甘い香りを漂わせながらクローレが目を閉じる。

 突き出された唇を前に、キージェはまだ迷っていた。

 なんだよ、ちきしょう。

 何がしたいんだよ、いったい。

 あのなあ、おまえさんがその気なら、こっちだって、やるときはやる……やっちまうぞ。

 おっさん四十五歳、覚悟を決めろってか。

 上等じゃねえか。

 キージェはストームブレイドを落とし、両手を女の腰に回した。

 鋼の剣なんかなくても、男にはもう一本、常に備えた剣が隠してあるんだぜ……って、隠しきれてねえし。

 キージェはこそこそと腰を引いた。

 だいたい、クローレの腰に手を回したところで、マント越しに軽装鎧の革を撫でているだけだぞ。

 ゴツゴツしてるだけでちっともいい感じじゃねえし。

 熊とがっぷり格闘技やってるのと変わらねえじゃねえかよ。

 胸だって、鎧越しに密着したところで、板はさんでるみたいなもんだぞ。

 それでもクローレはキージェの背中を引き寄せ、頬を触れ合わせてくる。

 熊が見てようがなんだろうが、やれって言うなら、やってやるよ。

 やっちまうぞ。

 熊の見てる前で。

 しっかし、まさか、こんなところでこんなことをして終わりを迎えるとは思わなかったな。

 ま、でも、男としては最高の死に方かもしれねえな。

 頬を触れ合わせたままクローレが耳元でささやく。

「ミュリアがヴォルフ・ガルムの牙を持ってきたら私が槍に仕立てるから」

 ――ん?

「お、おう」

「その間、キージェがあいつを引きつけててね」

「も、もちろんだ。まかせろ」

 だよな。

 いや、分かってるって。

 俺の人生にはそういうのなんかねえってことくらい、今さら勘違いなんかしねえっつうの。

 だが、話を終えて離れようとすると、クローレは背中に回した腕に力を込めた。

「何してんのよ」

「はあ?」

「ミュリアが来るまでこうしてないと」

 なんでよ?

 こめかみにだらだらと汗を流すキージェの尻をクローレがたたく。

「あいつにこっちの動きを読まれない作戦でしょ」

「そりゃそうだけどよ」

 実際、鉤爪熊はこっちの動きをじっと睨んでいるだけで襲ってくる様子はない。

 そういう意味ではこんな馬鹿げた作戦は成功しているのだ。

「じゃ、ほら、続き」

 クローレの息が耳にかかる。

 うおっふ。

 やめろ、こら!

 脳がとろけそうだ。

「わ、わかった。作戦な。よし、くっつくぞ。ほら、もっと自然に、だろ」

 と、そこへ、ヴォルフ・ガルムの頭を口にくわえたミュリアが戻ってきた。

 血まみれの肉塊を無造作に放ってよこす姿は不気味な魔獣そのものだった。

「頭、丸ごと!?」と、驚きつつもクローレはキージェを弾き飛ばし、早速顎から躊躇なく牙を引き抜く。

「じゃあ、キージェ! あいつを引きつけて!」

「よし、任せな」

 切り替えの早いお嬢ちゃんだぜ。

 遊びは終わりかよ。

 キージェはストームブレイドを拾い上げて派手に振り回しながら鉤爪熊を囲む木の柵をバキバキとなぎ払う。

 そんな必死な姿を眺めるミュリアの声が聞こえた。

 ――ヘタレ、お約束?

 うるせえ。

 見てやがったのかよ。

 雪狼の揶揄に顔を赤らめながらキージェは遮二無二ストームブレイドを振るい続けた。

 おっさんはな、若い女より熊を相手にする方が楽なんだよ。