***
──医者に言われた。
俺は、自ら特定の記憶だけを消し去ったのだと。
何か思い当たる節はないかと理由を尋ねられたけれど、記憶を消しているのだから分かるはずもない。
自分の名前は分かる。成田一誠、十七歳。丹城西高校二年一組、普通科、部活動はやっていない。
家族の名前も、家で飼っている犬のモンキーのことだって分かる。勉強はこれまでどおりそこそこの成績を保てているし、友達のことも、住んでいる街のこともちゃんと覚えている。
そんな俺が、唯一忘れてしまっているらしい人物がただ一人。
それが、同じクラスの梅原翔という男だ。
二年に進級して早くも二ヶ月以上経っているというのに、梅原との記憶だけが何一つないことに気づいたのは、ほんの一週間前のことだった。
あいつと会話したことも、挨拶をしたことも、他の友達からあいつの名前が出てくるまで、存在自体把握していなかった。
そして、もっと怖いことがある。
それは──。
「帰る準備はできた、一誠?」
記憶のないこの男が、来る日も来る日も俺にベッタリだってことだ。
「だ、だから!いつも近いんだよお前……!」
「だって一誠、隙あらば俺から逃げようとするでしょ?」
「それはお前が俺に……っ!」
「……俺に、なに?」
「な、なんでもねぇ!」
梅原の記憶がないと知ったとき、最初はわけも分からず不安だった。
どうしてこいつのことだけ忘れているのか。なにを、どこまで忘れてしまっているのか。以前の俺たちがどんな間柄で、これまでどんなふうに接点を持っていたのか、なにひとつ分からない。
そんな不安を抱えている俺に、この男は容赦なく今日も執拗に俺を追い回す。追い回すだけでは事足りないのか、安易に話しかけてきて、距離を詰めて、そして触れる。
そう、ここぞとばかりに触れてこようとするのだ。
「一誠、帰ろう」
「だから、お前とは帰らねぇっての!」
「じゃあ仕方ない、か。勝手に後ろついてくから、一誠は気にしないで自分のペースで帰りなよ」
ストーカーにも近い梅原のそんな発言に、俺はいかにも呆れたと言わんばかりの表情を浮かべながらふいっと顔を逸らした。
「(……やべぇ。俺、顔赤くなってねぇよな)」
心臓の音がドキドキとうるさいくらいになり続ける。
こんな危ない奴とは絶対に関わらないほうがいいと分かっているのに、それらを全部覆してしまうほどに、梅原は顔がいい。
正直、顔やスタイルだけならかなりタイプだ。
男の俺が羨ましいと感じてしまうくらいに、梅原はとにかく容姿がズバ抜けている。
一八〇センチ近くある身長に、細身の体型。透き通るようなきれいな黒髪をセンター分けにした、いかにもモテそうなヘアスタイル。
おまけに計算され尽くして〝完璧〟を体現したような端正な顔立ちをしているときたからタチが悪い。
同級生の奴らとは頭ひとつ分飛び抜けて、梅原はどこにいても目立っている。
「と、とにかく!ストーカーみたいなことすんなよな!」
机の中の教科書を雑に鞄の中に突っ込んで、一人足早に教室をあとにする。
だけど梅原のその長い足が、簡単に俺との距離を限りなくゼロにした。
「そういえばさ。一誠が好きなカフェ、今日から新作出てるらしいよ」
「……!」
後ろから聞こえた、まるで悪魔のような囁き。
思わず俺の足はピタリと動きを止める。
「濃厚チョコレートホイップフラペチーノ、だって」
「グッ……」
後ろから俺を抱え込むように手を伸ばして見せてきたスマホの画面には、中学のころからハマり続けているカフェ『ペラカフェ』のサイトが映し出されている。
そこには今日から期間限定で発売される美味しそうなチョコのフラペチーノが大きく載っていた。
「行くでしょ?あそこのカフェの新作、一誠は今まで一回も欠かさず飲んでたんだよね?」
「なんでそのこと知ってんだよ」
「……一緒に行こ。奢ってあげるから」
梅原の大きな手が、俺の右腕を優しく掴んで昇降口へ向かわせる。
本格的に暑さが猛威を振るい始めている六月の季節にそぐわない、梅原の冷たい手が俺の体温を奪っていく。
「は、離せってお前は……!」
「ふふっ、怒ってる一誠もかわいいね」
「ぶっ殺すぞマジで」
梅原はいったい、どこまで俺のことを知っているのだろうか。
俺はこいつのこと、名前以外何も知らないっていうのに。
「……」
きっと俺は、故意に梅原の記憶を消した。
それは〝記憶を消さなければならないほどの何か〟があったからに違いない。
だって医者が言っていた。
記憶を消すという行為は、一種の自己防衛なんだって。
脳がその記憶を〝生命を脅かすほどの衝撃を与えるもの危険なもの〟だと判断し、自分を守るために一時的に記憶を封印してしまうことがごく稀にあるんだって。
俺と梅原にはきっと相当な出来事があって、それで俺は耐えられなくなって……こいつの記憶を封印したんだろう。
「(でもそのこと、梅原は知ってんのか?)」
自分でも驚くほどゴッソリと梅原との記憶だけが抜け落ちている。それが怖くてたまらない。
それなのに機嫌よく俺の腕を引っ張りながら歩く梅原の背中を、そっと見上げる。
……いったい、俺たちに何があったって言うんだよ。
そして、こいつは俺が記憶を失った原因を知っているのだろうか。
**
「一誠、昼行こうよ」
「……行かねぇ」
「え、行かないの?でも早く食堂行かないと、今日は三十食限定のとんこつラーメンの日だからなくなるよ?一誠、あれ毎月楽しみにしてたでしょ?」
「お前とは行かないってことだよ!」
今日もまた、四限の数学の授業が終わってすぐに梅原は懲りず俺の席へやって来ては二人で昼飯を食べたがる。
本人の目の前でこれ以上ないくらいのストレートな言葉で拒否してみせても、梅原は顔を綻ばせるばかりで一切俺から離れようとはしない。
「お前さ、他に友達いねぇの?」
机の上に出していた数学の教科書とノートを片付けながら、あからさまに呆れたような声でそう尋ねた。
梅原が俺以外の奴らと話をしているところを一度も見かけたことがない。
というよりも、梅原本人があえて誰とも絡もうとしていないようにも見える。
「まぁ、まったくいないわけじゃないけど、今は一誠と仲良くなりたい……が最優先事項かな」
「あーそうですか」
「それより、ほら。食堂行かないと本当にラーメンなくなるよ?」
「お、俺は行くけどお前は来なくていいから!」
勢いよく立ち上がって、鞄の中に入れていた財布を手に持ちながら、走って教室を一人で出ていく。最後にもう一度、「お前は絶対に来るなよ!」と盛大なノーを叩きつけて。
そのとき一瞬だけ垣間見えた梅原の寂しそうな表情に、俺は不覚にもまた心臓を跳ね上げてしまう。
「(クソッ!なんなんだよ!)」
あんな意味不明な奴、相手にしなければそれでいいはずなのに。
どうして無視できないんだ、俺?
……やっぱり、あの顔のせい?
いつも伏せ目がちに俺を見るあの視線で捉えられると、途端に体が動かなくなる。
そうじゃなくても梅原は女子から絶大な人気を得ている。
同じ二年の女子生徒だけじゃない、学年の垣根なんてまるで関係なく、学校中の女子がわざわざ梅原を見に教室までやってくる有様だ。
「(あれだけモテてんなら、俺なんかに構ってないでそっち行けよな)」
早足に廊下を歩きながら、心の中でそう毒づいたそのとき。
何かに貫かれたかのように、ズキッと俺の胸に強烈な痛みが走った。
「……痛っ」
待ってくれよ、なんなんだ、これ。
立っていられないほどの急激な鈍痛が、じわじわと俺を蝕んでいく。
怖いくらいに心臓の鼓動が早くなって、だんだんと呼吸も浅くなっていくのが分かった。
理由も分からないのに、不安や焦り、それから涙が溢れ出そうになるほどの寂しさが途端に襲いかかってくる。
「(さすがに怖いんだけど……っ)」
食堂へ向かおうと走っていた俺は、人気のない廊下の端にうずくまって、この訳の分からない胸の痛みと負の感情に苛まれ続けた。
俺ってやっぱりどこか病気なのか?だってこんなの、普通じゃないだろ。
なんの前触れもないまま、突然こんなふうに胸が苦しくなるなんて絶対普通じゃない。
ぎゅうっと締め付けられるような胸の痛みに耐えながら、変な汗が頬を滴ったそのとき、ふと脳裏をよぎったのはあいつの顔だった。
「……梅、原」
この胸の痛みの原因も、梅原のせいなのだろうか。
だとしたら、なぜ?どうして記憶がない男のことで俺がここまで苦しめられているんだ?
やっぱりあいつには近づかないほうがいい。なるべく関わらないようにして、接点を持たなければそれでいい。
そう、思っていたはずなのに──。
「一誠、何かあったの?遅いから心配したんだけど」
「……」
「顔色悪いけど、どうかした?」
「……」
「もし体調が悪いなら、まず保健室に行ったほうが……」
「う、うるさい!もうなんともねぇよ!」
謎の胸の痛みからなんとか解放されて、ゆっくりと食堂へ向かうとすぐに俺の元へ駆けつけてきたこの男。
ベタベタと不必要に俺に触れながら、心底心配そうな顔を浮かべて俺を見る。
「元気なら、これ食べて。とんこつラーメン」
「は?それ、お前どうして……」
「一誠食べるかなっと思って買っておいた。最後の一食だったみたいだよ」
食堂へ向かうまでにもたついてしまったから、月に一度だけやってくる三十食限定のとんこつラーメンのことはもう諦めていた。
なのに梅原が座っている席にはそれが一つだけ置かれている。
「だいぶ時間経っちゃったから、もう麺伸びてるかもだけど」
「……」
「一緒に食べよ、一誠」
ひょいひょい、と手招きする梅原の向かいの席は空席だった。
こいつに言われるがまま指定された席に座ってなるものかと他の空席を探してみたものの、見事に食堂の席はすべて埋まってしまっている。
この時間のここはいつも生徒たちで溢れていて、普通ならもう座れる場所は残っていない。
俺は呆れたようにぐるりと目を回して、誘われるがまま梅原の向かい側の席にドサッと腰を掛けた。
「お前さ、なんでいっつも俺と飯食いたがるんだよ」
「……」
「他に友達いるんだろ?だったらそいつと食えよな」
「……ある人がね、言ってたから。〝食事を共にすると、どんな人とでも仲良くなれるんだ〟って」
「はぁ?」
「俺は一誠と仲良くなりたい」
梅原はそんなことをサラッと言いながら、そっととんこつラーメンが入った器を俺に差し出した。
「食べて」
「い、いやお前の分は……」
「俺はいいから。一誠が食べてよ」
頬杖をついて、ただ俺を見ながらにっこりと微笑むこの男。
両方の口角がゆっくりと湾曲していく様子に、思わず見惚れそうになった。
「(やべっ、俺ってばまた……!)」
見入っていたことがバレないように、目の前に差し出されたラーメンをズズズッと勢いよく啜る。
……やっぱり冷めていても美味い。
月に一度だけなんてケチケチせず、レギュラー化してくれねぇかな。そしたら毎日食べるのに。
「あ、そういえば金……これって確か八百円だったよな?」
「いいよ、気にしないで」
「気にするから普通に!お前に奢ってもらう理由もねぇし」
「じゃあまた今度、ペラカフェの珈琲でも奢ってもらおうかな」
「……」
「そうしよ、ね?」
どれだけ一緒にいることを拒否しても、抜かりなく俺の隣を陣取ってくる梅原。
俺とそこまでして仲良くなりたがる理由が分からない。
俺は梅原のこと、忘れてしまってるんだぞ?
何が原因なのかはともかく、俺は梅原の記憶を自ら決し去っているというのに。
「なんでそこまでして一緒にいたがるんだか……」
そもそも、梅原が俺と仲良くなりたいってことは、もともと俺たちはそんなに仲良くなかったってことか?
だとしたら今になって仲良くなりたい理由は?どうしてこんなにも俺に執着する?
「──好きになってもらいたいから」
「ぶっ!!!」
「一誠に、振り向いてほしいからだよ」
「ちょっ、おま……っ、ゴホゴホッ!」
梅原の突拍子もない発言に、思わず口に含んでいたラーメンを吹きこぼしてしまった。
危うくスープが気管に入ってしまいそうになった俺は、その場で咽せて咳き込んだ。
「あ、頭おかしいんじゃねぇのお前!?」
「本気だよ」
「う、うるせぇ!もう喋んな!教室戻れよ!」
「うん、一誠が食べ終わったらね」
顔を真っ赤にしながら怒る俺とは正反対に、ムカつくほどに澄まし顔の梅原。
やっぱりこいつとは完全に距離を置くべきだ。
一緒にいたらいけない危険人物だ。
**
「一誠ナイスゴール!さすが元サッカー部!」
「この調子で後半戦も頼むぜ!そんでもって優勝狙うぜぇ!」
「あのなぁ、俺サッカーやってたの中学のときだから!今はやってねぇし、雄太も伊月もちょっとはゴール決めろよな!全部こっちにパス回してくるせいで、俺めちゃくちゃマークされてんだぞ!」
「いやぁ、だって一誠の蹴りはやっぱ質が違うからさぁ」
「優勝したら江川ティーチャーがクラス全員にアイス奢るって言ってたからさ?ここはもう優勝を狙うしかないじゃん?」
「……勘弁してくれよ」
今日は球技大会の日。
男子はサッカー、女子は卓球の種目でクラス対抗戦を繰り広げている真っ最中だ。
この学校は事あるごとにさまざまなイベントを仕込んでくる。季節ごとに開催される球技大会に親睦会に地獄の宿泊研修、それから百人一首大会に体育祭、文化祭と、とにかくイベントごとが多い。
「(確かこういう行事が多いってことを売りにしてたよなぁ)」
俺たち二年一組は三年の先輩たちと前半戦を終えて、十分の休憩タイムに入ったばかり。
暑さが絶好調の炎天下でひたすら走り回るのは、流石にきつい。
俺は額から滴る汗を適当に拭いながら、中学のころから仲のいい雄太と伊月と一緒に影に身を潜めて水筒の中の麦茶を体内に流し込んだ。
「なぁ、一誠。お前なんか顔色悪くね?」
「わ、本当だ。顔が土色になってんぞ!?」
俺よりも背が高くひょろりとした体格の雄太が、身を屈めながら俺の顔を覗き込んでそう言った。
その様子を見た伊月も同じようにこちらを凝視する。
「つ、土色?なんだそれ……」
「それに汗かきすぎじゃね!?お前なんか危ないって!」
「朝、俺のスポドリ受け取らなかったからそんなことになるんだぞ!?ほら、飲め!」
バスケ部に入っている伊月は水だけで作れるというスポーツドリンクの粉末タイプをクラスのみんなに配って回っていたことを思い出した。
俺はあの甘味がどうも苦手で断ったことを今になってチクチク言いながら、伊月は自分の持っているボトルを差し出す。
「……悪い、ありがとう」
確かにここ数日、ずっと眠れない日が続いて体調がよくないことは確かだ。
どうにか眠ろうとしてモンキーと一緒に思いきり走って体を疲れさせてみても、好きな音楽をかけてリラックスしてみても、一向に寝付くことができずにいる。
そろそろ寝ないとまずい、と焦れば焦るほど目は冴えていくばかりで、カーテンの隙間から覗く朝日を見て「今日も眠れなかった」とため息を落とすところから始まる日を、もう何度繰り返しただろう。
それもこれも全部、梅原のせいだ。
〝好きになってもらいたいから〟
〝一誠に、振り向いてほしいからだよ〟
食堂であいつが放ったあの言葉たちが、ここ数日ずっと頭から離れない。
あんなの、俺を揶揄うために言ったにすぎない。俺の反応を試すための冗談に決まってる。
頭ではそう理解しようとしているのに、梅原の俺を見るあの目つきが、仕草が、声色が、何度も際限なくリピートされて忘れさせてくれない。
「……マジでむかつく」
「おーい!お前らそろそろ後半戦始まるぞー!」
そんな悶々とした気持ちを孕みながら木陰で休んでいると、遠くのほうからチームメイトが俺たちのことを呼んだ。
「おう!今行くー!」
その呼び声を合図に、雄太と伊月は「よっしゃ、やるか!」と気合を入れ直しながら立ち上がる。
「一誠、お前どうする?休むか?」
「……いや、試合出るよ」
正直、このまま保健室に直行して横になっていたいところだけど、雄太も伊月も本気で優勝を狙っている以上、今ここで俺が抜けるわけにはいかない。
俺は雄太が差し出してきた手を取って、同じように立ちあがった、その瞬間だった。
突然ぐらりと視界が揺れて、体が前のめりに傾いていくのが分かった。
「(あ、やべ。これ俺、倒れるやつ……)」
どうにかしないとまずいと思っても、もつれた足に力が入らない。
スローモーションのように自分が倒れていく様子を、俺は半ば諦めながらどこか他人事のようにこれから来るであろう痛みに備えてそっと目を閉じた。
「(……俺、なんかダセェな)」
梅原がたった一言、二言放った言葉でここまで振り回されるなんて。
そんなふうに自分で自分のことを嘲笑いながら、瞼を閉じて視界を真っ暗にしたとき。
「──っぶな」
地面に倒れるはずだった俺の体は、うわずった焦りの声とともに間一髪のところで誰かの腕に支えられて事なきを得た。
そしてそのまま有無を言わせず両腕で思いきり抱きしめられたとき、その相手が誰なのか理解した。
理解したときにはもう、遅かった。
「何してんの、一誠。危ないじゃん」
「……っ!」
「体調がよくないならちゃんと言わないと」
「……離せよ」
今、一番会いたくない奴だった。
ここ数日、ずっと俺を苦しめてきた張本人。
「保健室行くよ」
「行かねぇから、離せって」
「まさか試合に出るつもりじゃないよね?ほら、意地張ってないで俺にちゃんと掴まって?」
頼むから今はやめてくれ、梅原。
ちゃんとぐっすり眠って、体調がよくなったらお前のその冗談に付き合ってやるから。
好きだの振り向いてほしいだの、そんな戯言にも軽口で返せるようになるから、だから今は放っておいてくれよ。
「行こうよ、一誠」
「──離せって言ってんだろ!」
殴りつけるような勢いで腕を振り上げて、密着した梅原の体を突き飛ばした。
だけど今の俺の腕力は情けないほど弱々しくて、あいつとの距離をほんのわずかに離す程度の成果しか得られなかったことにもまたムカついた。
梅原を前にすると、だんだんと呼吸が浅くなっていく。炎天下の中に突っ立っているというのに、指先から少しずつ自分の体温が引いていって冷たくなるのが分かった。
そうやって俺のすべてが梅原を警戒している。
そしてどこからともなく聞こえるんだ、『あいつにこれ以上関わるな』って。
「……お前に関係ないだろ。もうこれ以上関わってくんな」
なるべく梅原を視界に入れないよう、俯いたまま言葉を吐き出すのがやっとだった。
「威嚇しても無駄だよ、こればっかりは譲れない。嫌がるなら引きずってでも保健室に連れていくけど。見るからに体調悪そうなのに試合に出るなんておかしいでしょ」
「お前とは一緒にいたくないって言ってんだよ」
グラウンドの端のほうで言い合っている俺たちに気づいた他の生徒たちが、チラチラをこちらを見始めた。
近くにいる雄太と伊月も、なんでこんなに険悪なムードになっているのかと不思議な面持ちで俺と梅原を交互に見ている。
「な、なぁ一誠?でもお前、梅原の言うとおり本当に体調悪そうだぜ?」
「そうだぞ、このままサッカーやってたらマジで倒れるかもだし、保健室で休んでたほうがいんじゃね?」
雄太と伊月は普段ほとんど梅原との接点がないせいか、若干気を遣いながらも梅原と同じようなことを言ったことに、俺は小さく舌打ちをした。
お前らが優勝したいっていうから俺は無理やり……と考えたところで、胸の辺りの不快感が強まって思わず「うっ」と口を抑えた。
これは本当にやばいかもしれない。
こんな状態で試合に臨んでも、きっと足手纏いになるだけだ。
「一誠、保健室行こうよ。俺、一誠を送ったらすぐ出ていくから」
梅原がそう言ってこちらに差し出してきた手を俺は無言で払いのけて、そのまま雄太と伊月の元へ向かう。
「……悪い、雄太。保健室まで付き合ってくんね?伊月は俺の代わりに試合に出てくれるメンバー探しといて」
「え、あ、で、でも梅原が……」
「いいから!」
大きな声を張り上げて雄太の言葉を遮って、俺はゆっくりと校舎へ向かって歩いた。
そんな俺の後を追って、雄太はこれ以上何も聞かずに俺の体を支えながらとなりを歩いてくれた。
そして梅原もまた、これ以上何も言ってはこなかった。
俺はあいつのほうを振り返ることもせずに、二人の距離は一歩、また一歩と遠ざかっていった。
**
外の喧騒とは打って変わって、生徒全員が球技大会のために出払っている校舎の中は静まり返っていた。
俺と雄太が保健室へ向かっている足音だけがやけに大きく響き渡る。
「なんか変わったな、一誠」
そんな中、雄太がふいにそんなことを口にした。
「……変わった?」
「だって梅原にあんな素っ気ない態度取るなんて、どうしちゃったんだよ」
「いや、それは……」
「少し前まで梅原のことあれだけ好き好き言ってたくせにさぁ?」
「──ゴホゴホッ!は、はぁ!?好きぃ!?」
雄太の予想だにしなかった発言に、俺は思わず体をのけ反って驚きながら今日一番の大声が飛び出した。
「なんだよいきなり、ビックリするだろ!?」
「ビックリしたのは俺のほうな!?」
いきなり何を言い出すのかと思えば、俺が梅原のことを好き好き言ってただって?
いよいよ雄太までそんな洒落にならない冗談を言うようになったのかと思ったけれど、当の本人は心底分からないと言いたげな表情を浮かべながら頭を傾げている。
「一誠ずっと言ってたじゃん。梅原のビジュが良すぎてやばいって。だから絶対落として見せるって意気込んでただろ?」
「な、ちょっ、え!?」
「ま、全然相手にされずにいつも見てて可哀想なくらい軽くあしらわれてたけどな」
「……っ!?」
「もう梅原のこと飽きた感じか?」
い、いやいやちょっと待ってくれ。情報過多だ、頭が追いついていかない。それに雄太の言っていることが一つも理解できない。
なんだよ、落としてみせるって。
なんだよ、あの梅原に俺が軽くあしらわれていただって?
「……」
雄太が言っているのは、きっと梅原の記憶を失う前の俺のことだ。
当時の俺は、自分から梅原にアタックしていたっていうのか?しかも落としてみせるって、いったい俺はあいつに何をしてきたんだろうか。
「(やべぇ、まったく思い出せない)」
「よし、着いたぞ」
「……悪いな、ありがとう雄太」
「気にすんな。俺は試合に戻るけど、お前はマジでちょっと寝ろな?顔が土色すぎてやばいから」
「……ふっ。だからなんだよ、土色って」
俺はここまで連れてきてくれた雄太にもう一度お礼を言って、保健室の扉をそっと開けた。
中に入るとそこには誰もいなくて、エアコンの機械音だけが微かにウーウーッとうねりをあげている。
一気に冷気を浴びて熱を下げながら、俺は一番奥のベッドで身を投げるように横たわった。
冷たいシーツが肌に当たると心地よくて、これまでの睡眠不足を解消するべくこのまま眠ってしまいたいと思いながらそっと目を閉じた。
真っ暗になった視界のその先で浮かび上がってきたのは、「関わってくんな」と言ったときに見せた、梅原の悲しそうな表情だった。
「(なんで、そんな顔すんだよ……)」
理由は分からないけどあいつの記憶をなくしたのなら、ただのクラスメイトとしてこれ以上深く関らず、これから先も赤の他人のままいればいい。
梅原のことを思い浮かべるたびにそうやって何度も自分に言い聞かせてきたけど、結局俺は今でもこうしてあいつのことを考えずにはいられない。
きっと俺は、梅原翔という男のことを完全に断ち切ることはできないんだろう。
多分、この先も、これからも──。
**
「──やべっ!いま何時だ!?」
あれから何時間経っただろうか。
久しぶりにぐっすり眠れたと思った矢先、保健室の窓から覗く景色がすっかりオレンジ色の夕暮れに変わっていたことに驚いた。
「寝すぎだろ俺……て、は?」
「……んっ。起きたの一誠」
急いで教室へ戻ろうと上半身を起こしたとき、パイプ椅子に座って俺の足元のほうで俯いたまま眠っていたのは梅原だった。
眠たそうに目を擦りながら、俺が起き上がった同じタイミングで自分の体をゆっくりと起こしていく。
「う、梅原!?おまっ、なんでここに……」
まさかこいつがいるだなんて思いもしなかった俺は、不意打ちを食らったように体が硬直していく。
……やっぱり俺、おかしいのかも。
梅原のことを見るだけで、こんなにも胸が騒ついて仕方ない。
「お、俺、教室に戻るから……」
目も合わせず淡々と一言だけそう伝えてベッドから降りようとしたとき、梅原は思いきり俺を後ろから抱きしめた。
この男は力加減というものができないのか、息がしづらくなるほどギュッと力を込め続ける。
「ちょっ、はぁ!?お前、正気かよ!離せ!」
「……」
「おい、マジで怒るぞ!」
「うん、怒っていいよ」
「ふざけんな!離れろって……っ」
「あとでいっぱい怒っていいから……今はこうさせて」
どれだけ引き離そうと試みても梅原の腕はビクともせず、俺がもがけばもがくほど密着していく。
これ以上梅原のことなんて考えていたくないのに、こいつから香ってくるシトラスの匂いが、冷たい体温が、抱きしめる力が、少しずつ俺を捕えて動けなくする。
「一誠は俺のこと好きなんじゃないの?」
「はぁ!?誰がそんなこと……」
「一誠が俺に何度もそう言ってきたじゃん」
「……!?」
どこにも逃さないと言いたげに、梅原はその長い両腕で俺の体の自由を奪っていく。
完全に身動きが取れなくなった俺は、『チッ』と盛大な舌打ちで対抗することしかできない。
「離せよっ!こんなこと、誰かに見られたらどうすんだよ馬鹿!」
「俺を避けないでよ、一誠。俺から逃げようとしないで。関係ないとか関わってくんなって言わないで。……すごく、悲しくなるから」
「はぁ!?」
俺の首に顔を埋めるようにして抱きついたまま離れない梅原の、細くか細い声が保健室に響いた。
その掠れた声色に、俺はどうしてここまで動揺してしまうのだろう。
……分からない。
何も分からないから怖いのに、それでももう、俺は梅原を完全に拒絶できない。
「何かあったら俺を一番に頼ってよ。他の友達じゃなく、俺を」
「お前、何言って……」
「──俺を嫌わないで、一誠」
切実に願うようにそう言った梅原のことを、俺はこれ以上振り払うことはできなかった。



