冬の底を過ぎた朝、空の青はわずかに薄く、白壁に差す光の温度だけがほんの指先ほど和らいだ。北東の城外を見渡せる塔に立つ楓麟(ふうりん)は、耳の先を一度だけ震わせて風を測る。乾いた風の骨が、今までより半歩だけ低い。雪面の下で水が動き出すときの、目には見えないざわめきが、塔の石を通じて足裏に伝わってくる気がした。
「紅月は『一撃の機』を探すだろう」
楓麟は、塔の欄干に置いてある短い合図旗に触れもしないまま言った。風の高さを読むことと、旗を振ることは、似ていて、違う。
「ならば、こちらは『囲い』を仕上げる。勝つ点を増やすのではない。相手の選べる道を減らす。網を四方から詰める」
囲い。勝負の盤面で一点を刺し貫くかわりに、目には見えない線で周囲を狭めていく術。戦場の刃に合わせて刃を磨くのではなく、補給・評判・地形・時間――四つの端から静かに締めていく術。
王宮の評議室では、まだ夜明けの息を吐く灯が揺れていた。遥(はるか)はその灯を背に、長卓の上に広げた紙に指を添え、声を整える。紙の角は冷たく、指先のひび割れにひっかかる。
「囲いは四手でいく」
一手ずつ、ゆっくり言葉に置いていく。せかせば軽くなる。軽くなった策は、冬に折れる。
「一手目――『名の列』だ。戦死者、負傷者、労役に名を連ねた者、配給で粥を受け取った子、全ての名を王宮前の掲示に列記する。名は国の記憶だ。名を見る人は、自分の名がここに並ぶときを想像する。それは闇の囁きより強い抑止になる」
商務司の若い官が、ためらいがちに手をあげた。顔色は良く、目はまっすぐだが、そのまっすぐさが少しだけ曇る。
「掲示は……家族の心を、抉(えぐ)りませんか」
遥は頷き、そして、目を反らさなかった。
「抉る。だが隠せば、名は消える。消えた名は、次の嘘になる。――だから、見せる。見せた名は、国が覚えている名だ」
法務の新任代行が、机の端の紙をきちんと揃え直してから言う。彼の手元は、癖がなく、習いがある。
「名の誤記は重大です。二重チェックを――書記を二人一組にし、互いに読み合わせる体制を」
「採る」
楓麟が即答した。その声に、迷いは一滴もなかった。藍珠(らんじゅ)が椅子から立ち上がる。薄く白い包帯はもう外れているが、肩の動きにはまだ無理がない。
「貼り替えは俺が護る。札を剥がす手があれば、剣の前で名を名乗らせる」
遥は一つ頷き、二手目へ進む。
「二手目――『灯の道』。城下から城外の避難所、医の館、配給所、工事現場へ、夜間の小さな灯を繋げる。巡回は老人会と子ども組に頼む。灯は“王の目”ではなく、“皆の足元”として燃やす。灯の列は、冷たい世界に“行ける場所”を増やす線だ」
書記頭の年配の女が、目尻の皺を少しだけ深くして笑い、同時に真面目な口調で加える。
「油壺は二重に。風で消えても、もう一つの芯が残るように」
楓麟が目だけで礼を返し、遥は三手目へ。
「三手目――『凍土の畦(あぜ)』。薄紅平原の縁に、春の泥濘(ぬかる)みで崩れないよう石と枯枝で畦を組む。敵が来ても泥に嵌(はま)るのは向こう側。こちらは畦上を退きつつ撃てる。石と枝は倉から支給、労役は募る。畦を組む人の名も、掲示に載せる」
軍務卿の老将が、隣の席の若い官に小声で「畦の間隔は八歩半」と告げ、若い官が慌てて書きつける。楓麟は見るでもなく聞いて、細い筆で紙の隅に短い線を引く。雨の前の用心の線だ。
「四手目――『沈黙の市』。市場の“騒ぎ”を減らす。午前と午後で配給所の窓口を分け、並ぶ列を半分にする。並ぶ時間は不満を育てる。半分にすれば囁きは小さくなる。札の偽造は、列が長い日に太る」
商務司の若い官が、今度は頷いた。彼の頷きには、昨日、配給所で自分の目で列の長さを測った人の重さがある。紙の上の線だけではなく、石畳の上の足音の数でもうなずいている。
「囲いは、刃の音ではなく、足音と紙音で締まる」
楓麟が低く言い、藍珠は短く「承知」と答えた。
◇
王宮前の掲示板は、いつになく静かに人を呼んだ。大きな板に貼られた紙の列は、名の列でもあり、息の列でもあった。戦死者の名、負傷者の名、労役の名、粥を受け取った子の名。子の名の隣には小さく年齢が記され、横には「病」「孤」「家の数」が地味な字で添えられている。派手ではない。派手な掲示は、冬に向かない。目に入って、胸に落ちるように、墨の濃さだけが調整されている。
貼り替えの日、藍珠自身が板の前に立ち、衛兵に目で合図する。楓麟は板の向かい、塔の根元から風を読む。遥は、貼り出す紙に一枚ずつ手を添えた。指の温度が紙に移る。紙は温まらない。温まらない紙に、温かさの気配だけが残る。
「……おらの名が、ある」
労役に出て畦を組んだ百姓の男が、指の痕の残る名を見つけてぽつりと言った。彼の隣で、孫が背伸びして自分と同じ名の子を探す。見つける。小さな指で、名の一文字をなぞる。その指に、墨の匂いが付く。
商務司の若い官が列の横で、知らん顔をして立ち会っていた。彼はときどき、名の誤記がないか目で追い、書記の二人組が読み合わせる声に耳を澄ませた。誤字があれば、藍珠が合図し、紙が剥がされ、楓麟が風で端を押さえ、遥が新しい紙に手を添える。誰も声を荒げない。荒げないかわりに、指の動きが早くなる。
誰かが口の中で、見つけた名を三度繰り返した。繰り返された名は、その人の胸の奥の棚に置かれる。棚は見えない。だが、その棚がこの国を支えている。
◇
夜――「灯の道」の初日。城下から外縁へ、小さな灯が一定の間隔で立った。灯は薄い紙の障子に守られ、油は冷えに負けないよう、壺が二重になっている。巡回に出たのは、老人会と子ども組。老人は足取りが遅い。遅いが、目が良い。子は足が速い。速いが、目が高すぎない。ふたりで一つの道を見て歩くと、灯は人の背丈の高さをちょうど照らした。
老人が油をさし、小さな火を指で守る。子が風の向きを耳で聞く。ふたりが並べば、灯は“王の目”ではなく、“皆の足元”になる。足元が見えると、人は余計な噂を口にしない。噂は暗がりで育つ。
その夜半、灯の列の一つが、不意に消えた。
巡回の子らが、泣きながら戻って来た。油壺が割られ、灯の芯が濡れていた。濡れた芯は、火を受け入れない。濡れは芯のせいではない。誰かの指のせいだ。指は冷たかったはずだ。
密偵頭は子の肩を抱き、声を荒げずに怒った。
「灯を消す者は、飢えより暗い」
楓麟はその言葉の上に、短く指示を置く。
「灯は二重に。油壺の下に“隠し灯”を置け。消されても、すぐ戻る灯に」
翌晩、消された灯の跡に、新しい灯が二つ点いた。壺の底に小さな隠し芯が仕込まれている。外の火が消えれば、内の火が立つ。灯を消しに来た指の持ち主は、ひどく疲れた顔で、きっとその灯を見ただろう。見て、何を思ったかまでは、灯は教えない。ただ、灯は、消されても戻るという事実だけを、夜の中に静かに置いた。
◇
薄紅平原のうち、白風側の縁に畦が延びていく。石と枯枝で組まれた畦は、見た目には頼りなく、足で踏めば意外なほど強い。土の下に隠した枯木の骨が、春の泥濘にも崩れない筋を作る。労役に出た者たちは、手の皮を破りながら、石を渡し、枝を差し込み、足で踏み固めた。踏み固めたあと、彼らは自分の足跡に一度だけ振り返る。振り返った足跡は、掲示の名の列と同じくらいまっすぐだった。
畦は線であると同時に、境だった。こちら側と向こう側。こちら側は退きつつ撃てる。向こう側は嵌まりつつ焦れる。紅月は旗を並べ、角笛を鳴らして“脅しの展開”を試みたが、畦は沈まなかった。白風の兵は出ない。出ない勇気は、出る勇気より大きいことがある。
楓麟はこの日、合図旗をほとんど振らなかった。風だけを読んだ。読むという行為は、人を静かにする。静かな指揮は、兵の心拍を必要以上に上げない。藍珠は剣の柄に手を置いたまま、一度も抜かなかった。抜かない剣は、抜いた剣よりも重いことがある。重さは、雪の上の足音を薄くした。
紅月の角笛の音はやがて弱まり、旗は風の中の布に戻った。布は布だ。布が旗であるのは、吹く風の高さと、握る手の高さ次第だ。
◇
昼の配給は「沈黙の市」を名のとおりにした。午前の窓口は北側、午後は南側。人の列は短くなり、短くなった列の中では、囁きが大きくなる場所が減る。並ぶ時間は、不満を育てる。半分にすると、育たない不満もある。全てではない。けれど、冬に必要なのは「全部」ではなく「今の半分」だ。
配給所の前で、ひとりの女が掲示の前に立ち尽くしていた。昨日の夜、塩煮場で鍋を守って倒れた女――ではない。彼女は、塩煮場で倒れた女の姉だった。掲示の紙には、亡くなった女の名が、他の名と同じ大きさで記されている。特別な印はない。特別でないことが、特別だった。
遥がそっと横に立つ。女は気づかない。気づかないまま、唇の内側を噛んでいる。噛んだあと、血の味がしたはずだ。血の味は、生きている印だ。
「名前、間違っていませんでした」
女はやっとのことでそれだけ告げ、目元を拭った。拭う仕草に、怒りと安堵が一緒に流れた。遥は頷き、掲示の端を指で押さえる。風が強くなった気がして、そうしただけだ。押さえた指の跡は紙に残らない。残るのは、この瞬間を覚えている誰かの背中の感覚だ。
◇
夜。紅月本陣。幕の中で、若い将が苛立ちを机に叩きつけた。
「都を、直接、焼けばいい!」
老練の副将は乾いた声で返す。
「焼く薪が、もう足りん」
言葉は短く、答えは現実でできている。幕の外では、配られる粥の器が一段、小さくなっていた。器の小ささは、誰のせいでもなく、全てのせいだ。若い将は器の小ささに気づかない。器を配る兵は気づく。配られる者は、もっと気づく。気づく人の数が増えると、戦は別の形に向かう。
◇
灯の道の二夜目、また一つの灯が、夜半に消された。だが“隠し灯”は燃え続け、巡回の子らは泣かなかった。代わりに、消された灯の根元に、小さな紙切れが差し込まれていた。
――王の灯、見た。俺の腹にも、灯を。
字は震え、墨は薄い。密偵頭はその紙を持って、楓麟に見せた。楓麟は、紙を掲げるでも、破るでもなく、ただ灯のそばに置いた。紙は油の匂いを吸い、夜の湿りを吸い、重たくなって石に寄りかかった。楓麟は誰にも聞こえない声で言った。
「灯は、人を罰するために燃やすのではない」
翌朝、配給所の窓口の横の箱に、同じ震える字がもう一枚入っていた。
――灯、見た。列、短い。俺、並べた。
並べた、の一言は、冬の朝の火より温かかった。紙は小さく、軽い。軽い紙に、重いことが書かれている。
◇
囲いは、目に見える線と、見えない線で出来上がっていく。畦は線だ。灯は線だ。名の列も、線だ。市の沈黙は、音のない線だ。四つの線が、四方から日々少しずつ近づき、白風の都を包む輪郭を太らせる。輪郭は固くなるほど、内側は柔らかくなる。柔らかいというのは、壊れにくいという意味だ。
掲示板に新しい名が貼られた。塩煮場で鍋を守って倒れた女の名、囲いの灯を見回って足を凍らせた老人の名、凍河で荷を押さえて指を傷め、いまだ感覚が戻らない若者の名。その紙に、遥は一枚一枚、手を添えた。藍珠が横で目を閉じ、楓麟が風で紙の端を押さえる。目を閉じるのは祈りではない。目を閉じると、名前の音が、胸の内で少し大きく響く。
「王」
藍珠が目を開けた。遅れて、紙の端で風が遊ぶ。楓麟が小さく合図旗を揺らし、風の背を変える。
「囲いの端で、二人捕まえた。灯を消していた」
遥は紙から手を離し、藍珠の目を見る。
「斬らない。――灯の下で、王命を読ませる」
「心得た」
藍珠は即座に頷く。王命の札には、灯の意味と、名の意味と、鍋の意味が、単純な言葉で書かれている。「灯は皆の足元」「名は皆の背骨」「鍋は皆の腹」。単純な言葉は、冬に強い。
◇
夜明け前、塔の上で楓麟が風を聞いた。耳がひとつ、きゅっと動く。風は南へ回り、わずかに湿りを増す。湿りは音にならないが、石の肌に残る。楓麟は薄く笑い、誰にともなく告げた。
「風は南へ。――春の前触れ」
階段を上がってきた遥は、その背に声を乗せる。
「囲いは閉じた。春が来れば、網はほどける。……ほどくのも、王の手だ」
囲いは作るときより、ほどくときのほうが難しい。ほどく手を間違えれば、せっかく柔らかくした内側を、自分で傷つけることになる。王の手は、剣を持つ手ではなく、札を持つ手であるほうがいい春もある。
藍珠が剣の柄に手を置いた。左手の指先にまだ少し痺れが残っている。痺れは消えない。消えないものを持っていくのも、春の仕事だ。
「ほどけない結び目だけ、俺が断つ」
東の空に細い光が敷かれる。光は音を持たない。音を持たない光が、夜の背中を静かに押し戻す。塔の下で、灯の列がまだ点いている。消えかけの灯がひとつ、隠し灯の芯でまた小さく立ち上がる。灯は、消されることを恐れない。消されても、戻ることを知っている灯は強い。
王宮の中庭では、掲示の紙が朝の風に小さく鳴り、配給所では鍋の蓋が持ち上がる音がした。薄紅平原の畦の上では霜が溶け、水が筋になり、石の隙間をゆっくり動き出す。畦と畦の間の泥は、こちら側だけ少し硬い。硬さは、人の手の記憶だ。
都の外れで、老人と子が灯を消して歩く。灯を消すのは、夜を終わらせる合図であり、夜があったことを認める手順でもある。灯の芯から指に移る油の匂いを、子が「春の匂いだ」と笑った。老人は笑わず、でも頷いた。春は匂いではない。けれど、匂いから春が始まる年もある。
狼煙番の若者が塔の上で空を見上げ、指で風の向きを測り、火に息を吹いた。吹いた息は以前ほど白くない。白くないことを、彼は嬉しいとも、寂しいとも思わなかった。ただ、次の合図旗が前より少し重く感じるのは、春が旗の布を柔らかくするからだ。
囲いは閉じ、春は近い。
閉じた網の中で、鍋と紙は同じ机に置かれ、名は並び、灯は二重になり、畦は石と枝で背骨を作る。黒衣の囁きは、灯の列にぶつかって小さく砕け、偽札の端は掲示の名で重くなる。紅月の角笛は、薄紅の空の下で、遠く、短く、ひとつ鳴ったきりだった。
囲いは勝利の図ではない。
囲いは、生き延びるための、地味な線の集まりだ。
その地味さで、人は春へ渡る。
春という別の戦は、剣を鈍らせる。
鈍らせた剣で、ほどけない結び目だけを断ち、あとは手で解く。
王の手で。宰相の風で。剣士の痛みで。
そして、鍋の湯気で。
薄い光が塔の縁を越え、王の頬に当たった。温度は、まだ冷たい。
冷たい光の中で、遥はひとつうなずいた。
「――行こう。春の囲いを、ほどきながら、広げよう」
その言葉に、楓麟は旗をわずかに傾け、藍珠は鞘の上に置いた掌を、ほんの指一本ぶんだけ強くした。
春待ちの囲いは、ほどかれるために仕上がった。
ほどく手順までを含めて、囲いは完成する。
そのことを、白い息ではなく、透明な息で確かめられる季節が、とうとう、近づいていた。
「紅月は『一撃の機』を探すだろう」
楓麟は、塔の欄干に置いてある短い合図旗に触れもしないまま言った。風の高さを読むことと、旗を振ることは、似ていて、違う。
「ならば、こちらは『囲い』を仕上げる。勝つ点を増やすのではない。相手の選べる道を減らす。網を四方から詰める」
囲い。勝負の盤面で一点を刺し貫くかわりに、目には見えない線で周囲を狭めていく術。戦場の刃に合わせて刃を磨くのではなく、補給・評判・地形・時間――四つの端から静かに締めていく術。
王宮の評議室では、まだ夜明けの息を吐く灯が揺れていた。遥(はるか)はその灯を背に、長卓の上に広げた紙に指を添え、声を整える。紙の角は冷たく、指先のひび割れにひっかかる。
「囲いは四手でいく」
一手ずつ、ゆっくり言葉に置いていく。せかせば軽くなる。軽くなった策は、冬に折れる。
「一手目――『名の列』だ。戦死者、負傷者、労役に名を連ねた者、配給で粥を受け取った子、全ての名を王宮前の掲示に列記する。名は国の記憶だ。名を見る人は、自分の名がここに並ぶときを想像する。それは闇の囁きより強い抑止になる」
商務司の若い官が、ためらいがちに手をあげた。顔色は良く、目はまっすぐだが、そのまっすぐさが少しだけ曇る。
「掲示は……家族の心を、抉(えぐ)りませんか」
遥は頷き、そして、目を反らさなかった。
「抉る。だが隠せば、名は消える。消えた名は、次の嘘になる。――だから、見せる。見せた名は、国が覚えている名だ」
法務の新任代行が、机の端の紙をきちんと揃え直してから言う。彼の手元は、癖がなく、習いがある。
「名の誤記は重大です。二重チェックを――書記を二人一組にし、互いに読み合わせる体制を」
「採る」
楓麟が即答した。その声に、迷いは一滴もなかった。藍珠(らんじゅ)が椅子から立ち上がる。薄く白い包帯はもう外れているが、肩の動きにはまだ無理がない。
「貼り替えは俺が護る。札を剥がす手があれば、剣の前で名を名乗らせる」
遥は一つ頷き、二手目へ進む。
「二手目――『灯の道』。城下から城外の避難所、医の館、配給所、工事現場へ、夜間の小さな灯を繋げる。巡回は老人会と子ども組に頼む。灯は“王の目”ではなく、“皆の足元”として燃やす。灯の列は、冷たい世界に“行ける場所”を増やす線だ」
書記頭の年配の女が、目尻の皺を少しだけ深くして笑い、同時に真面目な口調で加える。
「油壺は二重に。風で消えても、もう一つの芯が残るように」
楓麟が目だけで礼を返し、遥は三手目へ。
「三手目――『凍土の畦(あぜ)』。薄紅平原の縁に、春の泥濘(ぬかる)みで崩れないよう石と枯枝で畦を組む。敵が来ても泥に嵌(はま)るのは向こう側。こちらは畦上を退きつつ撃てる。石と枝は倉から支給、労役は募る。畦を組む人の名も、掲示に載せる」
軍務卿の老将が、隣の席の若い官に小声で「畦の間隔は八歩半」と告げ、若い官が慌てて書きつける。楓麟は見るでもなく聞いて、細い筆で紙の隅に短い線を引く。雨の前の用心の線だ。
「四手目――『沈黙の市』。市場の“騒ぎ”を減らす。午前と午後で配給所の窓口を分け、並ぶ列を半分にする。並ぶ時間は不満を育てる。半分にすれば囁きは小さくなる。札の偽造は、列が長い日に太る」
商務司の若い官が、今度は頷いた。彼の頷きには、昨日、配給所で自分の目で列の長さを測った人の重さがある。紙の上の線だけではなく、石畳の上の足音の数でもうなずいている。
「囲いは、刃の音ではなく、足音と紙音で締まる」
楓麟が低く言い、藍珠は短く「承知」と答えた。
◇
王宮前の掲示板は、いつになく静かに人を呼んだ。大きな板に貼られた紙の列は、名の列でもあり、息の列でもあった。戦死者の名、負傷者の名、労役の名、粥を受け取った子の名。子の名の隣には小さく年齢が記され、横には「病」「孤」「家の数」が地味な字で添えられている。派手ではない。派手な掲示は、冬に向かない。目に入って、胸に落ちるように、墨の濃さだけが調整されている。
貼り替えの日、藍珠自身が板の前に立ち、衛兵に目で合図する。楓麟は板の向かい、塔の根元から風を読む。遥は、貼り出す紙に一枚ずつ手を添えた。指の温度が紙に移る。紙は温まらない。温まらない紙に、温かさの気配だけが残る。
「……おらの名が、ある」
労役に出て畦を組んだ百姓の男が、指の痕の残る名を見つけてぽつりと言った。彼の隣で、孫が背伸びして自分と同じ名の子を探す。見つける。小さな指で、名の一文字をなぞる。その指に、墨の匂いが付く。
商務司の若い官が列の横で、知らん顔をして立ち会っていた。彼はときどき、名の誤記がないか目で追い、書記の二人組が読み合わせる声に耳を澄ませた。誤字があれば、藍珠が合図し、紙が剥がされ、楓麟が風で端を押さえ、遥が新しい紙に手を添える。誰も声を荒げない。荒げないかわりに、指の動きが早くなる。
誰かが口の中で、見つけた名を三度繰り返した。繰り返された名は、その人の胸の奥の棚に置かれる。棚は見えない。だが、その棚がこの国を支えている。
◇
夜――「灯の道」の初日。城下から外縁へ、小さな灯が一定の間隔で立った。灯は薄い紙の障子に守られ、油は冷えに負けないよう、壺が二重になっている。巡回に出たのは、老人会と子ども組。老人は足取りが遅い。遅いが、目が良い。子は足が速い。速いが、目が高すぎない。ふたりで一つの道を見て歩くと、灯は人の背丈の高さをちょうど照らした。
老人が油をさし、小さな火を指で守る。子が風の向きを耳で聞く。ふたりが並べば、灯は“王の目”ではなく、“皆の足元”になる。足元が見えると、人は余計な噂を口にしない。噂は暗がりで育つ。
その夜半、灯の列の一つが、不意に消えた。
巡回の子らが、泣きながら戻って来た。油壺が割られ、灯の芯が濡れていた。濡れた芯は、火を受け入れない。濡れは芯のせいではない。誰かの指のせいだ。指は冷たかったはずだ。
密偵頭は子の肩を抱き、声を荒げずに怒った。
「灯を消す者は、飢えより暗い」
楓麟はその言葉の上に、短く指示を置く。
「灯は二重に。油壺の下に“隠し灯”を置け。消されても、すぐ戻る灯に」
翌晩、消された灯の跡に、新しい灯が二つ点いた。壺の底に小さな隠し芯が仕込まれている。外の火が消えれば、内の火が立つ。灯を消しに来た指の持ち主は、ひどく疲れた顔で、きっとその灯を見ただろう。見て、何を思ったかまでは、灯は教えない。ただ、灯は、消されても戻るという事実だけを、夜の中に静かに置いた。
◇
薄紅平原のうち、白風側の縁に畦が延びていく。石と枯枝で組まれた畦は、見た目には頼りなく、足で踏めば意外なほど強い。土の下に隠した枯木の骨が、春の泥濘にも崩れない筋を作る。労役に出た者たちは、手の皮を破りながら、石を渡し、枝を差し込み、足で踏み固めた。踏み固めたあと、彼らは自分の足跡に一度だけ振り返る。振り返った足跡は、掲示の名の列と同じくらいまっすぐだった。
畦は線であると同時に、境だった。こちら側と向こう側。こちら側は退きつつ撃てる。向こう側は嵌まりつつ焦れる。紅月は旗を並べ、角笛を鳴らして“脅しの展開”を試みたが、畦は沈まなかった。白風の兵は出ない。出ない勇気は、出る勇気より大きいことがある。
楓麟はこの日、合図旗をほとんど振らなかった。風だけを読んだ。読むという行為は、人を静かにする。静かな指揮は、兵の心拍を必要以上に上げない。藍珠は剣の柄に手を置いたまま、一度も抜かなかった。抜かない剣は、抜いた剣よりも重いことがある。重さは、雪の上の足音を薄くした。
紅月の角笛の音はやがて弱まり、旗は風の中の布に戻った。布は布だ。布が旗であるのは、吹く風の高さと、握る手の高さ次第だ。
◇
昼の配給は「沈黙の市」を名のとおりにした。午前の窓口は北側、午後は南側。人の列は短くなり、短くなった列の中では、囁きが大きくなる場所が減る。並ぶ時間は、不満を育てる。半分にすると、育たない不満もある。全てではない。けれど、冬に必要なのは「全部」ではなく「今の半分」だ。
配給所の前で、ひとりの女が掲示の前に立ち尽くしていた。昨日の夜、塩煮場で鍋を守って倒れた女――ではない。彼女は、塩煮場で倒れた女の姉だった。掲示の紙には、亡くなった女の名が、他の名と同じ大きさで記されている。特別な印はない。特別でないことが、特別だった。
遥がそっと横に立つ。女は気づかない。気づかないまま、唇の内側を噛んでいる。噛んだあと、血の味がしたはずだ。血の味は、生きている印だ。
「名前、間違っていませんでした」
女はやっとのことでそれだけ告げ、目元を拭った。拭う仕草に、怒りと安堵が一緒に流れた。遥は頷き、掲示の端を指で押さえる。風が強くなった気がして、そうしただけだ。押さえた指の跡は紙に残らない。残るのは、この瞬間を覚えている誰かの背中の感覚だ。
◇
夜。紅月本陣。幕の中で、若い将が苛立ちを机に叩きつけた。
「都を、直接、焼けばいい!」
老練の副将は乾いた声で返す。
「焼く薪が、もう足りん」
言葉は短く、答えは現実でできている。幕の外では、配られる粥の器が一段、小さくなっていた。器の小ささは、誰のせいでもなく、全てのせいだ。若い将は器の小ささに気づかない。器を配る兵は気づく。配られる者は、もっと気づく。気づく人の数が増えると、戦は別の形に向かう。
◇
灯の道の二夜目、また一つの灯が、夜半に消された。だが“隠し灯”は燃え続け、巡回の子らは泣かなかった。代わりに、消された灯の根元に、小さな紙切れが差し込まれていた。
――王の灯、見た。俺の腹にも、灯を。
字は震え、墨は薄い。密偵頭はその紙を持って、楓麟に見せた。楓麟は、紙を掲げるでも、破るでもなく、ただ灯のそばに置いた。紙は油の匂いを吸い、夜の湿りを吸い、重たくなって石に寄りかかった。楓麟は誰にも聞こえない声で言った。
「灯は、人を罰するために燃やすのではない」
翌朝、配給所の窓口の横の箱に、同じ震える字がもう一枚入っていた。
――灯、見た。列、短い。俺、並べた。
並べた、の一言は、冬の朝の火より温かかった。紙は小さく、軽い。軽い紙に、重いことが書かれている。
◇
囲いは、目に見える線と、見えない線で出来上がっていく。畦は線だ。灯は線だ。名の列も、線だ。市の沈黙は、音のない線だ。四つの線が、四方から日々少しずつ近づき、白風の都を包む輪郭を太らせる。輪郭は固くなるほど、内側は柔らかくなる。柔らかいというのは、壊れにくいという意味だ。
掲示板に新しい名が貼られた。塩煮場で鍋を守って倒れた女の名、囲いの灯を見回って足を凍らせた老人の名、凍河で荷を押さえて指を傷め、いまだ感覚が戻らない若者の名。その紙に、遥は一枚一枚、手を添えた。藍珠が横で目を閉じ、楓麟が風で紙の端を押さえる。目を閉じるのは祈りではない。目を閉じると、名前の音が、胸の内で少し大きく響く。
「王」
藍珠が目を開けた。遅れて、紙の端で風が遊ぶ。楓麟が小さく合図旗を揺らし、風の背を変える。
「囲いの端で、二人捕まえた。灯を消していた」
遥は紙から手を離し、藍珠の目を見る。
「斬らない。――灯の下で、王命を読ませる」
「心得た」
藍珠は即座に頷く。王命の札には、灯の意味と、名の意味と、鍋の意味が、単純な言葉で書かれている。「灯は皆の足元」「名は皆の背骨」「鍋は皆の腹」。単純な言葉は、冬に強い。
◇
夜明け前、塔の上で楓麟が風を聞いた。耳がひとつ、きゅっと動く。風は南へ回り、わずかに湿りを増す。湿りは音にならないが、石の肌に残る。楓麟は薄く笑い、誰にともなく告げた。
「風は南へ。――春の前触れ」
階段を上がってきた遥は、その背に声を乗せる。
「囲いは閉じた。春が来れば、網はほどける。……ほどくのも、王の手だ」
囲いは作るときより、ほどくときのほうが難しい。ほどく手を間違えれば、せっかく柔らかくした内側を、自分で傷つけることになる。王の手は、剣を持つ手ではなく、札を持つ手であるほうがいい春もある。
藍珠が剣の柄に手を置いた。左手の指先にまだ少し痺れが残っている。痺れは消えない。消えないものを持っていくのも、春の仕事だ。
「ほどけない結び目だけ、俺が断つ」
東の空に細い光が敷かれる。光は音を持たない。音を持たない光が、夜の背中を静かに押し戻す。塔の下で、灯の列がまだ点いている。消えかけの灯がひとつ、隠し灯の芯でまた小さく立ち上がる。灯は、消されることを恐れない。消されても、戻ることを知っている灯は強い。
王宮の中庭では、掲示の紙が朝の風に小さく鳴り、配給所では鍋の蓋が持ち上がる音がした。薄紅平原の畦の上では霜が溶け、水が筋になり、石の隙間をゆっくり動き出す。畦と畦の間の泥は、こちら側だけ少し硬い。硬さは、人の手の記憶だ。
都の外れで、老人と子が灯を消して歩く。灯を消すのは、夜を終わらせる合図であり、夜があったことを認める手順でもある。灯の芯から指に移る油の匂いを、子が「春の匂いだ」と笑った。老人は笑わず、でも頷いた。春は匂いではない。けれど、匂いから春が始まる年もある。
狼煙番の若者が塔の上で空を見上げ、指で風の向きを測り、火に息を吹いた。吹いた息は以前ほど白くない。白くないことを、彼は嬉しいとも、寂しいとも思わなかった。ただ、次の合図旗が前より少し重く感じるのは、春が旗の布を柔らかくするからだ。
囲いは閉じ、春は近い。
閉じた網の中で、鍋と紙は同じ机に置かれ、名は並び、灯は二重になり、畦は石と枝で背骨を作る。黒衣の囁きは、灯の列にぶつかって小さく砕け、偽札の端は掲示の名で重くなる。紅月の角笛は、薄紅の空の下で、遠く、短く、ひとつ鳴ったきりだった。
囲いは勝利の図ではない。
囲いは、生き延びるための、地味な線の集まりだ。
その地味さで、人は春へ渡る。
春という別の戦は、剣を鈍らせる。
鈍らせた剣で、ほどけない結び目だけを断ち、あとは手で解く。
王の手で。宰相の風で。剣士の痛みで。
そして、鍋の湯気で。
薄い光が塔の縁を越え、王の頬に当たった。温度は、まだ冷たい。
冷たい光の中で、遥はひとつうなずいた。
「――行こう。春の囲いを、ほどきながら、広げよう」
その言葉に、楓麟は旗をわずかに傾け、藍珠は鞘の上に置いた掌を、ほんの指一本ぶんだけ強くした。
春待ちの囲いは、ほどかれるために仕上がった。
ほどく手順までを含めて、囲いは完成する。
そのことを、白い息ではなく、透明な息で確かめられる季節が、とうとう、近づいていた。



