南からの風が幾日も続いた。まだ春と呼ぶには心もとない、薄い、ひとの体温では溶かし切れない冷たさを含んだ風だったが、塔の高みに立つ楓麟(ふうりん)はその高さの変化を耳の先で受け取り、石の欄干に置いた掌の下に、雪面の下で微かに走る水の音を感じ取っていた。冬の底は抜け、季節の向きだけがほんの少し、確かに変わった。
「……ほどく」
独りごとのように、しかし風の背骨に向けるように楓麟が言った。囲いは締めるだけでは反動が来る。締め上げた網は、時を見て解かなければ、同じ力でこちらの身のどこかを噛む。彼の流儀は、いつでも風と同じだった。吹くときは吹き、止むときは止む。止み際の指先の加減に、長く生き延びる術がある。
朝の評議は、冬よりも早い時刻に始まった。灯がいらないほどの明るさが部屋の端に溜まり、壁の白に薄く反射する。遥(はるか)は卓の端に置かれた巻物の束から、手にした一本をほどきながら言った。
「『名の列』は続ける。貼り出し期間を延ばし、保存庫を整える。風雨で紙を腐らせない。――名は国の記憶だ。消えた名は、次の嘘になる」
冬の間、掲示板に貼られた名は、石より重く、雪より軽く、人より長かった。寒さに手が強張っても、名だけは掠れずに読まれるよう、書記たちは二人一組で読み合わせを続けている。新任の法務代行が手を挙げた。
「誤記は、掲示の横に『訂正札』を置き、必ず翌日までに貼り替える仕組みに」
「義務化する」
遥は頷き、朱で「誤記訂正は王命」と大書した。彼が冬の間に繰り返してきた口癖――嘘が足りないものを満たすように見せるのなら、春には必ず本物へ戻す――が、行政の規則の文に変わっていく。
臨時代行制で机についた若い官たちの中から、楓麟が選んだ名が読み上げられる。「春任用」――仮の座から正式な席へ。紙の端に名が書き足され、机の前に置かれる板札が差し替えられる。若い者の背筋に、冬より少し長い影が伸びた。
「嘘で回した机は、春に本物へ戻す」
遥はもう一度、ゆっくりと繰り返した。言葉は、言い切るほど軽くなることがある。軽くするために、言い切る。それでも、卓の周りの空気は誰の呼吸でも動かないほど、きちんと重かった。
◇
囲いの「灯の道」は、二重灯から一重へ戻すことが決まった。油の節約は理由のひとつだったが、もう一つの理由は、夜の暗がりが少しだけ薄まったからだ。代わりに、巡回の子ども組には布製の小さな「種袋」が配られた。袋の口は堅く縫われ、小さな木札が結び目に下がっている。札には、それぞれの子の名が墨で記されていた。
「灯油を守ってくれたご褒美だ」
遥が言うと、子らは目を丸くした。袋を振ると、乾いた粒が微かに音を立てる。麦、粟、菜の種――春を始めるための、小さな起爆剤。灯の巡回は、そのまま畑の見回りへと移り、冬に覚えた足取りがそのまま春の仕事へつながっていく。藍珠(らんじゅ)は種袋を手に取った子の背中を見送り、低く言った。
「剣で守れぬものは、鍬で守る」
その言い方は乱暴ではなかった。剣を持つ者が、剣だけで国を守れると信じなくなったときの、静かな句読点だった。
◇
前線の空気は、冬の硝子が少しずつ音を立てて割れていくように変わり始めていた。凍河の氷はところどころ黒く透け、薄紅平原の畦の間から湿った土が顔を出す。畦の上に置いた丸石に、雨粒がひとつ、ふたつ、遅れて弾かれる。
紅月の陣では、痩せた馬の腹に薄い光が当たり、兵の粥の器は見た目にも小さくなっていた。若い将は苛立ちを隠さず、「春の泥に捕まる前に押す」と叫んだが、老副将は首を振った。
「押せぬ腹で押しても、足が先に止まる」
口は生き物で、腹は季節だ。楓麟は塔の上からその陣を見、風の高さに言葉を合わせるように心の中で段取りを並べた。ほどく流儀の順序。締めるときと同じくらい、解く順に意味がある。
「王、三つ、ほどく」
戻るとすぐに、楓麟は遥に告げた。第一に、凍河の偽橋は人の手で壊さない。自然の融けで崩させ、監視だけを残す。罠は、罠のまま消えるのがいい。手で壊した跡は、恨みの種になる。
「第二、『白樺の坂』の薄氷帯は撤去する。代わりに『泥帯』を作る。雪解けの初期に泥が最も粘る場所を選び、畦板と縄で“泥の袋”をこしらえる。見た目は道、実際は底なしの粘り。攻めず、止める」
「第三、『石狐の祠』の周辺で“塩の位置”を戻す。入れ替えは、春以降の自分に跳ねる。敵のためではない。戦の後の自分たちの秩序のためだ」
遥はうなずいた。戦は敵を倒すためだけにあるのではない。明日、鍋を火にかけるためにもある。塩の札を元に戻すのは、敵への恩ではなく、未来の自国への責任だ。
◇
都では、玄檀(げんだん)の裁可跡を埋める作業が佳境を迎えた。免官、家産半没収、流し三年――処分が言い渡され、彼の机で止まっていた案件が一気に動き出す。医の館増設の図面、城下水路の泥上げ、避寒所の春の苗床化。積み上がった紙の一枚一枚に、遥は短い朱書きを入れていく。
「『足りないときは“足りない”と書く』。――嘘は書かない」
朱の線は、冬に憑いた口癖の続きだった。書記頭が朱を乾かすために紙を持ち上げる。紙が空気を切り、火の上を通ると、朱の匂いは一瞬、鍋の匂いと混ざった。
臨時代行として冬を駆け抜けた若い官が、正式な席に着いたその日の夕刻、彼は自分の机の前で深く頭を下げた。
「冬の間は、嘘を足場にして走りました。春には、真で立ちます」
「立て」
遥は短く言った。短く言うことで、言葉は重くなる。重くなった言葉は、紙の上ではなく、人の膝に座る。
◇
内通線の残り火……冬の底に潜んでいた薄い炎も、ほどく対象だった。密偵頭は「黒衣」の末端を敢えて追い込みすぎず、悔悟令の“二回目”を細く延長する案を持ち込む。二度目の出頭で罪を減ずる線を設け、逃げ場の向きを、外ではなく内に沿わせる。法務の新任代行は眉をひそめた。
「甘さは、腐りやすいところから広がる」
「根は、引きちぎるより、土ごと上げたほうが残らない」
楓麟が支えた。彼の声は乾いた土のように聞こえたが、含んでいる湿りは、春の雨の前触れに似ていた。遥はふたりの間に視線を走らせ、静かに言う。
「悔悟の“二回目”は、灯の隠し芯だ。消そうとした指が冷たく凍えているとき、もう一度、火が戻る余地を残す。それでも“罪は罪”。書く」
法務の代行は頷き、筆を持った。紙の上に新しい線が一本増える。線は法であり、道であり、救いでもある。
◇
凍河へ向かった藍珠は、薄く黒い氷の上に膝をつき、手の甲で水面を叩いた。鈍く響く音が、以前より少し柔らかい。
「手を出さないで崩れるのを見張る。……性に合わないが、理には合う」
彼が笑うと、息はもう白くならなかった。藍珠隊の若い密偵が、氷の淵から身を乗り出して水の色を見、凍りの厚さと流れの速さを図に写す。楓麟の言葉に従って、偽橋は自然の融けに任せ、夜は焚き火を遠くに置き、気配だけで見張りを続ける。
白樺の坂では、冬に仕込んだ薄氷帯が剥がされ、代わりに畦板と縄で「泥の袋」がこしらえられた。雪解けの初期に最も粘る場所を、何度も足で確かめて選ぶ。板の並びは曲がっていてよい。曲がった道のほうが、人は速く走らない。縄の結び目に、藍珠の手の癖が残る。結び目は堅い。堅いが、切るときは一息だ。
石狐の祠では、札が元に戻された。塩の位置、米の札。冬の間、入れ替えによって狂わせた表と裏の関係を、春の前に正す。敵の眼を惑わすためではなく、春の自分が迷わないために。祠の前で藍珠は一度だけ手を合わせた。祈りではない。嘘をほどいた手を、真に戻す手順の確認だった。
◇
都の掲示板は、春の朝風に紙鳴りを立てた。名の列の前で、遥は立ち止まる。冬のはじめ、井戸を一緒に掘った村の少年の名が、新しい札の下にあった。「狼煙番補」。字は小さく、しかし墨は濃い。
「王様」
少年は照れ隠しに首を掻き、ちらりと掲示を見上げ、それから遥を見た。
「春になったら、畑、見に来て」
「行く。約束だ」
約束は網の目の一つだ。人の心の結び目。楓麟は耳をわずかに動かし、藍珠は目を細めた。彼らの仕草が、約束に紙の印ではない重みを与える。少年は胸を張り、しかしすぐに恥ずかしくなったのか、走り出して灯の柱をひとつ叩いた。木が軽く鳴り、柱の影が地面で跳ねる。跳ねた影が、春の輪郭を作る。
◇
「沈黙の市」は、着実に効いていた。配給所の窓口が午前と午後に分けられてから、並ぶ列は半分になり、列の途中で育つ囁きの芽は小さく摘まれ続けた。窓口の横に、木箱がひとつ置かれるようになった。「足りないときは“足りない”と書く」――匿名で投じられた紙には、品名と量、場所と理由が短く記されている。書記はその紙を拾い上げ、朱で「受理」「保留」「却下」を書き添える。却下の横にも、理由を書く。「今は無理」「次の便で」「別の場所へ」。嘘を塗らない説明が、薄い不満の膜を少しずつ溶かす。
その小箱に、ある朝、稚(おさな)い字で一枚の紙が入っていた。
――灯の油、昨日は足りた。今日も足りる。明日は、種。
紙は薄く、墨は濃い。読み上げられた紙を、遥は卓に貼り付け、その上に朱で一行書き足した。
――ありがとう。明日、種。
◇
春任用の名が公になった日、王宮の小さな庭で、紙の後ろ側に書かれた名まで覚えている書記頭の女が、若い官を呼び止めた。
「名は、雨に濡らすなよ」
冗談めいているのに、本気の調子で言う。若い官は思わず空を見上げ、雲の切れ間の光に目を細めた。その仕草に、女は満足そうに頷き、筆を持ち直した。名は濡れる。濡れた名を乾かすのが、机に座る側の手のしごとだ。
◇
前線では、紅月が春の泥に怯え、白風が畦の上にいる。紅月の若い将は、苛立ちを爆ぜさせる場所を探していた。机の縁を叩く手は骨ばって見え、幕の外では濡れた薪が煙だけを上げている。
「春の泥に捕まる前に押す」
まただ、と老副将は思う。若い将の言葉は、冬の間に何度も聞いた。聞くほどに、器の小ささが際立つ。彼は低く返した。
「押せるときに押せ。今は押す時ではない」
「押せぬ腹で押しても、足が先に止まる」
それは楓麟が塔で風に向かって呟いた句と、同じ構造の言葉だった。ふたりは出会ったことがない。だが、冬と春の間に何度も同じ形の言葉が生まれるのは、この地に今、同じ重力が働いているからだ。
◇
薄い雨が落ち始めた。雨の匂いは、雪と土と鉄の間を行き来する。薄紅平原の畦の上に置かれた丸石が、最初の雨粒を弾く。弾かれた水が、畦の下へ小さな筋を作る。筋はやがてつながり、畦の骨の周りを撫でる。畦は崩れない。崩れないように作ったからだ。崩れない線を見るのは、作った者にとってご褒美に近い。
凍河の偽橋は、音もなく、昼の終わりにふたつ裂け、静かに沈んだ。人の手はそこにない。痕跡は雪と水と時間のものでしかない。藍珠は遠くからそれを見て、剣の柄を軽く叩いた。
「よし」
彼の「よし」は、戦いに勝ったときと同じ音だった。何も斬っていないのに、斬ったときと同じ音。自分が斬らずに済んだことを、剣士が初めて誇れるようになった春の入り口。
◇
夕刻、王宮の回廊で、遥は短く足を止めた。雨に濡れた靴底から、石の匂いが立つ。向こうから、悔悟令の“二回目”で出頭した男が、密偵頭に伴われてやってくる。男は痩せて、目の下に影を抱き、指の節に泥が残っていた。密偵頭が頭を下げた。
「二度目の灯を、見つけた者です」
遥は頷き、男の目を正面から見た。男は視線を逸らさなかった。逸らさない目に、冷えは残っていない。
「罪は罪。――だが、灯を見た者に、灯を消させない」
遥の声は低く、けれど揺れなかった。男は肩を落とし、同時に、肩を上げた。落ちたのは重し、上がったのは胸。彼は目尻に渇いたものを残して笑い、深く頭を下げた。
「春の労役に、行かせてください。灯の下で」
密偵頭が一歩下がり、楓麟が柱の影から短く頷いた。藍珠は遠くで雨に濡れた庭木を見ていた。誰も、過剰に言葉を足さない。それが、この国の春の礼儀になりつつあった。
◇
夜の評議。卓の上に並ぶ紙には、冬のあいだ滞っていた線がようやく動いた痕が残っている。医の館の増設は、玄関の庇(ひさし)を広げ、雨の日も足を止めないように。城下の水路は、春の泥に備えて上流の堰(せき)板を一部交換。避寒所は、板の間に薄い土を入れて苗床にする――冬の床が、春の畑へと形を変える。
書記頭が一枚の紙を持ち上げた。朱が乾き切っていない。彼女は火から距離を取り、息を短く吹きかけた。吹きかける息は白くない。
「王、『誤記訂正』の掲示、今日で五件」
「五件、すべてに『謝』の一字を添えてくれ。――名を間違えられた者は、その一字があるだけで、冬を一つ少なく思える」
謝の一字が、紙の端に静かに現れた。古い形の「謝」は、口と身と言が重なる。言葉で詫び、身で直し、口で伝える。書記頭はその文字を見て、指先で紙の端を撫でた。
◇
夜更け、塔に上がる途中で、遥は足を止めた。階段の踊り場に、誰かが置いた小さな布包みがある。開けると、乾いた根が三本。匂いが強く、舌の裏に水が出た。冬のはじめ、掲示の前で差し出されたあの根だ。包み紙の隅に、短い字。
――舌が生きていると、人は冬を渡れる。
遥は包みを握りしめ、しばらく動けなかった。彼は王であっても、ひとりの舌を持つ人間で、春の入口でその舌が生きていることに、短い感謝を覚えた。
◇
塔の上では、楓麟が風を聞き、藍珠が石に背中を預けていた。夜の雨は細く、街の灯は一重に戻り、遠くの畦の上に置かれた丸石が薄く光る。
「風は南へ」
楓麟が笑った。ほんの少し、口の端だけが動く。彼の笑いはいつでも、風の高さより低くならない。
「春の前触れ、だな」
遥は空を仰ぎ、頷いた。
「囲いは閉じた。春が来れば、網はほどける。……ほどくのも、王の手だ」
言いながら、彼は自分の右手を見た。冬の間、杓子も筆もこの手で握り、剣ではない何かを掴んできた手。その手で、今度は結び目を解く。結び目は、網を固くしていた「力点」だ。ほどき方を間違えば、網はそこで破れる。ほどきながら広げる、その手順を間違えないために、彼は覚悟の位置を一つずつ確かめた。
「ほどけない結び目だけ、俺が断つ」
藍珠が言った。剣の柄に置かれた手は落ち着いている。それは、自分が断つべきものの数を、冬の間に減らすことに成功した者の手だった。彼が断つのは、解けないものだけ。人の首ではなく、道の首。嘘ではなく、嘘の根。刃の形は、ゆっくり変わっていく。
遠く、薄紅平原の向こうで、紅月の陣の焚き火が白い煙を上げただけで消えた。濡れた薪は燃えず、煙だけを立てる。煙は春の湿りを引き寄せ、湿りは兵の腹の音をさらに近くする。角笛は鳴らない。鳴らす力は、まだ溜まっていない。鳴らせば、こちらの畦に音が跳ね返るだけだ。
◇
翌朝、城門のそばで、狼煙番補の少年が、種袋を腰にぶらさげて立っていた。袋の木札には彼の名。紐は固く、結び目は真新しい。彼は遥を見ると、慌てて帽子を取った。
「王様、約束、覚えてる?」
「覚えてる。――今日はまだ、畑は泥だろう。明日、風がもう少し南に回ったら行く」
「じゃあ、あした」
少年は笑い、塀の陰に走っていった。走りながら、彼は灯の柱をひとつずつ叩いた。木が鳴り、その音が春の校庭のチャイムみたいに短く響く。遥はその音を背に、掲示の前に向かった。新しい名が増えている。誤記訂正の札もひとつ。謝の一字が、朝の光で薄く透ける。
楓麟が脇に立ち、風の高さを測るように耳を動かした。
「王。『囲い』は形を変えて残る。名の列は続く。灯は一重。畦は乾いていく。市は沈黙のまま、別の音で満ちる。ほどきながら、残す」
「残すために、解くんだな」
「そうだ」
藍珠が小さくあくびをして、肩を回した。肩の痺れは、もう痛みではなかった。痛みではなく、冬の痕跡。痕跡は、次に同じことをしないための合図でもある。
◇
春任用の若い官の机に、最初の「足りない」が置かれた。城外の橋の板。雪解け水で柔らかくなり、人が渡るには心許ない。若い官は紙に「足りない」と書き、次の行に「足りせる日」を書いた。日付は二日のち。理由は、板材の乾き。彼は紙を持って配給所へ行き、窓口の横の小箱に貼った。人々がそれを読み、うなずいて去る。誰かが小さく「二日、待てる」と言った。誰かが小さく「待てない」と言った。その声は、春の国の正直の一部だ。
遥はそれを遠くから見ていて、胸の奥に小さな結び目ができたのを感じた。ほどくべき結び目ではない。残しておくべき小さな結び目。人は、ほどきすぎても生きられない。結び目がひとつもない網は、魚をすべて逃す。結び目が多すぎる網は、引き上げられない。春は、その加減を覚える時期だ。
◇
薄い雨はやみ、雲の切れ間から陽が差した。石狐の祠の周りは、塩と米の札が、本来の位置に戻っている。祠の前で、藍珠はもう一度、手を合わせた。今度は祈りに近かった。冬の間に自分たちがついた嘘を、自分たちでほどいたことへの、ささやかな礼。祠の石は濡れていて、指がすべった。すべった指に、彼は笑った。
「王、石は濡れると滑る。春の石は、冬より危ない」
戻ってから、藍珠はそう言って遥を笑わせた。笑いは長く続かず、すぐに仕事に戻る。しかし、短い笑いは、冬の間のどの角笛より勇気があった。
◇
春、ほどく網――その言葉は、評議の席に、配給所の窓口に、畦の上に、塔の上に、掲示の紙の端に、しずかに広がった。囲いの灯は一重になり、隠し灯は芯だけが残って、誰にも見せびらかされないまま燃え続けた。名の列は長くなり、紙の保存庫は香の薄い匂いがして、書記頭は新しい棚の前で背伸びをした。狼煙番補の少年は、毎朝、塔の階段の段数をひとつずつ数え、数え間違えた段に指で小さな点をつけた。点は春の目印になり、消されずに残った。
そして薄紅平原には、細い雨がまたひとすじ落ちた。畦の上に置かれた丸石が、雨粒をはじき、遠くの紅月陣では、濡れた薪がまた煙だけを立てる。若い将は煙に咳き込み、老副将は黙って空を見た。空の色は、まだ春と呼ぶには浅い。浅い色の下で、白風の網は、締め上げた冬のかたちから、ほどく春のかたちへ、静かに張り替えられていく。
結び目は、目に見えないところで解かれた。
解けない結び目だけが、藍珠の刃で断たれるだろう。
それ以外は、王の手で、指の腹で、ゆっくり解かれる。
指先に残る冬のひび割れが、春の痛さに変わっていく。
痛さは、生きている印だ。
塔の上で、楓麟が風を聞き、耳の先を一度だけ震わせた。
「風は、南へ」
遥は、その言葉の向こうにある夏までは見ない。春だけを見て、頷いた。
「行こう」
約束は網の目の一つ。
王の言は、ほどくための合図。
その合図に、街の灯がひとつ、遅れて、しかし確かに応えた。
「……ほどく」
独りごとのように、しかし風の背骨に向けるように楓麟が言った。囲いは締めるだけでは反動が来る。締め上げた網は、時を見て解かなければ、同じ力でこちらの身のどこかを噛む。彼の流儀は、いつでも風と同じだった。吹くときは吹き、止むときは止む。止み際の指先の加減に、長く生き延びる術がある。
朝の評議は、冬よりも早い時刻に始まった。灯がいらないほどの明るさが部屋の端に溜まり、壁の白に薄く反射する。遥(はるか)は卓の端に置かれた巻物の束から、手にした一本をほどきながら言った。
「『名の列』は続ける。貼り出し期間を延ばし、保存庫を整える。風雨で紙を腐らせない。――名は国の記憶だ。消えた名は、次の嘘になる」
冬の間、掲示板に貼られた名は、石より重く、雪より軽く、人より長かった。寒さに手が強張っても、名だけは掠れずに読まれるよう、書記たちは二人一組で読み合わせを続けている。新任の法務代行が手を挙げた。
「誤記は、掲示の横に『訂正札』を置き、必ず翌日までに貼り替える仕組みに」
「義務化する」
遥は頷き、朱で「誤記訂正は王命」と大書した。彼が冬の間に繰り返してきた口癖――嘘が足りないものを満たすように見せるのなら、春には必ず本物へ戻す――が、行政の規則の文に変わっていく。
臨時代行制で机についた若い官たちの中から、楓麟が選んだ名が読み上げられる。「春任用」――仮の座から正式な席へ。紙の端に名が書き足され、机の前に置かれる板札が差し替えられる。若い者の背筋に、冬より少し長い影が伸びた。
「嘘で回した机は、春に本物へ戻す」
遥はもう一度、ゆっくりと繰り返した。言葉は、言い切るほど軽くなることがある。軽くするために、言い切る。それでも、卓の周りの空気は誰の呼吸でも動かないほど、きちんと重かった。
◇
囲いの「灯の道」は、二重灯から一重へ戻すことが決まった。油の節約は理由のひとつだったが、もう一つの理由は、夜の暗がりが少しだけ薄まったからだ。代わりに、巡回の子ども組には布製の小さな「種袋」が配られた。袋の口は堅く縫われ、小さな木札が結び目に下がっている。札には、それぞれの子の名が墨で記されていた。
「灯油を守ってくれたご褒美だ」
遥が言うと、子らは目を丸くした。袋を振ると、乾いた粒が微かに音を立てる。麦、粟、菜の種――春を始めるための、小さな起爆剤。灯の巡回は、そのまま畑の見回りへと移り、冬に覚えた足取りがそのまま春の仕事へつながっていく。藍珠(らんじゅ)は種袋を手に取った子の背中を見送り、低く言った。
「剣で守れぬものは、鍬で守る」
その言い方は乱暴ではなかった。剣を持つ者が、剣だけで国を守れると信じなくなったときの、静かな句読点だった。
◇
前線の空気は、冬の硝子が少しずつ音を立てて割れていくように変わり始めていた。凍河の氷はところどころ黒く透け、薄紅平原の畦の間から湿った土が顔を出す。畦の上に置いた丸石に、雨粒がひとつ、ふたつ、遅れて弾かれる。
紅月の陣では、痩せた馬の腹に薄い光が当たり、兵の粥の器は見た目にも小さくなっていた。若い将は苛立ちを隠さず、「春の泥に捕まる前に押す」と叫んだが、老副将は首を振った。
「押せぬ腹で押しても、足が先に止まる」
口は生き物で、腹は季節だ。楓麟は塔の上からその陣を見、風の高さに言葉を合わせるように心の中で段取りを並べた。ほどく流儀の順序。締めるときと同じくらい、解く順に意味がある。
「王、三つ、ほどく」
戻るとすぐに、楓麟は遥に告げた。第一に、凍河の偽橋は人の手で壊さない。自然の融けで崩させ、監視だけを残す。罠は、罠のまま消えるのがいい。手で壊した跡は、恨みの種になる。
「第二、『白樺の坂』の薄氷帯は撤去する。代わりに『泥帯』を作る。雪解けの初期に泥が最も粘る場所を選び、畦板と縄で“泥の袋”をこしらえる。見た目は道、実際は底なしの粘り。攻めず、止める」
「第三、『石狐の祠』の周辺で“塩の位置”を戻す。入れ替えは、春以降の自分に跳ねる。敵のためではない。戦の後の自分たちの秩序のためだ」
遥はうなずいた。戦は敵を倒すためだけにあるのではない。明日、鍋を火にかけるためにもある。塩の札を元に戻すのは、敵への恩ではなく、未来の自国への責任だ。
◇
都では、玄檀(げんだん)の裁可跡を埋める作業が佳境を迎えた。免官、家産半没収、流し三年――処分が言い渡され、彼の机で止まっていた案件が一気に動き出す。医の館増設の図面、城下水路の泥上げ、避寒所の春の苗床化。積み上がった紙の一枚一枚に、遥は短い朱書きを入れていく。
「『足りないときは“足りない”と書く』。――嘘は書かない」
朱の線は、冬に憑いた口癖の続きだった。書記頭が朱を乾かすために紙を持ち上げる。紙が空気を切り、火の上を通ると、朱の匂いは一瞬、鍋の匂いと混ざった。
臨時代行として冬を駆け抜けた若い官が、正式な席に着いたその日の夕刻、彼は自分の机の前で深く頭を下げた。
「冬の間は、嘘を足場にして走りました。春には、真で立ちます」
「立て」
遥は短く言った。短く言うことで、言葉は重くなる。重くなった言葉は、紙の上ではなく、人の膝に座る。
◇
内通線の残り火……冬の底に潜んでいた薄い炎も、ほどく対象だった。密偵頭は「黒衣」の末端を敢えて追い込みすぎず、悔悟令の“二回目”を細く延長する案を持ち込む。二度目の出頭で罪を減ずる線を設け、逃げ場の向きを、外ではなく内に沿わせる。法務の新任代行は眉をひそめた。
「甘さは、腐りやすいところから広がる」
「根は、引きちぎるより、土ごと上げたほうが残らない」
楓麟が支えた。彼の声は乾いた土のように聞こえたが、含んでいる湿りは、春の雨の前触れに似ていた。遥はふたりの間に視線を走らせ、静かに言う。
「悔悟の“二回目”は、灯の隠し芯だ。消そうとした指が冷たく凍えているとき、もう一度、火が戻る余地を残す。それでも“罪は罪”。書く」
法務の代行は頷き、筆を持った。紙の上に新しい線が一本増える。線は法であり、道であり、救いでもある。
◇
凍河へ向かった藍珠は、薄く黒い氷の上に膝をつき、手の甲で水面を叩いた。鈍く響く音が、以前より少し柔らかい。
「手を出さないで崩れるのを見張る。……性に合わないが、理には合う」
彼が笑うと、息はもう白くならなかった。藍珠隊の若い密偵が、氷の淵から身を乗り出して水の色を見、凍りの厚さと流れの速さを図に写す。楓麟の言葉に従って、偽橋は自然の融けに任せ、夜は焚き火を遠くに置き、気配だけで見張りを続ける。
白樺の坂では、冬に仕込んだ薄氷帯が剥がされ、代わりに畦板と縄で「泥の袋」がこしらえられた。雪解けの初期に最も粘る場所を、何度も足で確かめて選ぶ。板の並びは曲がっていてよい。曲がった道のほうが、人は速く走らない。縄の結び目に、藍珠の手の癖が残る。結び目は堅い。堅いが、切るときは一息だ。
石狐の祠では、札が元に戻された。塩の位置、米の札。冬の間、入れ替えによって狂わせた表と裏の関係を、春の前に正す。敵の眼を惑わすためではなく、春の自分が迷わないために。祠の前で藍珠は一度だけ手を合わせた。祈りではない。嘘をほどいた手を、真に戻す手順の確認だった。
◇
都の掲示板は、春の朝風に紙鳴りを立てた。名の列の前で、遥は立ち止まる。冬のはじめ、井戸を一緒に掘った村の少年の名が、新しい札の下にあった。「狼煙番補」。字は小さく、しかし墨は濃い。
「王様」
少年は照れ隠しに首を掻き、ちらりと掲示を見上げ、それから遥を見た。
「春になったら、畑、見に来て」
「行く。約束だ」
約束は網の目の一つだ。人の心の結び目。楓麟は耳をわずかに動かし、藍珠は目を細めた。彼らの仕草が、約束に紙の印ではない重みを与える。少年は胸を張り、しかしすぐに恥ずかしくなったのか、走り出して灯の柱をひとつ叩いた。木が軽く鳴り、柱の影が地面で跳ねる。跳ねた影が、春の輪郭を作る。
◇
「沈黙の市」は、着実に効いていた。配給所の窓口が午前と午後に分けられてから、並ぶ列は半分になり、列の途中で育つ囁きの芽は小さく摘まれ続けた。窓口の横に、木箱がひとつ置かれるようになった。「足りないときは“足りない”と書く」――匿名で投じられた紙には、品名と量、場所と理由が短く記されている。書記はその紙を拾い上げ、朱で「受理」「保留」「却下」を書き添える。却下の横にも、理由を書く。「今は無理」「次の便で」「別の場所へ」。嘘を塗らない説明が、薄い不満の膜を少しずつ溶かす。
その小箱に、ある朝、稚(おさな)い字で一枚の紙が入っていた。
――灯の油、昨日は足りた。今日も足りる。明日は、種。
紙は薄く、墨は濃い。読み上げられた紙を、遥は卓に貼り付け、その上に朱で一行書き足した。
――ありがとう。明日、種。
◇
春任用の名が公になった日、王宮の小さな庭で、紙の後ろ側に書かれた名まで覚えている書記頭の女が、若い官を呼び止めた。
「名は、雨に濡らすなよ」
冗談めいているのに、本気の調子で言う。若い官は思わず空を見上げ、雲の切れ間の光に目を細めた。その仕草に、女は満足そうに頷き、筆を持ち直した。名は濡れる。濡れた名を乾かすのが、机に座る側の手のしごとだ。
◇
前線では、紅月が春の泥に怯え、白風が畦の上にいる。紅月の若い将は、苛立ちを爆ぜさせる場所を探していた。机の縁を叩く手は骨ばって見え、幕の外では濡れた薪が煙だけを上げている。
「春の泥に捕まる前に押す」
まただ、と老副将は思う。若い将の言葉は、冬の間に何度も聞いた。聞くほどに、器の小ささが際立つ。彼は低く返した。
「押せるときに押せ。今は押す時ではない」
「押せぬ腹で押しても、足が先に止まる」
それは楓麟が塔で風に向かって呟いた句と、同じ構造の言葉だった。ふたりは出会ったことがない。だが、冬と春の間に何度も同じ形の言葉が生まれるのは、この地に今、同じ重力が働いているからだ。
◇
薄い雨が落ち始めた。雨の匂いは、雪と土と鉄の間を行き来する。薄紅平原の畦の上に置かれた丸石が、最初の雨粒を弾く。弾かれた水が、畦の下へ小さな筋を作る。筋はやがてつながり、畦の骨の周りを撫でる。畦は崩れない。崩れないように作ったからだ。崩れない線を見るのは、作った者にとってご褒美に近い。
凍河の偽橋は、音もなく、昼の終わりにふたつ裂け、静かに沈んだ。人の手はそこにない。痕跡は雪と水と時間のものでしかない。藍珠は遠くからそれを見て、剣の柄を軽く叩いた。
「よし」
彼の「よし」は、戦いに勝ったときと同じ音だった。何も斬っていないのに、斬ったときと同じ音。自分が斬らずに済んだことを、剣士が初めて誇れるようになった春の入り口。
◇
夕刻、王宮の回廊で、遥は短く足を止めた。雨に濡れた靴底から、石の匂いが立つ。向こうから、悔悟令の“二回目”で出頭した男が、密偵頭に伴われてやってくる。男は痩せて、目の下に影を抱き、指の節に泥が残っていた。密偵頭が頭を下げた。
「二度目の灯を、見つけた者です」
遥は頷き、男の目を正面から見た。男は視線を逸らさなかった。逸らさない目に、冷えは残っていない。
「罪は罪。――だが、灯を見た者に、灯を消させない」
遥の声は低く、けれど揺れなかった。男は肩を落とし、同時に、肩を上げた。落ちたのは重し、上がったのは胸。彼は目尻に渇いたものを残して笑い、深く頭を下げた。
「春の労役に、行かせてください。灯の下で」
密偵頭が一歩下がり、楓麟が柱の影から短く頷いた。藍珠は遠くで雨に濡れた庭木を見ていた。誰も、過剰に言葉を足さない。それが、この国の春の礼儀になりつつあった。
◇
夜の評議。卓の上に並ぶ紙には、冬のあいだ滞っていた線がようやく動いた痕が残っている。医の館の増設は、玄関の庇(ひさし)を広げ、雨の日も足を止めないように。城下の水路は、春の泥に備えて上流の堰(せき)板を一部交換。避寒所は、板の間に薄い土を入れて苗床にする――冬の床が、春の畑へと形を変える。
書記頭が一枚の紙を持ち上げた。朱が乾き切っていない。彼女は火から距離を取り、息を短く吹きかけた。吹きかける息は白くない。
「王、『誤記訂正』の掲示、今日で五件」
「五件、すべてに『謝』の一字を添えてくれ。――名を間違えられた者は、その一字があるだけで、冬を一つ少なく思える」
謝の一字が、紙の端に静かに現れた。古い形の「謝」は、口と身と言が重なる。言葉で詫び、身で直し、口で伝える。書記頭はその文字を見て、指先で紙の端を撫でた。
◇
夜更け、塔に上がる途中で、遥は足を止めた。階段の踊り場に、誰かが置いた小さな布包みがある。開けると、乾いた根が三本。匂いが強く、舌の裏に水が出た。冬のはじめ、掲示の前で差し出されたあの根だ。包み紙の隅に、短い字。
――舌が生きていると、人は冬を渡れる。
遥は包みを握りしめ、しばらく動けなかった。彼は王であっても、ひとりの舌を持つ人間で、春の入口でその舌が生きていることに、短い感謝を覚えた。
◇
塔の上では、楓麟が風を聞き、藍珠が石に背中を預けていた。夜の雨は細く、街の灯は一重に戻り、遠くの畦の上に置かれた丸石が薄く光る。
「風は南へ」
楓麟が笑った。ほんの少し、口の端だけが動く。彼の笑いはいつでも、風の高さより低くならない。
「春の前触れ、だな」
遥は空を仰ぎ、頷いた。
「囲いは閉じた。春が来れば、網はほどける。……ほどくのも、王の手だ」
言いながら、彼は自分の右手を見た。冬の間、杓子も筆もこの手で握り、剣ではない何かを掴んできた手。その手で、今度は結び目を解く。結び目は、網を固くしていた「力点」だ。ほどき方を間違えば、網はそこで破れる。ほどきながら広げる、その手順を間違えないために、彼は覚悟の位置を一つずつ確かめた。
「ほどけない結び目だけ、俺が断つ」
藍珠が言った。剣の柄に置かれた手は落ち着いている。それは、自分が断つべきものの数を、冬の間に減らすことに成功した者の手だった。彼が断つのは、解けないものだけ。人の首ではなく、道の首。嘘ではなく、嘘の根。刃の形は、ゆっくり変わっていく。
遠く、薄紅平原の向こうで、紅月の陣の焚き火が白い煙を上げただけで消えた。濡れた薪は燃えず、煙だけを立てる。煙は春の湿りを引き寄せ、湿りは兵の腹の音をさらに近くする。角笛は鳴らない。鳴らす力は、まだ溜まっていない。鳴らせば、こちらの畦に音が跳ね返るだけだ。
◇
翌朝、城門のそばで、狼煙番補の少年が、種袋を腰にぶらさげて立っていた。袋の木札には彼の名。紐は固く、結び目は真新しい。彼は遥を見ると、慌てて帽子を取った。
「王様、約束、覚えてる?」
「覚えてる。――今日はまだ、畑は泥だろう。明日、風がもう少し南に回ったら行く」
「じゃあ、あした」
少年は笑い、塀の陰に走っていった。走りながら、彼は灯の柱をひとつずつ叩いた。木が鳴り、その音が春の校庭のチャイムみたいに短く響く。遥はその音を背に、掲示の前に向かった。新しい名が増えている。誤記訂正の札もひとつ。謝の一字が、朝の光で薄く透ける。
楓麟が脇に立ち、風の高さを測るように耳を動かした。
「王。『囲い』は形を変えて残る。名の列は続く。灯は一重。畦は乾いていく。市は沈黙のまま、別の音で満ちる。ほどきながら、残す」
「残すために、解くんだな」
「そうだ」
藍珠が小さくあくびをして、肩を回した。肩の痺れは、もう痛みではなかった。痛みではなく、冬の痕跡。痕跡は、次に同じことをしないための合図でもある。
◇
春任用の若い官の机に、最初の「足りない」が置かれた。城外の橋の板。雪解け水で柔らかくなり、人が渡るには心許ない。若い官は紙に「足りない」と書き、次の行に「足りせる日」を書いた。日付は二日のち。理由は、板材の乾き。彼は紙を持って配給所へ行き、窓口の横の小箱に貼った。人々がそれを読み、うなずいて去る。誰かが小さく「二日、待てる」と言った。誰かが小さく「待てない」と言った。その声は、春の国の正直の一部だ。
遥はそれを遠くから見ていて、胸の奥に小さな結び目ができたのを感じた。ほどくべき結び目ではない。残しておくべき小さな結び目。人は、ほどきすぎても生きられない。結び目がひとつもない網は、魚をすべて逃す。結び目が多すぎる網は、引き上げられない。春は、その加減を覚える時期だ。
◇
薄い雨はやみ、雲の切れ間から陽が差した。石狐の祠の周りは、塩と米の札が、本来の位置に戻っている。祠の前で、藍珠はもう一度、手を合わせた。今度は祈りに近かった。冬の間に自分たちがついた嘘を、自分たちでほどいたことへの、ささやかな礼。祠の石は濡れていて、指がすべった。すべった指に、彼は笑った。
「王、石は濡れると滑る。春の石は、冬より危ない」
戻ってから、藍珠はそう言って遥を笑わせた。笑いは長く続かず、すぐに仕事に戻る。しかし、短い笑いは、冬の間のどの角笛より勇気があった。
◇
春、ほどく網――その言葉は、評議の席に、配給所の窓口に、畦の上に、塔の上に、掲示の紙の端に、しずかに広がった。囲いの灯は一重になり、隠し灯は芯だけが残って、誰にも見せびらかされないまま燃え続けた。名の列は長くなり、紙の保存庫は香の薄い匂いがして、書記頭は新しい棚の前で背伸びをした。狼煙番補の少年は、毎朝、塔の階段の段数をひとつずつ数え、数え間違えた段に指で小さな点をつけた。点は春の目印になり、消されずに残った。
そして薄紅平原には、細い雨がまたひとすじ落ちた。畦の上に置かれた丸石が、雨粒をはじき、遠くの紅月陣では、濡れた薪がまた煙だけを立てる。若い将は煙に咳き込み、老副将は黙って空を見た。空の色は、まだ春と呼ぶには浅い。浅い色の下で、白風の網は、締め上げた冬のかたちから、ほどく春のかたちへ、静かに張り替えられていく。
結び目は、目に見えないところで解かれた。
解けない結び目だけが、藍珠の刃で断たれるだろう。
それ以外は、王の手で、指の腹で、ゆっくり解かれる。
指先に残る冬のひび割れが、春の痛さに変わっていく。
痛さは、生きている印だ。
塔の上で、楓麟が風を聞き、耳の先を一度だけ震わせた。
「風は、南へ」
遥は、その言葉の向こうにある夏までは見ない。春だけを見て、頷いた。
「行こう」
約束は網の目の一つ。
王の言は、ほどくための合図。
その合図に、街の灯がひとつ、遅れて、しかし確かに応えた。



