振り向く余裕などなかった。

 握られた手を振りほどき、キージェはこめかみを流れる汗をぬぐった。

 好奇心につられてまんまと罠にはまってしまった。

 森が静かすぎるのも、腐臭が強すぎるのも、次なる獲物を誘うための仕掛けだったのだ。

 ――跳んで!

 ミュリアの声が聞こえた瞬間、心臓が止まりそうなほど重い振動が足裏から全身を突き上げ、キージェの足がもつれる。

 かろうじて転ばずに済んで、キージェは木の幹に隠れ、後方を見た。

 まるで森そのものが怒り狂ったようにざわめき出し、次の瞬間、人間の胴体ほどの幹を小枝のごとくなぎ倒しながら巨大な熊が現れた。

 グワガウルルウ!

 低く唸るような咆哮が空気を震わせ、鼻をもがれそうなほど強烈な獣の体臭が押し寄せる。

 ――嘘だろ。

 通常ですら圧倒的迫力なのに、その二倍は大きい。

 二本の後足で立ち上がり、両手を突き上げた鉤爪熊の頭は木々の樹冠を易々と越え、飛散した枝葉がキージェの頭上に降り注ぐ。

 黒褐色の毛皮は陽光を吸い込み、まるで闇そのものが形を成したかのようで、両腕に備わる五本の爪は、ヴォルフ・ガルムの巨体をえぐった爪痕そのままの鋭さと大きさを誇り、後足で地面をえぐるたびに土と石が飛散する。

 赤い目が獲物とみなしたキージェを睨みつける。

 口から滴るよだれが臭い息とともにまき散らされる。

「キージェ、こいつ普通の鉤爪熊じゃない。ダンジョンのやつより、倍は大きい!」

 うわずった声でクローレが駆け寄ってくる。

 ――ちっ、なんで戻ってきた。

 さっさと逃げればいいものを。

 クローレの歯は打楽器のように鳴り、汗まみれの手でフレイムクロウを何度も握り直している。

 ま、無理もねえ。

 いくらSランクでもこんな化け物、技では太刀打ちできない。

 弾き飛ばされたら一発で終わりだ。

 おそらくただの肉片となって誰だかすら分からなくなるだろう。

 ――かわいいこいつにかすり傷一つつけさせるわけにはいかねえや。

 キージェもストームブレイドを抜いた。

 ――おとり。

 ミュリアがおとりとなって飛び出すらしい。

 ――耳、ふさいで。

 ん、あ、吠えるのか、了解。

 でも、俺はいいけど、こいつがな……。

 ミュリアの声が聞こえないクローレと向かい合って、キージェは耳を両手で押さえてやった。

「ちょ、え、キージェ、こんなところで今? せめて死ぬ前に?」

 何を勘違いしたのかクローレが目を閉じて唇を突き出す。

 あのな、目を閉じてどうする。

 耳だけでいいんだ、馬鹿野郎。

 キージェが腹に力を入れて覚悟を決めた瞬間、ミュリアが吠えた。

 ウオオオオオオオオオン!

 森を揺るがす雪狼の咆哮にさすがの鉤爪熊も足を止める。

 白い毛を翻してミュリアが飛び出していく。

 剥き出しの耳を音波に貫かれつつも、覚悟していたおかげと死の恐怖でなんとか正気を持ちこたえ、キージェはすかさず立ち上がってクローレの手を引いて反対方向に走った。