雨は夜ごと重さを変えて降り、朝になると細い糸になって地を這った。薄紅平原に立つと、靴の底から冷えが反ってくる。土の匂いは冬の間に忘れていた湿りを取り戻し、石の間に積み上げた枯枝は水を吸ってわずかに色を濃くした。
 塔の上で風を聞く楓麟(ふうりん)は、耳の先を一度だけ揺らし、湿りの層を数えた。北の乾きと南の柔らかさが拮抗し、霧が生まれ、霧が薄くなってまた生まれる。風は踊ってはおらず、動かぬものの間を歩いていた。

「今日、敵は『偵察押し』だ」

 彼はそう言って石段を下り、評議の卓に向かった。卓には地図の上に細い縄が並べてあり、縄の結び目ごとに油染みがある。結び目の数は冬より減り、結び目の向こうに置かれた石の粒は春の用意を告げていた。
 遥(はるか)は朱の蓋を閉じ、短い息を吐いて楓麟を見た。

「兵を大きく動かさず、偵察線を厚くして――畦(あぜ)の弱いところを探ってくる、ということだね」

「そうだ。押す気配の影だけを見せて、こちらに無駄な力を使わせる。見せるべきは『退きのうまさ』、隠すべきは『泥の袋』」

 藍珠(らんじゅ)は卓の端に手を置いた。肩に巻いた包帯は雨を吸って重く、干した皮の匂いが微かに立つ。
「半歩ずつ。――殺到しない。崩し、退かせ、追わない。剣は、抜くな」

 冬の間に体の芯に落とし込んだ手順を、彼らはもう一度、口に出して確かめた。言葉の形にすることで、いざというとき体が勝手に動き出すのを防ぐ。剣は抜けるから、抜かないと決めておく。

 塔を降りた風は、濡れた旗を一度だけ撫で、薄紅平原へと降りていった。

     *

 薄い霧が平原を這い、畦の肩の高さで切れる。畦の外側はぬかるみ、内側は石と枯枝で固められ、踏めば鈍い返りが足裏に伝わる。夜の間に人の手で仕込まれた「泥帯」は、畦から三歩のところに口を開けていた。水面の上に薄い藁屑を散らし、道のように見せる。真上から見れば浅い。だが斜めから見ると、鏡の皮膜に覆われた泥の袋だ。

 藍珠は畦の肩に片膝をつき、配した短槍の角度を確かめた。前に出した足と槍の穂先の間に、半歩分の空白がある。半歩は大きい。半歩があれば退ける。半歩がなければ、退くときに背中が見える。
「半歩残せ。欲張るな」
 藍珠は近衛にそれだけ告げ、顎で合図を送る。畦の内側の石の上で、兵の靴が同じ高さで止まった。

 霧の向こうから鈴の音がひとつ。湿りを帯びた矢羽根が空気を切り、石の上でかすかな金属音を立て、転がる。紅月の偵察線が、盾を肩にかけた軽歩兵を前へ押し出してきていた。矢を二度、三度。音を聞いて、距離を測る。
 白風の弓手は一度だけ射返し、すぐに半歩退いた。退きながら、弦の湿りを指先で確かめる。弦の水気は、音の高さを変える。音の高さは、敵にこちらの息遣いを教える。弦を乾かしすぎれば切れる。湿りすぎれば伸びる。退きながら、彼らは弦と呼吸の間に指を差し込んだ。

「まだ、下がれる」

 楓麟の低い声が、塔の中腹から伝令の靴を通して畦の肩へと落ちる。藍珠は頷き、半歩のうちの四分の一だけ後ろへ。石が軋む。軋みは音ではなく、筋肉の微かな震えに似ている。

 紅月の偵察線が勇み、藁屑の帯まで出る。小盾の縁が藁に触れ、足がその上に乗る。藍珠は一度だけ息を止めた。
「――今だ」
 囁く。囁きは霧の中でほどけず、近衛の耳にまっすぐ届く。

 藁屑の下で泥が息をする。膝まで沈み、重心が前に残った者は腰まで落ちる。慌てて盾を支えようとした腕に、畦の肩から短槍が伸び、盾の縁を叩く。盾の角度が狂い、呼吸が乱れる。呼吸が乱れれば、目の焦点が揺れる。
 白風は殺到しない。半歩退き、崩れた列を見送り、再び半歩戻す。畦の上の足跡はまっすぐのまま、外の泥は刻みの浅い足跡で途切れ途切れに汚れていく。

 偵察押しの波は何度か重なり、紅月の若い兵が怒鳴った。
「押せるのに押さないのは臆病だ!」
 彼は小隊を離れ、前へ出た。藁屑の上に踏み入る。泥が彼の脛を掴む。背後から手が伸び、彼を引き戻す。盾の角が畦の石に打たれ、鈍い音がした。彼は助けられながら、頬を赤くした。彼の上官は、その赤を見てさらに赤くなった。怒りは腹を空にする。腹が空けば、足が止まる。

 塔の上で楓麟は風の層を一つ指で払った。濡れた空気は、軽い音を遠くへ運ばない。重い音は近くに沈む。いま必要な音は、重い音だけだ。
「――追うな」
 誰も追わなかった。

     *

 同じ頃、都の朝は、いつもより足音が多かった。春任用の若い官が、工営の帳面を抱えて戻ってきたところだった。袖口に泥がついている。靴底の隙間に小石が噛んでいる。彼は息を整え、書記頭に紙を渡す。

「机で決めた配給は、少し多く、現場は少し少ない」

 書記頭が眉をひそめ、遥を見る。遥は朱の蓋を開け、しばし迷ってから、すっと印を押した。

「机の数字は腹を満たさない。現場の数字で帳を直せ」

 若い官は目を瞬かせたあと、短く頭を下げた。
 帳の下の欄外に、遥は小さく書き添えた。――「嘘は薄く、直しは太く」。朱の滲みが細い川のように紙に染み込み、紙は静かな重さを持つ。紙の上で春が始まる場所は、いつも小さい。

 配給所では列が二股に分かれ、午前の窓口で母子が粥を受け取り、午後の窓口で労役帰りの男が粟の袋を抱えた。窓口の上には新しい掲示が下がっている。「春借の返済は夏の労役で良い/病と子の分は別」。太い字は、薄い雨に濡れても滲まないよう油を引いてある。
 墨の匂いの向こうで、鍋の湯気の匂いが小さく笑う。鍋と紙が同じ屋根の下にある国は、まだ壊れていない、と遥は思う。

     *

 午後、霧が一度薄くなると、紅月の偵察押しは膠着した。畦の肩から見える赤い旗の列は揺れもせず、矢の数も増えない。
 藍珠は肩の痛みを確かめた。雨で重くなる痛みは鈍く、鈍い痛みは彼に抜刀の誘惑を運んでくる。抜けば、楽になる。抜けば、勝てるかもしれない。だが、彼は唇の隅で笑って、首を横に振った。

「ここで抜け出せば楽だが、抜かないほうが勝つ」

 楓麟が横で風を聞く。風は、湿りの層を薄くして、音と匂いを畦の肩まで運ぶ。
「王も、同じことを都でやっている。配給を薄くせず、嘘で厚くせず、半歩ずつ」

「半歩は短いが、ひとつの半歩の上に次の半歩を置けば、長い距離になる」
「それでいい」
 二人はそこで言葉をやめた。言葉は多いと刃を鈍らせる。春は、黙ることが冬より多い。

 薄紅平原の向こうで、紅月の陣の中から唇の音が響いた。若い下士官の叫びではない。ひそやかな嘆息。嘆息は、重い決断より先に来る。
 老副将が天を仰ぐ。彼の顔に刻まれた細い皺は、湿りで柔らかくなり、目尻の線がゆっくりほどけている。
「押せぬ腹で押しても、足が止まると、何度言えば」
 誰に向けられたでもない言葉は、霧の中でほどけ、彼自身に戻ってきた。彼は自分の指の節をひとつずつ押した。痛みは小さい。小さい痛みの向こうにあるものは、いま押しても届かない距離の勝ちだ。

     *

 夕刻、霧が上にあがり、湿った冷気が降りる。紅月の旗は野営に引かれ、焚き火の煙だけが白く立った。白風は追わない。追わない代わりに、畦の隙間に新しい枝を差し、夜の見張りを二重にした。泥帯は夜に広がる。夜に広がる口を、夜のうちに縛るのが夜の仕事だ。

 都の塔では、狼煙番の少年が、濡れた袖で目の上の雨を拭き、狼煙台の薪を乾いた束の下から足していた。彼の腰には小さな種袋。袋の口は固く縫ってあり、木札に彼の名が刻まれている。
 遥は彼の横に立ち、北と北東の空を見分けた。
「南東に一、北東に二。――楓麟の線だ」
 少年は目を細め、頷いた。彼の頬は薄く赤く、冷えと緊張で温かくなった血が皮膚の下で静かに踊っている。
「王様、春になったら、畑、見に来て」
「行く。約束だ」
 約束は軽い言葉だ。軽いからこそ、網の目を支える。重くすれば破れる。軽いまま重くする方法はひとつしかない。守ることだ。

     *

 夜更け、名の掲示板の前に、老女が立った。背は小さく、肩は濡れ、指は痩せている。風が紙の端を持ち上げ、名の列がわずかに波打った。老女は眉間に皺を寄せ、紙から顔を離し、また近づけた。

「息子の名は、まだか」

 遥はしばらく答えられなかった。名の列は国の記憶であり、名は数ではなく、家の鍋の匂いだ。間違えれば、次の嘘になる。黙っている間に、書記が走って来て、耳の後ろで短く囁く。

「負傷で医の館、命はある」

 老女の膝が折れ、石に当たって小さな音を立てた。肩が揺れ、涙が頬の皺に沿って落ち、顎の下で消えた。遥は老女の肩に手を置いた。骨の上に温かい皮膚があり、皮膚の下で血が生きている。

「春に、息子さんと畑を見に行けますように」

 老女は顔を上げ、目尻を拭って笑った。誰にも向けない笑い。笑いの先にだけ春がある。笑いは約束を結ぶための細い糸だ。糸は濡れているが、切れてはいなかった。

     *

 春任用の机に、新しい木札が掛かる。臨時の板札が外され、正式の名が彫られた札が吊られる。木は手の油を吸い、匂いが薄く変わる。
 法務の新任代行は「誤記訂正」の札束を抱え、掲示板へ向かった。楓麟は風で紙の端を押さえ、藍珠は貼り替える兵の背に一度だけ目をやった。
 名の列は長い。戦死者、負傷者、労役者、粥を受け取った子。誰かの名の横に、短い印が付く。「回復」。誰かの名の横に、短い線が引かれる。「移送」。誰かの名の紙の上で、墨がわずかに滲む。滲みは雨のせいだけではない。書いた手の温度のせいでもある。

「隠すと、名は消える。消えた名は次の嘘になる。だから、見せる」

 遥が評議で言った言葉を、書記頭は紙の裏側にも書き写していた。裏に書かれた言葉は誰の目にも触れない。触れないが、紙そのものがその言葉を覚える。掲示板に張られた紙は、夜の湿りを吸って重くなり、朝にはまた軽くなる。重くなったぶんだけ、言葉は沈み、軽くなったぶんだけ、言葉は遠くへ飛ぶ。

     *

 紅月の野営では、濡れた薪が煙だけを立てている。若い将は煙を嫌い、苛立ちを隠せず、言った。
「押せるのに押さないのは臆病だ。明日、押す」
 老副将は空を見上げた。空は浅い青に混じった灰色で、名前がつく前の季節の色をしている。彼は、若い将の言葉に返さなかった。言葉を返せば、怒りに火をくべるだけだ。火は薪がなければ消える。薪が足りないことくらい、若い将も本当は知っている。知らないふりをしているだけだ。知らないふりは、戦の真ん中で人を殺す。

     *

 夜が短くなったぶん、見張りの目は濃くなる。白風は畦の肩を巡り、枝を差し替え、泥の口を締め直し、石の並びを確かめた。石は夜露で滑る。滑る石は朝の落とし穴になる。布で拭いた石には、指の腹の繊維がほんの少し残る。残った繊維は、次の雨で流れる。流れた繊維は、畑の土に混じる。土は春に種を抱え、芽を押し上げる。

 藍珠は巡回を終えると、畦の外で一呼吸分だけ目を閉じた。閉じた目の裏に都の掲示板が見える。狼煙番補の少年の名が、紙の中で小さく光る。少年の照れた笑いが、風の音と混じる。
「王は、怖いと言いながら前に出る。俺は、痛いと言いながら前に出る。――どっちも、退き方を覚えた」
 彼は立ち上がり、肩にかかる外套の重さを一度だけずらした。痛みがそこにあることを、確かめるために。痛みがあるうちは、刃は折れない。

     *

 塔の石段には、小さな布包みが置かれていた。開いてみると、乾いた根が三本。舌にのせると、薄い甘さが湧く。包み紙の隅に、短い字がある。
――舌が生きていると、人は冬を渡れる。
 遥は紙を握りしめ、胸の奥に短い熱を覚えた。鍋と紙が同じ机の上にある国は、まだ壊れていない。舌が生きている国は、冬を渡れる。春は、その舌に種の粉をくっつける季節だ。

「風は、南へ寄った」

 楓麟が言い、耳をわずかに動かす。
「明日は、霧より雨が近い。泥帯は息をする。畦の上は息を整える」

「――急がない」
 遥は、誰に向けるでもなく言った。言葉は短く、石の間に落ちて、そこからじわりと滲んだ。

     *

 翌朝、霧は低く、雨は細く、風は南へわずかに傾いた。紅月はまた偵察線を厚くし、白風はまた半歩だけ退いた。畦の上の足跡はまっすぐ、外側の泥の足跡は切れ切れ。
 午前の波を二度やり過ごし、三度目の波で、紅月の小隊長が声を荒げる。

「押せ!」

 彼の部下は顔を見合わせ、ほんの一呼吸遅れて動いた。動きの遅れは、泥の遅れに重なる。藁屑の帯に足を乗せた兵が膝を取られ、盾の角が重く沈む。——その角に、白風の短槍がふたつ、静かに落ちた。音はしない。音がないのに、肩が揺れ、列が波打つ。
 藍珠は目を細め、首を横に振った。追うな。半歩戻せ。刃を濡らすな。濡れた刃は、次に必要な日に鈍る。雨の日にしか育たない勝ちがある。晴れの日にしか見えない敗けもある。

     *

 都では、春任用の若い官が、配給所の窓口に新しい札を掲げた。「足りない」札の横に、「足りせる日」。二日のち。理由。「板材の乾き」。
 札の前で、女がうなずき、男が眉をしかめ、子どもが背伸びをして字をなぞった。字をなぞる指が、墨の上で少し汚れる。汚れは帰り道の雨で薄くなる。薄くなっても指は覚える。覚えることの半分は、忘れていくことの形をしている。

 医の館では湯気が上がり、凍傷の兵が熱い酒を両手で包んでいた。
「王の手が温かい」
 彼は震える声で言った。
「温かいのは、ここで働いている皆の手だ」
 遥は笑わなかった。笑えば嘘になるときがある。笑わないことで届く温度がある。兵は酒を口に運び、喉の奥で短く息を吐いた。その息は白くなかった。白くない息は、春の印だ。

     *

 薄紅平原。雨の合間の薄い光が泥の上で鈍く反射し、畦の肩の石がその光を弾く。藍珠は長い息を吐き、肩の痛みをもう一度数えた。数えれば数えるほど、痛みは小さくなる。小さくなった痛みの中で、彼は刃の重さを思い出した。
 楓麟は風を聞き、半歩の幅を測る。半歩は冬よりも短く、春は短い半歩を積み重ねる季節だ。短い半歩は、足の筋肉を壊さない。壊さない筋肉は、長く持つ。長く持つ足は、戦の外でも歩ける。戦の外で歩ける足が多い国は、戦の中で折れにくい。

 その日の最後の波が去り、紅月は野営に戻った。白風は追わない。追わない、という選択が続くほど、追える日の距離が縮まる。畦の上の足跡はまっすぐに並び、外側の泥の足跡は途切れ途切れに消える。進んではいない。だが、崩れてもいない。
 春の策は、急がず、ほどく。ほどきながら、残す。残せない結び目だけを、断つ。

 夜、薄い月が雲の縁を撫で、泥が月光で鈍く光った。遠くで梟が一度鳴いた。畦の肩の上に並んだ石は、その鳴き声に答えず、ただ湿りを吸っていた。
 塔の上で楓麟は、風をひとつ数え、耳をわずかに寝かせた。
「――明日も、半歩だ」
 彼の横で遥が頷き、藍珠が短く笑い、夜は彼らの肩の上で静かにほどけた。