異邦の王は風に立つ

 雪が、都の北東へ伸びる古街道を埋めていた。白が地形の骨をやわらかく覆い、起伏は静脈のように潜った。背の高い白樺の列は風の向きを教える塔であり、曲がるたびに枝が小さく軋んで、鈴を鳴らさない高さで音を置いた。道はかつて塩と布と小麦を運んだが、今は紅月の糧と矢を運ぶ。雪に隠れた細い筋――それがいま、この国の「血管」だった。

 城内の塔の間。深夜、蝋の炎が短く、評議卓の上で地図を舐める。紙の端は何度も風に晒され、角がやや丸い。楓麟は指先で縮尺の目盛を押さえ、風の高さを確かめるように耳の毛を一度だけ上げて、すぐに寝かせた。
「刻印は三つ。『黍の谷』『白樺の坂』『石狐の祠』」
 捕らえた斥候の粟袋の底から剥がした薄木片。その裏に、丸でない丸、点でない点が斜めに並んだ印があった。それが、この雪に埋もれた血管の拍動を示している。

「攻めるのではなく、止める」
 楓麟は淡く言う。「戦闘は最小でいい。崩落と錯視で『通れない道』を作れば、向こうは春の前に雪に押し戻される」
 地図の線上で、彼の指は風の流れと地形の縁を繋ぐ。谷に張り出した雪庇、凍りと融けの境目、白樺の根の向き。線を引くというより、すでにある線を白い紙の底から掬い上げて見えるようにする手つきだった。
「第一、『黍の谷』で庇を落とす。第二、『白樺の坂』で偽の薄氷を作る。第三、『石狐の祠』で札だけを入れ替える。刃はいらない。縄と雪と札で十分だ」

「俺が前に出る」
 藍珠は短く言って、剣の柄に置いた手を軽く叩いた。白の外套が肩にちいさな影を作る。「軽装で“雪の足”を使う。遅い音で走れば、雪は鳴かない」
 彼女のいう“雪の足”は、靴底に鹿革を重ねて指の分かれ目を広げた白風流の足装備だ。踏み込みの角度を浅くすれば、雪はきしまず、足跡は薄い。薄さは、足の速さを隠す。

 黙って地図を見ていた遥は、紙の上に手を置いた。雪の白よりも淡い色をした指先は、ところどころ、灰のざらつきを残している。堰の夜から、一部は消えずに残っていたのだ。
「補給を断つのは……敵兵の腹を空かせることだ」
 声は低い。低さが紙の繊維に吸われ、卓の木目に潜る。
「腹を空かせるのは、戦だ」
 楓麟は正面から答えた。断言は刃に似ているが、今日は刃の冷たさより、骨の確かさに近かった。
「王、戦は相手の『能力』を奪うことだ。腹を空かせたくないなら、敵の『通路』を止める。通路が止まれば、戦は遅れ、春の前に雪に押し戻される」
「倒すより、返す」
 藍珠が補う。短い言葉。雪の上に落とせば、すぐに沈んで見えなくなるが、沈んだ場所は踏めば固い。

 遥は唇を噛み、窓の外の白を見た。雪は静かに降っている。都の路地では、冬用の炊き出し鍋の湯気が立ち、匙の当たる音が遠くに小さく揺れていた。彼はとうに知っている。飢えは敵兵だけでなく、道沿いの村人にも降りかかる可能性がある。
「……やろう」
 言った瞬間、胸のどこかで古い鈴が鳴った気がした。鳴らない高さだったはずなのに、今日だけは、薄く鳴った。

 出立するのは、楓麟、藍珠、密偵の精鋭十。遥は都に残る。内側の統治と“釣り針”の管理を担い、狼煙の継ぎ目を見張る者になる。悔悟令で出頭した若者たちが廊に並び、冬用の外套を受け取っている。外套の裾に縫い付けられた白い細布には、塔の狼煙の歌の符が刺繍されていた。
「城壁の上から狼煙を読む仕事をやってほしい」
 遥は一人ひとりに目を合わせた。誰もが痩せている。手は冷たく、目は濡れていない。
「おまえたちの目は、俺の足より遠くへ届く」
 若者の一人――仮面をつけて偽使を務めた男が、少しだけ顎を上げた。「はい」と言った声は、冬の空と同じ高さだった。

     ◇

 夜明け前。「黍の谷」へ向かう坂で、空はまだ色を持たない。雪面は薄い青で、谷の片側に形成された雪庇が、眠る獣の背のように張り出していた。藍珠隊は風上から庇の背に乗り、杭を打つ。打つといっても、雪に咬ませるだけだ。楔を立てるわけではない。縄を通し、庇と尾根筋の間で弧を作る。
 楓麟は崖の陰で風を読む。口を開かず、喉の奥だけで息をする。「西から緩く。合図は二拍」
 二拍目は、谷の底で鈴が一度、小さく鳴る頃だ。紅月の荷駄列は、鈴を鳴らさない高さを知らない。馬は鈴を腰に、荷車は鉄輪を鳴らし、声は風を裂く。雪の下を、重さが近づいてくる。

 最初の拍。縄が引かれない。雪は動かない。隊の誰も、息を強く吐かない。吐けば、それだけで雪は形を変える。
 二拍目。藍珠が指を下ろした。
 ――動く。
 庇は端から崩れるのではなく、真ん中から呼吸を始める。内側の空気が抜け、雪の筋が一斉に谷へ滑り落ちる。音は低い。低さは、谷の骨へまっすぐ届く。白い塊は、荷駄の先頭には落とさない。あえて後列の荷馬と荷車を塞ぐ位置に落とす。前は進める。後ろは戻れない。列の真ん中に「詰まり」が生まれ、やがて全体の足が止まる。
 騒ぎが起きるまでに、白布を巻いた白風の影はすでに尾根伝いに離れ、次の地点へ走っていた。息は短い。足音は雪の中に吸われる。

 谷の底では、紅月の兵が叫ぶ。叫ぶ声は、風に嫌われる高さだ。馬の嘶きが雪片を舞い上げ、兵は縄を探す。探す前に、道は狭くなった。狭さは恐れを呼び、恐れは余計な命令を増やす。余計な命令は、余計な音を増やす。音は風に嫌われる。

     ◇

 次は「白樺の坂」。冬の朝の白樺は、幹の白と影の黒がはっきりして、美しいほど冷たい。密偵が夜のうちに雪面を固め、斜面の中ほどに帯のような“薄氷”を作っておいた。見た目は雪だ。雪だが、踏めば滑る。雪と雪の間にわずかな水膜を挟んで凍らせた層。陽が当たれば見えるが、今は雲が出ている。
 昼前、紅月の荷車隊は坂に差し掛かる。鉄輪が薄氷に舌を広げ、ぴたりと動かなくなる。下から押し、上から引く。車は微かに軋み、牛の息は白くならずに散っていく。
 藍珠の笛が短く鳴る。
 林の別働が、狼の遠吠えを模す。声帯を潰した古い笛が、喉の奥で混ざるような低さを出す。
 馬は耳を伏せ、躯を斜めにし、目の白を見せる。荷車は斜めに滑って横を塞ぎ、後続の車輪がそれに乗り上げて、さらに斜めに倒れる。坂の下から怒号、上からも怒号。斜面の片側で雪が背を伸ばし、別の荷車が緩い軌跡で滑り落ちて、木と雪の間に楔のように突き刺さる。音が鈍く割れて、静かになる。
 藍珠は「行け」と小さく言い、楓麟は「風、右へ逃げる」と囁いた。二人の声は、雪の上で足跡に吸われる。

 紅月の若い兵が、手綱を握りしめていた。彼の視界の端には、去年の夏に育てた黍の穂の色がかすかに残っている。隣の村は、紅月の馬が踏んでいった。畑の枠は潰れて、境の石は見えなくなった。彼は怒りを腹に押し込んで、今は命令の声だけを聞いている。「押せ」「引け」「繋ぎ直せ」。彼は押す。雪は冷たい。冷たいのに、指の感覚は鈍くて、熱い。彼は何も見ていない。見えているのに、何も見ていない。

     ◇

 第三の地点、「石狐の祠」。石段は雪に埋もれ、祠の屋根には小さなつららが並ぶ。紅月の小旗が風に揺れて、そこだけ赤い。番兵が二人、交代で焚き火に当たっている。火は橙に揺れ、焚き木の割れ目が甘い音を出す。
 楓麟は風下に香を焚いた。眠りを誘う草と、鼻腔の奥を温める香木の粉。煙は鈴を鳴らさない高さで地を這い、火の周りに輪を描く。番兵の首が少しだけ沈む。沈んだ首を、揺れがなでる。藍珠はその間に火の影へ紛れ、小屋の裏へ回った。
 札の入れ替えは、早いほどいい。早いほど、雑にならない。糧袋の中身はそのまま。表の札だけをすり替える。米、粟、塩。札の二文字は手癖で書ける者が少なくないが、紅月の書式は縦棒の角度がわずかに違う。違いは、指の運びに出る。藍珠はその角度だけを真似る。
 “米→粟→塩”。
 前線へ行くはずの袋の顔が、「塩」に変わる。受け取り側は「塩」を前へは送らない。兵の腹は空のまま、鍋は水のまま。食い違いが、静かに積もる。

 離脱の途上、道沿いの小さな集落の角で、年老いた女が楓麟の外套の裾を掴んだ。指は節くれだって、冷えている。爪の縁に土が残っている。
「通せんぼするのは、紅月かい、白風かい」
 楓麟は一瞬だけ迷い、正直に言った。
「白風だ」
 女は笑った。笑いは皺の間から出る。
「ならいい。紅月の馬は畑を踏む」
 短い会話が、作戦の“副作用”の重みをわずかに軽くした。軽さは雪の上では危ういが、胸の中では生き延びる。

     ◇

 都の城壁では、若者たちが狼煙を読んでいた。夕刻の空は薄紫で、雪雲は低い。塔の上は風が早く、手の皮はすぐに裂ける。彼らは布を巻き、指先で火の高さを測る。狼煙は三段。短い一本は「谷」、長い一本は「坂」、二つの短い間を挟む長い一本は「祠」。
 ――上がった。
 谷の煙が昇り、坂の煙が続き、祠の煙が遅れて太る。若者が声を張る。声は塔の梯子で跳ね、下の石に落ち、駆け足に変わる。
 遥は評議室でそれを聞き、倉の配給表に小さく印をつけた。今日だけ、炊き出しの鍋にもう一握りの粟を足す。「前線の炊き出しを一日増やせ。敵の腹が鳴る間、こちらは温める」
 書記が筆を止めた。
「王、倉の粟は――」
「回せ」
 遥は短く言った。「狼煙の一本ごとに、城の鍋を増やす。……冬を渡るのは、腹だ」

 法務卿・玄檀は何も言わなかった。沈黙は石のように座り、目だけが動く。楓麟が戻れば、彼は必ず何かを言うだろう。今夜は、石のように座っている。

     ◇

 その夜、谷と坂と祠の仕掛けが噛み合った報せが城へ届いた。狼煙の間に短い合図が混じっている。密偵頭の指が、塔の縁で小刻みに踊る。「成功」「成功」「混乱」。雪は押し、風は逃げ、紅月の列はうねり、遅れ、苛立ちを互いに増幅し合う。効果は剣より遅いが、剣より長い。血管は絞められると、一気にではなく、じわじわと冷えるのだ。

 楓麟たちは、黒い森の縁で息を整えた。藍珠は刃ではなく柄を磨く。柄は今日、一度も血を吸っていない。降り積もったのは白だけだ。
「王は?」
 密偵のひとりが問う。
「都にいる」
 楓麟は短く答えた。「狼煙を読む目は、足より遠くへ届く。今日の旗は、城で振るのがいい」
 藍珠が遠くの白を見た。白は遠いほど、音を持たない。
「『倒すより、返す』は、今日は効いたな」
「効いた」
 楓麟は風を指で確かめるように、空を撫でた。
「明日は『止めるより、ずらす』だ」

     ◇

 翌朝、紅月は焦りを増していた。後列から詰めようとして、今度は前列が薄くなる。薄くなった前列は、雪の塊ひとつでへこみ、へこんだまま進む。荷馬の背にかぶせた袋の札を確かめる兵は、紙の文字を読む前に、腹の音を聞いてしまう。腹は文字を信じない。
 山陰の宿場で、紅月の古参兵が隊長に食ってかかった。「札が違う」「人手が足りない」「狼が出る」。隊長は声を荒げる。「狼ではない。笛だ」
 笛は狼ではない。だが、怖いものは怖い。恐れの色は、読む前に目に映る。

 白風の側でも、冬は容赦ない。山道を逸れた密偵の一人が足を滑らせ、藪へ落ちた。藍珠が腕を掴んだ。掴んだ先の指が痺れる。痺れは痛みより怖い。
「大丈夫か」
「大丈夫です」
 返事は歯の隙間から出て、白い息にはならずに散った。
 楓麟が短く息を吐き、耳の毛をほんの少し上げた。
「戻る。足を減らすな。……王は『数』を読んでいる」

     ◇

 都では、倉の配給路が静かに組み替えられていた。炊き出しに並ぶ列の前に、白の小さな札が吊される。「労役二」「子供三」「病一」。数字は短い。短いから、遠くに届く。
 遥は炊き場を回った。鍋の縁から上がる湯気は透明で、匂いが低く甘い。匙を握る女の指に巻かれた布は薄い。彼は自分の外套の内ポケットから小さな薬包を出し、台の端に置いた。見ていた少年が、「王」と呼んだ。呼ばれた声は、軽い。軽いのに、重いものを運んできたみたいに、胸に残る。
「狼煙は?」
「三つ、上がりました。次は、北のほうが遅いです」
「見ていてくれ」
「はい」
 少年の目の奥には、昨夜の火の形がまだ残っている。火は消えても、目に残る。目に残るものは、次の合図になる。

     ◇

 午後、雪は少し湿った。風向きが南へわずかに傾いたのだ。楓麟は塔からそれを読み、「白樺の坂」の薄氷の帯を補修させる。藍珠は、狼笛の調子を半音下げた。下げることで、紅月の馬が昨夜覚えた高さから逃がれる。慣れた恐れは、少しだけ鈍る。鈍った恐れに別の形で近づけば、また恐れは生まれる。
 「石狐の祠」では、昨晩すり替えた札の効果が現れ始めていた。中継を担う兵が、前線からの札の照合に迷い、顔を見合わせている。米が塩に、塩が米に。彼らは焦り、帳面をめくり、やがて帳面を信じる。帳面は、夜に作られた。夜は、こちらのものだった。

 道沿いの別の集落で、白風の一隊が短く立ち寄った。藍珠が鍋の傍にしゃがみ、湯気を吸い込む。老人が「王はどうだ」と問う。彼女は「読んでいる」と答える。老人の目が細まり、「読める王は、冬に強い」と言った。
 楓麟は外で風を聞いた。風は鈴を鳴らさない高さで通り過ぎ、白樺の皮の薄い層を一枚、剥いだ。剥がれた皮は丸まり、雪の上で紙のように転がった。紙は、書ける。書けるということは、まだ変えられるということだ。

     ◇

 三日目の夜。
 白風の狼煙は、城門の上で交差した。短い光の間に、長い影が挟まる。「谷・止」「坂・乱」「祠・成功」「北東・遅」。遅れはいい。遅れが続けば、前に出ていた刃は、やがて柄に戻る。
 遥は評議室で地図の上の石駒をわずかにずらし、書記に言った。
「前線の炊き出し、もう一日増やす。灰の渡しの堰、夜明け前に点検。……城下の子ども組に薪の束を」
 玄檀が口を開いた。「倉は限りがある」
「限りがあるから、線で使う」
 遥は静かに返した。「狼煙は、短く、届く。倉も、短く、届かせる」
 楓麟がいない夜の評議は、声が少ない。少ない声は、余計な音を生まない。生まない音の中で、紙の擦れる音がよく聞こえる。

     ◇

 「黍の谷」には、遅れて紅月の工隊が入った。崩落した雪を崩すため、鍬と縄と多数の手。だが、谷の縁に新しいひびが入っている。楓麟の計算どおり、雪庇は二段構えだった。昼の熱で上の層だけが少し融け、夜の冷えで下の層に力が溜まる。彼らが足を踏み入れた瞬間、第二の呼吸が始まり、また谷へ白が落ちる。工隊の指揮者は声を荒げた。荒げるほど、雪は聞く。雪は聞いて、重さで答える。

 「白樺の坂」では、偽の薄氷の帯が二本に増えた。一本は昨日の場所、もう一本は少し上。昨日と同じと思って踏んだ足が、別のところで失う。失った先で、また狼笛が鳴る。笛は昨日より低く、腹の底に触れる。馬の腹が先に震える。震えを腿が拾い、腿を握る手が汗ばみ、汗が革にしみ、革が冷え、手が滑る。滑りは雪へ伝わり、雪は滑りを増す。音は少しだけ高くなり、風に嫌われる。

 「石狐の祠」では、紅月の監督官が帳面を持って現れた。札の字を見、匂いを嗅ぎ、舌で紙の端を湿らす。湿らせた舌は、塩の味を拾う。拾っても、疑いは消えない。疑いは、夜に育つ。夜は、白風のものだった。
 祠の裏の石段の陰に、子狐が一匹、丸くなっていた。赤い衣の裾が通り過ぎるたび、耳が微かに動く。狐は戦を知らない。ただ、匂いの違いを知っている。匂いは、札より正直だ。

     ◇

 四日目の朝。
 紅月の前線は、鍋の底を何度も覗いた。覗けば覗くほど、空っぽの影が深くなる。兵は怒り、隊長は声を荒げ、古参は眉間を押さえる。彼らは勇敢だ。勇敢だが、腹には勝てない。
 そのころ、白風の前線では、炊き出しの鍋から湯気が高く上がっていた。粟は細かく、具は少ない。だが、温かい。温かさは、刃を支える。刃を振るう手は、腹の声を聴くからだ。
 遥は鍋を覗いた。湯気は鼻の奥に触れ、昨夜の紙の粉の匂いを薄める。
「食え」
 短く言う。
 兵は食べ、匙は鍋を叩き、音は低く、遠くに届く。

     ◇

 夕刻、楓麟と藍珠が城へ戻った。雪を払って塔を登り、評議室へ入る。鼓動は早くない。早くないが、遠くまで来た音を持っている。
「通路は、いったん止まった」
 楓麟は地図の上に指を置いた。「ここからここまで。紅月は別の筋を探す。探す間に雪が深くなる」
「戻すか」
 藍珠が言い、柄に手を置く。
「返す」
 楓麟が応える。
 遥は二人を見て、頷いた。
「……やったな」
 そう言ってから、彼は窓の外の白へ視線を逸らした。雪はまだ降っている。都の屋根は白い。白い屋根の上で、炊き出しの煙が薄く伸びる。

「王」
 楓麟が言う。「戦は続く。次は、向こうが『人』で試す」
 紅月は補給路が切れたとき、必ず別の線を探す。線は人の中にもある。内通、利、恐れ。彼らはそれを撫でて、音を出そうとする。
 遥は頷いた。
「釣り針は、まだ管理する。悔悟は、まだ受ける。……だが、今日の線は、外で引けた」
 胸の中にも一本、濃い線が引かれている。線は折れない。折れたら、そこからまた引けばいい。紙はまだある。紙は、書ける。

     ◇

 夜、城壁の上で若者たちが星を見た。雪雲が切れ、冷たい光がいくつも、息の高さで瞬く。狼煙の塔は沈黙し、風は鈴を鳴らさない高さで城を撫でる。
「昨日より、冷えるな」
 ひとりが言い、別のひとりが「でも、腹は昨日より鳴らない」と笑った。笑いはすぐに風にとられ、塔の石に貼りつく。
 下で夜番の兵が歌を短く置いた。歌は名前ではない。名は朝に読む。夜は歌でいい。歌は線をほどき、ほどいた線を明日、また結べるように、指に温かさを残す。

 楓麟は塔の上で風を読み、藍珠は柄を磨き、遥は机に紙を広げる。紙の端に、今日の線を小さく引く。細い、濃い、線。
 「血管を断つ」
 声には出さない。
 言葉は胸の骨に当たり、骨は静かに返す。
 戦は、剣の先ではなく、縄の結び目で、雪の角度で、札の文字で進む。遅いが、深い。深いところへ届く。
 紅月の補給は、今夜、凍えながら遠回りを探している。遠回りは、春に負ける。春は、こちらにも来る。

 鈴は鳴らさない高さで、夜を渡った。
 白風の旗は凍りつき、形だけがわずかに震える。
 震えは、恐れではない。
 生きている印だ。

     ◇

 翌朝。
 城門の外、雪はさらに積もり、古街道の縁は白に飲まれていた。紅月の蹄跡は新しい雪に薄く覆われ、昨日の跡より浅い。浅いものは、壊れやすい。壊すべきものは、いつも、浅いところを走る。
 谷には、まだ白が残り、坂には、薄氷の帯が日を浴びて鈍く光る。祠の札は、夜のうちにまた少し、入れ替えられていた。浅く、静かに。
 風は南へ一度だけ手を伸ばし、すぐに西へ戻る。楓麟はそれを見て、旗の白縁を指で整えた。藍珠は新しい縄の結びを確かめた。遥は狼煙の歌の中で、今日も三十の名を読む準備をした。名は数ではない。数にしないために、読む。
 新しい戦場は、峠でも渡しでも平原でもない。見えない血管――補給路。
 そこへ、刃ではない刃を差し入れる。音と、風と、細い指の力で。

 雪は、降り続く。
 白は、何も隠さない。
 隠さないからこそ、選んだ線が浮かび上がる。
 王の足の裏に、石の目地の感触が、またひとつ増えた。
 目地は細く、確かだ。
 確かさは、罰ではない。
 明日の印だ。