“緩衝の野”は、日ごとに模様を変える毛布のようだった。昨夜は確かに静かで、灯は等間隔に並び、封印札の箱の前にはまっすぐの列が伸びていた。ところが翌朝には、灯のいくつかが柵の外まで膨らみ、別の夜には半分にしぼむ。風向きと人の向きは、常に同じとは限らない。紅月の向こうの空で起きている何かが、その日の群れの顔触れを変える――男だけの隊列、家族連れ、傷病者、熟練の兵、そして素行の悪い若者。混ざり合い、分かれ、また混ざる。市兵は帳簿と灯で秩序を保とうとするが、春の風は軽く、人の気も軽い。軽さは、時に良い。けれど、火の粉もまた、軽いほど飛びやすい。
午前の陽が斜めに射し込むころ、封印札の箱の前に二つの影が重なった。二人の男が、木台に置かれた同じ銘の刀を、それぞれ自分のものだと主張していた。封印札に書かれた「刀の名」。乾いた墨で記された鍛冶屋の銘は、確かに同じだ。片方の男は、首筋に古い傷があり、鎧の紐を切って民の衣に近づけた姿。もう一人は、土埃にまみれた旅装で、腰に封印の紐の跡が赤く残っている。市兵が間に入り、帳簿をめくって照合をはじめたが、些細な口調の高低が火種になるには十分だった。
「それは俺のだ。北州の鍛冶〈陽焔〉の銘、柄巻きが二度重ねで――」
「陽焔の銘は珍しくない。柄巻きだって、戦のさなかに巻き直すことはある。俺はこの刃を十年握ってきた。手が覚えてる」
「覚えているというなら、白風の封印札に用はねえ。白風は刃を盗む国だ。返す気があるなら、とっくに返しているはずだ」
「盗む」という言葉が、周囲の空気を刃物のように裂く。背の高い男が一歩踏み出し、拳が宙を切った。市兵が腕を抑えようとした瞬間、外の輪から短い罵声が飛び、別の手が伸びて肩を突いた。冬に受けた傷の恨み。塩の薄さへの不満。掲示板で“点線”のままの名を抱える女の泣き声。いくつもの小さな不満が、乾いた藁の上に投げ込まれた火種に、順々に火を移していくのが見えた。
火は灯りからではない。灯は静かに立ち、揺れるだけだ。だが、人の眼は灯の揺れを火と見まちがえる。閃光のように火床の端で炎の舌が上がった。誰かがつかんだ焚き付けの束が、あっという間に赤くなった。
柵上に飛び乗った藍珠は、剣の柄で火床の縁を叩いた。刃は抜かない。抜いた刃は、刃を呼ぶ。
「柵の中で刃を抜くな!」
声は短く、落ちた鉄片の音よりも冷たく響く。しかし怒りは言葉では消えない。怒り線は、理より速く走る。楓麟は、柵に立ったまま一度だけ風を吸い、吐いた。炎の走り方を聞く。油に走る火ではない。乾いた藁に走る火。ならば、水を浴びせるより、「湿り」を広げるほうが早い。風の湿り気は、意志で増やせるものではない。けれど、人の湿り気は、言葉で増えることがある。
王は市兵の小屋に入り、帳簿を掴んだ。手のひらに紙のざらつきが痛い。名の列を押した朱の感覚が、まだ皮膚に残っている。
「封印札の列と名の列を並べろ」
書記が震える手で板二枚を外へ持ち出す。高台へ駆け上がる間、王は声の高さを自分の胸の中で測った。高すぎれば、怒りと同じ高さになる。低すぎれば、濡れた土に吸い込まれてしまう。高台の上に立つと、野を渡る風が胸に入った。藁の匂いと、金の匂いと、食べ物の匂いと、刃の冷たさが混ざる匂い。遠い塔で焚かれている灯の匂いも、かすかに混じっている。
「“刀の名”は名だ」
王は言った。怒鳴らず、しかし遠くまで届くように。
「名を盗めば、次はおまえ自身の名が剥がれる。返すべきものは返す。だが、返すのは今ではない」
ざわめきが、野のあちこちで膨らんではしぼむ。返さない、と聞こえた耳のざわめき。返す、と聞こえた耳のざわめき。
「封印札は秋まで預かる」
王は続けた。
「返還は“春の境界”の安定を見てからだ。代わりに、封印札一枚につき“鍬の柄一本”を渡す。柄は市兵が保管する。刃は秋に、柄に戻す。それまでのあいだ、ここでは刃ではなく、柄を持て」
意外な提案に、怒号が一瞬止んだ。鍬の柄は戦を思い出させない。けれど、空っぽの手には寂しさが溜まる。柄は、その寂しさを少しだけ埋める。藍珠が市兵に顎で合図し、格納していた柄束を担ぎ出させる。継ぎ目の見える栗の木の柄。握ると、手の中に汗が少し滲む。子が笑う。大人が苦笑する。何人かは吐き捨てる。その吐き捨ては、土に吸われる音をした。
楓麟は、耳をわずかに動かした。風の音が、さっきよりも柔らいだ。怒り線は、まだ消えない。けれど、湿りが広がれば、燃える藁が減っていく。減らす時間を稼ぐのが、今の仕事だ。
それでも火の芯はしぶとい。重複札の当事者は、納得しない。二人は高台の下で、互いの顔をまっすぐに睨んでいる。片方の男の拳はまだ握られ、爪の横に白い半月が浮き上がっている。
「同じ鍛冶の同じ銘なら、俺の手に戻るはずだ」
「いや、俺の手に戻るはずだ」
「戻るはず、という言葉は、刃より鋭い」
楓麟が言い、二人を高台の上に上げた。封印札の薄い傷、筆の癖、鍛冶銘の刻みの違いを、一つずつ示す。刻みの深さ。最後の画の跳ね。目釘の位置。柄巻きの裏についた微かな煤。鋼色の冷たさは人に似て、同じと思っても同じではない。
「これは同じ銘でも“別の刀”だ」
楓麟の指が、封印札の縁をなぞる。
「戻すなら“別の手”に戻る」
群衆の中から声が上がった。
「持ち主が違うのなら、違う名の列に――」
王は頷いた。書記に封印札の記録欄を引き直すよう命じる。「発見者」「受領者」を分けて書く欄。受領者は秋に柄と一緒に返還する。発見者には鍬の柄に加えて「春借の免除」をつける。刀の名はひとつだが、関わる手の名はふたつある。そのふたつを紙の上で別にしてやるだけで、怒りは半分に割れる。半分になった怒りは、片方を土に還せる。
封印札の箱の前に、列がもう一度、まっすぐになりかけた。その列の端で、小さな泣き声がした。掲示板の“点線”のままの名を抱える女が、袖で目を拭っている。狼煙番の少年がそばに寄り、鏡で日を受けて紙に細い光を走らせ、一文字ずつ指で追いかけるようにして読んでやっていた。
「この線は薄いけど、消えてないよ」
少年が言うと、女は頷いて、封印札に刻まれた別の文字を見た。「鍬」と小さく書かれている。刀の名の横に、鍬の字。並べば、意味が変わる。並べる仕事は、春の仕事だ。冬は切り離す。春は並べる。
夕刻、緩衝の野に夜気が降りてきた。灯が二重に灯る。油壺の下に“隠し灯”が一つずつ入っている。昨冬、黒衣に灯を消された夜の記憶が、誰かの指先に残っている。市兵の巡回は「怒り線」を避けるように曲線を描く。まっすぐは、すべてに良いわけではない。曲げた線は、時々、人の歩調を合わせる。その間に、遠くの井戸で汲まれた水の入った桶が、鍬の柄一本と同じ速度で運ばれていく。
藍珠は疲れた顔で高台から降り、剣を鞘に戻した。柄頭を軽く叩いた音が、手首に響く。
「王、柄は重い策だ」
王は肩で息をしながら笑った。
「刃より重い時がある」
「刃より軽く見えるのに」
「軽く見えるものほど、重いときがある」
藍珠は目を細め、短く頷いた。彼は剣の人だ。けれど、剣を抜かない力がどれほどの筋肉を要するかを、誰よりも知っている。柄を持つ手の震えを、剣を持つ手で受け止めるのが、彼の仕事だ。
夜遅く、狼煙番の少年が柄を抱えて緩衝の野を歩いた。柄は肩に合わず、時々ずり落ちそうになる。少年は笑いながら、もう一度担ぎ直す。封印札の列は静かに風に鳴り、名の列の端で小さな灯が揺れる。市兵の小屋の前で、狐火の本を抱えた書生が寝落ちしかけ、薬師が毛布をそっと掛けた。事件は終わっていない。けれど、火は野を焼かなかった。夜は、灯を揺らすだけで済んだ。
明け方、薄い霧が野を這った。柄を担いだ男たちが、勝手に動き出した。「井戸の柵を直す」と言う声が重なる。封印札の箱の前に、昨夜の二人の男が立っていた。顔はまだ硬いが、肩には鍬の柄。重複の刀の銘は相変わらず一つだ。けれど、彼らが握る柄は別々の重さを持っている。別々の重さを持つものは、別々に揺れる。揺れの違いは、仕事の割り振りを細かくする。市兵の若い官が、工営司の帳を片手に現場の人数と配給の釣り合いをその場で直す。「机で決めた配給は少し多く、現場は少し少ない」という冬の教訓を、春の指でなぞる。
井戸の柵の周りに、人が集まった。楓麟が立ち会い、地層の筋を指で示す。王は井戸の口の石を一つ外させ、側孔を掘る角度を、少年の棒で地面に線を引いて示した。少年はうなずき、棒の線の端に小石を置く。小石は井戸の村の約束だ。冬の夜に交わした、小さな約束。
王はふと、昨夜の名の列を思い出した。点線で囲われた名の下に、小さな花が置かれていた。春の草花。誰が置いたのかを問わなかった。問えば、その人の名も紙に載せるべきかどうか、また一つ決めごとが増える。決めごとは増やし過ぎない。増やすのは、灯と、柄と、鍬だ。
楓麟が耳を動かした。風が変わる。南からの湿り。今日は「怒り線」は細い。細い線は切れやすいが、結びやすくもある。生き物のように形を変える緩衝の野で、今、最も必要なのは、結ぶ手だ。解く手ではない。手は二つ必要だ。解く手と結ぶ手。王は、結ぶ手に柄を握らせた。
昼前、封印札の箱の前に、小さな列ができた。鍬の柄を受け取る列だ。市兵が柄頭に小さな焼印を押す。「春」の字。焼印の下に細い線を一本引く。線の名前は、今はつけない。つけてしまうと、線は独り歩きする。今はただ、線であることで十分だ。
春借の免除の札も配られた。発見者の名の欄に朱の印が押され、書記が「あの……書けますか」と尋ねる。字の書けない老人の手を、書生がそっと支える。青年の筆の先が震える。震えを叱らない。震えは、字の内側へと染み込んでいく。震えの残る字は、嘘が入りにくい。
「白風は刃を盗む国」と吐き捨てた男が、柄を受け取りながら、ぽつりと言った。
「柄は、軽いと思っていた」
王はその横で、やわらかく笑った。
「軽いと思って持つと、重い。重いと思って持つと、軽くなる」
「言葉の話か」
「手の話だ」
男は黙って柄を握り直した。握り直した手は、少しだけ低い位置で柄を支えた。低い位置で支えれば、肩は上がらない。上がらなければ、目は遠くを見る。遠くを見る目は、怒り線を見ない。
午後、緩衝の野の端に、狐火の本の新しい版の掲示が貼られた。「湿り」と「乾き」の図解は、昨日よりも簡潔になっている。薬師が赤い絵の具で苔を描き、子どもがそこへ水を塗る。塗った場所から白い蒸気が上がり、日の光に細く揺れる。笑い声が少しだけ大きくなり、火床の灰が風に飛ぶ。
夕刻、藍珠は柵の上を歩きながら、わざと大きく欠伸をした。欠伸の音は火の音ではない。火の音ではない音を、意識的に混ぜる。緊張した弦を、指で軽く弾くように。市兵も、巡回の足取りをわざと不規則にした。規則は安心を生むが、怒り線の真上で規則正しく歩くと、線の上の音が響いてしまう。わざと外す。外すことを恐れない。外した足跡は、翌朝には泥に吸い込まれて消える。
夜半、火はほとんど落ち、灯は二重に揺れ、封印札の列は風に鳴るだけになった。王は高台の上で、短く息を吐いた。肩の疲れは、剣を振ったときの疲れとは違う。細い筋が一本ずつ、時間をかけて痙攣するような疲れ。だが、その疲れは悪くない。眠りを連れてくる疲れだ。眠りは、明日のためにある。
明けて、朝。緩衝の野は、夜のうちに少しだけ形を変えていた。封印札の箱は同じ場所にあり、名の列の端には新しい「外縁」の名が三つ増えていた。「亡命名簿」の紙に並んだ文字は、昨日よりも真っ直ぐだ。書記の朱の訂正印は、二度押されている。誤りを認めた痕跡は、細い線のように美しい。美しさは、国の贅沢だ。贅沢を一つだけ許すなら、これだ。誤りの痕跡を残す贅沢。
井戸の柵は、昼前に半分直った。柄を持つ手は、刃を持つ手と同じ筋肉を使わない。別の筋肉が育つ。ふくらはぎ、腰、肩。藍珠が柵の上から見下ろし、男たちの足の運びに目を細める。剣士の目は、足をよく見る。剣の勝ち負けは、足で決まる。畑の勝ち負けも、足で決まる。
「王」
藍珠が呼ぶ。王は振り返る。藍珠は短く言った。
「怒り線の溝は埋まった。だが、埋めた土はまだ柔らかい」
「わかってる」
「柄を渡した以上、柄を取り上げる時には、刃より強い理が要る」
「刃を返す時には、刃より柔らかい理が要る」
藍珠は目を細め、笑いとも、呆れともつかない表情を作った。
「王は、柔らかい理ばかり言う」
「冬は固い理ばかり言った」
「春だ」
「春だ」
二人の短いやり取りに、楓麟が耳を動かして笑った。風が、南から北へ向きを変えつつある。小さな湿りを含んだ風。緩衝の野の上を渡り、封印札の紙を揺らし、名の列の端で灯を軽く押す。押された灯は、すぐに戻る。戻るための芯が、内側に立っているからだ。
暮れ方、王は再び高台に立ち、人々に短く告げた。
「封印札は秋まで預かる。刃は柄に戻す。柄は、今日から働く。名は、消さない。薄線は薄線のまま、点線は点線のまま、暗線は暗線のまま、線で待つ。怒りは、仕事へずらす。嘘は、紙に載せない。足りないときは、足りないと書く」
ざわめきの中、笑う者がいた。泣く者がいた。怒る者がいた。けれど、そのどれもが、人の音だった。刃の音ではない。刃の音は、今日は鳴らない。
夜、王宮に戻る道で、狼煙番の少年が走ってきた。肩にはまだ少し大きい柄。胸には小さな鏡。少年は息を弾ませながら、鏡を王に向けて掲げた。月の光を受けた鏡が、王の頬に小さな光を跳ね返す。
「王様、今日の“火”、写りました?」
王は笑って、鏡をそっと少年の胸に戻した。
「写ったよ。火じゃなくて、灯のほうがね」
少年は得意げに頷き、今度は遠い狼煙台に向けて小さな反射の光を送った。点が点へ。線が線へ。緩衝の野で交わされた今日の“形”は、言葉よりも静かに、幾つもの胸に写り込む。
王宮の回廊。掲示板の前で、法務の新任代行が“薄線相談窓口”の札の横に座っていた。彼の朱の印は、夕暮れの色に似ている。朱の印の横に、小さな花がもう一つ置かれていた。誰が置いたのかは知らない。知らなくていい。名の下に花があるという事実が、今日の重さを薄める。
楓麟は塔に上り、風を聞いた。
「風は、湿っている。火は、燃え広がらない」
藍珠は剣の柄に手を置いた。
「火は、まだ芯を持っている。芯がある限り、灯も立つ」
王は、名の列の前に立った。紙の上で、朱の線が一つ、また一つ、静かに乾いていく。乾いた朱は、明日を呼ぶ。明日は、今日よりも少しだけ長い柄が要るかもしれない。肩は痛む。けれど、持てる。持てるように、持ち方を変える。国は、そうして季節を越えていく。
“緩衝の野”は、その夜、静かな生き物に戻っていた。灯は揺れ、封印札の木片が風に鳴り、鍬の柄が横一列に並んで眠る。眠りは、火を鎮め、明日を育てる。夜の底で、野の上のすべてのものが、ほんの少しだけ温かかった。冬にはなかった温さ。春の温さ。刃ではなく、柄で生まれる温さだ。
午前の陽が斜めに射し込むころ、封印札の箱の前に二つの影が重なった。二人の男が、木台に置かれた同じ銘の刀を、それぞれ自分のものだと主張していた。封印札に書かれた「刀の名」。乾いた墨で記された鍛冶屋の銘は、確かに同じだ。片方の男は、首筋に古い傷があり、鎧の紐を切って民の衣に近づけた姿。もう一人は、土埃にまみれた旅装で、腰に封印の紐の跡が赤く残っている。市兵が間に入り、帳簿をめくって照合をはじめたが、些細な口調の高低が火種になるには十分だった。
「それは俺のだ。北州の鍛冶〈陽焔〉の銘、柄巻きが二度重ねで――」
「陽焔の銘は珍しくない。柄巻きだって、戦のさなかに巻き直すことはある。俺はこの刃を十年握ってきた。手が覚えてる」
「覚えているというなら、白風の封印札に用はねえ。白風は刃を盗む国だ。返す気があるなら、とっくに返しているはずだ」
「盗む」という言葉が、周囲の空気を刃物のように裂く。背の高い男が一歩踏み出し、拳が宙を切った。市兵が腕を抑えようとした瞬間、外の輪から短い罵声が飛び、別の手が伸びて肩を突いた。冬に受けた傷の恨み。塩の薄さへの不満。掲示板で“点線”のままの名を抱える女の泣き声。いくつもの小さな不満が、乾いた藁の上に投げ込まれた火種に、順々に火を移していくのが見えた。
火は灯りからではない。灯は静かに立ち、揺れるだけだ。だが、人の眼は灯の揺れを火と見まちがえる。閃光のように火床の端で炎の舌が上がった。誰かがつかんだ焚き付けの束が、あっという間に赤くなった。
柵上に飛び乗った藍珠は、剣の柄で火床の縁を叩いた。刃は抜かない。抜いた刃は、刃を呼ぶ。
「柵の中で刃を抜くな!」
声は短く、落ちた鉄片の音よりも冷たく響く。しかし怒りは言葉では消えない。怒り線は、理より速く走る。楓麟は、柵に立ったまま一度だけ風を吸い、吐いた。炎の走り方を聞く。油に走る火ではない。乾いた藁に走る火。ならば、水を浴びせるより、「湿り」を広げるほうが早い。風の湿り気は、意志で増やせるものではない。けれど、人の湿り気は、言葉で増えることがある。
王は市兵の小屋に入り、帳簿を掴んだ。手のひらに紙のざらつきが痛い。名の列を押した朱の感覚が、まだ皮膚に残っている。
「封印札の列と名の列を並べろ」
書記が震える手で板二枚を外へ持ち出す。高台へ駆け上がる間、王は声の高さを自分の胸の中で測った。高すぎれば、怒りと同じ高さになる。低すぎれば、濡れた土に吸い込まれてしまう。高台の上に立つと、野を渡る風が胸に入った。藁の匂いと、金の匂いと、食べ物の匂いと、刃の冷たさが混ざる匂い。遠い塔で焚かれている灯の匂いも、かすかに混じっている。
「“刀の名”は名だ」
王は言った。怒鳴らず、しかし遠くまで届くように。
「名を盗めば、次はおまえ自身の名が剥がれる。返すべきものは返す。だが、返すのは今ではない」
ざわめきが、野のあちこちで膨らんではしぼむ。返さない、と聞こえた耳のざわめき。返す、と聞こえた耳のざわめき。
「封印札は秋まで預かる」
王は続けた。
「返還は“春の境界”の安定を見てからだ。代わりに、封印札一枚につき“鍬の柄一本”を渡す。柄は市兵が保管する。刃は秋に、柄に戻す。それまでのあいだ、ここでは刃ではなく、柄を持て」
意外な提案に、怒号が一瞬止んだ。鍬の柄は戦を思い出させない。けれど、空っぽの手には寂しさが溜まる。柄は、その寂しさを少しだけ埋める。藍珠が市兵に顎で合図し、格納していた柄束を担ぎ出させる。継ぎ目の見える栗の木の柄。握ると、手の中に汗が少し滲む。子が笑う。大人が苦笑する。何人かは吐き捨てる。その吐き捨ては、土に吸われる音をした。
楓麟は、耳をわずかに動かした。風の音が、さっきよりも柔らいだ。怒り線は、まだ消えない。けれど、湿りが広がれば、燃える藁が減っていく。減らす時間を稼ぐのが、今の仕事だ。
それでも火の芯はしぶとい。重複札の当事者は、納得しない。二人は高台の下で、互いの顔をまっすぐに睨んでいる。片方の男の拳はまだ握られ、爪の横に白い半月が浮き上がっている。
「同じ鍛冶の同じ銘なら、俺の手に戻るはずだ」
「いや、俺の手に戻るはずだ」
「戻るはず、という言葉は、刃より鋭い」
楓麟が言い、二人を高台の上に上げた。封印札の薄い傷、筆の癖、鍛冶銘の刻みの違いを、一つずつ示す。刻みの深さ。最後の画の跳ね。目釘の位置。柄巻きの裏についた微かな煤。鋼色の冷たさは人に似て、同じと思っても同じではない。
「これは同じ銘でも“別の刀”だ」
楓麟の指が、封印札の縁をなぞる。
「戻すなら“別の手”に戻る」
群衆の中から声が上がった。
「持ち主が違うのなら、違う名の列に――」
王は頷いた。書記に封印札の記録欄を引き直すよう命じる。「発見者」「受領者」を分けて書く欄。受領者は秋に柄と一緒に返還する。発見者には鍬の柄に加えて「春借の免除」をつける。刀の名はひとつだが、関わる手の名はふたつある。そのふたつを紙の上で別にしてやるだけで、怒りは半分に割れる。半分になった怒りは、片方を土に還せる。
封印札の箱の前に、列がもう一度、まっすぐになりかけた。その列の端で、小さな泣き声がした。掲示板の“点線”のままの名を抱える女が、袖で目を拭っている。狼煙番の少年がそばに寄り、鏡で日を受けて紙に細い光を走らせ、一文字ずつ指で追いかけるようにして読んでやっていた。
「この線は薄いけど、消えてないよ」
少年が言うと、女は頷いて、封印札に刻まれた別の文字を見た。「鍬」と小さく書かれている。刀の名の横に、鍬の字。並べば、意味が変わる。並べる仕事は、春の仕事だ。冬は切り離す。春は並べる。
夕刻、緩衝の野に夜気が降りてきた。灯が二重に灯る。油壺の下に“隠し灯”が一つずつ入っている。昨冬、黒衣に灯を消された夜の記憶が、誰かの指先に残っている。市兵の巡回は「怒り線」を避けるように曲線を描く。まっすぐは、すべてに良いわけではない。曲げた線は、時々、人の歩調を合わせる。その間に、遠くの井戸で汲まれた水の入った桶が、鍬の柄一本と同じ速度で運ばれていく。
藍珠は疲れた顔で高台から降り、剣を鞘に戻した。柄頭を軽く叩いた音が、手首に響く。
「王、柄は重い策だ」
王は肩で息をしながら笑った。
「刃より重い時がある」
「刃より軽く見えるのに」
「軽く見えるものほど、重いときがある」
藍珠は目を細め、短く頷いた。彼は剣の人だ。けれど、剣を抜かない力がどれほどの筋肉を要するかを、誰よりも知っている。柄を持つ手の震えを、剣を持つ手で受け止めるのが、彼の仕事だ。
夜遅く、狼煙番の少年が柄を抱えて緩衝の野を歩いた。柄は肩に合わず、時々ずり落ちそうになる。少年は笑いながら、もう一度担ぎ直す。封印札の列は静かに風に鳴り、名の列の端で小さな灯が揺れる。市兵の小屋の前で、狐火の本を抱えた書生が寝落ちしかけ、薬師が毛布をそっと掛けた。事件は終わっていない。けれど、火は野を焼かなかった。夜は、灯を揺らすだけで済んだ。
明け方、薄い霧が野を這った。柄を担いだ男たちが、勝手に動き出した。「井戸の柵を直す」と言う声が重なる。封印札の箱の前に、昨夜の二人の男が立っていた。顔はまだ硬いが、肩には鍬の柄。重複の刀の銘は相変わらず一つだ。けれど、彼らが握る柄は別々の重さを持っている。別々の重さを持つものは、別々に揺れる。揺れの違いは、仕事の割り振りを細かくする。市兵の若い官が、工営司の帳を片手に現場の人数と配給の釣り合いをその場で直す。「机で決めた配給は少し多く、現場は少し少ない」という冬の教訓を、春の指でなぞる。
井戸の柵の周りに、人が集まった。楓麟が立ち会い、地層の筋を指で示す。王は井戸の口の石を一つ外させ、側孔を掘る角度を、少年の棒で地面に線を引いて示した。少年はうなずき、棒の線の端に小石を置く。小石は井戸の村の約束だ。冬の夜に交わした、小さな約束。
王はふと、昨夜の名の列を思い出した。点線で囲われた名の下に、小さな花が置かれていた。春の草花。誰が置いたのかを問わなかった。問えば、その人の名も紙に載せるべきかどうか、また一つ決めごとが増える。決めごとは増やし過ぎない。増やすのは、灯と、柄と、鍬だ。
楓麟が耳を動かした。風が変わる。南からの湿り。今日は「怒り線」は細い。細い線は切れやすいが、結びやすくもある。生き物のように形を変える緩衝の野で、今、最も必要なのは、結ぶ手だ。解く手ではない。手は二つ必要だ。解く手と結ぶ手。王は、結ぶ手に柄を握らせた。
昼前、封印札の箱の前に、小さな列ができた。鍬の柄を受け取る列だ。市兵が柄頭に小さな焼印を押す。「春」の字。焼印の下に細い線を一本引く。線の名前は、今はつけない。つけてしまうと、線は独り歩きする。今はただ、線であることで十分だ。
春借の免除の札も配られた。発見者の名の欄に朱の印が押され、書記が「あの……書けますか」と尋ねる。字の書けない老人の手を、書生がそっと支える。青年の筆の先が震える。震えを叱らない。震えは、字の内側へと染み込んでいく。震えの残る字は、嘘が入りにくい。
「白風は刃を盗む国」と吐き捨てた男が、柄を受け取りながら、ぽつりと言った。
「柄は、軽いと思っていた」
王はその横で、やわらかく笑った。
「軽いと思って持つと、重い。重いと思って持つと、軽くなる」
「言葉の話か」
「手の話だ」
男は黙って柄を握り直した。握り直した手は、少しだけ低い位置で柄を支えた。低い位置で支えれば、肩は上がらない。上がらなければ、目は遠くを見る。遠くを見る目は、怒り線を見ない。
午後、緩衝の野の端に、狐火の本の新しい版の掲示が貼られた。「湿り」と「乾き」の図解は、昨日よりも簡潔になっている。薬師が赤い絵の具で苔を描き、子どもがそこへ水を塗る。塗った場所から白い蒸気が上がり、日の光に細く揺れる。笑い声が少しだけ大きくなり、火床の灰が風に飛ぶ。
夕刻、藍珠は柵の上を歩きながら、わざと大きく欠伸をした。欠伸の音は火の音ではない。火の音ではない音を、意識的に混ぜる。緊張した弦を、指で軽く弾くように。市兵も、巡回の足取りをわざと不規則にした。規則は安心を生むが、怒り線の真上で規則正しく歩くと、線の上の音が響いてしまう。わざと外す。外すことを恐れない。外した足跡は、翌朝には泥に吸い込まれて消える。
夜半、火はほとんど落ち、灯は二重に揺れ、封印札の列は風に鳴るだけになった。王は高台の上で、短く息を吐いた。肩の疲れは、剣を振ったときの疲れとは違う。細い筋が一本ずつ、時間をかけて痙攣するような疲れ。だが、その疲れは悪くない。眠りを連れてくる疲れだ。眠りは、明日のためにある。
明けて、朝。緩衝の野は、夜のうちに少しだけ形を変えていた。封印札の箱は同じ場所にあり、名の列の端には新しい「外縁」の名が三つ増えていた。「亡命名簿」の紙に並んだ文字は、昨日よりも真っ直ぐだ。書記の朱の訂正印は、二度押されている。誤りを認めた痕跡は、細い線のように美しい。美しさは、国の贅沢だ。贅沢を一つだけ許すなら、これだ。誤りの痕跡を残す贅沢。
井戸の柵は、昼前に半分直った。柄を持つ手は、刃を持つ手と同じ筋肉を使わない。別の筋肉が育つ。ふくらはぎ、腰、肩。藍珠が柵の上から見下ろし、男たちの足の運びに目を細める。剣士の目は、足をよく見る。剣の勝ち負けは、足で決まる。畑の勝ち負けも、足で決まる。
「王」
藍珠が呼ぶ。王は振り返る。藍珠は短く言った。
「怒り線の溝は埋まった。だが、埋めた土はまだ柔らかい」
「わかってる」
「柄を渡した以上、柄を取り上げる時には、刃より強い理が要る」
「刃を返す時には、刃より柔らかい理が要る」
藍珠は目を細め、笑いとも、呆れともつかない表情を作った。
「王は、柔らかい理ばかり言う」
「冬は固い理ばかり言った」
「春だ」
「春だ」
二人の短いやり取りに、楓麟が耳を動かして笑った。風が、南から北へ向きを変えつつある。小さな湿りを含んだ風。緩衝の野の上を渡り、封印札の紙を揺らし、名の列の端で灯を軽く押す。押された灯は、すぐに戻る。戻るための芯が、内側に立っているからだ。
暮れ方、王は再び高台に立ち、人々に短く告げた。
「封印札は秋まで預かる。刃は柄に戻す。柄は、今日から働く。名は、消さない。薄線は薄線のまま、点線は点線のまま、暗線は暗線のまま、線で待つ。怒りは、仕事へずらす。嘘は、紙に載せない。足りないときは、足りないと書く」
ざわめきの中、笑う者がいた。泣く者がいた。怒る者がいた。けれど、そのどれもが、人の音だった。刃の音ではない。刃の音は、今日は鳴らない。
夜、王宮に戻る道で、狼煙番の少年が走ってきた。肩にはまだ少し大きい柄。胸には小さな鏡。少年は息を弾ませながら、鏡を王に向けて掲げた。月の光を受けた鏡が、王の頬に小さな光を跳ね返す。
「王様、今日の“火”、写りました?」
王は笑って、鏡をそっと少年の胸に戻した。
「写ったよ。火じゃなくて、灯のほうがね」
少年は得意げに頷き、今度は遠い狼煙台に向けて小さな反射の光を送った。点が点へ。線が線へ。緩衝の野で交わされた今日の“形”は、言葉よりも静かに、幾つもの胸に写り込む。
王宮の回廊。掲示板の前で、法務の新任代行が“薄線相談窓口”の札の横に座っていた。彼の朱の印は、夕暮れの色に似ている。朱の印の横に、小さな花がもう一つ置かれていた。誰が置いたのかは知らない。知らなくていい。名の下に花があるという事実が、今日の重さを薄める。
楓麟は塔に上り、風を聞いた。
「風は、湿っている。火は、燃え広がらない」
藍珠は剣の柄に手を置いた。
「火は、まだ芯を持っている。芯がある限り、灯も立つ」
王は、名の列の前に立った。紙の上で、朱の線が一つ、また一つ、静かに乾いていく。乾いた朱は、明日を呼ぶ。明日は、今日よりも少しだけ長い柄が要るかもしれない。肩は痛む。けれど、持てる。持てるように、持ち方を変える。国は、そうして季節を越えていく。
“緩衝の野”は、その夜、静かな生き物に戻っていた。灯は揺れ、封印札の木片が風に鳴り、鍬の柄が横一列に並んで眠る。眠りは、火を鎮め、明日を育てる。夜の底で、野の上のすべてのものが、ほんの少しだけ温かかった。冬にはなかった温さ。春の温さ。刃ではなく、柄で生まれる温さだ。



