春の光は、薄紅平原の白をやわらげていた。雪はもうどこにも残っていないのに、白石の列はまだ冬の名残を頑として手放さない。朝の空気が少し湿り、土の匂いが強くなるにつれて、石は日に焼けた骨のように乾き、輪郭をくっきりと際立たせる。その列は、遠目には糸のように細くて、近づけば思いのほか背が低い。見ようとすれば見える線。見たくないときには視界の端で曖昧にぼやける線。国境の線とは、いつもそうした二枚の顔を持っている。
王宮の朝の評議室では、その「見える線」を言葉で縫いとめる作業が続いていた。長机の中央に敷かれた地図には、薄紅平原、霜の峠、灰の渡し、凍河、城下の道――冬を越える間に幾度も触れて、紙の繊維が柔らかくなった場所ばかりが、指の脂で少し濃く光っている。その上に三本の紐が置かれた。赤は王弟派、金は王太子派、灰は現実派。紐の先には小さな札が結ばれていて、札には各派から届いた要求や条件が、要点だけ抜き取られて墨の筆跡で並んでいる。楓麟の手で切りそろえられた紐の端が、わずかな風にも揺らいで、交渉の落ち着かなさをそのまま写していた。
「赤は喰う。金は見張る。灰はほどく」
楓麟が、紐の結び目を人差し指の腹でなぞりながら短く言った。彼の耳は、評議室の窓に触れている風の厚みを測るように、すっと動いた。耳の動きに合わせて、王座の脇に立つ藍珠が小さく顎を引く。彼女は紐には触れない。触れない代わりに、壁に掛けてある剣の柄に一度だけ手を置き、その感触を確かめる。
「剣を置いているのは灰だけだ」
藍珠の言葉は、刃で紙の端を切るときの音に似ていた。薄いのに、確かに深い。
「我々は『線を守る外交』を選ぶ。線を曖昧にする誘いは受けない」
遥は、地図の上の白石の列に指を置いた。小さな指の熱が紙に移る。その熱は、冬の夜に井戸で泥を掬ったときの冷えを、かすかに追い払う。
「ただ、亡命の明文化は受けたい。『緩衝の野』の秩序を、夏まで持たせたいから」
評議室の隅、灯の下に立つ密偵頭が頷いた。彼の衣は市兵のそれとよく似ているが、裾の糸の解け方が違う。気配の薄さは、灯の影の濃さと反比例する。冬のあいだに張った「怒り線」「金線」「噂線」。その三本の線の張り具合を、彼は毎朝の風のように確かめ、報告してくる。
「……紅月の現実派から、『白石会盟』の提案。白石列を双方の印で確認し、夏至までの不可侵を公開で誓う。破れば市兵の帳簿と無色の旗の下で裁く、と」
書記が読み上げる。筆なめの癖が抜けない若い書記の舌は、まだすこし墨の苦さを持つ。
「剣ではなく帳で裁く、ですか」
法務の新任代行が、眼鏡の端を押しながら呟いた。彼は冬に玄檀の机で止まっていた案件を一つひとつほどき、朱で「誤り」の上に「訂正」を重ねてきた。朱の印は、春の光でもよく映える。
「記録の整備が先です。会盟を結ぶなら、違約の手続き、その記録の保存、公開の仕方――全部、先に決めるべきことがある」
「会盟の場で、夏の市の枠組みも決めたい」
商務の若い官が、思わず身を乗り出した。冬のあいだ、彼は配給の数字と現場の腹具合の差を手で測る術を覚えた。春の市は、数字だけでなく顔を持つ。顔のある数字は、街を動かす。
「警備の洗い出しを」
藍珠は表情を変えずに言う。「白石の間に“抜け道”がある。冬に掘った小さな溝が、春の泥で道になる。人が通った道は必ずできる」
楓麟がうなずき、窓の外の風を一度吸った。
「白石の列は“見える線”。抜け道は“見えぬ線”。会盟で“見えぬ線”も言葉にして縛る」
見えないものに言葉を与える。言葉は、見えないものの縁に糸をかけて、引き上げるための道具だ。引き上げられたものは、陽にさらされ、乾き、形を持つ。
決まるまでに、さらに三つの手が必要だった。法務の手は帳を整え、商務の手は市の台と旗の順序を整え、工営司の手は白石列の欠けを補って等間隔にする。市兵の小屋は、臨時の作業場となり、帳簿の写しを双方で作る台が準備された。無色の旗の新しい布は、染めないままの生成りで、風に鳴らすとやさしい音がした。
◇
会盟の朝、薄紅平原の中央に人が集まった。白風は白の小旗を等間隔に、紅月は灰の小旗を等間隔に。中央に無色の旗を一本。旗の列が風を受けるたび、白石の影がゆれて伸び、また縮む。影の伸び縮みは、人の息と似ている。会盟とは、集団の呼吸を合わせる儀式でもあった。
紅月からは凛耀が来た。彼は疲れていた。頬の削げ具合、唇の乾き、目の下の薄い隈。しかし眼は澄んでいる。秋の日に磨かれた青銅の鏡のように、光を素直に跳ね返す。彼は無色の旗の前で深く一礼し、まず「亡命明文化協定」に署名した。宿営、公的な医療、武装解除、身柄引き渡しの可否、家族帯同――条文は、冬の間に幾度もやり取りした草案が手で磨かれて、無駄のないものへと削がれている。ひとつだけ、紅月の面子のために難しい折衝が必要だった「名の抹消」の条については、こちらの折衷案――『相手国の掲示からは削除。ただし受け入れ国は“亡命名簿”に登録し、名の列の“外縁”に記す』――が、凛耀の頷きとともに受け入れられた。面子と記憶は別物だ。剥がれた表札の裏に、本当の名札を打ち直す。その作業を、相手の前で隠さずにやる。無色の旗は、そういう透明さの印でもある。
次に、「白石会盟」の条文が読み上げられた。楓麟の手で選び抜かれた言葉は、一見して平坦だった。詩的でもなく、雄弁でもない。だが、そこには冬の記憶が具体的に並んでいる。白石間の抜け道。渡しの夜間渡河。峠の裏道。雪幕。薄氷帯。泥の袋。火の気。狼煙の合図。狐火の噂。市兵の帳簿。検塩所の比重。医の館の隔離。――それら一つひとつの具体が、「不可侵」の文字の前に小さな歯止めとしてあてがわれた。歯止めには名が要る。名のない歯止めは、いずれ外れる。名があれば、手で触れられる。手で触れられるものは、守れる。
列が静まり、王は無色の旗の前に進み出た。彼は長く話さない。大きくも手を振らない。名を読み上げるときと同じ声で、ただ短く、言った。
「線は、剣で引けば血が混じる。石で引けば、雨で洗われる。今日は、石で引く」
群衆の中からすすり泣きが漏れた。冬に夫を失った女が、袖口で口元を押さえる。春に柄を握った男が、肩のあたりで重心を少し落とす。狐火の本を書き直した書生が、胸の位置で筆を握るしぐさを無意識に作る。名の列の“読者”たちは、それぞれの胸で線の意味を測り、線の重さを自分の筋肉の記憶に写す。
儀礼は厳かに、淡々と進むはずだった。だが、白石列の端で小さな騒ぎが起きた。子どもが石を蹴って転び、膝を擦りむいたのだ。白い石に擦れた膝から、赤い線が一本、春の土に滲んだ。藍珠が真っ先に駆けようとした。が、王が先に歩み寄り、膝に水を垂らして泥を洗い、布を巻いた。
「痛いのは、今だけだ」
王は子に言った。「石は動かない。君の膝は動く」
凛耀が少し笑って、そこへ歩いてきた。
「白石は子の膝より軽い」
場の空気が、少し柔らかくなった。王は笑い返す。
「だから重く扱う」
白石の前で笑いが起きるというのは、冬には想像できない光景だった。笑いは、緊張のままでは起きない。笑いの裏には、見えないところで張り続けた誰かの筋がある。市兵の巡回の足。法務の朱。藍珠の鞘。楓麟の耳。密偵頭の影。狼煙番の少年の鏡。――そのどれもが、笑いのために張られた線だった。
締めくくりは「石押し」。双方の代表が、白石を一つずつ両手で押し、ぐらつかないことを確かめる。凛耀と王が並んで、石に手を置いた。石は冷たい。冷たさは、夏至までの時間の長さをそのまま伝える。二人は静かに押した。石は微動だにしない。楓麟が風を聞き、「南東。夏の前触れ」と呟いた。風は見えない。けれど、風の向きは旗を通して見える。見えないものに、見えるものをくくりつける。それが、儀礼の本質だった。
◇
会盟の裏で、密偵頭は「怒り線」「金線」「噂線」の再点検を行っていた。緩衝の野の帐の端、裏寺の裏口、古書肆の物置、古布屋の梁。冬に潜っていた小さな穴が、春の光で逆に見えにくくなることを、彼はよく知っていた。穴は、明るさの中で影の形を変える。変わった影をもう一度、確かめておく必要がある。
「怒り線、弱まる。柄が効いている。金線、市兵帳簿の公開で縮む。噂線、狐火の本の増刷で別の話題へ」
密偵頭が報告すると、王は頷き、朱筆で「名の列の“薄線”窓口を緩衝の野にも出張」と書き添えた。薄線の者が薄線のまま長く並ばないように。薄い線も、線であることに変わりはない。薄い線のまわりに別の線を足して、孤立した点にならないようにする。点は、風で飛ぶ。線は、風で鳴る。鳴るものは、人を呼ぶ。
市兵の小屋では、帳簿の写しが双方で作られていた。白風の帳と紅月の帳。紙の目が違えば、筆の走りも違う。違う走り方を、同じ台の上で並べる。並べることは、同意のはじまりだ。玄檀の残党が潜っていた金線は、帳簿の台の前で細くなり、噂線は、狐火の本の売り子と薬師の笑いで別の色に塗り替えられていく。
藍珠は、白石の間を歩いた。抜け道は、石と石の間ではなく、人と人の間にできる。刃が抜ける隙ではなく、言葉がこぼれる隙。彼女は剣を抜かないまま、剣の人の目で、その隙を一つずつ確かめた。足跡が不自然に途切れている場所。小石が別の色の土で汚れている場所。無色の旗の影が落ちる角度。彼女は何も言わずに、白風の若い市兵に顎で示すだけで、隙は埋まった。埋められた隙は、土と同じ匂いをさせる。人工の匂いは、すぐにばれる。
楓麟は、会盟の合間に一度だけ王を呼んだ。白石列の端、泥が少しやわらかいところ。彼は指で土をとり、王の手に渡した。
「ここは、雨のあとに沈む。『見える線』が、一夜で見えにくくなる。会盟の条に、雨後の巡視を入れよう」
「入れる」
王は即答した。即答は、冬には少なかった。春の王の答えは、短い。短いが、軽くない。短くするために冬の長い夜を使い、短い言葉のために多くの手を動かしてきた。剣の一撃よりも、鍬の一押しのほうが長く響くことを、今の彼は知っている。
◇
会盟の終わりに近づき、白石の影が長く伸び始めたころ、ひとつの石の前で王が指先を止めた。石の角は丸く、誰かが冬の間にここで座って風を避けたのだろう。角の丸みは、人の重さの記憶だ。王は石に小さく触れ、声に出さずに呟いた。名を消さない。線を守る。ほどくと結ぶ。――心の中の言葉は、唇を通らないまま無色の旗へ昇り、薄い光になってはね返った。凛耀は、その光を目で追った。彼は鏡を少し掲げ、無色の旗にもう一度光を跳ね返す。狼煙番の少年がそれを見上げ、笑って、鏡を掲げて塔へ反射を送る。点と点の間に、言葉のいらない会話が走った。
締めくくりの「石押し」を終えると、凛耀は王を振り返った。
「白風の王」
彼は、いつものように最小限の敬礼を取り、率直に言った。
「我らの内側は、まだ割れている。王弟派、王太子派、現実派。剣を置きたい者と、剣で取り戻したい者。その割れ目をまたぐ橋として、今日の石を使う。夏至までに、我らが自分の火を鎮められるかどうかは、今日の石の重さにかかっている」
「石の重さは、子どもの膝より軽い」
王は笑った。「けれど、軽いものほど、重く扱う」
凛耀も笑った。笑いには、それぞれ国の風の匂いが少し混じっている。紅月の笑いは乾いていて、白風の笑いは湿っている。乾いた笑いを、湿った笑いが受け止める。湿りは火を広げず、笑いを長くする。
◇
会盟は、旗の揺れと人の呼吸で終わった。白石列の影は長く、どこまでも伸びているように見えた。影が伸びるのは、光が傾くからだ。光が傾くのは、季節が進むからだ。季節は、人の都合で止まらない。だから、人が季節の都合に合わせる。文言に「夏至まで」と入れるのは、季節の側に合わせるという印だ。
城へ戻る道で、藍珠が王に問うた。
「今日の石は、冬の柵と、どこが違う」
「冬の柵は、刃で張った。今日の石は、手で押した。押した手の匂いが、石に残る。それを夏の風が嗅ぎ分ける。――そういう違い」
「匂いは消える」
「残り香は消えない」
藍珠は、わずかに笑った。笑いは、小さな音を連れて来る。剣を鞘に納めるはっきりした音ではなく、鞘の内側に油を塗るような、柔らかい音。王は、その音を胸の内の静けさと重ねた。
王宮に戻ると、白石会盟の記録を写す作業が始まった。法務の新任代行は、条文の一行一行を声に出して読み、書記が同じリズムで筆を運ぶ。商務は、夏の市の配置図を持って工営司と頭を突き合わせ、河原のどこに無色の旗と市兵の小屋を置けば風が通り、火が安全に焚けるかを確かめる。医の館は、夏に懸念される病の一覧を八つ折りの紙にまとめ、城下の掲示板の端と配給所の柱に貼る準備をしていた。検塩所は、水桶の比重表の紙を増刷し、塩の袋の口の縛り方を絵で描いた新しい張り紙を描いていた。
「王」
密偵頭が、控えめに声をかけた。
「玄檀残党の“怒り線”、目立った動きなし。『白石会盟』で、市の噂は『夏の市の位置』に移った。――ただ、夏を前に、水と病の話題が増えています」
「水と、病」
「はい。用水の配分、井戸の蓋、蚊の発生、古井戸の再開、薬草の在庫、塩煮場の衛生。……それから、『帰還未確認』の薄線の家で、疲れが溜まっている」
王は朱筆を取った。名の列の端に、薄線が重なるあたりに、小さく「夏の窓口」と書き足した。薄線の人の体は、薄線と同じくらい繊細だ。繊細さは、時に強さの反対ではない。薄い紙が手のひらの熱で柔らかくなるように、薄い線も人の手で持てる。持つ手を増やす。
「緩衝の野に、『薄線窓口』の出張を」
「すでに小さな箱を置いてあります。市兵の小屋の端、封印札の棚の横。……狐火の本の売り子が、『薄線』の読み方を子たちに教えています」
密偵頭は、微笑んだ。笑うとき、彼の影は薄くなる。冬の影には角があった。春の影は、丸い。
楓麟が塔に上った。風は南東。昼の湿りは、夜になると少し冷たくなる。遠い山の端に、雲が薄くかかる。夏の前触れは、空の縁でささやく。耳を傾けた者にしか、聞こえない音。
「風は、南東」
彼はひとり言のように言った。答える者はいない。それでいい。風の相手は、風自身だ。風は、誰かの短い言葉の中に立って、しばらくじっとしてから、また動き出す。
◇
夜更け、王は名の列の前に立った。白石会盟で掲示の前に集まった人々の顔が、まだ目に残っている。白い紙の上で、朱の線が静かに乾く。乾いた朱は、すぐに手で触っても色が移らない。移らない色は、明日のためにある。明日が来れば、また別の朱が置かれるだろう。朱の上に朱を重ねる仕事は、冬より春のほうが重くない。季節の重さの違いを、彼は肩で知った。
掲示板の下に、小さな花が置かれていた。薄い紫の花弁。葉にわずかに土が残る。誰が置いたのか、訊ねない。訊ねないことで守られることがある。名の下に花があるという事実が、今日の重さを薄める。その薄まり具合を、手のひらで確かめる。掌は、井戸の水の温度を知っている。鍋の火の強さも知っている。剣の柄の重さも知っている。柄の木目の硬さも知っている。ひとつの手が、いくつもの重さを記憶する。それを「国の手」と呼ぶなら、少しは格好がつく。
「夏至までの線は、石で引いた」
王は誰にも聞かせない声で言った。
「夏至のあとの線は――」
言葉を切る。切られた言葉は、夜の空気に紛れて消えた。消えることで、柔らかくなる言葉がある。固くして残すべき言葉と、柔らかくして消すべき言葉。その見分け方を、彼は季節に教わっている。
回廊を曲がると、藍珠が柱にもたれかかっていた。彼女は王に気づくと、壁に立てかけてあった鍬をひょいと手に取り、柄の端を王に向けて出した。
「持ってみるか」
王は笑って、柄を受け取った。重さは、昨夜と変わらない。変わらないのに、肩の筋肉のほうが、この重さの扱いに少し慣れている。慣れは、油断ではない。慣れは、体の知恵だ。知恵は、言葉より先に育つことがある。
「剣は畑の外で待つ」
藍珠は、冬に言ったのと同じ言葉を、春の声で繰り返した。冬の声は刃の音を連れてきた。春の声は土の匂いを連れてくる。同じ言葉が、季節で意味を少し変える。その変わり方は、誰かの決めごとではない。空の色と、風の厚みと、土の湿り具合が決める。
遠く、城壁の上から、狼煙番の少年の笑い声が聞こえた。彼は鏡をかざし、塔に向かって小さな光を跳ね返している。無色の旗が夜風に揺れ、白石列の影が暗がりの中に沈む。会盟の刻印は、石に押され、帳に写され、人の筋肉に記憶され、子どもの膝に軽い傷として残る。そういうふうにして、国は、自分の形を保つ。
◇
翌日。白石会盟の知らせは、城下の掲示板と配給所の柱、検塩所の前、医の館の入り口、緩衝の野の市兵小屋の端に貼られた。どの場所でも、人が足を止め、声をひそめ、指でなぞり、時には笑い、時には顔をしかめ、時には肩を落とした。反応は一つではない。それでいい。一つの反応しかない掲示は、嘘の可能性が高い。いくつもの反応を呼ぶ掲示は、手触りがある。
緩衝の野では、前日の柄が今日も役に立っていた。封印札の棚の横に置かれた小箱には、「薄線窓口」の札。書生が、紙のめくり方を子どもたちに教えている。市兵は、怒り線をくぐるように巡回の足を曲げ、医の館の臨時診療台では、夏前の病を防ぐための墨書きが一枚、風で揺れた。蚊の描かれた稚拙な絵の下に、丸い字で「水を捨てる」「蓋を閉める」「布で覆う」と書いてある。笑う者がいた。笑いながら、桶の水を半分だけ捨てた。半分だけでも、違う。
会盟の紙の端には、小さな余白がある。余白は、次の言葉のための土台だ。書き込むのは、夏の課題。灌漑の配分。不作の兆し。緩衝の野に生まれる新しい「名」。帰還未確認の薄線たち。――すべてを、石で引いた線の内側で、帳で裁き、鍬で守る。剣は、畑の外で待たせる。待っている剣にも名前を与える。待つ剣は、抜かれる剣より軽くはない。だが、軽く見えるように持つ。持ち方の工夫は、政治の工夫に似ている。
午後、凛耀が帰国の支度をしているという報が入った。灰の渡しの縄印の前で、短い見送りの儀が整えられた。無色の旗の下、干し魚と塩と干果。冬の終わりの春市のときと同じ品々だ。けれど、味が少し違う。塩は、検塩所の桶を通り、比重を確かめられてから来た。干し魚は、医の館の台所で一度湯を通されている。干果は、子どもに配られた残りだ。残りであることの透明さが、味に少し甘さを足している。
凛耀は王に深く礼をし、鏡を掲げた。鏡は、もうひとつ、狼煙番の少年に渡されていた。少年は嬉しそうに、鏡の裏の風の文様を指でなぞった。文様は、白風の紋とも紅月の紋とも違う。風そのものの形は、どちらにも属さない。
「夏至まで」
凛耀が言う。王は頷き、ひと呼吸の間を置いて答えた。
「夏至まで」
言葉が、縄印の上を渡り、川面に落ち、光の破片になって漂った。漂う光の破片を、少年の鏡が拾い上げ、塔に向かって投げ返す。点は、点へ。線は、線へ。二つの国の胸に、同じ形が静かに写る。
◇
夜、塔の上で楓麟は風を聞いた。南東――夏の前触れ。風は、湿りを帯びる。湿りは、病の匂いを連れてくることがある。水は、命の匂いと、病の匂いを、両方持つ。井戸の蓋。用水の分配。塩の濃さ。薬草の在庫。蚊の巣。緩衝の野の寝床の距離。――すべては、白石会盟の「石押し」と同じくらい、正確に押して確かめる必要がある。
藍珠が上ってきた。彼女は剣を携えていない。代わりに、柄を一本持っていた。柄の先には、短い布が巻かれている。
「王が布で巻いた子の膝、もう血は止まったそうだ」
「そうか」
「白石は子の膝より軽い、と凛耀が言った」
「軽いものほど、重く扱う」
「なら、夏の水は、重く扱え」
藍珠の言葉は、明日の課題を机に置くように、そこに置かれた。楓麟は風の厚みを確かめながら、ひとつだけうなずいた。
「夏の水、夏の病。名の列。――『名を消さない』原則は、もう一度試される」
王は、塔の縁に手を置いた。縁は冷たい。冷たさは、落ち着きを連れて来る。手の冷たさが頭を澄ませる。澄んだ頭で、彼はゆっくり息を吸った。吸った息の重さは、冬より軽い。軽いけれど、軽いからこそ、気が遠くに飛びやすい。飛びやすい気を、石に結びなおす。白石会盟は、そのための結び目だった。
「名を消さない。線を守る。ほどくと結ぶ」
王は、心の中で繰り返した。繰り返すたびに、言葉は短くなる。短くなるたびに、重さは増す。増えた重さは、柄に等分に乗る。柄を持つ手が増えれば、重さは分かれる。分かれた重さは、国を壊さない。
薄紅平原の白石列は、夜の中で黒い石となり、影は影に紛れた。無色の旗は、月明かりの下で、色を持たないまま、布の質感だけを見せた。緩衝の野の灯は、二重に灯り、封印札の紙は静かに鳴った。狼煙番の少年は、塔の上に小さな光を投げ、狐火の本の書生は、机の上で新しい頁をひとつ、書き足していた。名の列の薄線の端には、小さな花がまた一輪、誰かの手で置かれている。
白石会盟――石で引かれ、帳で裁かれ、旗で見せる誓いは、夏至までの季節の「約」として、街と平原と塔の三つの高さに刻み住みついた。影は伸びる。伸びる影に、また別の灯が必要だ。灯を増やすことは、嘘を増やすことではない。灯は、嘘を消すためにある。夏の前触れの風が、塔の上を掠めていく。風の匂いは、少し塩辛い。水の匂いだ。水は、刃より重い季節を連れてくる。その重さに、柄で応える準備を――王は、静かに胸の内で整えはじめた。
王宮の朝の評議室では、その「見える線」を言葉で縫いとめる作業が続いていた。長机の中央に敷かれた地図には、薄紅平原、霜の峠、灰の渡し、凍河、城下の道――冬を越える間に幾度も触れて、紙の繊維が柔らかくなった場所ばかりが、指の脂で少し濃く光っている。その上に三本の紐が置かれた。赤は王弟派、金は王太子派、灰は現実派。紐の先には小さな札が結ばれていて、札には各派から届いた要求や条件が、要点だけ抜き取られて墨の筆跡で並んでいる。楓麟の手で切りそろえられた紐の端が、わずかな風にも揺らいで、交渉の落ち着かなさをそのまま写していた。
「赤は喰う。金は見張る。灰はほどく」
楓麟が、紐の結び目を人差し指の腹でなぞりながら短く言った。彼の耳は、評議室の窓に触れている風の厚みを測るように、すっと動いた。耳の動きに合わせて、王座の脇に立つ藍珠が小さく顎を引く。彼女は紐には触れない。触れない代わりに、壁に掛けてある剣の柄に一度だけ手を置き、その感触を確かめる。
「剣を置いているのは灰だけだ」
藍珠の言葉は、刃で紙の端を切るときの音に似ていた。薄いのに、確かに深い。
「我々は『線を守る外交』を選ぶ。線を曖昧にする誘いは受けない」
遥は、地図の上の白石の列に指を置いた。小さな指の熱が紙に移る。その熱は、冬の夜に井戸で泥を掬ったときの冷えを、かすかに追い払う。
「ただ、亡命の明文化は受けたい。『緩衝の野』の秩序を、夏まで持たせたいから」
評議室の隅、灯の下に立つ密偵頭が頷いた。彼の衣は市兵のそれとよく似ているが、裾の糸の解け方が違う。気配の薄さは、灯の影の濃さと反比例する。冬のあいだに張った「怒り線」「金線」「噂線」。その三本の線の張り具合を、彼は毎朝の風のように確かめ、報告してくる。
「……紅月の現実派から、『白石会盟』の提案。白石列を双方の印で確認し、夏至までの不可侵を公開で誓う。破れば市兵の帳簿と無色の旗の下で裁く、と」
書記が読み上げる。筆なめの癖が抜けない若い書記の舌は、まだすこし墨の苦さを持つ。
「剣ではなく帳で裁く、ですか」
法務の新任代行が、眼鏡の端を押しながら呟いた。彼は冬に玄檀の机で止まっていた案件を一つひとつほどき、朱で「誤り」の上に「訂正」を重ねてきた。朱の印は、春の光でもよく映える。
「記録の整備が先です。会盟を結ぶなら、違約の手続き、その記録の保存、公開の仕方――全部、先に決めるべきことがある」
「会盟の場で、夏の市の枠組みも決めたい」
商務の若い官が、思わず身を乗り出した。冬のあいだ、彼は配給の数字と現場の腹具合の差を手で測る術を覚えた。春の市は、数字だけでなく顔を持つ。顔のある数字は、街を動かす。
「警備の洗い出しを」
藍珠は表情を変えずに言う。「白石の間に“抜け道”がある。冬に掘った小さな溝が、春の泥で道になる。人が通った道は必ずできる」
楓麟がうなずき、窓の外の風を一度吸った。
「白石の列は“見える線”。抜け道は“見えぬ線”。会盟で“見えぬ線”も言葉にして縛る」
見えないものに言葉を与える。言葉は、見えないものの縁に糸をかけて、引き上げるための道具だ。引き上げられたものは、陽にさらされ、乾き、形を持つ。
決まるまでに、さらに三つの手が必要だった。法務の手は帳を整え、商務の手は市の台と旗の順序を整え、工営司の手は白石列の欠けを補って等間隔にする。市兵の小屋は、臨時の作業場となり、帳簿の写しを双方で作る台が準備された。無色の旗の新しい布は、染めないままの生成りで、風に鳴らすとやさしい音がした。
◇
会盟の朝、薄紅平原の中央に人が集まった。白風は白の小旗を等間隔に、紅月は灰の小旗を等間隔に。中央に無色の旗を一本。旗の列が風を受けるたび、白石の影がゆれて伸び、また縮む。影の伸び縮みは、人の息と似ている。会盟とは、集団の呼吸を合わせる儀式でもあった。
紅月からは凛耀が来た。彼は疲れていた。頬の削げ具合、唇の乾き、目の下の薄い隈。しかし眼は澄んでいる。秋の日に磨かれた青銅の鏡のように、光を素直に跳ね返す。彼は無色の旗の前で深く一礼し、まず「亡命明文化協定」に署名した。宿営、公的な医療、武装解除、身柄引き渡しの可否、家族帯同――条文は、冬の間に幾度もやり取りした草案が手で磨かれて、無駄のないものへと削がれている。ひとつだけ、紅月の面子のために難しい折衝が必要だった「名の抹消」の条については、こちらの折衷案――『相手国の掲示からは削除。ただし受け入れ国は“亡命名簿”に登録し、名の列の“外縁”に記す』――が、凛耀の頷きとともに受け入れられた。面子と記憶は別物だ。剥がれた表札の裏に、本当の名札を打ち直す。その作業を、相手の前で隠さずにやる。無色の旗は、そういう透明さの印でもある。
次に、「白石会盟」の条文が読み上げられた。楓麟の手で選び抜かれた言葉は、一見して平坦だった。詩的でもなく、雄弁でもない。だが、そこには冬の記憶が具体的に並んでいる。白石間の抜け道。渡しの夜間渡河。峠の裏道。雪幕。薄氷帯。泥の袋。火の気。狼煙の合図。狐火の噂。市兵の帳簿。検塩所の比重。医の館の隔離。――それら一つひとつの具体が、「不可侵」の文字の前に小さな歯止めとしてあてがわれた。歯止めには名が要る。名のない歯止めは、いずれ外れる。名があれば、手で触れられる。手で触れられるものは、守れる。
列が静まり、王は無色の旗の前に進み出た。彼は長く話さない。大きくも手を振らない。名を読み上げるときと同じ声で、ただ短く、言った。
「線は、剣で引けば血が混じる。石で引けば、雨で洗われる。今日は、石で引く」
群衆の中からすすり泣きが漏れた。冬に夫を失った女が、袖口で口元を押さえる。春に柄を握った男が、肩のあたりで重心を少し落とす。狐火の本を書き直した書生が、胸の位置で筆を握るしぐさを無意識に作る。名の列の“読者”たちは、それぞれの胸で線の意味を測り、線の重さを自分の筋肉の記憶に写す。
儀礼は厳かに、淡々と進むはずだった。だが、白石列の端で小さな騒ぎが起きた。子どもが石を蹴って転び、膝を擦りむいたのだ。白い石に擦れた膝から、赤い線が一本、春の土に滲んだ。藍珠が真っ先に駆けようとした。が、王が先に歩み寄り、膝に水を垂らして泥を洗い、布を巻いた。
「痛いのは、今だけだ」
王は子に言った。「石は動かない。君の膝は動く」
凛耀が少し笑って、そこへ歩いてきた。
「白石は子の膝より軽い」
場の空気が、少し柔らかくなった。王は笑い返す。
「だから重く扱う」
白石の前で笑いが起きるというのは、冬には想像できない光景だった。笑いは、緊張のままでは起きない。笑いの裏には、見えないところで張り続けた誰かの筋がある。市兵の巡回の足。法務の朱。藍珠の鞘。楓麟の耳。密偵頭の影。狼煙番の少年の鏡。――そのどれもが、笑いのために張られた線だった。
締めくくりは「石押し」。双方の代表が、白石を一つずつ両手で押し、ぐらつかないことを確かめる。凛耀と王が並んで、石に手を置いた。石は冷たい。冷たさは、夏至までの時間の長さをそのまま伝える。二人は静かに押した。石は微動だにしない。楓麟が風を聞き、「南東。夏の前触れ」と呟いた。風は見えない。けれど、風の向きは旗を通して見える。見えないものに、見えるものをくくりつける。それが、儀礼の本質だった。
◇
会盟の裏で、密偵頭は「怒り線」「金線」「噂線」の再点検を行っていた。緩衝の野の帐の端、裏寺の裏口、古書肆の物置、古布屋の梁。冬に潜っていた小さな穴が、春の光で逆に見えにくくなることを、彼はよく知っていた。穴は、明るさの中で影の形を変える。変わった影をもう一度、確かめておく必要がある。
「怒り線、弱まる。柄が効いている。金線、市兵帳簿の公開で縮む。噂線、狐火の本の増刷で別の話題へ」
密偵頭が報告すると、王は頷き、朱筆で「名の列の“薄線”窓口を緩衝の野にも出張」と書き添えた。薄線の者が薄線のまま長く並ばないように。薄い線も、線であることに変わりはない。薄い線のまわりに別の線を足して、孤立した点にならないようにする。点は、風で飛ぶ。線は、風で鳴る。鳴るものは、人を呼ぶ。
市兵の小屋では、帳簿の写しが双方で作られていた。白風の帳と紅月の帳。紙の目が違えば、筆の走りも違う。違う走り方を、同じ台の上で並べる。並べることは、同意のはじまりだ。玄檀の残党が潜っていた金線は、帳簿の台の前で細くなり、噂線は、狐火の本の売り子と薬師の笑いで別の色に塗り替えられていく。
藍珠は、白石の間を歩いた。抜け道は、石と石の間ではなく、人と人の間にできる。刃が抜ける隙ではなく、言葉がこぼれる隙。彼女は剣を抜かないまま、剣の人の目で、その隙を一つずつ確かめた。足跡が不自然に途切れている場所。小石が別の色の土で汚れている場所。無色の旗の影が落ちる角度。彼女は何も言わずに、白風の若い市兵に顎で示すだけで、隙は埋まった。埋められた隙は、土と同じ匂いをさせる。人工の匂いは、すぐにばれる。
楓麟は、会盟の合間に一度だけ王を呼んだ。白石列の端、泥が少しやわらかいところ。彼は指で土をとり、王の手に渡した。
「ここは、雨のあとに沈む。『見える線』が、一夜で見えにくくなる。会盟の条に、雨後の巡視を入れよう」
「入れる」
王は即答した。即答は、冬には少なかった。春の王の答えは、短い。短いが、軽くない。短くするために冬の長い夜を使い、短い言葉のために多くの手を動かしてきた。剣の一撃よりも、鍬の一押しのほうが長く響くことを、今の彼は知っている。
◇
会盟の終わりに近づき、白石の影が長く伸び始めたころ、ひとつの石の前で王が指先を止めた。石の角は丸く、誰かが冬の間にここで座って風を避けたのだろう。角の丸みは、人の重さの記憶だ。王は石に小さく触れ、声に出さずに呟いた。名を消さない。線を守る。ほどくと結ぶ。――心の中の言葉は、唇を通らないまま無色の旗へ昇り、薄い光になってはね返った。凛耀は、その光を目で追った。彼は鏡を少し掲げ、無色の旗にもう一度光を跳ね返す。狼煙番の少年がそれを見上げ、笑って、鏡を掲げて塔へ反射を送る。点と点の間に、言葉のいらない会話が走った。
締めくくりの「石押し」を終えると、凛耀は王を振り返った。
「白風の王」
彼は、いつものように最小限の敬礼を取り、率直に言った。
「我らの内側は、まだ割れている。王弟派、王太子派、現実派。剣を置きたい者と、剣で取り戻したい者。その割れ目をまたぐ橋として、今日の石を使う。夏至までに、我らが自分の火を鎮められるかどうかは、今日の石の重さにかかっている」
「石の重さは、子どもの膝より軽い」
王は笑った。「けれど、軽いものほど、重く扱う」
凛耀も笑った。笑いには、それぞれ国の風の匂いが少し混じっている。紅月の笑いは乾いていて、白風の笑いは湿っている。乾いた笑いを、湿った笑いが受け止める。湿りは火を広げず、笑いを長くする。
◇
会盟は、旗の揺れと人の呼吸で終わった。白石列の影は長く、どこまでも伸びているように見えた。影が伸びるのは、光が傾くからだ。光が傾くのは、季節が進むからだ。季節は、人の都合で止まらない。だから、人が季節の都合に合わせる。文言に「夏至まで」と入れるのは、季節の側に合わせるという印だ。
城へ戻る道で、藍珠が王に問うた。
「今日の石は、冬の柵と、どこが違う」
「冬の柵は、刃で張った。今日の石は、手で押した。押した手の匂いが、石に残る。それを夏の風が嗅ぎ分ける。――そういう違い」
「匂いは消える」
「残り香は消えない」
藍珠は、わずかに笑った。笑いは、小さな音を連れて来る。剣を鞘に納めるはっきりした音ではなく、鞘の内側に油を塗るような、柔らかい音。王は、その音を胸の内の静けさと重ねた。
王宮に戻ると、白石会盟の記録を写す作業が始まった。法務の新任代行は、条文の一行一行を声に出して読み、書記が同じリズムで筆を運ぶ。商務は、夏の市の配置図を持って工営司と頭を突き合わせ、河原のどこに無色の旗と市兵の小屋を置けば風が通り、火が安全に焚けるかを確かめる。医の館は、夏に懸念される病の一覧を八つ折りの紙にまとめ、城下の掲示板の端と配給所の柱に貼る準備をしていた。検塩所は、水桶の比重表の紙を増刷し、塩の袋の口の縛り方を絵で描いた新しい張り紙を描いていた。
「王」
密偵頭が、控えめに声をかけた。
「玄檀残党の“怒り線”、目立った動きなし。『白石会盟』で、市の噂は『夏の市の位置』に移った。――ただ、夏を前に、水と病の話題が増えています」
「水と、病」
「はい。用水の配分、井戸の蓋、蚊の発生、古井戸の再開、薬草の在庫、塩煮場の衛生。……それから、『帰還未確認』の薄線の家で、疲れが溜まっている」
王は朱筆を取った。名の列の端に、薄線が重なるあたりに、小さく「夏の窓口」と書き足した。薄線の人の体は、薄線と同じくらい繊細だ。繊細さは、時に強さの反対ではない。薄い紙が手のひらの熱で柔らかくなるように、薄い線も人の手で持てる。持つ手を増やす。
「緩衝の野に、『薄線窓口』の出張を」
「すでに小さな箱を置いてあります。市兵の小屋の端、封印札の棚の横。……狐火の本の売り子が、『薄線』の読み方を子たちに教えています」
密偵頭は、微笑んだ。笑うとき、彼の影は薄くなる。冬の影には角があった。春の影は、丸い。
楓麟が塔に上った。風は南東。昼の湿りは、夜になると少し冷たくなる。遠い山の端に、雲が薄くかかる。夏の前触れは、空の縁でささやく。耳を傾けた者にしか、聞こえない音。
「風は、南東」
彼はひとり言のように言った。答える者はいない。それでいい。風の相手は、風自身だ。風は、誰かの短い言葉の中に立って、しばらくじっとしてから、また動き出す。
◇
夜更け、王は名の列の前に立った。白石会盟で掲示の前に集まった人々の顔が、まだ目に残っている。白い紙の上で、朱の線が静かに乾く。乾いた朱は、すぐに手で触っても色が移らない。移らない色は、明日のためにある。明日が来れば、また別の朱が置かれるだろう。朱の上に朱を重ねる仕事は、冬より春のほうが重くない。季節の重さの違いを、彼は肩で知った。
掲示板の下に、小さな花が置かれていた。薄い紫の花弁。葉にわずかに土が残る。誰が置いたのか、訊ねない。訊ねないことで守られることがある。名の下に花があるという事実が、今日の重さを薄める。その薄まり具合を、手のひらで確かめる。掌は、井戸の水の温度を知っている。鍋の火の強さも知っている。剣の柄の重さも知っている。柄の木目の硬さも知っている。ひとつの手が、いくつもの重さを記憶する。それを「国の手」と呼ぶなら、少しは格好がつく。
「夏至までの線は、石で引いた」
王は誰にも聞かせない声で言った。
「夏至のあとの線は――」
言葉を切る。切られた言葉は、夜の空気に紛れて消えた。消えることで、柔らかくなる言葉がある。固くして残すべき言葉と、柔らかくして消すべき言葉。その見分け方を、彼は季節に教わっている。
回廊を曲がると、藍珠が柱にもたれかかっていた。彼女は王に気づくと、壁に立てかけてあった鍬をひょいと手に取り、柄の端を王に向けて出した。
「持ってみるか」
王は笑って、柄を受け取った。重さは、昨夜と変わらない。変わらないのに、肩の筋肉のほうが、この重さの扱いに少し慣れている。慣れは、油断ではない。慣れは、体の知恵だ。知恵は、言葉より先に育つことがある。
「剣は畑の外で待つ」
藍珠は、冬に言ったのと同じ言葉を、春の声で繰り返した。冬の声は刃の音を連れてきた。春の声は土の匂いを連れてくる。同じ言葉が、季節で意味を少し変える。その変わり方は、誰かの決めごとではない。空の色と、風の厚みと、土の湿り具合が決める。
遠く、城壁の上から、狼煙番の少年の笑い声が聞こえた。彼は鏡をかざし、塔に向かって小さな光を跳ね返している。無色の旗が夜風に揺れ、白石列の影が暗がりの中に沈む。会盟の刻印は、石に押され、帳に写され、人の筋肉に記憶され、子どもの膝に軽い傷として残る。そういうふうにして、国は、自分の形を保つ。
◇
翌日。白石会盟の知らせは、城下の掲示板と配給所の柱、検塩所の前、医の館の入り口、緩衝の野の市兵小屋の端に貼られた。どの場所でも、人が足を止め、声をひそめ、指でなぞり、時には笑い、時には顔をしかめ、時には肩を落とした。反応は一つではない。それでいい。一つの反応しかない掲示は、嘘の可能性が高い。いくつもの反応を呼ぶ掲示は、手触りがある。
緩衝の野では、前日の柄が今日も役に立っていた。封印札の棚の横に置かれた小箱には、「薄線窓口」の札。書生が、紙のめくり方を子どもたちに教えている。市兵は、怒り線をくぐるように巡回の足を曲げ、医の館の臨時診療台では、夏前の病を防ぐための墨書きが一枚、風で揺れた。蚊の描かれた稚拙な絵の下に、丸い字で「水を捨てる」「蓋を閉める」「布で覆う」と書いてある。笑う者がいた。笑いながら、桶の水を半分だけ捨てた。半分だけでも、違う。
会盟の紙の端には、小さな余白がある。余白は、次の言葉のための土台だ。書き込むのは、夏の課題。灌漑の配分。不作の兆し。緩衝の野に生まれる新しい「名」。帰還未確認の薄線たち。――すべてを、石で引いた線の内側で、帳で裁き、鍬で守る。剣は、畑の外で待たせる。待っている剣にも名前を与える。待つ剣は、抜かれる剣より軽くはない。だが、軽く見えるように持つ。持ち方の工夫は、政治の工夫に似ている。
午後、凛耀が帰国の支度をしているという報が入った。灰の渡しの縄印の前で、短い見送りの儀が整えられた。無色の旗の下、干し魚と塩と干果。冬の終わりの春市のときと同じ品々だ。けれど、味が少し違う。塩は、検塩所の桶を通り、比重を確かめられてから来た。干し魚は、医の館の台所で一度湯を通されている。干果は、子どもに配られた残りだ。残りであることの透明さが、味に少し甘さを足している。
凛耀は王に深く礼をし、鏡を掲げた。鏡は、もうひとつ、狼煙番の少年に渡されていた。少年は嬉しそうに、鏡の裏の風の文様を指でなぞった。文様は、白風の紋とも紅月の紋とも違う。風そのものの形は、どちらにも属さない。
「夏至まで」
凛耀が言う。王は頷き、ひと呼吸の間を置いて答えた。
「夏至まで」
言葉が、縄印の上を渡り、川面に落ち、光の破片になって漂った。漂う光の破片を、少年の鏡が拾い上げ、塔に向かって投げ返す。点は、点へ。線は、線へ。二つの国の胸に、同じ形が静かに写る。
◇
夜、塔の上で楓麟は風を聞いた。南東――夏の前触れ。風は、湿りを帯びる。湿りは、病の匂いを連れてくることがある。水は、命の匂いと、病の匂いを、両方持つ。井戸の蓋。用水の分配。塩の濃さ。薬草の在庫。蚊の巣。緩衝の野の寝床の距離。――すべては、白石会盟の「石押し」と同じくらい、正確に押して確かめる必要がある。
藍珠が上ってきた。彼女は剣を携えていない。代わりに、柄を一本持っていた。柄の先には、短い布が巻かれている。
「王が布で巻いた子の膝、もう血は止まったそうだ」
「そうか」
「白石は子の膝より軽い、と凛耀が言った」
「軽いものほど、重く扱う」
「なら、夏の水は、重く扱え」
藍珠の言葉は、明日の課題を机に置くように、そこに置かれた。楓麟は風の厚みを確かめながら、ひとつだけうなずいた。
「夏の水、夏の病。名の列。――『名を消さない』原則は、もう一度試される」
王は、塔の縁に手を置いた。縁は冷たい。冷たさは、落ち着きを連れて来る。手の冷たさが頭を澄ませる。澄んだ頭で、彼はゆっくり息を吸った。吸った息の重さは、冬より軽い。軽いけれど、軽いからこそ、気が遠くに飛びやすい。飛びやすい気を、石に結びなおす。白石会盟は、そのための結び目だった。
「名を消さない。線を守る。ほどくと結ぶ」
王は、心の中で繰り返した。繰り返すたびに、言葉は短くなる。短くなるたびに、重さは増す。増えた重さは、柄に等分に乗る。柄を持つ手が増えれば、重さは分かれる。分かれた重さは、国を壊さない。
薄紅平原の白石列は、夜の中で黒い石となり、影は影に紛れた。無色の旗は、月明かりの下で、色を持たないまま、布の質感だけを見せた。緩衝の野の灯は、二重に灯り、封印札の紙は静かに鳴った。狼煙番の少年は、塔の上に小さな光を投げ、狐火の本の書生は、机の上で新しい頁をひとつ、書き足していた。名の列の薄線の端には、小さな花がまた一輪、誰かの手で置かれている。
白石会盟――石で引かれ、帳で裁かれ、旗で見せる誓いは、夏至までの季節の「約」として、街と平原と塔の三つの高さに刻み住みついた。影は伸びる。伸びる影に、また別の灯が必要だ。灯を増やすことは、嘘を増やすことではない。灯は、嘘を消すためにある。夏の前触れの風が、塔の上を掠めていく。風の匂いは、少し塩辛い。水の匂いだ。水は、刃より重い季節を連れてくる。その重さに、柄で応える準備を――王は、静かに胸の内で整えはじめた。



