**
「──と、まぁ宿泊研修の説明はこんなもんだな。今週中に班決めとレクリエーションの種目を考えておうように。それじゃ、解散」
蝉の鳴き声に負けじと教壇の前で野太い声を出す担任の江川先生は、今日も生徒名簿でパタパタと仰ぎながら滝のように流れ出る汗を食い止めようと必死になっている。
夏休み前最後のイベントである、地獄の宿泊研修。
丹城西高校の伝統行事の一つで、一泊二日で山奥に籠り、ひたすら屋外のイベントを強制させられる地獄のそれ。
この暑い時期に自ら暑い場所へ行って、一日中太陽に晒されながら体を動かし続けるのかと考えただけで吐きそうになる。
かといって欠席した生徒は、後日『放課後グラウンド百周の刑』が待っているというのだから、どちらを取っても地獄なのだ。
「一誠、俺と組むよね?」
「……」
「宿泊研修、一緒の班になるよね?」
帰りのHRも終わって、太陽の日差しが燦々と輝き続けている外を見てげんなりしながら帰り支度を始めると、そこへすかさずやってきたのは梅原だった。
気を抜けば見惚れてしまいそうになるほどのきれいな顔を引っ提げて、今日もこの男はわざわざ俺の席まで来て机に両手を突きながら堂々と直談判しにやってくる。
「残念だけどそれは無理。俺、雄太と伊月と組むってもう決めてるから」
「じゃあ俺もそこに入らせてもらおうかな。あ、一誠のお友達とも仲良くするから安心してね」
「図々しいにも程があるだろお前!他の班に行けよ、ほら、あそこの女子グループとかあの辺の男子たちから誘われてんだろ?そっちに行けっての」
シッシッ、と手であっちへ行けのジェスチャーを交えながら早々に会話を終了させようとすると、梅原は俺のその手を掴まえてギュッと握った。
「なっ!お前はそうやってまた……!」
梅原の冷たい手が俺の体温を吸収していく。
厄介なのはその細身に似つかない握力が俺よりも強いってことだ。
「ねぇ一誠、俺は自分が一緒の班になりたいと思う子としか組まないよ」
「や、めろってこの……!」
「俺は一誠と一緒がいいんだよ。分かってくれる?」
梅原はそう言って自分の口元まで俺の手を強引に引っ張って、妖艶な上目遣いと共にふっと息を吹きかけた。
本当なら即座に引っ叩いてやりたいところだが、何しろ梅原は目立つ。
俺がこいつの頬に平手打ちなんかした日には、梅原のことが好きな連中たちからの仕返しが何倍にもなって返ってくるのは明らかだ。
俺はもう片方の手をグッと握りしめながらその衝動をどうにか抑えた。
「知らねぇよ。俺はともかく、雄太たちと梅原って接点ないだろ?いきなりお前みたいな男が同じ班にいたらあいつらだって困まるから無理だって言ってんだよ」
「……それは確かにそうだね」
「だ、だろ?だからお前と一緒の班にはなれねぇの!」
よし、我ながら完璧な断り文句だ。
俺以外のやつに迷惑がかかると分かれば、梅原だってちゃんと諦めるだろう。
なんとかやり過ごせそうだと安堵しながら、俺は隙を見て梅原に掴まれていた手を振り払った。
「じゃああの二人がいいって言えば同じ班になっても文句はないってことだね?」
「は?」
「ちょっと待ってて、聞いてくるから」
「おい、ちょっ、梅原!?」
勝手な解釈で納得した梅原は、俺の言葉も聞かずに辺りをぐるりと見渡して雄太と伊月を探しはじめた。
とはいえ、あいつらも今、俺が梅原のことを避けているってことは知っているはずだし、きっとうまく断ってくれるはず。
なんたって俺と雄太たちとの付き合いは中一のときからだ。そのくらいの以心伝心はできて当然。
そう高を括っていた俺が間違いだった。
「俺も同じ班に入れてくれるって。雄太くんも伊月くんも優しいね」
「……お前ら」
「すまん、一誠!〝あの〟梅原のお願いを無視することはできなかった!」
「俺も右に同じくだ!許せ、一誠!」
どうやって雄太と伊月を手懐けたのか、梅原はいとも簡単に二人を携えて戻ってきた。
前々から思っていたけど、梅原は間違いなく人たらしだ。
その中性的な顔立ちと多彩な表情を駆使して、他人の心の中へ入り込むことに長けている。
「(俺は絶対、騙されねぇからな)」
「宿泊研修、楽しみだね一誠」
「そんなこと言ってるやつお前だけだから」
そうじゃなくても憂鬱でたまらない宿泊研修が、梅原の強引な加入によってさらに憂鬱なものになった。
**
「ほら到着したぞー!バスの中に忘れ物するんじゃないぞー」
江川先生の野太い声が、縦長のバスの中にズンと響いた。
学校からバスで揺られて早一時間。
本当にバスで通れるのかと心配になる険しい山道を抜け、あまり補正されていないガタガタ道を通り、ようやく辿り着いた場所は大きな山と田んぼしかないど田舎村だった。
今日から一泊二日でこの地獄へ放り出されるわけだ。
「一誠、忘れ物ない?スマホはちゃんと隠してる?」
「……」
「あとでスマホ回収されちゃうから、どこかに潜ませておかないと厄介だよ?」
そして今日から二四時間以上もこのストーカー気質の男と共に過ごさないといけないわけでもある。
朝からずっと俺のとなりを陣取っている梅原に、すでに怒りを通り越して諦めの境地に立っている俺は、何も言わずに集合場所まで歩いた。
「(俺と一緒にいることがそんなに嬉しいかよ)」
梅原の腹の中で考えていることが全然読めない。
あいつの言葉の裏には何かが隠されているような気がずっとしているし、俺を見つめるその目の奥には言葉では言えない何かが秘められているような気がする。
ただ、あいつは絶対にボロは出さない。
いつだって完璧な姿で俺の前に現れて、くる日もくる日も俺に取り入ろうと必死な梅原。
何を聞いても『仲良くなりたいだけ』『振り向いてもらいたいだけ』としか言わない梅原の口から、いつか必ずあいつの本音の部分を聞き出してやる。
「よし、全員いるな?それじゃあこれから班ごとに分かれて昼のカレーの材料集めウォーキングに出てもらうぞー」
「江川センセー、頼むからカレーの具くらい普通に渡してくれよ!」
「俺らもうすでに暑くて死にそうなんですけど!?」
江川先生のやる気のないこれからの説明に、クラスメイトのやつらがブーイングを飛ばすのも無理はない。
カレーの材料集めウォーキングとは、事前に配られていたしおりに書かれている地図に沿って歩きながら、各ポイントごとに米や人参、ジャガイモや玉ねぎが置かれてあり、俺たちは班に分かれてそれらを一つずつ入手していったあと、テントに戻ってカレーを作って食べるという長い道のりの昼食作りをしなければならない。
サボっても何も言われないらしいけど、その班のカレーはルーのみという悲惨な昼になってしまうから、腹を満たすには最低でも二、三品の具材を取りに行かなければならないという考え抜かれた地獄のウォーキング。
「ゴタゴタ言ってないでさっさと歩けー!日々の運動不足をここで解消してくるんだ!いいか!?」
「一日で解消できるもんじゃねぇだろ運動不足ってさぁ!」
「あぁ、暑すぎて無理。溶ける俺」
嫌なムード全開で重い腰を上げるクラスの奴らは、それでももうここまで来てしまった以上後戻りはできないと分かっているからか、ダラダラと班に分かれて続々とスタートを切っていく。
「じゃあまぁ、俺たちも行きますか。一誠隊長」
「俺は隊長じゃない」
「いやいや、俺らの班長なんだからしっかりしてもらわないと」
「雄太と伊月が勝手に俺を班長にしたんだろうが。いわば雇われ班長だ俺は」
「うまいこと言ってんじゃねぇよ」
雄太と伊月、それから梅原の四人で、俺たちの班も地獄のウォーキングを開始する。
渡された地図を見ながら、一体何キロ歩かされるんだと想像しただけで頭がクラッとした。
「……あ、雨降るにおいがする」
「はぁ?伊月、空見てみ?晴天だぜ、今日は」
「いや、俺こういうのだいたい当たるんだよマジで」
「じゃあもし雨降らなかったらお前のカレー具なしな?」
「それは酷すぎ。前世、鬼だろ雄太」
雄太と伊月のそんなやり取りに笑いながら、俺たちは意を決して歩きはじめた。
けたたましく鳴く蝉と、風に吹かれた木々の重なり合う音が余計に夏を感じさせる。
普段では経験できないふんわりと吹き抜ける風に緑のにおいが乗った新鮮な空気を吸って、不覚にも俺はほんの少しだけ胸を躍らせた。
「うーん、そうだな」
まずはやっぱり一番近い地点にある人参ポイントから攻めて、あとはグルッと大回りしながら玉ねぎ、米、ジャガイモたちのポイントを回って行けばたぶん時間内にすべての具材を揃えることができるはずだ。
本当は二手に分かれて取りに行けば余裕なんだろうけど、インチキが発覚した班は罰としてもれなく全員が具なしカレーにされてしまうから、それはやめておいたほうがいい。
と、なるとやっぱり――……。
「……なぁ、一誠。どうせお前のことだからやるからには全部の具材集めようと考えてんだろ?」
「え?あ、まぁ」
「一誠って中学のときからやるからには全力で!みたいなところあったよなぁ」
「む、無理にコンプリートしようとは思ってねぇし!ただ、やっぱカレーは具たくさんのほうがいいから……」
「はいはい、頑張って全部集めような?」
「俺らは一誠隊長についていきますからね?」
「や、やめろよ気持ち悪ぃな!」
そうじゃなくても暑くてたまらないのに、雄太と伊月は俺の肩に腕を回してくっ付いてくる。
俺はそんな二人から逃れるように、緩やかな急斜面を走った。
**
「あとはジャガイモだけだなぁ」
「カレーにジャガイモは必須だよな」
「いや、実のところ玉ねぎのほうが重要だったりするんだぜ?」
「はぁ?いやいや絶対ジャガイモだから」
「馬鹿だなぁ、伊月は。玉ねぎの甘味があってのカレーだろうに」
「なぁ、お前らやめてくんね!?無駄に体力消耗すんなって!聞いてるだけで疲れてくるわ!」
もうかれこれ二時間は歩いたと思う。
雄太と伊月の無駄な小競り合いも聞き飽きたころ、俺たちの食材集めもなんとか終盤を迎えてきた。
「よっし、じゃああとはジャガイモポイントに……」
「一誠」
もうひと踏ん張りだと意気込んで、最後のエリアに向かおうとしたとき、クイッと俺の体操服の裾を引っ張ったのは梅原だった。
そういえばこのウォーキングが始まってからというもの、梅原と会話をしたことがないことに気づいて、俺は背の高いあいつをそっと見上げた。
「どうしたんだよ、梅原」
「……」
「ん?どうしたんだっての」
「……」
「おいお前、聞いてんのか……って」
「……一誠のバカ」
いつもの強引なやり方じゃなくて、ゆっくりと俺を自分のほうへ引き寄せて、そっと俺の肩に顎を乗せる梅原。
その仕草に違和感を覚えた俺は、梅原のことを突き放すことも、声を荒げることもできなくなった。
「梅原、お前もしかして体調悪いんじゃ……」
「俺だって、この班の一員ですけど」
「は?」
「あの二人とばっか一緒にいないでよ」
耳元で聞こえる吐息交じりの梅原の声は掠れていて、なんだか今にも消え入りそうな気がして怖くなる。
本当ならここで「何言ってんだよ!」と突っぱねてしまっていたけれど、今はとてもそんな雰囲気じゃない。
「分かってるよ、お前も俺の班ってことくらい」
「分かってない」
「はぁ?」
「一誠は全然分かってないよ」
「あのなぁ、そんな幼稚なこと言ってないで早く……」
「──嫉妬してんの、そのくらい察してよ。鈍感」
梅原の口から嫉妬、なんて単語が出てくるとは思いもしなかった。
どちらかと言えば、梅原は嫉妬される側の人間だ。
その整った顔に、モデル顔負けのそのスタイルに、同じ学校の男子たちは羨望のまなざしのほかに、嫉妬心を隠さずにはいられない。
俺だって正直、あいつみたいな抜群のイケメンに産まれていたら、いったいどんなふうに人生が変わっていただろうって考えたことくらいはある。
そんな梅原が……嫉妬するだって?
「雄太くんと伊月くんと仲がいいのは知ってるけど、何もそんなふうに見せつけなくたっていいじゃん」
「べ、別に見せつけてなんかねぇよ!いつもだ、いつもあんなだ俺たちは」
「……余計傷ついたんだけど」
「なんでだよ!」
いったい梅原は何が言いたいんだ。
俺に対する行動は図々しいくせに、肝心なことはなかなか言わないから困る。
「(口を開いたと思ったら好きだのなんだの言いやがって……極端すぎんだよこいつ)」
肩に顔を乗せたままの梅原は、困惑した様子の俺を見てクスッと微笑んだ。
「も、もういいだろ!先進むぞ!」
梅原の顔を押し退けて、俺は随分前まで先を歩いていた雄太たちのところへ追いつこうとしたとき。
「……っ」
目の前のきれいな顔が少しだけ歪んだところ、俺は見逃さなかった。
「梅原、お前どっか痛い?」
「……なんで?」
「怪我してんだろ、どこだよ」
「別にどこも怪我してないよ」
「嘘だな」
いつもの余裕綽々な梅原じゃない。
どこか痩せ我慢しているような仕草に加えて、なかなか歩き出そうとしない。
「(……足か?)」
梅原の足元を見ると、右足だけ運動靴の踵を踏んでいることに気づいた。
そして灰色のくるぶし丈のソックスからは、じんわりと血が滲んでいる。
「お前靴擦れしてんだろ」
「……」
「なんで早く言わねぇんだよ!」
俺は急いで梅原を近くの岩場に座らせて、先生から事前に配られていた『班長セット』のポーチの中から消毒液と絆創膏を取り出した。
あれだけ血が滲んでいたということは、相当痛かったはずだ。
梅原のことを気にかけてやらなかったことを後悔しながらも、どうして一言「ちょっと止まってくれ」って言ってくれなかったんだろうか。いつもどうだっていい軽口や冗談は言うくせに、肝心なことは言わないなんて呆れる。
「おいおいおい、どうかしたか?」
「梅原、怪我した?」
突然座り込んだ俺たちに気づいた雄太たちは、様子を見にこちらへ戻ってきた。
「あぁ、雄太と伊月悪い。俺、梅原の足処置するから、悪いけど先行っててくんね?」
とりあえず二人には先に最後となるジャガイモポイントまで行ってもらって、梅原が歩けるようになったら俺たちはテントの拠まで直行して雄太たちと合流すればいい。
雄太と伊月にそう説明をして、俺は再び梅原の足の応急処置にあたる。
「梅原、早く足出せって」
「……いい。自分でする」
「はぁ?何言ってんだよ、怪我してるところ踵だし見にくいだろうが」
「だって一誠にこんな姿見られたくないし」
「お前はまたそんなことを……。俺は気にしないからさっさと足寄越せよ」
「一誠は気にしなくても俺が気にするの」
……こいつ、マジで引っ叩いてやりたい。
今なら辺りに誰もいないし、一発くらいお見舞いしたって構わないんじゃないか?
けれど、なぜかひどく落ち込んでいる梅原の姿を見ると、そんな気も失せていく。
俺はわざと大きなため息を吐きながら、強引に梅原の足を自分のほうへ引き寄せた。
「あのなぁ!俺は怪我したくらいでダサいとか思うような奴じゃないから」
「……本当に?」
「本当に!そうやってウダウダ言われるほうがダセェわ!」
そう言って、俺は梅原の足の患部に思いきり消毒液をかけていく。
そして手で仰ぎながら少し乾かしたあと、素早く絆創膏を貼り付けた。
「ありがとう、一誠」
「ちょっと休んで歩けるようになったらテントまで直行だから」
「うん。あーあ、一誠にこんな姿、見られたくなかったんだけどなぁ」
「……」
「ねぇ、一誠。こんな俺も好きになってくれる?」
「ならねぇ」
「俺はどんな一誠でも大好きだけど?」
「……!」
太陽が燦々と照り続ける中、ジリジリと暑さがこもっていく。
俺はこの顔の火照りは太陽のせいに違いない、と心の中で何度も言い聞かせた。
「──一誠、あのね?」
梅原が面と向かって俺に何かを言おうとしたそのとき、ポタリ、ポタリと雨の雫が頬を掠めた。
そしてそのリズムはどんどん早くなっていって、一瞬のうちに土砂降りの雨が俺と梅原を濡らしていく。
「やばい、雨だ!梅原、どっか隠れるぞ!」
「ど、どこかってどこに!?」
「あ、あそこ!あの大きい岩で雨宿りだ!このままだとびしょ濡れになる!」
まさか伊月の予想どおり雨に降られるとは夢にも思っていなかった。
俺は梅原の肩を支えながら、小走りに大きな岩まで向かっていく。
急げ、急げと言いながら吸い込む空気は緑のにおいにプラスして、雨に濡れて元気になった土のにおいが加わっていた。
空は驚くほど青々としていて綺麗で、大粒の雨が太陽の日差しに反射してなんだか幻想的だった。
「空晴れてるし、多分通り雨だからすぐ止むだろ」
大きな岩がうまく屋根になってくれているおかげで、俺たちはこれ以上濡れなくて済んだ。
とはいえ、足を負傷した梅原を支えながらだったせいで、体操服は上下ともにびしょ濡れだ。
俺は上着を脱いで、思いきり力を込めてそれを絞っていく。
「ったく!お前がウダウダ言ってなかなか処置させなかったからだぞ!?」
「……」
「ほら、梅原も上脱がないと風邪引くぞ」
「……」
「おい、まだ足が痛む?」
何を言っても反応を示さない梅原の顔を覗くと、神妙な面持ちで俯いている。
相当足が痛むのか、それとも歩き疲れているのか、梅原の表情からは何も読み取れない。
「……冗談だって。別に雨降ったのはお前のせいじゃないから」
「……」
「おい梅原なんとか言え……」
「──俺は一誠のことが好きだよ」
「……!」
まただ。
また食堂で豚骨ラーメンを食べていたときみたいな真剣な表情で、梅原は俺を見てそんなことを言った。
……やめてくれよ。
そんな顔して好きっていうな。
お前のその顔を見てると、『またいつもの冗談』では済ませられなくなる。
「でも俺をこんな気持ちにさせたのは、一誠だからね?」
「……」
「一誠が俺をこんなふうにしたんじゃん」
やめてくれ、好きって言うな。
俺はお前の記憶がない。故意に、自ら失くしたんだ。
思い出したいとは思うけど、俺の何かがそれを必死で止めようとする。
『思い出さないほうがいい』
『梅原とはこれ以上深く関わらないほうがいい』
きっと俺は、過去のお前を思い出さないままのほうが幸せなんだ。
「いいか、よく聞けよ?前はどうだったか知らねぇけど、今はもうお前のことはなんとも思ってない」
「……」
「だからもう変なことばっか言うな」
「……」
「好きとかそういうことも、二度と言うんじゃねぇ」
梅原に鋭い言葉を投げつけるたびに、また胸が締め付けられるように痛みはじめる。
だけどその痛みを押し退けて、「これでいい」「これが正解だ」と必死に自分に言い聞かせた。
「それってちょっと勝手すぎじゃない?」
「え……って、おい!」
はっきりと言葉を告げて、俺は岩陰の外へ出ようとしたとき。
突然、梅原は俺の両肩をグッと掴んでそう言った。
「散々俺に近づいてきて、誘っておいて、振り向かせるだけ振り向かせたらもう用無しってあんまりじゃない?」
「お、お前……っ。痛いから、離せよ!」
初めて見る、梅原の怒った姿。
梅原の長い前髪から雨の雫が滴り落ちるその光景を見て、俺はフッと顔を逸らした。
怒気を含んだその表情でさえ、気を抜けば見惚れてしまうほどに綺麗だと思った。そう、思ってしまった。
「俺、諦めないからね」
「……っ」
「今度は俺が一誠を振り向かせるから」
「な、何言って……」
「一誠が俺を落としたみたいに、今度は俺が君を落とす番だから」
まるで獲物を狙う捕食者のような鋭い眼差しを俺に向けてそう言ったあと、梅原は一人で歩いてどこかへ行ってしまった。
俺はその場から動くことができずに、ただ呆然と立ち尽くす。
心臓の鼓動がドキドキとうるさい。
決して認めたくはないけれど、俺は梅原を前にすると平常心ではいられない。
「……雄太たちのところへ戻らないと」
地べたに置いていたリュックを雑に持って、俺はこの心臓を音を紛らわすかのように思いきり走った。
気づけばもう、雨は止んでいた。
そして梅原は俺たちの合流地点へは来ず、結局その日姿を現すことはなかった。



