南東からの風は、日ごとに水の匂いを濃くした。白石会盟で線が言葉に固定されても、季節は固定されない。薄紅平原の畦(あぜ)の間で、夜明け前にだけ聞こえた細い水音が、昼にも、夕にも、寝静まった真夜中にも、段々と厚みを持って響くようになった。土がふやけ、草の根が柔らかくほどけ、砂利の間を通る水の息が、耳の奥を撫でてくる。
王宮の政務卓は、しばらく前から「水」に占領されていた。冬のあいだ、机の上を出入りしていたのは「粟」「塩」「灯」「札」「柄」といった字の束だった。それが今は、「用水路」「堰」「水車」「停滞水」「蚊」「薬草」「砂時計」。紙の角は泥の指で丸まり、朱の印は水気で少し滲む。机の端に置かれた三つの札に、太い字で「上流村」「中流村」「下流村」と書かれている。紙の裏には薄く、別の季節の字が透けて見えた。生き延びた字は、次の季節の背骨になる。
「ここを一寸落として、こっちは半寸上げます」
工営司の若い官が、用水路の縮尺図の上で指を二本、交差させた。指先に小さな傷がある。彼も畦に降りたのだ。紙の上の線だけでは、水は動かない。
「堰(せき)の角木には、もう“名の札”をぶら下げてあります。風が吹くと鳴る」
「停滞水が増えれば、病を呼ぶ」
医の館の薬師が釘を刺す。彼女は冬に狐火の本の付録を書いた人だ。春の版では、狐火より水の図が増えた。藁の束の上で蚊が卵を産み、卵から小さな生き物が泳ぎ、やがて羽根を持って飛ぶまでが、子どもでも追える線で描かれている。墨の色は淡いが、線は強い。
「水車が回れば粉の歩留まりが上がります」
商務の若い官が、興奮を隠さずに言った。彼は数字に顔があることを、冬の配給で覚えた。今は水の数字に顔をつけようとしている。水車の羽根は確かに、腹を少し厚くするだろう。
「上流が取りすぎれば、下流が渇く」
法務の新任代行が、淡々と告げる。彼の言葉はいつも淡々だ。感情を飲み込んでいるのではない。感情の代わりに、手続きを並べる。手続きは、感情より長く持つ。持つものの上に、感情を置く。
楓麟は、窓から流れ込んでくる風を耳で測った。耳がわずかに動く。風の湿りの厚みの違いが、鼓膜の脇を一枚、二枚と通っていく。
「三日後に夕立がある」
彼は短く言った。「強くはない。だが、畦の外を柔らかくする。泥の袋の場所が変わる」
「警備はどうする」
藍珠が問う。彼女の手は剣の柄にない。柄は壁に立てかけられている。春の手は、冬ほど急がない。だが、緩まない。
「緩衝の野から作業に出る者も多い。脱走兵あがりの者、鍬を握る時間より刃を握っていた時間が長い者。堰は非武装の場所だ。諍(いさか)いが起きれば、会盟の芯が揺らぐ」
「だからこそ、剣の代わりに秤を持たせる」
遥は、机上の紙を一枚引き寄せた。朱の筆を取る。冬の夜に書き込んだ「嘘は書かない」の朱よりも、少し軽い線。だが、軽さは薄さではない。
「配水の原則は三つにする」
朱で書きながら、声に出して読み上げる。
「一。上流は朝、下流は夜明け前。時間割で分ける」
書記が別の紙に書き写す。藁半紙が風の影で震え、墨がほんのわずかに溜まる。
「二。堰の角木を“名の札”で封印する。村ごとに封印札を下げ、勝手に動かせば、名で照合される」
名の札は、冬に私たちの国をつなぎ止めた細い釘だ。釘は、季節が変わっても抜かない。
「三。水見番を市兵から派遣する。袖に無色の布をつけ、剣を持たず、帳簿と砂時計だけを持つ」
「砂時計?」
商務の官が目を瞬いた。砂は軽い。軽いものは、秤の片側に置くと、見下げられがちだ。だが、軽いものだからこそ、余計な怒りを吸う。
「砂を、時間にする」
楓麟が言った。「風の谷と川の曲がりで、時間の伸び縮みは起きる。砂は、伸び縮みを見せる」
評議の空気が、少し和らいだ。手続きを並べる音は、刃を磨く音より柔らかい。柔らかい音は、人の肩から余計な力を落とす。
◇
実地検分の日、王・楓麟・藍珠、そして工営司の若い官が、灰の渡しから上流へ歩いた。渡しの縄印の木札は、もう夏の陽を受けて温かい。縄の撚(よ)り目が指に少し食い込む感触が、冬よりも馴染んでいる。橋のたもとには、無色の袖をつけた市兵が二人、砂時計の袋を背負って立っていた。
「砂は乾いているか」
楓麟が問う。市兵は袋の口を開け、布に包んだ砂時計を一つ取り出した。細いガラス瓶の真ん中にくびれがあり、そこを通って砂が落ちる。砂の色は薄い灰。光を受けると、粉のひと粒ひと粒が小さく光る。
「乾いています。医の館で焼いてもらった砂です」
「焼いた砂は、水の匂いを吸いにくい」
薬師の言葉が、昨日の政務卓に乗って、今日の畦に降りる。言葉が降りるとき、重さが変わる。重くなるのは、砂ではなく、言葉を持つ手だ。
堰の角木には、すでに何枚かの「名の札」がぶらさがっていた。木の札は薄い。薄いのに、重い。墨で書かれた名の字は、冬の掲示板よりも少し崩れている。畦の湿気と、持ち主の手の汗が混ざって、線が柔らかくなったのだ。風が吹くと札が鳴る。鳴る音は、白石の鳴き声より軽い。
「今年は種を多く入れた」
上流村の長が、痩せた頬で言う。頬の骨が、陽の角度で少し影をつくっている。その影が、冬の影と違うのは、凍っていないからだ。
「去年は子が半分、病んだ」
下流の女が譲らない。腕に幼い子を抱えている。子の指は、母の衣の襞をむんずと掴んで離さない。目だけが水を追っている。
王は膝をついた。堰の石の隙間から流れる水に、指を差し入れる。冷たい。冷たいが、刃の冷たさではなく、鍋に入る前の水の冷たさだ。
「朝の一刻は上流」
王は指先を濡らしたまま言葉を置いた。「日中は中流。夜明け前は下流。……砂時計で見る。嘘の時計は、壊れる」
嘘の時計は、嘘の砂を要求する。嘘の砂は、手の汗で固まる。固まった砂は、落ちない。落ちない砂を見ていると、人は怒る。怒りは、刃へ手を伸ばさせる。――だから、砂は焼いておく。
水見番の最初の任務は“砂時計の合わせ”だった。狼煙番の少年が、堰の上の小高いところに立ち、凛耀から贈られた鏡を掲げる。対岸の小さな光を拾い、上流の合図と下流の合図を合せる。鏡の点の光が、砂の落ちる音に変換されるように、二つの砂時計がいっせいに伏せられた。砂の落ちる細い音は、聞こえない。だが、目で見れば、砂は落ちる。落ちる速度に差があれば、谷の風の向きや、水の曲がりで生じる遅れを勘案して、時間割を微調整する。書記が石に「水の暦」を刻む。刻まれた線は、雨で洗われることを前提にしている。洗われた線は、次の線のための余白になる。
午後、緩衝の野から合流した男が、堰の角木を勝手に動かしかけた。動かした手は、刃の重みを覚えている手だった。札の紐が軋む音がして、近くの女が叫び、若い男が殴りかかった。起点は小さい。だが、怒りの火は乾いた藁を選んで、すぐに広がろうとする。
藍珠が飛び込んだ。剣は抜いていない。柄だけ抜いた。柄で、男の手の甲を素早く叩く。骨に響く音。刃の代わりに、骨の音で止める。
「ここで刃は、会盟へ向かう刃になる」
彼女は男の顔を見て、はっきりと言った。男の目が揺れる。揺れながらも、彼は刃に手を伸ばそうとする。刃は記憶だ。記憶は簡単には手放せない。
楓麟が割って入った。剣も柄も持っていない。代わりに、砂時計を一つ、男の胸に押し当てる。
「刃の代わりに、砂を持て」
「砂?」
「落ちるものを、見てろ。落ちるものを見ている手は、刃を落とす手ではない」
男は戸惑い、しかし、砂時計を受け取った。受け取った瞬間から彼の手は、砂の落ち方に従って動くようになる。砂は、落ち始めたら途中で止まらない。その止まらなさを、人はいつか、自分の呼吸と合わせる。
夕刻、同じ男が角木の影で、砂時計を左右に返しながら、真剣な顔で砂の落ちる細さを見つめていた。近くを通りかかった狼煙番の少年が、小声で言った。
「砂は、怒りの代わりになる」
「そうか」
「怒ってると、砂が見えない。砂が見えてると、怒りたくなくなる」
男は、笑いともため息ともつかない息を吐いた。息が吐けることが、まず一つの勝ちだ。息を止めたままの者は、刃を抜く。
◇
王は配水表の端に朱で小さく書いた。「“名の札”は重く、砂は軽い。重さは互いに補う」。名の札は、堰の角木を縛る。砂は、心の苛立ちを流す。どちらか一方だけでは、秤は傾く。傾いた秤にさらに荷を載せる者は、秤を信用していない。信用されない秤は、いつか誰も見に来なくなる。その前に、手で少しずつ調整する。
夜、王宮の地図室で、用水路の線が濃く引き直された。石の上に紙を置き、角の四隅を小石で押さえる。楓麟が風を聞き、医の館から届いた小さな瓶を、王が光に透かす。瓶の中に、水と一緒に漂う、目に見えるか見えないかの細いもの。虫の卵。細いものの周りに、さらに細い膜が見えるような気がする。気がするものは、いずれ見える。見えるようにするために、明日の朝も、同じ時間に同じ場所で砂を落とす。
「水は命を運び、病も運ぶ」
王は瓶を指先で軽く揺すった。可視の沈黙が、瓶の中でだけゆらぐ。揺れを見つめる時間は、刀を磨く時間と同じくらい長い。
「秤を持て」
彼は自分に言い聞かせるように、低く言った。
楓麟は、窓辺で頷いた。風の湿りは、昼よりも重くなる。重い湿りは、夏の前触れを連れてくる。夏の前に、水の秤を固めておく必要がある。固めるのは、石ではなく、手順と、人の目だ。
地図の端に、点がいくつか増えた。「病の淀み」候補地だ。用水路の曲がり、畦の低い地点、棚田の角、塩煮場の裏。点は、明日、懐に砂時計を入れた水見番に渡される。点が線になる。線が、巡回になる。巡回が、習慣になる。習慣は、噂よりも強い。
◇
「水見番」は、あっという間に街の新しい風景になった。無色の袖をつけ、腰に砂時計の袋を下げ、帳簿と木炭の筆を持って畦の上を歩く影。影は強くなく、だが切れない。彼らが角木の前に立つと、堰の水は少しだけ息を整える。角木にぶらさがっている「名の札」が、風に鳴るたびに、彼らは顔を上げて札の字を見る。字は名前だ。名前は、誰かの顔に戻る。顔が、秤の片方に乗る。
夜明け前、下流の女が水音に耳を澄ます。夜の水は、昼の水と違う。昼の水は、目で見える。夜の水は、耳で見える。耳で見えるものは、間違いが少ない。耳のほうが正直なときがある。女の肩はまだ薄い。冬に痩せた肩だ。だが、その肩に、今朝は水の重みが均等に乗った。均等に乗る感触を覚えた肩は、少しずつ広くなる。
緩衝の野の入口に置かれた「薄線窓口」の小箱の横にも、砂時計がひとつ置かれた。時間割の書かれた紙の前で、狐火の本を書いた書生が子どもたちに砂の落ち方を見せている。落ちる砂に合わせて、子どもたちのまばたきがゆっくりになる。ゆっくりにできる体は、強い。
昼、上流の水車小屋で、商務の若い官が笑っていた。水車は軽やかに回り、石臼はゆっくり回って粉を引く。粉は、水より先に腹になる。腹になったものは、怒りを遅らせる。遅れた怒りは、怒りではなくなる。笑いながら彼はふと、下流の女の顔を思い出し、その笑いを少し小さくした。笑いの小ささは、秤の針の震えと同じだ。
夕刻、藍珠が堰の上でひと息ついていると、砂時計を持ったあの男が近づいてきた。昨日、角木を動かしかけた男だ。砂時計を両手で捧げるように持っている。柄を持つ者の仕草に似ていた。
「返す」
男が言った。
「砂のほうが軽い」
藍珠は受け取りながら笑った。
「軽いもののほうが、長く持てる」
「刃より」
「刃より」
男は頷き、ふっと笑って、足元を見た。足の甲に泥が盛り上がっている。泥に足の形を残すのは、冬にはしなかったことだ。残った形は、雨で洗われる。それでも、洗われた場所は、違う色の泥になる。違う色は、記憶だ。
◇
夜の政務卓に戻ると、王の机の端に小さな瓶がもう一つ置かれていた。昼間の瓶より少し濃い。医の館からの付け札に、「北の塩煮場裏の溜まり水」と書かれている。瓶を透かすと、昼には見えなかったものが見える。光の加減もある。目の疲れもある。疲れた目は、見えるものと見えないものの境界を広げる。広がった境界に、瓶の中の小さな生き物がゆらりと浮かぶ。
「ここは、塩の匂いで、かえって油断しやすい」
薬師が言った。「塩は病を遠ざけるが、塩の薄い場所では逆に油断が生まれる」
王は頷き、地図のその場所に小さく赤い点を打った。点の横に「蓋」「布」「巡回」と三字を書き添える。三字は、剣一本よりも重いときがある。重くするのは、人の足だ。足が重さを均等に運ぶ。
法務の新任代行が、名の列の端に増えた「帰還未確認」の薄線について、静かに報告した。三日ほど前に「点線」から「薄線」へ移った名があり、狼煙台の少年が「見たことがある」と証言した。その名の家に、春借の特別枠が回り、井戸の口の石が一枚、先に支給された。名は、紙の上から畑へ、畑から井戸へ、井戸から家へ、細い道を通って移動する。移動の途中に、砂時計がぶら下がっている。ぶら下がった砂時計を見上げる癖がついた家は、刃を見上げなくなる。
「“名の札”は重く、砂は軽い」
王は朱の字を指でなぞり、もう一度、口の中で繰り返した。「重さは互いに補う」
楓麟は、窓の外の風を聞いた。南東。少し湿りが増えた。明日の夕立は、畦の外を柔らかくし、泥帯を僅かに広げるだろう。水見番の巡回はそのぶん、畦の内側を長く歩かねばならなくなる。歩く足が増えれば、怒りの足は減る。足の数は、いつも一定ではない。増やす方法を、冬の間に覚えた。
◇
三日後、本当に夕立が来た。楓麟の耳は、季節を裏切らない。空が、午後の半ばに急に暗くなり、畦を走る子供たちが一瞬驚いて立ち止まる。白石列の上に、粒の大きな雨が落ちる。石はすぐ濡れ、濡れた石は言葉より重たく見える。重たく見えるものは、動かしたくなくなる。その心理の重さも、会盟のうちだ。
夕立は短かった。短いが、効果は長く残る。畦の外の草が水を含み、泥帯が一枚、手を伸ばす。水見番は巡回を少しずらし、角木の影で砂時計を繰り返し伏せる。砂は濡れない。袋の中の砂は焼いてある。焼いた砂は、季節に左右されにくい。
夕立の後、上流の水車が水を吐き、中流の堰が一度に声を上げ、下流の水が夜明け前を待たずに小さく鳴いた。鳴き声の重なりは、合唱になって境界に届く。白石の列は黙っている。それでいい。石の沈黙の前で人が喋ると、言葉は薄くなる。石の沈黙の前で人が黙ると、心の中の言葉が濃くなる。
夜、緩衝の野の灯が二重に灯った。封印札の列の横に、砂時計の列ができる。砂の落ちる音はしない。だが、灯の間を行き交う影の速度が、砂の落ち方の速度と似てくる。影が刃の速度から、砂の速度へ移る。移った影は、寝床に入る時間が少し早くなる。早く寝た者は、朝の水音に早く気づく。
◇
翌朝、王は畦の上に立ち、夜明け前の下流の女の耳を見た。女の耳は小さく、薄い。薄いのに、頼もしい。耳の鼓膜は砂時計の砂のように、静かに落ちる音を拾っている。拾われた音は、心の秤に乗る。秤は、人の胸の真ん中にある。胸の真ん中は、刃の真ん中より深い。
王の耳にも、水の音が入った。冬には聞こえなかった音だ。聞こえる音が増えるのは、歳を取ったからではない。責任を引き受けたからだ。責任は、耳を開く。開いた耳は、嘘を嫌う。嘘を嫌う耳は、言葉を短くする。
「――足りぬ時は、足りぬと書く」
彼は、自分の口癖を心の中で言って、笑った。笑いは音にならない。音にならない笑いは、水の上にだけ、薄い波紋をつくる。
戻る道すがら、工営司の若い官が、泥で汚れた図面を胸に抱え、早足で走っていた。彼は王とすれ違うと立ち止まり、頭を下げ、言葉を早口でこぼした。
「王、堰の角木の札が一枚、剥がれていました。昨夜の雨で紐が緩んだようです」
「名は、剥がれる」
王は頷いた。「剥がれるから、また打つ。剥がれるたびに、手の跡が増える。跡は、記憶だ」
工営司の官は、目を見開いた。短い言葉が、自分のためのものだと分かった顔だった。分かった者の顔は、少しだけ強くなる。顔が強くなると、握っている図面の紙が少し伸びる。伸びた紙は、次の雨にも耐える。
◇
日暮れ前、王宮の回廊で藍珠が王を待っていた。柄を一本、肩に担いでいる。柄の端には、短い白布。白布は、白石会盟の無色の旗の端布から裂いたものだ。
「柄は、重い策だ」
藍珠が笑った。「刃より肩にくる」
「肩は広くなる」
王は同じように笑った。「広くなるように、夏の秤を動かす」
「秤の片方に、名の札を。片方に、砂時計を」
「真ん中に、耳を」
藍珠がゆっくり頷いた。頷く首の筋が、冬よりも柔らかい。柔らかい筋は、折れない。硬い筋は、折れる。折れにくさとは、柔らかさだ。柔らかさは、恥ではない。
「風は?」
「南東」
楓麟が、いつのまにか回廊の柱の影に立っていた。耳が、わずかに動く。彼は、風の厚みに合わせて言葉を短くする。短い言葉は、風に負けない。
「夕立の後、二日の晴れ。三日目に薄い雲。……水の秤は、今が合う」
「合ううちに、合わせ続ける」
王は言った。合っているときにこそ、手を離してはいけない。秤は、生き物だ。見られているときのほうが、真面目に釣り合う。
◇
その夜、名の列の前に立つ人影があった。薄線で囲まれた名の下に、春の草花が一輪置かれている。置いたのは誰か。訊ねない。訊ねないまま、王はその小さな花の茎を指で押さえ、紙の端に触れる。紙は湿っていない。湿っていない紙は、明日の砂時計に合う。砂の落ちる速度と、名の読み上げの速度が、どこかで重なる。重なる瞬間に、秤の針は真ん中を指す。
掲示板の横の柱には、狐火の本の新版の小さな張り紙。下に、小さく「水の巻」と書かれている。書生の字はまだ少し震える。震える字は、まっすぐな字より、人の背中を押すことがある。震えるから、読む者の手を必要とする。手が必要とされると、手は動く。
王は紙に肩を預けるようにして、目を閉じた。目を閉じると、音だけが残る。水の音、砂の音、札の鳴る音、遠い旗の鳴る音。全部が混ざって、今夜だけの短い音楽になる。音楽は、秤の真ん中で鳴る。真ん中で鳴る音は、嘘を嫌う。
白石の列は黙っている。それでも、石の黙りは、耳の遠い者にも届く。届く黙りは、言葉より強い。強い黙りの中で、王は短く呟いた。
「名を消さない。線を守る。――水を、分ける」
短い言葉は、長い夜の中で、秤の皿に静かに落ちた。皿はひととき、音を立てずに揺れ、やがて、真ん中に戻る。秤は、ゆっくりと、しかし確かに釣り合いに近づく。南東の風は、塔の上をかすめ、畦の上を渡り、角木の札を鳴らし、砂時計のガラスに薄い汗を残す。汗は、仕事の塩味だ。塩味のある汗は、怒りの味を薄める。薄くなった怒りは、眠りを呼ぶ。眠りの中で、水は静かに運ばれ、名は静かに息を続ける。
――夏が来る前に、秤を整える。名の札の重さと、砂の軽さを交互に持ち、耳で真ん中を探し続ける。白石会盟が石で線を引いたように、王は目に見えない線を、日々の手順で引き直した。引き直される線は、ただの線ではない。そこに集まる手の温度と、砂の落ちる速度と、名の呼び声の高さが、線の質(たち)を決める。質の良い線は、季節に勝とうとしない。季節に合わせ、季節を待つ。待つことは、負けではない。待っている間に、秤の真ん中が育つからだ。
畦の上を歩く水見番の列が、夜明け前の薄闇に沈んでいった。袋に入った砂時計が、腰で小さく音を立てる。角木の「名の札」が風に鳴る。遠く、白石の列は沈黙を守ったまま、見えない秤の片方に、重たく、静かな重みを載せ続けていた。
王宮の政務卓は、しばらく前から「水」に占領されていた。冬のあいだ、机の上を出入りしていたのは「粟」「塩」「灯」「札」「柄」といった字の束だった。それが今は、「用水路」「堰」「水車」「停滞水」「蚊」「薬草」「砂時計」。紙の角は泥の指で丸まり、朱の印は水気で少し滲む。机の端に置かれた三つの札に、太い字で「上流村」「中流村」「下流村」と書かれている。紙の裏には薄く、別の季節の字が透けて見えた。生き延びた字は、次の季節の背骨になる。
「ここを一寸落として、こっちは半寸上げます」
工営司の若い官が、用水路の縮尺図の上で指を二本、交差させた。指先に小さな傷がある。彼も畦に降りたのだ。紙の上の線だけでは、水は動かない。
「堰(せき)の角木には、もう“名の札”をぶら下げてあります。風が吹くと鳴る」
「停滞水が増えれば、病を呼ぶ」
医の館の薬師が釘を刺す。彼女は冬に狐火の本の付録を書いた人だ。春の版では、狐火より水の図が増えた。藁の束の上で蚊が卵を産み、卵から小さな生き物が泳ぎ、やがて羽根を持って飛ぶまでが、子どもでも追える線で描かれている。墨の色は淡いが、線は強い。
「水車が回れば粉の歩留まりが上がります」
商務の若い官が、興奮を隠さずに言った。彼は数字に顔があることを、冬の配給で覚えた。今は水の数字に顔をつけようとしている。水車の羽根は確かに、腹を少し厚くするだろう。
「上流が取りすぎれば、下流が渇く」
法務の新任代行が、淡々と告げる。彼の言葉はいつも淡々だ。感情を飲み込んでいるのではない。感情の代わりに、手続きを並べる。手続きは、感情より長く持つ。持つものの上に、感情を置く。
楓麟は、窓から流れ込んでくる風を耳で測った。耳がわずかに動く。風の湿りの厚みの違いが、鼓膜の脇を一枚、二枚と通っていく。
「三日後に夕立がある」
彼は短く言った。「強くはない。だが、畦の外を柔らかくする。泥の袋の場所が変わる」
「警備はどうする」
藍珠が問う。彼女の手は剣の柄にない。柄は壁に立てかけられている。春の手は、冬ほど急がない。だが、緩まない。
「緩衝の野から作業に出る者も多い。脱走兵あがりの者、鍬を握る時間より刃を握っていた時間が長い者。堰は非武装の場所だ。諍(いさか)いが起きれば、会盟の芯が揺らぐ」
「だからこそ、剣の代わりに秤を持たせる」
遥は、机上の紙を一枚引き寄せた。朱の筆を取る。冬の夜に書き込んだ「嘘は書かない」の朱よりも、少し軽い線。だが、軽さは薄さではない。
「配水の原則は三つにする」
朱で書きながら、声に出して読み上げる。
「一。上流は朝、下流は夜明け前。時間割で分ける」
書記が別の紙に書き写す。藁半紙が風の影で震え、墨がほんのわずかに溜まる。
「二。堰の角木を“名の札”で封印する。村ごとに封印札を下げ、勝手に動かせば、名で照合される」
名の札は、冬に私たちの国をつなぎ止めた細い釘だ。釘は、季節が変わっても抜かない。
「三。水見番を市兵から派遣する。袖に無色の布をつけ、剣を持たず、帳簿と砂時計だけを持つ」
「砂時計?」
商務の官が目を瞬いた。砂は軽い。軽いものは、秤の片側に置くと、見下げられがちだ。だが、軽いものだからこそ、余計な怒りを吸う。
「砂を、時間にする」
楓麟が言った。「風の谷と川の曲がりで、時間の伸び縮みは起きる。砂は、伸び縮みを見せる」
評議の空気が、少し和らいだ。手続きを並べる音は、刃を磨く音より柔らかい。柔らかい音は、人の肩から余計な力を落とす。
◇
実地検分の日、王・楓麟・藍珠、そして工営司の若い官が、灰の渡しから上流へ歩いた。渡しの縄印の木札は、もう夏の陽を受けて温かい。縄の撚(よ)り目が指に少し食い込む感触が、冬よりも馴染んでいる。橋のたもとには、無色の袖をつけた市兵が二人、砂時計の袋を背負って立っていた。
「砂は乾いているか」
楓麟が問う。市兵は袋の口を開け、布に包んだ砂時計を一つ取り出した。細いガラス瓶の真ん中にくびれがあり、そこを通って砂が落ちる。砂の色は薄い灰。光を受けると、粉のひと粒ひと粒が小さく光る。
「乾いています。医の館で焼いてもらった砂です」
「焼いた砂は、水の匂いを吸いにくい」
薬師の言葉が、昨日の政務卓に乗って、今日の畦に降りる。言葉が降りるとき、重さが変わる。重くなるのは、砂ではなく、言葉を持つ手だ。
堰の角木には、すでに何枚かの「名の札」がぶらさがっていた。木の札は薄い。薄いのに、重い。墨で書かれた名の字は、冬の掲示板よりも少し崩れている。畦の湿気と、持ち主の手の汗が混ざって、線が柔らかくなったのだ。風が吹くと札が鳴る。鳴る音は、白石の鳴き声より軽い。
「今年は種を多く入れた」
上流村の長が、痩せた頬で言う。頬の骨が、陽の角度で少し影をつくっている。その影が、冬の影と違うのは、凍っていないからだ。
「去年は子が半分、病んだ」
下流の女が譲らない。腕に幼い子を抱えている。子の指は、母の衣の襞をむんずと掴んで離さない。目だけが水を追っている。
王は膝をついた。堰の石の隙間から流れる水に、指を差し入れる。冷たい。冷たいが、刃の冷たさではなく、鍋に入る前の水の冷たさだ。
「朝の一刻は上流」
王は指先を濡らしたまま言葉を置いた。「日中は中流。夜明け前は下流。……砂時計で見る。嘘の時計は、壊れる」
嘘の時計は、嘘の砂を要求する。嘘の砂は、手の汗で固まる。固まった砂は、落ちない。落ちない砂を見ていると、人は怒る。怒りは、刃へ手を伸ばさせる。――だから、砂は焼いておく。
水見番の最初の任務は“砂時計の合わせ”だった。狼煙番の少年が、堰の上の小高いところに立ち、凛耀から贈られた鏡を掲げる。対岸の小さな光を拾い、上流の合図と下流の合図を合せる。鏡の点の光が、砂の落ちる音に変換されるように、二つの砂時計がいっせいに伏せられた。砂の落ちる細い音は、聞こえない。だが、目で見れば、砂は落ちる。落ちる速度に差があれば、谷の風の向きや、水の曲がりで生じる遅れを勘案して、時間割を微調整する。書記が石に「水の暦」を刻む。刻まれた線は、雨で洗われることを前提にしている。洗われた線は、次の線のための余白になる。
午後、緩衝の野から合流した男が、堰の角木を勝手に動かしかけた。動かした手は、刃の重みを覚えている手だった。札の紐が軋む音がして、近くの女が叫び、若い男が殴りかかった。起点は小さい。だが、怒りの火は乾いた藁を選んで、すぐに広がろうとする。
藍珠が飛び込んだ。剣は抜いていない。柄だけ抜いた。柄で、男の手の甲を素早く叩く。骨に響く音。刃の代わりに、骨の音で止める。
「ここで刃は、会盟へ向かう刃になる」
彼女は男の顔を見て、はっきりと言った。男の目が揺れる。揺れながらも、彼は刃に手を伸ばそうとする。刃は記憶だ。記憶は簡単には手放せない。
楓麟が割って入った。剣も柄も持っていない。代わりに、砂時計を一つ、男の胸に押し当てる。
「刃の代わりに、砂を持て」
「砂?」
「落ちるものを、見てろ。落ちるものを見ている手は、刃を落とす手ではない」
男は戸惑い、しかし、砂時計を受け取った。受け取った瞬間から彼の手は、砂の落ち方に従って動くようになる。砂は、落ち始めたら途中で止まらない。その止まらなさを、人はいつか、自分の呼吸と合わせる。
夕刻、同じ男が角木の影で、砂時計を左右に返しながら、真剣な顔で砂の落ちる細さを見つめていた。近くを通りかかった狼煙番の少年が、小声で言った。
「砂は、怒りの代わりになる」
「そうか」
「怒ってると、砂が見えない。砂が見えてると、怒りたくなくなる」
男は、笑いともため息ともつかない息を吐いた。息が吐けることが、まず一つの勝ちだ。息を止めたままの者は、刃を抜く。
◇
王は配水表の端に朱で小さく書いた。「“名の札”は重く、砂は軽い。重さは互いに補う」。名の札は、堰の角木を縛る。砂は、心の苛立ちを流す。どちらか一方だけでは、秤は傾く。傾いた秤にさらに荷を載せる者は、秤を信用していない。信用されない秤は、いつか誰も見に来なくなる。その前に、手で少しずつ調整する。
夜、王宮の地図室で、用水路の線が濃く引き直された。石の上に紙を置き、角の四隅を小石で押さえる。楓麟が風を聞き、医の館から届いた小さな瓶を、王が光に透かす。瓶の中に、水と一緒に漂う、目に見えるか見えないかの細いもの。虫の卵。細いものの周りに、さらに細い膜が見えるような気がする。気がするものは、いずれ見える。見えるようにするために、明日の朝も、同じ時間に同じ場所で砂を落とす。
「水は命を運び、病も運ぶ」
王は瓶を指先で軽く揺すった。可視の沈黙が、瓶の中でだけゆらぐ。揺れを見つめる時間は、刀を磨く時間と同じくらい長い。
「秤を持て」
彼は自分に言い聞かせるように、低く言った。
楓麟は、窓辺で頷いた。風の湿りは、昼よりも重くなる。重い湿りは、夏の前触れを連れてくる。夏の前に、水の秤を固めておく必要がある。固めるのは、石ではなく、手順と、人の目だ。
地図の端に、点がいくつか増えた。「病の淀み」候補地だ。用水路の曲がり、畦の低い地点、棚田の角、塩煮場の裏。点は、明日、懐に砂時計を入れた水見番に渡される。点が線になる。線が、巡回になる。巡回が、習慣になる。習慣は、噂よりも強い。
◇
「水見番」は、あっという間に街の新しい風景になった。無色の袖をつけ、腰に砂時計の袋を下げ、帳簿と木炭の筆を持って畦の上を歩く影。影は強くなく、だが切れない。彼らが角木の前に立つと、堰の水は少しだけ息を整える。角木にぶらさがっている「名の札」が、風に鳴るたびに、彼らは顔を上げて札の字を見る。字は名前だ。名前は、誰かの顔に戻る。顔が、秤の片方に乗る。
夜明け前、下流の女が水音に耳を澄ます。夜の水は、昼の水と違う。昼の水は、目で見える。夜の水は、耳で見える。耳で見えるものは、間違いが少ない。耳のほうが正直なときがある。女の肩はまだ薄い。冬に痩せた肩だ。だが、その肩に、今朝は水の重みが均等に乗った。均等に乗る感触を覚えた肩は、少しずつ広くなる。
緩衝の野の入口に置かれた「薄線窓口」の小箱の横にも、砂時計がひとつ置かれた。時間割の書かれた紙の前で、狐火の本を書いた書生が子どもたちに砂の落ち方を見せている。落ちる砂に合わせて、子どもたちのまばたきがゆっくりになる。ゆっくりにできる体は、強い。
昼、上流の水車小屋で、商務の若い官が笑っていた。水車は軽やかに回り、石臼はゆっくり回って粉を引く。粉は、水より先に腹になる。腹になったものは、怒りを遅らせる。遅れた怒りは、怒りではなくなる。笑いながら彼はふと、下流の女の顔を思い出し、その笑いを少し小さくした。笑いの小ささは、秤の針の震えと同じだ。
夕刻、藍珠が堰の上でひと息ついていると、砂時計を持ったあの男が近づいてきた。昨日、角木を動かしかけた男だ。砂時計を両手で捧げるように持っている。柄を持つ者の仕草に似ていた。
「返す」
男が言った。
「砂のほうが軽い」
藍珠は受け取りながら笑った。
「軽いもののほうが、長く持てる」
「刃より」
「刃より」
男は頷き、ふっと笑って、足元を見た。足の甲に泥が盛り上がっている。泥に足の形を残すのは、冬にはしなかったことだ。残った形は、雨で洗われる。それでも、洗われた場所は、違う色の泥になる。違う色は、記憶だ。
◇
夜の政務卓に戻ると、王の机の端に小さな瓶がもう一つ置かれていた。昼間の瓶より少し濃い。医の館からの付け札に、「北の塩煮場裏の溜まり水」と書かれている。瓶を透かすと、昼には見えなかったものが見える。光の加減もある。目の疲れもある。疲れた目は、見えるものと見えないものの境界を広げる。広がった境界に、瓶の中の小さな生き物がゆらりと浮かぶ。
「ここは、塩の匂いで、かえって油断しやすい」
薬師が言った。「塩は病を遠ざけるが、塩の薄い場所では逆に油断が生まれる」
王は頷き、地図のその場所に小さく赤い点を打った。点の横に「蓋」「布」「巡回」と三字を書き添える。三字は、剣一本よりも重いときがある。重くするのは、人の足だ。足が重さを均等に運ぶ。
法務の新任代行が、名の列の端に増えた「帰還未確認」の薄線について、静かに報告した。三日ほど前に「点線」から「薄線」へ移った名があり、狼煙台の少年が「見たことがある」と証言した。その名の家に、春借の特別枠が回り、井戸の口の石が一枚、先に支給された。名は、紙の上から畑へ、畑から井戸へ、井戸から家へ、細い道を通って移動する。移動の途中に、砂時計がぶら下がっている。ぶら下がった砂時計を見上げる癖がついた家は、刃を見上げなくなる。
「“名の札”は重く、砂は軽い」
王は朱の字を指でなぞり、もう一度、口の中で繰り返した。「重さは互いに補う」
楓麟は、窓の外の風を聞いた。南東。少し湿りが増えた。明日の夕立は、畦の外を柔らかくし、泥帯を僅かに広げるだろう。水見番の巡回はそのぶん、畦の内側を長く歩かねばならなくなる。歩く足が増えれば、怒りの足は減る。足の数は、いつも一定ではない。増やす方法を、冬の間に覚えた。
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三日後、本当に夕立が来た。楓麟の耳は、季節を裏切らない。空が、午後の半ばに急に暗くなり、畦を走る子供たちが一瞬驚いて立ち止まる。白石列の上に、粒の大きな雨が落ちる。石はすぐ濡れ、濡れた石は言葉より重たく見える。重たく見えるものは、動かしたくなくなる。その心理の重さも、会盟のうちだ。
夕立は短かった。短いが、効果は長く残る。畦の外の草が水を含み、泥帯が一枚、手を伸ばす。水見番は巡回を少しずらし、角木の影で砂時計を繰り返し伏せる。砂は濡れない。袋の中の砂は焼いてある。焼いた砂は、季節に左右されにくい。
夕立の後、上流の水車が水を吐き、中流の堰が一度に声を上げ、下流の水が夜明け前を待たずに小さく鳴いた。鳴き声の重なりは、合唱になって境界に届く。白石の列は黙っている。それでいい。石の沈黙の前で人が喋ると、言葉は薄くなる。石の沈黙の前で人が黙ると、心の中の言葉が濃くなる。
夜、緩衝の野の灯が二重に灯った。封印札の列の横に、砂時計の列ができる。砂の落ちる音はしない。だが、灯の間を行き交う影の速度が、砂の落ち方の速度と似てくる。影が刃の速度から、砂の速度へ移る。移った影は、寝床に入る時間が少し早くなる。早く寝た者は、朝の水音に早く気づく。
◇
翌朝、王は畦の上に立ち、夜明け前の下流の女の耳を見た。女の耳は小さく、薄い。薄いのに、頼もしい。耳の鼓膜は砂時計の砂のように、静かに落ちる音を拾っている。拾われた音は、心の秤に乗る。秤は、人の胸の真ん中にある。胸の真ん中は、刃の真ん中より深い。
王の耳にも、水の音が入った。冬には聞こえなかった音だ。聞こえる音が増えるのは、歳を取ったからではない。責任を引き受けたからだ。責任は、耳を開く。開いた耳は、嘘を嫌う。嘘を嫌う耳は、言葉を短くする。
「――足りぬ時は、足りぬと書く」
彼は、自分の口癖を心の中で言って、笑った。笑いは音にならない。音にならない笑いは、水の上にだけ、薄い波紋をつくる。
戻る道すがら、工営司の若い官が、泥で汚れた図面を胸に抱え、早足で走っていた。彼は王とすれ違うと立ち止まり、頭を下げ、言葉を早口でこぼした。
「王、堰の角木の札が一枚、剥がれていました。昨夜の雨で紐が緩んだようです」
「名は、剥がれる」
王は頷いた。「剥がれるから、また打つ。剥がれるたびに、手の跡が増える。跡は、記憶だ」
工営司の官は、目を見開いた。短い言葉が、自分のためのものだと分かった顔だった。分かった者の顔は、少しだけ強くなる。顔が強くなると、握っている図面の紙が少し伸びる。伸びた紙は、次の雨にも耐える。
◇
日暮れ前、王宮の回廊で藍珠が王を待っていた。柄を一本、肩に担いでいる。柄の端には、短い白布。白布は、白石会盟の無色の旗の端布から裂いたものだ。
「柄は、重い策だ」
藍珠が笑った。「刃より肩にくる」
「肩は広くなる」
王は同じように笑った。「広くなるように、夏の秤を動かす」
「秤の片方に、名の札を。片方に、砂時計を」
「真ん中に、耳を」
藍珠がゆっくり頷いた。頷く首の筋が、冬よりも柔らかい。柔らかい筋は、折れない。硬い筋は、折れる。折れにくさとは、柔らかさだ。柔らかさは、恥ではない。
「風は?」
「南東」
楓麟が、いつのまにか回廊の柱の影に立っていた。耳が、わずかに動く。彼は、風の厚みに合わせて言葉を短くする。短い言葉は、風に負けない。
「夕立の後、二日の晴れ。三日目に薄い雲。……水の秤は、今が合う」
「合ううちに、合わせ続ける」
王は言った。合っているときにこそ、手を離してはいけない。秤は、生き物だ。見られているときのほうが、真面目に釣り合う。
◇
その夜、名の列の前に立つ人影があった。薄線で囲まれた名の下に、春の草花が一輪置かれている。置いたのは誰か。訊ねない。訊ねないまま、王はその小さな花の茎を指で押さえ、紙の端に触れる。紙は湿っていない。湿っていない紙は、明日の砂時計に合う。砂の落ちる速度と、名の読み上げの速度が、どこかで重なる。重なる瞬間に、秤の針は真ん中を指す。
掲示板の横の柱には、狐火の本の新版の小さな張り紙。下に、小さく「水の巻」と書かれている。書生の字はまだ少し震える。震える字は、まっすぐな字より、人の背中を押すことがある。震えるから、読む者の手を必要とする。手が必要とされると、手は動く。
王は紙に肩を預けるようにして、目を閉じた。目を閉じると、音だけが残る。水の音、砂の音、札の鳴る音、遠い旗の鳴る音。全部が混ざって、今夜だけの短い音楽になる。音楽は、秤の真ん中で鳴る。真ん中で鳴る音は、嘘を嫌う。
白石の列は黙っている。それでも、石の黙りは、耳の遠い者にも届く。届く黙りは、言葉より強い。強い黙りの中で、王は短く呟いた。
「名を消さない。線を守る。――水を、分ける」
短い言葉は、長い夜の中で、秤の皿に静かに落ちた。皿はひととき、音を立てずに揺れ、やがて、真ん中に戻る。秤は、ゆっくりと、しかし確かに釣り合いに近づく。南東の風は、塔の上をかすめ、畦の上を渡り、角木の札を鳴らし、砂時計のガラスに薄い汗を残す。汗は、仕事の塩味だ。塩味のある汗は、怒りの味を薄める。薄くなった怒りは、眠りを呼ぶ。眠りの中で、水は静かに運ばれ、名は静かに息を続ける。
――夏が来る前に、秤を整える。名の札の重さと、砂の軽さを交互に持ち、耳で真ん中を探し続ける。白石会盟が石で線を引いたように、王は目に見えない線を、日々の手順で引き直した。引き直される線は、ただの線ではない。そこに集まる手の温度と、砂の落ちる速度と、名の呼び声の高さが、線の質(たち)を決める。質の良い線は、季節に勝とうとしない。季節に合わせ、季節を待つ。待つことは、負けではない。待っている間に、秤の真ん中が育つからだ。
畦の上を歩く水見番の列が、夜明け前の薄闇に沈んでいった。袋に入った砂時計が、腰で小さく音を立てる。角木の「名の札」が風に鳴る。遠く、白石の列は沈黙を守ったまま、見えない秤の片方に、重たく、静かな重みを載せ続けていた。



