者の名、住まい、接触した場所を“点線”で掲げ、誰でも見られるようにする」
法務の新任代行は、淡々と顔を上げる。
「公開は差別を呼びます」
「隠れた病は、噂になる」
王は静かに返した。「嘘より早い“知らせ”が命を救う」
彼が言い終える前に、書記が震える声で。
「誤記は命取りです」
「二重確認の朱印を増やす」
楓麟が短く指示した。「筆を増やす。遅くても、嘘より速く」
◇
清め場は、驚くほど早く立ち上がった。冬に焚いた避寒所の火の経験が、手の順序として残っている。城門近くの広場に、背の低い竃(かまど)を四つ。緩衝の野の入口に、石で囲って風よけを作り、湯が逃げないようにする。灰の桶には無色の帯。灰は、誰の色にも染まらない。灰の管理は市兵がする。灰の目も、砂時計の砂と同じように嘘を嫌う。
緩衝の野から来た男が、灰汁で桶を洗っている。昨日まで柄を肩に担いで歩いていた手だ。その手が、今は桶の縁を撫で、内側にこびりついた古い粕を灰で浮かせ、布で丁寧にこそげ落とす。狼煙番の少年がそばで口覆い布の結び方を子に教え、最後に鏡で日を跳ね返して井戸の水面を照らす。日が揺れるのに合わせて、水の表面がわずかに粟立つ。粟立つ水は、急いで飲むに向かない。口の布をした子が、目だけを大きくしてその粟立ちを見つめる。見たものは、次に忘れにくい。
藍珠は剣を背に回して、柄だけを手に持ち、配水列の順番を示す。手は荒い。だが、乱暴ではない。柄の木肌には、白石会盟の無色の布が細く巻かれている。その布が、春の光を柔らかく吸っていた。
楓麟は、清め場の煙の流れを読んだ。風を受ける障子の角度を半刻ごとに変え、煙が井戸の口へ行かないよう、流れを抜いてやる。煙は、匂いで噂を呼ぶ。匂いを縛れば、噂は弱る。
その間にも、「蓋の行商」が街角に現れた。肩に蓋を二枚ずつかついだ若い職人が、叩くのは宣伝の太鼓ではなく、槌の音。コン、コン――音の間に手が入る。合わせ目に差し込む薄い竹。蓋の縁には焼印で小さく、王の印、職人の印、そして設置した井戸の番地が記され、紙の札が一枚、台帳へ留められる。代金は後払い。札が担保する。札の裏に、手触りでわかる細い筋が入っている。狐火の本の紙と同じ、子どもが触れて覚えられる目印だ。
口の布の配布所では、晒の白と麻の薄い茶が、春の空に小旗のように揺れている。書生が図板の前に立ち、「鼻から顎まで隙間なく」「濡れたら替える」「洗うときは揉まずに押し洗い」と、丸い字で書いた紙芝居をめくる。文字の周りを、子どもの絵が囲む。笑っている顔、布で隠れて目だけになった顔、布を洗う手。布は、顔を隠すためでなく、顔を守るためにある。書生はそれを何度も言った。
「布で顔を隠すと、顔がなくなる?」
小さな子が訊いた。書生は首を振った。
「布の向こうに、顔があるって分かるように、目をまっすぐにするんだ。目をまっすぐにすると、嘘は目から落ちる」
◇
布告から一日――「病の列」が掲示板の端に立った。名、住まい、接触場所。すべて“点線”で囲まれ、朱の二重確認印が押されている。紙の上の点線は、軽い。軽いが、消えていない。その下に、小さく「消息を知らせた者へ春借の免除一日」と添えてある。知らせることは、責めることではない。
掲示の前で、王は立った。長くは喋らない。喋らないで済むなら、それに越したことはない。だが、噂が口を開く前に、言葉で先に口を塞ぐべき時がある。
「名は剥がさない」
王は紙の端に指を置いた。「けれど、名を罵るな。病は刃ではない。刃を向けるな」
ざわめきが広がる。群衆の中の女が、布で口を覆いながらうなずく。男が目を逸らして肩をすくめる。どちらも悪ではない。どちらも恐れの形だ。
王は井戸の前に立ち、蓋を外し、口の布を自分の顔にかけた。汲み上げた水を鍋に移し、火にかけ、沸騰を待つ。鍋の縁に小さな泡が立ち、やがて大きな泡が踊る。踊る泡は、見ている人の心に少し空気を入れる。空気が入れば、言葉は少し遅く出る。遅く出る言葉は、鋭くない。
目の前で煮沸した水を、王は一口、二口。口の布を外して、群衆のほうを見た。布の跡が頬に横一文字に残る。その跡だけで十分だった。誰かが息を吐き、誰かが自分の口の布を縛り直す。見せることは、命令より重い。
それでも、噂は別の口から生まれる。「白風の水が病を呼ぶ」「緩衝の野が持ち込んだ」。黒衣の残火は、火は小さくとも、灰の奥で熱を残している。商人の口、酒場の隅、路地の影――言葉は影を選ぶ。影の中で培われた言葉は、光の中へ出ると歪む。歪んだ言葉が、別の影を探して歩き出す。
楓麟は風を聞き、噂線がどこで太くなるかを地図の上に印した。噂が太る場所は、いつも決まっている。待ち時間の長い場所。列のある場所。顔と顔の間に、言葉が溜まる場所。そこへ市兵の白袖を回し、清め場の煙を少し流し込み、狐火の本の新しい紙芝居を持ち込む。噂は進路を変える。変えた先に、砂時計の音のない落ち方を見せる。
◇
二日が過ぎた。発症の波が、ほんの少し下がりはじめた。清め場の煙の匂いが市の空気に混ざり、口の布が当たり前になっていく。布を忘れた者には、子どもが「これ」と差し出すようになる。子が差し出す布は、命令ではない。差し出された布を受け取る大人の指が、少しだけ震える。震える指の震えは、怒りの震えではない。怖さの震えだ。怖さを自分で言葉にできない時、布が言葉の代わりになる。
それでも、死者は出た。医の館は死者の名を「名の列」に小さく、だが確かに加えた。冬の名の隣に、春の名が増える。季節は、名の種類を選ばない。王はその前に立ち、筆を置いた。置いた筆に、肩の重さが溜まる。筆は、重さを吸う。吸った重さを、紙に移す。紙は、見ている人のなかに、重さを静かに配る。配られた重さに、恨みが混じらないように――それが王の仕事だった。
夜、清め場の湯が静かに沸く。鏡が星を薄く映し、湯気がその星を一瞬だけ乱す。湯気に包まれた楓麟が、風を聞いて言った。
「噂線は弱まった」
藍珠が短く笑う。
「剣を抜かずに守れた」
「剣を抜かないで済む戦は、長く続けられる」
王は湯気の中で目を閉じ、明日も名が増えるかもしれない恐れを、秤にかけるように静かに受け止めた。恐れを認めることは、逃げることではない。恐れを隠せば、噂になる。恐れを言葉にすれば、秤に乗る。秤に乗るものは、重さを測れる。
◇
翌朝、医の館の中庭で、薬師と書生が並んで立っていた。薬師は瓶を、書生は紙芝居を持っている。二人の間に子どもが十人、布を口に当て、目を覗かせている。
「これが、停滞水にいる虫の卵」
薬師が瓶を光に透かす。薄い影が、光といっしょに揺れる。揺れは、子どもの胸の奥に落ちる。落ちた揺れは、夜、眠りの間に形を結ぶ。形を結んだものが、明日の朝、井戸の蓋の前で手を動かす。
「布は、洗う。布は、乾かす。布は、しわを伸ばす」
書生が紙芝居をめくる。「しわが残ると、そこに病が残る」
「お母ちゃんの手、しわが多い」
子の一人が、布越しに言った。笑いがこぼれる。書生は首を振り、笑った。
「手のしわは、いい。働いたしわだ。布のしわは、直す。働く前に直す」
笑いが少し広がり、緊張が細くほどける。ほどけたものは、次に結び直しやすい。
緩衝の野の清め場で、昨日まで怒りを胸の奥に丸めていた男が、鍋の灰汁で桶を洗いながら、ひとりごとのように言った。
「俺は刃より、柄を長く持っている」
「柄のほうが、肩に来る」
そばを通った藍珠が笑って返す。
「肩は広くなる」
男は自分の肩に手を置き、真剣な顔で頷いた。その仕草の真面目さが、周囲の空気を落ち着かせる。真面目な仕草は、噂より早い。
◇
「病の列」には、ぼろ布のような言葉が吊るされる危険があった。“病の名”の横に、“悪い名”の影が貼りつく。法務の新任代行は毎朝、掲示の前に立って、貼り紙の端を指で撫でていた。破られていないか。上書きされていないか。名の線が濃くなりすぎて、罰の線に変わっていないか。彼は“淡々”という彼自身の武器で、掲示を守った。
ある朝、掲示の前で年老いた女が立ち尽くしていた。薄線で囲われた名が、昨日「点線」から移ったばかりだ。女の目は紙の上で動かず、ただ潤んでいる。王は女の横に立ち、同じ紙を見た。
「この名は、狼煙台の少年が見たと言った」
王が言うと、女は顔を上げた。目の水が、指の節を一本ずつ濡らす。
「帰ってくるか」
「分からない」
王は嘘を言わなかった。「分からないから、ここに書く。薄い線で、『帰還未確認』と」
女は、紙の端をそっと撫でた。その指の触れ方が、名の上の空気を温める。温められた空気は、紙の裏を伝って、別の名の字にも温かさを分ける。分けられた温かさは、死者の名にも届く。
◇
噂は、残り火になった。それでも火は火だ。城下の酒場で、薄い声がひそひそと燃え上がる。緩衝の野の外れで、背中の曲がった男が舌打ちをする。白風の水は病を呼ぶ――誰かの恐れを借りた言葉が、なめらかに口から出る。口の中で磨かれて、いかにも本当のような顔をする。
その夜、王は酒場の裏で、板切れ二枚を並べた。ひとつに「噂」、もうひとつに「知らせ」。板に水を垂らし、片方は布で拭かずに放置。もう片方は布で拭き取り、火のそばに立て掛けた。しばらくして、放置した板の水は汚い筋を残し、拭いた板は乾いて、木目が浮き上がる。浮き上がった木目は、皿のように美しかった。酒場の裏口に立って見ていた男が、鼻を鳴らし、すくめた肩を少し下ろした。見せることは、噂を殺すのではない。噂が生きられない場所を増やすのだ。
◇
夜半、王宮の塔の上。風が、湯気の残り香を運び、星の光が鏡に薄く跳ねる。楓麟が耳を動かし、しばらく黙ってから言った。
「噂線は、弱い。水の線は、太い。明日も、砂を落とす」
「落ちるものは、落ちる」
藍珠が欄干に肘を置いて空を見上げる。「落ちるものを、見ていればいい時がある」
「落ちないものを、見ていなければいけない時もある」
王は「名の列」の紙の手触りを思い浮かべる。紙は落ちない。落ちないものを持つ手は、震える。震える手を、砂の落ちる音で支える。支え合うのは、柄と刃ではない。柄と砂だ。
塔の陰から、狼煙番の少年が小さく手を振った。彼は鏡を掲げ、星の光を遠い塔へ返す。昼間の鏡は水面を、夜の鏡は星を――どちらも、見せたいものを正直に映す。
「明日、清め場の竃をひとつ増やす」
王は言った。「灰の在庫は、春借で……」
「足りぬ時は、足りぬと書く」
楓麟が笑った。王も笑い、短く頷いた。その短さで、塔の上の空気が少し温かくなる。温かくなった空気が、梯子を伝って、下の回廊へ落ちる。落ちた温かさは、夜勤の書記の肩を温める。温められた肩の上で、筆が少しだけ滑らかに走る。滑らかに走る筆が、誤記をひとつ減らす。
◇
翌日、緩衝の野の端で、ひとりの男が「病の列」の板を見上げていた。板の上に、“彼の名”はない。彼は安堵の息を吐き、その息の最後に、誰にともなく小さく謝った。隣に立っていた若い女が、その息の音を聞き、布で口を覆ったまま言った。
「名がないのは、助かったということ」
「名があるのも、助かるということ」
男が言った。女は一瞬、目を丸くして、それから頷いた。頷いたとき、布が頬から少し離れ、そこに薄い跡が残った。
彼らの足元で、清め場の湯が沸く。灰の匂いは、冬の焚き火の匂いよりも軽い。軽い匂いは、長く続く。長く続く匂いが、日々の習慣になる。
◇
“疫の戸口”は、静かに閉まりつつあった。戸というのは、風でいきなり閉まるものではない。軋む音を立て、誰かの手のひらの温度を覚え、少しずつ角度を変える。角度が変わるたびに、内と外の空気が入れ替わり、匂いが混ざり、息が深くなる。戸を閉めるのは、押す手だけではない。引く手もいる。支える肩もいる。見ている目もいる。
名の列の端に、「病の列」はまだ立っている。立っていること自体が、噂より強い。立っている紙の前で、誰かが花を置き、誰かが布を縛り直し、誰かが砂時計を覗き込む。覗き込む目は、剣の刃を見る目と違う。違う目の持ち主は、明日の朝、井戸の蓋の前で、いつもより少し早く手を伸ばすだろう。その手の動きが、ひとつの噂を遅らせ、一人の子の熱を下げる。
夜の清め場で湯が静かに沸き続け、鏡が星を薄く映し続ける。楓麟は風を聞き、藍珠は剣を抜かずに見張り、王は名の前で目を閉じる。目を閉じて、秤の皿に、恐れと責任を一緒に載せる。載せた皿が、真ん中に戻るまで、息を数える。息の数え方を国中が覚えたとき、噂は遅れ、病は遅れ、生は、季節とともに前へ進む。
湯気の向こうで、狼煙番の少年が、小さな声で数を数えていた。砂が落ちるのに合わせて、一、二、三――。その声は夜風に混ざり、白石の列の方へ渡っていく。白石は黙っている。黙っている石の側で、私たちは生の音を少しずつ整え、戸口を静かに閉じていく。戸の向こうには、夏の気配。戸のこちらには、まだ名の列。名は消さない。だから、戸は開けられる。明日の朝のために。



