春分に近い朝は、冬の名残が薄く皮となって空に張りつき、風の芯だけが南へ向きを変えていた。塔の最上段に立った楓麟は、耳の先を一度だけ鳴らし、縁にたまった夜露の粒を見届ける。露は細く、落ちる前に乾いていく。乾ききらない湿り気が、春の前口上だ。
 遠眼鏡の円の中で、紅月の帷幕(とばり)が間引かれていた。布の影が薄い。薪の煙が短い。楓麟は風の層を指で撫でるように数え、塔から王の間へ戻った。

「紅月、本隊の帷幕が間引かれた。糧が尽きる前に、境界線を引き直すつもりだ」

 扉が静かに閉まり、王の間の柱がわずかに音を返す。遥は朱の蓋を閉じ、目だけで楓麟を追った。白い息は、もう室内では見えない。けれど、石床の冷えはすぐに足首を掴む。
 言葉を待たずに、藍珠が短く問う。

「撤退(のふり)か。停戦(のようなこと)か」

「どちらとも言わぬ線だ」と楓麟。「春の前に、現実に線を引く。それを彼らは境界と呼ばず、来期の進軍のための準備と考える。こちらが曖昧に受ければ、夏の端でまた踏み込まれる」

 遥は机上の地図に指を置いた。薄紅平原の畦(あぜ)、灰の渡し、霜の峠。冬の間に覚えた呼吸のように、その三つの名が胸の内で正しい順に並ぶ。
「こちらから“春の線”を示そう」と遥は言った。「兵を引かず、戦を止めず、ただ、越えてはならない線を立てる。戦う理由を狭くし、守る理由を広げる線だ」

 評議の呼び鐘が鳴り、商務司、工営、法務の新任代行、書記頭らが入室する。商務司の若い官は目を輝かせ、「これで交易が戻る」と先走った。法務の新任代行は即座に口を開く。

「境界を曖昧にすれば、夏にまた踏み込まれる危険が増す。線は、読む者の数だけ意味が変わる」

 藍珠は黙って剣の柄に指を添えただけだった。言葉を足せば刃が鈍る場面と、言葉を足すことで刃が鞘に戻る場面がある。今日は前者だ。

「線は三つの印で構成する」と楓麟が続けた。「ひとつ目は薄紅平原――畦の白石。等間隔に並べ、越えての挑発や小競り合いは互いに“違約”と布告する。ふたつ目は灰の渡し――縄印。太縄を二本張り、王と宰相の印を焼印した木札を結ぶ。縄のこちら側に兵を出さず、向こう側にも入れない。みっつ目は霜の峠――旗。白風の旗と無色(むしょく)の旗を二枚掲げ、紅月が角笛を三度鳴らしたときのみ、応答の角笛を一度返す。戦の号令ではなく、境界確認の合図だ」

 書記頭が筆を走らせる音が、雨だれのように均一に続く。遥は机の端に手を置き、ゆっくりと頷いた。
「名は『講和』でも『降服』でもない。『春の境界』だ。戦をやめない。嘘もつかない。春のための線に、人の名をひとつも載せないための仕組みを、紙にする」

 法務の新任代行が眉を寄せる。「違約の定義はどうする。『挑発』の線引きはいつも争いの種になる」
「角笛、矢数、隊形、火――四つのうちふたつが重なったときにのみ『挑発』とする。片方だけではならない」と楓麟は抑えた声で答えた。「紙に定義を書き、塔と城門で読み上げる」

 遥は書記頭の筆先を視線の端に感じながら、別の紙に短く朱を付けた。「誤記訂正の掲示、義務化。――境界の紙こそ誤りを残さない」
 冬のあいだに口癖になった言葉が、規則の一文に変わる。その変化の手触りに、遥はまだ慣れない。言葉が紙に変わるとき、その紙は誰かの夕餉の下敷きにもなる。鍋の下で温められた紙は、翌朝までにほんの少し柔らかくなっている。柔らかい紙で作った線は、固い言葉の線よりも人の足に優しい。

     *

 布告の紙には、三つの印の図が添えられた。白石の列の絵、縄に結ばれた焼印の木札の絵、二枚の旗と角笛の数の約束。言葉は短い。短さを保つために、書記は何度も削る。削った文字の粉は床に落ち、その粉を掃除する子どもの手に、春の紙の匂いが移る。

 布告は「春の境界」と名付けられ、城下と前線に同時に貼り出された。名の列を守る掲示棚の端にも、小さく同じ紙が差し込まれる。冬から続いた「名の列」はそのまま、今度は端に「苗の列」を増やしていく。
 避寒所は春の苗床に転用され、空いた寝台の板に土を盛り、窓辺に吊るした紐に豆を這わせる支柱が結わえられた。苗の列の紙には、子どもの名の横に、自分が植える苗を書き込む欄がある。字の大きいもの、小さいもの、丁寧なもの、勢いで書いたもの。
 井戸の村の少年は、ためらいなく「粟」と書いた。藍珠が横で目を細める。
「よく育つ」
 少年は照れ、靴の先で石を小さく蹴った。石はほとんど動かない。動かない石の上に、春の芽が乗る。

 城下の噂の調子は目に見えて変わった。黒衣の囁きは弱まり、代わりに「春仕事の募集」の紙の前に人が集まる。工営の掲示板には、泥上げ、人足、畦の補修、道の砂利敷き、種の選別。紙の前で、男が袖をまくり、女が子どもの手を握り、老人が杖を突いて列に入る。列の腕の太さが、冬より少しだけ増した。
 商務司の若い官は、帳に豆の印を小さく追加しながら、肩をすくめた。
「交易の前に、町の中の『手の取引』が増えますね」
「それが先だ」と遥。「外へ出るのは、そのあとでいい」

     *

 薄紅平原。畦の上に白石が並んだ。石は小さく、等間隔に、日の光でわずかに白を返す。白石は脆い。蹴ろうと思えば蹴れる。蹴られても、その事実が紙に乗るだけだ。紙に乗った事実は、次の紙を重くする。重くなった紙は、塔の上で風の重さと釣り合う。

 灰の渡しには太縄が二本、ぴんと張られた。流れの上にわずかに影を落とし、縄目に溜まった水が朝の光を弾く。木札の焼印は二つ――王の小印、宰相の小印。焦げた匂いが、まだかすかに残る。渡し守の老人が縄の太さを触り、指を拭きながら笑った。
「縄は嘘をつかない。切れたら落ちる」
「紙もだ」と楓麟。「破れば、破ったと記される」
 老人は頷き、舟棹で川面を軽く叩いた。春の水はまだ硬い音を返す。

 霜の峠の見張り塔には、白風の旗と無色の旗が並んで翻った。無色の旗は風の色を映し、日によって少しずつ違う顔を見せる。夜は灰色、朝は薄青、昼は白。紅月が角笛を三度鳴らしたときだけ、こちらは一度返す。笛の皮は冬に張り替えたばかりで、音はまっすぐだ。
 初日、紅月は沈黙で応じた。二日目、山の間に薄い旗が一本立った。三日目の朝、角笛が一度だけ鳴る。応諾とも威嚇ともつかない、曖昧な音。だが、隊列は明らかに縮み、荷駄は北へ向き始めていた。

 藍珠は畦の肩で、遠くの列の波を見送った。軽い安堵は剣から力を抜く。抜けた力の隙間には、痛みが入ってくる。肩の傷は曇天より晴天の日に痛む。今日は薄い空だ。痛みは少ない。
「ほどくべきはほどいた。残るは“芽”を守る戦だな」
 楓麟が頷く。
「刃より先に鍬を出す。刃が必要なときに、鍬で守った土が刃を支える」

     *

 都では、ほどく網の最後の仕事が静かに進んだ。避寒所の寝台は苗床へ、配給所の列は二股から一股へ、灯の道は二重から一重へ戻る。戻すことは、壊すことより難しい。戻し方を誤れば、戻りきらない。
 名の列の端に「苗の列」が並び、子どもの名の横に「粟」「麦」「豆」「葱」「芥」が並ぶ。小さな字の横で、小さな指が墨で黒くなる。書記頭が布で指を拭いてやり、布を洗い桶に浸す。墨の黒が水の中で薄く雲になり、消える。消えた黒は、紙の上に残る黒を際立たせる。残すべきを残すには、消すべきを丁寧に消さなければならない。

 だが、ひとつだけ、固く結び直すべき結び目が残っていた。玄檀(げんたん)の残した“言葉の毒”――「王は偽王」という囁き。冬より弱い。だが、完全に消えたわけではない。毒は薄くなったぶん、長く残る。楓麟は提案した。

「王、自ら城門で『春の線』を読み上げよ。民の目の前で。偽王なら、季節は嘘を暴く。風は、その声の重さを量るはずだ」

 遥は小さな間を置き、頷いた。恐れはないわけではない。しかし恐れを言葉にできるうちは、壊れない――楓麟から教わった言葉が、胸の奥で静かに強さを増す。

     *

 城門前は、人の息が白くないことに気づく場所だった。寒さが去った証は、指先より先に、吐く息から始まる。旗は静かに鳴り、城壁の石は薄く湿っている。段の上に立った遥は、紙を持たないことにした。覚えた言葉は紙よりも短く、短いからまっすぐ届く。

「冬の間、多くを縛った。縛られて苦しかった者もいる。――今日はほどく。線を越える戦はしない。線を守る戦をする。腹を満たす戦をする。嘘で満たさない。足りぬ時は、足りぬと書く。名を消さない」

 言葉は短く、風に乗って伸びすぎないところで落ちた。沈黙のあと、城壁の上で狼煙番の少年が合図を送る。北東に淡い煙がひとつ。紅月の列が遠ざかる印だ。
 歓呼は起きない。だが、胸の奥の硬さが少しずつほどける音が、人の間をすり抜けて流れた。足場が一枚増えたような安堵。立つ場所がある。立ち続けられるという感覚が、人の目の奥に灯る。

 その場の端で、法務の新任代行が商務司に小声で言った。
「線の曖昧さは危険だと思っていたが……『紙で曖昧を共有する』やり口は、法として記録する価値がある」
 商務司は肩をすくめ、笑った。
「市場では昔からやってますよ。『大入雨天割り引き』って名札で、実は『小さいパンでも文句を言わない約束』を紙にする」

 紙にする。紙があれば、責任が残る。責任が残る場所は、恨みより先に次の仕事を呼ぶ。

     *

 午後には、三つの印の下で、実地の「線の読み合わせ」が行われた。
 薄紅平原――畦の白石。紅月の小隊長と白風の藍珠が、互いに距離を取りつつ白石の列を歩く。小さな赤い布片を石の一つひとつに結び、紙の文言と同じ間隔であることを確認する。布片は夕方には回収される。布片の匂いが白石に残り、翌朝、狐が鼻を寄せて去っていった。
 灰の渡し――縄印。渡し守と白風の工営官が縄の張りを確かめ、紅月側の斥候が遠くから頷く。水の中に沈めた小さな木札には、今朝の日付と刻限が刻まれ、その上に短い傷が一本増やされた。木は沈み、傷は水を吸って柔らかくなる。柔らかい傷は、次の刻にまた硬くなる。刻むとは、そういう往復だ。
 霜の峠――二枚の旗。白風の旗は、今日も布目を揃えて掲げられた。無色の旗は、曇りの色を薄く映し、午後の端に白を返す。紅月の角笛が、夕刻に一度だけ鳴った。白風の塔から、一度だけ応じる。音のやり取りは短い。短いだけに、重い。

 その合間、城下では「春仕事」の列が伸びた。工営の若い官が、実地での配給量を微調整し、帳の数字を現場に合わせて書き替える。訂正印は小さく、迷いがない。机の数字は腹を満たさない――遥が押した朱の言葉が、若い手の中で生きている。

     *

 夜。王宮の回廊に、春の湿りが入り込む。名の列の前で、書記が貼り替えを終えると、藍珠が背に一度だけ目をやる。紙の端に、見知らぬ女の名が増えていた。塩煮場を守って倒れた女の名――冬の列の中ほどにある名前だ。楓麟は風で紙の端を押さえ、遥は名の列の末尾に、新しく「苗の列」の見出しの紙を足す。

「おまえの名はここに残る。おまえの植えるものは、あちらに残る」

 遥は、紙の上のふたつの列を指でなぞる。名の列は過去を支え、苗の列は未来を支える。ふたつの列が並ぶ掲示板は、国の胸骨に似ていた。胸骨は折れない。折れないように、夜ごと湿りに当てておく。

 回廊の先で、楓麟が振り返る。
「王、明朝、城門での読み上げのあと、灰の渡しに行こう。縄の張り直しを一度、王の手で」
 遥は頷いた。「縄は嘘をつかない。……だからこそ、誰が結んだ縄かを、皆が見る必要がある」

     *

 翌朝、城門での読み上げは、昨日より短くなった。言葉は短いほど、紙に定着しやすい。紙に定着すれば、誰の舌からも同じ形で出てくる。
 門前の人々の間を抜けると、井戸の村の少年が駆けてきて、息を切らせながら小さな木札を差し出した。
「王様、狼煙の木札、もう一本もらった。今日は北が静か」
「よく見た」
 遥は少年の頭に手を置き、彼の額の汗を指で拭った。汗は塩の味がした。少年は笑って、木札を光に翳した。木目が細く、春の光が中を通る。通り抜けた光が、少年の頬に薄い模様を描いた。

 灰の渡しでは、縄を張り直した。楓麟が結び目を作り、遥が焼印の木札を結ぶ。結び目を濡らし、木札に指紋が薄く残る。藍珠は対岸に目を配り、渡し守の老人が縄のたわみを舟棹で軽く持ち上げ、離す。それを二度、三度。結び目は沈み、浮き、沈む。そのたびに、結び目の中の繊維が締まる。

「王は偽王だ」という囁きは、今朝は聞こえなかった。聞こえないから消えたわけではない。囁きは湿りに弱い。湿りが、乾く前に次の声を重ねる必要がある。
 渡しを離れると、楓麟は低く言った。
「次に彼らが牙を試すのは、夏の端ではなく、『口』だろう。言葉で線を崩しに来る」
「なら、紙で返す」と遥。「紙で崩し、紙で戻す。……それでも崩れる線は、剣で断つ。順番を間違えない」

 藍珠は無言で頷くだけだったが、頷きの角度は冬よりも柔らかい。柔らかさは、力の抜けた合図ではない。次に力を込める場所が見えるほど、余分な力を先に抜ける。

     *

 午後、楓麟は塔に戻り、風を聞いた。南は弱く、東が薄い。西は、季節の縁の色をしている。
 塔の下、評議室では、商務司が織物組合と「春の裂き布税の免除」の続行について短くやり合っていた。免除は続行。ただし、苗袋の紐の供出を義務付ける。紐は細い。細いが、袋を結ぶために必要だ。
 法務の新任代行は、臨時代行制で机に座っていた者から三人を正式に取り立てる書面を持ってきた。誤記訂正の掲示も整い、記録の誤差は冬より半分に減った。数はまだ足りない。足りないと紙に書く欄が、帳の端に新設される。足りないと書くのは恥ではない。次に足したと書くための余白だ。

 密偵頭は「悔悟の二回目」をさらに細く延長する案を持ち込んだ。黒衣の残り火を、土ごと掬い上げるための線。法務の新任代行はためらったが、楓麟は支えた。
「根は引きちぎるより、土ごと上げたほうが残らない。春の土は、まだ柔らかい」

 遥は、そのやり取りを聞きながら、紙に短く朱を添えた。
――嘘は薄く、直しは太く。
 朱の線は、冬よりも迷いがない。迷いがない線は、紙の上で一本筋のように残る。筋は、肩を支える。

     *

 夕刻。薄紅平原の畦に並ぶ白石が、夕日の端で白から灰へ、灰から青へと一度ずつ色を変えた。灰の渡しの縄は、日が落ちる前に一度だけ鳴り、霜の峠の二枚の旗は、角笛のやり取りのあと、無風の時間にぴたりと止まった。
 楓麟は塔の上で、細い笑みを見せた。
「春の境界、立つ」

 藍珠は剣を下げ、柄の頭を軽く手の平で叩いた。
「ほどくべきはほどいた。残るは“芽”を守る戦」
 遥は遠い畑の地図を思い浮かべた。井戸の村。狼煙番補の少年の家。あの市場の老婆。塩煮場の女の名。名の列の末尾に追加された「苗の列」の、小さな字。
「約束だ。畑を見に行く」

 約束は、春の網の目のひとつだ。網は締めるだけでなく、時を見て解かなければ反動が来る。冬に締め、春に解き、夏に結び直し、秋に収める。四つの季節は、国の呼吸の四拍だ。
 薄い風が塔の石を撫で、街の屋根の上の洗い張りの布を揺らした。遠い北東の山脈の向こう、紅月の陣の火は少なく、小さく、じりじりと後ずさりしている。
 春は、ただ来るのではない。迎えに行くのでもない。到る。人が線を引き、紙を貼り、縄を張り、旗を立てる間を通り抜けて、到る。

     *

 夜、王宮の中庭に出ると、土が湿りを含んで甘い匂いを返した。名の列の前で足を止めた遥に、書記頭が小さな声で告げる。
「玄檀の件、流し先の村から『苗袋二つ受け取り』の報、来ています」
 遥は頷いた。断頭台を立てなかった夜の選択が、誰かの手の温かさに変わるのに、時間はかかる。時間はかかるが、変わる。
 藍珠がその背に追いつき、肩の痛みを確かめる動作を隠すように外套の襟を立てた。
「王、明日は薄紅平原の白石を一つ、王の手で並べろ。……石は軽い。だが、置いた人間の重さが、石に残る」

 遥は石畳の白を踏みながら、しずかに笑った。
「石に残る重さは、紙に残る朱よりも長い気がする。――でも、どちらも必要だ」

「どちらも必要だ」と楓麟が言い、塔の影のようにそこに現れた。「紙で季節は止められないが、紙で季節の向きを覚えられる。石で季節は呼べないが、石で人の足を守れる」

 三人はしばし言葉を切り、春の夜の音を聞いた。水の音。遠い犬の吠え。城門の鎖がゆっくり降りる音。紙が乾く音。
 風は南から、薄く、軽く、迷わずに来ていた。

     *

 それから三日。紅月の隊列は目に見えて縮み、荷駄は北へ向きを変えた。角笛は三度鳴る日が二度あった。一度鳴って、無色の旗がわずかに揺れる日もあった。
 春の線は、紙の上では一本だが、地の上では何百という足跡の集まりだった。畦の白石の列、灰の縄の影、峠の旗の静けさ。そのどれもが、人の手で毎日少しずつ整えられた。
 整えることは、戦うことの半分だ。残りの半分は、待つことだ。待つ間に鍋を温め、苗を起こし、紙を乾かし、名を貼り替える。名の列の前に立ち止まった遥は、指先で一枚の紙の端を押さえて、息を整えた。
 貼り替え札に、ひとつ新しい見出しが増えていた。「夏借の準備」。書記頭が言う。
「冬借の返済の目処が立った家から、夏の道直しの前貸しを募ります。紙の欄は、もう作ってあります」
 遥は朱で小さく書き添えた。
――嘘で前貸ししない。足りないときは、足りないと書く。
 朱の先に、次の季節の軽い影が見えた。

     *

 夜半、塔の上に楓麟がひとり立つ。雲は薄く、星はわずか。風は南から斜めに入ってくる。春の境界は立った。だが、境界の向こうに、まだ名のつかない影がある。
 紅月の本陣の奥。若い将の苛立ちは、やがて外側ではなく内側に向く。糧が減れば、声が荒くなる。荒くなった声は、帷幕の中で別の声を呼ぶ。王位の継承を巡る歪みは、春の泥より粘り強く、夏の熱より燃えやすい。
 風はその兆しを、まだ匂いに変えない。ただ、耳に少しだけ重さを足す。楓麟は耳を伏せ、低く呟いた。

「春の境界、立つ。――だが、季節の境界は、別の場所に移る」

 塔の下、藍珠が剣を下げて夜気を吸い、遥が紙を机に重ねる。三人の間に、言葉にならない同意が渡る。
 ほどくべきをほどいた。結ぶべきは夏に残す。断つべき刃は、刃そのものより先に、結び直せない結び目を見極める目だ。
 東の空に、ごく薄い光の片鱗が生まれ、白い石の列の端をほんの少しだけ明るくした。遠い畑の地図の上、粟の区画に小さな印が増える。狼煙番補の少年は、明朝の刻限を木札に刻み、寝台の脇でそれを握って寝るだろう。
 王は、約束を胸に、畑へ行く。――第二部はここで一度息をつぎ、第三部で“春の芽”を守る政治と、紅月の内側に芽吹く影とが、ゆっくりと輪郭を帯び始める。春の線は、ただの線ではない。歩き続けるための、国の足場だ。